ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

サイケデリック・アフリカンビート!

2010-11-30 03:17:44 | アフリカ
 ”PSYCHO AFRICAN BEAT”by PSYCHEDELIC ALIENS

 こんな音があったんだなあ!60年代末の西アフリカの夜を彩った最高にファンキーなバンド!なにしろサイケデリック・エイリアンズのサイコ・アフリカンビートなのである。他に何を言うことがあるだろう。あとはミニミニスカートでゴーゴーゴー!あるのみなのである。夏の太陽は待っちゃくれないぜ!
 暴れまわるリズムに煽り立てられるまま、エレキギターがオルガンがうねり、当時、いっちゃんナウかったオープンエアーのディスコの空気はますます熱く燃え上がっていった。

 その音が”アフリカのミーターズ”というべきサウンドになっていたのは、これ、偶然の産物なのだろう。メンバーが時流に乗りアフリカの血が騒ぐままに、”エレキでゴーゴーだ、ニューロックだっ!”と一発勝負に出た結果、このホットでクールな音空間が現出していた。
 これはカッコいいね。60年代から70年代へと歴史の扉がスイングする頃、当時の西アフリカのロックシーンは、こんな具合に盛り上がっていたんだ。ロックの”正史”からは見落とされたまま。

 まだ青かったロックとアフロの血が絡み合うままに黒いグルーブがのた打ち回り、ファズやらワウワウやらのかかったギターが切れまくり、最高クールに歪んだ音でハモンドが闇を切り裂く。
 なんか聴いているうちに「先祖がえりをしたアフロ・キューバン・ミュージックがどうのこうの」なんてお定まりのアフロポップ近代史の講義なんかぶっ飛ばせって気分になってきたのよな。ロックしかねえだろ、ええ?シェケナベイベ・ナウ!

 めちゃくちゃ凝った装丁のジャケから、この幻の西アフリカ・サイケバンドの発掘作業を行なった連中の気の入れようが強力に伝わってくる。欧米のマニア連中の、この”失われたアフロ音源”の探求、どこまで続くのだろう。こちらも、この世の果てまでつき合わせてもらう気でいるが。



ヒョリ姐さんのエロ革命

2010-11-29 00:23:42 | アジア


 ”STYLISH...”Lee Hyori

 今、日本で話題になっているような韓国のアイドルグループが何かのインタビューで、彼女の事を「ヒョリ姐さん」と呼んでいたのがなんか面白かったので、イ・ヒョリを取り上げる気になった。
 イ・ヒョリといえば韓国のポップス界のエロ化に大いなる功績のあった人である。そもそもは韓国のR&B系セクシー・アイドルグループの草分けと言うべき”ピンクル”のリーダー格として90年代のハングル男子の股間を大いに刺激した。そして2003年8月13日、満を持して発売されたのが彼女のソロ・デビューアルバム、”STYLISH...”である。

 このアルバムにおいてイ・ヒョリはグループ時代における”かわいらしさ”路線から逸脱、儒教国韓国においてタブー視されていた”エロ路線ダンスポップ”に完全と挑んだ。というか、もともと持っていた彼女の資質を全面公開してみせた、ということなんだろう。
 性愛経験に関する奔放な発言、露出の多い衣装とセクシーなダンス、いや、そもそもその茶髪だけでも、清楚なる黒髪が当たり前だった当時の韓国芸能界においては衝撃だったと聞く。当然反発も多かったが、”イ・ヒョリ・シンドローム”なんて言葉まで出来るくらいの大衆の支持が集まってしまった。もう止まらない。

 ピンクルにはボーカル部門補強のために加入させた”上手い歌”担当のメンバーがいたし、ソロになってからも激しい踊りゆえ息が切れるとかで、テレビ出演の際にはいわゆる”口パク”を多用し、それをたびたび非難されてもいる。
 もっとも私は彼女の歌、評価するけどね。彼女の歌声の、頼りなくフワフワしつつも妙にヌルッと濡れているようなところ、多湿多雨な東アジアの気候に準拠した微妙なセクシーさをひそやかに分泌している感じで、よろしいんではないか。

 その後も彼女はエロな話題各種を振りまき、エロいアルバムを連発し、慶賀の至りなのであるが、一つ何とかして欲しいのは写真集である。一冊出ているのだが、これが水着一つ披露していない地味な代物で、この辺、セクシー・アイドルとしては猛省していただきたいところだ。まあ、韓国では歌手がこの種のものを出すこと自体、珍しいんだけれど。



ロック少年の歌謡曲な日々

2010-11-28 05:43:12 | 音楽論など

 昨日に続き、友人知人のmixi日記などに寄せたコメントの持ち帰りであります。

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 ☆2010年11月24日 22:26
 これ(注)のCD、興味を惹かれたんだけどネットで試聴してみたら、あまりにも芸術的過ぎるんで「ついて行けないかも」って気がして、買うのは一時保留としてしまった。どうしようかな~。(注・坂本龍一&大貫妙子「UTAU」)

 ☆2010年11月24日 22:19
 鈴懸の道には思い出がある。大学に入学して、すぐにジャズ研究会に入ってテナーサックスを吹いていたのだけれど、「スイングをやろう」みたいな話になって上級生からあてがわれたのが”鈴懸の道”だった。
 なんだよこれは。ジャズじゃなくて昔の歌謡曲だろう、と我々は猛抗議、演奏曲は”5スポット・アフターダーク”に変更された。でもなぜか歴史のあるジャズ研では伝統的に”スズカケ”をやるみたいですね。
 今ではこの曲を聴くと学徒動員とかが思い浮かぶようになったけれど。この曲とか”森の小道”なんかを胸に抱いた学生が戦場に駆り出されていった、あの時代のことが。
 いずれにせよ、あんまり演奏する気になれない曲であるのは同じことなんですが。

 ☆2010年11月20日 20:45
あこるでぃおんが弾けたらなあ。
萩原朔太郎の出入りするやうな場末のかふええの薄暗い席に陣取り
日がな一日、誰にも忘れられた古びた恋歌を奏で続けようものを。
誰にも気付かれず、その日の終わりまで。

 ☆2010年10月29日 01:14
 ボタン式アコーディオンでなくては始まらないタンゴなんかが好きなくせに、実は私は楽器としては鍵盤式のほうが好きなのでした。あの、もったりとしてちょっとリズムに乗り遅れるみたいな感触がたまらない。
 たとえば70年代のアメリカ南部ロックのバンドがやる”ケイジャン風の曲”なんかでモサ~ッと鍵盤アコの音が流れる、あれがたまらん。実は本物のケイジャンではあんな音は聴かれないんで、あいつも虚構の産物なんでしょうけど。
 あと、万国の歌謡曲のバックで流れる鍵盤アコのダルな味わいなども忘れがたい。こいつは大都市のホールからずっこけて下町へ身を落としていったアコーディオンの貴種流離譚か?とか想像してみたりします。

 ☆2010年06月25日 22:44
 「全人類の心の中にある感性の湖」みたいなものを妄想することがあります。その湖は底の方で民族や文化の垣根を越えてつながっている。そこで鳴り響いているのが、”ホテルカリフォルニア系”の、マイナー・キイの貧乏臭い歌謡曲じゃないのか?
 そいつの一味は、たとえば”ストップ・ザ・ミュージック”であり”ダンシング・オールナイト”であり、”黒く塗れ”であり”哀しき街角”であり、”パイプライン”とか”シークレット・エイジェントマン”なんてのも含まれるのかも知れません。
 そいつの正体を掘り当てたくて、あちこち世界中の音楽を自分は聴きまわっているのかも知れません。ワールドミュージック歴が長くなるほど、そんな思いが強くなっています。



ロック少年のフォークな日々

2010-11-27 20:15:16 | 60~70年代音楽

 掲示板や友人・知人のmixi日記なんかに書き込んだメッセージというのもオノレの貴重な記録ではあるんで、そのまま散逸させるのは残念だなと思っていた。そこで、ここに再録してみました。どんな流れの中での発言かお分かりにならないかと思いますが、まあ、お読みください。

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 ☆2010年11月01日
 谷啓氏もそうだったのだけれど、今回の野沢那智氏もそうだ、ほんとに大事な思い出のある人の訃報は、軽々と日記には出来ないものなんですね。何もかけなかった、というか書く気になれなかった。
 那智氏はラジオの深夜放送、パックイン・ミュージックを聴いてました。深夜のラジオの楽しみを教えてくれた人と申しましょうか。
 「風のささやき」は、当時、平凡パンチ別冊号の付録の歌本(ギター・コード付きで、中高生バンドは大変重宝した)に載っていて、そこに付けられたコメントが記憶に残っています。いわく、「息の長いヒットになりました。このままスタンダード・ナンバーになるでしょう」と。
 そりゃあどうかな?と当時の私はガキながら首を傾げました。だって、もうとうにみもフタもないロックの時代はやってきていて、「良い曲を何人もの実力派歌手が歌い継ぐ」なんて悠長なことは今後、誰もやらないかもしれないのに、スタンダードナンバーも何もあるもんかよ、と。まあ実際、そんな時代がやってきていましたね。

 ☆2010年10月28日 04:15
 マリアンヌ・フェイスフルというと初期英国ロックの歴史における助演女優賞、みたいなスケベな視線で見ていたもので、レコードは”涙溢れて”くらいしか聴いていなかった!
 けど、こんな良い感じのアルバム(注)を出していたんですね。調べてみたけど盤としては廃盤みたいで残念です。別にオリジナル盤が欲しいとか言わない、CD再発してくれえ!盤が欲しい、盤が! (注)Marianne Faithfull / North Country Maid

 ☆2010年10月30日 00:52
 ナッシュビル・スカイラインは、考えてみれば最初に聞いたディランのレコード。それまで、バーズとかマンフレッドマンとか、ディランの曲をカバーしたロックバンドのレコードには親しんでいたので、まるではじめてって気はしなかったが。
 聞かせてくれたのは高校の先輩のタナカさんで、東京の大学に通いながら”フォークゲリラ”をやっていた人。春休みの里帰りのついでに、故郷の町にもゲリラの下部組織を作ろうとしていて、そのメンバー候補として、我々音楽好きの後輩が「俺っちに遊びにに来いよ」とか誘われた次第。
 私は、本とレコードだらけで壁にモジリアニの展覧会のポスターなんか貼ってあるインテリチックな(?)先輩の部屋に感心してしまっていた。単純だったねえ。
 春風の中でつまらないことにもドキドキしていたあの頃。そんな風にこの盤を聴いたのだった。

 ☆11月25日
 エレキから入った私だけど、生ギターも面白いかと思い始めた高校時代、好きだった曲(注)だった。でも周囲に賛同者がいなかったから、冬、水の入っていない高校のプールサイドで一人で弾き語りの練習をしていた。「その曲好き」と言って隣に座ってくれる女子一名・・・は、現れなかった。(注・Early Morning Rain)




スコットランドの行路灯

2010-11-25 01:17:20 | ヨーロッパ

 ”Air Chall∼ Lost”by Rachel Walker

 スコットランドの民謡歌手の中では、もう伝説上の存在みたいな感もあるレイチェル・ウォーカー。これは彼女の4年ぶりの新譜。堂々の横綱相撲、みたいな落ち着いた出来上がりである。
 特別、熱唱をする訳でなく、むしろ淡々とケルトの民の残した言葉、ゲール語で古き伝承歌を歌い紡いで行く。もうベテランのはずの彼女の声がいつまでも瑞々しい響きで聴こえるのは、そのか細い美声のせいなんだろう。深い森に住む妖精の物語を歌うに、いかにもふさわしい。緑の森の息吹が、まさに彼女の歌声に乗ってこちらに伝わってくるのだ。
 一体何歳になるのか知らないが、いつまでも神秘の美少女のイメージがある人である。

 今回のアルバムも彼女らしい”凛”とした手触り。しっとりとした情感が終止流れていて、まさに深い森の緑に抱かれたような気持ちにさせられる。
 今回の盤、タイトルにも”Lost”の文字が見えるが、”喪失”がテーマとなっているととるべきなのだろうか。最後に置かれた、恋人を海で失った女性の嘆き歌がとりわけ印象的だ。他に、生まれたばかりの赤ん坊を抱きながら、水夫の夫の帰りを待つ妻の歌や妖精に恋した男の不思議な物語など。伝承曲7曲、自作曲4曲。

 途中、11曲収録中の6曲目だからアナログ盤だったらA面の最終曲になるのだろうか(申し訳ないが、いまだにこういう聴き方をしている。CDの曲順を見ながら、「これはB面の3曲目に相当するんだろうな」などと)そのあたりに置かれたアルバム中唯一の英語曲、”Home On My Mind”にもドキッとさせられる。
 そこでは、それまでゲール語で繰り広げられていたファンタジィの霧がひととき晴れ、生身の彼女が生きる、剥き出しの現実が顔を出している。深夜の都会の通りと孤独の物語。通り過ぎた雨が濡らしていった歩道が行路灯の明かりに光り、冷たい風が吹き抜け、彼女は夫と幼い子供たちが待つ家を想う。

 すべては過酷な現実の上に頼りなく浮ぶ泡のようなもので、そいつはふとした運命の気まぐれで一瞬にして失われてしまう。その儚さの中で人が最後に信じ、握り締めるものは何だろう。
 さて、彼女からの次の便りは何年後になるんだろうな。



王様とブルース

2010-11-24 01:04:32 | アジア
 ”by His Majesty King Bhumibon Adulyadej”

 タイのプミポン国王が大変な音楽マニアでいらっしゃることをご存知の方は多いかと思うが。たとえば故・景山民夫の短編小説の中に、バンコクのジャズクラブに愛用のテナーサックスを抱えて乱入、恐れ入るクラブのハコバンをバックにバリバリとアドリブを吹きまくる若き日の国王の姿などが活写されていて、おい、本当かよと呆れてしまうのだが、あながち作り話ばかりではないようだ。
 国王だからと言って、タイの伝統音楽や宮廷音楽を追求していたり、あるいは我が国の皇室ご一家のように西洋のクラシック音楽をご愛好というのではなく、最愛の音楽がジャズ、というのが嬉しいじゃないか。

 その他、プミポン国王は庶民の好んで聴くポップスのタグイにも理解を示されており、国王作曲の歌謡曲、なんてのも何曲も存在している。それらをタイの有名歌手たちが歌った、大変に畏れ多いアルバムなども作られており、そこに収められた曲群の、プミポン国王らしいジャズっぽいフィーリング漂う親しみやすい曲調に、かたじけなさに涙こぼるる次第である。
 今回のこのアルバムもそんな”国王御作”のポップスを集めた作品。タイの民族楽器であるクルイと呼ばれる木管楽器、西欧のティン・ホイッスルに形も音色も良く似た小さな笛なのであるが、全編、それで国王のメロディを吹きまくった異色作である。で、これがなかなか良い感じの出来上がりなのであった。

 もう冒頭からジャズ、というよりディープなブルース・フィーリング漂うメロディが提示されるのだが、これが透明感溢れるクルイの響きで奏でられると独特の浮遊感のある出来上がりとなり、いかにも”国王陛下御作”っぽい浮世離れたファンタスティックな世界が出来上がり、これがなんとも心地良いのだった。
 さらにこうして爽やかな笛によって奏でられることによって、国王の紡いだメロディの奥底に通奏低音みたいに流れている、何処か遠くの世界へ向けた視線と聴こえる切ない憧れの感情の表出がグッと前に出てくる。遠くの世界と言うのは特定の場所ではなく、誰の心にもある、追っても届かない青春の日々の感傷のようなものなんだが。

 プミポン国王お得意のブルースっぽいメロディの内に潜む、そんな切ない感情を引き出してみせた、というあたりにこのアルバムの価値を認めたい。別にこれは国家機密じゃないだろうし、かまわないと思うんだけどさ。
 と言うわけで、これは意外に愛聴盤となっている国王陛下御作のメロディ集であったのだった。それにしてもプミポン国王の青春の日の夢ってなんだったんだろうね。




雨のイスタンブール

2010-11-23 01:05:09 | イスラム世界

 ”Benim Sarkilarim”by Humeyra

 イスラム圏のアラブ・ポップス数あれど、テンションの高さで一番なのはトルコ歌謡ではないかと考えている。より鋭い歌い方や尖った音は他にもあるかもしれないが、音の内に流れる感情の溢れかえり様は並ぶものなき、みたいな激烈なものがあると感ずる。一度歌いだしたら行くところまで言ってしまわねばおさまらないみたいな。
 そんなトルコ歌謡なので、この盤のような抑えた感情表現が売りみたいな世界に出会うと、何だか凄く新鮮な気がして、つい贔屓したくなってしまうのだった。

 この名はヒュメイラと読めばいいのだろうか、はじめて聴く人だが、キャリアはそれなりにありそうだ。トルコ歌謡というよりはシャンソンみたいな押さえた、そして歌謡曲的な嘆きの内に秘せられて行く感情表現の歌唱が心に残る。
 まず嘆きのバイオリンに導かれ、アコーディオンの隠し味など従えつつ、いつも雨の降っているような湿度の高い、しっとりしたサウンドと歌が始まる。そのメロディラインもイスラム色はそれほど強くなく、むしろ他の文化社会の庶民にも容易に共感を得そうな”いわゆる歌謡曲”っぽいメロディラインが歌われて行く。

 グッと感情がこみ上げ、みたいな箇所があっても、そこは極まることなく、フッと力を抜いた溜息路線の憂いの表現に歌は溶けて行く。歴史ある大都会イスタンブールに生きる大人の女の、ちょっと粋な後ろ姿を見たみたいな感じ。日本の昭和30年代に流行った都会派歌謡などを、ふと連想したりする。あるいはもっと遡って竹久夢二調か。
 髪型が最近の大貫妙子っぽいのも偶然の符合だろうが、ちょっと面白く思った。

 残念だが、このアルバムからはYou-Tubeには音が上がっていない。仕方がないので彼女の他のアルバムからの歌唱で一番このアルバムに近い印象のものを下に貼っておく。雨のイスタンブールの憂愁など、お楽しみいただきたい。



アトムの街角で

2010-11-22 00:05:36 | エレクトロニカ、テクノなど

 ”Catch/Spring Summer Autumn Winter ”by I Am Robot and Proud

 相変らずエレクトロニカやらテクノやらを右も左も分らぬまま追いかけている今日この頃なのだが。その分野での最愛のアーティストは、これはもう決まっている、以前ここで取り上げた”i am robot and proud”である。このあったかいタッチの電子音楽、これはいいなあ。

 彼の音を視覚化すると、ポンポン弾む光の玉になるんじゃないか。曇り空の下、変哲もない住宅街を屋根伝いにいくつもの光の玉が連なり、リズミカルに揺れながら弾み、飛んで行く、そんなイメージ。その光の色は、いずれ忘れ去られてしまうのだろう、懐かしい白熱電球の色をしている。

 光の後には、その地に住むなんでもない人々の喜怒哀楽を運びながら、時がゆっくりと住宅街の屋根の下を通り過ぎて行く。
 あるいは律儀に働き続けるロボットたちの姿か。何台も何台ものレトロな人間型ロボットが、チャップリン扮する労働者でも働いていそうな古色蒼然たる工場で動き回り、地味な地味な生活必需品を作り上げて行く。

 のどかで暖かくて懐かしくて、その裏にはどこか物悲しさも漂うような。そして、そんな街角に佇む、世界にかけられた謎を解く鍵の行方について想いを寄せる半ズボンの少年が一人。そいつはただ一人のユニット構成員であるショウハン・リーム、あるいはユニット名の由来となった”鉄腕アトム”の面影なのかも知れない。



怒号銀河

2010-11-20 04:11:36 | エレクトロニカ、テクノなど
 ”CLASSICS”by MODEL 500

 この年齢に来て”初心者”を楽しめる音楽に出会えて幸運だった、というべきか。今は地図も定かではない荒野をうろつきながら、とんでもない驚きに出会うアドベンチュアを満喫しているのだが。
 と言うことで、ここに来てエレクトロニカやらテクノやらという音楽にすっかり惹かれてしまい、行き当たりばったりに電子音のあれこれを聴きまくっている。まあ、いくら金があっても足りんのよ、誰か助けてくれ、というCD貧乏者の嘆きはいまさらでもないのだが。

 この盤はデトロイト・テクノの第一人者、Juan Atkinsなる人物が1985年から1990年にリリースしたシングル集とのこと。そういわれたって、「へえ、デトロイト・テクノと言うジャンルがあるのか」と右も左も分からないこちらは感心するしかないのだが、その道の開祖の偉大なる足跡と言うことになるようだ。
 テクノといってもこれまでクラフトワークに始まるドイツもの若干くらいしか聴いたことのなかった当方としては、この猥雑なかっこよさに圧倒されるばかりなのであって。ジャケのSFっぽい意匠に、果てしない夜空に孤独に響くピコピコ音など想像していたのだが、そんなものではなかった。

 夜空に屹立するファンキーなベース音が銀河の果てまでドクドクと鼓動を伝え、深夜の高速道路を行く大型トラックなみの迫力で、何隻もの宇宙船が虚空へ飛び込んで行く。おそらく彼らは、積荷を高値で売るための何らかの事情に急かされ、あのように気ぜわしくワープを重ねるのだろう。そんなクールでハードボイルドな美学が銀河のドライブを貫いているようだ。
 交錯する電子音。ネットワークに響くロボ声のアナウンスメント。リズムの乱反射に打ちのめされて。反復、そして反復のうちに、この人を炒り立てるヒリヒリするようなビート感覚と言うのは、良質なアフリカ音楽を享受する瞬間とまるで同質じゃないかと手に汗を握りつつ感じる。

 そして、ここに貼るために覗いてみたYou-Tubeで、この盤に収められた曲の別ヴァージョンにさらにカッコいい代物が存在する事を知り、おい、それを手に入れるにはどうすればいいのだと煩悩はさらに銀河を超えて行くのだった。やめられんなあ、これは。



アフリカン・サイケな夜

2010-11-19 02:24:30 | アフリカ

 ”INTRODUCTION”by WITCH

 あの”アナログ・アフリカ”のシリーズあたりを筆頭に、欧米人のアフリカにおけるマイナー盤狩り&CD化再発ブームもここに極まっている感がある。
 ネットのどこかで見たことがあるのだ、マスクやらマジックハンドやらで強力な汚れからの完全武装をした白人男が、倉庫だかゴミの山だか分からない場所を突き回している写真を。そこに無秩序に押し込められていた、年季の入ったゴミかと見えたのは、すべて薄汚れたアナログ盤だったのだが。
 記事のタイトルにはそれが、”アフリカにおける盤狩り”の風景であることが記してあった記憶がある。あんな風にして、禍々しいビートに黒光りした辺境ファンク音楽は歴史の闇から引きずり出されてくるのだろうか。

 さて、これもその一枚。アフリカの南の小国ザンビアの、こんなアフロポップス・レア盤発掘騒ぎがなければ時の流れにただ流され陽の目を見ることもなかったであろう、マイナー臭ふんぷんたる美味しい発掘物件である。
 と言ってもこの連中、アルバム冒頭に置かれたタイトルナンバーこそショーアップされたメンバー紹介など差し挟むソウル・ショーのオープニングめいた仕掛けのナンバーだが、その後に展開される世界はむしろロックバンドの姿をしているのだった。それも、60年代末によくあった、サイケの色濃いブルースロック・バンドの姿を。

 ブカブカと軽薄に鳴り渡るチープなオルガンの音がサイケ色に飾られた60年代っぽいライトショーの面影を運ぶ中、素っ頓狂なファズ(ディストーションなんてお上品なものではない)のかかったギターが寺内タケシもかくや、の露骨なペンタトニック・ケールで延々と狂おしいソロを弾きまくるのである。サイケなのである。
 そしてそんなサイケの祭りにも、どこかにマッタリとしたと言えば良いのか、悠揚迫らざるタイム感覚が横たわっているあたり、やはりアフリカであると言えようか。太陽の光を浴びながらどこまでも転がって行くサイケの魂なのである。

 それにしても凄いよなあ。次にはどんなものが、あのゴミの山かと見えた場所から発掘されてくるのだろうか。