ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

「だとすれば」とか安易に言うなよ、おい。

2012-03-29 04:41:40 | 音楽論など

 ツイッターを覗いていたら、どこぞのミュージシャンが言ったセリフ、それがお気に召したようで、その場に”名言”扱いで引用してみせた人物がいた。こんなセリフだ。

 「ファンクやR&Bがジャズの子供だとすれば、ヒップホップはジャズの孫だと思う」

 ふん。これが「大したものだ」と引用者には思えるわけだね。
 だから当方は、それに対する感想を、下のようにつぶやき返してやったんだ。

 「ジャズの子供はジャズしかいないし、ファンクやR&Bにしたって芸術ぶりっこのジャズを親と認めるようじゃ腑抜けと言うしかないだろう。雑なことを言うなよな」

 黒人大衆文化のその時その時の最先端に顔を出した音楽形態。そいつを登場順に並べて、親だの子供だのと役割割り振って、何か言った気になってる。そんなもの、わざわざ”名言”としてネットに上げてやる価値があるんだろうか。
 それがどんな理由で親と信じられるのか、子と認知し得るのか。そんな評価すべき批評の視点は、そこには見当たらないのだが。



鳥は今、どこを飛ぶか

2012-03-28 03:37:08 | フリーフォーク女子部

 ”Horizon”by Beautiful Huming Bird

 ハンバート・ハンバートという男女デュオのフォークっぽいグループがあり、そこの女性ボーカルの声がきれいに澄んでいて好きなのだが、相棒の男の方がやたらコーラス入れてきたり、あろうことかリードボーカルまでとったりするんで迷惑しているとは、何度も言ってきた。
 実際、それほど素晴らしい歌い手とも思えないのに、彼はなんであそこまででしゃばって歌いたがるのだろう。相棒の彼女の歌声があんなに良いのだから、そのまま一人で歌わせておけばいいではないか。それを何でいちいちお前が出てくる。あいつ、オノレの間抜けな声がどれほど邪魔くさいか。まあ、きりがないんでやめておくが。

 同じような個性のグループと認識され、同じ文脈で語られることの多いビューティフル・ハミングバードという男女デュオがおり、だがこちらは男性メンバーが歌うことに興味がないとみえ、楽器演奏に徹していてくれるので安心である。彼は横で静かにギターを弾いているだけなので、こちらは安心して女性ボーカルの小池女史の歌を楽しめるのである。
 ゆえに私は、ハンバート・ハンバートのアルバムは一枚も持っていないが、ビューティフルハミングバードのアルバムはすべて購入済みである。まあ、当たり前の話だね。

 ビューティフル・ハミングバードの音楽を初めて聴いたのは、もう大分前、某建築関係の会社のCMソングを歌っているのをテレビで聴いたのだった。
 最初は、外人の女性が歌っているのかと思った。小池女史は、いわゆるジョニ・ミッチェルなどの系統に連なる、かなり癖の強い声の出し方なのである。だから私はてっきり、ジョニと同世代のアメリカの、こちらはそれほど有名ではないフォーク歌手が来日ついでにバイト気分で吹き込んでいったものなのかな、などと。
 そんな歌手が今だ、生き残っているのだなあ、などと、ウッドストックをはるかに離れた酔っ払いのおっさんDaysを送っていた私は、なにやら過ぎ去りし青春の日々を想い、甘酸っぱい気分になりつつ聴いていたりしたのだった。

 その後、ビューティフル・ハミングバードが日本のグループと知り、興味を惹かれてCDを買い始める。声の出し方、及びそれ以外の小池女史におけるジョニ・ミッチェルの影響とか、そんなことほじくり出しても退屈なんでやらないが、ビューティフル・ハミングバードの音楽の中に息付いている、遠い昔の、今は無くしてしまった絵本の世界の記憶など想起させる、すべてのものが時の止まった中でシンと静まり返っている風景の感触など、なんともイマジネイティヴで、ステキに思う。
 季節で言えば早春だったりするのか。なんとなく肌寒い空気で満たされている感じだ。草の匂いや水の気配や。
 曲で言えば、”カレン”て歌に初めて出会ったときは結構興奮させられたものだ。あの辺から「一生ついて行きます」体制となる。

 そんな訳で、これは先日出たビューティフル・ハミングバード(話題に持ち出すには、長い。このグループ名のいい感じの省略形は誰か思いついていないのか?)の新録アルバムである。サウンドは、よりバンドっぽい志向となってきたようだ。
 歌われている世界は、より濃密に、淡水画の世界から油絵的な方向に向かっているようだ。曲のバリエーションも増え、よりパワフルになり深くなり、これから聴き込んで行くのが楽しみで仕方ない。
 いいよねえ、女性のソロ・ボーカルは(え、しつこい?うん、しつこいんだよ、俺は)




CM獄舎の冬

2012-03-27 02:48:27 | いわゆる日記

 「君のやる気スイッチ、一体どこにあるんだろう~♪」ってCMが目に付く季節がやってきた。
 私には、あの上半身裸のチューボーが奇声を挙げて街を走る映像、フラッシュバック現象を起こしてパニック状態に陥っている覚醒剤常用者の姿にしか見えないんだが、なにがいいんだろうね?ご家庭の主婦には、なぜか好評のようだ。
 グロテスクなり、日常。

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 「大和ネクスト銀行」のCMを見るたび思うんだが、Dock of the Bayって曲は、あんなに大声張り上げて歌うようなものなのかね?オーティスのオリジナルを聴いてご覧。あるいは、歌詞内容を熟読してごらん。歌の巧拙ではなく、解釈そのものの間違いとわかるはずだ。
 ともかくあのCMにおける歌唱、ひどく無神経なものを感じて不愉快で仕方ない。

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 一月の半ばだったか、テレビを見ていたら、某住宅会社のCMに、ちょっと気に障る表現があったのだ。
 画面には、見ようによってはおしゃれな四角の建物が捉えられ、細野晴臣によるナレーションは、こう語ったのだ。

 「やはり都会に住もうと思う。広さはないが豊かさがある」

 悪かったなあ、と、私はムッとしたのだった。だってそうでしょう。そうか、田舎には広さはあるが豊かさはないのか。悪かったなあ。田舎は貧相で。

 細野演ずる語り手は志を語っているのである。
 「それでも都会には田舎にはない豊かな文化(とスポンサー側は言いたいのだろう、細野が起用されるくらいだから)がある。だから自分は、居住面積は物足りないが、それでも都会に住むだろう」
 そんな志を。

 言ってくれるじゃないか。と、とりあえず田舎在住者として私は、ツイッターに細野相手にツッコミを入れておいた。
 それから何日もたたないある日。そのCMの細野のナレーションが微妙に変わった。

 「狭さの中にも、豊かさは作れる」

 と、なんとか差別的表現とならないような”配慮”のなされた表現にしたようだ。 いや、いくらなんでも、これは私のツイッターが原因ではないだろう。私はそれほど大物ではない。けど、似たような非難があちこちから寄せられたのではないだろうか、あのコピーに対して。
 で、その関係は気にするスポンサー・サイドとしても黙っておられずコピーを差し替えさせた。そんな次第ではなかったかと想像する。

 まあ、それでお茶を濁せると信じるなら、それでもいいさ。けど、一人の田舎暮し者として、私は忘れない。そして語り継ごうと思う。
 あのCMコピーのオリジナルが、つまりは都会人のうっかり漏らしてしまった本音が、「都会には広さはないが、田舎にはない豊かさがある」であったことを。

ソウル&パクチー、960ポンド

2012-03-26 03:42:52 | アジア

 ”อยากอกหักบ้างไรบ้าง ”by Ten Nararak

 テン・ナラーラック。タイの大手グラミーの推す新人女性R&Bシンガーなんだそうで。どうりで黒を基調としたクールなデザインのジャケもかっこいいCD仕様となっております。で、ドシッと腰の座った渋いバンドをバックに、結構な貫禄と迫力の”黒っぽい”ナンバーを歌いまくっている。

 でも、よく見りゃ、バンコクの陽の当たる表通りによく似合う、人の良さそうなコロコロ太った娘が、スタイリストの指示通りに精一杯かっこつけてる様子も透けて見えてくる気がする
 もう今後は、どこやらの国発の”世界標準”とやらが流入する地域にはどこでも、このようなR&B娘が生まれでて、その土地の夜を吹き抜ける風とイカした与太者の噂話をブルージーなギターとオルガンの響きを従えて粋に歌いまくることになるのでしょう。

 今回のナラーラック嬢が好ましいのは、その種の歌い手が一様に持っている、なんかベトベトした感傷があまり感じられない、ということ。なんかいかにも南国の娘って感じの風通しの良さを感じる歌声だ。
 それに彼女のコブシ回しって、黒人ぽさへのただ憧れだけじゃなくて、タイ歌謡の延長線上にある、アジアの人肌のぬくもりが基調になっているようでね。その辺も憎めないなあって思えるんですよ。




朝の雨降る頃

2012-03-24 04:58:06 | 北アメリカ

 ”Early Morning Rain ”by Gordon Lightfoot

 雨が降り続いている。昨日の朝からシトシト降り続けている雨だ。こんな風に止まない雨に出会うと、前にも書いたけど、子供の頃読んだSF小説に出てきた”金星”の描写を思い出してしまうのだ。
 昔のSF作家の科学知識では、いつも雲に覆われている金星は一年中、雨の降り続く水の星、ということになるようだった。金星はよく、そんな星として描かれていた。
 そんなものばかり読んできた当方は、長雨の日々はふと、「ああ、金星のビーナス・ヴァーグにいた頃を思い出すな」とか、訳の分からないことをつぶやいて、暗い空を見上げるのだった。

 なんかこのごろ、ブログの更新のペースがまるで低調じゃないかとお嘆きの貴兄へ。いやまったくそのとおりでご期待に添えず申し訳ない。このところ、絶えなんとして延々と続く、この終わりなき冬のおかげで体調もパッとせず、また、原発事故からパソコンの不調、仕事上のゴタゴタまで、公私ともにろくなことが起こらず、気持ちも落ち込むばかりで、文章をつずる気力というものがだんだん萎えてきているのだった。こんなの、ブログを始めてからなかったことだけどねえ。トシですかねえ。
 そういや、オヤジの死んだ年齢にだんだん近付いてくるよなあ。やんなっちゃうんだけど、短命の家系みたいでねえ。爺さんの死んだ歳は、もうとっくに追い越しちゃったもの、俺。

 でもまあ、支離滅裂でも文章を書くだけなら書けるんで、もうヤケだ、何か書いておこうとキイを叩き出した次第。気に入って覗いてるブログが、たとえ内容が悪くても何か書いてあれば、何もないよりは嬉しいものなあ、自分が読み手に回った場合を思えば。

 とにかくこのクソ寒さに抵抗する意味で、あえて寒い国の音楽とか書いているが、カナダの音楽についても書いておきたい気分がある。
 まあ、ブルース・コバーンの2ndだったか、あの雪まみれのジャケを掲げ、”One Day I Walk”でも貼り付けたら、なんとかカッコが付くかもしれないが、実は当方、あのへんの連中に最初に注目がされ出した時期には、すでにシンガー・ソングライター連中の音楽に美門を持ち出していたのであって、さほどの思い入れはなかったりする。

 それより先のこと、自分がまだギンギンのロック小僧だった高校時代、フォーク好きに友人から聞かされた、いくつかのカナディアン・フォークに思い入れがある。まだアメリカだカナダだ、なんて言っても区別もついてはいなかったが、それなりに。なにやら独特の陰りのあるメロディだな、なんてあたりには気がつけた。
 これも何度かした話だけど、当方が通った高校は学生運動とフォークソングが盛んなところだった。昼休みなんか、講堂に全校生徒が集まって反戦フォーク集会やってたからね。そこでは少数派、というか孤立無援のロック好き、正義の味方大嫌い派だったこちらとしてはまるで馴染めず、アホ扱いされつつ孤立していた。
 そんな、さっぱり気の合わない学友諸君のお気に入りの歌の中に見つけた、繊細な陰りのある、好きになれそうな歌。それが当方にとって”カナダの歌”との初めての出会いだった。

 最初に惚れたのは夫婦のフォーク・デュオ、イアン&シルビアが歌った”風は激しく”なる、カナダの季節労務者を歌った歌だった。過酷な北の自然の中で一人ぼっちで仕事を求めてさすらう歌の主人公の姿に、思い入れるものがあった。が、この歌についても、もう何度も書いている。
 シンガー・ソングライター、ゴードン・ライトフットの”朝の雨”なども心に残った。好きな歌だった。
 冷たい雨の降る朝に、北の寂れた空港でひとり佇む尾羽うち枯らした男。太陽の輝く彼の故郷に飛んでゆくらしい飛行機をなすすべもなく見守る。そこには帰れないなんらかの事情があるらしく彼は、ただ佇み、飛行機に見入るのみだ。
 彼の姿が孕む孤独、彷徨、失われた時間、などなどの痛みに、それなりに共鳴できた気がした。

 高校を卒業し東京に出てから、カナダのフォーク・シーンについての情報も得、若干のレコードも手に入れることができた。でも、床に塗ったワックスの匂いのする薄暗い放課後の教室で、あの時、数少ない味方になってくれた友人が教えてくれた、その時の数曲のカナディアン・フォーク以上のものには出会えなかった。




霧の中、アルメニアは

2012-03-22 06:01:02 | ヨーロッパ

 ”3”by Deleyaman

 トルコ育ちのアルメニア系アメリカ人によりフランスはパリで結成された、フランス系アルメニア人やスエーデン人などもメンバーに含む国際色豊かな、というかなんだかややこしいバンドの3rdアルバム、2006年作。

 メンバーは、ヴォーカル担当、アルメニアの民俗木管楽器デュデュック担当、そして、ギターやキーボードやパーカッションなど、やたらいろいろな楽器を手がける人、の3人編成。とはいえ、この三人目の人が他楽器多重録音を行なっているので、サウンドにはプログレっぽい厚みがある。
 一聴、当方がそれなりに聴いてきたアルメニアの現地ポップスとは、ほぼ関係のない世界だ。分厚いコーラスとオルガンの響きが醸し出すのは、厳粛な教会音楽っぽい雰囲気。粛々と奏でられるそれは、すべてを分厚い霧が包み隠した深い森を物憂げに流れ下る。

 それにしても、なんと物悲しい音楽なのだろう。分厚い霧は森の木々を覆い、ゆったりと渦巻きながら音楽は、遠い遠い時の向こうで忘れ去られていた人々の悲劇を語り始める。デュデュックのくぐもった音が殷々と渡って行く。
 その悲しみの響きの深さは、まるですでにアルメニアという国自体がこの世から滅び去ったかのようなイメージを抱かせるのだった。
 それは、北にロシア、南にイスラム諸国を控え、いかにも難しそうな場所に存在するアルメニアだもの、その歴史は気楽なものである訳はないが、すくなくとも滅亡はしていないはずだ。アルメニアという国は。

 それはもしかしたら、その生まれゆえ、当たり前のように国境線を跨ぎ越しつつ生きて来たこのバンドのリーダーがふと溜息のように漏らした、浮き草暮らしの感傷のエコーなのかも知れず。と思いつけば、いかにもそのようにも見え。
 いやいやそれとも。小国アルメニアというカナリアが、弱いもの特有の鋭い嗅覚で感知してみせた、来るべき運命の中の人類に寄せた慟哭なのかも知れず。
 ともあれ。悲しみ色に染め上げられたアルメニアの幻想は、淡い光芒を放ちつつ、人の意識の底へ、いつの間にか忍び入り消えて行く。



あの二人、別れてくれないかなあ。

2012-03-19 03:16:43 | いわゆる日記

 ”MIWAのオールナイト・ニッポン”を聴いている、なう。というか、だいぶ前に終わってしまったが。もう次の番組、”R”が始まっている。
 私はこの子の、妙に甲高くて硬質な声は異様な感じでちょっと好きなんだが、CDにおけるバックのサウンドがあまりにも無神経にやかましいタイプのロックで、ちょっと買う気にはなれないね。惜しいなあ。

 惜しいと言えば、ハンバート・ハンバートという男女二人組のグループがいるけど、あそこはまだ男女デュオでやっているのかしら?あれも惜しいなあ。
 あそこの女性ボーカルの人の歌、私は大好きなんですがね(知らない人に説明すれば、”アセロラ”のCMソングがあるでしょう、あれを歌っているのが、その人)なのに、なにかというと、男性メンバーが間抜けな声でコーラス入れてきたりするのね。なんだよ、あれは。清楚な女性ボーカルが描き出した世界が、無神経な男のマヌケ声ですべては台無しだ。
 だから私、あのグループのCDは買ったことないんだけど。女の人はファンなんだけどねえ。あれは惜しい。

 デュオの片方がいらない、といえば、これはもう古い話なんだけど、彼らのファンの間では「そんなこと、絶対言ってはいかん」くらいのタブー、もうそんな発想、するだけでも獄門、くらいの話らしいんで、ついでだ、あえて書いてしまうけどさ。
 イギリスのフォーク=トラッド界の大ベテラン、リチャード・トンプソンが昔、当時の奥さんだったリンダとデュオで活動してたでしょ、リチャード&リンダ・トンプソンなんてバンド名で、ずいぶん長いこと、活動してた。
 この場合はさっきと逆で、私、この奥さんのリンダの声が好きじゃなくてねえ。なんかやたら力強くて、音色も明るすぎる。アメリカのカントリー・ルーツの歌い手みたいな日向臭さがある。

 英国の歴史の重苦しい各場面を背負ったみたいなリチャードのつくる暗い美学に律せられた音楽に、あの声はないでしょう。ヴァシュティ・バニヤン、とまではいうまい、サンディ・デニーであるとかシャーリー・コリンズであるとか、英国伝統の滅びに向かって吸い込まれて行くようよな影のあるかすれ声の美学、これでしょう、リチャードのペンになる曲を歌うのなら。

 だから、早く別れればいいんだがなあ、あの二人、と遠く海を隔てた日本で祈ってたんだけどね。で、その祈りは通じて、二人はめでたく離婚と相成ったんだが、あまリにも長い歳月が過ぎ去っていた。結局、リチャードのクリエイターとしての一番輝いていた時代は、彼の作品を歌うにはあまりむいていない女性歌手に作品を提供することに費やされた。
 ああ、もったいない。今からでもいい、リチャードよ、リンダとのデュオ時代の曲を、彼自身の歌声で歌い直す作業にかかってくれないかなあ。

 さらに、ジョン・レノンとオノ・ヨーコ・・・は、いまさら言うまでもないか。



お姉さんのカヤグム

2012-03-19 03:12:04 | アジア

 ”2集 ”by Kayarang

 韓国のユニークな女性デュオ、”カヤラン”の新作であります。
 演ずるはトロット、つまり韓国演歌なのだけれど、それを彼女らは韓国の伝統的民族楽器、”カヤグム”なる、琴を弾きながら歌う。ここがユニークたる所以で、ミスマッチというのか、なんとも不思議な効果を出している。

 彼女らのデビュー作はこの場でも取り上げたと思うんだけど、その時、私は完全に一発限りで終わりの”企画モノ”と感じていた。なにやら典雅な韓国琴の響きと、打ち込みのリズムも慌ただしい、えげつなさが売りのトロット演歌の世界とは、いかにも似合わない。物珍しさで注目を得るための、無理やりの一発限りの企画なんだろうな、と予想された。
 だからこうして昨年出たばかりの2ndアルバムを手にし、ずいぶん驚いたものだった。うわ、まだやってたのか。

 どうやら演歌の世界に定住してしまうらしい彼女らなのだけれど、そもそもはやはり”琴演奏家”なのであって、歌の方は他の同業者たち、パンソリとかをルーツに持つどすこいパワフルなトロット演歌女子たちとはやはり一味違い、かなり泥臭い演歌を歌うにあたっても、隣のウチの歌好きなお姉さん的な淡いコーラスのままだったりする。
 そこがなにやらいたいけで良いのですねえ。今回のジャケ写真など見るにつけても、ジャケで身に付けているアイドル丸出しのフリフリのミニの衣装など、実に”萌え”な感じを出しておりまして、そういう方向で再評価したくなってくるな。
 とか思いつつ、ミニ写真集のような作りの歌詞カードを繰って行きますと・・・ありゃりゃ、写っている角度によっては相当な貫禄を感じさせるものもあり、うわ、彼女たちっていったい何歳なんだ?どうやら姉妹らしいんだけど。なんて落とし穴もまた、大衆音楽の真実でありますなあ。

 今回の作は、演歌サイド、民謡サイド、アイドルサイド、などなど数曲ずつに分けられた、彼女らの多彩な持ち味を生かした作りになっており、そういう面でも楽しめるカラフルな作品。
 まあ、民謡サイドとはいっても、古式ゆかしいカヤグムの爪弾きで、ロシアの流行歌、”百万本のバラ”なんかを演奏してみせる気の置けなさであり、そこはやっぱり徹頭徹尾大衆音楽のトロット演歌界であります。



歌え、シスター!笑え、シスター!

2012-03-18 02:47:06 | アフリカ

 ”DANGER”by LIJADU SISTERS

 このところ、思いもよらなかった時と所からの良作が続くアフロ・ポップスマイナー盤発掘シーンなのだが、ここまで素敵な過去の遺産に次々に出会ってしまうと、アフリカのポップスは進化しているんだろうか?とかヤバいことまで考えてしまうのだが。だって、このやつぎばやの過去からの豊作に比べると、アフリカものの新作って、結構微妙じゃないのか?言うたらいかんのか、そんなこと。

 これもまた、そんな一枚。1970年代のナイジェリアで活躍した女性デュオの残した録音発掘である。
 なんかアフリカ版のパフィとか顰蹙覚悟で言ってみたくなる気ままで生命力溢れたコーラスが嬉しい。不揃いのようでビッタシ合っている。肩の凝りが取れるような遊びっぽさと緩さを感じさせつつ、アフリカ女性のタフさが、その背骨にはきっちりと息付いているのだ。
 この二人は、どのような立場の女性だったのだろうか。この時代のアフリカで、ここまで西欧文明の影響も受けつつ、アフリカ人女性の心の声を、こんなにのびのびと歌えるなんて、誰にでも出来たことであろうとは、まあ、思えないからだ。

 曲の一つ一つも魅力的で、アフロ・ビートやハイライフなどなど、アフリカン・ポップスの伝統の流れからヒョイと拾い出してきた感じの、何気ないけど実に現代アフリカな香気漂うメロディラインなので感心させられる。
 バックのコンパクト版アフロ・ビート、みたいなしなやかなファンク・サウンドもたまらないぞ。これ、ニューオリンズのミーターズとかと比べたらいかんのですか?
 まず飛び出してくるタイトルナンバーにおける、ジャズィーにファンキーに地を這い回り駆け回るオルガンがいい、そしてサイケなソロを延々と繰り広げるファズのかかったギターが、実にかっこいいのだ。
 
 ともかく彼女らの録音、もっと残っているはずなんで、なんとかそれらもCD化して欲しいものです。というか、LIJADU SISTERS の笑顔、というものが私は好きなんでね、スポットライトを当ててもらいたいものだ、今からでも。こんな笑い方をするアフリカ女性には、あんまりであったことがなかったものなあ。



メロディを歌う

2012-03-16 04:43:15 | ジャズ喫茶マリーナ

 " The Melody At Night With You "by Keith Jarrett

 キース・ジャレットと言えば、まあ私にとってそんなに興味のあるジャズピアノ弾きでもないんだけど、知人が聞かせてくれたこのアルバムの成立の裏事情に、ふと興味を惹かれ、聴いてみたアルバムだった。
 聞かせてもらったのは、とりあえず、こんな話だ。

 キース・ジャレットの”The Melody at Night, with You ”なるアルバムの成立には、ある特殊な背景がある。
 キースはそのキャリアの中で何年間か、難病のためリタイアしていた時期があったのだが、その病を克服してステージに復帰した際、献身的に介護してくれた奥さんに捧げるために吹き込んだのが、全曲スタンダードのラブソング、というこのアルバムであるとか。
 内容は自宅録音、キース自身のピアノソロのみ。もともと発表の予定もなかったとか。
 つまりこのアルバム、天才肌で鼻高々だった彼が、ハードな現実に鼻をへし折られたのち、最もみじかな人のために、すべての邪念を捨てて音楽に向かい合った一作なのである。

 というのが、知人が語ったこのアルバムの成立由来で、そのどこまでがリアルであるのか知らない。なかなか気に入っている物語であるので、あえて事実確認もしていない。奴がそのようなアルバムなのだ、というのならそれでいいじゃないか。

 実際、そのような物語がいかにも似合いの音楽が、このアルバムには収められている。
 坂の上の雲になど容易にたどり着けると慢心していた若き日は遠く、行けども手の届かぬ場所もあると知った今、日暮れてなお遠き道を眺めて自分の足跡の小ささを知る。
 これまでの営為がすべて無意味だったのかと心折れそうになる彼が、それでもそばにいてくれた人に寄せ、美しいメロディを、ただ美しく紡ぎ出してみせる。心を込めて。ただそれだけでいいんじゃないのか。

 そんな呟きが聞こえるような、このアルバムを、私は愛さずにいられないのだ。