ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

アルプス鎮魂のシンセ

2012-11-18 05:01:41 | エレクトロニカ、テクノなど


 ”BLACK NOISE”by PANTHA DU PRINCE

 あいかわらず、雨に振り込められた日には電子音楽に耽溺して過ごしたくなる、妙な癖は今だ収まらず、17日の土曜日も、予想外の雨に慌ててタクシーに乗り込む観光客たちの姿を横目で見ながら、窓を伝う雨滴を目で追いつつ、シンセの音に無為に耳を傾けて一日過ごしたのだった。
 今回はドイツの電子音楽ユニットの2010年度作品。ドイツ人のくせにユニット名がフランス語なのはなぜなんだろうな。

 (この”電子音楽”という呼び方も何とかしたほうがいいのではないかと我ながら思うのだが、次々に発生してくるナウいサウンドの呼び名をいちいち覚えてゆくのももはや面倒くさいので、これで全部統括したい。あーだこーだ言っても、要するに電子楽器で音楽をやっているんじゃないか、何が変わりがあるもんか)

 このユニット特有の繊細な音作りで静かに音楽は始まる。中身を飲み干した後のジュースの空瓶に金属棒でも突っ込んでカラカラ回しているような、独特の乾いた響きの回転音像が、陰りのあるベース音の上をどこまでも踊って行く、そんな風に聞こえる音楽。
 特に口ずさめるようなメロディもなく、刻々と変転するリズムパターンの提示が続く。その構造はワールドミュージック耳には、ガムラン音楽やケチャなんかの響きが遠くで聴こえてくるような気もしないでもないのだが、実際に影響を受けているのか、似ているように思えるのは偶然で、あまり関係はないのか、どちらに断言できるほど確たるものがあるわけでもない。ひたすら涼やかな叙情が、かすかな悲しみの色合いを秘めて移ろい続ける。

 ジャケは、このような音楽を包むにはあまり似合わないオーソドックスな油絵で、山間ののどかな村の姿が描かれている。中ジャケにも、そんな村の暮らしのスケッチのような写真が何葉も乗せられている。なんだか場違いな気がするが、なんでもこの盤、アルプスの山中にかって存在していて、ある日崩落事故にて失われてしまった、ドイツのある村の記憶に関するアルバムとのこと。
 それとは別に、例えばテレビで深夜にクラシック音楽が流れる、なんて場合に、画面に映し出されるのはなぜか雄大な山や森の風景だったりして、昔から不思議でならなかったのだが。あの感じに通ずるものを、このCDのビジュアルは持っていると感じずにはいられない。

 つまりはクラシック音楽のど真ん中にド~ンと居座る、ドイツ伝統のロマン主義とかいう奴なんだろう。そのようなものへの憧憬が、このユニットの内側には息づいているようだ。
 そんなものの伝統には連なっていないこちらとしては、交響楽団とプログラムされた電子楽器、なにやら不思議な取合せに感じるが、ご当人たちが納得しているなら、そりゃまあ、しょうがないよな。ととりあえず納得したふりで、さらに山村の悲劇の物語に耳を傾ける。

 雨はまだ止みそうにない。むしろ夜を迎え、ますます激しくなってきているようだ。



電子の森で遊び続けろ

2012-05-19 03:33:09 | エレクトロニカ、テクノなど


 ”Consequenz”by Conrad Schnitzler

 コンラッド・シュニッツラーは1937年に生まれたドイツの先鋭的ミュージシャンで、60年代末から70年代にかけて、タンジェリン・ドリームやクラスターといったかの国のエレクトリック・ミュージックの先駆けとなったバンドに属し、電子音楽とロックの世界を切り開き、その後もソロ・アーティストとしてユニークな音楽作品を生み出していった。
 ・・・なんてことを今更書くのも実は気はずかしい。そんなことは私なんかよりこの方面にはずっと詳しい何人もの人が既に書いているのだろうし。
 だが今、ふと気がむいて彼のアルバムを引っ張り出して聴いていたら、私だってファンの端くれ、追悼文代わりの小文でも記してみたっていいだろう、なんて気分になっ来たのだ。まあ、彼が亡くなったのは昨年の八月、どう考えたって遅すぎるが。

 それにしても、彼の音楽について述べるのはなにやら難しい。同じドイツのエレクトリック音楽組でも、クラウス・シュルツェとかの繰り広げる壮大な音世界とか、そういった分かりやすい彼の個性というのが見つけにくいのであって、アタマで”先鋭的な”とか分かったようなことを書いたが、ホントのことをいえば、彼が何をやっていたのか、説明できるような形で把握できてはいない。
 例えば、今聴いているこの盤、”Consequenz”にしたってそうなのであって、どうすりゃいいのか、この盤を。

 アルバムは、同じドイツの電子音楽畑で活躍するWolf Sequenzaとの連名となっていて、実際、二人が対等に向かい合って電子楽器を奏で、音楽のクリエイトを行なっている。
 縦糸と横糸というのか、そもそもがドラマーであるWolf Sequenzaゆえ、リズミックなプレイで、コンラッドの繰り出す奇想に満ちた音塊に独特の生命感を吹き込んでいて、これはなかなか好きなアルバムだ。ごく普通に楽しい音楽、と受け取れる・・・と思うのだが、聴き慣れない人にはそうも行かないのかもしれない。
 音の記号をピンポンのように打ち合う感じの(アナログ盤でいえば)A面が終わりB面部分に入ると、音の幅は広がり、電子の森の中を浮遊するような幻想が楽しい。こんな演奏を聴くと、コンラッドというのはつまり、電子楽器をいじってへんてこな音をピコピコ出すのが楽しかった人なのである、なんて結論を出したくなってくるが、それじゃいかんか?

 この種の音楽って眉間に皺を寄せてめんどくさい理論並べ立てるのが好きな人がよく聴いている訳で、ヒンシュク買うかもなあ。まあ、私はこの音楽をドイツ人の民族音楽、ワールド・ミュージックとして捉えているんで、お許し願いたいものです。
 それにしてもコンラッドって変な人で、ソロになってから800を超す作品を創造しているのに、それの多くを自主制作の形で、ごく少数、世に出すばかりだった。この盤にしたって初出時のアナログ盤時代には500枚しかプレスされず、とんでもないプレミアが付く羽目になったのだ。今は普通にCDが流通しているおかげで、こうしてしがない市民の私も気軽に聴くことができるわけだが。

 また、彼は自作の曲にタイトルを付けたくない、という困った性癖があったようで、それに絡むトラブルもあったとかなかったとか。というかそもそも彼、こうしてアルバムを世に問うこと自体に、どれほど執着を持っていたのか。
 たとえば彼のアルバムのジャケって、どれもなんだかやる気のないようなそっけなさで、白地にタイトルがあるだけとか、粗末なイラストとか。ともかくジャケ買いしたくなるような物件など一つもない。
 そんなこんなで無愛想な芸術家タイプかと思っていると、一人でフラフラ路上に出てライブを敢行したりもしていたようだ。雪の降る中、寒さに着膨れた体中に音響資材くくりつけた、その様子を捉えた写真など見ていると、電子音楽家というより人懐こいジャグバンドのメンバーみたいで、まるで単なる”いい人”みたいに見えてきて、苦笑せざるを得ない。

 なんだったんだろうねえ、コンラッド・シュニッツラーって。



1975年のガイガーカウンター

2012-03-04 01:54:18 | エレクトロニカ、テクノなど

 ”Radio Activity”by Kraftwerk

 相変わらず気候はクソ寒いままで、”ヤケクソ北国シリーズ”を終えるきっかけもつかめずにいる。今、こうしてパソコンの前に座っていても、すぐ窓の外、土曜の深夜の街角からは、しのつく冬の雨が人影もまばらなネオン街の歩道を濡らす音が地味に続いているばかりなのである。
 その湿った音に初期クラフトワークの安い打ち込みのリズムが凄く似合っていたので、今夜はこれで行くことにしたのだった。
 すいません、私もこの冬のしつこさには根負けしました。”クソ寒い国の音楽”シリーズは中断します。とはいえ、クラフトワークの出身国、ドイツだって冬は相当にクソ寒いぞ。昔、雪の積もったベルリンの街をテレビで観てゾッとしたことがあったもん。というか、誰も楽しみにしてはいないだろうシリーズを続けようとやめようと。

 これは「時節柄、洒落にならない」と封印していたアルバムである。なにしろ冒頭の曲が”ガイガー・カウンター”であり、終わり近くには”ウラニウム”なんて曲もある。しかも全曲、いかにも原発建屋内で聴こえてきたらすごく似合うだろうなあ、というサウンド連発で、何かほんとに気持ち悪くなる代物なんだよ。
 短いパッセージが深いエコーを伴って鳴ったりすると、目の前に浮かぶのは建屋の地下に溜った大量の汚染水が懐中電灯の明かりに浮かび上がっている風景だったり。つーか、そもそもアルバムタイトル、「放射能」だしさ。
 まあなんとか最近、聴く気になってきたんだけど。テクノの開祖クラフトワーク、まだ誰もテクノがどうの、なんて騒いでいなかった時代に静かに世に出た1975年度作品。

 もちろん世はまだアナログ盤時代だった発売当初、多くの人を困惑させたであろう、アナログ盤の針飛び音に極似したパルス音が冒頭、ポッ・・・ポッ・・・ポッ・・・と続く。そのリズムが急に早くなりシンセが入り打ち込みのリズムが始まり、「人をバカにしやがって」という運びになる。それがガイガー・カウンターという曲。
 聴き直してみれば、そんな意地の悪い引っかけばかりで出来ているアルバムなのであって。まあ、「電波音」がこのアルバムのテーマだからね。モールス信号やらラジオの信号音やらがフィーチュアされるわ、意味の分からぬドイツ語のアナウンスが地下で延々と不吉に響くわ。

 とりあえず、この人の私でもガイガー・カウンターの反応音に、「住環境の中でそのような音を聞いてしまう人のお気持ち、いかばかりか」なんて感情をそれなりに持つようになり、それを当たり前に感じている事への、ある意味、これは刺激剤だ。
 この時点で、電波が立てる音を酒のサカナに、陰気に遊び倒しているテクノの帝王たちの過去の悪ふざけは、マゾヒスティックな逆療法として心にヒリヒリ爪を立てる。外は雨が降っている。隙間だらけの機械のリズムが路地に染み渡って行く。



シマウマ舎の20億光年

2012-01-25 03:58:52 | エレクトロニカ、テクノなど

 ”We Are All Alone ”by SIWARAINBOW

 韓国のエレクトリック・ミュージックのクリエイターRAINBOW99と、ユニークな女性シンガーソングライターSIWAとの、2年ぶり2作目のコラボレーション作品。とか知ったふうなことを言ってるが、実は一作目は聴いたことがないし、そもそもこのユニットについて詳しいわけでもない。
 ただ、色とりどりのピンポン玉が弾んでいるようなカラフルで楽しげなジャケに飾られ、” We Are All Together”と題された一作目のジャケの夢いっぱいの雰囲気と、今回のアルバムのそれとの落差が、妙に心に残ってしまったのだった。

 今回のアルバムタイトルは、”We Are All Alone ”と、一作目とは真逆の意味になっている。そしてなにより、意味不明だが、なんとなくヤケクソっぽいイメージを伝えてくる、シマウマのジャケ写真が気になってならない。人類皆が手をつなぎあったピンポン玉弾むパラダイスに発し、動物園のシマウマ舎に至る・・・どういう道筋なのかね、二人がこの2年間で歩いてきたのは。

 作法通りの打ち込みのリズムと、SIWAの呟くような、自らに言い聞かせるような内向きの歌声が、電子楽器の響きに乗って流れ過ぎてゆく。SIWAの歌声は、ことさらテクノを演ずるでもなく、リズムが高揚しようとも激するでもなく、クールにマイペースを守る。
 透明な悲しみを孕みつつリズムは弾み、孤独な遊び歌のような旋律を辿りながら、歌声は流れる。

 SIWAのアルバムは一枚聴いたことがあるのだが、生ギター弾き語りをメインに、民話調の不思議に懐かしいメロディを語りかける物静かな世界だった。エレクトロニクスのミュージシャンとの共演が意外に感じたのだが、こうして聴いてみると、その物静かな語り部の語り口は、たった今流れ過ぎていった人類の運命を、遠い過去の記憶として語り起こす作業には、むしろピッタリなのかもしれない、などと思えてくる。

 終わり近くに収められた気になるタイトル曲は、多重録音による鍵盤群とコーラスによる歌詞を持たないミサというか賛美歌めくボーカリーズ曲で、どことなく鎮魂歌と聴こえなくもない。その直後に位置する、「鳩 牛乳」なる奇妙なタイトルの歌。遠く聞こえるのはシンセで模した記憶の中の動物園の喧騒だろうか。
 昼下がりの動物園で握りしめる苦い思い。長い道のりをやってきた我々は皆、一緒にいるのか、それともひとりぼっちなのか、この終着の浜辺で。シマウマ舎で。



夏時計の向こう側

2011-08-15 03:11:27 | エレクトロニカ、テクノなど

 ”Light in August, Later ”by aus

 老母が知り合いの家のちょっとした催しに出席するから車を出せというのだが、この炎天下だ。やめやめ、老人があちこちで熱中症でひっくり返っているではないかと反対したのだがきかない。本人も楽しみにしているわけではなく、単なる義理なのだが、それが老人には最重要な要件となる。
 30分で帰ってくるからというので、しょうがない、送り迎えのために車を出したのだが、駐車場で放置されていた車は、クーラーの効き始めるまでは、ものの見事な炎熱地獄だった。

 そんな車の中で、何の気なしにカーステレオに放り込んだカナダのエレクトロニカのユニット、”I'm Robot,I'm Proud”の音が非常に気持ちが良いことに気がついた。強力な陽光を照り返すフロントガラスのまぶしさ、額を流れ落ちる汗、などという肉体的なるものの存在など知らぬげに(そりゃ、知らないだろう)クールに打ち込まれる機械のビートとシンセの奏でるのどかなメロディは、夏に疲れた体と心に、とても滋味溢れる癒しをくれた気がした。

 そんな事情もあり、今回取り上げるのは日本のエレクトロニカ音楽のユニット、”aus”が夏をテーマに編み出したアルバム。
 静か過ぎる音像の作品だが、とにかくタイトルに”八月”の文字があるので、真夏の水際の光景に加えても、文句を言われる筋合いはない。
 とはいえ、「夏だ!エレキだ!青春だ!」の世界とはそりゃ違うのであって。同じ八月の海でも、たとえば「当海水浴場は5時をもちまして終了とさせていただきます。また明日のご来場をお待ちしています」なんてアナウンスが翳り始めた砂浜に流れた、そのひと時の哀感と静けさに満ちている。

 真夏の波間に揺れる太陽の照り返しの向こうに宇宙を見る、みたいなこの作には刻まれるビートはない。静けさの中で、シンセやギターの波が静かな優しいメロディを奏で、揺れている。
 不安定な音程でゆらゆらと立ち上がるシンセのフレーズは、夏の陽炎の向こうに見る遠い風景みたいだ。まだ残る真昼の炎熱の残余の中ですべての風景はおぼろに霞み、なにもかもが瞑想の果ての蜃気楼と化す。
 ポツポツと弾かれる電気ピアノのフレーズが、永遠に消え続ける逃げ水を果てしなく水平線まで追うような、意識の放つ遠い視線を辿って行く。
 淡いシンセの和音の底で打ち鳴らされる金属音は、スピーカの外まで水しぶきを跳ね飛ばすかのようだ。

 遠い遠い昔に行ってしまった夏。今、ここにある夏の手触り。多重録音された浮遊感のあるシンセや電気ピアノの音の連なりの向こう、さかさまに写った景色に、すべての夏の記憶が収められ、遠くからこちらを呼んでいる。



バナナの見る夢は

2011-06-18 02:53:54 | エレクトロニカ、テクノなど


 ”When a Banana Was Just a Banana”by Josh Wink

 相変らず、何がなにやら分からぬままに、気が向くとつまみ食い的に聴いているエレクトリック音楽関係でありますが。これはもう、ネットでジャケを見て、「これは馬鹿な事をやっていそうな物件だな」と面白半分買ってみた一枚であります。演奏者のキャリアどころか人種国籍に至るまで、何の予備知識もなし。
 どこかに”アシッドハウスの傑作”なんて書き込みがありましたが、その種のジャンル訳の台詞はファンの仲間内の符丁みたいなものと考えてるんで、私はまるで気にしません。まあ、打ち込みのリズムが突き進む電子音楽ですよ、ようするに。

 まずリズムの提示がある。打ち込みの音がコンガっぽいせいもあり、どこか南の香りを感じてしまうのは、ジャケやタイトルのバナナからの連想でしょうか。そのうち、他のサウンドエフェクトが入り込み、メインのリズムに絡み始める。裏に廻り、はぐらかし、リズムのじゃれあいは進行する。短く無機的なメロディがミニマルに繰り返され、リズムの渦を幻惑で彩ります。

 このような無機的な電子音の連続を”音楽”として普通に楽しむようになったのはやはり、テクノという概念がセットされてからなんだろうか?
 このような音楽を希求してしまう自分の心を顧みると。むしろ、さまざまな文化のシガラミを離れて鉛菅とか叩く音に血が騒いでいる自分が痛快に思えていたりするわけですよね。
 なんかどっかで我慢ならなくなっている部分もあるかもしれないですね。文化の連鎖の内で生きていることが。で、すべてのシガラミを断ち切って一個のネジかなんかになって、ステンレスの夢の中に言ってしまいたくなる。

 そういえば、石は傷つかない、岩は決して泣き叫ぶことはない」って、サイモンとガーファンクルの歌もありましたねえ。




エレクトロニカ大腸紀行

2011-03-29 03:07:11 | エレクトロニカ、テクノなど

 "I Care Because You Do" by Aphex Twin

 と言うわけで、プルトニウムまで検出されてしまったし、明日の朝さえ来るかどうか分かったものじゃない、なんて最悪の気分でいる時にピッタリ来る音楽なんて事を考えてみたわけです。

 テクノとかエレクトロニカなんて音楽を聴き始めた頃(今だって、何の知識も増えちゃいない、この分野に関しては単なる初心者でしかないんだけれど)に、ネットでその分野の代表的アーティスト連中をチェックして廻った時、「まあ、こいつのファンになることはないだろうなあ」と思ったのが彼、Aphex TwinことRichard David Jamesだった。
 1970年代生まれの彼は、イギリスのテクノやらアンビエントやら電子音楽の世界の第一人者ということなのだが、ともかくなんじゃこれは!と閉口するようなジャケの連発なんですわ、これが。
 見るものの気分を害しようとする意図だけでジャケ作ってないか、こいつは。イギリス式ドライ・ユーモアかなんか知らんが、なんたる悪趣味。(あえてここに挙げる気はしません、興味のある向きは検索でもしてご覧ください)

 そんな風に反発を覚えてしまった奴のアルバムを、なぜだかYou-tubeで聴いてしまった私なのだが、その音、ジャケといい勝負の不快な音楽と聴こえた。が。
 その”嫌な感じ”は、妙に心に後を引く嫌さだったのだ。あるでしょう、「嫌な臭いなんだけど、なぜかもう一度嗅いでみたい」なんてね。そして私は「やめたほうがいいかなあ」と首をかしげながら彼のCDを購入するのだった。
 そして正対してみたその音楽たるや。

 機械ポップスの常としての打ち込みリズムの狭間に、こちらの感性に足払いをかけてくるような妙なタイミングでフェイクが入り、ブーブークッションから空気を押し出すみたいなブホブホいう音がいたるところに垂れ下がる。なんだか聴いているうちに、人間の大腸の中を歩いているような気分になって来たりもするのですわ。
 それは第一人者だけあって、カラフルな音の仕掛けはいたるところに仕掛けられてあるのだが、そいつもお化け屋敷めく、思いもかけないタイミングで感性への不愉快さを突きつけてくる系統の物なのですな。そいつがあたかも”ファンキー”であるかのような作用を私の感性の内でして、なんか痛快みたいな心持ちになってくるのだが、これは勘違いではないかと思うがなあ。

 見ろ、文章にしてみると悪口ばかりじゃないか。にもかかわらず奴の、Aphex TwinのCDを買い続け聴き続けている私ってのはなんだ、しかし。



氷結鍵盤伝説

2011-02-22 00:03:57 | エレクトロニカ、テクノなど
 ”Apparat Organ Quartet”

 クソ寒いですねえ、まだまだ。風がね、今日は。なんか真冬に帰ったみたいなえらい冷たい風が吹き抜けていた。不思議なもんだね、街を歩きながら、そんな風をふと首筋に感じたら、まだ一ヶ月と経っていない去年のクリスマスのことが妙に懐かしく思い出されたりした。
 ついこの間のことだってのに。人間の心は退行願望に多い尽くされているそうだけど、もう隙あらばノスタルジィに崩れ落ちようって寸法か。これも老化現象っスかね。
 そんな訳で、きっともっと寒い国、アイスランドのテクノ系バンドの話でも。

 さて、アイスランドのクラフトワーク、とか言われているようであります、Apparat Organ Quartet。確かにクラフトワークが売りにしていた”古めかしい未来派”っぽいイメージのピコピコした音作りの影響がそこここに透けて見える感じはある。
 けどこのバンドはあちらほどストイックではなく、ヘビメタっぽいヘヴィなリフを奏でたり、プログレっぽい壮大なイメージを奏でたりし始める。まあ、やりたい放題と言うか、クラフトワークより、もっと子供の心を持っている感じ。邪気というのか。始末に終えないいたずらっ子的な奔放さを感じる。

 申し遅れましたがこのバンド、キーボードが4人にドラムが一人、という妙な編成。キーボード組は昔GSが使っていたみたいなセコいコンボオルガンからロシア製のヴィンテージもののシンセまで、さまざまな獲物を並べ立て、空間を鍵盤音で埋め尽くします。
 ドラムが打ち込みじゃなくてナマの人間による手打ちってのも、このバンドのプログレ臭を強化しているようで。バンドの中央に全然マシーンっぽく叩こうとせず強力な肉体性を発揮しているドラマーがいるんで、いかにピコピコ音を発しようとヴォコーダーを通して声を発しようと、テクノにはなりきれない感じはある。

 でも第一に感ずるのは、やはりこのバンドの場合、邪気ですな。極寒の雪原でも元気よく跳ね回っているクソガキたちの手に負えない遊び心、そんなものが音の内側に脈打っているのが、実は彼らの最大の魅力じゃないでしょうか。



貝殻と流星群

2011-01-01 03:36:12 | エレクトロニカ、テクノなど
 ”グーテフォルクと流星群”by Gutevolk

 はい、毎度のことですが、ジャケ買い作品。音に惹かれるよりジャケに惹かれて盤を買うケースの多いみたいな私ですが、いや本気で”ジャケ芸術”を愛しているのかもしれない。まあ私、もともとが画家志望だった人間なんで、その辺はお許し願いたいんですが。

 で、これは冬の夜明けの海辺ですかね、フードつきの赤い厚い上着を羽織った人物が貝殻らしきものを手にしている。その貝殻から光が零れ出して中空へ舞いかけている。上空に、このアルバムの正式タイトルらしきものが浮んでいます。”Tiny People Singing Over The Rainbow”と。2007年作品。このタイニイ・ピープル云々は、何かいわれとか原作とか、絡みがあるのかしら?分かりませんが。不思議な世界への扉が開かれているようで、興味をそそられますな。

 いくらジャケ買いとはいえ、このアルバムが私が今注目しているエレクトロニカ作品であることくらいの知識はあった。西山豊乃という女性のソロ・ユニットで、もう何作かのアルバムを世に問い、それなりの評価もあるようです。
 一番意外だったのは、電気楽器中心のインストものと想像していたのに、ほぼ全曲にボーカルが聴かれたこと。サウンドの基本は期待通り電子音楽っぽいものだったが、こちらが思っていたよりずっと開かれた世界の住人による音楽なのだろう。

 歌の歌詞は英語だったり日本語だったりするが、どちらも聞き流しているだけでは内容までは読み取れず、断片的なイメージを喚起する言葉が残るのみ。でも、それで良いんじゃないか。海辺の気ままな呟きは、自由に散って行くに任せたらいいんじゃないか。
 ジャケの海岸に寄せては返す波みたいな反復するリズムに乗って、まるで作意のなさ過ぎる声がポップスのような子供の遊び歌のようなメロディを呟く。全体をメジャー・セブンスっぽい響きが包み、基調音としてずっと鳴っている。

 多重録音されたキーボードの音の上をトイ・ピアノがポンポンと歩き回り、シロホンが揺れ、リコーダーが行進する。タンバリンやシェイカーが遠い昔に失われた夏の祭りの残響を演出する。
 凍りつく北風と海。寄せては返す波のきらめきと、立ち上って行く光の粒と。
 私が今、キイを叩いている部屋から出手、ほんの数歩で国道に至り、それを越えればもう海辺だ。とうに新しい年は明け、でもまだ夜明けはやって来てはいないけれども。波のざわめきは街路灯の向こうから確かに聞こえて来ている。



アトムの街角で

2010-11-22 00:05:36 | エレクトロニカ、テクノなど

 ”Catch/Spring Summer Autumn Winter ”by I Am Robot and Proud

 相変らずエレクトロニカやらテクノやらを右も左も分らぬまま追いかけている今日この頃なのだが。その分野での最愛のアーティストは、これはもう決まっている、以前ここで取り上げた”i am robot and proud”である。このあったかいタッチの電子音楽、これはいいなあ。

 彼の音を視覚化すると、ポンポン弾む光の玉になるんじゃないか。曇り空の下、変哲もない住宅街を屋根伝いにいくつもの光の玉が連なり、リズミカルに揺れながら弾み、飛んで行く、そんなイメージ。その光の色は、いずれ忘れ去られてしまうのだろう、懐かしい白熱電球の色をしている。

 光の後には、その地に住むなんでもない人々の喜怒哀楽を運びながら、時がゆっくりと住宅街の屋根の下を通り過ぎて行く。
 あるいは律儀に働き続けるロボットたちの姿か。何台も何台ものレトロな人間型ロボットが、チャップリン扮する労働者でも働いていそうな古色蒼然たる工場で動き回り、地味な地味な生活必需品を作り上げて行く。

 のどかで暖かくて懐かしくて、その裏にはどこか物悲しさも漂うような。そして、そんな街角に佇む、世界にかけられた謎を解く鍵の行方について想いを寄せる半ズボンの少年が一人。そいつはただ一人のユニット構成員であるショウハン・リーム、あるいはユニット名の由来となった”鉄腕アトム”の面影なのかも知れない。