ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

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ビルマのチョースキンの汎東アジア的歌謡性

2007-09-30 00:06:12 | アジア


 以前からこの件に関してはモヤモヤした思いを抱いていたんだけど、今回の事件が良い機会だ、あの国をこれからはビルマと呼ぼう。例のミャンマーというのは、軍事政権がオノレの都合で言い換えさせた国名だそうだからね。

 日本人ジャーナリストがビルマ軍兵士に殺害された事実を知ったビルマ市民が日本大使館に花びらを投げ入れたとのこと。これには泣かされました。そんな発想、我々にはないよねえ。こちらの方が本来のビルマ民衆の心と信じたい。

 それにしても我が日本の右翼諸君よ、君ら、日本の国民が他国の軍隊に正当な理由もなく殺害されたと言う知らせを聞いて、何の行動も起こさないのはなぜなんだ?腹が立たないのか、同胞が殺されたんだぜ!被害者の霊が”靖国”に収まって”軍神”とかいうブランド名を与えられなければ、やる気が起こりませんか?

 今回、君らのインチキ性、満天下に明らかになってしまったけどね、そんなことにも気が付いていないんだろう、ええ?

 さて。冒頭に掲げたこの写真は、ヤンゴンナウというサイト(http://www.yangonow.com/jpn/magazine/index.html)の、2003/6/3の記事から無断転載してしまったのですが(すみません!m(__)m)、いや、ビルマにお洒落な芸能雑誌が存在している事実をお知らせしたくて。

 今回、話題にしたいのは、雑誌の表紙の右側に写っているチョースキンという女性歌手のアルバム。私の手元には、えーと、これがタイトルなのかなあ、”ナイチンゲール・リン”という文字が内ジャケに見受けられます。他はすべてビルマ文字なので、もちろん読めず。

 このアルバムに収められているのは、マニアにはおなじみの、あの天然プログレともいいたい、のどかにして千変万化、天真爛漫にして複雑怪奇な、いつものビルマのポップスではありません。汎東アジア的とでも言えばいいのかな、たとえば香港あたりにあっても何も不思議ではない感じの、歌謡曲色の濃い普通のポップスばかりです。

 急に香港なんて地名を出してしまったのは、かの地で人気歌手&女優として活躍したサリー・イップのヒット曲、”真心真意過一生”のカバーが入っていたからなんだけど。

 でも、このアルバムのハイライトは、カーペンターズの”イエスタディ・ワンスモア”から山口百恵の”いい日旅立ち”のカバーへとたたみかけられるあたりかなあ。凄い選曲センス。もう、そこらのカラオケ屋じゃないんですから・・・

 しかも、アレンジ等、オリジナルの丸コピーであり、ビルマ音楽の独自性等、まったく見受けられないと言っていい。もちろん、それらがビルマ語で歌われるがゆえの特異性、そんなものはあるとはいえ。

 にもかかわらず。なんか、妙な魅力があるんですな、このアルバム。チョースキンの、なんだか中島みゆきなんかに通ずるような粘りつく歌い方の訴求力もあるんでしょうが、先にも書いた”汎東アジア的歌謡曲魂”のビルマ的展開具合が、非常に興味深く感じられる。

 ”歌謡曲魂”と書いたけど、”歌謡曲の呪縛”と表現してもいいかも知れない。
 東アジアの人々が、それぞれ独自の音楽を持ちながら、でもいつかこのような世界にたどり着いて”いい日旅立ち”とか、歌うに至ってしまう、そんなアジア人の宿命というか。因果というか。”分かっちゃいるけどやめられない性”というか。

 そんなものに落ち込むことの快感が、このアルバムにはある。

 ややこしい話を始めちゃったな。”どうしようもない歌謡性”の泥沼的魔力について。まあいずれ、もう少し分かりやすい説明が思いつけたら語り直します。中途半端ですみません。
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日本政府の意思表明を予想

2007-09-29 04:45:28 | 時事


 「今回の件につきまして、我が国としましては日朝ピョンヤン宣言の精神に元ずき、強硬な抗議や制裁行動は行なわないことに決定いたしました。
 被害者の遺族は、グダグダ文句を言わないようにしてください。(官房長官・談話)」

 ○日本もミャンマー制裁検討入り、状況見極めてと首相
 (読売新聞 - 09月28日 13:57)
 政府は28日、ミャンマー軍事政権が反政府デモを武力弾圧し、日本人記者、長井健司さんら日本人を含む多数の死傷者が出ている事態を受け、ミャンマー政府に対する制裁の検討に入った。
 福田首相は28日昼、「直ちに制裁するかは、もう少し状況を見極めないといけない。ミャンマーへの日本の支援は、人道支援が多いので、そういう部分を含めて考えなくてはいけない」と記者団に語った。
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福田のコメントを予想する

2007-09-28 21:33:19 | 時事


 予想される福田のコメント。

 「亡くなられたのは、危険な場所であると認識出来ておられる方のようですが。きちんと自己責任で行動していただきたかったと思いますね。国もそこまでは面倒は見切れませんから。
 まだ何か?ほかに質問がなければ、これで終わりにしますが。いいですね?」

 ○<ミャンマー>死亡の日本人、カメラマンの長井健司さんか
 (毎日新聞 - 09月27日 21:02)
 【バンコク井田純】在ミャンマー日本大使館によると27日、ミャンマー外務省から「ヤンゴン市内のスーレーパゴダ付近で、デモに巻き込まれて何人かが死亡した。そのうち1人が日本のパスポートを持っている」と連絡が入った。独立系ニュースプロダクション「APF通信社」(東京都港区)によると、男性は映像ジャーナリストの長井健司さん(50)=東京都中野区=とみられるという。
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ミャンマーからのカセット再訪

2007-09-27 05:45:16 | アジア


 前半、ずっと以前に発表した文章の焼き直しになってしまって恐縮なのですが、そもそも、それで十分なほど変わらない現実に対する批判とお考えいただければと。

 私の目の前に一本のカセットがあって、ど真ん中にドーンと、まるでヘビメタのバンドのジャケみたいに見えるロゴでタイトルが記されている。
 が、読めない。どう発音するのか、いや、どちらから読むのかも分からない。不思議な形のミャンマー文字であるからだ。その下に英語で”Battle For Peace”とあるので、何とか意味合いの予想は付くのだが。

 これは、もうずいぶん以前、私の町で在日ミャンマー人たちによる、故郷の軍政に反対するパフォーマンスというか、告発集会が行われた際に会場で手に入れたものだ。
 収められている曲はすべてミャンマー語なのだが、歌詞カードに英文対訳が付いているので、意味は掴める。「私たちは、私たちの歴史を血で書く」なんて歌詞が歌われているようだ。

 他に、”歓迎されない訪問者””不良少年””真実の瞬間””平和への戦い”などなど、タイトルを挙げると、どんな傾向の歌が収められたものであるか、様子がつかめてくる。ジャケのミャンマー文字の下に、胸を銃撃で打ち抜かれ、血を滴らせる一羽の鳥が描かれている意味も分かってくる。

 さらに、カセットの裏には、「この歌集を自由を愛する人々に手渡してください」との英文も。
 サウンドは素朴極まりないフォークロック調で、60年代、デビュー当時の高石友也などを、ふと想起させる作りとなっている。ジャケのメタリックな仕上がりとの落差が不思議な感じだ。

 カセットが発表されたのは1992年の五月と記されている。そうか、あれからもう、十数年の歳月が流れたのだなあと、会場で知り合った何人かのミャンマー人の顔など思い出してみるのだが。

 その後、ミャンマーの現実はまるで変わっていないと思い知らされるニュースがこの数日、続いている。ついに昨日、ミャンマー国軍が反政府デモに参加した僧侶らを攻撃、5人の死者が出たと言う。
 相変わらず軍政は続いており、かの国の”解放”の象徴かとも思われるスーチー女史の軟禁状態も変わらぬままのようだ。
 カセットを作った人々は今、どこでどのような暮らしをし、何を思っているのだろうか。

 あれから私の音盤コレクションには、それなりの量のミャンマー・ポップスなども加わった。このカセットを聴き、「あのミャンマー音楽独特の”陽気な迷宮”みたいな個性は、まるで生かされていないなあ。どこの国でも聞けるような”反戦フォーク”ぶりで、こういう”運動”に関わる人たちの音楽性って、やっぱり似てきてしまうのかなあ」などと分かったような感想を漏らしてみたりするようにもなっているのだが。

 いやむしろマンネリなのは現実の方だろう。あいも変わらず権力者の暴力は苛酷に人々の上に振舞われて、飽く事がない。”いったい何人の死があれば十分なのか?”との、若き日のボブ・ディランの問いに対する答えもいまだ、示されてはいない。

 ミャンマー・ポップスのあののどかな響きに似つかわしい日常を、かの地の人々が手にするのはいつなのか。カセットを手に入れたあの日に、その場でミャンマーの人々と交わしたいくつかの言葉を思い返し、何が出来るわけでもない自分にもどかしい思いを禁じ得ないのだが。
 せめて我が日本政府、もう少しマシな対応は出来ないものか、などと思ってみる今日この頃である。


 ○<ミャンマー>デモ弾圧 軍事政権、強権体質あらわに
 (毎日新聞 - 09月26日 21:12)
 最高権力者のタンシュエ国家平和発展評議会(SPDC)議長は25日、ヤンゴンから約350キロ離れた新首都ネピドーで軍幹部を呼んで対策会議を開いたといわれ、この時に最終的にデモの武力鎮圧の方針を決定したとみられる。

 92年に辞任したソウマウン議長の後を継いで同評議会(当時は国家法秩序回復評議会=SLORC)議長の最高ポストについたタンシュエ上級大将は、当初は穏健路線を取り、95年7月には民主化運動指導者、アウンサンスーチーさんの自宅軟禁を6年ぶりに解除。一時はスーチーさんとも直接対話して和解する姿勢を見せた。

 しかし、軟禁を解除するたびにスーチーさんが政治活動を活発に行うことを嫌い、03年5月に三たびスーチーさんを拘束してからは、スーチーさんと外部との接触をほぼ完全に断ち、民主化勢力を徹底的に封じ込める戦略を取ってきた。

 スーチーさん軟禁に対する国際社会の批判を受け、軍事政権は03年8月に7段階の民主化手続き「ロードマップ」を発表した。しかし、新憲法の原則を審議する国民会議は、軍の権力維持を担保する条項をふんだんに盛り込み、民政に移管後も軍が権力を確保する姿勢を鮮明にしていた。

 デモに参加した僧侶や学生の多くは「今回を逃せば民主主義は実現できない」との強い使命感を持って「捨て身の行動」に臨んでいる。軍事政権が強硬策に出れば出るほど、国民の反発と憤りを招き、さらなる反政府行動を招くのは確実だ。

 バンコクを拠点とするミャンマー人民主化団体「ビルマ連邦国民評議会」のソーアウン氏は「僧侶や学生たちは軍事政権の警告を無視してデモを続けた。これは強硬措置も予想したうえでの命がけの行動だ。暴力的手段をもって僧侶たちの行動を止めることはできないだろう」と話す。

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世界の果てのピアノ

2007-09-26 04:07:24 | 太平洋地域


 ”Waikiki”by Rene Paulo

 テレビのドキュメンタリ-で見たんだけれど。ハワイ諸島のうち一番東の島は、その島の生物層の調査をする数人の学者以外立ち入り禁止なんだってね。島の本来の生態を調査できるように、なるべく自然のままの姿におかれているそうな。

 昔はアメリカ海軍の基地なんかあったんだそうだけどそこも放棄されて久しく、錆び付いた軍艦の破片が海水に洗われていたりする。打ち寄せる波と吹きつける風以外、なんの物音もしなくてね。時間の止ったような世界。世界の果てってのはつまりあんな場所じゃないかなあ、とか見ていて思ったものです。

 もっとも、そんな島の岸辺にも遠い大陸から、清涼飲料のプラスチック容器なんかが流れ着いていたりもするんだけれど。

 と言うわけで、ハワイアンのムード・ピアノという妙な代物であります。

 このレネという人は、ハワイの高級ホテルのショー・ラウンジ専属のピアノ弾きで、宿泊客のためにハワイの古くからの伝承曲なんかを華麗なソロピアノで奏でるのを生業としている。
 もう相当な高齢なんだけど、かくしゃくとしてピアノに向い、こうしてレコーディングなんかもしている。

 しかし、妙な音楽もあったものです。ハワイの古い曲なんてものは、和音二つ知っていれば演奏出来ちゃうようなシンプルな響きのものが多いのであって。それに大量の代理コードなどぶち込みまして装飾のフレーズをあれこれ織り込み、無理やりゴージャスな響きの音楽に仕上げてしまっている。

 まあ、彼は普通のバンドマン気質の人であって音楽的野心があるわけではない。ひたすらムード・ピアノのプレイヤーであり、ただたまたま、その勤務地がハワイのホテルであっただけである。結果的にそんな音楽が出来上がってしまった、それだけの事であって。

 で、こうして彼のこのアルバムなど聞いていると、例の”立ち入り禁止のハワイ東端の小島”に打ち寄せる波の音など思い出してしまうわけです。

 やはり、そのような場所にあるべき楽器ではないと感じられるのです、ピアノと言う楽器。でも、歴然とその場に存在してしまって、達者なテクニックで鍵盤に指を躍らせる演奏家がいる。そして彼の演奏を、ドレスアップしてカクテルなんか味わいつつ楽しむ人々がいる。人間の営為の、考えてみればずいぶんな奇妙さ。

 昔は、船に乗せられてこの島にやって来たのだろうなあ、ハワイにおける一台目のグランドピアノは。波に揺られて、調整などはメチャクチャになってたんだろうなあ。

 太古から変わらず島に寄せる波や風の響き、そいつは人間などが姿を消してしまった後も同じ調子で聴こえているんだろう。
 ピアノのフレーズの合間から、ふとした弾みで、そんな時を越えた太古の波や風の音が気配として聞こえてきてしまう時がある。人々が築き上げた文明の栄華の間隙をぬって、そいつは人の心に忍び寄り、響き渡る。

 ハワイの地霊の仕業なんでしょうねえ、これは。
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初秋

2007-09-25 03:20:00 | ものがたり


 午睡の中にあった。昼の日差しはまだまだ夏の面影だが、こうして風通しのよい居間に寝転んでいると、空気そのものの中に密かな涼気が忍び入っているのが感じられる。昼食後の怠惰なひととき。ほんの一刻、横になるつもりが、いつの間にか深い眠りに引きずりこまれていたようだ。

 ふと気が付くと、店で母と妹が、何事か会話を交わしているのが、聞こえてくる。妹が来ていたのか。隣りの町内に嫁に行った妹が”里帰り”に来るのは日々、特に珍しいことでもない。二人の会話の内容は、どこか不明瞭で、聞き取れない。話し声そのものが小さいのか、それともこちらがまだ夢うつつにあるせいか。

 再び眠りに入っていたようだ。睡眠は浅くなり深くなり、何事か夢は見ている筈なのだが、記憶には残らない。
 隣室から、先刻より咳払いの音が聞こえてきていた。聞き慣れた、が、このところずっと聞く事のなかった咳払いの音。それが、十数年前に死んだ父のそれであるのに気が付くまで、しばらく時を要した。

 父は、60過ぎても、言葉に妙なところで幼児語の切片が残っている男だった。眉毛の事を「マミヤ」と言い、魚の「鮎」を「あい」と発音した。「自分は人生の成功者であり、人生の成功者は人の集まりがあったところで壇上に上り、挨拶の一つもするものだ」と信じ込んでいた。だから宴席に臨むたびに当たり前のように乾杯の音頭を取ったのだが、実は彼は人前が苦手で話し下手の男だった。
 だから彼の”演説”は、頻繁な絶句と意味の無い咳払いが大量に含まれた、しかも、慣用句を継ぎ足しただけの、ほとんど中身の無い、無残な長話でしかなかった。生涯、彼は自分が下手糞な話者であると言う事実に気付かずにいたようだが。少しぐらいは「何か変だな」とか「なぜ、自分の話は他の”成功者”のように流麗ではないのだろう?」などといった疑問を持っても良さそうに思うのだが、その気配はなかった。
 「そうでありたい」と「そうである」とは、必ずしも同一ではない場合がある、というより、食い違うケースの方が圧倒的に多いのが、その種の客観性の欠如を抱えたまま、彼は鬼籍に入ってしまった。

 ついでに言えば父は、自分で思っているほどの”成功者”でもなかったろう、他人から見れば。
 父の残した借金を返すのには、若干の歳月がかかった。
 そんな父が生前、演説の場で絶句するたびに、持てない間を埋めんとするかのように頻繁に発していた、あの咳払いが隣室から聞こえてくる。

 横臥したままの私の視界に、天井近くにしつらえられた収納庫が入ってくる。あそこには、何が収められているのだろう。子供の頃から不思議で仕方がなかったのだが、その謎が解明される前に、家は改築され、収納庫は解体、破棄されてしまったのだった。

 居間の真下に、商品収納のための地下倉庫が作りつけられているのは、改築前も以後も変わりない。ただ、改築前の地下倉庫は、現在よりもずっと狭くて汚くて、なにやらすえた匂いがしていたのは、鼠の死骸などが、見えないどこかに転がっていたせいだろう。
 その地下倉庫からある夜、祖母の号泣する声が聞こえてきて、まだ幼かった私は、ひどく動揺した、そんな記憶もある。どちらかといえば気丈な性格の祖母であり、それが、そんな形で人目を忍んで泣かねばならぬ、どんな理由があったのか。何も分からぬままに、ただ私は祖母の泣き声のただならぬ激しさに怯え、一人、居間で震え続けたものだった。
 もう40年も前に鬼籍に入った祖母の泣き声が、遠く近くに聞こえている。それはとてもかすかな響きで、小さな胸の痛みを残しはするが、私の心を、あの日のようにかき乱しはしない。祖母の号泣の理由は、いまだ、分からぬままだ。

 母の声がし、私は午睡の世界から現世へと引き戻される。母は言う。これから妹と一緒に買い物に行くから、そろそろ惰眠を切り上げ店番にかかれ、と。私は冷め切った番茶を飲み干し、立ち上がる。
 コンクリートの箱として立て直されて久しい我が家に、雨が降るごとにひどい雨漏りに悩まされた、あの古い木造家屋、私が生まれたあの家の面影はどこにもない。

 店の表戸を開け、国道の向こうに広がる海水浴場を望む。砂浜に人影はない。夏の間にあれほど渋滞を繰り返した国道は閑散とし、すっかり弱まった日差しの下で、白々と東へと続いている。

 私は吹き抜ける秋風の中で大きく伸びをしてみる。足元に、干からびたトンボの死骸が一つ、飛び来たり、そしてまた、飛ばされて行った。
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遥かなる”俺”の呼び声

2007-09-24 00:04:58 | その他の日本の音楽


 これはず~っと前、まだCDなんかもなかったんじゃないかな?なんてくらい昔話なんですが。
 あるところでラップやらレゲやらの関係の大きなコンサートがありました。ライブというか、”××フェスティバル”みたいな名を冠されているような、でかい野外の奴。場所はよみうりランドだったような気がするんだけど、もう細かいことはすべて忘却の彼方です。

 で、そこにトリかなんかで日本のラップ界で当時、大物と言われていたラッパーが出演したわけです。
 誰だったかなんてのも、もちろん、覚えてないよ。日本のラップの歴史を書いた本でも眺めて、適当に見当をつけておいてください。というか、私のこの文章を読んで誰だか分かったら、教えてください、私にも。

 で、そのラッパーは、いろいろ社会に対する問題意識も高く、自らのラップの中にもそのような社会的なメッセージを込めているってのが評価されているみたいだった。
 もっとも、私のように、ワカモノ文化に距離を置いて眺めているオジサンにとっては、「なんだかアメリカのラップの歌詞を翻訳しただけの”問題意識”にしか見えないけどなあ」という印象しか受けなかったんだけど。なんか”アメリカにおける社会の矛盾”を、無理やり日本の現実に当てはめて”メッセージ”しているような、不自然な感じ。

 まあ、私が青少年の頃の”反戦フォーク”のヒトなんかも、直訳内容の黒人問題の歌とか、外国人の作った”ヒロシマ”の歌の日本語訳とかを歌っていたことだし、そんなものなのでしょう。パンクが流行った頃は日本の青年たちも欧米のお手本を見習って懸命に髪の毛立ててツバ吐いて、たしね。そんなもんです、”日本における社会派音楽”のありようってのは。

 で、そのラッパー氏、ステージに出て来るなり、歓声を挙げる観客たちを手を広げて押しとどめてこう言ったのだった。
 「ちょっと待ってくれ。その前に俺の話を聞いてくれ。マジな話なんだ。ちょっと静かにしてくれ」

 なにごとか?といぶかる観客に彼は、いつになく生真面目な調子で、今、彼が巻き込まれている”問題”について話し始めた。その”問題”ってなんだったかなあ?所属レコード会社との間に生じた歌詞をめぐるゴタゴタとか、そんな内容だったと記憶しているんだが。

 で、彼はステージに直立不動のままマイクを両手で握り、その”問題”について、いつもの粋なラッパーの姿はどこへやら、なんだか朝礼の時の校長先生みたいな固い口調で事情を説明していったのだった。観客は、「そんな話には興味はないけど、オヤブンが真面目に話してるから、俺らもちゃんと聞かなければなあ」みたいな中途半端な顔つきで、その話を聞いていたのだった。

 で、一応の事情説明が終わり。ラッパー氏はいつものように熱く叫んだのだ、「よ~し、堅い話は終わりだ。たのしもうぜ」とか。おう、と客席も応じ、バンドの演奏が始まり、いつもの通りのラップのライブがはじまった。ラッパー氏も、先ほどまでの仕事中の公務員みたいな立ち居振る舞いを忘れたかのようにリズムに合わせて腰を振るのだった。

 それがなんかおかしくてねえ。その”問題”は、それこそ君らの大事な”メッセージ”に関わることじゃないのか。だったらそれをラップにして歌わんかい。ライブの途中で音止めて真面目くさって演説なんかせずにさあ。
 結局、”真面目な話”はあくまでもきちんとした形でするもので、音楽などという”お遊び”と混同するような不真面目な真似をしてはしけないものと考えていたんだね。

 レゲのラップのなんのと肩肘張って新しがっている連中のど真ん中に、そんな”古い価値観に生きる融通の利かない日本人”が生き残っている。その滑稽さを、”社会的な問題意識の高い音楽”をプレイするミュージシャンの側も、そのファン連中も、なにも変だと感じなかったってわけだ。

 うん、いや、それだけの話です。昔、そんなことがレゲやらラップやらの歴史の中にあったというだけの。
 現場じゃ凄くおかしかったのよ。周りのワカモノたちが、その”変なこと”を当たり前の顔をして受け入れているのも含めて、妙におかしくてならなくて・・・なんてこと、こうして文章にしても、あの空気は伝わらないんだろうなあ。う~ん・・・

 ああ、でも・・・あの三木道三って言ったっけ、レゲ関係の男が昔歌った”一生一緒にいてくれや♪”とか言う歌、最近、女ヴァージョンとか出たみたいね。ときどきテレビやらから聴こえてきたりするから、それなりに受けているんでしょうね?
 私、あの歌が大嫌いなんだけどさ。

 嫌いな理由の一つを挙げると、リスペクトのなんのと言いながら、実は自分のエゴ、わがままを振り回す事を正当化しているだけである、そんなところ。
 白人が支配者として強権を振るう世界で、虐げられた黒人たちが人間としての権利を取り戻すために掲げた”リスペクト”って概念を、わがままいっぱいに恵まれた世界で育ってきた日本の坊ちゃん嬢ちゃんたちが安易に自己正当化のために流用するなよ、とその辺に腹が立つわけなんだ。

 で、あの歌にうかがえる、平気でエゴを振りかざす姿勢を思うと、あの時の”校長先生の訓示”みたいな態度、あれはあれで本質が表れていたんじゃないかって気もしてくるわけです。お前ら整列しろ。おとなしく俺の話を聞け。なんてね。
 メッセージがどうの、なんて言ってる連中のタマシイのど真ん中には、結構そんな権力志向が横たわってる、そんな気がしてきてならないわけです。
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ポップインドネシア、ラテンの面影

2007-09-22 04:31:10 | アジア


 ”Cinta Pertama”by Bunga Citra Lestari

 とりあえず私、ワールドミュージックのファンをしているわけです。世界中のあちこちにアンテナを伸ばして、おいしそうな音楽を探している。
 どちらかと言えば嗜好は泥臭い。ポップスよりは歌謡曲、歌謡曲よりは演歌、みたいな。同じワールドものでも、”世界に羽ばたく芸術家”とか、”この国にもアメリカと同じような洗練されたポップスがあるんです”なんて歌手は興味がもてなくて、現地の裏町で愛されているようなイナタい、”港々の歌謡曲”的な世界に興味がある。まあ、そんな趣味であるわけで。

 ところが、場所がインドネシアとなるとやや形勢が異なって、なぜだか都会派のポップス支持だったりするんだから我ながら何を考えているやらよく分からない。
 インドネシアといえばワールドミュージックで最も初期に注目が集まったインドネシア演歌、ダンドゥッドをはじめとして、土俗ポップスの宝庫みたいなもので、その辺に興味のある向きはたまらない場所であるはずなのに、なぜかかの地に起きましては、その方面に背を向けて現地の都会派ポップスなど聞いている私なのであります。

 ここに取り上げるのもその一枚。いわゆる”ポップ・インドネシア”と言う奴ですな。
 ここでは土着の音楽はとりあえず無縁なのであって、ともかく洗練されたアレンジと美しいメロディラインによって、繊細な都会人の日々の感傷を密やかな憂いをこめて歌い上げる、そんな世界が提示されている。

 インドネシアの人口は世界4位だっけ?しかもさまざまな人種の坩堝。そんな国が赤道直下に広がっていて、政治的にも経済的にもたくましい蠕動を繰り返している。
 それはある意味、非常に生々しく暑苦しい現実であるんだけれど、この”インドネシアにもあるんです”的な洗練された都会派ポップスが描くのは、まるで別の世界。

 高層ビルのオフィスや瀟洒な郊外の住宅にはきちんと気温も湿度もコントロールされた清潔な空気が通い、高価なブランド物の服に身を包んだ人々がお洒落なラブロマンスに憂き身をやつす。
 事情を知らない人に聞かせたら、どこの音楽と思うんだろう?南欧かどこかのポップスと勘違いしても不思議はないだろう。少なくとも、赤道直下で消費されている音楽とは思えないんじゃないだろうか。

 でもこれも、世界の政治経済の明日に強大な潜在力を持って姿を写すインドネシアという大国の、もう一つの”リアル”であるのもまた確かであってね。
 で、自分がこの音楽のどこに惹かれているのか分析しますとですね、音楽のむこうで脈打っている”ラテンの面影”ではないかと推測しているわけです。

 インドネシアは長らくオランダの植民地であったのだけれど、古くから交易などを通じてポルトガル文化の存在が影を落としていたのは、たとえばインドネシアの古い大衆音楽、クロンチョンで使われているのがハワイのウクレレそっくりの弦楽器であったりするのを見ても明らかなのであって。あれは明らかにポルトガル原産ですからね。

 そんなポルトガルが遠い過去にさまざまな文物とともに当地に持ち来たって、インドネシア人の心の奥底に置き忘れていったと思われるラテンの激情の影がおりに触れて、このシンと澄んだクールなポップスの奥底で揺らめく、その辺に惹かれるんですよね。
 それを思う場合、独特のインドネシア語の響きがまた良いのですね。ちょい巻き舌で発音されるインパクトの強いインドネシア語がここでは、なにやら”擬似ラテン語”的な響きを持って迫ってくる。

 音楽的にはロックやソウルの影響しか感じられないけれど、魂の揺らぎのありようがいかにもラテンである。とは言え、その音楽はロックともソウルともラテンとも関係のない、喧騒のアジア最前線、赤道直下の地である、インドネシアに存在している。その辺の矛盾がまた、聞いていてスリリングなものを生み出しているんですな。
 あるわけのない音楽がそこにある。エアコンの効いた居心地の良い室内から窓ガラス越しに見下ろす、灼熱の、喧騒のメインストリート、そんな感じ。
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オルガンのある街角

2007-09-21 03:11:12 | 南アメリカ


 ”Organo Oriental,Street Organ Music of the Oriente de Cuba”

 残暑厳しき折から、と言うことでこのようなタイトルのアルバムを聞いているわけなんです。

 まあ要するに伝統派のキューバ音楽のアルバムなんだけど、オルガンがメイン、というのが珍しいところ。上に添付した写真をご覧になれば分かるとおり、なんか古色蒼然たる代物ですな。音の方も、いまどきあんまり聞かないブカブカした音色の、いかにもオルガンて感じです。シンセとかじゃもちろんないし、キーボードって呼び方もピンと来ない。やっぱりオルガンと呼ぶしかない。

 ストリート・ミュージックということで、どうやらこの古びたオルガンを通りにガラガラと引っ張り出し、パーカッション群(このCDのメンバー表を見ると、コンガ+ボンゴ+ティンパレスの黄金のトリオにマラカスやギロ、たまにトランペットを吹いたりヴォーカルを担当したりするメンバーが加わった5人編成)をバックに、キューバ音楽の懐メロをひたすら弾きまくる、という音楽のようです。

 どこからこんな編成が出来上がったのか分からないし、これまでこんな編成のラテンも見た事がない。ほんとに路上のみで営々と生き抜いてきたキューバ音楽のもう一つの演奏形態があった、ということなんでしょう。

 モノが鍵盤楽器ですからね、それも素直にメロディを奏でて行くんで、ラウンジ風に当然なります。なんとなくテクノな感じ(笑)も醸し出してみたり、ワッと厚い和音を重ねられると、擬似ストリングスの趣も漂い、弦セクション+パーカッションのマラヴォワなんかを思い出したりする。
 その一方、ホーンセクションが存在しない分、パーカッション群の動きが生々しく伝わってきて、結構血の騒ぐ部分もあります。ある意味、打楽器演奏の勉強になったりするんじゃないか。

 解説を読んで行くとこの演奏形態、家族によって編成され、街角での”興行”がなされて来たとのこと。お父さんがオルガンを奏で、子どもたちが打楽器を。
 そういわれてみると、ということでもあるんでしょうか、聞いて行くうちに、演奏者たちがオルガン奏者の周りで丸くなって顔を見交わし、励ましあって演奏を続けているような暖かい独特のグルーヴ感が伝わってくるのでありました。

 しかし、不思議な風景だろうなあ、ラテン・オルガンバンドのいる街角。
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失われたモーガンタウン

2007-09-20 02:37:46 | いわゆる日記


 ”Ladies Of The Canyon ”by Joni Mitchell

 今、私の机の上には先日、ネット書店を徘徊した際に衝動買いした漫画の文庫本2冊が置かれている。ある種、苦い気持ちでそれを見る私がいる。本の著者名は”樹村みのり”で、書名は”菜の花畑のむこうとこちら”と、”カッコーの娘たち”である。
 どうやら現時点で、出版社のカタログに生きている樹村みのりの漫画は、この2冊だけらしい、と知ったのが私の苦い思いの正体なのであるが。なんでそうなるのかな?なぜ、彼女のその他の傑作群は絶版になったままなのかな?そんな疑問を抱きつつ、衝動的に買ってしまった2冊なのだが。

 樹村みのりの漫画は好きだった。一時、かなり熱を込めて愛読していた。特に、子どもたちの世界を描いた初期の作品が気に入っていた。「病気の日」や「贈り物」や「菜の花」、そしてもう少し大人になりかけた少女たちを描いた「早春」など。

 先日、ここにも書いたが、この夏、知り合いのAさんが交通事故で突然にこの世を去った。何しろ急の事故(当たり前だが)であり、そして慌しく葬儀も行なわれてしまったので、私はAさんの死に顔も見ていない。だから彼がもう私の生活の時間内に決して戻ってこない、その実感がさっぱりわかず、奇妙な宙ぶらりんな感覚の中にいた。そして気がつけばいつの間にか樹村みのりの作品、「見えない秋」がおりに触れて思い出されるようになっていた。

 夏休み中の事故によって、クラスメイトを失った小学生の女の子の戸惑いを描いた作品。光と影が織り成すイメージの連なりによって女の子は、繰り返しやって来る季節の輝きの中の生と死について思いをはせ、そして新しく出来た友達と新しい朝に向って歩き出す、そんな物語だった。

 「ああ、自分が感じているのは、あの漫画のあそこに書かれていたこと、そのままだな」そんな風にふと思うことが何度かあり、ゆっくり出来る時間を見つけて、書棚の奥から樹村みのりのその作品をいつか引っ張り出し、読み返してみたい気分になっていた。
 そんな次第で、先日は樹村みのりの作品をネット書店で検索してみる気まぐれを起こしたのだった。目的の作品は蔵書として持ってはいたが、現在、彼女の作品はどのような形で人々に親しまれているのか知りたくなって。

 結果、唖然とすることとなった。現時点ではこの2冊以外、絶版なのか。あの作品も、この作品も書店の棚には並んでいないのか。古書店や漫画喫茶にあったとしても、いや、そういう問題ではないのだ。樹村みのりの、最も素晴らしかった時期の作品群が刊行物として現役でないと知ったのが無念な気分だった。

 ネット書店での検索結果には、彼女が漫画家本来のとは別の方向で関わった書物の名も散見された。そのあたりから推察するに、もともと関心を持っていた社会問題などに彼女が、あまり効果的でない関わり方をして、それゆえに漫画家としてやや後退した立場となってしまったのかな?とも想像が出来たが、それ以上は詮索しないことにした。
 知ったところで私に何が出来るわけでもないし、いずれにせよ、いつか樹村みのりの漫画作品にきちんと光が当たり、正当な評価を受ける日は来る。そう私は信ずる。

 ふと、ジョニ・ミッチェルの”モーニング・モーガンタウン”という曲を聴きたくなっていた。「青春の光と影」や「サークルゲーム」や「ウッドストック」などなどのヒット曲で高名なアメリカのシンガー・ソングライターであるジョニ・ミッチェルに、樹村みのりは単にファンというより、非常な親近感を持っていたようだ。何かの作品にあったな、「ジョニさんもそばかす、私もそばかす」なんて書き込みが。

 ”モーニング・モーガンタウン”は、ジョニの3枚目のアルバム、レディス・オブ・ザ・キャニオン”の冒頭に収められていた曲。朝もやの中で目覚めてゆく住み慣れた町への挨拶みたいな、みずみずしい感性を伝える、いかにもこれから音楽の世界で羽ばたこうとする新進歌手の心のときめきが伝わってくるような小品だ。
 なぜここでそんな曲を思い出したのか、自分でも分からない。こんな昔の曲、ジョニのファンもジョニ自身も、もう聞き返すこともないようにも思える。あんな”ナイーブ”過ぎる私的フォークの世界も、いまどき流行らないだろうという気もする。

 先に述べた「ウッドストック」や「サークルゲーム」なんて初期作品が収められたアルバム、”レディーズ・オブ・ザ・キャニオン”は、今でも”有効”なんだろうか、聴き継がれているんだろうか。モーガンタウンに通ずる道に、今でも人は行き交っているんだろうか。
 なんて事をふと思った。しつこい残暑は週が明けても去らず、過酷な夏の残滓はまだまだ尾を引く、などとテレビの天気予報が言った。
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