ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

明けぬ夜、あの頃のジャズを想う

2013-01-26 03:34:42 | ジャズ喫茶マリーナ

 ”Cool Struttin' ”by Sonny Clark

 相変わらず体調悪いわけですが。悔しいなあ。なんとか負けずに音楽日記も更新したいところなんだけど、そもそもCDを取り出してプレイヤーに入れる、なんてことが気が重くてできないんだから、どうにもならない。さらに、そのCDの音楽と今の体調の悪さに苦しむ気分の記憶とが分かち難く結びついてしまい、今後、それを聞くたびに記憶が蘇る、なんてことになったら嫌だから、そういう意味でもあまり積極的に聴く気になれずにいたりする。

 まあともかく、音楽聞けなくっちゃあしょうがないです。結局、音楽ってのは健康な人のものなんだね。それが陽気なものであれ、陰気なものであれ。
 それでも、深夜、一人で耳を傾けるラジオなんかから流れてくる音楽には時に心惹かれたりする。こちらが選んだのではない、あくまでも偶然流れてきたものゆえ、重さを感じずに済む、ということなのかもしれない。
 そう言う意味でともかく一番ありがたいプログラムは、NHKラジオ深夜便で時たまやる”エンジョイ・ジャズ”のコーナーだ。毎回、テナー・サックス名演集とかコール・ポーター作品集とか、なかなかかゆいところに手が届く(?)テーマを流してくれる。

 こちらもさすがにマイナーなミュージシャンに入れこんで偏屈なマニア道を歩き倒していた青春時代はもはや遠く、それら”普通の”テーマを素直に受け入れる気分になっている。というか、ジャズ再入門講座みたいなもので、若い頃粋がって聴かなかった演奏などがスイスイ心の中に入ってきて、逆に新鮮な気分なのだった。
 いつぞや流れたハードバップ特集などまさにそれであって、時代のど真ん中、そのまた先端を突っ走っていた頃のジャズが躍動する姿がくっきりと浮き彫りになっているわけだ。このハードバップという音楽は。その、颯爽と肩で風を切る様子があまりにかっこよくて、何やら嬉しくなってしまった。

 ジャズを聴き始めの頃は、この種のものを「そんなまともなジャズなんか聞いていられるかよなあ」とかうそぶきつつ、コルトレーンやアイラーの地獄の咆哮に入れ込んでいたはずなんだが。
 まあ、それも時代、これも時代、ということなのかね、要するに。



ギリシャ娘と、日差しのニューヨーク

2012-10-14 00:13:06 | ジャズ喫茶マリーナ

 ”Nana Mouskouri In New York”by Nana Mouskouri

 サブ・タイトルに「ギリシャから来た娘が歌う」とあり。このアルバムのレコーディング時の60年代初頭、ムスクーリは何歳だったのだろう。中ジャケの写真を見る限り、「娘」と呼ぶにはずいぶん貫禄があるように見える。
 このアルバムが世に出てから10数年後に、彼女は来日公演を行うが、その際、テレビで見た記者会見での彼女は、この写真よりむしろ若々しかった気さえするが。
 彼女のワールドミュージック上の位置付けは、どのようになっているのだろうか。ワールドミュージックなんて言葉がまだなかった頃からムスクーリの名は聞いてたが、アバみたいな輸出用ではなく、ヨーロッパのドメスティックな立場の歌い手、それも汎ヨーロッパ的な、なんて存在と、なんとなく想像していた。が、そのあまりに健全な「歌のお姉さん」っぽいイメージから、あまり入れ込む対象とは認識しえず。それゆえ、持っている彼女の盤は、ありがちなベストアルバムと、このジャズ曲集だけ。

 この、はるばるニューヨークを訪れて吹き込んだ盤は当時、人気を博していたジュリー・ロンドンなどのおしゃれな女性ジャズ・ボーカリストたち、そのへんの需要を満たす存在、それも一風変わった、なんてあたりを狙って制作されたものではなかろうか。冒頭で触れたサブ・タイトルに、そのようなニュアンスを感じるのだが。「珍しや、ギリシャから来た娘が、ジャズを歌う・・・」
 そんな制作者側の期待を満たすように、華麗なストリングス・オーケストラを従え、ジャズボーカル定番のナンバーを優雅に歌いこなすムスクーリがいる。一曲、ジルベール・ベコーによるシャンソン、「そして今は」が歌われているが、このあたりが「汎ヨーロッパ歌手」としてのムスクーリの存在証明にあたるのだろう。残念ながらその曲は、アルバムでは一番浮いていて、むしろ興をそぐ結果となってしまっているのだが。

 ムスクーリは達者にジャズジンガーを演じている。自身も十分楽しみながら、と見えるのだが、いかにジャジーにフェイクを加えて歌おうと、彼女の持って生まれたキャラクター・イメージである清潔感が、音楽のどこかに地中海の眩しい陽光を差し込ませてしまっていもする。
 内ジャケに、ムスクーリ自身による、このレコーディングに関わる回顧がつずられている。
 第二次世界大戦後の復興期、ギリシャの下町の一角で父親の作ってくれたちっぽけなラジオに向かい、新しい世界の幕開けを告げる音楽、アメリカ発のポピュラー音楽を夢中になって聞いていた少女時代。時は流れ、このアルバムを吹き込むために訪れたニューヨークは、まるで魔法の世界だった。
 写真でしか見たことのなかった摩天楼を仰ぎ見ながら通りを行き、ホットドッグやポップコーンの匂いが、その通りを満たすのを感じ取る。そして、ラジオで聞いていた、あの憧れのミュージシャンたちとの出会い。

 彼女のこの文章には、まだアメリカが、そして世界が若々しく光に溢れていた時代の華やぎが、生々しく脈打っている。まだまだ世界は生まれたばかりで、誰にも光ある明日が待っているように信じられた。そんな気がした時代の空気が。
 今はもう遠くへ行ってしまった惑星の記憶。惑星に差していた暖かな日の光の記憶が、この盤には仄見える。ムスクーリの歌声の向こうに、それはゆったりと揺れている。甘酸っぱい感傷を残し、崩壊していった地球の思い出の残滓が。



メロディを歌う

2012-03-16 04:43:15 | ジャズ喫茶マリーナ

 " The Melody At Night With You "by Keith Jarrett

 キース・ジャレットと言えば、まあ私にとってそんなに興味のあるジャズピアノ弾きでもないんだけど、知人が聞かせてくれたこのアルバムの成立の裏事情に、ふと興味を惹かれ、聴いてみたアルバムだった。
 聞かせてもらったのは、とりあえず、こんな話だ。

 キース・ジャレットの”The Melody at Night, with You ”なるアルバムの成立には、ある特殊な背景がある。
 キースはそのキャリアの中で何年間か、難病のためリタイアしていた時期があったのだが、その病を克服してステージに復帰した際、献身的に介護してくれた奥さんに捧げるために吹き込んだのが、全曲スタンダードのラブソング、というこのアルバムであるとか。
 内容は自宅録音、キース自身のピアノソロのみ。もともと発表の予定もなかったとか。
 つまりこのアルバム、天才肌で鼻高々だった彼が、ハードな現実に鼻をへし折られたのち、最もみじかな人のために、すべての邪念を捨てて音楽に向かい合った一作なのである。

 というのが、知人が語ったこのアルバムの成立由来で、そのどこまでがリアルであるのか知らない。なかなか気に入っている物語であるので、あえて事実確認もしていない。奴がそのようなアルバムなのだ、というのならそれでいいじゃないか。

 実際、そのような物語がいかにも似合いの音楽が、このアルバムには収められている。
 坂の上の雲になど容易にたどり着けると慢心していた若き日は遠く、行けども手の届かぬ場所もあると知った今、日暮れてなお遠き道を眺めて自分の足跡の小ささを知る。
 これまでの営為がすべて無意味だったのかと心折れそうになる彼が、それでもそばにいてくれた人に寄せ、美しいメロディを、ただ美しく紡ぎ出してみせる。心を込めて。ただそれだけでいいんじゃないのか。

 そんな呟きが聞こえるような、このアルバムを、私は愛さずにいられないのだ。



岸井明色の月の下で

2012-01-23 21:47:42 | ジャズ喫茶マリーナ

 ”歌の世の中~岸井明ジャズソングス”

 岸井明の名前は私の場合、片腕欠次郎さん(仮名)の思い出とワンセットとなって意識に登ってくるのだった。
 欠次郎さんは60年年代末、我が街に突然、非常にえぐい形でゲテモノラーメン店を出店し、永遠の午睡の夢にまどろんでいた田舎の温泉街にちょっとしたショックをもたらした。
 そのエグい手描きの煽り文句が貼り出された屋台を、街の大人たちは通りすがりにこわごわ覗き込み、私も、「あんな気持ち悪い店を営業している人物とは、まさに人外境からやって来た魔人のごときもの、おそらくその目で地獄を見たこともある人物に違いない」などと悪夢を育んだものだ。

 月日は流れ。その店はやがて、屋台から近くのビルのテナントに入り、より常識的な姿で新装開店という方向で街の風景に溶け込み、そして店を息子に譲り、隠居生活に入った店の創業者である欠次郎さんと私は、ひょんなことから飲み友達となっていたのだった。

 若き日は浅草でモダンボーイとして鳴らしたという欠次郎さんは酔っ払うと、昔、山下敬二郎のバックバンドにいたという、近所の飲み屋のマスターのギター伴奏で、”あきれたぼういず”のネタを延々と再現してみせるのが常だった。
 誰にも理解されることなくそんな自己完結芸に毎夜興じていた欠次郎さんに、ある夜、エノケンのモノマネで応じてくる者が現れた。そいつがつまり私だったという次第で。その夜以来私は、父親よりも年上の欠次郎さんの虚構の同級生として、見てもいない戦前の日本の芸人たちの思い出話に興じてみせる日々を送る事となったのだった。

 深夜、飲み疲れて家に帰る欠次郎さんの姿を見かけたことがある。もともと、体に非常に目立つ欠損がある欠次郎さんだったが、それ以外にもしばらく前に患った脳卒中の後遺症で半身の不自由な欠次郎さんはなんと、地面を這いながら夜の飲み屋街を移動していたのだった。それまで、飲み屋の席に座っている彼の姿しか、知らなかった私だった。月の光に照らされてその姿は、まるで江戸川乱歩の小説の一場面かと思えた。
 一緒にいた友人は息を呑み、「凄げえや。酒飲みのカガミだな」と呟き、私もとりあえず頷くことしか出来なかった。
 今思えば、その体の欠損の生じた理由、などというものはともかく、彼が青春を燃やした戦前の浅草のありようなど、訊いておくべきものはいくらでもあった。が、欠次郎さんと私は、顔を合わせるともう何度も繰り返している懐メロ芸の応報に終始し、ただ際限もなく酒の海に溺れてしまうのだった。

 そんなある日。欠次郎さんから私は一本のカセットテープを手渡された。家に帰って聞いてみるとそれは、欠次郎さんが秘蔵のSP盤からダビングしてくれた彼の特選ジャズソング集だった。片面に二村定一、片面に岸井明のナンバーが収められていた。
 二村定一は既におなじみだったが、岸井明に関してはそれが初対面だったはずだ。 一聴、完全に魅了された。戦前の日本にこんな洒落たジャズが、と舌を巻くしかない伴奏に乗って、飄々と、まさに”軽妙洒脱”と言う言葉そのものみたいに岸井は歌っていた、”ダイナ”を、”月光価千金”を。まいった。こんな”ジャズ”歌手が戦前の日本にいたのかよ。

 余談が長過ぎた。出たばかりの岸井明の2枚組CDの話をしよう。改めて聴いてみると、やはり素晴らしいジャズ歌手だと思うし、欠次郎さんのセレクトも的を射ていたとも思う。岸井明の残したほぼすべての作品群をこうして聴いてみると、歌唱、バックのサウンド共に、あのテープに入っていたものがやはり、岸井のベスト作品と再確認出来たからだ。CDの解説を読むと、それらの曲は当時映画音楽で売ったPCL所属のジャズバンドのコンサートマスター、谷口又士のアレンジになる5曲が特に卓越とあり、やはりそのあたりが最も岸井がジャズ歌手として高揚していた瞬間と言えるのだろう。
 それ以外のレコーディングももちろん楽しいものなのだが、”その5曲”が素晴らしすぎる、という話だ。ジャズとして天上の調べを奏でている。

 ”舶来ヒットソング”の楽しさに比べ、CDの2枚目に収められている和製ジャズソングは、私にはややきびしかった。というか、そもそも岸井はこのような”コミックソング”で良さを発揮する歌い手ではないのでは、という気がする。基本、彼はコメディアンだったのだから、お笑いソングを歌うのは当たり前の営業だったのだろうが。
 歌手・岸井明の本領は美しいメロディの切ないジャズ小唄を軽く歌い流す、という辺りにあると確信する。
 懸命におどけてみせるのは、歌手としての彼の個性に合っているようで、実は違うのではないか。などと言ってみても今更どうなることでもないが。
 そんな次第で、やはり一枚目の舶来ヒット集を何度も聴いてしまうのだ。それにしても、”ホノルル・ムーン”なんて歌ってくれていたとはなあ。この曲、大好きなんだよ。などと言いつつ。

 欠次郎さんが亡くなって、もう何年になるだろう。彼とアルコールの海の中でジャズソングを歌い交わしていたのは、考えてみればもう20年以上前の話である。今、彼のラーメン店はビルのテナントから姿を消し、それがあった場所には若者向けの居酒屋が店開きしている。
 当時の飲み仲間も四散し、あの頃の思い出は幻か何かとしか思えなくなっている。この場末の観光地を照らす月の光は、今でも変わらねど。




地球の子守唄

2011-10-18 05:04:06 | ジャズ喫茶マリーナ

 ”Eastern Sounds”by Yusef Lateef

 ジャズ界でこの人は「過小評価」の代名詞みたいな言い方をされたり、聴く人ぞ聴くというのか、物好きな一握りの人たちに聴かれているだけなのかと信じていたら、どこぞの”DJ”とかに音源として使われ、それなりにそのシーンでは人気を呼んでいるという話だ。なんかそういうのって、面白くないなあ。
 地球のどこに行っても、小才の利く連中によって秘密の神殿は開かされ、この世界にはもう、人間の手が触れないままに放り出されている神秘境は存在を許されることがないようだ。

 ジャズマンの中で、一番、ワールドミュージック魂を感じさせる人だ。
 なにやら懐かしい、エキゾティックでちょっぴり物悲しい独特のメロディラインを、民族楽器っぽく響くオーボエなんかで描いて行く。白熱のアドリブ合戦とかには、さほど興味は持っていないようだ。
 ただ素朴に。ある意味愚直に、メロディを抱きしめるように奏でて。ついに人の心の一番柔らかい、母親の懐で聴いた優しいメロディが鳴り続けている、湿った暖かい場所に至る。そんなYusef の音楽。

 ジャズ探求の果てに、なぜこの人はこのような境地に至ったのか。不思議だ。イスラム教に改宗後に手に入れたアラブ系の名前も、アフリカ系アメリカ人の中で、一番しっくりと馴染んでいた様に思えるのは、こちらの贔屓目か。




”終わり”の向こうのラブレター

2011-03-27 02:26:46 | ジャズ喫茶マリーナ

 ”Love Letters”by Julie London

 世界はまっしぐらに破滅に向って崩れ落ちて行くようで、しかも自分はそれをどうすることも。どころではない、「せめて自分だけは最悪の不幸を免れることができますように」などとちっぽけな祈りを、信じていもしない神に祈ることぐらいしか方策も思いいけない無力な一人であることを噛み締めるしかない時。

 そんな気分の時、妙にその心象と、ストリングスなんかが入ったゴージャスな造りの、昔々のバラードなんかが合うのに気が付いたのは、あれももう20年近く昔のことになるのか、かの「湾岸戦争」が地上戦に突入したニュースをラジオで聴いていた夜更けのことだった。
 「これはひどいことになったな」などと暗澹たる気分でベッドに腰掛けたままラジオをボッと見つめていたのだが、そのうち、ラジオからナット・キング・コールの、曲名は忘れたがスロー・バラードが流れ出したのだ。豪華なストリングの付いた美しいメロディのその曲は、もたらされたニュースの禍々しさと強力な対称を成し、痛々しいとも言いたい、こちらの感性をヒリヒリ攻め立てる壮絶美を作り出していた、と記憶している。

 そんな次第で、今夜はジュリー・ロンドンの、この盤を聴いている。いつ終息するとも知れなくなって来た原発事故のニュースを目の隅で追いながら。
 最近、気に入っているんだよね、ジュリー・ロンドンが。まさか白人のジャズボーカルの盤なんか集める日が来るとは思わなかったけど。いやあ、この歳になって、その良さが分かるようになってきたのだよ。その軽さがいい。素直にスッと出てくる歌心が快い。変にこねくり回さない歌唱法がいい。聴いているこちらが疲れなくていい。しかも歌い手は美人だ。

 収められているのは、今回は他人のヒットのカバーがメインのようだが、彼女が得意とする優美なメロディのバラードが多く、企画の段階でこれは楽勝と決まりのようなものだ。
 バックは、彼女の人生のパートナーでもあったボビー・トゥループ率いるストリングス・オーケストラが務め、豪奢にしてセクシーな一夜の幻想を奏でる。

 歌詞カードの片隅にジュリー・ロンドンの簡単なプロフィールが書かれていて、それによると彼女は引っ込み思案な性格で、歌手のクセして大勢の人前で歌うのが苦手であったそうな。そんな話を聞いた後では、綺麗な包装紙に包まれた高級装身具のように見えるこの音楽世界は、実は簡単に折れてしまう彼女の心の防御の、その副産物だったのではないか、なんて気もしてくる。
 そういえば彼女、ギター一本とかギターとベースだけとか、不思議にデビュー時からあえて簡素な伴奏をあてがわれ、閉ざされた世界の、やや退廃気味の美を歌って来たのだった。

 などと意味ない考えをもてあそびつつ、贅沢なデザインのロウソクがゆっくりと燃えて行くのを夜が更けるままいつまでも見守る、みたいな気分で。世界の終わりまで、あとどのくらい?



クライ・ミー・ア・リバー

2011-02-23 03:50:47 | ジャズ喫茶マリーナ

 ”Julie is My Name”by Julie London

 根がいい加減に出来ているのだろう、英語による曲名などアバウトな雰囲気訳で納得していて、後にきちんとした訳文を読んで自分がいかにデタラメな意味把握をしていたのかを知り、呆れてしまうことなど良くある私である。
 今回のセクシーなジャズ歌手、ジュリー・ロンドンのデビュー曲”Cry Me A River”のタイトルなども間違った訳を平気で信じ込んでいた一例なのであって。私はこのタイトルの意味を”Willow Weep For Me”みたいなもの、つまり「川よ、私のために泣いておくれ」というような意味なのであろうとかなり長い間信じ込んでいたのであった。

 私がどのような文法上の勘違いをしていたのかは、そちらで勝手に想像してお笑いいただきたいのだが、曲名の本当の意味は、「私のために、川のように泣くがいい」と別れた恋人に毒ずく歌なのだった。
 ”あなたの事を心から慕っていた私。その私を蔑ろに扱って来たあなたは、別かれた今、もう戻らぬ私を想って日々、泣きくれているという。ざまあ見ろ。河の流れのように果てしなく涙を流して泣くが良い”
 というような素敵な復讐罵倒ソング(?)であったのだ、実は。

 シングルカットされ大ヒットすることとなるこの曲を冒頭に置いたデビュー・アルバム、”Julie is My Name”が出たのは1955年のことだった。ジャズっぽいギターとベースだけをバックに、悠揚迫らざる気だるい調子で歌い流して行くジュリーの歌は新人らしからぬ落ち着きとも、実はぶきっちょでこんな風にしか歌えなかったのかも、とも思えたりする。
 そのように構成上音の隙間の多い、にもかかわらずギターのバーニー・ケッセルたちの巧妙なプレイがかもし出す瞑想的雰囲気漂うサウンドは、深い深い夜のイメージを伝えてくる。

 ジュリーのどの歌にも、シンと静まり返った夜のしじまに向かい、研ぎ澄ました意識の走査線を伸ばして行く一人の女の孤独な視線がある。どこか遠く遠くで夜の闇の中、静かに水量を増しながら流れて行く川がある。川のように泣くがいい。あまりにも長い間、そこにそうしてふさぎ込んでいたせいで、自分の望んでいたものが本当にそれであったかどうかも良く分からなくなってしまった彼女がいる。
 たとえばこのアルバムにはよく知られた曲、”恋の気分で”が収められている。この曲は誰が演じてもその意識が、空に浮ぶお月様のところまでポンと飛んでいってしまうような雰囲気をかもし出す曲であるが、ジュリーの歌はものの見事にどこへ飛んで行かない。彼女ひとりの部屋の中にただ淀み、彼女の溜息と一緒に消えて行ってしまう。深い夜への頌歌である。



プレイ・バッハ

2011-01-06 01:44:41 | ジャズ喫茶マリーナ
 ”PLAY BACH”by Jacques Loussier

 この頃、妙にジャック・ルーシェの”プレイ・バッハ”のシリーズが気に入ってしまい、車を運転する時とかつまらない軽作業をする時なんかに頻繁にBGMで流しているのだった。
 ジャック・ルーシェなんて言っても今どきの人は知らないんだろうな。1960年代、ジャズのタッチでバッハの曲を弾きまくり、大いに評判を取ったフランスのジャズ・ピアニストだ。
 まあ、そんな試みは今日の感覚で言えばたいした驚きでもないかも知れないが、当時としては革新的だったのであって、私は友人と共に学校の視聴覚室にどこからか借りてきたルーシェの盤を持ち込み、恐れ入りつつ聴き入ったりしたものだった。

 それから気が遠くなるほどの時は過ぎ。私は、安価盤で手に入れたルーシェの”バッハを弾く”のシリーズを、平気でBGMとして聞き流しているのだった。うん、いろいろ音楽を聴いてきて、あらためて”プレイ・バッハ”を聴いてみると、「ああ、そういうことだったのか」とか見える部分が出て来て、別の楽しみ方が出来る。「ジャズやブルースとバッハの音楽との根の部分における共通点」なんて問題も、自然に顕かになる感じでね。

 何より楽しいのは「ここでバッチリ、バッハをジャズ化してやるぞ。これならどうだ!ここはこう行く!こっちはこうだ、恐れ入ったかっ!おっと、このあたりはあんまり崩さず弾いておくぜ。マトモにバッハを弾くことも出来るってのを、この辺で見せておかないとな」なんて、ルーシェのケレンというか若き日の野望というか(笑)そんなものが透けて見える瞬間。
 とはいえそんなものは発表後、半世紀(!)も経ってしまった今となっては可愛いもの、というか慎ましやかなものとなっていて、時の流れの中でなにやら非常に上品なエンタティメントとして成立してしまっている「ジャズピアニスト、バッハを弾く」の一幕は展開されて行くのでありました。



メンゲルベルグが降る日

2010-02-03 00:24:40 | ジャズ喫茶マリーナ
 ”Who's Bridge”by Misha Mengelberg

 諸事情ありまして、なんか世界の俺に対する扱い、妙に悪くね?と斜めに世の中を見る気分になっている冬の夜である。そんな時に心のギザギザをいくらかでも平静に近付けるために取り出したりする一枚がこれ。
 某音楽雑誌には「落ち込んでいるときには向いていないかも」なんて書かれていたが、何を言っておるのかね。落ち込んでいるときにこれを聴かずしてどうする。
 あのエリック・ドルフィ最後のレコーディングに参加したことで、というかそればかりで話題になってしまう、ヨーロッパ前衛ジャズ界の大物ピアニストのリリースした、異形のスイング・ピアノのアルバムである。

 冒頭、メンゲルベルグは、いかにも前衛派のピアニストらしいフリーフォームで音塊をグシャグシャに叩きつけて来るから、その方向に戦闘態勢を固めるのだが、すぐにベースとドラムスが至極まともな(?)フォービートを刻みながら入ってきて、一見、普通のジャズであるかのような演奏が始まる。が、それはあくまで見せかけであって、気が付くととんでもないところに連れて行かれてしまうのだ。ほの暗い風刺と諧謔となにやら分らん遠い美学の世界に。

 このアルバムでメンゲルベルグは終始、一見普通のスゥインギーなジャズかと見まがう演奏を聞かせる。それは演奏が成立すると同時に演奏者自身によって揶揄され、崩れ去るような代物であるのだが。繰り出されるのが妙に物分りの良い、親しみ易いメロディである分、込められた皮肉は濃厚と言うべきか。
 ブルージーなフレーズなども頻発する。が、それはブルースではない。ポピュラーソングやクラシックなどの、おそらくは演奏者の日常からやってきたのであろう音楽の断片も、それらはみなパロディ、あるいはふと気が向いたから行なってみた単なる引用なのであって、深い意味があるわけではない。

 ピアニストは人間の湿った感情のことごとくを軽く蹴り飛ばして進撃を続け、空中に何ごとか美しげな曲線を描いてみせる。それは芸術なのかもしれないし、ただの茶番かもしれない。どうでもいいことなのだ、それは。
 こいつを聴いていると私は、親しい、皮肉屋の友人と気ままな世間話をしているような気分になれる。彼はこの世のどんな権威にも価値を認めないし、お涙頂戴の感傷にも付き合う気はない。そこにはただ乾ききった哄笑が響くだけだ。
 うん、それでいいんだよ、たとえ世界が破滅したって、こちらの魂が生き残れねば仕方がないと私は勝手に納得し、また退屈な日常へ帰って行くのである。

 このアルバムの試聴は残念ながらYou-tubeでは見つからなかったので、同じメンゲルベルグが、やや近い演奏を聞かせている”NO IDEA”というアルバムにおける演奏を貼っておく。アバウトな処置だが、まあ、ないんだから仕方がない。




ジャズの夜汽車の北帰行

2010-01-30 02:00:24 | ジャズ喫茶マリーナ
 ”Svingin' with Svend”
 by David Grisman Quintet featuring Svend Asmussen

 ドーグ・ミュージックのデヴィッド・グリスマンが、デンマークのベテラン・ジャズ・ヴァイオリニスト、SVEND ASMUSSENを迎えて1986年に行なったセッションの記録。なぜだか知らないけどこの盤、今、入手困難盤らしい。弱ったね、私はグリスマンのアルバムではこれが一番好きなんだけど。

 いかにも北国のミュージシャンらしい、思索的な翳りのある旋律が胸に染みるSVEND ASMUSSENのオリジナル曲や、彼の編曲になるジャズ化された北欧民謡などがまずは聴きモノだ。北欧民謡の合間には親指ピアノのソロまで飛び出す。
 やや薄暗いマイナーキイの旋律の支配下でジャジーにスイングする演奏は、リズミックでありながらも、その芯に冷たく沈み込むものを孕んでいるように聴こえるのは、SVENDが背負って来た北国の哀感がムードマイカーとなっているせいだろうか。

 いや、そもそもそれがこの盤のテーマであるような気がする。人の魂が、遠く広がる北の大地の薄明に託すものは何か?という・・・ほうら、甲斐バンドも歌っているでしょう、「北へ向う夜汽車は俺の中の心のようにすすり泣いてた♪」と。
 その2曲に続いて収められている”スイングしなけりゃ意味ないね”や”マイナー・スイング”といった”ありがちなジャズナンバー”もまた、やや違った色合いを帯びてここには収められているように感じられる。本来の曲調を離れ、ある種、ロシア民謡などに通ずるような内省的な響きをもった、ウエットな佇まいで演じられているような。

 この、夜の底を通り抜けるようなセンチメンタルな旅の感触が快く懐かしくて、なんか心の疲れた気分の時、このアルバムと酒をお供に一夜を過ごしてしまうのだった。
 国境の長いトンネルを抜けると北欧だった。夜の底がズージャになった。このメンツでスタン・ゲッツの”懐かしのストックホルム”とかやって欲しかったけどなあ。

 このアルバムの試聴は残念ながらYou-tubeには見つからなかったので、雰囲気的に似ていないでもないグリスマンとジェリー・ガルシャとの”ロシアン・ララバイ”などを貼っておきます。