ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

エジプトの懐で

2005-09-30 03:57:45 | イスラム世界

 「なんだって世界の共通語が英語なんだよ」「だって、最も使われている言葉だから」「けっ、残念でした、もっとも多くの地域でもっとも多くの人々に使われているのはイスラムの言葉でした」なんて会話を聞いた事があるのだが、イスラムのポップス世界もまた広大にして多様だ。フルストリングスの響きも華麗にして妖艶な湾岸諸国の格調高いポップスもあれば、なかなかにテンション高いトルコの歌謡やアルジェリアのライの斜に構えた魅力もあり、サハラ砂漠の砂が吹き寄せるようにハードな手触りが印象的なモロッコのポップスあり。
 そんな中でエジプトのポップスには、他人の家の電気釜の中身をふと覗き込んでしまったような、ある種気恥ずかしくも生暖かいドメスティックな響きを持つものが妙に目立つような気がするのは、私がそんな面ばかりに注目しているせいか?かの国の男性歌手ナンバーワン、”ライオン”とあだ名されるハキムあたりの歌声にもワイルドな中に、そんな独特の暖かさが潜んでいると私には感じられてならない。

 何の資料もなく、ジャケ写真から想像するに現地の中堅歌手といった年回りなのだろうと想像するくらいしかないハミド・アル・シャリが1997年に出したアルバム、”AINY”も、私が思う”エジプトの生暖かさ”が横溢した作品である。
 民俗パーカッションが鳴り響き、イスラム風のこぶしが大いに廻る伝統色の濃い作品もあれば、ストリングスをバックの欧米風のバラードも有りといった具合で、内容は相当に統一感のないものになっている。厳しい審美眼の持ち主からは、これだけで民俗ポップス失格の烙印を押されてしまうだろう。

 だが、すべての作品を覆う、なんともいえないモッタリマッタリとした、どちらかといえばドンくさい感性が逆にアルバム全体に気のおけない親しみを与えている。いや、これだってあんまり誉め言葉ではないが。いや、そんな情けない良さがなぜか楽しい作品なのである、このアルバムは。
 そのやや中性的な歌声も、音だけなら若い男性アイドルにありがちなと取れなくもないが、ジャケ写真の小太りの中年男ぶりを記憶に残しつつ聞いていると、”男のオバサン”的な滑稽さをむしろ振りまいていると感じさせてしまったりする。そこがまた楽しい。

 ともかく盤のあちこちに、エジプトの庶民の日々の飾らない生活の匂いが立ち上がっているようで、自分の選ぶ年間ベストアルバム10選に入れるとか、エジプト・ポップスを代表するアルバムとして人に薦めるとかは絶対にすることはないが、妙に憎めず手放す気にはなれない、そんな作品だ。
 それにしても同じアラブ世界でもエジプトのものばかりに、こんな生暖かさが見受けられるのはなぜなんだろうな。これが不思議なのだが。




イタリアの夢織り人

2005-09-29 02:35:03 | ヨーロッパ

 アンジェロ・ブランデュアルディは、1950年、イタリアはミラノ郊外の町で生まれたシンガー・ソングライター。70年代のデビュー以来、数多くのアルバムをリリースしている。”イタリアのドノバン”との異名をとるが、いやいや、この説明が一番楽で簡単に彼の紹介が出来るなあ。

 ヨーロッパ、およびその周辺の伝承音楽などをモチーフに、独特の牧歌的な幻想味の強い音楽世界を編み上げてゆくその手法は、確かにドノバンを連想させる。が、どちらかといえば少年時代の夢想の破片から、浮き世離れた夢の世界を作り上げるドノバンと比べると、ブランデュアルディの音楽には、同じ現実離れ系とはいえ、音楽理論的には根拠のある(?)夢想譚とも言い得る部分がないでもない。ライブアルバムでは、自身の演奏するバイオリンでアラブの民族楽器カーヌーンと競演してみたり、イタリアの民俗歌舞団をゲストに招いたりと、根の深いところを見せるブランデュアルディである。

 音楽的には、やはり70年代のものが素晴らしい。その、独特の夢幻的音楽世界が大きく花開いている。その一つの到達点である、76年発表の傑作アルバム、ALLA FIERA DELL'EST が、日本盤発売が予定され、レコード番号が決まり、雑誌広告までが打たれたのに、なぜか発売が見送られてしまったのが残念でならない。そしてそのまま、いまだに彼の音楽の我が国における本格的紹介がなされていないのも、悲しい話である。

 その後、80年代に至り、まあこれは私にはそう感じられた、程度のものであるが、彼の音楽にやや行き詰まりを感じさせるものが出て来た。それゆえ私は一時期彼の音楽から離れていた。
 だが、90年代に入り、ヨーロッパの伝統音楽を大きく取り入れたFuturo antico三部作を発表した辺りからまた彼の音楽は面白くなってきていて、2000年発表のL'INFINITAMENTE PICCOLO などは、すっかり復調の感がある。(これは”アッシジの聖フランチェスコ”として知られる古いイタリアの宗教家をテーマにしたもので、そういえばかってドノバンも、この人物の生涯が映画化された際、主題歌、「ブラザー・サン、シスター・ムーン」を作り、歌っていたものであり、この辺の符合も面白いところだ)
 どうやら、まだまだブランデュアルディの幻想世界を堪能させてもらえそうで、楽しみなことではある。

 ちょっと残念なこと。70年代のジャケ写真に見られる彼のルックスは、こう言っては失礼なのだが、容貌魁偉というか、ある種不気味なものがある。痩せこけた顔の真ん中に神経質そうに大きく見開かれた目が光り、クシャクシャの長髪が天を突いている。なんだかボッシュの絵にでも出てきそうなキャラだったのだ。が、最近の彼は中年に至り、顔立ちにも落ち着きが出て、なんだかハンサムと言ってもいいような顔立ちに変化してきてしまったのである。
 私は、青白き奇怪なルックスの青年が骨ばった手でギターをまさぐり歌い出すと、そこに奇跡のように心安らぐ美しい音楽が生まれ出る、そのギャップが好きだったのだが、これはちょっと残念だ。なんて、ご本人には読ませられない、ひどい話を書いてるな。





神の小さな音楽、マロヤ

2005-09-28 02:22:34 | アフリカ

 ”ZELVOULA by グムラン・レレ”

 アジアとアフリカの文化が微妙に混交したインド洋文化圏とでも呼ぶべきサークルのアフリカ側に位置して、独特の自然誌と文化的光芒を放っている不思議の島、マダガスカル島。それに寄り添うようにして海に浮かぶ小島が、レユニオン島である。これはその島の”マロヤ”と呼ばれる音楽だそうな。

 聞いてみれば、現地のポップスと呼ぶのもためらわれてしまうほど、素朴極まりない音楽。いくつかの曲ではサックスなどが入りはするものの、基本は、レレの枯れた歌声を取り囲むパーカッション群と、アフリカ臭さを濃厚に発するコーラスのみによって出来上がっている音楽である。それも、ほとんどの曲で、シンプルなメロディ・ラインをコール&レスポンス形式で歌い交わす、実にプリミティヴな構成となっている。

 とはいえ、同じ打楽器のみで出来上がっている、例えばナイジェリアのフジのような迫力で聞かせる音楽ではなく、むしろのどかさ、穏やかさの印象が強い。
 民謡調というよりわらべ歌風とでも言いたい、素朴すぎるメロディラインは、なぜか南米のフォルクローレなども想起してしまう、不思議な哀調をおびている。このメロディの成立に至る道筋に、当然の如く想いは向かうが、今はまだ気ままな空想を行うレベルの情報さえなし。どのような歴史を辿ってきたメロディなのだろう。

 なんだかまるで田舎の村祭りの現場、それもカーニバルなどという大仰なものではなく、収穫を祝う小村のつつましい村祭りの音楽が、そのままの形でポップスに変じた、そんな気のおけない素朴な楽しさが一杯。
 歌声の向こうに吹き抜ける潮風の気配も嬉しく、人間がこんなにのどかに生きる余地が、まだこの地球の片隅には残されていたのだな、などと、なんだかホッとさせられるものが伝わってくる音楽だ。



ドナドナの噂

2005-09-27 03:06:05 | アンビエント、その他


 ドナドナという、もう無理やり人を悲しくさせるような歌がある。家族同然に育てた小牛を市場に売りに行く悲しみを歌った、例の短調の悲しげでいて悲しげなあのメロディーのあの歌だ。
 その歌に関して、以前出入りしていた掲示板で、ある人がこんな書き込みをしたのだった。「ドナドナの歌詞って、第2次世界大戦中、ナチスのユダヤ人強制収容所に家族を連れて行かれた人が、その事を悲しんで書いたものなんでしょう?」と。

 我々は、「まさかぁ?ナチの収容所に連れて行かれた家族を、市場に売られて行く小牛になぞらえるなんて、生々し過ぎるんじゃないの?」と首をひねったのだが、確実な情報は誰も持ってはいなかった。
 その話はそのまま中途半端に流れてしまったのだが、後になってなんだか気になるのでちょっと調べてみたところ、どうやらその話、本当だった可能性が出て来た。

 まず、問題の歌詞を書いた作詞家はヨーロッパで生まれ育ったユダヤ人で、現実に妻子をナチのユダヤ人収容所で亡くしているという。また作曲者は、こちらはアメリカ在住のやはりユダヤ人の作曲家でショロム・セクンダ。この人はアンドリュース・シスターズのヒット曲、「ステキなあなた」の作曲をしている。あの歌のメロディ、いかにも民謡調なので、なんとなく作者不詳の伝承歌なのだろうなと想像していた私としては、そんなにメジャーな仕事をしているプロの作曲家が作った旋律と聞き、これはかなり意外だった。

 大西洋を隔てて住む二人のユダヤ人が作ったこの歌、第2次世界大戦後に、建国されたばかりのイスラエルで、”音楽劇の挿入歌”に使われたのだという。音楽劇というのがよく分からない。ミュージカルのようなものか、もっと重いオペラのようなものか?
 ともかく、普通には一緒に仕事をするきっかけもなかったろう二人が合作、そのような時点でそのような場所で行われた劇に使われたとなればこれは、ユダヤ人の民族意識高揚にかなり深く関わった歌なのではないかと想像される。詳しく調べれば相当なドラマがこの歌の影には潜んでいそうなのだが、まあ、私の調査力では、この辺りまでがせいぜいであった。

 岩波新書から出ている「離散するユダヤ人」(小岸昭・著)などをお読みいただくと、もう少し突っ込んだことが書いてありますんで、興味を持たれた向きはご一読を。この先は単なる引用になってしまうんで、この辺で。

 しかし、ユダヤのメロディって、何であんなに悲しい響きなのだろう。ドナドナといいマイムマイムといいハバナギラといい。これは、あの民族がいろいろ苦悩の歴史を歩んだからそのようなメロディを紡ぎ出すようになってしまったのか、それとも、もともとそのようなメロディを魂の真ん中に秘めている民族なのか。あるいは、こちらがそういう意識を持って接するから、彼らの旋律をそのように感じてしまうのか。まあ、そのすべてなのかも分かりませんが。



ルイジアナは負けない!

2005-09-26 04:36:52 | 北アメリカ


(The Original Bourbon Street Cajuns )

 ここで、「なかなか生きの良いケイジャン・ミュージックの新譜を見つけたよ!」・・・とか騒いでみても「ケイジャンってなんだ?」と首をかしげるのが、まっとうな日本の音楽ファンというものです。そりゃそうだ。

 まあ、アメリカ南部はルイジアナ州の辺りにフランス系アメリカ人の多く住む地域があるとお考えください。もともとあのあたりはフランスの植民地だった時期があり、ほら、「フランス国王ルイの領土」って意味ですからね、ルイジアナって地名も。
 その地のフランス系住民の歴史も語れば実に奥行きの深い物語なんだけど、そこまで突っ込む余地もないし、そもそも私に説明しきる知識がない。申し訳ない。まあ、そんなフランス系アメリカ人たちのコミュミティで継承されてきた大衆音楽がケイジャン・ミュージックである、とお考えください。いかにも黒人白人、洋の東西などなど、さまざまな文化が入り乱れるアメリカ南部ルイジアナ特産の音楽と思える。

 雑に説明してしまえばケイジャン、フランス語で歌われるカントリー・ミュージックなんだけど。もちろん、詳しく語れば独特のツー・ステップやワルツといったリズムや、ボタン式アコーディオンのフィーチュア、ユニークなバイオリン奏法などなど、語らねばならない特徴は多々あるのだが。いやもう、こんな説明はまだるっこしくて。とっととこのアルバムの話をしたいのだ、ケイジャン・バンド、オリジナル・バーボンストリート・ケイジャンズ の新譜、”ウェイロン&サミー ”について。

 なにしろどこで普段演奏を聞かせているのか、バンド名に書かれている。有名な観光地であるニューオリンズのそのど真ん中、バーボンストリート。特に音楽マニアってわけでもない観光客が名所旧跡を見るついでにルイジアナ特有の音楽であるケイジャンが演奏されるのを”見物”する、そのような非常にベタな環境を演奏の場として選び、そこで生き抜いてきたバンドなのである、彼らは。

 私ごとで恐縮だが、私も観光地のど真ん中で育ち、そこのキャバレーやホテルのクラブで、ろくに聞いちゃいない酔客相手に夜ごと音楽を奏でて何がしかの銭を受け取り、それで何十年という歳月を送ってきた老バンドマンたちを見て来ている。それどころか、楽器の奏法や音楽理論を、私は彼らから学んだ。だから、そのような環境で”バンドマンである事”が、いかにハードであるのか、容易に想像はつく。そしてバーボンストリート・ケイジャンズの面々、ジャケ写真を見るに、皆、決して若くはないのだ。

 が、このアルバムに刻まれている音楽に、そのような生活の澱りはまったく感じられない。むしろ、つい最近始めて念願の楽器を手にした音楽好きの少年が、まだみずみずしい感性でもってケイジャン有名曲の演奏に取り組んでいる、そのようにしか思えない、溌剌たる演奏を聞かせているのだ。
 音楽のジャンルがどうの、といった話をあっちにおいておいたとしても、こいつは奇跡みたいなもの。一曲目からポジティブなエネルギー炸裂の音群が走り抜ける。どこまでも明るく、それは決して無理やり作り上げたものではない。
 最初に述べたようにケイジャンなる音楽、決してメジャーな代物ではないのだが、むしろそんな”世界の片隅”にこそ音楽の未来はあるのでは、などとあらためて考えさせられたのである。

 おりしもこの2005年の秋、ニューオリンズの街は超大型ハリケーンの襲来により、甚大な被害を被った。だが大丈夫、ニューオリンズは死なない、ルイジアナは負けない。この音楽魂ある限りは。と勝手に断言させてもらおう。



闇より暗いサルサが響く

2005-09-25 00:56:13 | 南アメリカ

 Fantasmas by Wille Colon

 世の中には「私なんかは血の騒ぐラテン系ですから」などと冗談半分言ってみるパターンもあるのであって。ラテン音楽の好きな人なんかも”陽気な人”という設定がすでに出来上がっている。まあ、それで大方は当たっているのであろうけれども。
 このインターネットの世界でラテン音楽好きな仲間を見つけようと試みても、どこにいっても「陽気に盛り上ろう!」との熱くて暑いメッセージに出会う事となる。まあ、それはそれで。などと意味不明なボヤキを呟く私は何を隠そう性格の暗いラテン音楽ファンである。それゆえ、通常は好んで滅びの美学に彩られた闇の音楽、タンゴを聞いているのだが、もちろんそんな私もはじけ盛り上るラテン、たとえばサルサなどを聞く権利はある。

 と、妙な出だしになってしまったが、今回はおそらくサルサ音楽史上、最も暗いアルバムの話である。
 サルサといえば、カリブ海の小島、プエルトリコからニューヨークに移民してきたラテンの人々が創造した音楽であるのだが、彼らプエルトリコ人が、アメリカの”健全な市民”たちから偏見を持って貼られた”平気で悪に手を染める胡散臭い移民たち”なるイメージを逆手に取り、あえて裏町のギャング・スターぶってみせたキャラクター設定で60年代から70年代にかけてサルサ・ファンに人気を博したのが、ウイリー・コロンと彼の楽団である。
 この卓越したバンド・リーダーが思うところあって(単に飽きただけかも知れないが)バンドを解散し、一人の歌手として歩き出し、1981年、世に問うたアルバムの2作目が、今回俎上にあげるアルバム「ファンタスマス」だ。

 確かにラテン・パーカッションは確実にクラーベのリズムを刻むのであるが、それとともにシンセサイザーで奏でられる風の音が吹きすさぶ中を、自己の内面との対話をもっぱらとするような内に沈んだウイリー・コロンの歌声が中央で響くのだから、これは暗い。歌詞を見れば、「私の手を取って寝床に横たえて欲しい。私は死んでしまった人間なのだから」とあり、暗い。アルバムタイトルは「幽霊」の意だから、暗い。
 なにしろ失恋が原因で自死してしまった妹に捧げるアルバムというのであるから、それは暗い。内ジャケには幼い頃のウイリーと妹との記念写真などあしらわれていて、十倍、涙を誘う仕組みになっている。そのような個人的な感傷を表に押し出したアルバムなどよく作れたと思うのだが、ひょっとしてショー・ビジネスの非情さは世の東西を問わず、レコード会社はウイリーの悲嘆を「売れる」と判断した可能性もありはしないか。

 それはともかく。アルバムの後半、陽気なリズムに乗って、ウイリーの故郷であるプエルトリコのカーニバルが歌われている。「リオのカーニバルにだって負けない」と胸を張るウイリー自作の歌詞内容なのだが、楽曲そのものの出来上がりは幻想味の強いものであり、まるで、とうに失われてしまった思い出の中の祭りのように遠い風景が浮かぶばかり。ニューヨーク育ちで、ラテンのミュージシャンのくせして実はスペイン語より英語の方が得意である、なんて噂もあるウイリーの、故郷喪失者としての内面が透けて見えるような結果となってしまっている。

 そしてこのアルバムが世に出た事が契機となり、と言ってしまったら妄想も過ぎるが、まるでそれが合図ででもあるかのように、その後、ニューヨークのサルサは失速して行ってしまった。
 先鋭的な音作りのニューヨーク製のサルサより、人々はプエルトリコのローカルレーベルの穏便な音作りを好むようになり、あるいはサルサにとっては辺境といえるコロンビアの歌手の分かりやすい歌が人気を博した。有能なミュージシャンは続々とプエルトリコへ帰っていった。ニューヨークにいれば金儲けは出来るかもしれないが、プエルトリコは故郷、ラテン世界なんだよ、との言葉を残し。

 かってニューヨーク・サルサのミュージシャンたちは、たとえばニューヨークの大型球場を熱狂した観客で一杯にし、ニューヨークのラテン・コミュニティの心意気を高らかに歌い上げたものだった。そのレコーディングは、ラテン音楽の世界に名盤として伝えられている。
 そんなニューヨーク・サルサの失速には、当時のアメリカ政府による”少数民族”への優遇政策見直しにより、アメリカ国内のラテン勢力が力を失っていったのと関係があるとの見方もあるが、確たる関連性が確認できるものでもない。

 ともかく一つの音楽が流れを変えるその季節の変わり目にポツンと置かれた奇妙な墓碑銘、それがこのアルバム、”ファンタスマス”である。暗い。が、その不安の立像としてのありようは、制作後20年以上経過した今日でも、いや、当時よりもさらに混迷を深める今だからこそ、ますます我々の心を打つものがある。ような気がする。



プルコルン・コルン幻想

2005-09-24 03:41:14 | アジア

 プルコルン・コルン(Perkolong Kolong)の響きには、夏風邪で寝込んだ夜、熱に浮かされた頭で聞いた遠くの祭囃子の面影がある。

 などと思いつきで書いてはみたものの、実は夏祭りの夜に夏風邪で寝込んだ覚えはない。ふと浮かんでしまったイメージは、子供の頃に熱を出して寝込んだ夜、近所の旅館の宴会場から歌声や芸者衆の器楽の音などが流れ聞えていた記憶が、夜の闇に響いていた祭囃子の音の記憶と混同されつつ、プルコルン・コルンなる未知の部分の相当に多い音楽の説明のために、苦し紛れに我が脳が無理やり造成したものであろう。
 が、このイメージは、なかなか良いんではあるまいかとも思う。そう、プルコルン・コルンには、子供の頃に遠く聞いた祭囃子を思い起こさせるものがある。

 プルコルン・コルンは、インドネシアはスマトラ島のローカル・ポップスで、現地ではおそらくはダンスミュージックとして機能している。くらいの事しか現段階では分からず。
 手元に何本かのカセットテープがあるものの、CDには今のところ出逢ってはいず、また、この音楽を(もちろん現地で)ライブで体験したという人の話も聞いたことはない。いまだ我が国には未紹介に等しい音楽と言っていいだろう。
 プルコルン・コルンの最大の特徴は、リズムの骨格を成す竹のパーカッションの響きである。どのような形状に細工されたものを、どのような状態で叩いているのかも現状では分からないのだが、ポコポコとのどかに鳴り響くのは、確かに竹を棒状のもので叩いている音である。

 竹の音と、それを取り囲むように配されたインドネシアの民俗楽器群が織り成す複合リズムが、まるでインド洋からスマトラ島に寄せるさざ波の響きのように永遠の時を刻み、それに乗って、女性歌手の歌うマレー音楽の伝統に則った甘美なメロディが悠然と流れて行く。絶えることなく打ち鳴らされる竹の音。その響きは、まさに東アジア人すべての心の琴線に至る共通の秘密などを抱きつつ、空気を震わせているようだ。

 いまだ我が国には未紹介の音楽と先に述べたが、プルコルン・コルンには、詳細不明の音楽という今のままのポジションであり続けて欲しいような気もする。私の個人的な夏祭りの思い出と奇妙に共鳴する音楽、という誤解を楽しんでいたいのである。などと要望せずとも、こんな地味なローカルポップスがわざわざ我が国に紹介される日も、まあおそらくは来ないのであろうけれども。

 

アフリカ最前線!コンゴトロニクス!

2005-09-23 02:59:57 | アフリカ

 共鳴箱に自転車のスポークなどを流用した長短さまざまな金属棒を斜めに差し込み、それを両手の親指で弾いて複合リズムを刻む、いわゆる”親指ピアノ”は汎アフリカ的民俗楽器として、かの大陸一帯で使われている。サンザ、ムビラ等々、所によって呼ばれ方を変えながら。この楽器に焦点を当てた取上げた「ショナ族のムビラ」などという盤が名盤としてもてはやされもした。

 そのような素朴な民俗楽器にピックアップをつけアンプに通し、電気楽器化して、今日を生きる大衆音楽シーンのど真ん中に持って来ている、そんな連中の音楽が、アフリカのど真ん中、コンゴに存在していると聞いたのはずいぶん前のことなのだが、実物の音がなかなか手に入らず、じれったい思いをしていたのだった。
 それが先日、とうのコンゴのかっての宗主国たるベルギーのレーベルでCD化され、やっと音の実態に接することが出来たのだった。それがこのバンド、”KONONO No1”のアルバム、「コンゴトロニクス」である。初の単独レコーディングながら活動歴25年を越すとは驚くしかない。どこでどうやって生きてきたのだ。

 ともかく痛快なのは、アフリカ人の魂とも言うべき親指ピアノをエレクトリック化して大音量で都会の雑踏に解き放ってしまったこと。
 電気による音量増幅により、より今日的な狂騒表現を可能とした親指ピアノの暴れまわる様は実に痛快な、しなやかに逞しいアフリカの魂に関わる誇り高き雑音風景である。
 彼等の音が、コンゴ名物としてすでにアフリカ中を席巻した感のあるコンゴルンバ、日本で言うところのリンガラポップスの持つ流麗さとはほぼ対極にあるガサツなものであるのも興味深い。洗練され過ぎた自国のポップスに対する”アンチテーゼ”の意図があったのか?いやいや、やりたいようにやっていたらこうなってしまった、天然と理解するのが自然だろう。

 複数の電化された親指ピアノが打ち出す複合リズムと、打ち鳴らされるパーカッション群。歌い交わされるコール&レスポンス状態の歌唱。音素としては極めて素朴なものの集合体とはいえ、出来上がってくるものは民俗音楽への回帰ではなく、その音楽の鉾先はあくまでも時代の最先端に突き刺さっている、そのありようが嬉しい。

 そして、そもそもが廃物利用臭い親指ピアノだが、それを取り囲む複数のパーカッションもまた、廃車の部品などを流用したリサイクルであり、それら楽器が勢ぞろいした有様は、結果としてガレージセールの風格を醸し出す。
 彼等の後ろの方につき立っている古めかしくも馬鹿でかいスピーカーは、どこかの建物にでも付帯していたものを再生させたのだろうか。そのスピーカーから、彼等は、おそらくは路上にあって、彼等の誇り高き騒音を街角に鳴り響かせてきたのだろう。25年にわたって。
 まさに路上に生きるバンドの心意気を背負ってそそり立つ、そのスピーカーのビジュアルがまた痛快である。このボロ市風ビジュアルをを押し立てつつ、世界の音楽シーンの一方の最先端に飛び出してしまった”KONONO No1”の奴等に拍手を!

 人類が核戦争によっていったん壊滅的打撃を受けて滅びかけ、が、やっとの事でその文明を再び旗揚げした瓦礫の町。そんなSF的場面に忽然と登場して、嵐の如くに演奏を聴かせ、またいずこへかと去って行く、そんな彼等の姿を、ふと夢見た。



悲運のポーランド・ロッカー

2005-09-22 03:51:58 | ヨーロッパ

 かってマイナーなロックを追及する者のうち、一部がはまり込んだ、”共産圏ロックの光と闇”というべき一連の伝説(?)があった。勝手し放題の西欧世界に比べ、ずっと国家からの規制の多かった共産圏においても、いやそんな状況だからこそ、表現の自由を求める若者たちの声はより熱く闇の中に響いていたのだ、などという伝説。どうやらベルリンの壁の向こうにもロックシーンは存在しているらしいのだが、なにしろまともに情報も入ってこない。伝説は増殖して行った。いやそれはロックファンの間にだけ見られた現象ではなく、作家五木寛之の出世作、”さらばモスクワ愚連隊”においても、息苦しい東西冷戦時代のソ連においてジャズに取り付かれた若者たちが送る日々の物語が描かれていたのだった。

 たとえば70年代の終わり頃においてそんな伝説を体現していたのが、チェコのアヴァンギャルドなロックバンド、”プラスティック・ピープル”だろう。当時、私が持っていた彼等のアルバムには「このアルバムの成立に助力のあった人々に捧ぐ」との献辞の言葉がジャケに記されており、伝説の雰囲気をいやがうえにも盛り上げた。政府から活動停止を命ぜられたチェコのロックバンドの演奏を収めた録音テープが、名も明かせない人物の手で国外に持ち出され、フランスを経てカナダでリリースが成されたのだった。当時、彼等に注目していたロックファンは、彼等の音楽ではなくその物語を聴いていた部分も相当にあった筈だ。

 その当時に私があるロック雑誌の記事で知ったポーランド・ロック界を代表する(らしい)ミュージシャンが、チェスワフ・ニーメン( Czesław Niemen )だった。当時のポーランドといえば、グダニスク製鉄所のストに端を発した国家の有り様の矛盾への非難があからさまとなっていた時期であり、ポーランド人民とその政府との対立は深刻な様相を呈していた。労働者の国のはずの共産国ポーランドにおいて、なぜ労働者たちがストを打ち、それが違法と断罪されねばならないのか、という問いは、後の東欧の大崩壊への予感を秘めて皮肉に語り継がれた。
 そのような時期に、ニーメンというロッカーは、その表現者としての絶頂期を迎えていたようだった。
 若々しい感性と優れた音楽性を存分に開花させたニーメンの作品群に、新しい才能を求めていた西欧のロックシーンも注目をし、ついには西ドイツや英国に赴いてのレコーディングを行う事となった。やがて出来上がるであろうアルバムは、全世界を相手にニーメンが打って出る最初の一撃となるはずだった。

 だが、まさに時代の風がニーメンに吹かんとしていた時、追い詰められたポーランド政府は各方面における”自由な表現”全般に圧力を加え始めていた。
 最初にそれは歌詞に対する規制となって現れたという。ニーメンのレコーディングしようとしていた歌詞の数々は反政府的表現との烙印を押され、封印を命ぜられた。ついにはいくつかの曲は演奏のみのレコーディングをするしかなかった。妥協に妥協を重ねざるをえなかった心労ゆえに、レコーディングは最悪のものとなってしまった。アルバムの出来は、そのジャケ写真に象徴されていた。アルバムのジャケではいつも快活な笑みを見せていたニーメンが、そのアルバムに限り、何かを失った者の空疎な表情を見せていたのだ。
 アルバムの不出来ゆえニーメンの西欧ロック界進出は当然の如く失敗に終わり、失意の彼はポーランドの田舎に引きこもり、世捨て人の生活に入った。

 などと知ったような顔をして書いているが、私はその時点のニーメンの音を聴いていない。ただ偶然手に取ったロック雑誌の、かなり思い入れ過多な書き手のレポートを、思い出すまま引き写しているだけである。
 私がニーメンの最新アルバムを手にし、彼の音楽世界に実際に触れるのは、その一年ほど後の事となる。

 あるレコード店のプログレ・コーナーで見つけたニーメンのそのアルバムは、1980年の制作となっていたような記憶があるが、もはや定かではない。私が読んだロック雑誌の記事が伝えるところの、ポーランドの政治情勢の激動を受けてニーメンの西欧ロックシーンへのデビューが不首尾に終った、その事件後に制作された盤であるのは確かのようだった。

 セピア色に彩色されたレコードジャケットではじめて見るニーメンの顔は、想定される年齢よりもずっと老けていた。痩せた顔をつば広の帽子と、そこからはみ出た長い髪が覆い、なにやら遥か彼方に、途方にくれたような視線をさ迷わせるその様子は、前世紀のロシア文学者みたいに見えた。聞いてみたニーメンの音楽も、その風貌から伝わってくる虚無感と同質の暗闇に覆われたものだった。

 音は、自身の奏でるシンセサイザーの多重録音のみで他のミュージシャンはまったく使わぬ宅録状態。その、閉ざされた迷宮を想起させる曲がりくねった音の狭間で、おそらく若き日にはレッドツェッペリンのロバート・プラントあたりに影響を受けたのではないかと想像される甲高く張り詰めたボーカルが鳴り響く。歌われるスラブ風といえばそう聞えないでもない暗めのメロディも、やはり袋小路で立ちすくむ孤独な行き場のない魂の激情の吐露、そんな風に伝わってきた。
 収められた曲はすべてポーランド語で歌われ、また、ポーランド直輸入盤であるそのジャケにもポーランド語の解説しか記されておらず、各曲の意味するところは分からず。ただ一曲だけ英語の副題が「戦争で死んでいった子供たちのために」と添えられているインスト曲の哀切なメロディが心を惹いた。

 そのアルバムを聞く限りではニーメン、確かに本物の才能の輝きを持つミュージシャンであると判断してよさそうだった。だが、いかんせんその音世界は自閉的で、何の愛想もないものだった。それが、かのロック雑誌が語っていた、”自国の政治情勢に翻弄された悲運のミュージシャン”としての経験が生み出した鬱屈によるものか、それともそれがもともとの彼の表現者としての資質であるのか、そこまでの判断は出来なかったのであるが。
 私はそのアルバムを、2~3度聞いただけで手放してしまった。優れた音楽性を窺わせはするものの、やはり、愛せる作品とは言い難かったのだ。

 唐突で申し訳ないが、時はいきなり20年ほど流れ去る。昨年の春頃だったろうか、時たま利用しているプログレ専門通販レコード店のカタログに私は、一枚だけアルバムを手に入れ、が、すぐに売り飛ばすという不幸な関係を持ったままだったミュージシャン、ニーメンの箱入り何枚組みかの作品集を見つけたのだった。

 おやおやそういえばそんなミュージシャンもいたな。なるほど、彼はその後、”それなりの大物”としてのポジションを確立し、こうして集大成的ボックスセットも出たという訳だと、私はそれなりの感慨を覚え、商品解説に目を通したのだが。そこにはニーメンの訃報が記されてあったのだった。死因も、享年も分からず。ただ、ミュージシャンが死し、その業績を伝えんとして今回、ボックスセットが世に出された。それだけの事実が、そこには記されていたのだった。

 その音楽家としてのキャリアから推察するに、50年になるやならずや、といった生涯だったろう。その生涯、本当のところはどんなものだったのか。遠く遠く、何の情報も伝わってこないに等しいポーランドのロックシーン。彼は、たとえばあの80年代末の”東欧諸国の一党独裁政権将棋倒し”などを、どのような思いで見守っていたのだろうか。かのロック雑誌が伝えていた”悲劇のミュージシャン”物語がどこまで事実か、それさえも今だ私には分からぬままである。

 ともかく。なるほどなあ、そういうことになっていたのかと私はカタログを閉じ、そして自分の日常に帰っていったのである。


青いプラトーク

2005-09-21 01:19:58 | ヨーロッパ

 ”青いプラトーク”いかにもスラブ風とでも言ったらいいのか。短調の、憂いに沈んだ美しいメロディのワルツである。1940年、祖国をナチスドイツに占領され、モスクワに逃れたポーランド人ジャズマンが、ロシアの詩人、ヤコフ・ガリツキィの詩に触発され、曲をつけた。
 やがて歌詞は前線で戦うソ連軍中尉により、戦地で恋人を想う兵士の心情を歌う内容へと改まり、また人気歌手、クラウジヤ・シュリジェンコがこの歌を取り上げたこともあり、これが人心をとらえた。戦時下のソ連の民衆の間で大ヒットとなり、「ロシア版リリー・マルレーン」などとも言われているそうな。

 私の手元にあるのは、ロシア文化研究家であり歌手でもある山之内重美氏が80年代に出したアルバム、「青いプラトーク」のCD再発盤である。山之内氏はどちらかといえばクラシックの系列の歌い手であり、ソプラノを甲高く張り上げ、かつ、かなり感情を込めた歌い方をする。どちらかといえば私の好みの歌い手ではないのであるが、そのような、言っては悪いが時代錯誤気味な歌唱の方が、戦前のロシアの雰囲気を濃厚に伝えて来るようにも感じられ、これはこれで例外的に好ましいものと納得している。

 妙な話の展開となってしまうが、私の亡父は第2次大戦末期、兵士の身分のまま当時の満州においてロシア語学校に通っていた。とにかく一兵卒として上官にいじめられながら過ごす日が辛くてならなかったので、軍隊内で対ソ連工作のためにロシア語を学ぶ語学生が募られた際、「英独仏三ヶ国語が話せる」と嘘をついて、一時的に軍隊を離れられる”学生”の身分を手に入れた。実は父は三ヶ国語どころか外国語などまったく話せなかったのだが、そんな嘘を見抜くこともあたわぬ状態だったのだろう、当時の日本軍は。

 それにしても、父がそのような策略を弄して学生をやっている間にソ連は日露相互不可侵条約を放棄して日本に宣戦布告、国境を越えて満州に攻め込んできたソ連軍と満州駐留の日本軍とが戦闘になり、父の所属していた部隊はほぼ全滅してしまったというのだから、そこまで計算はしていなかったろうに、運の良い話だ。しかも、日本の降伏時には病を得て中国は南京の病院に入っていたため、例のシベリア送りにもならずに帰って来れたのだから、ますます。

 父がロシア語学生時代の思い出話をするのを、あまり聞いたことがない。その片鱗とも言うべきものをうかがわせたのは、ある宴席で廻ってきたマイクを手に、唐突にロシア民謡を歌い出したのと、書店に行った際、「昔俺は、この言葉を習っていたんだ」と、ロシア語学習書を気まぐれに買ってきたこと、この2度だけである。学校の様子やら学友にどのような者がいたのかなど、まったく聞いたことがない。思い出話のネタにもならない空疎な”学生生活”だったのかと推測している。

 で、ときどき私はあてもない空想をするのだ。もう少し戦争が長引き、父の”語学学習”が完成してしまっていたらどうなったのか、などと。そしたら私は、任務に就きソ連領内に潜入したまま戦後も日本に帰れなくなった父とロシア人女性の間に生まれたロシア国民となり、バイカル湖のほとりかなんかに今頃住んでいたのではないか、などと。

 あるいは、父が教室で奇妙な形象のキリル文字やらロシア語の文法と格闘している、ちょうど同じ頃、シベリア鉄道を東に向かう何両も何両もの軍用列車を空想する。そこには対ドイツ戦に勝利し、やっと平和な故郷に帰れると思ったのも束の間、またも東方への進軍を命じられた何千何万の完全武装のロシア人兵士たちが席を埋めている。彼等は一様に黙りこくり、胸内で一人一人が彼等なりの”青いプラトーク”を歌いつつ、自分たちを新たなる戦場へと運んで行く列車の揺れに身を任せている、そんな風景。
 父が縁もゆかりもないロシア語を学ばねばならぬ理由も、ロシア人たちが見たこともない東方の地へと進軍せねばならない理由も、もちろんありはしなかったのだ。

覚えているよ今も 最後のあの夜
君の白いうなじすべり 落ちた青いプラトーク
いま 遠く 遠く離れても
残り香に君しのぶ この青いプラトーク

いとしい君の便り 胸に押し当て
よみがえる優しい声 熱きまなざし
戦さ 果てぬ 兵舎の窓辺に
今宵また君の名を 指でたどらん

(作詞・M・マクシーモフ、訳詞・山之内重美)