ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

フラジャイル室内楽団のための組曲

2012-10-17 01:00:46 | アンビエント、その他

 ”Suite for Fragile Chamber Orchestra”by Yuko Ikoma

 アコーディオンや手廻しオルゴールの奏者として、あるいは作曲家としてユニークな活動をしている生駒祐子氏が、これも独自の世界を展開する造形作家、原田和明氏の手になる創作楽器に魅せられ、それら楽器のために書き下ろした不可思議な組曲である。

 それら創作楽器は、どうやら作者の幻想を形にした、この世に存在しない楽器群のようだ。いや、存在したところで大した役には立ちそうにない、しかし、その姿を見ていると、なんだかたまらなく嬉しくなってしまうような。我々が今住んでいるのとは別の時間軸からやって来たみたいな、道化としての道具たち。
 古時計やオモチャの鉄琴や空き缶などを組み合わせて作られたそれらは、多くは無駄に複雑なハンドル操作などが仕組まれており、その滑稽な大仰さは、昔見た、「切手を舐めるためだけに使われる巨大で複雑な機械」などというユーモラスなオブジェを思い出させる。

 もともとは、それら楽器が物体として存在するだけでも可笑しい、という芸術上の愉悦を求めて作られたものなのだろう。にもかかわらず、それを演奏し、合奏させ、組曲さえ奏でさせてしまおうと企んだ生駒氏の試みは、ジョークの2段重ねとも言うべき快挙で、虚数の王国の名においておおいに賞賛されるべきであろう。

 それら、ありえないはずの楽器たちがたどたどしく奏でる音楽は、限られた語彙しか与えられていないロボットたちの舌足らずな会話など想像させる。基本的にはトボけたおかしさに溢れた演奏の、その底の方にそこはかとなく漂う物悲しさは、一体どこから来るのだろう。機械たちが探り当てた、人間の営為の根源から、か?
 なんとも、儚い愛らしさに満ち溢れた音楽である。




夢魔の捜査線

2012-10-01 02:29:23 | アンビエント、その他

"Control" by Conrad Schnitzler

 日曜日の昼下がり、台風を待ちながらコンラッド・シュニッツラーを聴いていたんだ。家の入口を開け放ち、吹き荒れる風をわざと部屋の中に入れ込み、何をしていたかというとルームランナーで走っていたのであって、被害を受けた方々、不真面目でごめんなさい。
 いや、思ったほど雨は降っていなかったし、吹き込む風がむしろ気持ちよかったんでね。
 以前書いたとおり、長雨に降り込まれた日など、無生に電子音楽系の音が聞きたくなる。どういう心理からくるものか分からないが。いわんや、台風の日においておや、ということで。

 タンジェリン・ドリームやクラスターといったドイツのエレクトリック・ミュージックの有名どころの誕生に立会い、その後も独自の電子音楽表現の道を歩いたコンラッド。この人も、もう”故”の一字をつけなくちゃならないんだった。
 そんな彼の、これは1981年にアメリカの実験音楽のレーベルから発表されたアルバムのCD化作品。それにしてもオリジナル版LPはたったの1500枚限定だったというから偏屈もいいところだ。
 マイナーレーベルからマニア向けの作品を、こっそりちょっとだけ出す。そんなことばかりをしているから、コンラッドのディスコグラフィは希少盤だらけになる。というか、「そんな盤が出ていたのか」みたいなものばかりになってしまう。

 そんな世捨て人の仙人みたいな活動をしていた割には、彼の作品には結構お茶目な要素が含まれており、そこが素敵だったと私は思っている。難解な作品を生み出してきた厳格な芸術家の心の真ん中に、いたずら好きな3歳児みたいなタマシイが住んでいて、時にそいつが暴れだす、みたいな瞬間が。
 このアルバムは、なぜかキーボードを使わずに創作された一枚で、いわゆる音楽的な表現方法を排し、コンピューターの操作による音刺激のみが収められた、彼の作品中でも難物といえるのかも知れない。

 パチパチと夜空に飛び散る花火のように点滅し、あるいは夜の闇に果てしなく伸ばされる捜査線のように触手を伸ばし、コンピューター越しのコンラッドの想念を直接にこちらの脳裏に焼き付けるように音像たちは踊りまわり、また闇の中に消えて行くのだった。



はなのうてなに

2012-08-06 03:10:56 | アンビエント、その他

 ”Ambessence piano & drones”by Bruno Sanfilippo & Mathias Grassow

 あれは私がまだほんのガキの頃。親に連れられて行った、多分、親戚の法事の席ではなかったかと思う。ガキのことであるからもちろん、そのようなものには3秒で飽きて、寺のあちこちを探検して回った。

 裏部屋の仏具などを置いてある部屋に入ると、壁に1張りの仏画が張り出してあり、そこには「仏教の立場から言えば、人が死んで召される天国というのは、まあだいたいこのような場所だ」みたいな絵があった。つまり、淡いタッチで空の上の雲のあいだに光に包まれた人影がある、みたいな。

 その絵に添えられていた文章の末尾の一言がなぜか印象に残った。「はなのうてなに むらさきのくも」というのだが。何となくその文章だけのちのちまで覚えていて、なるほどつまり天国というのは鼻のあたりに紫色の雲がたなびいているところなのだな、と思ってみたりするのだが、特にそれで何ごとかご利益がある気配もなし。そりゃそうだね。

 今回の盤は、アルゼンチン出身で現在はスペインに本拠を置いて活動しているアンビエント・ミュージックの達人、 Bruno Sanfilippo の2008年度作品。ドイツの同じくアンビエント・ミュージック作家である Mathias Grassowとの共演で、まさに「はなのうてなに むらさきのくも」状態のアルバムをモノにした。

  Mathias Grassowの奏でるシンセが悠然と、天界に浮かぶ雲の流れみたいな音群をたなびかせ、その狭間にSanfilippo はピアノで、ポツリポツリと誰に当てるでもない呟きみたいなフレーズを置いて行く。
 リズムは刻まれずメロディは流れない。歌うべき歌はすでになく、時の流れさえ、遠いどこかに置き忘れられている。静まり返った空間だけがそこにあり、音はただ、ひと時たゆたい、そして消えてゆく。

 いやあ、暑いっスねえ。日本の夏って、こんなに暑かったでしたっけ?もうすっかり、何をする気もなしで、こんな音楽ばかり聴きつつ、ただひたすらダレダレの日々をただ送るのみ・・・



ベルリンの明けない夜

2012-04-23 05:09:40 | アンビエント、その他

 ”No Sudden Movements”by Gaiser presents ; Void

 このところ、メリハリもなくダラダラと降り続ける雨ばかりの日々を送っている気がする。冬が終わり春がやって来た気配もなく。どうやら季節は冬の後の春を廃して梅雨に直結するつもりでいるのではないか。そんな気がする。冬、終わらぬまま梅雨、その後、突然の猛暑の日々。そんな嫌がらせのもてなしが用意されている今年の風向気配である。
 当方、毎度の癖で、しのつく雨の音を聞いているとテクノやシンセがメインのプログレなど、電子音楽を聴き込みたくなるヘキがある。どういう仕組みか知らないが。
 という訳で、ドイツはベルリンの街角より、のエレクトリック・ミュージック。

 素っ気ない紺色の紙ジャケの中にCDは放り込まれ、ジャケを開けてみても、”fng”とか”frz”とか”snw”とか、意味を伝える気が初めからないような理解不能の収録曲名が小さな字で並んでいるばかりだ。むしろジャケを収めたビニール袋に貼られた小さな小さなステッカーにある、”Made in Germany”の一言が、収められた音の含むスピリットを伝えているようだ。
 音数を極度に抑えた闇の空間に、雨の雫が鉄管を叩くような音色の信号音もどきがインド音楽の民俗パーカッション風ととれないこともないリズムを織り成す。実際のサウンドはもちろん、零度以下の温度まで垂れ下がりつつ、青白い火花をあげているのだが。

 4曲目、”mlt”あたりになるとラジオの発信音やら工事現場の騒音など加わりはじめ、空間がダブ的揺らぎで妖しく脈打ち始める。オバケ屋敷のホームパーティもさぞかしの、ブラック・ユーモアに満ちた闇の祝祭がリズミックに蠢く。
 これは凄い。ベルリンの街は今、どんな気候なのだろうか。以前、降り積もる雪に覆われたメインストリートの報道写真に、「ドイツって、そこまで”北国”だったのか」と呆れたものだった。
 このアルバムの音を聴く限り、永遠に春など来るとは思えなかったりもするのだ。




月世界旅行

2012-04-21 05:04:48 | アンビエント、その他

 ”Le Voyage Dans La Lune”by Air

 なかなか素敵な幻想音楽に出会ってしまった。

 映画史初期の傑作というか、世界初のSF映画とも呼ばれている、フランスのジョルジュ・メリエス監督作品「月世界旅行」(1902年)を音楽化したアルバムである。制作したのはフランスのエレクトリカのチーム、Air。もともとはモノクロ&サイレントの、この短編映画のサントラを作っているうちに構想が広がり、フル・アルバム化となったようだ。

 もともと映画が持っていた春の宵の夢のようなのんびりとした幻想にあわせて、電子楽器の使用を控えめにして、アコースティックな柔らかい手触りの音楽に仕上げているのが好感が持てる。不思議な懐かしさに満たされた空間に控えめに響く、古めのシンセやメロトロンの音色が、たまらなく美しい。
 
 この妖しげな春の夜の夢の一刻の、なんと愛しいことだろう。目の前に見えているのに容易には行き着けない、あの月面の冒険行に乾杯しよう。



風を測る日

2012-04-19 05:08:45 | アンビエント、その他

 ”Sanctuary”by radiosonde

 気象観測のために上げられる気球をユニット名とした二人組のデビュー・アルバム。悠然たるペースで、”存在しないはずの音楽”を奏でる。そういえば、ラジオゾンデという言葉自体も、ずいぶん久しぶりに聞いた気がする。
 ギター、オートハープ等の楽器とディレイなどのユニットを駆使して、遥か高みをさまよう気球の旅が、その気球の目線で描かれて行く。素朴な、と呼んでいいのか屈折したと呼ぶべきなのかよく分からない、イマジネイティヴな演奏が繰り広げられる。

 吹きつける風や、高速度で目の下を飛び去って行く大地のイメージが音の向こうから伝わってくる。まるで彼等が空に登って行き、風や雲と合奏しているような。
 思えば、観測気球の打ち上げなんてのは、ずいぶん素敵な大気への語りかけだった。ラジオゾンデの音楽が繰り広げる、空の旅のイメージに身を任せるのが心地よい。まるで大気という大海を行く帆船にでも乗って、地球の淵を見下ろしているかのようだ。

 なんて心地よい地球との対話なんだろう。



悪意のトイピアノ、嗤う

2012-02-14 03:43:58 | アンビエント、その他

 ”Drape Me in Valvet”by Musette

 ずいぶん前に読んだ本なので著者名も正確な内容も忘れたのだが。それなら引用めいたことなんかするなよ、と言われそうだが、そりゃそうなんだが、こうしないと話が始められない。なんとかご容赦願いたい。

 その文章では、”性の禁忌”の誕生に関わる考察がなされていた。まず、幼児の性欲に関して。いわく、幼児にも性欲はある、と。ただ、生まれたばかりの彼には、欲望を実現する方法も分からなければその能力もない。が、抱えてしまった欲望に対して無能な自分を認めてしまうと、彼のプライドが傷ついてしまう。ゆえに彼はこう規程っするのだ。すなわち、「自分は性に触れることを禁じられている」と。
 やりたいのだができない、のではなく禁止されているからできない、とすればオノレの無能を自ら認める恥辱に、ベッドの上でおしゃぶりを加えた無力の帝王である幼児の心は、まみれずに済む。

 それでは、奏でられる音楽に無力である幼児の心には、何が起こっているのか。
 などと訳の分からない話を初めてしまったのは、今回取り上げるこのアルバムの中に、ベッドの幼児の上で簡単な音楽を奏でながら回っている玩具があるでしょう、昔ながらの。あれが奏でるようなフレーズが聴こえてきたんで、「あ」と思ってしまったから。
 音楽が頭上で奏でられている。が、自分にはそれにどう対処したら良いのかわからない。その時幼児の心には何が行き過ぎるのか。

 このバンドはスウェーデンの、まあ変態ロックとでもいうジャンルに属するんじゃないですかね、ミュゼットなんてバンド名だけど、同名のフランスの下町音楽とはなんの関係もない。
 あえてローファイに装ったサウンド、奇妙な味わいのキーボード、古めのシンセ、あさっての方に向かってピント外れの抒情を歌うトランペット、などなど。一癖も二癖もある意匠が時代遅れの祝祭楽団の装いで、薄明の中を通り過ぎて行く。

 上に書いたように、小さな頃、どこかで聴いたようなメロディの断片が次々に奏でられてゆく。が、手放しに甘やかなノスタルジィという感じじゃなく、どこかに毒気、悪意、といったものが潜んでいる。そんな不安を、音楽のなかに気配として感じさせる。生暖かい郷愁の底に仕掛けられた、たちの悪いいたずら。嘲り笑い。
 いや、そいつもまた、演者なりの苦い郷愁の発露なのだろう。無傷な心がどこにある、って奴ですぜ旦那。

 なんとなく人懐かしいんだけど簡単に人と馴れ合いたくもないなんてめんどくさい気分の夜に、一杯やりながら聴くには最適の一枚かと思う。



見えないピアノ

2011-11-03 23:32:11 | アンビエント、その他

 ”三月のワルツ”by Takeo Toyama

 この盤に出会ったのは、いつものごとく深夜のネット徘徊の最中の事だった。「あ。このジャケの絵は好みだな」と、そのエキゾティックにくすんだ色調の、描かれたばかりのはずなのにもう古びている、みたいなタッチに興味を惹かれた。中に封入されている音楽もさぞかし。
 そのサイトでは盤の一部を試聴できる仕組みになっていたのでさっそくクリックしてみると、まさにこの絵の通りのピアノ・ソロが聞こえてきて、いっぺんで夢中になってしまったのだった。

 「欧州ワルツ」「気取り屋と野暮天」「五音階の屈折率」など、収められている曲名を並べてみると、加藤和彦の「ベル・エキセントリーク」あたりの続編みたいに見えてくる。実際、時代の流れに背を向け、逆向きに世界を巡る姿勢が、あの頃の加藤の姿とダブるような気もする。
 クラシックのようでそうでもなく、ジャズのようでそうでもなく。あまり接したことのないタイプのソロ・ピアノが紡いで行くのは、奇妙に歪んだ映像を映し出すセピア色の写真みたいな風景。

 子供の頃、寝汗の中で見た夢に出てきたような、懐かしいのだけれどいったいどこなのか分からない街角。時の止まったその街角に響く、聴き覚えがあるのだけれど、どこで聴いたのか思い出せないメロディ。
 ピアノの音に巻き起こされたモノクロの感傷は、気配だけ残して指の間をすり抜けて行く。あとに残るのは、もぬけの殻の映画の書割ばかり。

 調べてみるとピアノ弾きは、いつもはさまざまなジャンルの一癖もふた癖もある人々と共に斬新な音楽を作り出している人のようだ。そちらの音楽が好きになれる音楽かどうか私には分からないのだが、このアルバムのような摩訶不思議なソロピアノの音楽世界でたまらなく懐かしい見知らぬ街角に踏み迷う快感は、また味わってみたいものと思う。続編に期待したい。

 You-tubeには、このアルバムの音は残念ながらあがっていなかった。仕方がないので参考までに同じ走者の別のセッションの記録を貼っておく。



風の渡る日に

2011-10-20 03:33:49 | アンビエント、その他

 ”風の輪郭”by 津田貴司

 この人の音楽は、どう紹介したらいいのか・・・さまざまな自然音や身の回りの何気ない物音をコンピューターで変調させて、それを絵の具代わりに音楽という絵を描くアーティスト、とでも言えばいいのか。

 このアルバムで彼は、”風”をテーマに音楽を描いている。
 生まれ、たゆたい、吹き抜け、淀み、走り抜ける空気の流れ。自在に姿を変える電子音の塊としての風は、キラキラ輝きながらその存在を歌う。そのありようは、まるで地球そのものの呼吸のようだ。

 作り物の電子音のはずなのに、心洗われるような瑞々しい響きがある。新鮮な果実のように豊富に水分を含み、脈打つ命の律動を感じる。なんなんだろう、この音楽は。
 おぼえて歌えるようなメロディなどどこにもないのに、聴く者の魂にスッと馴染んでしまう。太古からこの地上で鳴り渡っていた、大自然の歌うメロディのように。

 中盤、宙に浮かんだ大量のガラス瓶のような響きを立てる”風”が谷間を駆け抜け、大空に駆け上がって行くシーンが、たまらなく美しい。

 こんなに皆に聴いてもらいたい音楽なのに、残念ながらYou-tubeには揚がっていない。しょうがないから、津田貴司の参加した音楽イベントの記録など、下に。まあ、このアルバムで聴ける音楽とは大分表情は違うのだが。





風と雨の向こう、アンドロメダまで

2011-09-21 01:50:56 | アンビエント、その他

 ”Hingus”by Sven Grunberg

 バルト三国はエストニアのシンセサイザー奏者、1981年度作品。もはや古典的名作でしょうか。まあ、いずれにせよ、マニアしか聴いちゃいない盤なんだが。
 なぜか分からないが、ひどい雨に降り込められた夜など、決まってシンセサイザー音楽を聴きたくなる。それも一人宅録でじっとり作り上げられたようなオタク臭の漂う奴が良い。

 さんざんへんてこりんな動きをした挙句、台風は本土上陸をすると決めたようで、今は関西方面に照準を定めている。紀伊半島あたりの大変な被害予測など訊くにつけても、中上健次の紀行文集、”紀州”など、もう一度読みたくなったりしている。いや、新宮とか那智勝浦とかの地名を聞くたびに中上の顔が浮かび、「俺って、そんなに中上のファンだったっけ?」と不思議になるが、何のことはない、私は中上とその作品を通じてしか紀州について知らないのだった。
 というわけで、夕刻から降り始めた極太の雨音と混ざり合うように、Sven Grunberg のシンセサイザーが鳴り続けている。

 シンセの機材に関する知識など、私にはないに等しいのだが、30年も前の作品となると演奏センスとともに、やや古めかしい部分も出て来ているのではないか。アタックを効かせて衝撃音を響かせる、あるいはミステリアスにメロディをうねらせる。そんな折々に、なにやら昔のSF映画を見ている時のような時代のずれを感ずる。それは辺地を行く蒸気機関車を見て「かっこいい」と感ずる感性があるように、この作品の、むしろ魅力となってはいるのだが。
 SF映画を連想してしまうのは、この印象的な星雲の天文写真をジャケに使っているからもあるのだが、ともかく硬質で透明感のある美学を芯に置いて描く音世界は遠方の星々に寄せる思いに良く似合う。このあたりは北国のミュージシャン独特の詩情かとも思うのだが。ともかく深々と鳴り渡る電子音が、果て知れぬ宇宙の暗黒を渡って行く冷え冷えとした美しさはたまらない。

 Sven Grunbergは東洋の文化に惹かれていたらしく、インド音楽や東洋思想にかかわる作品を書いたりしていたが、あまり露骨にその趣味が正面に出てこないのが趣味のよろしいところだろう。それでも、この作品にもやはり、アジアの民謡で使われる音階に近いものが所々に顔を出し、不思議なエキゾティック感をかもし出す。それが生み出す、ある種チャーミングな効果を、作者はどこまで自覚していたか。
 などと言っているうちに雨は上がっていたが、もちろん台風はこれからが本番なのである。さらに宇宙の旅を続けることとしよう。