ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

ジンギスカン撃滅

2008-03-31 22:08:29 | ヨーロッパ

 ”GENGHIS KHAN ”by DSCHINGHIS KHAN

 モーニング娘の妹分、みたいな存在のベリーズ工房ってグループがいるんだけど、そのコたちの新曲が、昔、あれは20年以上前だっけ、ディスコ・ブームのおりに流行った”ジンギスカン”だ。
 ”ジン、ジン、ジンギスカ~ン♪”とかいうロシア民謡まがいのメロディを、土木工事みたいなリズムと下品なユーモアで処理した曲である。

 あの曲、リアルタイムで聞いたときもずいぶんくだらない唄だなあと辟易したんだが、今、改めてベリーズ工房の唄で聴いてみるとやっぱり愚劣な曲というほかはなく、なぜあんなものをわざわざリメイクしたのか、その理由が分からない。
 あんな曲が意外にいまどきの連中には受けるのかな、と思っていたら、売る側が期待したほどは売れていないようだと言う情報が入って来た。なにをやりたかったのかね、あそこの事務所は。

 しかしあの曲、なんでロシア風メロディで”ジンギスカン”なのかが分からない。西欧人の感覚ではモンゴルはロシアの一部なんだろうか?なんて正面から不思議がるのもアホらしいんだが、ちょっと調べてみると、原曲を歌っているのはドイツ出身のグループで、グループの名称そのものがジンギスカン。ますます意味分からず。もう、考えるのも嫌になって来るが。

 さらに、このジンギスカンなるグループの他のレパートリーのタイトルがムチャクチャである事実も気になってきた。
 「さらばマダガスカル」「サムライ」「イスラエル」「栄光のローマ」「めざせモスクワ」「インカ帝国」「哀愁のピストレーロ」「闘牛士の死にオーレ!」などなど。なんじゃこれは。これらはいったい、どのような曲であるのか。どれも全然知らないんだが、聴いてみたいような聴きたくないような。

 まあ、「サムライ」は中華風の曲という解説文も見つかったので、他の曲もそのレベルの底の浅い”ワールドもの”ぶりであって、さほど深刻に受け取るほどのものではなかろうと想像はつくのだが。

 でも、この辺で我が好奇心はほんのちょっとムズムズしてくるのだ。ともかくほのかにワールドミュージックの匂いがしてきたのだから。
 しかも、裏町歌謡愛好家としては認知せざるを得ない、猥雑な庶民のエネルギーとか、その種の匂いである。そのインチキ臭さ、アナーキィなデタラメさ加減の向こうから漂ってくる、救いようのない聖凡人たちの実もフタもない日々の祈りのエコーである。

 なおかつ、ジンギスカンのメンバーもドイツ人ばかりではなく、ハンガリー人やオランダ人、さらには南アフリカ人までも在籍しているというカラフルな民族構成であったようだ。なんだったんだ、こいつらは?
 この辺り全部含めてこのジンギスカンなるグループ、あれこれ受け狙いの乱痴気騒ぎを重ねた結果の偶然として、当時の東西冷戦構造やら植民地対宗主国の構図やら、いろいろ絡まりあった非常にややこしい伏魔殿としてのヨーロッパの戯画になっていたと取ってよいのではないか。

 などと思いつき、あれこれ検索をかけるものの、ダンス・ミュージックのグループ、”ジンギスカン”に関しては、その方面の分析や、あるいはそのための資料には出会えず、ただ「アルバム全曲外れなし!ぜ~んぶゴキゲンなダンスサウンド!」なんて浮ついた惹き句に出会うのみ。
 うん、まあ、私のようなウワゴト言いつつディスコ音楽の周辺を嗅ぎまわる、なんてのはヤボもいいところなんだろうなあ。

 そもそもどのようなものが音楽としての存在意義を持つか、なんてつまらない事を言う気もないが、”ジンギスカン”のやっていたあの騒がしいだけの曲は、聴いているだけでも、ただひたすら苦痛だ、というんでは、やはり勘弁してもらうより仕方がないだろう。
 でもねえ、なんか心の底で気になるものがないでもないのよなあ。なんかあるのかも知れないよねえ、あのバカ騒ぎの底には。

木々の日々

2008-03-30 00:35:57 | ヨーロッパ


 ”Sway With Me”by Judy Dunlop & Ashley Hutchings

 大島弓子が「綿の国星」で「なんと凄い季節なのでしょう」と描いたのは今頃の季節を表現したんでしたっけ?もう少し後の時期?あ、私、マンガは好きですが猫は嫌いなんでヨロシク。

 この日曜日が東京あたりでは桜の見ごろとかで、テレビの天気予報のコーナーではお花見情報とか盛んに取り上げているけれど、私にしてみればなんかピント外れの感じだ。だってねえ・・・
 最近は話題にもされるようになってきたが、このあたりの名物である冬咲きの桜が私の街にもあって、それらはとっくの昔に満開を迎え、そしてとうに散ってしまい、今ではすっかり葉桜になってしまっているからだ。いまさら桜の話題をされてもなあ。みんな、遅れてるっつーんだよ。なんていうのはこちらの言いがかりだろうが。でも実感。

 そういえば私の街にやって来た観光客たちが満開の桜の下に立ち、「あれ、もう桜が咲いている!?」「この辺だけ一時的に凄く暖かい日とか、あったのかなあ?」なんて驚きの声を挙げつつケイタイで盛んに写真を撮って行ったのは、もう一ヶ月も前の話か。
 いわゆる普通の桜も私の町にはあるのであって、それらは順当に(?)今が満開の時を迎えているのだが、街の人々はもう見飽きているんで一瞥も与えず、なんだか可哀相な気もする。

 桜を見たかったら私の町に2月においでよ。山の手の別荘地帯なんかでは道路に被るように植えられた早咲きの木々が壮麗な桜のアーチを作ってるよ。

 と言うわけで、「木々に関する音楽」など取り上げておこうと思ったら、こんな古いアルバムを引っ張り出すことになってしまった。もう十数年前、英国トラッド・フォーク界の大物、アスレイ・ハッチングスが新進(当時は)女性シンガー・ソングライターのジュディ・ダンロップを主役に迎えて作ったアルバム、”Sway with Me”である。

 ピアノの弾き語りもあれば、古い民謡の演奏もあり。英国フォーク界の腕利きが集合して奏でた木々と、それとともに過ごした人間の日々への賛歌。明るい日差しと、春に芽吹く木々の息遣いが爽やかに迸る、みたいな作品だ。
 ともかく収められた楽曲のすべてが木々をテーマにしている。
 柳の木の根元に破れた恋を思って泣き伏す乙女もいれば、犯した罪ゆえに木下に吊るされた罪人もおり、最後には木々からの恵み、果物を使ったパイを食す実況音(?)で幕を閉じる。

 アシュレイ・ハッチングスの、トラッド・フォークとフォークロックが巧みに交差する音つくりと、突然主役に抜擢されたジュディ・ダンロップの新鮮な歌声が心地良い。二人が、この作品発表の後に夫婦となってしまったのは余計な出来事だったが(!?)

 木々は、私たちに語りかける。
 「あなたがたが我々のもとを去り、地上に降り立って暮らしを始めてから、どれだけの歳月が流れたことだろう。我々はこの丘に立ち、あなたがたの”文明”が空高くそびえるのを見た。あなたがたの”帝国”が大きく版図を広げ、そして崩れ去るのを見た。あなたがたは、はたして幸せになれたのだろうか?」

 失われたものは、もう戻ってくることはないんだけれど、さて一休み。丘に登って木々の元に行き、ひととき風に吹かれてみようか。春だねえ。
 

トルコ歌謡夜の最前線70’

2008-03-28 03:23:46 | イスラム世界


 ”Aşkların En Güzeli”by Deniz Seki

 と言うわけで前回に続き”中東の懐メロ・シリーズ”であります。
 これはトルコのセクシー系歌手、”Deniz Seki”が1970年代のトルコ歌謡の名曲群を再生させたアルバムだそうで。

 冒頭から、歌手の歌いっぷりもバックのサウンドも、なんだか倍賞千恵子の”さよならはダンスの後で”あたりを連想させる、いかにも歌謡曲な世界が展開されます。
 エレキギターのリズム・カッティングが印象的なリズムセクションと、アラビックな旋律を奏でる民俗弦楽器に重なる切ないストリングスの響き。いやあ、”歌謡曲”だなあ。

 曲調は多彩で、ギリシャっぽいメランコリーが展開されるかと思えば、フラメンコ・ギターが駆け抜ける情熱の迸るナンバーもあり。そしてどの曲も、非常に生々しいメロディ・ラインを持っている。
 今日のこの方面のポップスで聴かれるような、”アラビックなメロディが妖しげに”という感じよりは、”切ない短調のメロディ”が支配的な世界。要するに”正しい民俗ポップス”というよりは”下世話な大衆娯楽としての歌謡曲”なんですな。

 イスラム世界における”ベタな歌謡曲”のありよう、なんてものを考えてみたくなったりします。あるいは、国境を越えて偏在する”下世話な民衆音楽”なんてイメージ。
 唄のバックでリズムを叩き出しているのは、ワールドミュージック的な意味でかっこ良い民俗打楽器じゃなくてボンゴだったりする。で、「ああ、この国でも昔、ラテンが流行った時期があるんだなあ」なんて分かってしまったりする仕組みで。

 どこの国においてもこの種のベタな歌謡曲世界は、その国の大衆音楽シーンが成熟へ向うとともに失われていってしまうのだけれど、これは仕方のないものなんですかね?なんだか惜しい気もするんだが。

テヘランのマンボな夜

2008-03-25 00:51:09 | イスラム世界


 ”Best of 60's (Music of 1960-1969)”

 1970年代にイランに革命が起こり、それまでの親アメリカ王政からイスラム共和国に生まれ変わる。これはそれ以前、イランにおける1960年代のポピュラー音楽を集めたアルバムである。
 アメリカにおいてペルシャン・ポップスを大量にリリースしているカルテックス・レコード社の編集によるイランポップス年代記シリーズの一枚。解説文の一つもなく、収められた歌手たちの名もよく分からず、といった状態である。

 冒頭いきなり、くぐもったエレキギターのソロが切ないマイナー・キイのメロディを奏で、そのまま”ウナセラディ東京”みたいなラテンのバラードが始まる。なるほど、かって世界を覆っていたラテン・ブームはイランをも巻き込んでいたのだなあと感心させられつつ、そのまま革命以前のイランのポップス世界真っ只中に連れて行かれる寸法だ。
 あとに続く曲たちも、中東ムードの甘美に曲がりくねったリズムとメロディが開陳されはするものの、ラテンをはじめとする西欧ポップスの影響はいちじるしい。

 ”アランフェス協奏曲”みたいなメロディが切々と歌い上げられる、そのバックに鳴り響くのはイランの伝統的打楽器ではなくボンゴの連打であり、そっと和音を重ねるのはホテルのサパークラブ風とでも表現したいエレクトーンの響きであったりする。
 ベースギターはロックっぽいラインを描き、ドラムもピアノも、当時のポピュラー音楽の世界標準を露骨に追ったプレイを聞かせる。欧米の60年代ポップスを聴いて育って来たこちらの血を騒がせるほどの臭気を発する。

 次々に登場する歌手たちも、今日のイスラム圏の歌手たちとは異質の、「実は家では西欧のポップスを聴いています。フランク・シナトラに憧れて歌手になりました」なんて雰囲気を濃厚に漂わせている。そんな歌手たちが、日本人であるこちらが「ああ懐かしいな、子供の頃聴いた歌謡曲みたいだ」と感ぜられる”懐メロ”を切々と歌い上げてしまうのだ。
 うわあ橋幸男だ、あれれ舟木一夫だ。

 ラストを飾る、男女のデュオによる陽気なラテンのダンスナンバーにおいては、「チャチャチャ!ウーッ!」なんて掛け声が響きさえするのであって。
 今日、真面目なイスラム教徒たちが聴いたら、非常に罪深い音楽と聴こえるのかも知れない。それほど、この当時のイランのポップスは西欧世界に大きく窓を開けていた。この、伸びやかで奔放な大衆音楽がそのまま育っていたら、どのような世界が展開されていたのだろう。

 ・・・などと、失われてしまったきらびやかなテヘランの夜を懐かしんだら叱れるのかなあ、真面目なイランの人に。まあ、無責任な外国の野次馬の勝手な空想と大目に見ていただきたく思う所存であります。

Night They Drove Old 奄美 Down

2008-03-23 02:44:58 | 奄美の音楽


 ”武下和平傑作選”

 CDがまわり音が聞こえてくるなり、「あ、これはザ・バンドじゃないか」とふと思ってしまい、その発想のムチャクチャさに我ながら笑ってしまったのだが、いや、実は結構それで当たりじゃないか、とも思っているのさ。

 ずっと前に手に入れていたのだけれど、聴くきっかけが攫めずにいたCDだった。
 なにしろこのCD、”奄美の民謡を芸術の域にまで高めた男”と言われる伝説的歌手、武下和平の若き日の傑作選なのである。今日の奄美の民謡歌手で彼の影響下にないものはいない、とも言われている大歌手である。CDの帯にだって”天才唄者”とド~ンと大きな文字で書かれているのである。

 あんまり早く聴いてしまったらもったいないじゃないか。それに、もし聴いて「これのどこが良いの?」なんて反応しか出来なかったらそいつもヤバいしねえ。

 とかなんとか、封も切っていないCDを目の前に逡巡を続けていた私だが、いつまでもそんな事をしていても仕方がない、意を決して聴いてみた感想が「ザ・バンドみたいだな」である。
 ザ・バンドといえば、70年代アメリカンロックの最高峰と評判の高いあのロックバンドであって、三線一丁による奄美民謡の弾き語りである武下和平の音楽と、表面上の共通点は何もない。

 が、例えばそのカラカラに乾いた冬の木立が北風に吹かれて鳴っているみたいな枯れ切った三線の響きは、ザ・バンドの1stアルバム、”ミュージック・フロム・ビッグピンク”で聴かれるレスリーの回転スピーカーを通した独特のシュワシュワしたギターの響きに似てはいないか。
 彼の奄美民謡独特の裏声混じりの歌声は、ザ・バンドのアルバムで聴き慣れた、あの色で言えば焦げ茶色にくぐもったディープな裏声による男たちの渋いコーラスを、どこか連想させはしないか。

 そもそもその音楽の佇まいの堂々の貫禄ぶりや、郷土の土に根ざした揺るぎのない音楽性、あまりにもディープ過ぎるゆえに、時に不気味な印象さえ与えるテンション高い感情表現などなど、奥の部分での共通点はかなりのものなのである。

 裏声交じりゆえ、一瞬中性的な歌声と思わせておいて、次の瞬間にはブルースシンガーばりのワイルドな唸り声、吠え声で聴く者を叩きのめす、その唄者としての豪腕ぶりには一発でトリコになってしまった。荒れ狂う木枯しみたいな迫力じゃないか。
 三線が打ち出す、寄せては返すリズムの妙は、海に囲まれた奄美ゆえに生まれたものと考えて良いのだろうか?奄美の民謡に、あまり”南の音楽”とか”海の音楽”とかの印象は抱かず、むしろ古代歌謡が生々しい響きを持って今日まで歌い継がれている、その事実に魅せられてきた私なのだが、武下和平の三線のリズムには、確かに大いなる海の潮の響きが感ぜられる。

 こいつは確かに凄いね。なるほど”天才唄者”の名にふさわしい歌い手と言えるだろう。と分かってしまうと、手元にある武下和平の作品は、後は比較的最近作の”立神”だけであるのがもの凄く頼りなくなってくる。
 もっと聞かせろ、武下和平を!と、これから、どれだけあるのか分からない、もしかしたらそのほとんどはもう入手困難になってしまっているのかも知れない、武下の作品を求めてジタバタしなければならなくなったのであるが、いや、こんな”厄介ごと”はもちろん大歓迎なのである。

 しかし、面白い音楽のタネは尽きまじ、だねえ。出会えてよかった奄美やら武下やら。

ケルトの押し付けを排す

2008-03-22 05:59:38 | いわゆる日記


 (ラーメンの丼の模様とケルトの遺跡の文様と似てないか?)

 まずは先日の続き。Yの葬儀にはやっぱり覚悟を決めて(?)行ってきた。行ってみたら、これもYの人柄なんだろうか、えらく参列者の多い葬儀で、とにかく車を停める場所がない。会場の整理係ももはやヤケを起こしていて、「その辺に停めて置いてください」と、寺とは何の関係もない近所の駐車場を指さす有様。

 まあ、しょうがないからね、私もそこに車を停めて、文句が出ないうちにと、大急ぎで彼の家族に挨拶をし、焼香だけして帰って来たのだが。これは感傷的になっている暇がなくて、逆に良かったのかもしれない。
 実は、葬儀会場へ行く途中、車のハンドルを握る腕が妙なこわばり方をしていて、「やだなあ」と感じていたのだ。何を俺はテンパっているのだ、と。けどねえ。

 友人の死を体験するのは、それは、これが初めてではない。けれどYは、ほんの小さな頃からの遊び仲間なのだ。オトナになってからだって、すぐ近所にある奴の店に飲みに行っていたんだ。そいつが今日から、もうこの世にいないのだから。

 そして帰り道。暗くなった国道を車を走らせつつ、自分がなぜYの葬儀に出るのに乗り気になれなかったのか、本当のところがやっと分かった。
 私は、菊の花なんかに飾られた祭壇の上にYの写真なんか見つけたら、自分は泣いてしまうんではないかと恐れていたのだった。
 実際行ってみれば、車を置いた場所が問題だったので気もそぞろのままに焼香を済ませ、祭壇の写真なんか見る余裕もなかったのであるが。

 現実と言うのはいつもこんな具合に索漠たるものである。

 で、本日のお話。これも先日と似たような話になってしまうんだけど。

 さきほど、長嶋一茂が主演らしき、”ポストマン”なる映画の宣伝番組がテレビから流れていた。どうやら映画では大々的にアイルランド風のトラッドというか、いわゆる”ケルトっぽい”音楽が頻繁に流れる仕組みのようだった。
 一茂やら北乃きいやらの演技のバックに、いわゆるケルトっぽいフィドルやティン・ホイッスルの嫋々たる演奏が被る。

 まあ、私もヨーロッパの古い民謡は好きで、いわゆるトラッド・ファンのはしくれだから、聴き始めは良い気持ちで聞いていたのだった。不思議な切なさと懐かしさに溢れた、遠い昔に失われたヨーロッパ先住民の残したメロディ。
 が、しばらくすると、その演奏が鼻についてくるのだ。なんだか、その音楽がそこにあることの不自然さが、非常に居心地の悪いものと感ぜられてくる。

 一茂たちが出ているのは、どう見ても”ケルティック”とは関係のない、日本の日常を舞台の映画なのである。そこに”ケルトな”音楽が割り込まねばならない理由は、基本的にはないのである。それは、そのような立場の音楽をあえて使うファイクの面白さ狙いという手法もあるが、それを成立させるための配慮のタグイは、どう見てもなされていない作品である。

 聴いて行くうち、無理やり木に竹を接いだわざとらしさの先に、「こんな音楽を持ってくる私ってセンスが良いでしょ?音楽ファンだったら分かるよね?」といった観衆への甘えたもたれかかりも感じられはじめ、ますます不愉快となっていった私だった。

 昨年あたりからかなあ、テレビのコマーシャルとかのBGMに、”いわゆるケルティック”なメロディが頻繁に使われるようになった。”サリー・ガーデン”あり”シェナンドー”あり、ともかくくどいくらいに日々、”ケルトなメロディ”を聞く羽目となった。。
 その真っ只中、”ケルティック・ウーマン”なるアイルランドのコーラスグループの唄の、まったく押し付けと言いたくなる過多オンエアに、すっかり食傷してしまい、何の恨みもないそのグループを、あるアンケートの”嫌悪するミュージシャン”の一位に挙げてしまったりしたものだった。

 なにか我が国の”業界”にケルト贔屓の仕掛け人のタグイがいるのだろうか?などと勘ぐりたくなってくるのだが。
 あれらの音楽をCM界に持ち込んだ者、どのような立場か知らないが、もしいるとして。
 ご当人としては「自分は我が国における”ケルティック”な音楽の普及に貢献した」なんて浮かれた自己評価に淫しているんではないかと思う。

 だがそれは、残念ながら見当はずれの認識だ。
 音楽には、その性質に応じた流れるべき場、というものがあるだろう。今風に言えば”読むべき空気”というものが。
 日常的に垂れ流すのに向いた音楽もあれば、プライベートな時間に密室の秘儀として聴くべき音楽と言うものもあるはずだ。
 そして”ケルトな音楽”は、ここ日本においてはまだまだ、秘儀の範疇に収められるべき音楽であろう。

 アイルランドでは、そのような音楽が日常的に奏でられているのかも知れないが、ここ日本と、かの国とは文化も風土も異なるのだ。デリケートな配慮がなされてしかるべきなのは当たり前である。
 ただ単にあちこちで垂れ流し、無理やり聴かせれば聞き馴染んでファンになるに違いない、なんて考えは、音楽ファンをブロイラーかなんかと間違えているぞ。その行為、むしろ我が国における”ケルト”のイメージに悪い手垢を付けてしまう結果しか生まないのではないかと、私などは危惧しているのだ。

 なんて書いてみても分からないんだろうなあ。困ったもんだよ、無神経な奴って。


”十番街の殺人”は、もう聴けない

2008-03-20 14:38:09 | いわゆる日記


 2月18日の日記に、”同級生のYが良くないヤマイに罹り、重篤な状態にある”と書いたが、今朝、Yが亡くなったとの知らせがあった。これはきついなあ。

 先にも書いた通り、柔道の猛者で道場を開いて子供たちの指導に当たっていたYだが、私にとっては”中学時代のエレキギター友達”とでも呼ぶべき存在だった。
 中学生だったある日、幼馴染みの彼が、意外にも達者にエレキギターを弾きこなすのを見て、私は自分でもギターを弾いてみようなどと言う気を起こした、と言っても過言ではない。

 病気の話を初めて聞いた時も、あの屈強なYのことだ、きっとそんなものケロリと克服してしまうさ、なんて思ったのだが、こればかりはそうは行かなかったようだ。

 その後もずっとベンチャーズ探求の道を歩いた彼と、ワールドミュージックというか世界中の裏町歌謡を漁る方向に進んだ私とではあまり接点はなく、その後は一緒に演奏する機会もなかったのだが、こうなってみると、一回ぐらいは遊びでバンドでも組んでみるべきだったのではないか、なんて思えてくる。まあ、いまさら言ってみても仕方がないのだが。

 あと何時間後かにはYの通夜がK寺である。そいつに出席するかどうか、いまだに決められずにいる。そんなものに出てYの死を確認してしまいたくない、なんて想いがある。そんなものに出ずにいればある日、通りの向こうから健康を取り戻したYが「やあ、心配かけたけど、もうすっかり治ったんだよ」と、いつもの笑顔で現われるのではないか、なんて気がする。 

 もちろん、私の理性は「そんな事はありえない」と告げているのだが。もしそんなことが本当に起こったとすればその時は、Yは私の肩を叩き、「さあ、一緒に行こうよ。久しぶりにお前のギターを聴かせてくれよ」とか言いつつ、あっちの世界に私まで連れて行ってしまうだろう。そいつはしばし、願い下げにしたい。

 それにしても、Yが経営していた店に飾られていたモズライトのエレキギターのコレクションは、どうなるのかなあ。余計なお世話だけれども。
 今日は天気の具合が悪く寒の戻りがあり、冷たい雨が朝から降っている。この世の旅の真っ只中で思う。この人生にどう対処すべきか、たぶん一生分からないままだろうなと。

チベットを生きる日々

2008-03-19 04:51:17 | 時事


 日記がストップしてしまっている。

 チベットについて書いてみたいと思うのだが、私が思いつくようなことはすでに多くの人によって書かれている。その人々以上の特別な知識や意見が私にあるわけでもなく、わざわざ凡庸な発言を一つその列に加えるのも、気が進まない。とは言え、何か書かねば、自分に納得が行かない気もしている。
 先に進めず後にも戻れず、ここにこのままいるわけにも行かず、なにやらもどかしい場所にはまり込んでしまっている。

 日本テレビで放映された「東京大空襲」を見た。というかテレビをつけっぱなしでいたら始まってしまった。”開局55周年記念ドラマ”だそうな。

 なにやら感傷的な女性ボーカル、しかも英語によるものが物語のバックに流されっぱなしになっていた。
 これ、どういう神経か分からない。その”英語を使う国”と戦争やっているときの話でしょ?英語を使う国の爆撃機が爆弾を落としたから、そこらじゅうが火の海になっている訳でしょ?人々が死んでいっているわけでしょ?にもかかわらず、「最新流行の英語の歌を流しておくからオシャレな気分になれ」と言うのかね?

 小泉文夫氏が生前 時代劇のBGMに西洋音楽が使われることの違和感を何度も指摘していたものだったが、実際、ドラマ作りをやっている人々の、この辺のグロテスクな感性というのはまったく理解しがたい。
 頭の上にちょんまげを乗せた役者たちが江戸時代の市井を舞台の”捕り物帳”を演じているバックに高々とトランペットのソロを鳴り響かせてなぜ平気でいられるのか。
 同じように。太平洋戦争末期の日本における人々の日々を描いたドラマのその後ろに、なんで英語の唄を流せるんだよ。

 情緒過多な音楽の使用によってすべてを感傷の海に沈め、ドロドロのスープ様の海の中で何もかもを曖昧にしてしまう。今日の”テレビドラマ化”ってそういうもののようだ。
 ドラマ作りをする人々にとって東京大空襲がどうのこうのなんて、実はどうでもいいんだよね、それは単に「目先を変えてみました」ってだけのこと。昨日は新作のブランド物のバッグだったものが、今日は爆撃に炎上する東京である、それらは等価で並べられている。

 この種の”ドラマ化”の手法って、あのトレンディドラマの流行あたりから常套手段となったように記憶しているのだが。
 あのベタベタと垂れ流される甘ったるい音楽群を抜き取ったら、そこにはいつもの「怒鳴れば熱演、泣けば感動」という趣旨の、愚劣な役者たちの演技が残るだけ。ともかく怒鳴りっぱなし、泣きっぱなしなのよな。

 そしてブラウン管のこちら側には、そんな稚拙な罠に感性を鈍磨させられ、飼い馴らされた視聴者の淀んだ視線がある。
 「怒鳴っているから熱演なんだろうな。泣いているから感動しとこうか。今かかっている曲、オシャレだな。こんどCD屋へ入ったら探してみよう・・・」

 先日来、チベットの事を書いておこうとしてるのだが、何も書き出せずにいる。

最近、不愉快な唄

2008-03-15 23:46:06 | その他の日本の音楽


 え~と。あ、先に言っておきますが、今回の文章、ガキは読まないでください。お願いしておきます。
 で。さて。

 今、あれはギョーカイで一押しということになってるんでしょうか、テレビのコマーシャルなんかでやたらと「ここにいるよ」って唄が流れて来ますな、スポットCMとかで。
 詳しい正体を検索してみると、こんな情報が上がってまいりました。

 >ここにいるよ feat.青山テルマ
 >タイアップ ●TBS系 全国ネット CDTV 9月度 エンディングテーマ
 >アーティスト ●SoulJa 作詞 ●SoulJa 作曲 ●SoulJa

 私ねえ、あの唄がな~んか知らんが虫が好かなくて、聴こえてくるたびに顔をしかめてるんですよ。同意していただけるか見当も付かないが。とにかく冒頭の一節が流れてくるだけでも不愉快で、ほんの一刻のCM放映時間が耐えられない気分。
 あのかっこつけた囁き調の自己陶酔傾向の強い歌唱の内に、いまどきの自己中心方向にやたら性格の悪い若い女たちに、「その調子でどんどん増長しろよ」とそそのかすようなメッセージが溢れかえっているように感じられてならない。実に不愉快である。

 、一旦そんな気分になってしまうと、その歌が逆にますます耳に付くようになってしまう。するとますますその曲が嫌いになって・・・という悪循環。

 せめて、あの唄の何がそんなに気に触るのかと思って、まず歌詞を検索してみると、CMでオンエアされている部分の後に男コトバの詞がズラッと連なっているんですな。どうやら男女のデュエットものらしい。で、後半部分はラップになるんでしょう。これは聴かなくても字面から想像できる。

 なるほど、ソウルっぽいバラードもので男女デュエットで、途中でラップが入りぃのと。海外のモトネタが透けて見えるような話ですな。クリエーチヴなこってす。
 このラップなるもの、中村とうよう氏が「表現としてはとうに腐った」と看破してからもう20年以上は経つと思うけど、腐臭はすでに我が国の若い衆をも覆いつくした。

 この男の側の詞というものがまた、君をどうすりゃ良かったこうすりゃ良かった俺はどうだったこうだったこういう事情があったからあーだこーだとグダグダグダグダとオノレのこまごまとした都合を並べ立てる、まことに見苦しい、潔くない代物で。
 うひゃあ、CMで聞こえてきた部分だけでも不愉快だったのに、あの先、まだ別種の腹立たしい部分が続くのか。さぞかし、「俺はワルだぜ」みたいなポーズ付きでやってくれるんだろうなあ、ラップを。これまた予定調和の世界で。

 この男女両方の歌詞なんか、私がずっと以前から指摘している”日本の今日のポップスの歌詞における男女のありよう”の、まさに典型例と言えましょう。つまり、”男は言い訳に終始し、女は「素敵な素敵なワタシ」への自己陶酔以外、何も見ない”っての。
 このパターンも、私が気が付いてからでも相当な歳月が経過しているんだけど、いつまで続けるつもりだ?まだ飽きないんだろうか。

 と、老ポップスファンの私の神経を逆撫でする部分だけで出来上がっているようなこの曲、それゆえにさぞかし、昨今の青少年の支持を集めているんでしょうなあ。
 そうでなくても、なにしろあれだけのオンエア量、すでに彼らは「自分たちはこの唄を支持すればいいんだな」と、社会を管理する側の指令を、つまりは”空気”を読んでいるに違いないもの。

 と言うわけで。まあ、つまんないね、嫌いな唄について書くのも。と言いながら延々と書いてしまったが。

アンディ・ラウの明けない夜

2008-03-14 01:56:35 | アジア


 1997年7月1日、香港が99年間の”租借期間”を終え、イギリスから中国に”返還”された。
 それに先立つ数年間に発表された香港ポップスの、そのうちに渦巻く行き所のない焦燥感と終末観に不思議な魅力を感じてしまい、こちらもまた、その熱に伝染したかのような具合で聴き入っていた事情は、すでにこの場所に何度か書いた。

 避けるすべもなくやって来る”借り物の土地、借り物の時間”の終焉。彼らの生きる舞台は、特殊な事情を抱えて現実から数センチ浮き上がった華麗な虚飾の世界から、広大にして茫漠たる中華人民共和国の、当たり前の辺土と化す。

 世界の一方の先鋭に立っていた都市・香港の誇り高き市民が、彼らが”愚鈍な田舎者”と軽蔑していた大陸中国の人の波に飲まれ、いつか同化してしまう運命を受け入れざるを得ない、その恐怖。外国に逃げ出せる金持ちは良いだろう。だが、我々は・・・
 その底にある、「恰好付けてはいるが、実は我々は大陸の人々と同じ中国人なのだ」という、香港市民のプライドからは認めたくはない諦念。

 そのような袋小路の苛立ちやら閉塞感やらがない交ぜとなって、残された時間の終わりにどう対処するのが最良の選択なのか見当もつかぬままにただ舞い踊る、暗い熱にうかされて炸裂する香港ポップスの退廃的なダンス・ビートが、オノレの生きる日々に感じていた焦燥感と微妙に共鳴し、私は夢中になって香港ポップスを聴き続けていた。
 勝手な幻想を香港ポップスに見ていただけではないかと言われれば”その通り”と答えるしかないのではあるが。

 そして香港返還の時は拍子抜けするほど静かに訪れ、私は大いなる喪失感を感じながら、その式典のテレビ中継に見入ったのだった。
 さすがに私も、「英国の植民地支配から抜け出た香港市民よ。北京政府の支配にもNO!を叩きつけ、今こそ”自由香港政府”の樹立を!」とか実現性のない”理想”を香港市民に押し付ける無茶など考えてはいなかったが。

 その1年ほど前、香港の”歌う映画スター”であったアンディ・ラウ(劉 徳華)が発表した、”中国人”なるシングル曲は非常に印象深いものだった。

 いつもはオシャレなブランド物のスーツに身を固め、粋なアクションものや華麗な恋愛ものの映画の主役を演じていたアンディ・ラウが、ダサい人民服を着込み、大量の赤旗たなびく万里の長城にロケした大掛かりなプロモーション・ビデオの中で、”我らが数千年の歴史の誇り。世界の人々よ、寄り来て見よ、我らこそ中国人!”なる絵に書いたような民族意識発揚歌を、真顔で歌い上げていたのだ。

 中国人とは、なんと食えない連中なのだと、私は辟易してその曲を迎えたものだった。
 ”返還”が目の前に迫った途端、そのような曲を直立不動で歌い上げて、新しい支配者である北京政府にヨイショしてみせる。そんなあからさまな”処世術”を恥ずることもなく堂々と演じる。なんと身もフタもない。
 この曲の登場あたりから私の香港ポップスへの思い入れもなんとなく腰砕けとなり、いつか私は、あんなに入れ込んでいた香港ポップスを聴くこともなくなっていた。

 さらに時は流れ、香港は口に含まれた飴玉が解けて行くようにゆっくりと中華人民共和国の内部に取り込まれていっているように見える。そして私はあの曲、”中国人”を、まあ、あれはあれでしょうがないんだろうな、くらいな気持ちで見ることが出来るようにもなっている。 
 身もフタもない処世術とは言うが、そもそも中国の近代史そのものが身もフタもなかったのだ。そんな現実を生き残るには、あのようなあからさまな処世術をも平気で演じてみせる精神を持ち合わせねばならなかったのだ、それはそれで仕方がなかったのだ、と。
 まあ、だからといって”中国人”のシングル盤を今から買い求めて聴いてみようとも思わないが。

 海外ニュースを見ていたら、そのアンディ・ラウに関する、下のような、なんとも呆れるような事件の報告がなされていた。まあいつの世も、生きて行くのはナンギなことではある。

 ○今度はアンディを訴える!?父親自殺の最強ストーカー女性「みんな彼のせい」―中国
 
 2008年3月11日、先月突然新聞社を提訴したアンディ・ラウ(劉徳華)の狂信的ファン楊麗娟(ヤン・リージュエン)さん。父親が投身自殺したのは彼のせいだとして、今度はアンディに対し損害賠償を求めて裁判を起こすという。広東省広州市の「新快報」と「金羊網」が報じた。
 昨年3月、アンディ宛の遺書を残し香港の海に身を投げた楊さんの父親。10代の頃からアンディの熱狂的ファンだった娘のために、父親は「追っかけ」資金を捻出しようと自宅を売ったり、臓器を売ろうとしたり必死に努力していた。その娘にアンディが直接会ってくれるよう遺書に書き残していた父親だが、この事件を報道した新聞社を楊さんは先月突然「名誉毀損」で提訴、慰謝料30万元(約450万円)を要求した。
 父の自殺はアンディがマネージャーを通して彼女を「親不孝」と中傷したせいだとして、楊さんは間もなくアンディ・ラウ本人に対し、謝罪と損害賠償を求める裁判を広州市で起こすと話している。ちなみに無職の彼女がこれらの裁判費用をどうやって調達するのか不思議に思う人間も多い。

 ( Record China - 03月12日 18:03)
 http://www.recordchina.co.jp/index.html