ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

渡るアラブのポップスの

2007-12-30 23:58:00 | イスラム世界

 ”alemtaha” by Mohamed Abdu

 アラブの盟主を自らもって任ずるサウジアラビアでありますが、かの国の誇る大歌手、となればこれはますますゴージャス!というわけで、アラブ・ポップスの大物・ムハマド・アブドゥの、ちょっぴり不思議作。
 なにしろ数多いアルバムのジャケ写真のほとんどではアラブの民族衣装に身を固めて、コワモテ状態でこちらを睨んでいたアブドゥが、ここではスーツに身を固め、ニッコリと微笑んでいる。これがまず不思議だ。

 とは言え、アーティスト名とアルバムタイトル以外、アラビア語表記のジャケをいくら眺めても、たとえば企画盤であるとか新境地に挑んだ作品であるとかは分かりはしないんですが、なにかどこかへんてこな雰囲気漂う音の響きではある。といっても御大アブドゥのことですからね、やっぱり堂々の貫禄ではあります。

 冒頭、まずは切ないストリングスの響きで始まります。アラブポップスお得意の官能的な響きのユニゾンものじゃない、アラン・ドロンとかマルチェロ・マストロヤンニとかが顔を出しそうな、昔のヨーロッパ製恋愛映画のサントラみたいなオシャレな響き。しばらくして、それに被さる切なくも俗っぽい感傷を撒き散らすムードミュージック系ピアノ。
 なんかテレビドラマ”渡る世間は鬼ばかり”のテーマ曲みたいなピアノソロがストリングスのど真ん中を突っ切って行くのであります。

 なんだなんだ何が始まるのだと首をかしげていると、やがてハッシとアラブの民俗打楽器が鳴り渡りまして、アブドゥの渋い声がコブシコロコロと響き渡る。これがなんか妙な取り合わせでねえ。
 古きよき欧州恋愛映画の世界にアラブ遊牧民乱入、みたいな音像。しかも空耳アワー的な話ですが歌詞の中に「後ろ。後ろ後ろ」と聞こえる箇所が頻出し、夜中に聞いていると、ちょっと怖い。俺の後ろに何かいるのか?

 なんて、”笑っちゃう”ってレベルまでは行かないものの、なんとなくむずがゆい気分を喚起する不思議なバラードものが気を惹く作りになっているのであります。
 その間に挟まる、勇壮なコーラスを従えたアップテンポの曲はいつも通りのゴージャスな湾岸系アラブポップスなんだけど、今回に限り、それよりもやっぱり”渡鬼”風ムードピアノ大活躍の不思議なムーディ・アブドゥがちゃららっちゃっちゃらっちゃ~♪と左に受け流すバラードものに目が行ってしまう。

 変な世界なんだけどね、一度聞いちゃうと妙にクセになるのさ。

 これってアブドゥの新境地なんでしょうか?面白いからもっとやって欲しいような、やめといた方が良いような。アラブの人たちからの評価はどうなんでしょう?
 この不思議なむずがゆさを楽しむ瞬間、ワールドもののファンになって良かったなあと思える・・・ような、妙なものにかかわりを持っちゃったなあと反省したくなるような・・・なんともいえない皮膜の間で今年も暮れて行くのでありました。

英国聖歌集

2007-12-29 04:20:01 | ヨーロッパ


 ”Sound,Sound,Your Instruments of Joy” by WATERSONS

 押し詰まりまして、と言うやつで。もう日付けもここまで来てしまうとどうにもならん、という気がする。まあ、時間なんてハナからどうにもならないものだけど、それにしても。
 いっそのこと、このところひかえていた酒でも飲んでボロボロに酔っ払ってみようか、なんてふと思う深夜。雨が降っている。そのおかげで、もう二日続けて日課のウォーキングに行けていない。なんか気持ちが悪い。

 ちょっと話題は古いがクリスマスの翌日の街を車で走り抜けていて、疲弊した街そのものが師走の空気の中でホッと一息ついている、その声が聞こえたような感触があった。

 気の早い連中は秋風が吹き始める頃からもうクリスマス商戦を開始して、お調子者たちの心を煽る。バカ騒ぎはやむことなく、そのまま12月まで走り抜けるのだが、さすがに日付け上のクリスマスが終わってしまっては、どうにもならない。あとは、「初詣は西新井大師へ」なんてCMが流れるにまかせるだけだ。
 ここにいたって、やっと休息を得た街は、無理やり追いやられた激走からやっと開放され、静かに時の流れに身をゆだねている、そんな風に思えたのだった。

 というわけで、「クリスマスが終わったのなら、安心してクリスマスの話が出来るな」とか他人には良く分からないであろう理屈で取り出したのが、ウォーターソンズのこのアルバムである。が。

 ありゃりゃ。これ、長年、クリスマスアルバムと信じ込んできたけど、特にそういう趣旨で作られたものでもないんだな。ただ、冒頭の曲がクリスマスを寿ぐ曲だというだけで、その他は聖歌賛美歌のタグイを集めた、それだけのアルバムだったんだな。まあ、用途としては似たようなものだから、そう信じ込んできたんだろうけど。

 ウォーターソンズといえば英国民謡界に、その渋い渋い無伴奏のコーラスを売り物に、いぶし銀の輝きを放ちつつ屹立する名門である。
 まあ要するに兄弟姉妹で英国民謡を歌うファミリー・コーラスなのだが、そのディープなハーモニーの響きは英国民謡の核のあたりにド~ンと鎮座ましましていて、彼らの名を出せばうるさ型のファンもハハーッとひれ伏す黄門様みたいな連中。

 今回、このアルバムで歌われているのは、先に述べたように聖歌集、それも巷間、庶民の素朴な祈りを込めて歌われてきた、民衆の手のぬくもりが伝わってくるような歌たち。信心深い人たちがあまり熱心に磨くものだから顔の造作が磨り減っちゃったお地蔵様、みたいな感触の素朴な祈りの心が伝わってくる。

 なんでも、ここで聴かれるコーラスのスタイルが移民たちによって新大陸に持ち込まれ、そいつの影響下で、まだドレイの地位に置かれていた黒人たちがゴスペルのコーラスのスタイルを作り上げたんだそうで、そういう興味で聞いても意義あるアルバムである。渋過ぎだけどね。

 このアルバムをこんな風に地味な気分で聞いていると、過酷な運命に翻弄され、でもじっと耐え続け、生活を築いて来た、名もない庶民のパワーが地の底から湧いて出るのを見るようでもある。形は賛美歌なれど、言葉少なく地道に働く庶民の労働歌である。
 賛美歌と言えど華美に走らぬ、そんな無骨さがウォーターソンズの、そして英国庶民の、矜持の輝きとなって灰色の空の下に屹立している。
 そいつを見上げつつ、時の流れにまた一つ耐えて行く。
 

ロシアン・ルーツロックの女神

2007-12-27 03:28:10 | ヨーロッパ


 ”Девушкины песни(The Girl's Songs)”
           by ПЕЛАГЕЯ(ペラゲーヤ)

 ロシア・ポップス界で実力派の呼び声も高いペラゲーヤ。
 彼女はロシアのポップスやロック界と民謡の世界と、何股もかけて活躍する多彩な才能の持ち主とのことで、楽しみに聞いてみたのだ。

 なるほど、冒頭の曲など、エレキ・ギターのアルペジオに導かれて始まり、やがてザクザクと刻まれる生ギターとパーカッションが織り成すリズムがいきなり快感だ。なんだか”ロシア風の70年代アメリカ・サザンロック”みたいな陰りのある重たいノリが快い。

 毎度ロシアのポップスと言うと硬直した表情のエレクトリック・ポップスの作りが多くて辟易しないでもないのだが、このアルバムはキーボードよりはギター、打ち込みのリズムよりはドラムスの響きが際立つ音作りで、その広がりある世界が嬉しい。

 もちろん主役のペラゲーヤのボーカルも自由自在の飛び回りようで、ロシア民謡調のロックを歌っていたかと思えば終盤はイタリアのオペラの歌曲にいつのまにかなって、そのまま終わり、なんて人を食ったところも見せる。

 5曲目の、効果音的に鳴らされるパーカッションを除けばほぼ無伴奏で歌いだされる”詠唱”ってな雰囲気の曲もひときわ印象深く。彼女の本領発揮らしいロシア民謡で、なるほど根の深い歌唱で聴きごたえがある。
 しかし、なんだか日本語の歌詞をつければ日本民謡にも、英語の歌詞をつければブリティッシュ・トラッドにも聞こえそうな曲だなあ。根に至れば通ずるものはあり、と言うことか。

 全体に、もともとの彼女の出自らしいロシア民謡の素地を生かしつつ、完全にロックを自家薬籠中のものにしていて、獲得したその広い世界の中で生き生きと彼女独特の表現を繰り広げてくれる、このあたり、ロシアのルーツロック誕生!みたいで、こちらのようなワールド物好きには嬉しい存在といえよう。
 なにより終始歌唱に安定感があるんで、ハードなロックの後に感傷的なバラードを歌っても音楽の電圧が下がらなくて良い。

 ステージ映像など見ると、ビジュアルも音楽も、かなり民俗調というか土俗調を強調しているようで、地盤ロシアではどのような存在なのか興味がそそられる。というか、スタジオ録音ものでもあのくらいどぎつくやってくれるとさらに私好みなのだが。

 それにしても彼女、写真の写りようで素朴な村娘にも派手なロックねーちゃんにも辺境のシャーマンにも見え、そしてこのCDのジャケの彼女は、そのうちのどれでもなく写っている。実像はどれなんだ?

フランダース、その他の多湿世界

2007-12-26 05:11:44 | その他の評論


 それは「滅びの美学」なんて立派なものなのか?世界の中心でなんたらとかガッキーの主演でこの間映画化されたケータイ小説とやら、あのへんのゴミみたいな物語を涙を流して愛好する癖も、「滅びの美学」なのか?

 とりあえずこのジメジメメソメソした精神風土に、もううんざりしてるんだが。
 けど、この記事に対応して書かれた他の人の日記は圧倒的に”フラ犬支持”なのなあ。皆、この焼き鳥屋のカウンターみたいにベッタベタの世界が居心地が良いらしい。救いはない。
 
 いっそ人影の絶えた深夜の乾燥機の展示場で、ドライフルーツとか干物とか握り締めて死んでしまったら。天使たちは俺の死体を、ゴビ砂漠とかサハラ砂漠とかへ運んでくれるんだろうか。

 ○「フランダースの犬」日本人だけ共感…ベルギーで検証映画
 (読売新聞 - 12月25日 09:14)
 【ブリュッセル=尾関航也】ベルギー北部フランドル(英名フランダース)地方在住のベルギー人映画監督が、クリスマスにちなんだ悲運の物語として日本で知られる「フランダースの犬」を“検証”するドキュメンタリー映画を作成した。

 物語の主人公ネロと忠犬パトラッシュが、クリスマスイブの夜に力尽きたアントワープの大聖堂で、27日に上映される。映画のタイトルは「パトラッシュ」で、監督はディディエ・ボルカールトさん(36)。制作のきっかけは、大聖堂でルーベンスの絵を見上げ、涙を流す日本人の姿を見たことだったという。

 物語では、画家を夢見る少年ネロが、放火のぬれぎぬを着せられて、村を追われ、吹雪の中をさまよった揚げ句、一度見たかったこの絵を目にする。そして誰を恨むこともなく、忠犬とともに天に召される。原作は英国人作家ウィーダが1870年代に書いたが、欧州では、物語は「負け犬の死」(ボルカールトさん)としか映らず、評価されることはなかった。米国では過去に5回映画化されているが、いずれもハッピーエンドに書き換えられた。悲しい結末の原作が、なぜ日本でのみ共感を集めたのかは、長く謎とされてきた。ボルカールトさんらは、3年をかけて謎の解明を試みた。資料発掘や、世界6か国での計100人を超えるインタビューで、浮かび上がったのは、日本人の心に潜む「滅びの美学」だった。

M-1グランプリ 2007

2007-12-24 01:34:06 | その他の評論


 ともかく冒頭に出て来た笑い飯をはじめ数組のあまりのつまらなさに呆れ、逆に興味が出て最後まで全部見てしまった。
 「こんなつまらない事やって一千万円もらえるのかよ!?」あるいは、「こんなものが”日本漫才シーンの頂点”でいいの?」という唖然。または、「こんなんで番組成立するのか?」という疑問。

 実際、笑い飯とあとその次の何とか言うコンビ(名前なんか覚えてるもんか)が終わったあたりで番組制作サイドも青くなってたんじゃないかと想像する。「おい、やばいよ、全然笑いが起こらない!」とか。
 それでもそれなりにドラマは起こり、敗者復活組が優勝のサプライズと、何とか番組の恰好がつくんだねえ。不思議なものです。

 でもなあ、何度も奇跡は起こらないし、そもそも毎年、大賞にふさわしい漫才を披露できるコンビが次々と登場するなんてありえないんだから、M-1の企画そのものに無理があるだろう。冒頭のしらけようを思うにつけても、そう確信する。来年あたりひどいことになるぞ、きっと。もう今年、すでにやばかったんだから。

 しかし、あの笑い飯という連中は最悪だなあ、いつも思うんだが。
 ダウンタウンのマッチャンに気に入られてるんだか知らないが、それに寄りかかって何の実績もないのに大御所みたいな気分になってる。漫才やるんだって、気持ちは完全に審査員のほうに向いてしまっていて、「ボクたち、いけてますよね」と審査員連中に媚売ることしか考えていなくて、客を相手に漫才をやっていないんだから、そりゃ受けるわけないわな。

 あと、これに関する他の人の日記を一渡り読ませていただいたが、「漫才は関西固有の文化です」なんて思い込みというか縄張り意識にカチカチになっている人が結構いて、「関西のコンビ以外が優勝すること自体、間違いなのである」と、洞穴にこもって拗ねているのには苦笑させられました次第で。

 ○敗者復活サンドウィッチマンがM1初優勝
 (日刊スポーツ - 12月23日 21:23)
 07年M-1グランプリ決勝が23日、テレビ朝日で行われ、7代目チャンピオンにサンドウィッチマンが輝いた。敗者復活組からの優勝。審査員8人のうち島田紳助、松本人志ら4人の得票を集め、参加コンビ過去最多の4239組のトップに立った。
 サンドウィッチマンは伊達みきお、富沢たけし(ともに33)のコンビ。賞金1000万円を手にした2人は「何も覚えてない。夢見心地」と話していた。

天使とギター弾き

2007-12-22 04:18:14 | 北アメリカ


 ”The Heart of the Minstrel on Christmas Day”by Harvey Reid

 日課のウォーキングは、このクソ寒い状態になっても今だ宵の口に続けていて、「馬鹿じゃねーの、こんな夜風に身をすくめながら歩くなんて健康のためにはむしろ悪いぞ、、暖かい日中に歩けば良かろうに」と自分でも思うのだが、なんとなく生活時間の流れがそんな具合になってしまっているので、どうにもならない。

 と言うわけで物好きにも寒風吹きすさぶ夜の街をウインド・ブレーカー羽織って競歩状態で歩いていると、クリスマスの電飾を飾っている家がずいぶん増えてきているのに驚かされる。以前は公の建物や水商売関係で主に飾られていたが、最近ではまったくの一般家庭でも電飾は普通に飾られるようになっているんだなあ。

 そんななか、キリスト教の教会なんて場所における電飾状況はなかなか味わい深い。「一応は飾っておきますが、世間のにわかクリスチャンと違ってこちらは”本気”なんですからね、軽薄な真似はしませんよ」とでも言いたいような、あくまでも簡素な飾り付けに終始している。それが夜闇の中、孤高の姿を屹立させているのが、逆にユーモラスに見えてきたりする。

 そういえば今日、いやもう暦の上では昨夜になってしまうのか、ともかく何時間か前に歩きながら見たのだが、カトリックの教会はいつも通り地味な電飾が輝いていたのにプロテスタントのそれでは、すべて消されていたのだった。あれって宗派により、電飾を消す日とかあったりするのかなあ?そんな深い意味はない?

 どうも私はクリスマスというのが苦手で、クリスマス商戦で儲けようとて街に景気つけの空騒ぎのクリスマス・ソングなど流れてくると、心に墨汁を流し込まれたみたいな気持ちになってくる。

 いや、「クリスチャンでもないのに、キリストの誕生日が何がめでたい」などとありがちな事を言い出す気もない。では何かといえば。その後の人生を生きてみた結果、自分は子供の頃のように無邪気にクリスマスを楽しみにするには、幻滅ばかりを心に抱え込み過ぎてしまった、というような。これだってありきたりか。

 などとブツブツ呟きながら、ひたすらクリスマスが頭上を通り過ぎるのを待つ。毎年の楽しみはただ深夜のテレビで、”明石家サンタのクリスマス”を見て、他人の不幸話に腹を抱える、そのことだけである。

 と言うわけで。アメリカの白人土俗系ギター弾き、ハーベィ・リードのクリスマス・ソング集など取り出す。

 このアルバムで取り上げられている曲は、純然たる賛美歌から大定番・”清しこの夜”を経て”赤鼻のトナカイ”みたいなお楽しみ曲、あるいはベートーベンの”喜びの歌”や”樅の木”などの周辺曲(?)など、「思いついた曲は全部弾いてみました”みたいなゴタマゼかげんが楽しい。

 リードは、ブルーグラス調と言って良いのか、豪快にスイングするフラットピッキングの切れ味も爽やかな生ギターの早弾きと、アパラチア山系で古くから愛されている小型の自動ハープや軽やかなバンジョーの演奏が看板の、つまりはアメリカン・トラディショナル・フォーク系列のプレイヤー。
 ともかく思い切りの良い演奏をするので、ほぼギター等の楽器一本、または自身の演奏の多重録音と言う出来上がりの地味さながらも、ドライブのBGMに最適だったりする。

 そんな彼の演奏するクリスマス・ソングは、素朴な庶民の祈りの心がシンプルにストレートに表出された好盤で、こうなってしまうと宗教上のあれこれは超えて、普遍的な祈りの音楽と感じられ、車をのんびり流しながら聞いていると、彼と心臓のリズムを、タイミングを共有するような、あったかい気分になってくるのだった。さしも、クリスマス嫌いの私でさえ。

 そんな次第でこの先一週間足らず、私はこのアルバムのお世話になるのであろう、今年も。

猿芝居、残念ながら

2007-12-20 23:09:37 | 時事


 失笑してしまったのだ。原告の一人が記者会見で「今日ですべてが変わる 今日ですべてがむくわれる、と思っていたけど」とか、イズミヤの歌の文句なんかまじえながら語っていたので。気の利いた表現とでも思ったのか?もの凄く恥ずかしいよ、それ。

 ともかく今回の原告団の人たちの言葉って、あまりに芝居がかり、作り物っぽ過ぎる。
 だからかえって、”後ろにいる、運動をオルガナイズする存在”の気配が、うさんくさい匂いを放ちつつ立ち上がってしまうのだ。

 そんな昔ながらの市民運動臭ふんぷんたる戦い方って、もう破産しているんじゃないのか。
 まさに時代の空気が読めていないのであって。何で左翼がいまどき流行らない存在になってしまったのか、良く考えてみてくれ。

 あっと。戦いのどちらに正義があってとか、ここでは私は語ってないよ。闘いの方法論がピント外れではないかと疑問を投げかけているのである。
 トンチンカンな反論を用意し始めた頭の悪い人のために言っておくけど。

 ○原告側の対応批判=「司法判断どうお考えか」-町村官房長官
 (時事通信社 - 12月20日 19:02)
 町村信孝官房長官は20日午後の記者会見で、薬害C型肝炎訴訟の和解協議で原告側が国の修正案を拒否したことについて「大変残念だ」とした上で、「『この案でなければ受け入れられない』と言うのは、司法の立場をどういうふうにお考えなのか。ただ、簡単に駄目というだけでなく、何らかの対応を考えてほしい」と述べた。全員一律救済を主張する原告側の対応に疑問を呈し、問題解決へ一定の歩み寄りを求めたものだ。 


レバノンのハードボイルドな一夜

2007-12-19 00:16:06 | イスラム世界


 ”Ya Baher”by Walid Toufic

 たいていのアラブ・ポップスのファンの方と言うのは、美人歌手が鉄火肌で歌い上げる妖艶な世界を愛好されていると思うんだけど、というか、アラブのポップス愛好家そのものがどれほど我が日本におられるのかがそもそも分かっていないんだけど、私のようにオヤジ歌手たちの盤を好んで聴いているなんて人はあんまりいないんではないか。

 まあ、奇をてらっているんでも変な趣味があるわけでもなし、これは私がロックとかブルースを聞く延長線上にワールドものを聴いている証拠ってことなのだけれど。(正直言いますが、男臭~い写真が何枚も掲載されてるジャケやら歌詞カード、あんまり見直したくありませんが。というか、どうせ当方には全然読めないアラビア文字しか記されていない歌詞カード、何度見直したってしょうがないですな)

 と言うわけでレバノンの大歌手、ワリド・タウフィクの、これはジャケに”2007”と大書されているとおり、バリバリの新譜であります。
 いや、大歌手とか書きましたが、そのように教わったというだけで、この人を聞くのは実は初めて。でも、その無骨な貫禄ものの歌声を一声聴けば、確かにこれは大物と理解は可能であります。

 当地の土着系ポップスとなれば当然出てくるアラブのパーカッション群は、枕詞みたいになっている”狂乱の”というよりはむしろ、”フォーメーション・プレイ”なんて言葉を使いたくなるくらいの引き締まった連携プレイを聞かせてくれる。
 そのくらいの空間の感覚があるんですな。ビッシリ音が密集している感じではなく、各楽器がお互いに距離を保ちつつ、緊密に反応し合い、非常に刺激的なリズムを繰り出している。

 同じくアラブ名物のユニゾン・ストリングスも当然絡んでくる訳ですが、これも、通例の怪しげな甘美さよりもクールさを演出するアレンジとなっている。
 全体としてアラブの現代都市の洗練された空気感が非常に感じられる音作りであり、アラブの民俗音楽的響きというのは、もはや”遠きにありて思うもの”となりつつあるんではないかと近未来を想ってみたり。

 そこに響き渡るワリドのしわがれたワイルドな歌声。都会の無頼派、ちょい、どころか非常に悪いオヤジ的荒くれた感傷が都会の夜を吹きぬける。バックに従えたクールめの音構造のど真ん中で、ワリドのアラブの血はますます濃厚に煮えたぎっているようであります。

 ちょっと興味を惹かれたのが、裏ジャケで歌手本人が抱えているギター。物自体は普通のクラシック・ギターなんだけど、弦が4本しか張ってないのですな。1,2,3弦と6弦だけ。4弦と5弦は張られていない。
 これ、おそらくはアラブの何らかの楽器と同じ要領でプレイできるように、あえて弦を外しちゃっているんだろうけど、どんなチューニングになっているんだろうな。演奏しているところ、ぜひ生で見て見たいと思う次第でありました。

日々のブルース

2007-12-18 03:52:00 | いわゆる日記


 ”Sandman”by Harry Nilsson

 知り合いのバッキンガム爺さんさんが、月曜日の通勤の不快さに引っかけて、『アイ・ドント・ライク・マ~ンデー~』なる歌について書いておられた。
 その歌は知らない。が、月曜日の、つまりは週の初めの仕事の世界に帰って行く苦痛は容易に想像がつく。こちらも3年ほど前まではその世界にいたのだし。

 その関係の歌では、私はファッツ・ドミノの”ブルー・マンディ”が親しい。もちろん、あんな50年代のR&Bをリアルタイムで聴いちゃいない、オトナになってから後追いで親しんだのだが。
 ニューオリンズ特有のまったりと撥ねる3連ビートを従えて、ファッツはピアノの鍵盤を叩きまくりながら、暖かくてちょっぴり悲しげないつもの歌を温泉気分で歌っていた。”月曜日は、月曜日は やりきれない♪”と。

 他に曜日関連の歌で印象に残っているのが、クリス・クリストファーソンが創唱した、「日曜の朝がやって来る」だなあ。”日曜の朝、俺は寂しさで死にそうになる。だって日曜の朝は人をやりきれなくさせる何かを持ってるからな”と言う奴。年を重ねるほどにリアルに心にのしかかってくる歌になって来る歌だ。
 実際、あの日曜のやりきれなさの正体ってのはなんなのだろう?本来は楽しかるべき休日なのに、どこか時間や社会の流れから置き忘れられたみたいな、灰色の孤独の影が心の底にシンと忍び寄る。

 親しい人々と愉快な休日を送っていれば、そんな事はないって?
 あなた、人生の機微と言うものを何もわかっておらんなあ。そんな楽しい時間を送っている者の心を、ふとよぎって行く、「こんな楽しい時間を送ってはいても、人間は結局は一人ぼっちだ」なんて、冷たい風のような想いについて話しているのだよ。そんなガラじゃない奴にまで、嫌でも”人生とは?”とか考えさせてしまう、そんなひとときについて。

 それからニルソンの「俺が木曜日に仕事に行きたくない訳」なんて歌もあった。あれの歌詞はどういう意味だったのかなあ?あの歌を含むアルバム、”サンドマン”が出た70年代中頃には、私はもう真面目に英語の歌の歌詞の意味を追って聴いたりしなくなっていた。自堕落に再生装置の前で飲んだくれていただけ。で、そんな自堕落な姿勢にいかにも似つかわしい、レイジーでジャズィーな歌だった。

 その歌の直前には、いかにも大学の真面目なコーラス部みたいな意匠で学生時代の思い出が歌われている。そいつが途中でぶった切られるように終わって、ニルソンのダミ声が「俺が今日、仕事に行きたくない理由は~♪」と始まる、そんな構成になっていた。
 で、これは美しかりき青春時代と、社会に出て以後、泥沼にのたうちつつの宮仕えの日々の対照の妙を皮肉な視点で歌っているのだろうなと見当はついたのだが。

 一方、英国のひねくれロックバンドのキンクスは、アルバム・”マスウェル・ヒルビリーズ”所収の”複雑な人生”なる歌の中で、医者に体調がボロボロだから体に無理をさせるなと言われたのを守り、何曜日と言わず会社に行くこと自体をやめてしまい、ベッドから起き上がることもやめてしまった男の物語を歌う。
 男はもう起き上がることもないべッドの中から部屋の窓の向こうにそびえ立つ大きなビルを日がな一日眺め、暮らす。”人生は複雑だ♪”とコーラスは繰り返される。

 そういえば、あのロシア民謡、”一週間”なる歌。”月曜日に市場に行って~♪”とかいう歌詞を、「一日がかりで風呂を沸かすのもおかしいし、それに翌日入ったって冷めてるに決まってるじゃないか」とか突っ込む人も多いが、そもそもあれはな~んにもしたくない怠け者が「この一週間、何をしていたのだ」と叱責され、苦し紛れに作り話をしている、そんな設定の歌なんだそうですね。

 ところで。経営していた店を3年前に閉じてしまい、今は副業だったはずのアパート経営で食っている私、あの歌のように”月曜日は水道局との交渉で終わり、火曜日は家賃を二世帯分集金して終わり、水曜日は五号室の合鍵を作りに行った”なんて間延びのする日々を送っております。で、クリストファーソンの歌った”休日の孤独”は連日、この身に降り注ぐ。

大盛りサイケデリック丼

2007-12-16 01:42:33 | ヨーロッパ


 ”Trip - Flip Out - Meditation”by ZWEISTEIN

 以前、テレビのバラエティ番組で、若手コメディアンがさまざまな意匠を凝らした球の中に入って感想を述べる、なんて”体験レポート”を披露していた。

 最初のうちは素通しの球に入って坂道を転がり落ちる、なんてものだったが、番組進行にしたがって凝ったものになって行き、最後には内部全面が鏡張りになった球の中に入って何が見えるかを語ると言う、江戸川乱歩の「鏡地獄」そのまんまと言った趣向となったので笑ってしまったのだった。

 結果は、乱歩が空想したように被験者が発狂するような運びにはならなかったが、背後から現われた”もう一人の自分”と対面したりの、なかなか不思議な映像が現出し、興味深いひとときだった。

 と言うわけで、何ヶ月かまえに手に入れて以来、もう何度も妙な思いを楽しませてもらっている代物、1970年のドイツに生まれたサイケ大作盤、ツヴァインシュタインの恐怖の3枚組CDであります。

 そもそもは69年、アイドル歌手としてそれなりの人気を持っていたスザンヌ・ドゥーシェなる女の子が妹のダイアンとともに、手に入れたばかりのカセットレコーダーを携えてミュンヘンの遊園地からプラハの教会へと、あちこち気ままに街の音をフィールド・レコーディングをして歩き、そいつを元にサウンド・コラージュ作品を作り上げた。(何でそんな事をしたかと言えば、それこそ時代の気分だろうねえ、騒乱の1969年だもの)

 出来上がった作品を偶然耳にした作曲家でありプロデューサーであったクリスティアン・ブルーンは、その異様な音像に衝撃を受けた。彼は自身の作・演奏になる曲をテープに付け加え、あるいはまた、適当に呼び集めた音楽的にはシロウトの若者数人の即興演奏を、テープの音の上にダビングした。

 こうして”ツヴァイシュタイン”なる架空のサイケ・バンドの3枚組の大作デビュー・アルバムが出来上がった。と言うかでっち上げられた。1970年、発売当時の実売数は6000枚程度だったそうだが、時の流れとともにこの作品は、スキモノの間で伝説化していった。
 そして今年、この作品を物好きにもCD再発するレコード会社が現われ、そしてスキモノの一人たる私は物好きにもそいつをさっそく買い込んで聴いてみた、という次第である。

 なにしろ3枚組の大作、しかも聴いても聴いても訳の分からん音世界が続く、という悪夢のアルバムなのであって、この代物に対して評論めいた事をあれこれ言ってみても仕方がないのだが、言える事を言ってみる。

 まず、歌やギターの演奏がまともに聞こえてくる、いわゆる”音楽的”な部分ほど、さすがに古びている感じはある。”ロックの前衛”の技術的部分は、彼らの、もうずっと先に行ってしまった。
 とは言え、その古び方がなかなか良い具合の”古きよきサイケ”の味を醸し出しており、その事はマインス・ポイントではないのだが。

 一方、姉妹のレコーディングによる、いわばツヴァイシュタインのサウンドの幹となる部分は、やはり異様な輝きをいまだ失っていない。おそらくはドラッグをバリバリにきめて彷徨する姉妹によって切り取られた街の音。それは要するに、変哲もない街頭のスケッチでしかないはずなのだが。はずなのだが。何なんだろうね、これは?

 非常に凝ったレコードジャケットであって、見開きのそれを広げて付録の鏡など使って中を覗き込むと、なにやら非常に精神世界的にはありがたいものが見える仕組みになっているようだ。まあ、さすがにそんな事をいちいちやってみる気持ちは、もう失くしてしまった当方であるのだが。

 おお、遥かなりサイケの大河よ。今はいずこを流れる?