ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

まるで日記のように

2008-12-31 21:09:48 | いわゆる日記


 2~3日前から風邪気味でね。熱とかはないけど喉が痛い。なんとか悪化しないで欲しいんだがなあ。それでなくともここのところ寒いんで、習慣だったはずのウォーキングもサボることが多くなってきていて、なんか不健康傾向へ一直線て感じになってる。
 とか言いつつ、今夜は一年の終わりでもある事だし、”週に一度の酒を飲んでもいい日”じゃないけど飲んじゃおうかなあ、なんて思っている。こうして人はアルコール依存症の世界へ還って行くんだね。いや、明日からはもう飲まないから許してくれ。本当だ。

 昼間、電話の回りに散らかっている書類を片付けていたら、往復はがきが出てきた。なんだこれはと思えば、これが正月にやる高校の同窓会の出欠を問う葉書。もちろん、もう締め切りは過ぎている。ハナから出る気はないけど、返事を出さねば悪かったなあ。
 まあ、高校にはろくな思い出がないのでその種の会には一度も出たことはないから、誰も俺が出るなんて思ってやしないだろうけど。それにしても、そんな葉書が来ていた事、完璧に忘れていた。

 なんかそんなポカがこの頃、多い。一昨日も、ずっと前に出来上がっていると連絡を受けていた小切手帳を、銀行に取りに行くのをすっかり忘れていて、年が変わる前の危ないところで受け取ることが出来た。マヌケだよなあ。まあそれ以前に、そんなに長いこと小切手を使わなかった、つまり仕事上の支払いをしなかったってのも、結構ヤバくないか。まあ、どうだっていいやなあ、事実上、店仕舞いをしてしまった本業の話なんて。

 朝から頭の中にキンクスの”ビレッジ・グリーン”のメロディが流れっぱなしだ。よくあるよね、なんだか分からないが取り付かれたように同じメロディが頭を離れないっての。
 これを使ってテレパシー能力のある奴から心を読まれるのを阻む、なんてアイディアが出てくるアルフレッド・ベスターのSF小説は、”虎よ!虎よ!”だったっけ、”分解された男”だったっけ?

 「”ビレッジ・グリーン”といえば、あのメロディをパクったのが某バンドの某曲だよなあ。あ、これは気を遣ってはっきり書かないんじゃなくて、本気で思い出せないのね。
 でも、某バンドが何バンドかは思い出した。そのバンドのアンナって曲を聴きながら飲むと結構気持ちよく酔えるとこの間気がついたのよな。この夏以来、沖縄の音楽ばかり酒のお供にしていたのだが、このところ、いかにもロック!みたいな曲を聴きたいって欲求が心の底に芽生えているみたいだ。ロックったって、60~70年代に限る、だけどね。
 とかダラダラ書いているうちに、年は明けて行くだろう。じゃ、酒飲むから。

スコットランド古道

2008-12-30 05:01:42 | ヨーロッパ


 ”Keil Road ” by Donald Black

 (A collection of slow airs and reflections played on Scottish Celtic Harmonica)

 あれはなんというタイトルの映画だったか、高倉健が主演の生き残った特攻隊員の戦後の日々に関する物語の中で、スコットランド民謡の”故郷の空”が歌われるのを聴き、ありゃりゃと思ったのだった。その歌、亡くなった父の愛唱歌でもあったので。
 父は機嫌の良いときなどにその曲を、オイッチニ、オイッチニと掛け声が聞こえてくるような行進曲風のリズムの取り方で、なおかつ完全に軍歌の節回しで歌っていたものだ。
 ”ゆっうぞっらはっれてっあきっかぜっふくっ”と。

 高倉健の映画の中でもこの曲は、なにやら特別な扱いで、”ああ、この曲は泣けるんだよなあ”みたいな感傷を込めて、でもやっぱりゴツゴツした軍歌調で歌われていたのだった。
 どうやらあの歌を愛唱していたのは父ばかりではないようだ。かなり一般的に、戦前の青年たちの間で歌われていたものかと思われる。

 これはなんだろうな。戦前の青年たちにとってこの歌は、何か特別なエピソードでもあるんだろうか?
 ”ああ我が父母いかにおわす”とか日本語の歌詞は、軍歌扱いをするにはずいぶん後ろ向きで感傷的な内容だが。

 もっとも、これは明治21年に書き下された歌詞とて、”すみゆく水に 秋荻たれ 玉なす露は すすきにみつ”と、表面上は格調高き文語体であり、こいつを口にすると、なんだか偉そうな、高邁な理想かなんかを歌っているような気分にならないでもない。
 こいつを軍歌のようにヒョコタンヒョコタンと棒のような縦ノリのリズムを取りながら歌えば、ここに、戦前日本において期待されていた勲し青年像などとも矛盾しない”雄々しき感傷”を歌うことの可能な歌が存在することになっていたのかも知れない。

 まあいずれにせよ勘違いの集積みたいなものなのだろうが、いまさらそんな事を言ってみても、愛唱していたかっての青年たちの多くはすでに鬼籍に入っており、詮のない話である。

 前置きが長過ぎたが今回のアルバム、スコットランド民謡界では珍しいハーモニカ奏者による、”エアー”集である。つまり人々のダンス伴奏に奉仕するのではなく、シンプルに美しいメロディを楽しむための演奏集。

 ともかく晩秋の木立の間の散策などにふさわしいアルバムであり、必要最小限に抑えた生音主体の伴奏を従え、ヒラヒラと枯葉の舞うようなさりげない感傷を歌うハーモニカのプレイが堪能できる。
 セピア色のジャケ写真に写っているのはどこの山道だろうか。枯葉に覆われた、不思議に懐かしい風景。

 遠い昔に”幻の民族”たるケルトの人々が残した、人の心のど真ん中に住み着き、過ぎた日々への愛惜の想いを永遠に唄い続けるようなメロディの数々を、この老いたハーモニカ吹きは、古道に落ちる枯葉のように儚い夢の一片として見つめ、静かに奏でる。
 どんな栄華を誇ったものであろうとやがては滅び、すべてはこうして古道に木霊するエコーとなってしまう、そんな諦念が聞く者の心に染み渡ってくるアルバムである。
 年の瀬には、こんな音楽も良い。

2008年度ベストアルバム10選

2008-12-27 04:03:36 | 年間ベストCD10選


”DHARMA FLOWER(花香飄来時)” by Yangjin Lamu


1) DHARMA FLOWER by Yangjin Lamu (Tibet)
2) NAPULITANATA by Eddy Napoli (Italy)
3) ABIDAT R'MA SORBA (Morocco)
4) YIN HTEL KA POE by Poe Ei San (Myanma)
5) ENTA MEEN by Dana (Lebanon)
6) Про лето by Бьянка(Russia)
7) 海風海涌海茫茫 by 張美玲 (Malaysia)
8) SHAKE AWAY/OJO DE CULEBRA by Lila Downs (USA-Mexico)
9) 新疆名歌 by 黒鴨子 (china-Shinjang Uyghur )
10) LAGOS STORI PLENTI -Urban Sounds From Nigeria (Nigeria)

 さて、今年も年末恒例の年間ベスト10を、という事で。選考対象は2007~2008にかけて製作されたアルバムのうちから。制作年代のはっきりしないものは、こちらの都合で勝手に解釈させていただいた。

 1)チベットの女性シンガー・ソングライターが、同じ敬虔なる仏教徒の国のタイへ出かけて、現地の民俗音楽楽団をバックに吹き込んだ仏教ポップスの傑作。まことありがたきは御仏の織りなす人との縁と申すべきか。
 プロモーション・ビデオの中で、南国の陽の下、タイの寺院の黄金の仏像に向かい、深々と頭を垂れて合掌するYangjinの姿が印象的だった。
 彼女の書く、シンプルを通り越してプリミティヴとも言いたい蒼古のイメージ溢れる楽曲が、タイの民族楽器群の神秘な響きと絶妙のハーモニーを奏で、忘れられない一作となった。

 2)南イタリアの民族派シンガーがナポリの大衆音楽100年の歴史に挑んだ快作。と言っても大げさな芸術作品ではなく、あくまでも人懐こい暖かい手触りが魅力だ。ラストの”マリア・マリ”の、まさに気のおけないコーラスの楽しさには、南部イタリアの太陽の輝きを一杯含んだ果実を一かじり、みたいな幸福感がある。

 3)2008年も音楽的に最注目ポイントは、変わらず北アフリカはベルベル人の音楽だった。ここで展開されているのは狩りの際、獲物を追い立てるための音楽として発達したものだそうな。
 その歌声の鋭い響きと力強いリズムの凶暴な爆走には、こんなに生命力に溢れた音楽がまだこの地球に生き残っていたのかと驚かされる。

 4)ともかく奇々怪々なる構造を誇るミャンマーの大衆音楽なのだが、異文化に育った者たる我々に理解可能か否か、なんて逡巡はすっ飛ばして、理屈抜きにその楽しさの中に引きずり込んでくれたポーイーセンの諸作品だった。こいつはその最新作。さて次回はどんなカラフルな夢を見せてくれるか。

 5)レバノンのお色気アイドルポップス。堅苦しい一面もあるアラブポップスの殻を、その軽薄なフットワークで蹴り破ってくれた。

 6)”夏について”by ビヤンカ。”ロシア民謡R&B”がトレードマークの彼女だったが、デビュー作に続くこのアルバムでは、土俗ファンク風ロシア民謡、みたいな独特の境地を開き、そいつは相当に刺激的な代物だったのだ。

 7)弾けるエレキギターの響きと、どすこいパワフルな張美玲の歌声。チャチャチャのリズムに乗ってうねるド演歌のコブシ。
 東南アジアの華人ポップスは相変らず元気だ。その雑食性のいかがわしい響きは、南国の中華街の猥雑なざわめきを伝えて来る。今回はそれに加えて、南の海の潮の香りも。

 8)2008年、一番驚かされたのは、この盤だったかも知れない。どちらかと言えば文芸の薫り高く、メキシコの土俗と今日を生きる己の感性との間で引き裂かれた自我を掘り下げる作業をして来たリラ・ダウンズが、今作、思い切りポップにはじけてみせたのだから。

 9)中国の人気女性コーラスグループが、新疆自治区のウイグル民族の民歌ばかりを取り上げたアルバム。
 ともかくウイグル民族がその内に、かくも可憐な美しいメロディを持っていることに感嘆させられ、そして次には、このような作品集をウイグル人自身の歌声で聞けるアルバムが存在しない事実と、その裏に存在するその理由を思い、複雑な気分に。
 中国政府に死産させられた東トルキスタン共和国の幻の独立記念日には、このアルバムの歌の数々を思い起こそう。

 10)アフリカ一騒々しい都会ではないかと思うナイジェリアの首都ラゴスの、ストリート・ミュージック集。かの喧騒の街の今日を伝える。
 ここで聴かれる、アフリカ風に変形してしまったラップやらヒップホップからはいつか、新しい何かが芽を吹くのだろうか。かってアフリカに先祖がえりをしたアフロ・キューバン系音楽が、新しいアフリカン・ポップスを発生させる種子となったように。

ガイジン稼業2008

2008-12-25 04:21:00 | その他の日本の音楽


 さて、まさかとお思いでしょうが昨日の”ユニクロのジングルベル問題”の続編です。
 私自身もまさかこの話題を二日も引きずるとは思わなかったけど、調べてみたらいろいろ面白いことが出てきたのでね。
 まず、あの歌のアレンジは鈴木慶一だったんですね。演奏も慶一一派。そういえば昔風のジャズの音を演出しているわりにはアコーディオンの音が聴こえてるんで、何かあるかなとは思ったんだけど、その方向は考えなかった。まあ私、慶一は特に崇拝の対象ではないんでいいんだけど、周囲にムーンライダースのファンがい過ぎるよなあ。まあ、いいけどさ。

 で、歌を歌っているのは横浜在住のハーフの子らしい。ご当人の表現では「ハーフではなくてダブル」と、こうなるようですが。
 歌手をやる傍ら英語を教えているとかで、ひょっとして帰国子女って奴なんだろうか?だとすると、私があの唄を聞いて不愉快に感じた理由には、その種のキャラ特有の西洋じこみの厚かましさに私の”一般的日本人”の心が拒否反応を示したって部分もあるのかもしれない。

 それでですね、彼女のブログは、「これ歌ってるの私じゃん!!!Oh wow!! This is is ME singing!!」とか、”英語対訳付き”で書かれているという念のいりよう。”自分は英語の人である”という主張、全開なんですわ。
 でも・・・だとするとちょっとまずいんじゃないの?「お前らよく聞けよ、これが本場の、本物の英語だからなっ!」と胸を張ってる”ニュージーランドと日本のダブル”の人の”英語の歌”が、私がごときに「あ、これ、日本人が歌ってる英語の歌だ」と一発で見破られてしまうってのは?

 あなたの歌、”本場の人の発音の英語の歌”なんでしょ?
 私、テレビで最初に聞いたときから、あれが日本人が歌っている歌であることをまったく疑わなかった。だから昨日のような「ジャズボーカルの先生に教わったみたいな歌い方をそのまま披露して」なんて文章を書いたわけでね。
 「こんな事を書いて、ファンには普通に知られているアメリカ人のジャズ歌手の音源を使っていたなら恥かいちゃうな」とは、まったく思わなかった。シロウトの、英語が日常語ではない歌手の”英語の唄”だと、最初に聞いたときから信じて疑わなかった。どうなのかね、これは?

 さらに私の疑問。彼女は”ニュージーランドと日本のダブル”ってのを、とりあえず我が国では”売り”にしているようなのだけれど、ではニュージーランドに行ったらどうなんだろう?はたしてここまで”日本とのダブル”を強調するんだろうか?
 ニュージーランドに、彼女によるニュージーランド人に読ませるための英語のブログがあったとして、そこでの表記は”日本語訳付き”なんだろうか?

 ここでまた、”日本におけるガイジン稼業の問題”について考えてしまう私なのであります。

 (”ガイジン稼業”に関しては、以下の拙文をお読みいただけると幸いです)
   ↓
  ●第一部
 ●第二部
 ●第三部

 たとえばアン・ルイスなんてタレントがいるけど、彼女なんかがアメリカに行って、何も知らないニューヨークあたりの普通の市民と会話したりすると、どんな印象を相手に持たれるんだろう?最近じゃビッキーか?
 逆に言えばマルシアってタレントは奇天烈キャラで売っているんだけれど、彼女はブラジルに帰ると、周囲の人々にはどのような人格と認識されているんだろうか?
 普通の香港人はアグネス・チャンをどう思っている?
 アメリカ合衆国の、”アフリカ系アメリカ人”って呼ばれないと怒るような”進歩的黒人”は、現実のアフリカの音楽にはおそらく、興味も知識もないよね?
 無理やり聴かせたら「素晴らしい!」とかタテマエとして感動してみせるんだろうけど、ずーっと聴かせたら、「いい加減にしてくれ!」とか怒るんじゃないかって気がするんだが、どうですか?まあ、この辺は私の憶測でしかないけれど。

 というわけでガイジン稼業は相変らず花盛り。以上、基督教聖夜を記念して記す。

聖退屈蔡

2008-12-24 03:44:54 | その他の日本の音楽


 ”クリスマスが今年もやって来る 楽しかった思い出を消し去るように~♪”

 ・・・というくらいでしてね。あの歌、他の人にもそう聴こえていると分かったのが今年の収穫といえましょうか。

 まあ、当方、特にめでたくくもなんともない状態で一人、ここにこうして深夜、テレビで”矢口ひとり”とかいうどうでもいいような番組をどうでもいいような気分で見ているわけでして。
 私が毎年、クリスマスで楽しみにしていることといったら唯一、こいつも深夜のテレビだけど、何年も前からさんまがやってる”明石家サンタのクリスマス”なんて番組で他人の不幸話を聞くことぐらいかなあ。あれはとりあえず、救いになるよね。

 というわけで、今なんとなくの思いつきで、”今年、聴こえて来たガッカリなクリスマス・ソング大賞”を選んでみます。

 さて、今年のガッカリ・クリスマスソング大賞はっ。

 ハイ、”ユニクロのCMソングのジングルベル”を私は選出いたしました。結構大量にオンエアされているんで、お聴きになったことはあるかと思いますが、女性歌手がジャズバンドをバックに”ジングルベル”を歌っているもの。
 なんかこれがさあ、”人がジングルベルという曲をジャズっぽく歌おうとしたらこうするであろう”という歌い方をただもうそのまんま展開している、そんな歌い方なんだなあ。そう思われませんか?

 ここらあたりで声が裏返るだろうなあ、というあたりで声を裏返して見せ、この辺でちょっと声を濁らせてみせるかなあ、というあたりでそうしてみせ、という感じで、ともかく節回しの一つ一つに至るまでことごとく、ありきたりな歌い方というものはこうだ!という世界を堂々と展開する。
 なんのひねりもなくて面白くもなんともないんだが、それをなんだか非常に楽しそうに、かつなんだか誇らしげにさえ提示してみせる。その臆面もなさがすごく嫌だ。

 ジャズ・ボーカルの先生のところに通って習った歌い方をそのままCMソングに流用してんじゃねえよっ。いや、そういう事情があるのかどうか知りませんがね。ともかくあの安易な節回し、私には耐えられません。
 単なる”無神経”を、「これは”素直”なのである」と強弁する・・・いやあ、この時代の”クリエイター”諸氏の、いかにもやりそうなことでありますがねえ。私は不愉快と感ずる、と地べたより物申しておきます。
 
 あっと、ガッカリを通り越してむかっ腹が立ったクリスマスソングは、NHKの番組でコメディチームの”品川庄司”と演歌の氷川きよしが歌っていた”メリークリスマス・フォー・ミー”です。
 ”母子家庭の男の子のところにクリスマスの日、新しいお父さんがやって来て、それがまるでサンタのように見えた”とかいういかにもなお涙頂戴ソング。
 そんなものを”ちょっと良い話”と思えと言うのか”アーティスト”の諸君!
 そしてそんな見え見えの演出に乗せられて、奴らの思惑通りに安い涙の一つも流そうというのか、我が人類よ。メリークリスマス。


M1・・・増殖する退屈

2008-12-23 03:18:09 | その他の評論


 何を根拠にか知らないが勝手に自分たちを重要人物と信じ込み、無意味に偉そうにしている”笑い飯”が大嫌いなので、私としては、彼らが決勝進出も果たせなかった、それだけで十分に当初の目的は果たした気分である。番組の全体としては、やはりつまらなかった。
 いやもうM1、ほんとにもうやめたらいいでしょ?

 紳助はダウンタウン松本と、「クオリティが落ちたらもうやめようか」と話していたそうだけど、いや、今回、もう十分にクオリティは落ちていたと思うよ。
 にもかかわらず、「でも今回はレベルが高かった」と評価する紳助は、企業家として番組がまだまだバブルを産むであろうという方向に空気を読んだんだろうね。

 今回は優勝者も含め各チーム、ともかく突っ込みの空疎な怒鳴り声がやかましく響くばかりで、機知に飛んだお笑いネタなんか見つけるのも困難な、貧相な時間がただただ流れていったのだった。
 怒鳴れば熱演、ですか?うっとうしい限りですね。

 (今年の優勝者のそれと比べてみると、昨年のサンドイッチマンのネタが堂々たる本格派にさえ思えてくる。少なくとも今年のように”見ていて汚い”芸ではなかったしね。つまりは年々、確実にレベルは下がって行っているのでしょう)
 
 そもそも毎年、一千万も賞金与えてスポットライトを当ててやる価値のある漫才なんか出てくるものなのかどうか。

 それでも企業家・紳助は今回を「レベルが高かった」と平気で公言する。参加者も年々増えて来ているようだし、受賞者が名を売り、おいしい思いが出来るシステムも出来上がっているようだ。
 つまりまあ、ど真ん中に抱え込んだ内容の貧困さに反比例して、煽り立てられた祭りの騒ぎばかりが膨れ上がる、そういうものこそ”バブル”と呼ぶんだけどね。いずれ潰れる泡なんだけどね。

 ○M-1新王者NON STYLE、賞金1000万はまさかの「借金返済」
 (ORICON STYLE - 12月22日 05:01)
 結成10年以内の漫才コンビ日本一を決める『M-1グランプリ2008』王者に輝いたNON STYLEが21日(日)、生中継した東京・六本木のテレビ朝日で優勝会見を行った。優勝賞金1000万円の使い道について石田明は「借金が残ってるので、それに(充てたい)。全部返済するにはあと5回くらい優勝しないといけない」との生々しい報告で、大会委員長の島田紳助を驚かせた。
 総評を求められた紳助は、本番中に発した「もう(『M-1を』)やめようと思った」発言の真意を聞かれ「クオリティが落ちたら、松本(人志)と『もう2回やったらちょうど10回だし、やめようか』と話してた」と説明。「でも、今回レベルが高かった」と考えを改めた様子で、NON STYLEには「(審査員の)上沼(恵美子)さんの言うとおりフリートークは無理。よその番組(でのトーク)を見てから、(自分の番組で)使います」と辛らつエールを贈った。
 過去のグランプリ受賞者の活躍が証明するように、一夜にして知名度と“単価”があがるM-1バブルは健在。今後のNON STYLEに石田は「トークメインでやりたい」と苦手克服を課題に挙げ、井上も「おしゃべりを頑張りつつ、ゆくゆくは司会とかできるようにしたい」と芸人の出世コースを目指すことを誓っていた。

前科者のクリスマス

2008-12-21 04:34:26 | 60~70年代音楽


 ”浅川マキの世界”by 浅川マキ

 ネット仲間のプカさんからいただいたメッセージにあった浅川マキの曲、”前科者のクリスマス”が気になってきて、唯一持っているマキのCD、”浅川マキの世界”を引っ張り出し、聞き返してみる。

 ”今頃どこにいるだろな 同じ刑務所を出たあいつ
  クリスマスに一人ぼっち 思い出せば雪が降る”

 作詞・寺山修司、作曲・山木孝三郎。久しぶりに聴いてみたのだが、賛美歌調のハモンドオルガンのソロにファンクなリズムが忍び入る感じで打ち込まれて始まる、マイナー・キーのジャジーなナンバー。なかなか新鮮でかっこいいんではないか。クリスマスに浮かれる世情に倦んでいる身としては、その落ち込み気味のファンクなリズムが暗いなりに心地良く、救われた気分になったりもする。

 これは浅川マキのデビューアルバムである。オリジナル盤は1970年の秋に発売されている。

 アルバム全体としては、基本的にはジャズ系列のアレンジが成されているのだけれど、当時(海外で)流行していたブラスロック風のアレンジが強引に持ち込まれた曲があったりして、その頃の音楽の潮流というか、ロックやソウルに興味を示したジャズマンの血の騒ぎなんかが伝わる瞬間があり、その辺りから生々しい時代の空気が感じられる。
 それに呼応して、こちらの心に眠っていた時代への思いが深いところで揺らぐような瞬間もあり、真正面から向き合っていると、なのやらドギマギしてみたりもする。

 ”俺も同じ一人ぼっち 酒場の隅のろくでなし
  泣きぐせ女からかって あとは一人寝 橋の下”

 ついでに、「これ、イマドキのクラブ方面で結構受けるんじゃないか」とか言ってみようか。
 いやなに、イマドキの若者なんかに受けようと受けまいと、私としては知ったことじゃないんだけど、以前この場で言ったとおり、浅川マキが出して来た何枚ものアルバムはいまだ、そのほとんどがまともな形で復刻が成されていないのだ。
 何をやっているんだレコード会社よ、という意味も込めて書いてみた。

 寺山がこの世を去ってから、もう何年になるのだろう。夭折した寺山は、いったい今年でいくつ、私より”年下”になってしまったのだろう。彼が生きていた時代は、もうずいぶん遠いところに行ってしまったように思える。

 ”さよならだけの人生も しみじみ奴が懐かしい
  賛美歌なんか歌っても 聞いてくれるのは雪ばかり”

 今どき聞かない類の”無頼の面影”が、マキのレイジーな歌声とミディアム・テンポのファンク・サウンドに乗って流れて行く。面影は、空疎に淀む年の瀬の風の中で凍り付いている。

太鼓叩きの少年は

2008-12-20 03:53:02 | 北アメリカ


 ”The Heart Of The Minstrel On Christmas Day”by Harvey Reid

 毎年、この季節になると同じ事を書いて来たんだけれど・・・
 私は、あのマライヤ・キャリーの「恋人たちのクリスマス」とかいう歌がどうにも苦手でしてね。あの歌はクリスマスの時期、毎年、巷に流れ過ぎではないか?

 あの道路工事みたいなドッカンドッカン鳴り響くリズムに乗って、歌い手の厚かましい性格が覗われる”クリスマスはっめでたいなっ♪”との押し付けがましい歌声、いや吠え声。いかにも今日のアメリカ音楽らしい無神経ぶりでうんざりせずにはいられないのだ。そう、吠えるんだよ、あの女は。
 下品極まる音楽ではないかね、あれは?あんなものを巷に休みなく流して平気でいられるなんて我が日本人、そこまで感性が鈍磨したかっ!

 まあ、クリスマス商戦に向けて、「何も考えるな。ただ金を使うことだけ考えろ!」との”ビッグ・ブラザー”からのメッセージを全消費者に浸透させるための洗脳ソングなんだろうから、そりゃ、美しい音楽ってわけには行きませんや。
 とかなんとか。いや、あの歌がお好きな方、すみませんね。私の感性では、どうにも耐えられないんです、あの歌は。

 ところが今年は、あまりあの歌を聴く機会がない。こりゃ助かるなあと思ってるんですが、これは偶然、私が聞かないでいるだけ?それとも本当に、あまり流されていないのか?
 これは昨今、急速に全世界を覆っている不景気風と何か関係があるのですかね?もはや各企業、青息吐息状態で、クリスマスにかこつけていらんものまで売りつけていた商魂まで萎え果ててしまったんだろうか。

 そういえば、年々増えてきていた街角を飾るオーナメントというんですか、あのクリスマスを祝う電飾などの飾りつけも今年は地味目みたいで、夜の街の風景は例年よりもかなり寂しい感じになっているようだ。
 あ、大都会では逆に派手になっている様子もテレビで見たけど、この辺が地域格差という奴なのかもね。

 ともかく。本日、所用があって、毎年クリスマスには町内ごと派手な飾り付けを行なうことで有名だった地区を通ったんだけど、そこが今年はまったく飾り付けを行なっていないのに気がつき、ちょっとショックだった。
 いや、飾り付けを楽しみにしていたとか言うんではなく、「ほんとに一瞬にして不景気に覆われてしまったんだなあ、我々の世界は」という証明を、そのなんだかうら寂しくなっちゃった街角に見せ付けられてしまったって気がしたんで。

 で、ちょうどその時、カーステレオで聴いていたのが、このCDです。
 アメリカの民謡系のギタリスト、ハーベイ・リードが20年ほど前に出したクリスマス・アルバム。自身の達者な生ギターとオートハープだけの演奏による完全なソロ作です。

 まったくのマイ・ペースでクリスマス・ソングの数々を弾きまくっていて、季節物がそんなに好きではない私も、ハーベイの、時にスィンギーに揺れまくり、あるいは素朴に誠実に歌い上げる演奏が好きで、それなりに冬場になると愛聴しているものです。
 ”赤鼻のトナカイ”とか”ジングルベル”なんて俗なというか真正面過ぎるナンバーではブルーグラスのスタイルで強力な早弾きを聴かせ、かと思えば素朴なゴスペル・ナンバーをオートハープの鄙びた響きに託してそっと抱きしめるみたいに奏でてみせる。

 一番印象に残るのは、”リトルドラマーボーイ”かなあ。抱えたギターの上にかがみこみ、心を込めて弦を爪弾くハーベイの姿が見えてくるような清冽な演奏です。
 「貧しい少年がキリストの誕生を祝おうとしたが贈り物を買うお金もなく、かわりにその場にあったタイコを叩いて捧げ物とした」なんて物語から生まれた歌だそうです。デビッド・ボウィとビング・クロスビーのデュエット、なんて不思議なレコーディングが一部ロック・ファンの印象には残っているかも知れません。

 まあ、その貧しい少年の物語のどこがどうありがたいのか、私ら異教徒にはどうもピンと来ません。けれど、シンと澄んだ冬の空気の中でピンと張ったギターの弦が震えて、美しくもシンプルなメロディを織りなして行くその様が、宗教がどうの、といった理屈を超えて、人間の素朴な祈りの生まれ出る瞬間あたりに想いを寄せる、そんな気持ちにさせてくれるのでありました。

ミャンマーポップス最前線!

2008-12-18 04:42:57 | アジア


 ”Yin Htel Ka Poe ”by Poe Ei San

 まず、オカリナみたいな響きの民族楽器がフォルクローレっぽいメロディを吹き鳴らし、そこにドラムスがラテン音楽に似て非なる、のどかに撥ねるリズムで切り込む。
 カラカラと鳴る木琴が河のせせらぎのような繊細な音の絨毯を敷き、その上にエレキギターによる、演歌のようなロックのようなハワイアンのような、なんとも玄妙なフレーズが転げまわる。
 そしてこのアルバムの主人公、ポーイーセンの甘く甲高い声が微妙なコブシ回しで、南の国のお伽噺を優雅に歌い上げる。うわあ彼女、今回も快調だなあ。

 これはどういう展開だ?と唖然としているうちに一曲終わり二曲目も終わりと目くるめく音の迷宮が通り過ぎていってしまうのは、もうミャンマーのポップスを初めて聴いてから十数年経つのだが、やはり変わらない。民族楽器と電子楽器が交錯し、不思議な音階とリズムが乱れ飛び、南の桃源郷の扉が開いた、みたいな極彩色の幻想が揺れる。
 自分としては”天然プログレ”と名付けた。先の読めない不可思議な構成の音楽ながら、あくまでも庶民の楽しみとしての人懐こさに溢れている。南国らしいあっけらかんとした音の迷宮。こんな不思議な響きの音楽を日常の娯楽として享受する人々がいる、というのがまず驚異だった。

 彼女、ポーイーセンは、そんなミャンマー・ポップスの歌い手の中でもこの数年、実に充実したアルバムを世に送り出している歌い手だ。当方のような異郷の聴き手にも、彼女の音楽がミャンマー音楽として非常にクリエイティヴな地平を切り開いていっているのを感じ取ることが出来る。
 相変らず基本的なところでわけが分からないながらも、彼女が行なっているのがスリリングな冒険であること、感性で受け止めるのが可能で、彼女の繰り出す音の流れに身を浸すのが非常な快感なのである。
 それらを、あくまでも歌謡曲歌手としての愛嬌をたっぷり発揮させながら行なっている彼女こそ、ミャンマー・ポップスの最前線に立っているのではあるまいか?

 とか言ってみるが、ミャンマー・ポップスの全体像を眺められる場所にいるわけでもなし、まあ、当てにはならない。これは、ここ何枚かの彼女のアルバムにすっかり魅了されてしまっている当方の、勝手な思い込みの記述である。いや、でも、ポーイーセンは良いよなあ。

 3曲目が好きだ。ジャケに書かれているのは99パーセントがミャンマー文字なので、もちろん曲名など挙げられないのだが。
 陽気に打ち出されるリズムに乗り、能管みたいな笛がクネクネとテーマを吹き鳴らす。”ヘイヘイッヘヘイッ!”との掛け声で始まるリフレインがキャッチーで、ポーイーセンの歌声もひときわ、普通の意味でポップに(!?)感じられる。そこに、突然神秘な響きの女性コーラスが聳え立ち、民俗調のギターの間奏が始まりと、やっぱり奔放な展開には魅了させられてしまうなあ。

 6曲目のメロディが”ジングルベル”に極似していて、時節柄ギョッとさせられるが、その後はまったく別の方向に展開し、いったいこれはなんなのだと苦笑させられる。
 間奏ではジャズ風ピアノ、民謡調のバイオリン、カントリーロック調ギターと、短い時間の中にもいくつもの音楽の影響が入り乱れて、かつ、それがごく自然に無理なく成立してしまうミャンマー・ポップスの驚異を見せ付けられる。

 そして最終曲が、赤道直下に雪が降り積む、みたいなイメージが広がる不思議なロシア民謡調の展開に唖然とさせられつつ終わると、おそらくは次のアルバムの宣伝ではあるまいかと思われる短いアナウンスが挿入される。
 そのポーイーセンの喋りが可愛いのさっ。そこで聴ける断片から想像するに、ポーイーセンの新曲はどうやら、浜田省吾の”もうひとつの土曜日”にメロディが似ているようだ。

 なんて調子で書いて行くとキリがないけど。ともかくポーイーセンは最高、ということで。次のアルバムの首尾よく入手できると良いけどなあ。

しわいなる時制の果てに

2008-12-17 05:04:26 | その他の日本の音楽

 この間、”年間ベストヒット歌謡曲”みたいな2時間特番を見ていたら、以前この場で「なんかいけ好かない曲」みたいな悪口を行った記憶のある”青山テルマ”が出て来て、その問題の歌「ここにいるよ」を歌った。
 実はあの歌、こうしてテレビ等で流れるたびに、歌詞の一部に「不思議だなあ?」と思われてならない箇所が私にはある。歌いだしの部分、私にはこう聴こえるのだが。

 ”あなたのこと しわいまでも 思い続けているよ”

 しわい?そりゃ何かね?歌の文句がその後、”いくら時流れ行こうと”と続くところから、何がしか時制を現す言葉のようなのだが。

 たとえば億とか京とか、数の数え方が巨大な、いわゆる天文学的なレベルに達すると、数の単位を表す奇妙な言葉が出てくる。”不可思議”とか”那由多”とか。そんな種類の言葉なのだろうか?
 そんな言葉を引っ張り出さねば間に合わないほど、自分の想いは途切れることがないのだ、という表現なのか。「しわいの時が流れても、私のあなたへの想いは変わらない」とか。

 まあ、こんなネタを延々と引っ張ったってしょうがないからすぐにオチに行くが、その時テレビの画面に出た歌詞は、

 ”あなたのこと私は今でも思い続けているよ”

 だった。

 あ、ああ、なるほど。「わたしは」の、「わた」の部分が歌い方の問題だか私の聴き方のせいだか知らないが私には聴こえなくて、それで妙なことになってしまったわけだね。
 調べてみるとこの曲、今年の一月の発売なのであって。そうか、私はこの歌の文句をほぼ一年間にわたって「?」状態で受け止めていたのだ。調べなかったら今でも、いやこの先ずっと、誤解したままだったろうな。そう、しわいの時が流れても分からないまま。

 以上、無意味ですまんこってす。年の瀬ですね。