”私の子供たちへ”by 笠木透
mixiのマイミクの神風おぢさむ。さんの日記にコーヒーの値上がりに関する話題があり、これでは10年前に「そのうち中国人が珈琲飲むようになったら、珈琲って飲めなくなるかもな」と話していたことの、嫌な形の”当たり”ではないかと書いておられた。
そのブラックジョーク的上塗りとして、「中国の国民すべてが腹いっぱいご飯を食べられるようになると、それ以外の国の国民が食べるご飯がなくなる」というのはどうだ?こういうジョークを言ってはいけないんでしたっけ?
そういえば敬愛するフォークシンガー、笠木透は”ひとつぶの涙”という歌の中で、このように唱っている。
「この地上に一人でも餓えている人がいる限り 私たちの食事はどこか楽しくはないでしょう」と。
それはどうかなあ?と私は首を傾げてしまうのである。もしかして貧乏くじを引いてしまった境遇の人たちがある程度いた方が、食事は美味しくいただけるものなのかも知れないじゃないか。というか、そちらの方が人間の本質を突いているような気もする。
なんていうと怒る人もいるだろうけど。いや。だから。人間って、そこまで罪深いものである、という話です。どっちが”正しい”かはまた別の話。
このあたり、昔風の理想主義者の歌だなあ・・・と、ちょっと困ってしまうのだ、彼の歌のファンとしては。ちなみに笠木氏は1937年生まれ。
同じくこのアルバム中の憲法第9条に関する歌、”あの日の授業ー新しい憲法の歌”は、第二次大戦中、教え子を戦地に送ってしまったのを悔いている教師が戦後、布告された新憲法の、とりわけ第9条について非常に力の入った授業を行なう、その有様を描いた歌なのだが、「軍備などなくても心細く思うことはありません。私たちは正しい事をしているのです。世の中に正しい事ほど強いものはありません」などと論を進めるあたり、ウヨクのヒトビトから「左翼のお花畑的世界観」などと揶揄の標的されるのは必至、の感がある。
弱っちゃったなあ、とは思うのだが、だからどうと言うこともない、私はぶきっちょな昔ながらのフォークシンガー、笠木透のファンである。
同じくこのアルバムに入っている「我が大地の歌」に惚れちゃっている私なのであって。この一曲があれば、ほかにどんな歌を歌っていようと、特に問題とは思えない。
「我が大地の歌」に私は、あれは第何回だったろう、”京都宵々山コンサート”で、高石友也たちが歌ったものではじめて出会ったのだった。
山登りをした際に作った歌なのだろうなとは、その時点で想像がついた。雄大な山々の連なりが走り、そのふもとにはその土地土地の風土の中に生きて来た人々の喜怒哀楽があり、そして悠久の時が流れて行く。
この歌もあちこち突っ込みどころはあるような気もするのだが、歌全体の、そして作者自身の、一人のんびりと大海を行く鯨みたいに茫洋たるありようを前にすると、そんな事はどうでもいいと思えてくる。いくたびか春をむかえ いくたびか夏をすごし いくたびか秋をむかえ いくたびか冬をすごし。
そして今夜も、どこか遠くの人跡も稀な山奥で熊に触れられた立ち木の枝が一本折れる、ポキリという音の響きを今聴き取った、みたいな幻想を弄びながら果てしなく飲んでしまうのだった。
mixiのマイミクの神風おぢさむ。さんの日記にコーヒーの値上がりに関する話題があり、これでは10年前に「そのうち中国人が珈琲飲むようになったら、珈琲って飲めなくなるかもな」と話していたことの、嫌な形の”当たり”ではないかと書いておられた。
そのブラックジョーク的上塗りとして、「中国の国民すべてが腹いっぱいご飯を食べられるようになると、それ以外の国の国民が食べるご飯がなくなる」というのはどうだ?こういうジョークを言ってはいけないんでしたっけ?
そういえば敬愛するフォークシンガー、笠木透は”ひとつぶの涙”という歌の中で、このように唱っている。
「この地上に一人でも餓えている人がいる限り 私たちの食事はどこか楽しくはないでしょう」と。
それはどうかなあ?と私は首を傾げてしまうのである。もしかして貧乏くじを引いてしまった境遇の人たちがある程度いた方が、食事は美味しくいただけるものなのかも知れないじゃないか。というか、そちらの方が人間の本質を突いているような気もする。
なんていうと怒る人もいるだろうけど。いや。だから。人間って、そこまで罪深いものである、という話です。どっちが”正しい”かはまた別の話。
このあたり、昔風の理想主義者の歌だなあ・・・と、ちょっと困ってしまうのだ、彼の歌のファンとしては。ちなみに笠木氏は1937年生まれ。
同じくこのアルバム中の憲法第9条に関する歌、”あの日の授業ー新しい憲法の歌”は、第二次大戦中、教え子を戦地に送ってしまったのを悔いている教師が戦後、布告された新憲法の、とりわけ第9条について非常に力の入った授業を行なう、その有様を描いた歌なのだが、「軍備などなくても心細く思うことはありません。私たちは正しい事をしているのです。世の中に正しい事ほど強いものはありません」などと論を進めるあたり、ウヨクのヒトビトから「左翼のお花畑的世界観」などと揶揄の標的されるのは必至、の感がある。
弱っちゃったなあ、とは思うのだが、だからどうと言うこともない、私はぶきっちょな昔ながらのフォークシンガー、笠木透のファンである。
同じくこのアルバムに入っている「我が大地の歌」に惚れちゃっている私なのであって。この一曲があれば、ほかにどんな歌を歌っていようと、特に問題とは思えない。
「我が大地の歌」に私は、あれは第何回だったろう、”京都宵々山コンサート”で、高石友也たちが歌ったものではじめて出会ったのだった。
山登りをした際に作った歌なのだろうなとは、その時点で想像がついた。雄大な山々の連なりが走り、そのふもとにはその土地土地の風土の中に生きて来た人々の喜怒哀楽があり、そして悠久の時が流れて行く。
この歌もあちこち突っ込みどころはあるような気もするのだが、歌全体の、そして作者自身の、一人のんびりと大海を行く鯨みたいに茫洋たるありようを前にすると、そんな事はどうでもいいと思えてくる。いくたびか春をむかえ いくたびか夏をすごし いくたびか秋をむかえ いくたびか冬をすごし。
そして今夜も、どこか遠くの人跡も稀な山奥で熊に触れられた立ち木の枝が一本折れる、ポキリという音の響きを今聴き取った、みたいな幻想を弄びながら果てしなく飲んでしまうのだった。