ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

終わりの予感とJPN

2012-01-31 22:09:57 | その他の日本の音楽

 ”JPN”by Perfume

 この場で韓国のポップスについてなど時々書いているせいか、「最近の少女時代とかの軽薄なK-Popののさばりようには腹が立つでしょう」とか、たまに言われることがあるのだが、別に何も腹は立たない。
 こちとら根っからのアイドル・ファン、その種のものがどんなにくだらなかろうが腹を立てたりするものか。当方が無条件で罵倒することにしている音楽は、とりあえずラップだけなのである。

 そんなわけで我が国の誇るアイドルグループ、パフュームの新譜の出来にも、それは気になるものだったりするのである。
 もっとも、アイドルとしてのパフュームの個性はともかく、そのサウンドに関しては以前より大いに文句があるのはご承知の通り。ともかく、あんなにハードな”テクノの音”があるもんか。
 テクノなんてものは薄っぺらなオモチャの音楽が本質なのであって、安物のドラムマシンがリズムを刻めば十分。なのに、ドカドカドスドス、やかましいドラムセットの音がど真ん中に鎮座ましますパフュームのサウンドのどこがテクノかね。また、何かというと耳をつんざくギターソロがでかい顔をしてソロを取る。あれではシンセ多用したハードロックバンドの音ではないか。

 なんてブツクサ言いながらもCD買っちゃうんだからファン道は険しい。まあ要するに、パフュームのキャラも唄も好きだが、そのサウンドは納得できない、ということなんだけど。とはいえ、そのキャラ設定やら歌声も、その嫌悪すべきサウンドを作っている奴のプロデュースになるものなんだから、こちらの気分もますます複雑で、自分でも何考えているのやらようわからん。
 そんな狂おしい存在であるパフュームが、なぜか2年数ヶ月ものブランクののちに世に問うたのが、今回のこのアルバム、”JPN”である。ミュージックマガジンのクロスレビューでは結構評判悪かったみたいな(立ち読みしかしていないので、評価の詳細を知らず)この盤であるが、私は妙に気に入ってしまっている。

 これまでの盤にはなかった、微妙な陰影が感じられるサウンドの作りに魅入られてしまったのだ。
 とりあえずサウンド。まず、あのやかましいドラムがやや抑え気味となり、時にリズムボックス的な音の刻みとなる箇所もあり、そうかそうか、このなんたらいう名のプロデューサーも、もしかしたら根っからの悪人ではないのかも、などと思えて来たりするのだ。
 三人のコーラスと、”ただのキーボード”仕様のフレーズを奏でる鍵盤群とがひとかたまりになってリズムの中を縫い進み柔らかな流れを織り成して行く、みたいな響きが新鮮だった。若干の湿り気をはらんだ”気配”としか言いようのないものが、風の姿をして、そこに吹いている。

 そいつは例えば夏の終わり、まだ盛んな日差しの下にふと忍び寄る秋の気配の風、みたいなささやかな、でも決定的な終わりの感触。それを正体も分からず感じ取ってしまうことの喪失感。
 そいつは今は、”Have a Stroll”の主人公が買いに行ったプリンの数が足りなかった、なんて形でしか、しかと確認できる姿の現し方をしていないが。その喪失はいずれ全世界を被ってしまうだろう、そのような予感。あるいは。ドライにオシャレな騒ぎを繰り広げているつもりでいて、でもいつの間にかあたりを細かい霧雨が覆ってしまっているような”575”で歌われている情景を見れば、”それ”はもう始まっているのかもしれない。

 自分が何を予感してしまったのか自分でも分からぬまま、心の隅に生じてしまった喪失への不安や、失われるであろうものへの哀惜を歌う。そんな風が吹いているから、私はこのアルバムに惹かれてならない。気になってならない。作る側は多分、そんなものを作ってしまったとは自覚していないだろうけれど。





ノルディック、北のふるさと

2012-01-29 18:12:18 | ヨーロッパ

 ”Sarastus”by Rija

 何が驚いたと言って、急転直下、母の退院が決まったのには驚いた。週が開けたら、家に帰ってくる。
 昨年暮れ、救急車で母を病院に連れていった際には担当の医師から、「お母さんから以前より、”いざというときには、積極的延命処置は行わない”との要望を受けているのですが、ご家族の方も、それでよろしいですか?」なんて訊かれたものだった。それほどの症状だったと考えていいのだろう。それが意外に順調に。
 まあ、治ったといえるのかどうか。医師の説明のニュアンスから想像するに、「完治したと言えるほどでもないんですが、医学のやれることはここまでで。あとはご自身の回復力ということですね。まあ、だいぶご高齢ですしねえ」というところではないか。

 母をあずける予定でいた老人向け療養型病院はただいま満杯の状態で、順番待ちの列も長く、いつ入れるのか分からないという返事。まあそれまでは家に引き取っておきましょ、という次第なのだが、とりあえずの処置とはいえ家に帰れると決まってからの母がめっきり明るく元気になった様子など見ていると、よほど施設には入りたくなかったんだな、口には出さなかったが。
 それならいっそこのまま、どこまで行けるかやってみるかと思いかけているが、これはどの程度、無茶な考えなのか。なにしろ引き取り先は満員であり、とりあえずはそうするよりないのだが(結構気難しい母であり、どこの病院でもいい、というわけには行かないのだ)この”とりあえず”をいつまで続けるのか。そして母の”小康状態”はどこまで。冬空に重苦しい雲が下がって、先は見えない。

 本日の一枚。フィンランドの、土着志向らしき女性歌手。ジャケには副題のように”ノルディック・ヴォイス”と記されてあり、北欧独特の歌唱法を指すらしい。それが彼女の”売り”のようだ。

 聴いてみると、いわゆるトラッドの歌手とケイト・ブッシュみたいな不思議ちゃん系歌手の要素が混在した感じで、”ノルディック”の実態はよく見えない。超高音でヒラヒラ歌ったり、モンゴルのホーミーみたいな人力エフェクターを披露してみたりするが、明らかなノルディックの証しみたいなものはあるのだろうか。
 それでも、いかにも北国の音楽らしい陰りや神秘性などはそれなりに漂い、ワールドミュージック欲求は一応、満足させられる。
 伴奏陣も、ハープギターなどという珍しい楽器を動員したり、曲のあちらこちらに中世ヨーロッパっぽい雰囲気を盛り上げるフレーズを挟み込んだり、なかなかの凝った仕事をしている。

 ただ、彼女の母国のフィンランドの言葉は2曲でしか使われておらず、あとは英語の歌詞であったり、それほど濃厚に北欧志向の音楽性が披露されるわけでもなく、むしろあまりマニアックにならずに万人に、北欧の森と伝説の神秘を楽しんでもらおう、なんて意匠で作られた作品のようだ。収められた曲には、”スカボロー・フェア”みたいな曲調のものが多く、このあたり、汎ヨーロッパ的意識における”北のふるさと”のイメージかとも思う。





我が青春のアポストリア(?)

2012-01-28 00:42:51 | ヨーロッパ

 ”Th Afisi Epohi”by Apostolia Zoi

 これはいいや。もしかして今まで聴いたギリシャもののアルバムの中で、これが一番好きかも知れない。とか言ってしまう。
 ともかく、ギリシャ歌謡に60年代イタリアのカンツォーネの甘く切ないメロディが混じり込んだみたいな曲調の冒頭の一曲だけでも、そう言い出す理由として十分な気がする。ギリシャのライカから、こんな青春の甘酸っぱい感傷を受け取る日がこようとはねえ。良い曲だわ。

 曲調だけでなく、歌い手のZoi嬢もまた、歌う青春スター(?)の雰囲気十分の可憐な歌声で、これがまた切ないのですね。
 後に続く曲は、いつもの喉を締めたテンション高い歌唱が似合うアナトリア調(?)のメロディなんだが、その種のものも彼女が歌うと、ずいぶん透明度が増して胃にもたれない感じだ。

 とか言っていると、アコーディオンが入ったりブラスが聞こえてきたり、やや曲調の変わってくる中盤あたりから、Zoi嬢の歌唱は肩の力が抜けた感じで、ラフに歌い飛ばしたりもし、いかにも”自分の土俵で勝負している”って感じになってくる。
 もしかして彼女はライカ本流の人ではなく、このへんがメインの歌い手なのかも。ほかのアルバム、あるものなら聴いてみたくなってきた。後半に展開される世界、なんかワールドミュージック者の血が騒ぎます、この一枚。

 それにしても、”後半に”とか”このへん”とか表現がパッとしなくて、情けないなあ。デモーティカ風になる、とかいえばいいのかもしれないけど、その種の区別、結構ついてません。「聴いて楽しけりゃそれでいいし、ジャンルのレッテル貼り分けなんてどうでもいいさ」とかうそぶいていた報いだな。
 とか言いつつ、たいして反省もせずに次へ。



ロシアの、冬のインナ

2012-01-27 04:02:17 | ヨーロッパ

 ”WINTER”by INNA ZHELANNAYA 

 ロシアの民族音楽の今日的展開、というシーンにおいては、最も尖った場所にいるのではないかと思われる、女性シンガー、インナ・ジェランナヤの2006年ライブ。この人の最新作(といっても2009年作だけど)は、以前、この場でも取り上げた。

 ジャズっぽいエレキ・ピアノの朦朧としたフレーズに導かれて、迷子になった幼女の呟きみたいにこころもとないフレーズを唄いだすインナ。が、いつの間にかそれはロシアの広漠たる大地にこだまするパワフルな叫びとなって行く。
 バックバンドは、これは普段プログレでもやっているバンドなんだろうか、相当なテクニックを秘めつつ、蛇がうねるようなファンク・リズムを織り成す。基本、ジャズ寄りのロックの音で、民族音楽の色は、ほぼない。

 そいつに乗って闇のメロディを唸り叫ぶインナの歌声は、古代のシャーマンにでも憑依されたような、研ぎ澄まされた狂気。ジャンル的に民謡、とは言うものの、ここにはそのような民衆の日常生活の臭いはなく、むしろ個人の魂が孕んだ悪夢の記憶の再現かと感じられる。
 民衆が広漠たるロシアの大地に繰り広げた恐怖と錯乱の曼荼羅が、依り手たるジャンナの声を借りて、中空に泥絵具のような色彩で提示される。

 このロシアの夜は深く濃く長く、インナが「スパシーボ」とつぶやいてステージを降りても明けることがない。




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シマウマ舎の20億光年

2012-01-25 03:58:52 | エレクトロニカ、テクノなど

 ”We Are All Alone ”by SIWARAINBOW

 韓国のエレクトリック・ミュージックのクリエイターRAINBOW99と、ユニークな女性シンガーソングライターSIWAとの、2年ぶり2作目のコラボレーション作品。とか知ったふうなことを言ってるが、実は一作目は聴いたことがないし、そもそもこのユニットについて詳しいわけでもない。
 ただ、色とりどりのピンポン玉が弾んでいるようなカラフルで楽しげなジャケに飾られ、” We Are All Together”と題された一作目のジャケの夢いっぱいの雰囲気と、今回のアルバムのそれとの落差が、妙に心に残ってしまったのだった。

 今回のアルバムタイトルは、”We Are All Alone ”と、一作目とは真逆の意味になっている。そしてなにより、意味不明だが、なんとなくヤケクソっぽいイメージを伝えてくる、シマウマのジャケ写真が気になってならない。人類皆が手をつなぎあったピンポン玉弾むパラダイスに発し、動物園のシマウマ舎に至る・・・どういう道筋なのかね、二人がこの2年間で歩いてきたのは。

 作法通りの打ち込みのリズムと、SIWAの呟くような、自らに言い聞かせるような内向きの歌声が、電子楽器の響きに乗って流れ過ぎてゆく。SIWAの歌声は、ことさらテクノを演ずるでもなく、リズムが高揚しようとも激するでもなく、クールにマイペースを守る。
 透明な悲しみを孕みつつリズムは弾み、孤独な遊び歌のような旋律を辿りながら、歌声は流れる。

 SIWAのアルバムは一枚聴いたことがあるのだが、生ギター弾き語りをメインに、民話調の不思議に懐かしいメロディを語りかける物静かな世界だった。エレクトロニクスのミュージシャンとの共演が意外に感じたのだが、こうして聴いてみると、その物静かな語り部の語り口は、たった今流れ過ぎていった人類の運命を、遠い過去の記憶として語り起こす作業には、むしろピッタリなのかもしれない、などと思えてくる。

 終わり近くに収められた気になるタイトル曲は、多重録音による鍵盤群とコーラスによる歌詞を持たないミサというか賛美歌めくボーカリーズ曲で、どことなく鎮魂歌と聴こえなくもない。その直後に位置する、「鳩 牛乳」なる奇妙なタイトルの歌。遠く聞こえるのはシンセで模した記憶の中の動物園の喧騒だろうか。
 昼下がりの動物園で握りしめる苦い思い。長い道のりをやってきた我々は皆、一緒にいるのか、それともひとりぼっちなのか、この終着の浜辺で。シマウマ舎で。



岸井明色の月の下で

2012-01-23 21:47:42 | ジャズ喫茶マリーナ

 ”歌の世の中~岸井明ジャズソングス”

 岸井明の名前は私の場合、片腕欠次郎さん(仮名)の思い出とワンセットとなって意識に登ってくるのだった。
 欠次郎さんは60年年代末、我が街に突然、非常にえぐい形でゲテモノラーメン店を出店し、永遠の午睡の夢にまどろんでいた田舎の温泉街にちょっとしたショックをもたらした。
 そのエグい手描きの煽り文句が貼り出された屋台を、街の大人たちは通りすがりにこわごわ覗き込み、私も、「あんな気持ち悪い店を営業している人物とは、まさに人外境からやって来た魔人のごときもの、おそらくその目で地獄を見たこともある人物に違いない」などと悪夢を育んだものだ。

 月日は流れ。その店はやがて、屋台から近くのビルのテナントに入り、より常識的な姿で新装開店という方向で街の風景に溶け込み、そして店を息子に譲り、隠居生活に入った店の創業者である欠次郎さんと私は、ひょんなことから飲み友達となっていたのだった。

 若き日は浅草でモダンボーイとして鳴らしたという欠次郎さんは酔っ払うと、昔、山下敬二郎のバックバンドにいたという、近所の飲み屋のマスターのギター伴奏で、”あきれたぼういず”のネタを延々と再現してみせるのが常だった。
 誰にも理解されることなくそんな自己完結芸に毎夜興じていた欠次郎さんに、ある夜、エノケンのモノマネで応じてくる者が現れた。そいつがつまり私だったという次第で。その夜以来私は、父親よりも年上の欠次郎さんの虚構の同級生として、見てもいない戦前の日本の芸人たちの思い出話に興じてみせる日々を送る事となったのだった。

 深夜、飲み疲れて家に帰る欠次郎さんの姿を見かけたことがある。もともと、体に非常に目立つ欠損がある欠次郎さんだったが、それ以外にもしばらく前に患った脳卒中の後遺症で半身の不自由な欠次郎さんはなんと、地面を這いながら夜の飲み屋街を移動していたのだった。それまで、飲み屋の席に座っている彼の姿しか、知らなかった私だった。月の光に照らされてその姿は、まるで江戸川乱歩の小説の一場面かと思えた。
 一緒にいた友人は息を呑み、「凄げえや。酒飲みのカガミだな」と呟き、私もとりあえず頷くことしか出来なかった。
 今思えば、その体の欠損の生じた理由、などというものはともかく、彼が青春を燃やした戦前の浅草のありようなど、訊いておくべきものはいくらでもあった。が、欠次郎さんと私は、顔を合わせるともう何度も繰り返している懐メロ芸の応報に終始し、ただ際限もなく酒の海に溺れてしまうのだった。

 そんなある日。欠次郎さんから私は一本のカセットテープを手渡された。家に帰って聞いてみるとそれは、欠次郎さんが秘蔵のSP盤からダビングしてくれた彼の特選ジャズソング集だった。片面に二村定一、片面に岸井明のナンバーが収められていた。
 二村定一は既におなじみだったが、岸井明に関してはそれが初対面だったはずだ。 一聴、完全に魅了された。戦前の日本にこんな洒落たジャズが、と舌を巻くしかない伴奏に乗って、飄々と、まさに”軽妙洒脱”と言う言葉そのものみたいに岸井は歌っていた、”ダイナ”を、”月光価千金”を。まいった。こんな”ジャズ”歌手が戦前の日本にいたのかよ。

 余談が長過ぎた。出たばかりの岸井明の2枚組CDの話をしよう。改めて聴いてみると、やはり素晴らしいジャズ歌手だと思うし、欠次郎さんのセレクトも的を射ていたとも思う。岸井明の残したほぼすべての作品群をこうして聴いてみると、歌唱、バックのサウンド共に、あのテープに入っていたものがやはり、岸井のベスト作品と再確認出来たからだ。CDの解説を読むと、それらの曲は当時映画音楽で売ったPCL所属のジャズバンドのコンサートマスター、谷口又士のアレンジになる5曲が特に卓越とあり、やはりそのあたりが最も岸井がジャズ歌手として高揚していた瞬間と言えるのだろう。
 それ以外のレコーディングももちろん楽しいものなのだが、”その5曲”が素晴らしすぎる、という話だ。ジャズとして天上の調べを奏でている。

 ”舶来ヒットソング”の楽しさに比べ、CDの2枚目に収められている和製ジャズソングは、私にはややきびしかった。というか、そもそも岸井はこのような”コミックソング”で良さを発揮する歌い手ではないのでは、という気がする。基本、彼はコメディアンだったのだから、お笑いソングを歌うのは当たり前の営業だったのだろうが。
 歌手・岸井明の本領は美しいメロディの切ないジャズ小唄を軽く歌い流す、という辺りにあると確信する。
 懸命におどけてみせるのは、歌手としての彼の個性に合っているようで、実は違うのではないか。などと言ってみても今更どうなることでもないが。
 そんな次第で、やはり一枚目の舶来ヒット集を何度も聴いてしまうのだ。それにしても、”ホノルル・ムーン”なんて歌ってくれていたとはなあ。この曲、大好きなんだよ。などと言いつつ。

 欠次郎さんが亡くなって、もう何年になるだろう。彼とアルコールの海の中でジャズソングを歌い交わしていたのは、考えてみればもう20年以上前の話である。今、彼のラーメン店はビルのテナントから姿を消し、それがあった場所には若者向けの居酒屋が店開きしている。
 当時の飲み仲間も四散し、あの頃の思い出は幻か何かとしか思えなくなっている。この場末の観光地を照らす月の光は、今でも変わらねど。




”アラビアの唄”が流れる街角に

2012-01-22 03:02:41 | その他の日本の音楽

 さて、そろそろ二村定一の決定盤CDが発売されるということで、ついでといってはなんだが、彼絡みの話題など。
 これは以前から気になっている事なんだけれど、彼の大ヒットナンバー、「アラビアの唄」に現れている”アラビア音楽”のありようというもの、歌の発表された昭和の初め頃の日本の大衆には、どのように認識されていたんだろう?それが気になる。 どうでもいいことをと笑われるかもしれないが、ワールドミュージック者としては、気になってしかたがないのだ、これが。

 ”アラビアの唄”の歌詞に現れている”アラビア音楽”の姿は、「あの淋しい調べに今日も涙流そう」というくらい哀愁に溢れたものである。今日、部屋の片隅にアラビア方面のポップスのCDを積み上げている者としては、その音楽としてのイメージを言葉にすれば、官能的とか神秘的とか扇情的とか言う感じになるのだが、あのイスラミックな音階を短調っぽくとれば、「流れくる淋しき調べ」という解釈も納得できないものではない。
 それにしても当時の日本人がアラブ世界にどれほどの知識をもっていたのか?と思えば、それは大したことないものだったろうなあ、と考えるしかない。今日だって、特別興味をもっている人以外は何も知らないに等しいでしょ。いわんや、昭和初期においておや、ということで。

 それでも、この歌の紹介者であり日本語歌詞の作詞者である堀内敬三は、「あの淋しい調べに涙を流そう」と書いたのだ。優れた大衆音楽の作り手だった堀内が、彼なりに時代の空気を読んでそのように書いたのだ。なにごとか、そのように定義してしまっても通用するようなものが日本の大衆の認知の内にあったのではないか。それについて知りたい、というのが今回の文章の主題なのだが。

 当時のアラブ世界自体がどのような状況にあったかと言えば、まさにアラブ世界のど真ん中を支配していたオスマン・トルコ帝国が第一次世界大戦の結果、崩壊し、その後の利権を求めてハゲタカの如くに襲いかかったイギリスやフランスが自分の都合であちこち勝手に国境線を引き、傀儡の王を即位させ、今日のアラブ紛争の種を巻きまくっていた時代となる。
 あるいはそのような世情が影を落とし、おそらくは興味本位な偏見だらけの報道やら、時には活劇映画のタグイなどが我が国にも流入し、なにがしかのアラブに関する断片的なイメージが一時的にせよ流布していた、などという事実もあったのかもしれない。

 活劇映画と言えば、そもそも”アラビアの唄”はアラブを舞台にしたアメリカ映画の主題歌として作られた歌だった。だが映画は本国では全くヒットせず、その主題歌のみが日本でヒットする、といった変則的な経緯を辿った。
 その映画がどのようなものだったか、そして肝心の”アラビアの唄”の原詩はどのようなものだったのか、そいつが激しく知りたいと思うのだが、これがいくら検索してもさっぱりヒットせず。
 スッキリしないなあ。この辺に興味をもった人はいないんだろうか。当時のアメリカ人によって書かれたオリジナルの英語歌詞では、”寂しい調べに”のくだりは、どのようになっているのだろう。日本語詞と同じようなものか、それとも元はまったく別の内容のものなのだろうか。クセモノの堀内敬三の訳詞作業ゆえ、どのようなケースも考えられ、こいつは現物に当たらねばなんとも言えない。

 などといいつつ。昭和初期のわが国の庶民の心の片隅をかすめ、街角のどこかに、陽炎のようにかすかに流れて消えて行った・・・のかもしれない、なんとも儚い”アラブの音楽”の幻影が、やっぱりなんだか気になって仕方がない。




イスタンブールの万華鏡

2012-01-21 03:08:23 | イスラム世界

 ”Hazine”by Zara

 例の大震災や原発事故などに関わるニュースなどに接し、抱えてしまったやりきれない気持ちが、トルコのポップスを聴くことによっていくぶんか和らげられる事実があり、おかげでそれまではさほど強力な興味の対象ではなかった筈のトルコのポップスの盤がジワジワと我がコレクションの中で増えていった、なんて小事件があったのだが。
 その後もトルコの音楽は聴き続けてはいるのだが、忸怩たる思い、というのか、こんな聴き方をしていていいのかと、何か間違ったことをしているような、またこれでいいような、落ち着かない気持ちが常につきまとう部分があるのである。

 なんか変だな、という気持ちの一部には、トルコの歌姫諸嬢におかれましては、やはり聴きごたえのあるCDをリリースするくらいの実力派ともなるとそれなりの年齢を重ねた向きも多く、その種の盤のジャケを並べてみると、自分が熟女好きの趣味がある、みたいな感じになってくる事への納得のゆかなさ、というのもある。それは違う、私はむしろ若いね~ちゃんが好きなよくいるオッサンなのだ、と

 その件のみで言えば、今回取り上げるこの盤は、なかなか典雅な”おね~ちゃんの歌声”の楽しめるありがたい盤となっている。ジャケ写真も聞こえてくる歌声も、若い女のそれなのである。
 そうは言ってもトルコの盤、やはり基本はテンション高い張り詰めた歌声なんだが、ときに、フッと終わりのフレーズを飲み込むように収め憂い顔を伏せる、みたいな”引き”の技など使うのだな、Zaraは。

 長い、意味有りげな前振りの文章の帰着するのがこんな話で、まったく申し訳ないのだが。
 今回のこのアルバムのタイトルは、”宝物”という意味なんだそうな。そういえばジャケのあちこちに黄金色が使われているし、歌詞カードの文字もページのフチの飾りも全て金色が使われていて、豪奢な体裁となっている。
 演じられる音楽も、繊細な細工を施された伝統的工芸品のような優雅な輝きを放っている。浅学ゆえ、取り上げられている歌のバックグラウンドがどんなものなのか、知識がないのが残念なのだが、特別な曰くのある楽曲を集めたものなのだろうか。

 アコースティック主体のバッキングはピタリとZaraの歌声に寄り添い、漆黒の闇の中を黄金色の流線型が走り抜ける、みたいなシャープな切れ味を見せ、主役とタメを張る煌きを見せてくれる。
 良いです。上品な作りの万華鏡を覗く感じの素敵な美しさだ。
 



その男パパゾグル

2012-01-20 02:39:59 | ヨーロッパ

 ”Imoun Ki Ego Ekei”by Nikos Papazoglou

 ネットに上がっていたこのジャケ写真を見て、うわあ、うさんくさそうなオヤジだなあと。”食えないオヤジ”ってのはこういう御仁を指すのではないかなんて、まだ彼がなにものであるかも分からないうちに決め込み、そんな奴の音楽はきっと面白いに違いないと無謀にもCDを買い込んでしまったのだった。大正解であったのだが。
 1948年、ギリシャはテッサロニキの生まれで、シンガー・ソングライター。どうやら昨年、亡くなったらしい。今のところ、このオヤジに関して分かっていることはそのくらいしかない。

 ニコス・パパゾグル。と、その名は読むらしい。
 彼の音楽はギリシャの民族楽器を多用した、やや隙間の多い緩めのサウンド。基本的にはギリシャの伝統色濃いものなのだが、それに耽溺するよりむしろ逸脱を好むようだ。そのメロディは隙を見てはスルスルと万国の庶民が共有する歌謡曲の水脈みたいなものに合流しようとする。

 そいつは裏町のワールドミュージック、そんなものに反応してもインテリの音楽ファンには馬鹿にされはしても決して褒めてはもらえない”各民族の次元の低い層が共通して好み求めるド歌謡曲”の水脈の臭気を放つ。
 もちろん当方としては、その泉を魂のうちに秘めているミュージシャンは超特急の扱いとさせていただく。
 融通無碍。実に自由な感性でギリシャ音楽を操り自らの思いを空と大地の間に放っていた人、なんだろうね、きっと。

 キャリアとしては結構長く、いわゆる業界の酸いも甘いも味わい尽くしていたんじゃないだろうか。性格は人懐こそうにも気難しそうにも見える。そのファッションに過ぎし日のピッピーの魂へのこだわりの残滓が見える。以上、すべて憶測。

 歌詞内容が、なにしろギリシャ語なんで一言も分からないのが残念だが、スッと澄んで神様との対話も叶わんかなんてレベルに行くかと思えば急転直下、庶民の猥談のレベルに堕ちてゆく、なんて間合いを聴いていて感じないでもない。聖と俗の合間をヒラヒラ飛び回るみたいな感性を帯びていた人なんではないだろうか。
 うん、オヤジ、気に入った。縁あって手に入ることがあれば、他のアルバムも聴かせてもらうよ。、




追悼・布谷文夫

2012-01-19 12:33:03 | 60~70年代音楽

 初代ブルース・クリエイションを振り出しに、日本ロック界のある意味極北を歩き続けていた男、布谷文夫がこの15日、亡くなていたようだ。脳溢血だったそうな。
 まだ亡くなるには若過ぎるのは勿論だが、我が青春時代の結構アイドルだった人で、あの岩石みたいな歌声で歌われるブルースをまだまだ聴きたかったのに、無念である。
 なにしろ知らせを聞いたのがこんな時間であるし、そもそも冷静に追悼文など書ける状態ではない。とりあえず、かって布谷が率いていたDEWなるバンドについて以前、書いた文章などホコリを払って引っ張り出してお茶を濁しておく。(考えてみればこの文章だって、もう10年も前に書いたものだった。時は流れる。容赦なく流れる)

 グッバイ、岩石ブルース野郎。


 × × × × ×

 野音通いを続けておりますと、野音の「通」としての贔屓バンド、なんてえものが出来てまいります。知る人ぞ知る、みたいなバンドをつかまえて、「凡人には分からねえだろうが、アタシなんかはこの頃、あのバンドでなくっちゃあいけません」などと粋がったりする。当時の我々にとってはDEWなんてバンドが、それにあたりますな。(何故、落語口調になるのだ?止め止め)

 DEWとは、ブル-ス・クリエイションの創設メンバ-だった布谷文夫が結成した、ハ-ドなブル-ス・ロックのバンドなのだが、これが1度見たら忘れられない個性を持っていた。と言って、その「個性」はエグ過ぎて、一般的な人気に繋がる性質のものではなかったので、通ぶって贔屓にするには実に好都合だったのだ。

 どんな個性かと言うと、このバンド、楽器の音もボ-カルも、とにかく全てTOO MACHだった。すべての針が振り切れていた。誰かが布谷のボ-カルを「すべての音に濁点が付いている」と表現していたが、まさに彼はその通りの個性の持ち主で、そんなリ-ダ-の重苦しいケダモノのオタケビに引きずられるように、ギタ-もベ-スもドラムス(4人編成)も、地面をのたうち回るような臨界点ギリギリのブル-スを奏でていた。各人が力みすぎ、コントロ-ルが効かなくなって分裂する、その寸前で危うく踏みとどまっているような、そんな彼らの「やり過ぎ」のステ-ジ。我々は失礼ながら、そんな彼等に、「因果物」的な面白さを見いだしていたのだ。

 暗くなりかけた野音のステ-ジ、照明の中に浮かんだ彼等が演奏を始めると、そこだけ煮えたぎる坩堝に見えてきて、しかもそこから生まれ出るのは、ことごとく歪んだ鋳物ばかり。そんな彼らを我々は、こちらも負けずにオ-バ-過ぎる喝采を持って迎えたものだった。もちろん、そんな悪のりのカラ騒ぎをしているのは我々(注)だけで、隣に座った「凡人」たる他の客たちは、きょとんとして「有名なバンドなんスか?」とか尋ねてきたものだ。もちろん我々はにっこり笑って答えた。「ううん、無名のバンド」と。
 (注・この野音シリ-ズにおける「我々」とは、例の「はっぴいえんど関係アンプ運びバイト軍団」を指します)

 レコ-ディングの機会には恵まれなかったDEWだったが、何故か、71年のライブ音源が98年になってCD化された。が、このCD、ライブにおける彼等の「針の振り切れ具合」までは、残念ながら捉えきれていない。ミキシング云々とか言うより、例の「村八分のライブの凄さ」と同様、それは、音盤に収めることの不可能な「何物か」なのか、とも思う。

 DEW関係の逸話二つ。

 一つ。オ-バ-アクションで歌っていた布谷が、完全にボ-カルマイクから外れて歌ってしまったことがある。が、あの男、どういう喉の構造をしているのか知らないが、その声は、PAを通した際と全く変わりない音量で我々の元に届いてきたのである。やっていたのがスロ-ブル-スで、出ていた音数が比較的少なかったとはいえ。ちなみに我々は、野音の外延近く、一番後ろの席で、まさに高みの見物をしていたのだ。
 あまりのことに我々は、驚くより前に笑い転げてしまったものだ。聞いたかよ、今の。マイクから外れても音量が変わらないって何なんだよ、と。

 二つ。当時、友人が、遠藤賢司のコンサ-トを企画して、が、どんな宣伝をしたのか、あるいはしなかったのか集客に失敗、ひどい状態になってしまったことがある。その悪夢のコンサ-トのオ-プニングに起用されたのがDEWだった。
 すべてが終わり、エンケンに「ボクだってプロだからお金は欲しいしね」と、しごくまっとうなお叱りを受け、ボロボロとなった友人が、DEWの連中にその日のギャラ(大した金額ではなかった)を差し出すと、彼等は「そ、そんなにくれるの!?」と青くなってのけぞった。そこで友人は頭を掻き、「あ、間違えた」と言って、そのギャラの半分をポケットに戻し、残りを再度、差し出したのである。と、DEWのメンバ-は「そ、そうだよね」と安心顔となって頷き、それを受け取り、そしてなぜか両者とも冷や汗を流しつつ、握手をして別れた。なぜか忘れられないエピソ-ドである。

 DEWというバンドがいつまで続いたのか、寡聞にして私は知らない。その後布谷は、たしか73年にソロ・アルバム「悲しき夏バテ」を発表する。冒頭に「現役でバリバリやってる布谷くんです」との紹介コメントがあり、それに周囲の者が失笑する、というギャグ?が挿入されているところから、この時点で布谷はすでにステ-ジを降りていたようだ。

 さらにその何年後かに布谷はカムバック、大滝詠一のナイアガラのお笑い企画の一貫として、着流しに妙な眼鏡や帽子、といったバカな姿で「ナイアガラ音頭」を吹き込むことになる。
 真っ昼間の主婦向けTV番組の「売れない芸能人特集」みたいなコ-ナ-に出て、その姿でそれを歌い、清川虹子かなんかに「芸能界以外に本業があるなら、それに打ち込んだら?」とかアドバイス?されていたのが印象に残っている。
 
 現在でも布谷は、自己のバンドを持ち、どうやら副業ながらも歌い続けているようだ。マニアとしては「もう一花」と願わずにはいられないところなのだが。

 × × × × ×