(前回より続く)
以下は、ある掲示板において行なわれた不毛なる論争の記録です。もう、その掲示板が閉鎖されてしまった今、不毛は不毛なりに記録を保存しておきたく思い、ここに再録する次第です。
A氏が論争相手、B氏が掲示板管理者です。
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マリーナ号さん
248の
<9・11におけるwe shall overcome”なんですが、そこでそれを歌っている人々の心のうちにある”勝利”は、「このような悲劇にも理性を曇らされることなく、我々は人を憎むことより愛を持って平和な世界を築くことに力を尽くそう」でもありえるし、「こんなことをしやがったアラブの奴等に血の報復を!」でもありうる。どちらでも歌は成立してしまう、と思うんですね。同じくらいの情熱の厚みを内包しつつ。>
こういうときは、ぼくはごく単純に<同じくらいの情熱の厚みを内包>しているとは思わないことにしています。後者の情熱はどこか狂っているんだと。次のようなことを言う政治家も。
<過ちを繰り返さないためにも日本は核武装が必要なんです」と演説をぶった政治家を、私は記憶しています。>
254 人間の事情、音楽の事情 マリーナ号 - 2005/05/16 12:57 -
この数日の皆さんの書き込みを読んで行くと、どうも皆さんは。うまい言い回しが思いつけないのですが、音楽の聖性とでも言うのかな、絶対性というのかな、そのようなものを信じておられるようなんで、ちょっと意外でした。
私は、なんというか、音楽は「これは抵抗の歌である」みたいな人間の側の都合に素直に従ってくれるものとは思えないのです。
ロブ=グリエの「世界は何の意味もなく、ただそこにあるだけだ」との言葉を真似して言えば、音楽はただそこにあるだけと思います。そこにキレイなメロディがあり、あるいは躍動的なリズムがある。それに接し人は、あるいは心癒され、あるいは気持ちを鼓舞される。音楽が関われるのはここまでではないでしょうか。
心を鼓舞された人が、もしかしたらなにごとか”運動”を成功させることがあるかも知れない。でも、そこまで行ったら、それは”音楽の周辺の人間の事情”と呼ぶべきで、音楽の本質に関わることではないでしょう。
人はやっぱり、瓦礫の山を前にして”we shall over come”を、各々の抱えた事情に即して愛の祈りとしても憎しみの誓いとしても歌ってしまえる存在で、そして人間が歌えば、唄はそこに存在してしまいます。
人の心を正しい方向に導く歌なんて存在するとは思えない。政治的に正しい人にしか歌えない歌とか、悪辣な政治家には聞こえない唄など、ある筈もない。
歌はただそこにあり、人の気まぐれな感情にただ寄り添った、物理的なリズムやメロディの組み合わせとして存在しているだけです。人は、反戦の誓いを歌った歌を口ずさみながら、ナパーム弾を人々が寝静まった都市に投下する作業をすることさえ、可能でしょう。
それは、血にまみれた独裁者が食べようと、清く正しく貧しい無辜の人民が食べようと、チョコレートは同じように甘いのと同じこと。これは別に裏切りでもなんでもないのです。音楽の本質は正義とか悪とか、そんなものを超えたところに存在している。それになにごとか意味を込めるのは、ただ”音楽をめぐる人間の側の事情”でしかないでしょう。
どうもうまく言えません。意味不明の部分、多々あるかと思います。すみません。
255 街頭で元気の出る歌 A - 2005/05/16 20:42 -
音楽は聞かれ方も表現のされ方も千差万別で,相対的で恣意的なものであることは皆さん最低了解されていることです。音楽のことで対話するということは「私はこう聞きましたが,あなたはどうでしょう?」ということだと思います。ここで誰がどう言おうが「私にはつまらない音楽でした」で切っても,それは了解されうるものです。
音楽そのものとは意味がなく即物的に存在するものであるとか,大衆とは不定型なものである,という結語はたいへん興味深いものがありますが,その結語に至るために例外の例外である珍しい例を「こういうこともあるんだから」と援用するのはいかがなものでしょうか。
マリーナ号さんにとって,この種の音楽は苦手であり,信じることができず,無益である,というご意見は了解できますが,そうでない人たちは「音楽の絶対性を信じているというような大上段なもの言いは,ちゃんとした説明が必要なのではないでしょうか。
××さんが国鉄闘争に触れられて,「がんばろう」の歌を例に出された時,そうか,今,日本にはデモ行進で歌えるような歌がないのか,と思って反応いたしました。私は特殊な例かもしれません。フランスに25年間住んでいる外国人移民です。日々の暮らしは面白いことばかりではありませんし,市民として納税者として社会構成員として外国人として,どうしても最低これだけのことは声に出して言わなければならない,と思う時があります。自分たちにとって理不尽な法律が通ろうとする時,理不尽な戦争が行われようとする時,理不尽な人種差別がある時... 私は市民として街頭に出てデモ行進参加者となります。闘士ではないので,参加回数は数えるほどですが,ちゃんと私のような未組織市民でも参加できるスペースがいつもあるので,それなりの場所に納まって友人たちと共に声を上げて歩いております。そういう時にはやはり気勢の上がる「歌」が欲しいわけです。その意味で,以前ここで書きましたゼブダの「モチヴェ!モチヴェ!」は画期的な歌だと思います。古い「パルチザンの歌」が若い人たちによって,魅力的なリフレインを付け加えられスカ・ビートで調子をつけられて,21世紀の街頭運動に甦ってしまったのですから。声を出す側にはとても元気のつく歌です。
またフランスの若いアーチストでコルネイユや(最近日本にも行った)テテが,自分のレパートリーの中に,ボブ・マーリーの「リデンプション・ソング」を入れている。パリ・ゼニット(キャパ5千人)でテテがやった時はこの曲がアンコール最後の歌で,大唱和となって終ってしまう。ちょっとびっくりしましたが,こういう風に伝承されるべき歌はちゃんと若い人たちに伝承されているのだ,と思いました。
第二次湾岸戦争前夜,ポール・マッカートニーがパリのベルシー(キャパ8千人)でライヴをした時に,オーディエンスの一部からジョン・レノンの歌"Give peace a chance"のリフレインが始まり,やがてそれが会場全体の大合唱になり,しまいにはマッカートニーもマイクを通して "All we are saying..."と歌ってしまった。このことは翌日のメディアでもパリ市民のイラク戦争反対の意志を象徴する出来事として紹介されました。意志ある大衆がその意志を伝えようとする時,有効で大声で歌える歌というのは確実に存在すると思います。
256 音楽と人 B - 2005/05/16 23:02 -
こんな名前の雑誌がありますが、それとは無関係です。
マリーナ号さん。
「音楽はただそこにあるだけ」のように見えるかもしれませんが、マリーナ号さんもすぐ後で書いておられるように、人が作ったり、うたったり、演奏したりしなければ、音楽は存在しません。人がうたえば、大なり小なりの物語ができ、どんなに微細なものであっても、音楽に色彩が付与されます。そのために、どんな音楽もニュートラルに「ただそこにあるだけ」というわけにはいかなくなります。
もちろん、その色彩の総体は誰も見ることはできませんし、後の人がそれに気づかないでうたうことも普通に起こります。60年代に高田渡の「自衛隊に入ろう」を聞いて、自衛隊が隊員募集に使いたいと言ってきたという話がありましたが、真偽のほどはともかくとして、そういうことが起こっても不思議ではないでしょう。でもすぐに気がついて自衛隊は撤回した(もしくは、最初からそういうことはなかった)。
そういう意味で、we shall overcome を「憎しみの誓いとして」うたう人はぼくは少ないだろうと思っています。中国や韓国の人が「君が代」を積極的にうたうだろうとも思えません。
もちろん、マリーナ号さんが、反戦の誓いを歌った歌を口ずさみながら、ナパーム弾を人々が寝静まった都市に投下する作業をするとも思えません。
258 ”Kill,Kill,Kill,For The Peace !”のある風景 マリーナ号 - 2005/05/18 01:54 -
Aさんへ
私の表現が不快でしたでしょうか。申し訳ありません。冒頭に断ったように、どのように表現すべきか、適当な言葉が見つからなかったもので。しかし、私の発言が「大上段な物言い」と受け取られたというのは、またまたびっくりしてしまいました。私としては、「先生方には、このような無名の音楽ファンの立場もあるのだから、分かってほしい」という、”地べたから物申す”みたいな気持ちで書き込んだものなのですが。
ご推察のように私は、”革命”やら”運動”やらに絡めて音楽が語られるのを好みません。そのような場の流れが出来てしまうと多くの場合、音楽はいつの間にか脇にやられ、”運動”の話がメインになってしまい、うかうかすると、”単なる音楽ファン”は、「音楽の話しか興味のないレベルの低い奴」との扱いまで受けかねない。そのような状況が形成されることへの危惧が、あのような書き込みを私にさせたのかも知れません。
私の通った高校は学生運動の盛んなところでした。先輩諸氏は新入生たる我々を見下ろし、言ったものです。「お前らバカ共には分からないだろうが、俺たちは高校生なのに政治なんかにも興味を示す、意識の高い存在なのだ。なに?ロックが好きだって?次元の低い奴だな。反戦フォークを聞けよ、特に岡林。そして目覚めろ。まあ、お前らの頭じゃ理解もなかなか難しいだろうが」その高校を卒業し、ギターを片手に歌い始めると、楽屋に「今のお前の歌とベトナムの現実と、何の関係があるのだ」と因縁付けに来る人々に出会いました。いつだって音楽を革命やら運動やらとを絡めて語りたがる人々というのは、私にとっては抑圧者だったのです。
Bさんへ
上の、Aさんへの文章に続きますが、「音楽は革命や運動に”使える”から素晴らしいなんて結論はごめんだ!音楽は音楽だから素晴らしいんだ!」と、要するに言いたかったのかも知れません、私の”音楽は音楽に過ぎない”論の裏面を明かせば。
そして・・・はい、たしかに”勝利を我等に”を呪いを込めて歌うのは例外的な人たちなのですが、国境や文化の垣根をまたいだ先を想定すれば、こちらには異様にしか見えない考え方が多数意見として機能している場面に出会うのも、稀ではありません。
たとえば、原爆投下を”当然の正義の行使”と断ずるアメリカ人は普通にいるようですし。
259 それでいいのではないですか? A - 2005/05/18 09:04 -
マリーナ号さん,
若い頃のトラウマであったわけですね。かくしてあなたは高校生の頃に左翼アレルギー,社会運動アレルギーとなられたわけですから,それはそれでしかたないではないですか。それは苦手な分野であるということで皆さん納得できることだと思います。抑圧的な先輩に関わらず,あなたは音楽を聞く自由を守り通せたわけですから。自分にとって苦手で,聞きたくもない音楽があるというのは自然なことではないですか。私も音楽に携わる仕事をしていますが,自分にとって理解不能な音楽というのはたくさんあります。一部の現代音楽とか,コード/モードが自分の読解力をこえるフリー・イムプロヴィゼーションとか,大部分のJ-POPとか,形状だけのおシャンソンとか...例を挙げればキリがありませんが,それはそれでしかたないではないですか。私は私の苦手分野は,苦手分野として人様から許容されたいと思いますし,この部分に弱いからおまえはダメなんだぞお,ということを言われても,すみませんと言って逃げるしかありません。
なぜ音楽総体で語ろうとするのですか?ひとりのリスナーのキャパシティーというのはそんなに大きくないですよ。苦手で嫌いな音楽というのは誰でも持っているではないですか。それを許容してあげられないのはなぜなんでしょうか。俺にとってダメな音楽はダメなんだぞお,と言い続けるのは,あなたが抑圧的に感じた先輩たちと同じことを言っていることではないですか。
このボードの主旨は世界各地の音楽が好きな人たちの会話の場ですから,世界の音楽のありようをグローバルに見ようではありませんか。抑圧された人民の歴史というのがあり,それを音楽で表現した人たちも世界にはたくさんいるのですから,マリーナ号さんがそれにバッテンをつけるなら,それはそれでしかたがないことです。ユパンキ,フェラ・クティー,ピアソラ,オクジャワ,レオ・フェレ,ボブ・マーリー,ディラン,ジョン・レノン,ジョー・ストラマー...。これらの人たちの意義を認めない人がいても,それはそれでしかたないことです。聞かれ方は千差万別あり,表現のしかたも千差万別あります。それをリスペクトした上でないと,このボード上での会話にならないのではないでしょうか。
263 言ってもいないことで責められても・・・ マリーナ号 - 2005/05/20 04:22 -
Aさんへ
このような議論を引っ張ると、他の方々にもご迷惑かと思いますんで、私の文章を誤解し
ておられる部分の指摘のみ、しておきます。まず、
>苦手で嫌いな音楽というのは誰でも持っているではないですか。
>それを許容してあげられないのはなぜなんでしょうか
とのお言葉をいただきましたが、私は、「嫌いな音楽があり、それを許せない」などとは 一言もいっていません。してもいない発言に関して批判を受けるのは、納得が出来ません。
>俺にとってダメな音楽はダメなんだぞお,と言い続けるのは
とのお言葉もいただきましたが、言い続けるもなにも、はじめからそんなことは言っておりません。
私は、
>”革命”やら”運動”やらに絡めて音楽が語られるのを好みません。
と言っております。音楽そのものではなく、語られかたを問題にしております。「社会運動にかかわりがあった音楽だから素晴らしい」などという評価の下し方を”好まない”と言っているのです。
そのような評価基準を受け入れるのはそれこそ私の”苦手分野”であり、おっしゃられるように、それを私が好まないのは”しかたがない”ではありませんか。
これに関しては、
>この部分に弱いからおまえはダメなんだぞお,ということを言われても,
>すみませんと言って逃げるしかありません。
とのお言葉をそのままお返しするよりありません。また、
>抑圧された人民の歴史というのがあり,それを音楽で表現した人たちも
として何人かの音楽家の名を挙げられていますが、そこには私の好む音楽を演奏する人も、そうでない人もいます。が、それは”抑圧された人民の歴史”を音楽で表現しているかどうか、が判断基準ではありません。例を挙げるなら、アストル・ピアソラは、気のおけない庶民の娯楽であったタンゴを、お高い”お芸術”にしてしまった、との理由で私は苦手です。この場合、”抑圧された人民の歴史”を音楽で表現しているか否かは、私の評価基準には入っておりません。
まさにおっしゃるとおり、音楽の聴かれ方は”千差万別”です。音楽家を”抑圧された人民の歴史を音楽で表現したか否か”といった評価基準で語るのを好まない者もいるということにも、”リスペクト”いただけたらと思います。
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(以下、次回に続く)