ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

藤原義江と捕鯨の歌

2006-05-31 05:26:07 | その他の日本の音楽


 あるSP盤研究家の方のブログを読んで、藤原義江の「出船の港」が捕鯨船の歌だと言うことを知り、あっそうだったのかといまさらながらに驚いた次第で。
 なんて書いても、この歌や、そもそも藤原義江なんて歌手を知っている人が今やどれくらい残っているのやらと心配になってきますが、まあ、このまま行くよりしょうがない(笑)

 ~~~~~

ドンとドンとドンと 波のり越して
一挺二挺三挺 八挺櫓で飛ばしゃ
サッとあがった 鯨の汐の
汐のあちらで 朝日はおどる

エッサエッサエッサ 押し切る腕は
見事黒がね その黒がねを
波はためそと ドンと突きあたる
ドンとドンとドンと ドンと突きあたる

風に帆綱を キリリと締めて
梶を廻せば 舳先はおどる
おどる舳先に 身を投げかけりゃ
夢は出船の 港へ戻る

(時雨音羽作詞・中山晋平作曲/昭和3年)

 ~~~~~

 なるほどなあ、こうして歌詞を改めて検証してみれば、どうみたって勇壮な捕鯨の歌です。子供の頃、もうその時点で十分懐メロだったこの曲を聴いた時には、そのあまり馴染みのないクラシックの歌唱法と「どんとどんとどんと」なんて奇矯とも感ぜられる歌いだしの歌詞の響きとで、「妙な歌だなあ」としか感じられなかったんだけど。

 藤原義江といえば、戦前の浅草オペラ出身で、欧米でも人気を博し、帰国してからも藤原歌劇団など、日本のオペラの振興に尽くした人気テノール歌手ですね。その彼の大当たりの一枚がこれ、「出船の港」と言う次第で。

 などと言っているけれど、もちろん彼のこと、詳しくなんて知りません。手元にある藤原義江の音源だって、戦前のタンゴを集めたCDセットの中の何曲しかない。本来、クラシック歌手の彼を、それだけであれこれ言うわけにも行かないんだけど。
 その歌いっぷりというのも、いまや聞かれないタイプの、オヤジくさいなんて言っちゃ失礼だな、強力に”父性”を感じさせるものであります。

 捕鯨を規制しようとする動きは、とうに国際的な潮流として固定してしまったかに見えます。
 この動き、もともとは60年代、折から凄惨を極めつつあったベトナムにおける戦役から、各国市民たちのヒューマニスティックな視線をかわすためにアメリカが戦略的行動として煽ったのが起こりと聞くにつけても、また、保護されて増え過ぎた鯨たちの食餌の大量捕食により、生態系がすでに狂いつつあると聞くにつけても、納得できない思いを押さえられないのでありますが。

 ここで唐突に昨日の記事への続きとなりますが、どうですかね、日本国民の皆さん、この「出船の港」を新しい日本の国歌として推奨したいんだが、私は。いや、本気で。




精巧にして見えない”君が代”の話

2006-05-30 01:59:55 | いわゆる日記

 昨日のサンケイ新聞に面白い記事が載っていた。”君が代”の英語の替え歌(?)が出現、との話題である。

 「君が代」替え歌流布

 下に、新聞より、替え歌の詩と訳を引用する。

 ~~~~~

【詞】

Kiss me, girl, your old one.
Till you’re near, it is years till you’re near.
Sounds of the dead will she know ?
She wants all told, now retained,
for, cold caves know the moon’s seeing the mad and dead.


【訳】

私にキスしておくれ、少女よ、このおばあちゃんに。

おまえがそばに来てくれるまで、何年もかかったよ、そばに来てくれるまで。

死者たちの声を知ってくれるのかい。

すべてが語られ、今、心にとどめておくことを望んでくれるんだね。

だって、そうだよね。冷たい洞窟(どうくつ)は知っているんだからね。

お月さまは、気がふれて死んでいった者たちのことをずっと見てるってことを。

 ~~~~~

 ネットのどこやらから沸いて出た、読み人知らずのパロディらしい。英語の歌詞であるが、歌ってみると日本語の原詞そのままにも聞こえるところがミソのようだ。

 面白いものが出てきたもので、あちこちで君が代斉唱の強制とそれに対する反抗のニュースなど聞こえてくるご時世であるが、君が代を歌いたくない者がこの詞を反逆の意味を込めて歌ったとしても、日本語の正しい歌詞と区別は簡単には付けがたいので、対処の仕様がないという仕組みだ。

 歌詞について記事では従軍慰安婦問題にかかわりが?などと書いているが、もしそのような意味合いの詞なら、ちょっと事象限定過ぎてパロディのスケールが小さくなってしまい、あまり面白くない。このような場合、まったくのナンセンスで行くのが常道だろう。もっともこの歌詞、実勢は作者以外には意味不明の寝言のような代物のようだが。

 そういえばずいぶん前に私も、そのタグイの試みをしたことがある。下のような”作品”である。

 黄身が用は 腸にや腸に 差去れ 医師の 
 胃は尾となりて 口径の蒸すまで

 なんとか原詩の発音に近い形で料理の歌にしようとしたが、あまりうまくは行かなかった。

 君が代の歌詞というと思い出すのが、何年か前にある掲示板でであったオネーチャンである。彼女は「君が代の”君”は、天皇ではなく恋人を指すのであり、つまり君が代は人間愛の歌なのである」なんて話を得々として書き込んでいた。

 アホかお前は。
 そんな小学校の昼休みみたいなたわいのない言葉遊びを聞かされて、かって異国の軍隊に君が代の名において人生のさまざまを蹂躙された人々が「なるほどそうだったのか。それならいいや、ワシも明日から毎日、君が代を歌いながらラジオ体操をしよう」とニコニコ笑いながら頷くとでも言うのか。

 などと、まだ人の良かった頃の私は、わざわざ言ってやったのだが。今でもネットのどこかで同じこと言ってるんだろうなあ。




リチャードと呼べ、リチャードと

2006-05-29 02:30:38 | いわゆる日記


 今、ニュース・サイトをあれこれ覗いて回っていたら、「椰子の木から落ちて怪我したローリング・ストーンズのキースが無事退院」なんて記事を見つけた。

 元記事・キースの帰国

 椰子の木から落ちて、なんてとぼけた怪我してんじゃねーよ、としかいえませんがね。いや、脳を手術したってんだから、たいそうな怪我だったんだろうか。

 にしても、椰子の木から落ちるってのは椰子の木に登っていたんだろうし、いい年してそんなものに登って何してたんだ、このご時世に、って感は否めない。

 ちなみに私、彼の名をリチャーズなんて腑抜けた呼び方をする気はありません。私はあの激動の60年代に彼の名を”キース・リチャード”と覚えたんだ。あの頃は、そう呼ばれてたからな。

 それはフォークソング好きばかりの高校で、一人場違いなロック少年として無意味な意地を張り続けた私の青春の証みたいなものでね。いまさら「正しい読みはリチャーズでした」なんて言われたって、知ったことじゃない。奴の名は”リチャード”でなけりゃあ収まらないんだよ、この想いはなっ!

 と言うことで。これからも元気でやってくれ、キース・リチャード!

 


退屈なサザンが売れる理由

2006-05-27 03:04:59 | 音楽論など


 サザンがトップを走り続ける理由

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 え、そうなの?意外だなあと思ってしまうのは、私くらいのものだろうか?

 これは、”ゲンダイネット”というメディアに掲載された”他のベテラン勢が失速する中、かわらずサザン・オールスターズの人気は沸騰中である”という記事なんですが。え、そうなの?と私なんかは驚いてしまった。

 それは、デビュー当時の”サザンのクワタ”には、確かにそれなりの輝きがあったとは思うけど、最近、というかここずっと、もう彼もマンネリの袋小路にはまり込んでしまっていて、面白くもなんともない状態にあるんじゃないの?

 この頃では新曲とか聞いても、なんかどっかで聞いたような、いつもと同じような曲の繰り返し巻き戻しだなあとしか感じられなくて、サザン=退屈、ってイメージしか持っていないぞ、私としては。

 だから記事の中の景気の良い売り上げの話に驚くばかり。へえ、そんなに売れているの。

 結局、日本人のマンネリ好きにうまくはまり込んだって事なんでしょうね。目新しい刺激なんかに出会いたくない。通い慣れた道だけを歩いていたい。ただ生暖かい安全さの中でまどろんでいたい、そんな、現代日本の”それなりにやって行けている人々”の感性に適度な刺激としてちょうど良い按配のポジションを手に入れて。
 
 そういえばある街頭インタビューで、「あなたはどういう曲が好きですか?」という問いに、一人の若者がこんな風に答えていました。「聴いたことのある曲」と。


 

メキシコの風とバラ・・・リラ・ダウンズ

2006-05-25 03:26:02 | 南アメリカ


” La Sandunga ”by Lila Downs

 自らもその血を受け継ぐ、アメリカ大陸先住民の民族衣装を身にまとい、古いメキシコ俗謡の復活活動を行う、リラ・ダウンズ。

 そのようなパフォーマンスは、故国メキシコでも奇矯な振る舞いと偏見を持って見られたこともあったようだが、そのような事にひるむリラではない。
 そんな彼女の、これはデビュー盤であります。

 不幸な事故により、重篤な怪我を負い、その苦しみを生涯引きずりながら、中米の大地深くに染み付いた、まるで人類すべての”業”をキャンバスに塗り込めたメキシコの国民的画家、フリーダ・カーロ。

 彼女の生涯を描いた伝記映画の主題歌を歌ったのが、リラ・ダウンズ。だが、どうもその映画に主演したのもリラであったような気がするし、いやいや、その映画自体もリラの伝記映画だったような気までしてくるのはなぜだろう。

 それはカーロの、先住民の失われた文化にまで達するような、メキシコの伝統表現への濃厚なこだわりを、リラ・ダウンズもまた、その身のうちに”業”とでも呼びたい重さで抱え込んでいるからに違いない。
 
 このアルバムに納められているのは皆、メキシコの有名な古典歌謡で、その響きの素朴な美しさに、逆に新鮮な驚きがある。
 アコースティック楽器のみのシンプルなバッキングだが、ジャジーなアレンジの試みもあり、民俗音楽研究盤の退屈さは無い。

 それにしても”濃い”歌声だ。歌声ばかりではなく、彼女の存在も、その眉毛も、ともかく濃い。そう、フリーダ・カーロの眉毛も相当なものだったな。と、また話はフリーダに戻ってしまうのだが。


 

タンゴ=エレクトロニクス

2006-05-24 03:26:22 | 南アメリカ


 MALEVO/OTARIO マレーボ・プロ=タンゴ/オタリオ

 本場アルゼンチンにおいて、タンゴのエレクトロニクス・ポップ化の動きもあり。との事で、まあ、あんまり良い予感はしないものの、一応聞いておこうと思った次第。
 とか書いても、ほとんど空しい感情しか浮かんで来ませんがね。だって、タンゴに興味がある人なんて、ワールドミュージック好きの中に何人いるってーのさ。一人もいないかも知れない。

 などといいつつ聞いて見た一枚。マレーボ・プロ=タンゴというのがアーティスト名なのか個人名なのかも分からず。いきなり飛び出してくるクールなスペイン語のアナウンス。そしてドスドスと機械によって打ち込まれる4つ打ちのバスドラ。どうやらこれはタンゴのハウス・ミュージック的展開を試みたものらしい。パルス的な律動のうちに、バンドネオンやバイオリンのソロがかぶり、妖しげな世界を演出する。

 考えてみれば、このハウスの4ツ打ちのリズムと、タンゴ伝統の四角四面に切り込む縦割りのリズムは、一見似ていなくもないんだね。と気がつきはするんだが、まあ、味わいとしては似ても似つかぬものですな。

 ヨーロッパ発のディスコものみたいにギャグ扱いであれば、それなりに理解の接点もあるのだが、お笑いの様子もなし。表情は終始シリアス。地球の裏側からタンゴに片思いするファンとしてみれば、どこから入って行ったら分からぬ音楽です、これは。

 やはりあのタンゴのリズムが快感だからファンをやっているのであって、それを味わいのないハウスの4つ打ち機械ドラムに切り替えられたら別の音楽になってしまうでしょう。それに絡むバンドネオン等も本領を発揮できず、空回りをしている・・・ように聞こえるんだがなあ。

 でも、分からないです。現地アルゼンチンではそれなりに愛好家もいるというんだから、何ごとか、タンゴと言う音楽の勘所を掴んでいる部分があるのかも知れない。こちらが感知できないだけでね。

 そういえば確かに、”都市の悪所のヤバい雰囲気”と言うタンゴ成立の要件は満たしているんですな、このサウンド。濃厚な”闇”の響きは、聞き慣れて行くうちに、何ごとかをこちらに語りかけてくるのかも知れません。まあ、評価は”保留”にしておこうか。煮え切らない結末ですが。



ズールー・ギター・ダンス!

2006-05-22 02:32:17 | アフリカ


 ZULU GUITAR DANSE:MASKANDA FROM SOUTH AFRICA

 初対面の”マスカンダ”なるギター中心のダンス・ミュージック。シンプルでワイルドなノリが身上らしい、なかなかに血の騒ぎを覚える音楽であります。

 南アフリカのズールー人の音楽だそうですが、ふとニュー・ロストシティ・ランブラーズなんて、アメリカの古い民謡を演奏するまるで関係のないグループを連想してしまったのは、売り物のズールー・ギターの、なんだか几帳面とも言いたいくらいのきっちり決まったプレイのせいです。

 フィンガー・ピッキングされるアコースティック・ギターが紡ぎ出すリズム・パターンは、音楽全体の素朴なグルーブからすると意外なくらい精緻な構成で、まるで教科書通りの演奏を聞かせるランブラーズのギターなど、ふと思い出してしまった次第。

 音楽の形としては、アフリカの大衆音楽の古層をなすハイライフ・ミュージックの流れを汲むものといえましょう。あの、背中をヒリヒリと炒り立てるような(妙な表現だが、ほかに言いかたを知らない、許して欲しい)ビート感覚が生きている。

 が、本場(?)西アフリカの、例えばガーナ辺りのハイライフ・バンドの、トロリと甘くレイジーな感触ではなく、ヒリヒリと舌に触る唐辛子系の硬派な乗りであり、塩辛声のボーカルの味わいと言い、これはこの音楽がハイライフから枝分れしてまだ日が浅い、若い音楽の証拠なんでしょう。

 それにしても、何度聞き返しても、やっぱり妙にきっちりしたギターで、普段はギター弾き語りのみでやっているんじゃないかなんて想像もしてしまう。それだけで十分、ダンス・ミュージックとして成り立つものなあ。
 でも、それに絡むベースギター(あ、ここでは唯一の電気楽器だ)の非常にファンキーなプレイなど聞くと、やっぱりこれもコミのサウンドなんだろうなあ、などとも思ってしまう。

 初対面で、このくらい”???”をアタマいっぱいにしている間が一番楽しいのかも知れませんね、ワールドミュージック探訪は。




”はっぴいえんど”のアンプ運びの頃

2006-05-20 02:40:11 | 60~70年代音楽


 当時、というか今でもあるんでしょうが、東京は新宿御苑の近くに御苑スタジオという音楽スタジオがあって、そこが、はっぴいえんど御用達の場所だった。音作りとかも、そこに籠もってやっていた。で、私達がバイトでやっていたのは、そのスタジオに行ってアンプ類を借りだし、車に積んでライブ会場に運び、ステ-ジに設営し、ライブが終わったらそいつを再び車に乗せ、御苑スタジオに返す、というのがメインの仕事だった。(時期的には、「風街ろまん」制作期とほぼ重なる?)まあ、ほかに細かい仕事もあったんだけど、いちばん情けないのは、大嫌いな岡林信康(注)のコンサ-トのビラ配りでしたね。まあ、それはこの場合、関係はない。

(注)私が通った高校というのが、「これから進学校に成り上がろう」との学校側の野望(その後、挫折)に沿って集められた、半端なエリ-ト意識の持ち主ばかりが通う、学生運動と反戦フォ-クの牙城とも言える所で、高校当時の私と言えば、以前書いたように、その真っ只中で落ちこぼれのロック少年を孤独にやっていたわけで、それは風当たりも強かった。当然、「学友諸君」の崇拝の対象だった岡林など、嫌悪の対象でしかなかったのであります。

 私はそのスタジオで、はっぴいえんどの新曲のリハ-サルに偶然立ち会った事がある。と言っても時間にしてほんの数分程度のものだったが。大滝詠一がスタジオとガラス1枚隔てた調整卓のある場所に座り、バンドのメンバ-というよりはディレクタ-然として、スタジオの中の3人にこまごまと指示を出していたのが印象的だった。もっとも、「大滝の曲は大滝が主導権を握る」という事だったのかもしれないが。ちなみにその「ウッドストック」調?の曲、「はっぴい」のどのアルバムにも収録されていない。没曲だったのかと思うと、もっと気を入れて聞いておけば良かったと反省したりする。

 こうして昔のことを思い出し思い出し書いていると、「あの頃、結構面白い場面に出くわしたり立ち会う機会があったのに、それに積極的にかかわりもしなかったし、きちんと記憶にとどめてもいない。惜しいことをしたなあ」と、ザンキの念に耐えない。馬鹿な私は、あの貴重な日々を「わ-いわ-い、まいにちおんがくだらけでうれしいな、わ-い!」と、浮かれ騒ぐだけで浪費してしまったのだ、振り返れば。

 数少ない「記憶にある決定的瞬間」は、例えば以下のようなものしかない。
 (はっぴいと岡林が開演前の会場で音合わせをしていたのだが、その過程でマイク&マイクスタンドが一式、足りないことが分かった。我々バイト軍団に「あれだけ取りに、もう一度スタジオに引き返すのかよ-」とウンザリ気分が走った。と、大滝詠一が岡林の抱えたフォ-クギタ-の前に置かれたマイクスタンドを掴み、「これ、いらないっスよね。これ、使いましょう」と言ったのであります。皆は、「ああ、そう言えばそうだよな、それはいらね-や、ああなるほど、それを使えばいいや、そうだそうだ」と頷いて一件は落着したのだが、「どうせ俺のギタ-は役に立ってね-よ」と怒った岡林はギタ-を投げ捨て、マイクを握って唄いだした。はっぴいえんどをバックに唄いだした頃の岡林は、初めはギタ-を抱えて歌っていたが、ある日を境にマイクのみを握って歌うようになる。そうなる瞬間を、私は目撃したのだ)
 ああ、くだらない。こんな事しか覚えていないのだ、私は。

 Y.Nさんが紹介しておられる、なぎら氏の「はっぴいは巧いバンドだった」証言と、M.Oさんのご覧になった、パッとしないはっぴい&岡林の図、必ずしも矛盾はしません。しばらく真近にいた者として証言しますが、そもそもはっぴいえんどのライブ、面白いものではありませんでした。(1曲だけ例外あり。後述)ましてや、必ずしも音楽的に近しいものがあるとは言えない岡林の、どれだけやる気を出していたか怪しいバッキング(なにしろ「これいらないっスよね」だ)ですから。

 今にして思えば彼等、「自分たちはレコ-ディング・バンドである」との自負に自縄自縛となっていたのではないか。ある程度のテクニックはありながら、それをライブでは、どう生かすか、そのすべを知らなかった。知らなくても構わないと信じていた。彼等はその結果、「ライブ」そのものを持て余し、客にどうアピ-ルすべきか分からなくなっていた様な気がする。彼等よりずっと不器用で、あれしか出来なかったのでは?と思える「初期のはちみつぱい」の演奏が、にもかかわらず妙な妖気を放っていたのとは対照的な姿だった。

 と、勝手なことを言えるのは、上で述べかけた「1曲の例外」があるから。それは、ライブに於ける「はいからはくち」という曲の存在である。当時の野音の客席には、何のスリクをやっているのか知らないが、ステ-ジの演奏とは無関係にその場に寝ころがり、自分一人のサイケデリック・ワ-ルドに入ってしまっているヒッピ-氏が、必ず何人かはいたものだが、はっぴいが「はいからはくち」を始めた途端、そんな連中が起き上がり、「イエイ!」とか喚いて踊りはじめた、なんて光景を私は一度ならず見ている。実際、妙に快調な「乗り」を、はっぴいえんどは、あの曲を演奏するときのみ、例外的に見せてくれたのだ。

 ご存じの通り「はいからはくち」は、軽佻浮薄な若者風俗を自虐的な戯画として描き出した曲である。つまり、「ロックン・ロ-ルだぜっ!」と盛り上げた後、「なんちゃって!」で済ますことの可能な曲なのである。そんな無責任性を内包する故にこの曲は、はっぴいのメンバ-を、「レコ-ディング・バンド」の自負から、つかのま解放し、彼等なりのどさくさ紛れのロック魂を炸裂させたのだ、と私は考える。また、その瞬間を何度も目撃しているからこそ、私はあえて断言するのである。「はっぴいえんどのステ-ジは、一曲の例外を除いて、面白いものではなかった」と。

 妙なこだわりを捨ててド-ンと行っちゃえば良かったのに、と言うのは今の時代の感性です。当時は、各自が自分のメンタリティを守るために、そんなこだわりに入り込んだりもせずにはいられない、トンチンカンな未踏の時代だったのだ、とでも言っておこうか。




キューバ庭園の花々

2006-05-17 03:13:39 | 南アメリカ


 ”Las Flores Del Jardin”by DUO EVOCACION, DUO NUESTRAS ALMAS

 いやあ、このアルバムのタイトルを画像検索にかけたら、VISAとかアメリカン・エキスプレスとかのカードの画像がやたら出てきたんだけど、どうして?ちなみにタイトルは「庭の花々」ってな意味ですが。

 サンクトゥ・スピリトゥスという町は、キューバの古都であり、かの地の大衆音楽・ソンの古い形が今日も残っている場所として知られているんだそうですが、そこの出身の女声デュオ2組、”エボカシオーン”と”ヌエストラス・アルマス”が交互に歌う、伝統的なキューバ・トローバ集です(2001年度作品)

 トローバって呼称はトゥルバドール、吟遊詩人って言葉から来ているんだろうけど、まあ要するにキューバの白人系古謡集とでも理解しておけばいいんではないかなあ。ヨーロッパからの移民たちの後の世代、カリブ~中南米生まれの白人である、クリオージョたちの作り出した歌曲。

 ともかく優美、爽やか、そして切ない、と何拍子も揃った名品です。この二組のデュオがどれほどの評価がなされている歌手たちなのか、キューバ音楽に詳しくない私にはよく分かりませんが、素晴らしいコーラスを聞かせてくれます。
 バックをつとめるバンドも、ソンの伝統を今日に伝えるギターやトレスが、パーカッション群を従えて小粋に鳴り響く、素敵なもの。

 取り上げられている曲はどれも、トローバ音楽の巨匠と言っていい人たちの歴史的作品なんだそうで、ヨーロッパから伝わってきた音楽が、カリブの地で他の音楽の諸要素とバッティングして織り成す、コロニアル風の感傷がたまらなく胸を打つ、宝物のようなメロディばかり。

 これはもう、文句の付け所がありませんな。私がこれまでに聞いたキューバ音楽の中で中で、最も素晴らしい作品であります。
 とかいっても、先に述べたようにキューバ音楽にそれほど詳しくない私でありまして、たいした重みのある発言でもありませんが。




パンパスの星の下で

2006-05-16 04:40:59 | 南アメリカ


 ATAHUALPA YUPANQUI

 アルゼンチンが誇るフォルクローレ界の巨人、故・アタウアルパ・ユパンキは。
 とか書いてもなんか後ろめたさが付きまとうのは、ユパンキの作品で私が持っているのは今、目の前にある”エストレリータ”なるCD一枚きりだからである。

 これ、町のスーパーのワゴンセールで500円で買ってきました。安く入れた輸入盤に日本語の帯だけつけたものだけれど、その帯には”ムード音楽”と印刷されています。南米民謡界の巨人も、こんな扱いをされちゃかたなしだね、と言うべきアルバムで、おそらくはオリジナルではなく、彼の数多いアルバムの中から”ムード音楽”に相応しいものを拾い集めた編集盤なのであろう。

 これ一枚で評価してしまうのも、巨人に対して失礼って気もするのですわ。あ、さっきから巨人巨人と申しておりますが、ユパンキ氏、身長は2メートル近い偉丈夫だったと聞きます。しかも左利きでありまして、その巨体で常人とは逆に構えたガットギターを弾きながら語り歌う様は、なかなかに異形であり、ゆるぎなき怪人(良い意味で)ぶり。
 そしてその歌も、民謡と言うよりは昔語りなんて言葉を持ち出したい世界の広がりを持ち、素晴らしいものでした。

 そんなわけでユパンキ、南米のフォルクローレ音楽を語る際には避けて通れない音楽上も十分、巨人な人なのですがね。ですが、私なんぞはへそ曲がりだから、そのように評価の定まった偉人とかは、つい、敬遠したくなってしまう。だからあえて彼のアルバムは聞かずに、見ない振りをしていた。彼の事は。ただ気まぐれに買った、ただ一枚のお手軽編集盤、「エストレリータ」だけを手元においてね。

 「エストレリータ」には、まあ、三対一くらいの割合で南米の民謡とクラシックの小品が収められている。そのハザマに不意に「中国地方の子守唄」なんて日本民謡があったり。すべてギター・ソロであり、歌は一曲も入っていません。”ムード音楽”として売る為には、ユパンキの渋すぎる歌は邪魔だったんでしょうなあ。

 まあ、こんなアルバム一枚しかもっていない身でユパンキを語るのは言語道断に決まっているのでありますが。いや、人の持ってるアルバムで「インディオの小径」「トゥクマンの月」「牛車に揺られて」なんて歌はきいたことはありますよ、それは。

 あと、高校生の頃だったかなあ、まだ”話題の新人”だった頃の五木寛之氏がラジオの深夜放送でユパンキのレコードをバックに自著、「風に吹かれて」を朗読する、そんなコーナーを持っていて、まあ、その頃はわけも分からぬままだったんだけど、音自体には聞きなじんでいたんです。

 でもね、それはそれだ。そんな訳で私にとってのユパンキは、「エストレリータ」に入っている表題作、それから2曲目のバッハ作、「主よ、人の望みの喜びよ」の演奏なのでありました。

 「エストレリータ」は、メキシコ産の恋歌であります。夜空の一つ星に恋人への思いを託した、愛らしく美しい曲。こいつを奏でるユパンキの想いが、広漠たるアルゼンチンの草原と、その上に広がる広大な星空に響き渡り、天高く高くに昇って行くのが見えてくるような、切ない出来上がりとなっております。

 一方、「主よ・・・」は、なにしろキリスト教絡みのメロディですからね。教会カンタータっていいましたっけ。
 遠く大西洋によって隔てられた旧世界で育った宗教であるキリスト教がポツンポツンと新世界に置かれ、頼りない蝋燭の日のように揺れている。
 それを信仰するのがアメリカ大陸先住民にとって、本当に幸福なことであるのかどうかは、いずれ論ずるとして(ともかく彼らは信じてしまった)主よ・・・人の心の。なんと孤独なことか。

 ああ、これはユパンキのちゃんとした盤を買ったら、さぞかし素晴らしい世界が広がるのだろうなあと想像しつつ。つーか、そろそろ覚悟を決めてユパンキのアルバム、ちゃんと集めたらどうだ、俺よ。というお話でありました、