Twitterに、「キンシャサは燃えているな」とか「最高だぜ」みたいな人々の感想をまといつかせたYouTubeのURLが上がって来た。なんだなんだと見てみると・・・
要するにラップやらヒップホップやらの音楽が、あの”アフリカン・ポップスの総本山”とまで言われたキンシャサの町でも、もてはやされているというオハナシなのである。そんな音楽がキンシャサの、コンゴのミュージシャンたちによって演じられている画像がいくつも上がっていた。
なんともガックリ脱力させられてしまったのだ。このところあのあたりの音楽にはこちらもゴブサタだったのだが、キンシャサのトレンドはこんなことになっていたんだろうか。一部だけの現象と信じたいのだが・・・
今日の大衆音楽、世界のどちらに参りましてもアメリカの黒人の猿真似、ついにはキンシャサまでも!では、あまりに情けない。
実際、その”ラップ”には、特筆すべきクリエイティブな魂など感じられなかったから、私には。かってカリブ海からアフリカに先祖がえりしたアフロ~キューバン系音楽が新しいアフリカン・ポップを産む事になった故事を想起させる、クリエイティヴな輝きがそこにあるとは到底感じられない。
ただ、アメリカの黒人の真似をして喜んでいるおめでたい青年がいる、それ以外のものではなかった。我が国でも普通にお目にかかれる風景ですな。
私のそんな感想と逆に、そこで紹介されていたキンシャサの音楽シーンを「熱い!」「来ている!」と賞賛する人たちには、彼らが「これこそがもっと正しい世界理解だ、最先端の音楽だ」と信ずるヒップホップ関係がアフリカ中央部にまで及んでいるのが「最高にエキサイティングな状況だ」と評価できる事件のようだった。
ひょっとしてそのような人々にとっての”ワールドミュージック”というのは、というより”世界”そのものが、「アメリカを通してながめたもの」「アメリカを基準にして価値観を定めるもの」となっているのではないか、そんな危惧がモヤモヤと立ち昇ってくるのだ。
私の価値観から言えば。ラップやヒップホップに影響を受けた音楽が世界中でもてはやされ、世界中の裏町がひとしなみにアメリカの都市まがいの風俗に覆われるのを”善し”とする感性と、「世界中がもう一つのアメリカであるべきだ」と考えてアジアやアフリカや中南米に爆弾を落とす感性とは、まさにコインの裏表、同じタマシイのしからしめるところのものなのでは?などと、なにやら寒々しい気分になってしまうのであった。