ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

80年ぶりの帰郷

2009-08-31 02:35:17 | 南アメリカ

 ”Seis Cuerdas Y Una Voz”by Anibal Arias Y Oscar Ferrari

 ともに80歳を越えた大ベテランのタンゴ歌手とギタリストの共演盤である。ほかに伴奏はなし。その歳になってもきちんと現役の音楽家である二人の、かくしゃくたるプレイがあるのみである。2006年作。

 ”唄ものタンゴ”の懐かしのメロディ定番曲を中心にして、穏やかな表現ながら溢れる歌心が零れそうな共演が続く。物静かながら枯れてはいない、そんな切なさを含んで、歌声にもギターの音にも、まだまだ艶を感じる。
 歌手の自作詩朗読やギタリストのソロ演奏などを差し挟み、ギターと唄だけの編成ながら聴いていて飽きる事がない。

 歌謡タンゴの創始者である巨人・ガルデルの作った”帰郷(ボルベール)”が中ほどで歌われていて、これがたまらなく甘美だ。
 遠くの土地を長い事さすらった男が、年老いて故郷に帰ってくる。男の心は懐かしさで一杯だが、同時に名付けようもない不安に囚われてもいる。帰った故郷で何に出会ってしまうのか。忘れたはずの夢にか。形も定かならぬ期待と恐れに、胸騒ぎがやまない。

 今日ではあまり録音される事もない古い恋歌、”ラモーナ”が収められているのが嬉しい。 最晩年のディック・ミネ氏が、国営テレビで放映された最後の”ディック・ミネ・ショー”でクロージングに歌った曲。当たりを取った歌謡曲でもなく、ジャズ歌手といわれた一般的イメージに付き合ったものでもなく、ディック氏が生涯最後の大舞台を締める曲に選んだのは、タンゴの国の古くて優しいメロディのワルツだった。

 きっと今、二人はこうして帰って行くところなのだ。自ら奏でる宝石みたいな音楽に乗り、80年前にいた場所に帰って行く。その輝きと、漂う一片の物悲しさ。
 一音一音を噛み締めるように音は紡がれて行く。



海の最後の日

2009-08-30 04:57:19 | ものがたり

 その日は夏休み最後の日で、その時私は小学校6年生だった。

 空気の中にまだ夏の暑気はわだかまってはいるものの最盛期の勢いはすでにうせており、何よりその日はどす黒い雲が空を覆い、まるで海水浴日和などと言えたものではなかった。だが私は、物好きにも海水パンツ一枚で浜辺に出たのだった。夏休みが終ってしまうのだから夏は今日で終わりと観念するよりないのだが、私はまるで泳ぎ足りていなかった。その夏のはじめに心に描いていた水泳浸りの夏休みは、台風の到来やらなどに阻まれ、まるで実現できていなかった気がしていた。

 だから、たとえ泳ぎに向いた日でなかったとしても私は、家のすぐ前に広がる海岸に直行し、こなしきれなかったノルマを解消せねばならなかったのだ。
 いやいや、ただ単に楽しかった夏休みを終らせてしまわないための呪的行為としての海水浴を行おうとしていただけだったのかも知れないが、その時の私は。

 もうすっかり秋の色が支配する砂浜には、海水浴客などは十数人が出ているだけだった。誰も皆、寒そうな様子で浜に佇むばかりで、妙に黒褐色が勝った色の波が打ち寄せる海には入って行こうとしない。砂浜の監視員は、今日で終わりとなるバイトゆえすでにやる気も失せており、なにより閑散とした浜のありように倦んでいた。

 彼は本来そこに詰めているべき監視台から降りてきて、どうやら顔見知りらしい小学生相手に砂を投げつけては「汚いから海に入って体を洗え」と命じ、小学生がその通りにするとすかさずまた砂を投げつけ、「ほらほらどうした、まだ体が汚れているぞ」と因縁をつけるという、つまらないイジメを陰湿に続けていた。

 私は気持ちを鼓舞して海に入りはしたものの、びっくりするほどの水の冷たさに、すぐに浜に上がってしまい、成すすべもなく打ち寄せる波をただ見つめるだけの、砂の上の海水浴客の群れに加わるしかなかった。

 そんな砂浜での一時の人気者は、誰かが連れてきた黒い大きなシェパードだった。その犬は、誰かが砂浜の上のボールなどを海に向かって投げるたび、フルスピードで海中に飛び込んで行き、それを口に咥えて得意げに戻ってくるのだった。皆は何度も海に向かって物を投げ、そして犬は大張り切りでそれを咥えて来た。海水浴客は本来の目的の海水浴が寒空ゆえにままならぬうさを晴らすかためのように、オーバーな歓声でそれを迎えた。犬はますます得意になり、尻尾をさかんに振って次の獲物を催促した。

 そこで私はつまらない細工を思いついた。私は海岸の砂を丸く固めて砂団子を作り、それを犬に示してから寄せる波に向かって投げつけた。犬は猛ダッシュで海に飛び込んだが、もちろん砂団子は海水に触れると同時に霧消しているのだから、咥えて戻ってくる獲物など存在しない。犬はしばらく困惑した様子で海中を探索していたが、やがて諦め、すごすごと何の獲物もないまま、浜辺のギャラリーの元に戻って来たのだった。

 皆は間抜けな犬の様子に大笑いだったのだが、小細工をした当人たる私は、戻ってきた犬のいかにも申し訳なさそうな様子に、ひどくばつの悪い思いをしてしまった。邪心のないイキモノを騙してしまったことへの良心の呵責という奴が、胸の中に湧き上がって来たのだった。あんな事をするのではなかったと心を痛めたのだが、といって、犬を相手では事情を話して謝罪をするのも不可能だ。

 そんな事からひととき内省的な気分になった私は、そこで初めて気がついたのだ。いつもは友人たちと騒いでいた浜だったが、今、私の周囲にいるのは、知らない人たちばかりだと。砂浜で犬と戯れる、見知らぬ人々。いつもの遊び仲間はどこへ行ったのだろう。通いなれた浜までもが、なんだか見知らぬ場所のように見えてくるのだった。
 私はすごすごとその場を離れ、浜の外れにある石段を登った。その先は国道に通じ、国道を横切れば私の家がある。それは八月最後の日であり、夏休みはその日で終わりだった。

 その翌日から砂浜は立ち入り禁止となり、浜を撤去する工事が始まった。以前から下水道の流入等により海水の汚染が指摘されていた浜であり、そこを遊泳禁止にして砂を掻い出し、テトラポットを並べてしまおうという市議会の決定が出ていたのだ。浜が”泳げる海”であるのは、あの日が最後だった。翌夏からは海岸の防波堤の向こうには無愛想なテトラポットが並ぶだけの立ち入り禁止の海が広がり、私たちは、そして町は、自由に泳げる海を失った。
 
 いくらなんでも観光地の海岸を遊泳不能のままにしておくのはもったいなかろうと市当局が気がつき、海岸にいったん並べたテトラポットを撤去し、その場所に湘南方面から砂を持ち込んで人工海水浴場が作られ、奇妙な形ではあるが”泳げる砂浜”が町に戻ってくるまで、その後、20年以上の時を要した。




横丁の珊瑚礁

2009-08-29 03:23:09 | アンビエント、その他
”SLEEPY LAGOON”by Harry James & His Orchestra

 以前、買ったばかりのあるウクレレ奏者のアルバムを聴きながら車を走らせていて、「うわ、この曲には子供の頃の思い出が大量に詰まっているぞ」と、強烈に意識されるメロディに出会い、突然に膨れ上がった懐旧の念に胸かきむしられた事がある。ともかくその曲を聴いていると、今はすっかり様相を変えてしまった、家の裏口から続いていた横丁の風景や物音、通りの臭いまでもが実に生々しく脳裏に蘇ってくるのだ。なんだなんだこの曲は。

 家に帰ってからジャケの曲名を検めてみると、”SLEEPY LAGOON ”とあった。眠れる珊瑚礁、か・・・曲名には特に心当たりはない。そもそも懐旧の念と言っても、この曲が私の心に蘇らせたのは、私が物心付いたばかりの頃の思い出であって、もちろん当時は音楽ファン開眼はしていないし、洋楽をタイトルまで把握しつつ愛聴なんてしていたはずもない。

 この種の思い出というのは結構いい加減なところがあって、後付けの記憶が折り重なってイカサマの思い出を形成している場合もあり、中学時代の出来事のBGMと信じ込んで来た曲が、ハタチ過ぎていなければ聴いているはずのない曲であったりする。今回の件も、子供の頃に聴いた似たような別の曲と取り違えていたりしている可能性大なのだが、まあ、確かめるすべもないことだし、この曲を聴いて子供時代を過ごした事にしてしまう。

 というわけでこの曲、タイトル通り南の陽の下で珊瑚礁が昼寝でもしている様子を描いたもののようだが、独特の南国感覚というべきか、ハワイアン調でもなし、ちょっと東洋風でもあるような、不思議な異国情緒と哀感が漂うメロディラインである。
 ひょっとしてこの独特のエキゾティックは、当時の欧米人にとっては南太平洋などなかなか行くことも出来ない憧れの地であったがゆえにでっち上げられた、人工的な異世界風味ではなかったのか?などと想像しているのだが。

 作られたのは1930年代、詞が付けられ、人気トランぺっターのハリー・ジェイムスの楽団に取り上げられてヒットしたのが1940年代初期というのだから、私が子供時代に聴いた、と考えるのは苦しい。当方としてはいつもの遊び場である横丁で鬼ごっこかなんかしている際に、どこかの家の窓辺に置かれたラジオから流れていた、なんて状況を想定しているのだが。まあ、懐メロとして流れていたという設定もありではあるのだが。

 先に書いたように、曲を覆うのはちょっと人口的な匂いもするリゾート感覚であり、そのメロディに浸っていると、確かに緑の水の広がりの中を行くような感触に包まれるのだが、そこに潮の香は感じられず、気が付けば自分は非常に小さな体となってラムネのビンのガラス球の中を泳いでいるのである。右手に水泡と見えたものは、ガラス球の中に出来た細かい空気の泡である。下方に見える珊瑚礁もどきは、同じようにガラスの壺に入れられた量り売りの駄菓子のようだ。

 いつの間にか自分は仲間たちの溜まり場である駄菓子屋の店先にいて、皆と一緒に強そうなベーゴマの品定めをしている。ニッキ水やヤキイカの香りがして、午後の日差しはもう西に傾きかけている。ほどなく、夕食の時を告げる母親の声に、仲間たちはそれぞれの家に帰って行くのだろう。喪われてしまった。そんな路地の楽しみは、とうの昔に。
 仲間たちは長じて、職を求めて他の土地に居を移し、いつの間にか帰郷する事もなくなった。

 なんだか取り残されてしまった感じの私は、これだけは昔と変わらぬ陽光の元で”SLEEPY LAGOON ”を聴いている。夕暮れがやってきて、海からの風が残暑の町を吹き抜けていった。
 


もう飽きましたが、R&Bごっこ。

2009-08-28 04:54:23 | その他の日本の音楽

 最近、コーセー化粧品のCMソングを歌手の倉木麻衣が歌ってますが、あの唄、JUJUって歌手が歌ってた”余命一ヶ月の花嫁”のテーマソングの類似品みたいに聴こえて、なんか聴くたびに不愉快になるんですが、そうでもないですか?声が半分声として出てこないで息として漏れてるみたいな発声法といい曲調といい、いかにもそんな感じ。
 わざと”今ウケ”に合わせようとやっている部分もあるんじゃないかなんて感じられて仕方ないんだけれど。そういえば倉木、デビュー当時も「ウタダのパクリ」なんて評判があって、ダウンタウンの浜チャンが番組内でそう指摘した際には、なんか抗議騒ぎになったりしたような記憶がある。

 それと関連する話なんですが、このところの”新人実力派女性歌手”って事になっている連中って、みんな似たような”R&B大好きです声”とでも言うんですかね、黒人歌手真似っこ大会みたいな声の出し方状況になっていて、もういい加減、食傷気味です。
 どいつもこいつも揃いも揃って、”あっなったんが~んがんがあぁあぁあ~のっこっしていぇいいぇったぁあぁ~♪”とか、”そうくぇえんびちゅあぁあぁ~♪”とかなんとか、ネットネトの納豆が糸引くような発声法を誇示しまくっている。

 あの歌い方を開拓した女性歌手たちってのは本当に黒人音楽に寄せる想い一途なものがあったんだろうと思うけど、その後、それこそ雨後の筍状態で出てきた後追い連中は、ただ出来合いの表現法をなぞっているだけ、出来合いの道を走って来ただけでしょ?それだから、聴いていてこんなに退屈と感じられる訳でね。

 もう、いいかげんにしない?とか言ってみても、そんな声はどこへも届かないみたいだ。
 それらに対する需要の側には、目新しいもの、見慣れないものは受け付けず、聴き慣れたもの見慣れたもの、どう反応すればいいか、供給する側から教えられて分っているものしか受け入れようとしない昨今の消費者ってものがいる訳で。救いのない世の中になってしまいました。まあ、女性ボーカルに限った話でもないですが。

ウズベキスタン憧憬

2009-08-27 02:50:42 | アジア

 ”Armon Yig'lar”by Hulkar Abdullaeva

 ウズベキスタンといえば、少年時代の憧れの場所であったのだった。きっかけは、当時の大愛読書であった光瀬龍のSF小説「たそがれに還る」の中に描かれていた、タクラマカン砂漠灌漑事業の場面にあった。そこで働く、日本人のようなモンゴル人のような名前を持つ男たちの孤独な肖像と、風吹きすさぶ地の果ての砂漠の描写に心奪われた。それから中央アジアの歴史を機会あるごとに触れるようになっていった。

 中央アジアのそのまたど真ん中にあって、古くから歴史の局面の大舞台となって来た場所。さまざまな民族が、エキゾティックな砂漠の自然を背景に興隆と衰亡を繰り返した、そのカラフルな歴史のロマンに心奪われた。
 時は流れ。つい最近、そんな少年時代の夢想の地の大衆音楽に、やっと触れる機会を得た。これはその内の一枚。

 その音楽世界は、歴然とイスラム文化の影響下にあるのだけれど、西アジアの国々のように濃密な文化の宮殿に腰落ち着けているわけではなく、広大な中央アジアの草原に向けて開かれている。その感性は、茫漠たる砂漠を渡る風の中で噛み締める旅人たちの孤独の響きがする。
 妖しげなハチロクっぽい打ち込みリズムと、中央アジア系民俗楽器群によるアラブ風装飾音も煌びやかな、織物のようなサウンド。それに乗って素朴な民謡調のメロディが歌い上げられて行く。

 可憐で素朴な乙女の歌声と濃密な官能を秘めた歌声とが、曲調によってさまざまに揺れ動くHulkar Abdullaeva嬢の歌声は、そのままウズベクの土地を流れ去っていった多様な文化の傷痕でもあるようだ。その彼女の面差しにも華麗な衣装にも、かってウズベクの地に生を印した人々の面影が息付いている。
 旅愁は遥か、カスピ海から黒海までも飛んで行く。あちらがトルコ、こちらがイラン、モンゴルがありロシアがあり、空行く雲があり、溢れる音楽がある。





マルコ・ポーロ幻想

2009-08-26 00:56:27 | ヨーロッパ


 ”Die Rückkehr des Marco Polo” by Marco Ambrosini & Katharina Dustmann

 題して”マルコ・ポーロの帰還”と。ヨーロッパ中世音楽研究家で音楽クリエイターでもあるイタリア人、Marco Ambrosini氏と、ドイツ人の打楽器奏者のKatharina Dustmann女史、お二人の連名によります1997年作品であります。
 とか言ってるが、どのような人たちか知りません。どうもジャズやクラシック畑のヤンチャ者の皆さんが放った実験作みたいなんだけど。こちらとしては不思議な意匠のジャケと”マルコポーロの帰還”なるタイトルに興味を覚えただけの”一か八か勝負で買ってみた盤”であります。

 盤を廻してみると飛び出してくるのがスインギーなウッドベースに導かれ、なんとも闇の底から聴こえて来るみたいな不気味な不協和音コーラス。いや、なんか懐かしくさえある”現代音楽と前衛ジャズの融合系実験音楽”の響きでありました。”アングラ”なんて古臭い言葉がもの凄く似合うサウンドですな、これは。

 十数人に及ぶ参加メンバーは、それぞれが複数の楽器をこなし、しかもことごとく腕達者、という鉄壁振り。その方面では、いずれ名のある人々なのでしょう。
 しかも操る楽器はサックスやヴィブラフォンといった”普通”のものからニッケルアルパ、ケルティック・ハープなどというヨーロッパの民俗楽器に加えて、ウード、ダルブッカ、ベンディールといったアラブ方面のものやら、さらにはマリンバ、バラフォン、ビリンバウと世界各地のものが入り乱れ、もう手が付けられません。
 ボーカル陣も民俗調の地声コーラスで現代音楽風の譜面をこなすうち、ついにはホーミーの一発も軽くこなしてしまう凄まじさ。

 とはいえこの盤、遠い昔にマルコ・ポーロが訪れた国々の音楽がカラフルに再現される、なんてお楽しみ盤ではありませんで。どちらかといえば、伝説の旅人なるマルコの心の闇への探求を試みた、みたいな思索的な色彩が強い出来上がりとなっている。
 マルコ・ポーロの旅を内宇宙への旅と捉え、マルコの見た旅の風景が心の闇に通じ、その闇を辿ることがすなわち、マルコが地図上で行なった実際の旅を辿り直す事に通ずる、なんてややこしい構造になっているようだ。

 各楽器は凄まじいテクニックで刺激しあいながら壮絶な即興演奏を繰り出し、人の心の闇の底へ深く深く潜入して行く。その狭間に、幻のように行き過ぎる、エキゾティックな東洋の面影を宿した音塊たち。それはある時はデフォルメされたバルカンの舞曲であり、中央アジアの牧唄であり、またアメリカ大陸先住民のウォー・クライである・・・
 ともかく、こんなに不自然な音楽を演じているのに、めちゃくちゃリアルなこの手触りはなんだろう?こんなにも頭でっかちな音楽なのに、強力に発せられる、この肉体性はなんだろう?ヨーロッパの人間には、こんなに屁理屈で煮固めたような音楽が”天然”であるのだろうか?

 などと、つまらない事を考えながら凄まじく刺激的な音の絵巻を堪能したと、とりあえず夏休みの宿題の旅日記には書いておこうか。あ、試聴できるものを探したんですが、見つかりませんでした。残念。



地球港の立神は

2009-08-23 23:57:54 | 奄美の音楽
 ”加那ーイトシキヒトヨー”by 城南海

 さて、待望の城南海ちゃんのデビュー・アルバムである。それはいいんだけれど・・・一聴、「あ、そういうことだったのか」と、私は頭を掻いたのだった。
 これまで城南海がリリースしてきたシングルCDに関して抱いて来た疑問が氷解したと言うか、彼女に対する自分の理解が結構セコかったなと反省させられもしたのである。
 だいたいが、数日前にここに書いた、デビュー時の城南海を追ったドキュメンタリーへの我が感想というものが、こうなってくるといかにも小さな論であり、実に情けなくなってくる。
 あの文章で私は、「奄美の先輩唄者たちが集まった宴席で、自己流の島唄を比較的最近歌いだしたばかりの彼女は気が引けたのではないか」なんてくだらない方向に気を廻したが、城南海の音楽志向はそんな小さな世界にとどまるものではなかったのだ。

 では、いったい彼女は何をやりたいのだ?と問うなら、すでに彼女は自身のブログでも述べている。グイン、つまり奄美の伝統のコブシで世界の音楽の読み直しを行ないたいのだ、と。
 その文章を読んだ際、私は、まあ「世界の願い、交通安全」とか「人類が平和でありますように」とか、その種のありがちな標語的コメントかと思ったのだ。申し訳ないことに。
 歌手がインタビューで語る、「ジャンルにこだわらず音楽を作って行きたい」とか、ありがちなコメントがあるでしょ?なんか意味ありげだが実態がよく分らない。一応、言ってみただけ、現実に何をやるかといえば何をやるでもなかったりする。その一種と受け取っていたんだなあ、私は。が、彼女は本気だったのだ。

 このアルバムを聴いてみると、確かにここには城南海による「グインで編み直す世界音楽」のための試案が展開されている。グインを視点に掘り起こすワールドミュージック。そのための序章。
 そのタイトルからふと、奄美民謡の「太陽ぬ落てまぐれ」なんて曲を思い出してしまった冒頭の曲、”太陽とかくれんぼ”。そこではまず、南米からアフリカへと通ずるようなリズムに乗せて神話的風景が提示され、もう一つの世界の扉が開けられる。
 デビュー曲”アイツムギ”も新しく軽いサンバっぽいリズムが付され、奄美の伝統世界が海によってつながった、より広い世界に向けて漂い始める気配を感じ取れるようだ。
 その後も内外の民謡や民話にインスパイアされた曲が続き、カラフルな世界巡りが続いて行く。世界がグインによって目覚め、スイングし始めようとしている。

 一曲、アイルランド民謡が取り上げられているが、それは我々の知っている”正しい”メロディとは微妙に違っている。これなど、”グインvs世界”のとても分り易い構図であり、興味をそそられるのだった。中孝介の歌う”アベマリア”などと聴き比べてみるのも面白いだろう。
 それにしても城南海は、どこからこんな事を思いついたのだろう?そして、この盤のあちこちに溢れる、いいようのない”切なさ”の正体は?そしてこれから城南海はどれほど遠くへ行くのだろう?楽しみになってきた。非常に楽しみになってきたぞ。



秒速アルジャーノン

2009-08-22 21:01:57 | ものがたり

 ばかのぼくがぱんやさんではたらいているとだいがくのえらいせんせいがきて、ぼくのあたまをしりつしてあたまをよくしてくれるというのでだいがくにいきました。だいがくにいってしりつをうけるとその効果は即効的であり、また絶大なものであった。そして私は、知能に障害を持って生きてきた日々の何たるかを知りだいがくからかえってくると、ぼくはまたばかにもどっていました。せんせいはおかしいなこんなはずではなかったのになにがげんいんかしらべてみようといい、ぼくのあたまにちょうさのためのよびしょちというのをしてくれました。するとその効果は意外なもので、私の知能指数は、またも顕著な上昇を見せたのである。私は執刀医と共に、この件について様々な検証を加えてみたのだが、その途上で不意にぼくはまたばかにもどってしまったのでぱんやさんにもどりました。ぱんやさんではたらいていると、まただいがくのせんせいがきて、あのよびしょちのかていでいがいなこうかがあらわれたので、もういちどしりつをしようといいました。ぼくはもうしりつはいやなのでないていやがったのですが受けてみると、またも効果は絶大にして即効的なもので、私の知能は前回の処置時よりも、さらに向上していたのである。予備処置の過程のどこかに、知能の上昇を喚起するなんらかの有効な方策が存在しているのではないかと言う仮説を立て、だいがくのせんせいとぼくのあたまをずっといいままにしておくためになにかいいほうほうはないかなとはなしあっているうちに、ぼくはまたばかにもどってしまったのでぱんやさんにかえりました。だいがくのせんせいがまたやってきてもういちどとらいしてみようといいましたがぼくはもうだいがくにはいきませんでした。ただ、ぼくのあたまのけんきゅうのためのじっけんにつかわれていたねずみのアルジャーノンがしんでしまったというのでアルジャーノンのおはかに献花をお願いいたします、と書いて、私は、そのような文章を書いている自分に気付き驚嘆した。今回は、例の”処置”を受けることなく私の知能が回復しているのだ。原因は定かならぬとは言うものの、私の脳内に、私をこのまま高度な知能の状態にキープしておくための何らかの作用が起こっている可能性が高い。繰り返されたあの”予備処置”に、まぐれ当たりとも言うべきなんらかの効果は、やはりあったのではないか。私はパン屋を走り出、大学に向かう道を全速力でたりらりらんのほーいほい。

遥かなるケイジャンのオタケビ

2009-08-21 03:01:59 | 北アメリカ


 ”Les Memoire du Passe”
  by Lesa Cormier / August Broussard and the Sundown Playboys

 ワールドミュージックのファンとしては、かってヨーロッパ諸国がアジア・アフリカ諸国を植民地支配した際に残していった音楽の種が現地の音楽とどのような具合に激突をして、どのような新しい音楽を生み出したのか、なんて罪を孕んだドラマには当然、血が騒ぐ次第である。それぞれの国が持つ文化の様相に応じて、紡がれるドラマの個性にも違いが見えて、興味は尽きない。
 たとえば、特に圧倒的な影響を及ぼした感じでもないのに、結果を見てみると世界中に重要な音楽の種を蒔き残していったポルトガルなど、実に不思議な存在と思う。いまだにその事情がよく分らないので、ここでは触れないが。

 スペインの音楽が新大陸侵略の歴史の中でアフリカから奴隷として連れて来られた黒人たちの音楽と出会い、カリブ海で行なった交雑の過程は、なんとも”血の婚礼”とか名付けたくなるようなアクの強いドラマとなっているが、同じラテン系文化でもフランスの音楽と現地の音楽の関係は、また相当に違うものがある。
 フランスの音楽が異郷に出かけて行くと。分りにくい表現しか出来ないのだが、そして、私の感覚ではそう感ずる、といった話でしかないのだが、フランス音楽の場合、現地の風土や風俗に抱きとめられてグズググに溶け崩れ、ドロドロに溶けて異郷の土と混ざり合い、まるで形を失うかに見える。が、よく聴いてみると不思議な香気、あるいは臭気が深々と土の奥深くから立ち上っているのに気が付く、みたいな、それは渋い形状をしているのだ。
 (あ、これはあくまでも大衆音楽の世界の話ね。”シリアス・ミュージック”とか、そこら辺の事情はまったく知りません)

 そんなわけで今回持ち出したのは、アメリカ合衆国深南部はルイジアナ州のローカルポップス、”ケイジャン・ミュージック”の激渋盤。
 ルイジアナ州はご存知の通り、アメリカ合衆国が独立する際、フランスから金銭で譲渡された土地とのことで、そこには昔から少なからぬ数のフランス系住民が住んでいた。今日でもフランス語を話し、フランスの文化を継承しつつ生きる人々。
 彼らが各種民族文化が入り乱れるアメリカ南部で作り上げてきた民俗ポップスがケイジャン・ミュージックというわけで。
 まあ、いい加減な私などは知らない人には「ああ、ようするにフランス語のカントリー・ミュージックだよ」とか、めちゃくちゃ雑な説明をするのが常なのだが。でもまあ、大まかに言えばそんなものでしょ?

 で、この盤である。レイク・チャールスというケイジャン文化ど真ん中、みたいな土地にあるローカルレコード社から2001年にリリースされた盤なのだが、その中身はたぶん、その50年前にもその土地で演奏されていたのと同じではないかとも思われる音楽である。
 ジャケ写真には、もう嫌になるくらいアメリカのド田舎の頑迷な年寄りたち、みたいな男たちが並んでいる。そして針を落としてみれば(おい、CDだぞ)まさにその通りの音楽が流れ出してくる仕組みだ。

 昔々から引き継がれてきたフランス系アメリカ人の大衆文化たるケイジャン・ミュージックのあまりにもオーソドックスな唄と演奏。と言っても演奏者たる彼らには、伝統文化を守ろうなんてうっとうしい思い入れはありません、多分。爺さんたちはただ、彼らが村の年寄りたちから教えられ、自分たちの楽しみとして演奏してきた音楽をそのまま、相変らず自分たちの楽しみとしてやっているだけ。それだけの話。
 軽快なツー・ステップ。優雅なワルツ。まあ、演じられるのは主にこの2パターンなのだが、遠い故郷フランスでは優雅なダンスミュージックだったはずのそれは、新大陸の風土の中で実に野趣に溢れた、まあようするにド田舎のダンスミュージックの泥臭い逞しさ楽しさを獲得してしまっている。

 ギター、ベース、ドラムスにスチールギター、というカントリー音楽の標準編成にアコーディオンとバイオリンが入った、実にオーソドックスな編成のケイジャン・バンドであり、サウンドもまた、ひねりも何もない明快で分かり易いものとなっている。
 トップに置かれているのは、私などには「昔、小坂一也が歌っていた”悲しきディスクジョッキー”みたいなメロディ」としか聴こえないオリジナル曲である。かって日本で流行ったくだらない曲、「ケメ子の唄」みたいなイントロが恥ずかしい露骨な循環コードのロッカ・バラードが何曲もあり、アメリカ南部のいなたく生暖かい風情を伝える。
 終幕近くの聴かせどころには、ハンク・ウィリアムスの「泣きたいほどの淋しさだ」みたいなメロディのバラードの絶唱が置かれている。この曲もバンドのメンバーのオリジナルということになっている。

 なにより嬉しいのが、ボタン・アコーディオン奏者でありヴォーカリストであるAugust Broussardの存在である。
 容貌魁偉な彼が古めかしいボタン式アコーディオンを抱えてマイクの前に進み出、しわがれ声のフランス語のカントリーナンバーをわめき倒す時、現地の文化と一緒に畑に埋もれ、ひん曲がったジャガイモになってしまったパリのエスプリとか何とかが見えてくるような気がするのである。
 こいつは、文化の国おフランスの面目丸つぶれの猥雑なエネルギーの発露が妙に嬉しいアメリカン・ローカルポップス、ケイジャンの痛快盤なのだった。



城南海の”夜明け前”

2009-08-19 05:03:43 | 奄美の音楽


 ”城南海~女性シンガー デビューへの軌跡~”

 奄美出身の新人歌手、城南海ちゃんの話です。という事は当然、ミーハー乗りの内容となります。お許しを。
 今、BSフジで放映された”城南海~女性シンガー デビューへの軌跡~”を見終えたところです。
 南海ちゃんのデビュー当時に製作され、鹿児島ローカルでだけ放送されたという、”城南海~女性シンガー デビューへの軌跡~”なる、1時間弱のドキュメンタリー番組があると知り、ずっと気になっていたんだけど、さきほどBSフジで再放送がなされて、やっと見ることが出来た。いや、すっきりした!

 内容はタイトル通りの、新人歌手の経歴紹介やらレコーディングやライブ活動など、デビューに向けての新人歌手の日々を紹介するといったもの。
 当然ながら、奄美の文化に興味があったり、島唄が特別好きだ、なんてマニアな人のための作りはされていないから、特に突っ込んだ内容となっていない。
 まあ、それは初めから予想のつくことであったし、こちらだって南海ちゃんへの興味のベクトルがこのところすっかりアイドル方向に傾き、モーニング娘の番組を見るのとあんまり変わらない視線で画面を眺めているのだから、あんまり偉そうなことは言えない。

 それでもいくつかの新発見はあり、たとえば彼女がピアノに打ち込む少女であり、高校はその専門のところに通っていた、なんて事実。それは、今日まで城南海ウォッチングを続けて来た私も分からなかった。彼女の言動にも音楽性にも、その種の専門教育の面影は感じ取れなかったのだが。
 その一方、これはすでに一部知っていたことだが、城南海は子供の頃から島唄の世界に生きて来たわけではなく、高校時代に兄の影響で島唄に興味を持ち、ほとんど自己流でマスターしたとの事実。

 以前、中村とうよう氏がミュージックマガジン誌上で批判していたように、相当に形式の遵守に厳しいらしい奄美島唄の世界のことである。”奄美島唄大賞受賞→歌手として認められる”という”正統”の道を歩まなかった城南海のような歌手は、奄美を離れた鹿児島の地でなければ認められるチャンスもなかったと考えていいのだろうか?

 だから番組の終盤、”思いがけなくも奄美の先輩唄者たちが、デビューをひかえた南海のために集まってくれた”の場(まさか中村瑞希たちが、ほんの一瞬にしろ、画面に登場するとは思わなかった!)など、その1シーン1シーンの”そのまた裏”が気になって仕方なかったのだ。先輩たちは城南海を迎え、歓迎の唄遊びお始めたのだった。
 奄美ですごした子供の頃は島唄に興味はなく、鹿児島に移り住み高校に通い出してから歌いだしたという”我流”の城南海の島唄は、だからこそ私などには斬新なスリルと創造性を孕んだものと受け取れるのだが、先輩たる彼ら彼女らにとって納得の行く出来合いのものだったのだろうか?
 そして先輩たちを変則的な形で追い越して”メジャー・シーン”にまだ10代の身を投じようとしている城南海にどのような感想を抱いているのか?

 番組は、「先輩たちは暖かく城南海を受け入れてくれて、寄り合いの席はまるで彼女のデビュー祝いの宴席となり、唄は次々に飛び出し、人々は次々に立ち上がり、踊り出した。島の人々はいつもの通りに暖かかった」と言う方向に”まとめ”に入って行ったのだが・・・
 先輩方は、「言いたい事もあるが、盛り上げてくれた」のだろうか、「番組制作サイドからの要望があったからそのように振舞った」のだろうか。それとも、こんな勘ぐりは私の性格の歪みゆえで、あの暖かい島の人たちの新人の壮行をかねた集いは、掛け値なしに本物だったのだろうか?

 と、まあ、こんな事をふと考えてしまった次第であります。屈折しててほんとにすみません。しかし可愛かったね、城南海ちゃんは。