「なんだって世界の共通語が英語なんだよ」「だって、最も使われている言葉だから」「けっ、残念でした、もっとも多くの地域でもっとも多くの人々に使われているのはイスラムの言葉でした」なんて会話を聞いた事があるのだが、イスラムのポップス世界もまた広大にして多様だ。フルストリングスの響きも華麗にして妖艶な湾岸諸国の格調高いポップスもあれば、なかなかにテンション高いトルコの歌謡やアルジェリアのライの斜に構えた魅力もあり、サハラ砂漠の砂が吹き寄せるようにハードな手触りが印象的なモロッコのポップスあり。
そんな中でエジプトのポップスには、他人の家の電気釜の中身をふと覗き込んでしまったような、ある種気恥ずかしくも生暖かいドメスティックな響きを持つものが妙に目立つような気がするのは、私がそんな面ばかりに注目しているせいか?かの国の男性歌手ナンバーワン、”ライオン”とあだ名されるハキムあたりの歌声にもワイルドな中に、そんな独特の暖かさが潜んでいると私には感じられてならない。
何の資料もなく、ジャケ写真から想像するに現地の中堅歌手といった年回りなのだろうと想像するくらいしかないハミド・アル・シャリが1997年に出したアルバム、”AINY”も、私が思う”エジプトの生暖かさ”が横溢した作品である。
民俗パーカッションが鳴り響き、イスラム風のこぶしが大いに廻る伝統色の濃い作品もあれば、ストリングスをバックの欧米風のバラードも有りといった具合で、内容は相当に統一感のないものになっている。厳しい審美眼の持ち主からは、これだけで民俗ポップス失格の烙印を押されてしまうだろう。
だが、すべての作品を覆う、なんともいえないモッタリマッタリとした、どちらかといえばドンくさい感性が逆にアルバム全体に気のおけない親しみを与えている。いや、これだってあんまり誉め言葉ではないが。いや、そんな情けない良さがなぜか楽しい作品なのである、このアルバムは。
そのやや中性的な歌声も、音だけなら若い男性アイドルにありがちなと取れなくもないが、ジャケ写真の小太りの中年男ぶりを記憶に残しつつ聞いていると、”男のオバサン”的な滑稽さをむしろ振りまいていると感じさせてしまったりする。そこがまた楽しい。
ともかく盤のあちこちに、エジプトの庶民の日々の飾らない生活の匂いが立ち上がっているようで、自分の選ぶ年間ベストアルバム10選に入れるとか、エジプト・ポップスを代表するアルバムとして人に薦めるとかは絶対にすることはないが、妙に憎めず手放す気にはなれない、そんな作品だ。
それにしても同じアラブ世界でもエジプトのものばかりに、こんな生暖かさが見受けられるのはなぜなんだろうな。これが不思議なのだが。