ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

国歌まで、あと30センチ?

2012-12-04 04:02:01 | その他の日本の音楽

 最近、中島みゆきの”ファイト”とかいう曲を使ったテレビCMが流れている。例の、「ファイト!戦う君の歌を戦わない奴らが笑うだろう」って歌。
 そのCMの歌が流れてくると、「うるせえ、何を貴様なんかに、偉そうに説教されなきゃならねえんだ!」などと、な~んかムカついてならない私なんだが、そちらではいかがなもんでしょう?腹立ちませんか、あの歌聴いて。

 とりあえず中島みゆきはあの歌を、現実に対して勝ち目のない戦いを挑む一人ぼっちの”君”への応援歌として作ったのだろうが、あのCMにおいては、そのような原作の意図は、どこかへ行ってしまっている。
 代わりに何があるかといえば、そこらへんから狩り集めて来た無気力な若者を並ばせておいて、「ダラダラせずに戦え!」と叱責する校長先生、とかの朝礼の挨拶の面影がある。若者たちに商品を売り込みたい企業の都合としても、そんなものなんでしょうなあ。

 まあ、中島の歌も、その種の偉そうな説教垂れるのが好きな連中には、利用しがいのある作風ではあるのであって。
 なんか、土木関係の大企業が、朝、まず全社員が集まって、中島みゆきの「地上の星」を整列して聴き、それから各作業所に赴き仕事にかかる、なんて話を聞いたことがある。そりゃあるかもなあ、と妙に納得できたものだった。
 中島みゆきもさあ、なんだってあんなに”立派な歌”ばかり作りたがりますかね?この何年か、それこそ全社員整列の上で流すのがふさわしいような立派な歌詞の歌ばかり作ってはいないか。

 まあ、大したファンでもない、とりあえず耳についた曲について論じているだけの私なんで、そんなのばかりではないぞ、との反論もあろうけど、いや、私のような無垢な一般市民の耳に障るくらいのイメージ、というのはやっぱりいかがなものかと。そのうち中島みゆき、日本の国歌作ることになるかも知れんぞ。
 そんな自分のこと、どう思っているんだろうなあ、中島は。いや、どう思うも何もない、あの種の歌が好きな真面目な人たちからは「立派な歌でなにが悪いんですかっ」と叱られるんだろうなあ、こんな文章書いていると。

I.C の風の噂に

2012-11-03 00:33:47 | その他の日本の音楽

 ”厚木I.C”by 小泉今日子

 某誌の「小泉今日子特集号」を立ち読みしていて、取り上げられていた一枚のアルバムが妙に気になってしまった。2003年4月リリースの「厚木I.C」なるアルバム。
 そのタイトルが喚起するザラッとした手触りと、雑誌の記事内に縮小されて載せられたものであるのに強力な印象を残すジャケ写真。青白い光がにじむ街角に佇む、歌手コイズミ。
 私は昔から一貫して、キャンディーズ支持あたりから始まるグループ・アイドル好きであり、キョン2のようなソロ歌手に興味を持ったことはなかった。それゆえ、小泉今日子のアルバムを通して聴くのも、これが初めてだ。

 早朝なのだろうか、それとも夕暮れなんだろうか。ジャケを飾る写真は妙に青白い光に満たされた街角を、吸いさしのタバコを持って漂流するコイズミのさまざまな姿を捉えている。
 彼女がさまよう街は洗練されてはいるが、どこか埃っぽく地方都市っぽい、空っ風が吹き抜けるのが似合いの寂しさが染み付いているように見える。ここが厚木という街なのか。私は立ち寄ったことはない。と思うが。アル中の放浪者だった青春時代に足を踏み入れているのかもしれない。

 アルバムの冒頭の曲の歌い出し、「私は信じない私を」と軽いラテンのリズムに乗って歌詞は歌い出される。まさにしょっぱなから歌手コイズミの存在は自ら根を断ち切り、宙を漂い始める。漂いつつ、咲く花や行く雲やサヨナラについてなどが物語られて行く。もうとうにアイドル歌手などと言ってはいられない年齢の歌手コイズミである。

 たとえば、かっての同級生たちに連絡を取る必要に駆られ、住所録などひっくり返すと、人は消えてなくなってしまうものなのだなあ、などと唖然とさせられることがある。容赦のない時の流れと気まぐれな運命の風向きの狭間で。人は、まるで溶けるようにその足跡を消してしまう。何処へか。一人一人。刻々と。確実に。
 だから人は、儚い灯火を掲げて暗闇を灯し、知り合えたはずの人の名を遠く呼んでみたりする。花に寄せる想いの歌が凛と響いたり、遥かな雲に失われた時の行方を追ってみたり。

 それから、厚木基地のフェンスにもたれて、「よからぬことを考えている」と笑ってみせたりする。



東京タワー行きカントリー・トレイル

2012-10-23 16:01:27 | その他の日本の音楽

 23日放送の「NHKラジオ深夜便」の”日本人歌手で聞くカントリー&ウエスタン”を、ある種、揚げ足取りみたいな気分で聴いてみた。揚げ足取り気分とはどう言う意味かといえば。
 どうやら我が国でも戦後しばらくして、カントリー・ミュージックのブームのようなものがあったようだ。それはあのジャズの大ブームとは比べるべくもなかったろうが、それでもそれなりの流行を見せたはずだ。それはその後、歌謡界に少なからぬ数の”カントリー系”の歌手が排出されていることでもあきらかだろう。

 モロにそれとわかる小坂一也のような人から、ヒット曲、「骨まで愛して」で、カントリーの唱法を非常にエグい形で演歌のフィールドに応用してみせた城卓矢なんて人、そこまで行かずとも、妙に鼻にかかった発声法が強力にカントリー臭を放っていた北原謙二とか。あの辺の人々の、歌謡曲の歌い手としては非常に違和感があるような、それはそれでいいような不思議な魅力、あれはいったいなんだったのか。
 創成期の日本のカントリー・ミュージックの録音を聞いて、それらの人々の音楽的出自について何事か突っ込める部分に出会えるのではないかと、当方としては期待したわけである。

 とはいえ、そこまで面白いことには簡単には出会えない。そこで聞けたのは突っ込みようもない、何やら非常にさわやかな出来上がりの和風カントリーの世界だったのだ。
 日本語詞の、まるで講談みたいな大時代な言葉使いが強烈な印象を残す小坂一也版「ゴーストライダース・イン・ザ・スカイ」などという”逸品”もあることはあるのだが、多くの録音は、まるでディズニーランドの書き割のような汚れなきおとぎ話としての開拓期アメリカ西部への憧れを歌った清潔なホームソングばかり。

 とはいえ、今回の放送を聞く限り、当時はことのほかヨーデル唱法が好まれていたようで、いたるところにレイホ~レイホ~と裏声は響き渡る。その美しき高原幻想などは確かに、その後に続く清らかな青春歌謡の登場を予告するものと思えなくもないのだった。
 さらには、たとえば寺本圭一などという人の歌唱には、どこか演歌のコブシに通ずるナマな肉体性がほのめかされてもいるように感じられ、やはり戦後の日本におけるカントリーと歌謡曲の関係、探求してみたくなってしまうのである。



星めぐりの歌

2012-10-02 17:00:25 | その他の日本の音楽

 もうずいぶん前の話だが、宮沢賢治が作った曲ばかりを収めたCDと、彼の詩集が合本になったものが書店の棚にあって、ちょっと気を惹かれたりしたものだ。が、豪華な装丁の本で値段もそれなりだったものだから手を出せずにいるうち、見かけなくなった、というかその書店自体が店を閉じてしまった。
 そのまま本の事は忘れていたのだが、今、深夜のラジオから賢治の作った曲のひとつ、「星めぐりの歌」が流れてきたので、そういえばと思い出したところだ。

 今でもあの本は手に入るだろうか。いや、あえて入手せずとも、こんな具合に心の隅に薄れかけて、でも消えることのない遠いあこがれのような形で記憶にとどめておくほうが、むしろ賢治の歌には似合いなのかもしれない、などとも考えてみる。
 記憶の遠い向こう側で呼んでいる賢治のメロディ、それでいいじゃないか。気が向いた時、口ずさんでみたり楽器で弾いてみたりするために曲集みたいなものがむしろ、欲しい気がする。

 賢治に関わるエピソードで私が特に好きなのが、賢治が農作業を終え、採れた作物を積んだ荷車を押して行く際、彼が身につけていた作業着が当時としてはあまりにナウくオシャレな代物だったがゆえに、見送る農民たちは、やや引きつつそれを眺めていた、というもの。賢治に悪気はない、彼なりに懸命に農民のために働いていたのだが。
 また、彼が農業指導として行なっていた肥料の設計書類には、「以上、あまり収穫が増えても、驚かないこと」などと書かれていたというのだが。そこまでに画期的な効用のある肥料、などが存在したのだろうか?賢治が農学校でどれほど学ぼうと、ちょっと信じがたいのだが。
 別に嘲笑するのがこの文章の目的ではない。そんな、どこか現実からずっこけてしまう賢治が妙に好きだ、という話だ。
 
 まだギターを抱えてあちこち歌い歩いていた頃、賢治の故郷に近い北の町の小さな店で歌う機会があった。歌い終え、店の経営者に「リハで賢治の歌を歌ってたけど、本番では歌わなかったね」と言われた。「うん、ここに来た記念に歌いたかったけど、いざみんなの顔を見てしまうと、それを歌ったら”ウケ狙いでご当地ソングを歌う売れない演歌歌手”みたいな感じになっちゃうかって気がしてさ」と答えた。
 そのまま笑って別れたが、その店にも、その人にも、その後の縁はなかった。

 あの店は今でもあるのだろうか。あの人は元気だろうか。実を言えば、一回限りの付き合いだったその人の名もその店の名も、頼りない私の記憶からはもう失われ、店がどのあたりにあったのかさえ思い出せない。ただ人たちと笑いあったり黙りこくってお茶を飲んでいたりした暖かいひとときの断片が記憶の隅に残っているだけだ。

 なにか話すべき事があったのではないかと振り向いても、そこにはもう人々の影もない。地球は物言わぬまま旅を続け、人々は星をめぐり、容赦ない時の経過を生きて行く。



フォーク演歌の死滅に向けて

2012-08-31 16:10:35 | その他の日本の音楽

 昨日、フォーク演歌の悪口が言い足りなかったんで、その続きを。

 フォーク演歌とは、1970年代あたりから現れてきて、今や演歌のメインストリームに位置するかと思われる独特の音楽形態である。
 その特徴は、長ったらしい言い訳だらけの歌詞を陰鬱なメロディに乗せてグダグダ歌う、というあたりか。具体的に曲名を挙げれば、「津軽海峡冬景色」「越冬つばめ」「天城越え」「北の宿から」などなど。

 70年代日本のフォークの影響が顕著に見受けられることから、とりあえずフォーク演歌と名付けてみた。長く曲がりくねったメロディラインや、アレンジにフォークギターが重用されるあたり、いかにもフォークの嫡子という感じがする。
 変にドラマ仕立ての歌詞なども目立ち、このあたりは、フォーク演歌発生期に人気作詞家であった”阿久悠”の文学趣味が大きな影を落としていると言えよう。
 同時に、やたら大げさなオーケストラの伴奏なども特徴といえようか。この歌詞の文学気取りや荘重がりたがるアレンジなどに、「ちょっと高級な歌なんだぜ」などと言いたげな権威主義の匂いもする。

 この陰鬱な音楽が日本の流行歌の中枢として認知されて行きつつあるのはやりきれなく思い、この一文を期するものである。

 長老・北島三郎などは、早くから彼独自の道筋でフォーク演歌の道を築いて来た人物で、あの「アイヤ~、アイヤ~、津軽八戸」云々という歌など、シロウトにはとても歌いこなせない壮大な曲調、「瞽女」をテーマにする文学趣味など、いかにもという感じである。この歌を、彼の”フォーク化”以前のレパートリーである「函館の女」などと続けて歌ってみれば、「アイヤ~♪」を歌ううち、自分の心が陰湿なフォーク根性に満たされてゆくのが実感として理解できると思うのであるが。
 美空ひばりの「愛燦々」などもフォーク演歌の典型と言えるのだが、あれは小椋佳の曲だっけ?彼などは阿久悠とともにフォーク演歌の形成に大きく関わった戦犯と言えるのではないか。

 ここで思い出したのだが、フォーク演歌の不愉快な副産物として、独特の気色悪い造語、というのもある。サンプルを示せば、「夢待ち人」「歌人」「来夢来人」なんての、あるでしょう。あの辺もフォークの影響かと思うのだが、嫌なところ、嫌なところを選んで影響受けて行くよなあ、どういう感性してるんだろう。

 ともかく。フォークぶりっこの気色悪さ、安い芸術ぶりっこの権威主義のいやらしさなど、実に不愉快な代物と思うのだが、フォーク演歌。でもみんなは、今日もカラオケであれらの歌を歌うんだろうね。うん、今日も。



逝ってしまった演歌のために

2012-08-30 05:06:16 | その他の日本の音楽

 昨夜、藤圭子についての文章など書いたら、ミクシィ仲間の神風おぢさむさんからコメントを頂いた。それに対する返事を書いていたら、これはちゃんと一章設けるべき文章だな、という気がしてきたので、このような形で公表することとしました。勝手にこのようなことをして、すみません。どうかお許しを、おぢさむさま。
 下が、神風おぢさむさんから頂いたコメントです。

 ~~~~~
藤圭子がリアルタイムでもてはやされていた頃は、演歌というジャンルは毛嫌いしていて、別の世界の話として聴く耳を持っていませんでした。最近の素人が作る楽曲の酷さを聞くにつれ、プロが作る詞・曲の凄さというものが、少しだけれど理解できるような気がします。
 ~~~~~

 藤圭子がもてはやされていた頃の私の演歌に対するイメージというものを書いてみると、二つに分裂した印象がありました。
 片方は全盛期(?)の美空ひばりに象徴されるような、”偉そうな音楽”としてのそれ。そのイメージが極まったのは、ひばりが”柔”なんて歌を歌っていた時期ですね。ひばりが、あれは明治時代の”書生”をイメージしたんでしょうか、男ぶりの短髪のカツラをかぶり、袴姿で見えを切り、「ヤワラ一代~♪」とか歌い上げていた。その姿って、「演歌の女王」として君臨することによってたどり着いた地位、権力者としてのプライドを振り廻す、とても不愉快なものと思えました。そのきらびやかな王宮は、だが、「所詮は芸人風情」といった一般社会からの賤視によって裏書きがなされているものではないか、そう思うと、それはますます虚しいな強がりとしか見えなかったのですが。

 その一方で、辛い浮世の裏町酒場で酒飲み交わす無名の市民の憂さを晴らすか涙酒、みたいなうらぶれ気分に寄り添う音楽としての、負け犬のための歌、演歌。これは、なにしろ観光地の飲み屋街で生まれて育った私には、心のふるさとそのもの、みたいな気持ちがありました。自慢できるような部分はまるでないけど、俺はそこで育ってきたんだ、みたいな。

 昨夜書いた藤圭子のデビュー曲に「ネオン育ちの蝶々には」なんて歌詞があり、この場合の”蝶々”はもちろん、ホステスのことなんですが、私はこの部分を聞くと、別のことを連想する。
 中学生の頃、下校時、同じクラスの女子が制服姿で、いかにも酒の道の達人が通いそうな酒場の鍵を開けて中に入ってゆく姿なんかを思い出すのですな。なんのことはない、彼女の両親がその酒場を経営していて、彼女はその両親とともにその酒場の二階に住んでいた、それだけの話なんですが。でも彼女だってネオン育ちには違いないだろう。

 それとは別に。これも中学の頃ですが、クラスの中で”化け物””汚い”と忌避されていた女子一名がいた。ある日、彼女が校舎の片隅に突っ伏して号泣しているという事件があったんですが、「なにがあったんだ?」といぶかる私たちに担任は、「ともかく皆、少しはあいつに優しくしてやれよ。あいつも、親の都合で酒の席の仕事をさせられて辛いんだから」なんて言ったものです。おいおい、可哀想は分かったけど、中学生がそんな仕事をするのを、教師が公認かよ、と思うのは今だから。当時は何も不思議には思いませんでしたね。社会全体がそんな具合だったから。
 そんな彼女は、修学旅行なんかでマイクを握ると達者な演歌の歌い手でした。
 そして私の街は、そんな街だった。

 今日、レコード業界における演歌の売上は消費税程度、つまり数%でしかない、という凋落ぶりで、もはや”偉そうな演歌”なんてもの、存在する余地もない。紅白歌合戦にすがってプライドをつなぐだけのはかない存在に成り果ててしまった。
 そして裏町演歌、こちらについては音楽のジャンルとしてもう滅亡していると考えるしかないでしょう。五木寛之はかって、このような歌を「未組織労働者のためのインターだ」なんて言ったものですが、ともかく作り手たちが過去の作品の焼き直しばかりで、ろくな楽曲も生み出せないでいるんだから仕方がない。

 その一方で今日の演歌の主流をなしているのは、「津軽海峡冬景色」とかに代表されるフォーク演歌、といえばいいんですかね、そのようなもの。これはいかがなものかと思いますなあ。私は素直に、大嫌いです。
 フォーク演歌の特徴はといえば、まず歌詞がダラダラ長い、しかもくどくどと説明調で、ハギレ悪いったらない。いちいち歌の場面設定がこっているから、くだくだ説明しなければならないのでしょうな。でも私は断言するぞ、演歌の歌詞なんて1コーラス4行で終わる、これがダンディズムというものでしょうが、ええ?
 そして曲調はダラダラと感情を垂れ流す、70年代の日本のフォークあたりの影響濃い、ハギレの悪い代物で、さらにアレンジは実に大げさな大作主義で、バックにドカンと鳴り渡るオーケストラにはティンパニの轟きさえ聴こえる。

 などと書いて行くと全くうんざりしてくるんですが、まあ一言、日本における演歌は絶滅した、といえばいいのかもしれない。




演歌の幻想、1970~2012

2012-08-29 01:50:05 | その他の日本の音楽

 ”演歌の星・藤圭子のすべて”by 藤圭子

 輪島祐介氏の著作、「創られた”日本の心”神話」(光文社新書)は、”演歌は日本人の心の歌である”などという、いつのまにか当たり前のように言われるようになった言葉が本当に実のあるものなのかを疑ってかかり、そもそも演歌は言われるような音楽なのかを検証し直した、大変意義深い本だった。
 いかに作り上げられた神話が定説として流通してしまっているかを見事に指摘して見せてくれたこの本で、一九六〇年代から七〇年代への変わり目に、擬制としての演歌の定義が確立される時代を象徴する歌手として登場した藤圭子。彼女のデビュー・アルバム、”★演歌の星・藤圭子のすべて”を、ここで改めて聞いてみた。

 そもそも藤圭子なる歌手、今となっては振り返られる事もなくなった。話題になるとすれば、なにやらアメリカのギャンブル年に大金を持ち込もうとした事件とか、あるいは彼女の娘の歌手としての成功談の余談としてでしかない。
 七〇年当時は、時代を象徴する「艶歌」の星である、いや、これは「怨歌」である、などと作家・五木寛之まで巻き込んで、なにやら大変な扱いとなったものであるが、その後、歌手としての再評価がなされるでもなし、カラオケの場で彼女のヒット曲が歌われるのも聴いたことがない、というか、歌われそうな空気というものが想像できない状態だ。なにか、あまりにも時代の空気と密着し過ぎる形で評価されたためにその歌は、時が流れ去るとともに強引に時のむこうに押しやられてしまったみたいに見える。

 今、ここでこうしてこのアルバムを聴いてみても、懐メロとしての懐かしさもあまり感じない。ただ、”昔、このような歌があった”という感慨が残るのみで、歴史を伝える旧跡を見て回る気分だったりする。
 かって五木寛之に、「このように幼い少女がここまで深い表現を」と息を飲ませたデビュー時の藤圭子の歌声も、今、私としては「ロックに出会いそこなったロック少女の歌」などと定義を思いついたりしている次第だ。歌いまわしの独特な癖に、ちょっとした「萌え」を感じたりもしている。まあこれは、時が流れ、そして聞き手の私もそれなりに人生の時を重ねた、という事情あっての話なのだが。

 このアルバムが出たばかりの頃、五木の賛辞の尻馬に乗るように、サブ・カルチュアの世界でも藤圭子の歌声は一つの権威として横行してしまっており、私としては鼻白む思いがしないでもなかった。
 そんな、あの当時の異様な入れ込み気分に基づく熱に相当するものが今日の我々の社会にはなく、ために”あの頃”の藤圭子の歌声は受け皿もなく、ただ暗闇に響いているだけと感じられる。
 そして、これは私の個人的な感想にしかならないのだろうが、そんなアルバムの中で、「柳ケ瀬ブルース」「東京流れ者」と続く二曲に、妙に自分の心が反応するのを感じた。とりあえず私にとってはこの2曲は「生きて」いる、などと勝手なことを言ってみる。

 何が違っているのだろう。「柳ケ瀬ブルース」、この歌は、日本中に広がる夜の盛り場のネットワークを伝い、幻のように流れ生きて行く「流し」の演歌師の面影が漂う。一方、「東京流れ者」は、何やら硬派気取りの半端者が粋がった革ジャン姿で夜の都会に繰り出す血の騒ぎが歌われている。
 どちらも夜の中で輪郭の定かではなくなった現実の中を幻のように流れる、そんな寄る辺ない魂の彷徨がテーマとなっていると解した。
 五木が高い評価を与えた”夢は夜ひらく”のような、時代に楔を穿つような表現とは別方向に、今、流れ出す人影の幻。なにかその先に見えてきそうなのだが、まあ、他なるアルコールの見せた虚妄なのかも知れない。



兵学校から500マイル

2012-08-17 03:21:48 | その他の日本の音楽

 知人から昨日来たメールの中に「最近、鶴田浩二を聴いている」なんて一節があり、ワールドミュージックの道遥かなり、などと思ってしまったのだが、鶴田の名を見て書いておきたかったことを思い出したので、そいつを文章にしてみようと思う。意味あるものになるかどうかわからないのだが。

 生前は我が町内の町会長などもやっていたことのある写真館経営のMさんは、もう多くの日本人が失ってしまっている習慣を一人、守っていた人でもあり、それが何といえば国の定めた祝日には必ず国旗を挙げる、というものだった。律儀に、というか凛とした姿勢でピンと綺麗な日章旗を祝日ごとに店先に翻らせる様を見ていると、そもそも国旗さえ持っていない自分が申し訳ないようにさえ感じられさえしたものだった。

 そんなMさんの写真館の片隅に、彼の思い出の写真コーナー、みたいなものが設けられていて、そこに掲げられた写真の一枚が、Mさんが鶴田浩二と並んで撮ったスナップ写真なのだった。
 場所は、旅館の廊下か何かなのだろう。私の記憶の中よりちょっとだけ若いMさんと、揃いの旅館の浴衣を着た鶴田浩二が並んで写っている。その世代の人たちらしい無骨さで、特に笑顔を見せるでもなく、なんとなくぎこちない表情で二人は写真の中にいた。
 軍隊の同窓会、とは言わないか、ともかく戦争中に同じ部隊か何かに属していた者たちが、戦後、もう一度集ってみて旧交を温める、みたいな集いのひとコマと想像できた。戦時中は海軍で通信兵などやっていたらしいMさんだったが、鶴田も同じ部署にいたのだろうか?特攻隊の話などしている鶴田ばかりが記憶に残っているので、それもピンと来ないが、軍隊における”同期”の定義もよくわからないので、このへんは何とも分からない。

 その写真と一緒に並べられていた海兵グッズ(?)が、私はちょっと好きだった。通信兵が訓練施設で学ぶ様子を描いた写真やら図説やら。通信兵の訓練用の機器のフィギュアのようなものもあった。悲しい戦争の時代だったけど、それはそれでMさんの青春だったのだろう。それらのものを見ていると、Mさんが兵学校のある日、胸いっぱいに吸い込んだ朝の空気や、友人たちと交わした会話や、戦乱の狭間にも、それなりにあったのだろう胸のときめき、そんなものが瑞々しく蘇ってくるように見えた。鶴田浩二がそのどこに絡んでくるのか、よくわからなかったが。

 このような話を書くと、冒頭の国旗掲揚のエピソードもあり、Mさんが右翼的な人物であったかのように受け取られてしまうかもしれないが、むしろ彼は戦前のモダニズムに生きたインテリ青年の陰りなど漂わせた、まあ、若い頃はかっこよかったんだろうななどと想像させる、立派な体躯のオシャレな老人だったのだ。だけどちょうど戦争が、ということなのだろう。
 Mさんの戦争時代の体験や、戦後、寫眞館を開くに至った経緯など、特に訊いたこともないのだが、それはいろいろあったのだろう、それは。
 そんなMさんも数年前、長年連れ添った奥さんと、まるで互いに相手を追い合うように同じような時期に静かに逝かれた。まるで消え去るように。兵学校の日々を遥か離れて。

 鶴田浩二で好きな曲といえば、「赤と黒のブルース」だろう。というかそれ以外、彼の歌をあれこれ言うほど聴いてはいないが。
 「赤と黒のブルース」は、詳しいことは知らないが、まあ、昭和30年代とかに作られたアクションもの映画の主題歌なのだろう。当時の流行りものをあちこちに配したノワールものの作りは悪くない。なんか暗黒の快楽系の、初期のトム・ウエイツが作りそうな曲ではないか、詞も曲も。

 それこそ、戦争から復員してきた一本気な男が、戦後の理不尽な時代の変化に馴染めず、黒社会にズルズル落ち込んで行く、兵学校の日々を遥か離れて。その自堕落な快楽が思い切り歌われている。そう、ダメになって行くことの心地よさが。このへんも大衆音楽の真実の重要なテーマですな。



演歌の面影・1

2012-08-04 22:57:08 | その他の日本の音楽

 ”柳ケ瀬ブルース”by 美川憲一

 ご存知、美川憲一の出世作となった、当時の表現で言えば「夜のムード演歌」であって、何を今更語るべき、みたいなものであるが。
 先日、なんとなく演歌に関わるサイトを覗いていたら、この歌についてひとつの事実を知った。
 もともとこの歌は、長岡の地でいわゆる「流し」をしていた宇佐英雄氏が自身の体験に基づいて作詞作曲した「長岡ブルース」であった。が、たまたま柳ケ瀬の街に遠征して歌っていたのをレコード会社のディレクターに見出され、柳ケ瀬の街に関わりのある新人、美川憲一のデビュー曲に登用されることとなり、タイトルも「柳ケ瀬ブルース」と変更され、レコードとして世に出ることとなった。

 そんな記述が、何か心に残った。とたんに、ギター抱えた演歌師とともに流れる歌と心、のイメージが頭を離れなくなった。
 酒に澱んだ盛り場の、川面に揺れるネオンのあかり、その狭間から自然現象として生まれてきたかのようにさえ思える昔気質の歌が、酒場女の溜息と共に、その路地に浮遊霊の如く染み付いて洗い流すすべもないかと思われた演歌が、裏町演歌師の稼業につれて簡単に流れる。舞台設定さえ変えてしまう。
 それが、酒場歌をいくばくかのオカネに変えては生きて行く、流れの演歌師たちのある意味寄る辺なき、ある意味したたかなナリワイを生々しく感じさせたのだ。

 「そうだ、この歌、この土地の歌に変えちゃいましょう。この土地の地名が入っていたほうが、お客さんも喜ぶよねえ、そりゃ」
 ”悶え身を焼く火の鳥”と歌われた、この歌に宿るタマシイは、見知らぬ土地でその名さえ変えられ、それでも忘れられぬあの人を想い、今夜も雨中に身を焼く。この歌は、宇佐英雄氏が現実に体験された悲恋に基づくものなのだそうだ。

 裏町の歌い手たちの、そしてバンドマンたちの消息はすぐに知れなくなってしまう。ほんとうに雨に溶けるように彼らは姿を消し、そんな彼らの足跡をカラオケの登場は永遠に消した。歌はただ異郷に残り、歪められた名のまま、想いを辿り続ける。

 何をわけのわからんウワゴトを言い出すのだと呆れておられる向きもあろうが、お許し願いたい。なにしろこちとら、温泉地の歓楽街に生まれ育ち、流しのお兄さんにギターを、キャバレーのバンドマンにサックスと音楽理論を学んだスジモノであって、夕暮れ迫る辻々に赤い灯青い灯が灯り、安い期待に胸ときめかせ街に繰り出す酔客たちの笑い声や、それを迎える女たちの嬌声などが醸し出す、ささやかな華やぎの一刻と、そんな世界の登場人物たちには、それなりの思い入れがあるのだ。

 この3月、作者の宇佐英雄氏が亡くなったそうだ。妻子を北海道に残して単身滞在していた三島の街で客死された、とのこと。長岡の件といい、伊豆の地に肌の合うものを感じておられたのだろうか。
 作家としては、「柳ケ瀬ブルース」はヒットしたものの、作曲と作詞をともに自身で行う独特のスタイルが分業制度の確立した当時の歌謡界には受け入れられず、不遇のうちに終わったようだ。



女王の帰還

2012-07-19 04:18:29 | その他の日本の音楽

 mixiニュースでAKB48の新メンバーというかまだ研究生の立場にある光宗薫ってコに関わる一つの記事を見つけ、たいして熱心なAKBウォッチャーでもない私にも妙に気になったコの、その後についての非常に味わいのあるオハナシであったので、こりゃ良いものを読んだなあと感じ入った次第。まあ、興味のある向きは、下に引用した記事や、その掲載サイトなど覗いてみていただきたいが。

 そもそもこの光宗なるコ、まだ実績のない研究生の身ながら、アイドル誌の記事のみならず、ワイドショーの芸能ニュースなんて場でも大スター扱いとなっていた。多くは「トップモデルへの道を蹴り、AKBの明日を担う新人へ!」なんて趣旨の記事だったのだ。
 実際彼女は、CMやらテレビドラマやらで大きな仕事を早々とこなしつつあったようだ。”大スター候補!”との評価がぶち上げられちゃうと、バタバタとおいしい話が舞い込んでくる、モンキー・ビジネスとしての芸能界の甘さと怖さを象徴するような話。

 私が光宗に強い印象を受け、彼女の存在に興味をもったのが、某アイドル雑誌の、あるテレビドラマの撮影探訪記事だった。
 AKBの先輩メンバー連中が脇役として出ているその番組で彼女は、ほとんど主役みたいな役柄を割り当てられ、その雑誌の記事でも、ほかのメンバーは「××ちゃんにドラマ出演の感想を聞いてみた」みたいな友達扱いの記事内容なのに、光宗に関しては「光宗さまが気軽にインタビューに応じて下すった。サインまでもらえた。ラッキー!」なんて超スター扱い。
 すごいことになってるなあ。このまま行くとえらいことにあるのではないか、それがどんなことか知らないが、と私はなんとなく背筋に冷たいものを感じたのだが。

 そのうち開催された、AKB名物の総選挙。
 上述したような下にも置かれぬ扱いで芸能生活をスタートさせた光宗、「ひょっとしたら私は、新人でありながらトップの座を奪ってしまうんじゃないかしら?」なんて、はちきれんばかりの自負を胸に臨んだのだろうが。
 その結果は。光宗に票はまったく集まらず、彼女は順位がつく64位以内にも入れないまま終わった。「自分たちがスターを作り出している」とのプライドのあるAKBオタ連中であり、運営側からゴリ推しされているメンバーは人気が出るどころか反発を買うとのジンクスはあるしねえ、あの世界には。

 結果発表の直後の光宗は、憤怒の表情で会場を埋めたAKBファンを睨み続けていた、とのこと。まあ、睨んでみたって、そこにAKBファン全員がいたわけでもないし、そもそもファン連中から「投票する」って約束が取り付けてあったわけでもなし。「話が違う」とか怒ってみたって、そりゃ言いがかりにしかならんでしょう。
 もうねえ、私、この種の話を聞くと、因果もの好き、変なもの見たさの血が騒ぎ、嬉しくて仕方なくなってくるのですわ。

 さて、その後の光宗は。下にあるように、「明日からは絶対に負けない。次は負ける気がしないです」とか。まだわかっとらんわ。そんなコメントするから嫌われるんでしょ。だったらどうすればいいのか?うん、たとえばラジオ番組、”EXILEネスミスのオールナイト・ニッポン”でも聞いてみたらいいんではないか(笑)
 
 以下、引用記事。

 ~~~~~

 ☆AKB48光宗薫が苦悩を告白「なぜ自分は何かが出来る事が前提なのか」。
             (ナリナリドットコム - 07月18日 15:40)

アイドルグループ・AKB48への加入以来、“超大型新人”として多くのメディアに登場し、話題を集めてきた13期研究生の光宗薫(19歳)。そんな彼女が現在置かれている自身の状況について、Google+で苦しい胸の内を吐露している。

光宗は18日深夜、ファンに向けて「怖いしつもん」とのエントリーを更新。「野心や責任感が、自分を過大評価していると思われる程強い事やそれを剥き出しにする事はアイドルとして間違ってますか? 話題性での結果から本人の努力の結果だと感じ方が変わるのはいつですか?」とつづり、周囲の目に映る“光宗薫”像と自身のギャップに戸惑いを感じている様子をうかがわせている。

そして「なぜ自分はある程度何かが出来る事が前提なのかな、それも自意識過剰かな。研究生だけの特権が自分には無いように思うよ」と、研究生という立場にも関わらず、求められているモノの大きさに苦悩。その上で「なんだかんだそんなこと言ってまだ自分は悩む程努力してる時間と経験値が全然足りてない」と自戒している。

光宗は昨年3月に開催された「神戸コレクション モデルオーディション2011」でグランプリを獲得したものの、モデルの道には進まず、AKB48の13期研究生に。昨年末開催の「AKB48紅白対抗歌合戦」には同期16人の中で唯一出場した。

加入まもなくの今年1月には「週刊プレイボーイ」(集英社)で6ページのグラビア+インタビュー、2月には「行列のできる法律相談所」(日本テレビ系)に単独出演、さらに日本ヒューレット・パッカードのCMに前田敦子、篠田麻里子、小嶋陽菜、板野友美と共に出演。4月からは連続ドラマ「ATARU」(TBS系)にレギュラー出演、今冬公開予定の映画「少女カメラ」では初主演と異例の抜てきが続いた。

こうしたほかの研究生とは異なる猛プッシュに、ネットでは「ゴリ推しなのではないか」との声が上がったが、総合プロデューサーを務める秋元康氏は今年2月の時点でその疑惑を否定。Google+で「今、テレビやグラビアやコマーシャルをやっているのは、すべて、先方からのオーダーです」「僕が押し込んだわけではありません」と異例のコメントを発表した。

また、6月6日に行われた「AKB48 27thシングル 選抜総選挙」で、光宗は64位までの“議席”に入ることができず圏外に。この結果を受けて「自分はもっとAKB48に全てを捧げなければいけない」とそれまでの活動を反省し、Google+に「明日からは絶対に負けない。次は負ける気がしないです。何でもする」と新たな決意をつづり、現在の活動に励んでいる。

(Narinari.comってどんなサイト? → ★★★ )