ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

スラブの火と水の祭りinハウス

2009-02-27 03:00:18 | ヨーロッパ

 ”Radio Nagra”by Ivan Kupala

 青空を見上げながらヘッドホンを耳に当て、なにやら聞いている長髪の男の写真が表ジャケ。裏返しますと同じような長髪の男3名がステージ衣装なのでしょうか、白いルーズな上着姿で湖に膝まで浸かり、物思いに耽っている後姿が。
 ロシアの民俗派エレクトリック・ポップバンド、というくくりで良いのか分かりませんが、イヴァン・クパーラなる音楽集団の2ndアルバム、”ラジオ・ナグラ”です。

 ロシア文化関連のサイトでは、”ロシアの民俗音楽をハウス・ミュージックにアレンジして演奏するバンド”との紹介があります。
 彼らのステージ写真など見てみますと、ロシアの民族衣装に身を固めた女性4名ほどがステージ前面に出てきて歌い踊り、その後ろでいかにも”田舎のダサいロックバンド”といった風体の髭面とサングラスの男たちがキーボードや民族楽器を操っています。どうやらこの男3名がイヴァン・クパーラの正式メンバーで、彼らがゲストに迎えた民謡歌手をメインに押し立て、ステージを進めて行く構成になっているようです。

 実際の音を聴いてみても、”ハウス・アレンジされたロシア民謡”という表現がまったくふさわしい展開がなされています。取り上げられているロシア民謡はかなり土俗的なもので、我々日本人が歌声喫茶的知識として知っているポピュラーな”ロシア民謡”とは相当に違う代物です。フィーチュアされる歌声にはかなり年配の女性の歌声も含まれており、間に差し挟まれる民族楽器の響きもディープであり、相当に本格的なロシアの民俗音楽が演じられていると考えていいのではないでしょうか。

 その割にバックに流れる打ち込みのリズムは能天気と言いたいくらいの屈託のない軽快なもので、この辺の落差は凄い。まあ、そのような工夫がなされているので、本来ならばロシア人ではない我々には馴染みにくい本物のロシアの民俗音楽を気軽に聞けるという利点があるのでしょう。その辺が狙いのバンドでもあるのかと想像します。
 それにしても、おばあさんの昔語りを分解してリズムに乗せ、ラップ状態にしてしまったり、結構な悪乗り振りで、こういう事をやっていいのかどうか知らんが、まあ、楽しくロシア民俗探訪が出来るのは確かですな。

 そもそもこのバンド名、”イヴァン・クパーラ”というのはロシア、ベラルーシ、ウクライナあたりのスラブ民族たちの夏の祭りを指す名称だそうで。それは、花輪を編み、焚き火の上をジャンプし、水浴びをする、といった火と水の祭り。聖ヨハネの祭りということになってはいるんだけれど、その起源は多神教の時代にまで遡るようです。
 そんな由来がなるほどと頷ける文化人類学的深さある世界を、電子楽器の打ち込みリズムの上で愉快にダンスさせてみせるこのバンド、かなり好ましく思うものであります。日本盤とか出たらいいのになあ。

 PS.
 ネットで検索すると、ロシアの少年アイドル歌手のヒット曲である”イヴァン・クパーラ”関連の情報やらYouTubeやらが出て来ますが、それはこのバンドとは関係ありませんので、ご注意。

くたばれ、文学ごっこ

2009-02-26 05:07:32 | その他の日本の音楽


 基本的に女の子のグループものというのが好きな私なのであって、昔はよく酔って 暴れる際に「キャンディーズの解散コンサートの夜に俺の青春は終わった!」とかなんとか 叫んでいたものだ。それで年代的につじつまが合うのかどうかよく分からないが、まあ、 私も歳が歳であり、ここまで来たらその種の事象はすべて誤差の範囲内とさせていただく。

 で、ほぼ無条件に女の子グループものを支持してきた私であり、オニャンコクラブからモーニング娘、プリンセスプリンセスから裕子と弥生まで、もうなんでもOkで、 好きになれなかったのはピンクレディ、スピード、最近の物件ならAKB48くらいか。

 そんな私だから今、女の子ユニットでウケに入っているパフュームなんか好きになっても良さそうなものだが、もう一つ乗り切れずにいる。その理由は”歌詞がウザい”という、実につまらないものなんだけれど。
 私がかったるさを覚えるパフュームの歌詞の部分を例証するにちょうど良い物件がある。
 ミュージックマガジン誌の08年10月号に掲載されたパフューム特集の中の、”CD/DVDコンプリート・ガイド”である。ここで吉田豪なるレビュアーが、パフュームの歌詞について語っている。以下、引用。

 ”比較的普通の片思いを歌詞にしていた木の子が、ファンタジーな世界観の名曲2(エレベーター。引用者・注)で「上へ参ります。4階痛み売り場です。人を信じれず怖さ覚える事でしょう」と書くまでになったことにも驚愕。”
 吉田氏はこのように書いているのだが、同じページで同じ作詞家のフレーズ、「人間消えたら地球傷むの?」なども、”お気に入り”として紹介している。

 まあこの種の、何と申しましょうか小ざかしい歌詞の世界を、この特集に文章を寄せているその他のライター諸氏も賞賛、あるいは容認しているようなのだが、私はまさにこのような部分が嫌でパフュームのファンになれずにいるのだ。こういう歌詞って、面白いですか?ほんとにそう感じますか、先生方?

 この種の歌詞からは、「これは単なる浅いポップスではなく、時代を鋭く抉ったメッセージ・ソングなのである」なんて言いたくてしょうがない作り手側のスケベ根性を感じてならないんだよね、私は。あるいは「自分はそんな鋭いものを聞いている、ひとかどのものである」と信じ込みたい連中のスケベ根性を。
 そんな姿勢には潔さがないよ、大衆文化としてのさ。物欲しげで逆に下品だって気がする。

 ポップスの歌詞ってのはさ、以前、ミニモニが歌ってたみたいな「楽しいピョン!」とか、そんな中身カラッポのものこそが美しいでしょ。あるいは、先に引用した文章で吉田氏が否定的に書いていた”比較的普通の片思いを歌詞に”したものとかがさ。
 それから、これはタモリが昔から面白がってるが、故・フランク永井の”西銀座駅前”における「ABC、XYZ、それがおいらの口癖さ」みたいに、かっこつけたつもりが行過ぎてシュールの世界に転げ落ちているものとか。

 何を言っているのか分からなかったら、1950~60年代に洋楽の訳詞で一世を風靡した漣健二先生の作品など熟読していただきたく思う。大衆文学としての”ポップス”の真髄がそこにあるから。

バンドリンの夜

2009-02-25 04:05:54 | 南アメリカ

 ”Intimo” by Hamilton de Holanda

 ブラジル音楽で使われるバンドリンなる楽器がありまして。名前から連想されるマンドリンよりは、ファドなんかで使われる12弦のポルトガル・ギターの親戚筋みたいに見えます。深い響きを持つ複弦の弦楽器です。

 その世界の巨匠として、ジャコー・ド・バンドリンなんて奏者もおりましたが、今日では、このアミルトン・ジ・オランダあたりが最先端てことになるんでしょうか。
 ともかく彼のアルバムなど聴きますと、ヘビメタのギター弾きも逃げ出すんではないかと思われる、もの凄い曲芸的というか暴力的早弾きが爆裂しておりまして、聴き手のこちらは放出される技術とエネルギーに圧倒され呆れつつ、ただひれ伏して聴き続けるよりなかったりするのであります。

 そんなオランダ氏が2006年に発表しました、これは彼としては異色の一枚であります。今回はバンドを率いず、愛用の10弦バンドリン一本で録音に臨んでおります。音楽とリラックスして付き合おうという趣旨のアルバムのようで、録音も自宅やツアー中のホテルの部屋なんかで行なわれているようですな。

 で、演奏のほうは。これは”戦士の休息”とでもいうんでしょうか、深い安らぎに満ちたものとなっております。柄にもなく。と言っていいのか。静かな、地味めの曲ばかりが選ばれており、しっとりと落ち着いた演奏を楽しむことが出来ます。

 弦楽器と言うものが本来、繊細な感性を歌うためのものなのでしょうね。完全なソロということで、静かな姿勢でバンドリンという楽器に向かい合ったオランダ氏。その心の奥から懇々と湧き上がって来る感傷、ブラジル音楽ではサウダージと言うんでしたか、その奔流が聴き手を巻き込み、不思議な幻想旅行へと誘ってくれます。
 こちらは、どこか、かってそんな場所にいたことが本当にあるのかどうかも分からないくらい懐かしい(?)場所への望郷の想いでいくらでもセンチメンタルになってかまわない。責任は、こんな演奏をするオランダ氏にあるんだから。

 さて、今夜も・・・

サーフス・アップの向こうとこちら

2009-02-24 05:03:51 | 書評、映画等の批評

 ”意味がなければスイングはない ”by 村上春樹(文春文庫)

 書店で「意味がなければスイングはない」なる文庫本を見かけ、「とぼけたパロディのタイトルをつけやがってからに」と呆れ、手にとって見ると村上春樹の音楽家論集というべき本のようで、ちょっと興味を惹かれたので買ってみた。この作家の本を読むのは、実は初めてだ。まあ、芥川賞関係の作家にあんまり興味はないほうなんでね。

 ジャズやロックやクラシックなど、10人のミュージシャンがジャンルを超えて論じられており、まだポツポツと拾い読みしただけなのだが、やはり気になってくるのはビーチボーイズのブライアン・ウィルソンに関する文章だ。
 自らが生み出そうとした”スマイル”なる、大傑作になる予定の未完の作品を前にして、創造の苦しみに打ちひしがれ、ドラッグの海に逃げ込んで貴重な人生の時を無駄に過ごしてしまったブライアン。
 この美しい挫折の物語は、ロックの歴史におけるきわめて文学的な感興を誘われるエピソードであり、私も何度もこれについて書こうとして来た(そして、挫折して来た。苦笑。あるいは嘲笑)

 だから村上春樹の、この本に納められたブライアンについての文章も大いに興味を持って読んだのだった。
 私にとって一番意外だったのは”グッド・バイブレーション”に関する記述が一行もないことだった。私にしてみれば、ある日ラジオから飛び出してきたあの曲の衝撃、その不意の”大波”こそがビーチボーイズでありブライアンだったのだが。
 というか。いやいや、村上の立場こそが正統なるビーチボーイズ・ファンのありようと言うべきなのだろう。村上は書いている。ビーチボーイズの”サーフィンUSA”こそが、自分がずっと聴きたいと思っていたものの具現化であった、と。そうだよ、それこそがリアルタイムでストレートにビーチボーイズの音楽を楽しんだ者の言葉だ。

 私は、”サーフィンUSA”に代表される一連のビーチボーイズのヒット曲には、実は思い入れがないのだった。それらの曲が”最新ヒット”としてラジオから流れてきた当時、それらを楽しんでいたとはいえなかった。よく出来たポップスであると認知はしたものの、あのような明るく楽しい曲を素直に楽しめるような心境に、当時の自分はいなかった。
 そんな明るいパーティを自分が楽しめるとは到底思えず、なにやら出口の見えない青春の懊悩の中で、ローリングストーンズやらアニマルズやらのイギリスの不良連中がぶち上げる暗い情熱の発露たるどす黒い叫びの泥沼にしかカタルシスを覚ええず、ひたすら暗闇でのた打ち回るような日々を送っていた。

 そんな私にとってただ、ポップスというにはあまりに複雑過ぎる構成を持つ”グッド・バイブレーション”だけが”ビーチボーイズ発・ロックな衝撃”を与えてくれるものだったのだ。 今の自分なりに想像してみれば当時の私は、自身の妄想の結露たる凝り倒した曲の構図を現実のものとし公衆の面前にぶちまけてみせたブライアンのオタク魂の炸裂を、彼のロック衝動と認知していたのではないか。
 そして待ちに待った”グッド・バイブレーションの次の曲”、それは前作の何倍もの衝撃を私に与えてくれるはずのものだったのだが、空振りに終わった。その曲、「英雄と悪漢」は、私の期待を満たすにはあまりに地味過ぎる曲だった。期待が大きかった分、私の失望は大きく、そのまま私はビーチボーイズへの興味を失った。

 ちょうどその頃、ブライアンのドラッグ地獄めぐりは本格化して行った訳だ。
 そういえばその辺に関する感想も、村上の文章には現われない。村上にとって”グッド・バイブレーション”の衝撃や”英雄と悪漢”の、まあ私にとってはであるが期待はずれは、どのように認識されているのだろう。その辺りは今回のこの本では、まったく知る事は出来ないのだが。
 というか。もしそんな疑問を村上にぶつけたら、”こいつには何を言っても仕方がないだろうな”なんて諦念を漂わせた苦笑しか返って来ないだろう。
 要するに彼は毛並みの良い都会人であり、洗練された趣味人なのだ。現地アメリカの連中がするようなやり方で正等的にロックを楽しむすべを知っている。野暮な田舎者である私のように、まるで演歌を聴くようなねちっこい”洋楽”の聴き方はしない。

 なんだか単なるボヤキになってしまっているなあ。まあ、ミュージシャンにそれぞれの日々があるように、聞き手の側にもいろいろな都合がありました、って事を書きたいだけなんだけどさ、ようするに。

アラブの低血圧ガール

2009-02-23 02:53:17 | イスラム世界


 ”Mabaetsh Ayzak”by Hayat

 以前に購入したものの、なんとなく聴かずに放り出していたこのアルバム、ふと気が向いて聴いてみたら、ありゃりゃ、これはなかなかいいんじゃないですか。エジプトの新進女性歌手、ハヤット嬢の2007年度作品。

 アタマに収録されている曲で終始鳴り渡る笛の音がまき散らす哀愁味なんか、アラブ歌謡にはちょっと珍しいところじゃないでしょうか。次の曲の間奏の弦楽器のソロも、なんだかアラブ世界と言うよりはギリシャっぽく聴こえる。
 これ、アルバムの主人公たるHayat嬢の個性を生かすべく、わざわざなされたアレンジかとか想像してしまったんだけど。

 やや線が細く、どこか寂しげな表情を漂わせるハヤット嬢の歌声でありまして、そこが、なにかと濃厚な個性が横行するアラブの歌姫世界では新鮮に聴こえ、萌え~と感じてしまった私であります。
 煽り立てるようなインド風のリズムやら、ハードに打ち込まれる北アフリカらしいパーカッション群にはやし立てられつつ可憐な声を振り絞って歌い継ぐ美少女。なにやらヤバい雰囲気なども漂います。なんて感じるのは私だけかも知れないが。

 終始、ハヤット嬢の繊細な感性が生かされた多彩な作りになっていて、通常のアラブポップスのアラブっぽいアブラっこさとか暑苦しさとは距離を置いた出来上がりで、腹にもたれず何杯でもいただけます(?)
 濃厚な仕上がりとなってもおかしくはないバラードなども、夏の終わりの高原の避暑地的な涼風が吹き抜けて行きます。

 この”温度の低さ”が新しいなあと感じさせられ、以前ここで取り上げた、これも2007年度盤だったな、レベノンのダナなんて子のアメリカンに舌足らずなライト感覚の歌声などと並行して考えたくなっています。
 アラブ歌謡の世界にも新感覚世代が台頭しているのかなあ、などと、まあ、考えるのは早計なんでしょうけど。

北欧のイデアの風琴

2009-02-22 03:26:03 | ヨーロッパ


 ”OM”by NARA

 スウェーデン・トラッド界で輝かしいキャリアを誇る三人が集まったセッション・バンド。スウェーデン民謡の王道的レパートリーを、悠然たる手つきでこなしている。これが7年ぶりのセカンドアルバムとのことだが、情報集めに怠惰な私は1stを聴いていない。

 アコーディオン奏者Bengan Jansonとバイオリン奏者Bjorn Stabi、そして女性ボーカルGunnel mauritzsonのトリオなのだが、サポートメンバーも使わず、メンバーだけで音つくりをしている。バイオリンとアコーディオンだけのサウンドながら、さすがに手だれのミュージシャンたち、音に隙間を感じさせない。むしろ自らの内宇宙に深く沈みこんで行くような演奏に誘われ、聴き手も深い思念の旅に出る、そんな魅惑的な迷宮が成立している感じだ。

 ちょっと面白いのがボーカルのGunnel mauritzsonの歌唱。北欧トラッドの女性シンガーの歌唱と言うと、北国の澄み渡った青空の元、天を目指す針葉樹林や静まり返った湖、そんな風景の中に透明度の高い歌声が木霊する、なんてタイプが多いわけだが、この盤での歌声は、なんか響かない感じ。発声された直後にくぐもり消えて行ってしまうような感触がある。彼女の唄を聴くのは初めてではないのだが、こんな歌い方をする人だったっけ?
 注意して聴いてみれば声量もあることが分かるし、これは単にミキシングの問題であるのかも知れない。が、それならその意匠に何か特別な意味があるのでは?と、ちょっと気になった。

 演奏面ではともかくアコーディオンの演奏に強力に惹かれる。先に述べた深い思索に沈みこむような深い精神性を秘めた演奏である。日本人としては歌謡曲の伴奏等で聴き馴れた、あのアコーディオンと同じ楽器とも思えぬ、形而上学的なソロが聴ける。
 数曲あるマイナー・キィの曲において長いソロが行なわれる際、ふとロシア民謡風のメロディが浮かび上がる瞬間があって、その辺、つまり「北欧の民謡とロシア民謡の関わり」が気になっている私にとって、こいつはなかなかに刺激的な出来事だった。

 他の北欧トラッド作品に聴かれる音楽の広がり、大自然との対話のタグイは、ここでは聴かれない。むしろ人の心の迷宮への旅に出かけるためのツールとして民謡が機能しているのだ。ミュージシャンの高い演奏能力や精神性がこのような形を結果として作り出してしまったのだろうが、もちろん、それで十分面白い結果が出ているので、こちらとしては何の不満もない。

回帰・コーンブレッドの国へ

2009-02-21 04:57:18 | 北アメリカ


 やべ。この数日、パソコンの調子が良かったんで気楽に構えかけてたんだけど、今日は起動にえらく手間取ってしまった。というか、電源ついに入らないかと観念しかけた。でも、なんかの拍子に(?)起動してくれたんで、今日もここに来れた次第。やっぱり新しいパソコン買うしかないのかなあ。金、ないんだがなあ。

 ”Cornbread Nation”by Tim O Brien

 CDには”ジャケ買い”という買い方が存在するわけです。きれいなねーちゃんがジャケに映っているから、どんな音楽やっているのか知らないが買ってしまった、なんてね。
 まあ、私もよくそれをやるんですが、この盤みたいに「ジャケに描かれているコーンブレッドなるものが美味しそうだったんで、ふと買ってしまった」なんてのは初めてだ。買ったはいいが、飾っておいたってしょうがないだろう、そんなもの。

 この盤の主人公、ティム・オブライエンは70年代から活躍しているアメリカのブルーグラス系のミュージシャンとか。なかなか地に足のついた、かつパワフルなミュージシャンと感じられます。でも、ここで演じているのはギンギラギンのブルーグラスではなく、アメリカ合衆国の始原の時を土の中から掘り起こすみたいな、オールドタイム・ミュージックの世界。
 アメリカ人の心のふるさとと言えるんですかね、古きアパラチア山系の暮らしや昔と変わらぬミシシッピィの河の流れとか。入ってくる蒸気機関車と唯一の娯楽のラジオ・ショー。大地を覆う砂嵐と、不況に追われて家を失い貨物列車に群がって流れる放浪者たち。

 そんな、記録写真の中でセピア色に色あせた世界で鳴り響いていたのであろう音楽が、今日の空気に触れて生き生きと蘇る。ティムがここで展開してみせたのは、そのような再生の試みのようだ。
 ティムは自筆のライナーで、アメリカの暮らしの底に息ずくコーンを取り巻く文化層に触れている。コーンの酒、コーン歌とコーンジョーク、そしてアメリカ先住民の生活を支えたコーンの実り。どこまで本気かどこまでジョークか分からないような話だが。なるほど、コーンブレッド・ネーションか。

 どの歌も黒人ぽいと言うには白人的過ぎ、白人ぽいというには黒人音楽の匂いが強すぎる手触りを感じさせる。いわゆるコモンセンス、かって存在した白黒共有文化の証しとしての古き大衆化の数々。
 アニマルズがヒットさせた”朝日の当たる家”の、元ネタというか民謡版のオリジナル・ヴァージョンが収められている。ジミー・ロジャースの古典カントリーソングがある。そして多くの詠み人知らずの伝承歌たち。

 それらの歌がティムの歌によって蘇り、モノクロームの写真に彩色が成されて新たな生命が吹き込まれたように、生き生きと動き出す。コーンブレッド・ネーションのささやかな、が、命の通った田舎の祭りのはじまりだ。

ロシアより愛をこめて

2009-02-20 01:55:09 | ヨーロッパ


 ”The Best Of John Barry”

 ☆ジョン・バリー(John Barry)
 生年月日 : 1933/11/03
 出身地 : イギリス・ヨーク州
 映画音楽作家

 えーと、困っちゃったな。”映画音楽の大家であるジョン・バリーはイギリスはヨーク州の生まれだが、実は東欧の血を受け継ぎ”とか、そんな記事を昔々に読んだような記憶があるんだけれど、その現物がどう探しても見つからない。これは私の心が都合の良いように生み出した、でっち上げの記憶だったんだろうか?
 ほんとにそうなのかもしれない。彼の音楽世界に濃厚に漂っている東欧趣味、ロシア趣味に魅了され、そんな記事を読んだような思いに囚われてしまったなんてのは、ありそうな気がする。

 精巧な重金属製品のような冷たく重たい輝きを放ちながら、深い哀愁を含んで意識の底まで沈み込んで行く独特のメロディ。ジョン・バリーの書く映画音楽の中に一貫して漂う、ロシア趣味と言うか東欧風の響きというもの、どこからやって来たのだろうか。

 それまでアフリカや南米といった南志向の音楽の聴き方をしていたワールドミュージック・ファンである私が、心の底に”東欧”あるいは”ロシア的なもの”への嗜好を持っている事を初めて意識した、そのきっかけがジョン・バリーの音楽だった。
 子供の頃から、たとえば”007”映画のテーマソングとして、特別に意識もすることなく馴染んできた彼の音楽の不思議な魅力、その正体を知りたいとふと思った時、ジョン・バリーの音楽性に潜む”東欧っぽさ”という名の闇の広がりを意識せざるを得なかったのだった。

 こうしてジョン・バリーの映画音楽作家としてのベストアルバムを手に入れ、彼の音楽を俯瞰してみると、その根幹にまで染み渡っている”東欧らしさ”に、あらためて魅了されてしまうのだが、その正体を知ろうとすると、何もかもが曖昧になってしまう。
 そもそも、さっきから簡単に東欧とかロシア的とか言っているが、それがどのようなものか明確に定義出来ている訳でもない。あくまでも”そのような感触”でしかない。”いわゆるロシア民謡とされている音楽”の持っている”ロシア性”の定義と同じように、民俗音楽的裏付けがあるわけでもない。これがまたもどかしいところなのだが。

 これは彼の書くメロディがそのような志向性を持っているから”アメリカにおける東欧系移民の物語”といった映画のサントラ製作、といった仕事が舞い込んでくるのか、それともそのような仕事が多いから結果としてロシアの影差すメロディばかり書くことになってしまうのか、その辺りも気になるのだが。と言うくらい彼は、東欧絡みの映画のサントラ製作を多く手がけている。
 それでもたとえば、アメリカはニューヨークにおける孤独な暮らしを描いた”真夜中のカウボーイ”やら、ロンドンのオシャレな若者群像がテーマの”ナック”なんて、東欧とは何も関係なさそうな映画のための音楽にまでロシアっぽいメロディの影が差しているのであって、これはやっぱり彼のうちに東欧へのこだわりがあると思わざるを得ないのだが。

 そんなジョン・バリーの一番のはまり芸は、やはり007映画のための音楽だろう。
 なにしろ時代は”東西冷戦”の最中だったのであり、スパイ映画における敵役は当然、ロシア方面であるのだから、東欧趣味を全開にする根拠はいくらでもある。使命を受けて”東側”に潜入するスパイの背後に鳴り響くのがロシアっぽいメロディであっても、何も不自然ではない。むしろ当然である。ゆえにやりたい放題である。
 だからマット・モンローはこのアルバムの白眉として置かれている名曲、”ロシアより愛をこめて”を朗々と歌い上げる事となるのである。いいよなあ、この曲。
 冷戦下、60年代当時の言葉を使えば”鉄のカーテン”の向こう、”禍々しき東の異国”から意識の底を伝って聴こえて来るメロディ。底知れぬ孤独と絶望を湛え、にもかかわらず罪深いほどの甘美さを漂わせ、黒々とその淵を広げている。その魅惑。

 え~と、それにしてもジョン・バリーと東欧の関係を書いた記事。ほんとにどこに行ってしまったんだろうな?それとも、そんなもの、やっぱりはじめから存在しなかったのか?

遥かなるハートブレイク・ホテル

2009-02-18 23:20:09 | その他の日本の音楽


 昨夜に続いてラジオ・ネタですが。

 先週のNHKラジオ、”ラジオ深夜便”で、日本のロカビリー歌手の特集なんてのをやってましたね。
 まあ、そんなに興味をそそられるテーマでもないんでなんとなく聞いていたんだけど、しょっぱなの小坂一也の”ハートブレイクホテル”には、ちょっと考えを改めねばなんて気にさせられましたね。
 小坂一也、意外と頑張って歌っていたんだなあ、ロカビリー全盛当時は。オリジナル盤では、結構ハードな”ロックな不良”の面影を漂わせた、今日の耳で聴いても結構血が騒ぐ歌唱を聴かせていたんだ。
 こちらは歌手としては一線を退いて俳優業を主にしていた小坂氏の姿ばかり記憶に残っていて、彼がよく演じていたちょっと気弱な中年男とか、そんな具合の歌を歌っていたように思い込んでいたんだが、失礼な話だった。

 それにしても、やっぱり不思議なハートブレイク・ホテルの歌詞である。「ホテルの人も黒い背広で涙こらえてる」って段があるのだけれど。いくら”恋に破れた若者たち”が集まる失恋ホテルと言えど、従業員まで涙ぐんでちゃ仕事にならないでしょ。
 このフレーズそのままの情景を思い浮かべると非常にシュールな映像が出来上がり、昔からお気に入りだったのです、この歌詞。
 まあ、本気で探せば当時の凄い英語歌詞和訳は続々と見つかるんでしょうね。この間、かまやつひろし氏がテレビで言っていたけど、”カーネル大佐”って歌詞があったと。「だってね、カーネルってのが”大佐”って意味なんだからさ」と、かまやつ氏は笑っていたんだけど、番組の司会の小堺一機は何が可笑しいのかよく分かっていなかったようだ。なんだ、今でも状況は同じようなものか。

 その他、山下敬二郎も平尾マサアキ先生も、私がこれまで持っていた日本のロカビリアンのイメージ(それらは主に、私が幼少期にテレビなどで彼らを見た記憶から出来上がっている)の、あんまりパッとしないそれとはやや手触りの違う歌唱を聞かせていた。彼らの当時の歌唱もまた、結構カッコ良かったんだ。
 私が見て来た日本のロカビリアンって、なんかクニャクニャした動作でニヤニヤ笑いながらマイクに向い、フニャフニャした歌を歌うと言うイメージがあったが、あれは後年の退廃の姿だったと言うことか?
 彼らの帝国はどんな風に興隆をし、どのように崩れ去って行ったのか。これまで考えたこともなかった、ずっと前に過ぎ去った彼らの青春の日々など想ってみる。

 そんな中で、若き日のかまやつひろしは、独特の甲高い声の世界をもう確立していたのには、大いに興味を惹かれたのだった。あの歌唱スタイルって、誰からの影響なのだろう?

 などなど。そしてふと、我が音楽の師匠、ナイトクラブのギター弾きだったT氏の事になど思い至る。彼はときどきロカビリーの日々に関し、”いまさら言っても仕方がない繰言”として、こうぼやいていた。
 「俺もなあ、カントリーっぽいギターを弾けたら、あの頃、何とかなっていたんだが」
 チャーリー・クリスチャンのギターに惹かれてギターを始め、戦後の混乱期にお定まりの進駐軍キャンプ周りをした後、一時期、全盛時代の山下敬二郎のバンドにいたそうだ。その後、私の町に流れて来た、その事情は知らない。古いタイプの、優雅なスタイルのジャズ・ギターを弾く人だった。まあ、確かにロカビリーの伴奏には向いていなかったかも、だけどね。

 などと故人であるような書き方をしてしまったが、彼はまだ健在である。キャバレーの楽師の職などカラオケに奪われて久しく、今はただ街の港の桟橋で日がな一日釣り糸を垂れて時間の流れ去るのを待つだけの日々だが。かってのボス、山下敬二郎については、「あんなに優しい人はいないね」と言っていた。


櫓太鼓in三味線

2009-02-17 05:24:40 | その他の日本の音楽


 日曜日の早朝というか。いやそれは世間的な時間の観念で、当方の感覚としてはまだ土曜日の深夜のつもりなのだが、まあそんな事はどうでもいいのだが、つまり日曜の朝早くにラジオのニッポン放送で桂米朝師匠の寄席四方山話、みたいな番組をやっている。
 米朝師匠がいろいろ関係者を招き寄席の世界の思い出話などする番組で、生活時間の滅茶苦茶な私は、お年寄りのための早朝番組なのであろうそれを聴きながら寝酒を飲んでいたりするわけで、まったく申し訳ない次第だ。

 その番組でこの間、”櫓太鼓”なる三味線芸の特集があり、これがなかなか面白かったのだった。
 この芸、要するに太鼓の乱れ打ちの様子を三味線の早弾きで模写してみせる、と言う寄席芸のようだ。ちなみに櫓太鼓なるもの自体は広辞苑によれば”劇場で、開場や閉場を知らせるために櫓の上で打つ太鼓”となっている。この太鼓の演奏を三味線で表現するわけだ。

 まず最初にトクナガリチョウなる人物による演奏が流されたのだが、まさに火を吹くような早弾きであって、思わず聴き入ってしまう。何より意表を衝かれたのが、それは明治時代の録音との事だったが、まるで今日との感覚のずれがないこと。昨日の録音だと言われても納得してしまったのではないか。
 その後も、漫才の合間に演じられるもの等、さまざまなヴァージョンの三味線による”櫓太鼓”の演奏がオンエアされたのだが、漫才の喋くりの部分は確かに昔の芸だなあと言う感じなのだが、曲弾きの段になると時代の流れを感じることがない。非常に今日的な感性による演奏に感じられたのだ。

 それは、音階も違えばリズムの種類も違う。同じものとは聴こえはしないのだが、その、まさに曲芸的演奏を成り立たせている精神は今日、ヘビメタのギター弾き連中の内に流れるものと変わらないのではないか、なんて思えた。
 考えてみれば、打楽器である太鼓の演奏を弦楽器である三味線(三味線もまあ、半分打楽器みたいなものだが)で模写してみせる、なんてのは近代芸術っぽい発想ではある。この辺、ポストモダンがどーのこーの、なんて話が得意な人は大張り切りになるんだろうが、当方、その種の教養の用意はありません、すんませんなあ。

 その辺の発想って、三味線弾きの技術者としての血の滾りが暴走した挙句のものなんだろうけど、その”技の魂”が時代の精神の垣根をも飛び越えてしまった、なんて当方には感じられたのですわ。なんか、意味の通じる文章になっているかどうか自信はないけど。まあ、面白いもんだなあ、と。
 ついでに。この種の演奏は”邪道”とか”ケレン”とか言われて、本格派の三味線弾きからは忌避されたんだそうな。まあ、そういうものでしょうな。

 ☆図は、歌川広重による浮世絵、”両国回向院太鼓やぐらの図 ”をあしらった切手。

 (先日よりぼやいているパソコンの不調、どこかへ吹っ飛んでしまったよ?直ってしまったのか?なんて油断していると、いきなりガツンと食らうのがパソコントラブルって奴のいやらしさなんだろうけど)