ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

フォーク演歌の死滅に向けて

2012-08-31 16:10:35 | その他の日本の音楽

 昨日、フォーク演歌の悪口が言い足りなかったんで、その続きを。

 フォーク演歌とは、1970年代あたりから現れてきて、今や演歌のメインストリームに位置するかと思われる独特の音楽形態である。
 その特徴は、長ったらしい言い訳だらけの歌詞を陰鬱なメロディに乗せてグダグダ歌う、というあたりか。具体的に曲名を挙げれば、「津軽海峡冬景色」「越冬つばめ」「天城越え」「北の宿から」などなど。

 70年代日本のフォークの影響が顕著に見受けられることから、とりあえずフォーク演歌と名付けてみた。長く曲がりくねったメロディラインや、アレンジにフォークギターが重用されるあたり、いかにもフォークの嫡子という感じがする。
 変にドラマ仕立ての歌詞なども目立ち、このあたりは、フォーク演歌発生期に人気作詞家であった”阿久悠”の文学趣味が大きな影を落としていると言えよう。
 同時に、やたら大げさなオーケストラの伴奏なども特徴といえようか。この歌詞の文学気取りや荘重がりたがるアレンジなどに、「ちょっと高級な歌なんだぜ」などと言いたげな権威主義の匂いもする。

 この陰鬱な音楽が日本の流行歌の中枢として認知されて行きつつあるのはやりきれなく思い、この一文を期するものである。

 長老・北島三郎などは、早くから彼独自の道筋でフォーク演歌の道を築いて来た人物で、あの「アイヤ~、アイヤ~、津軽八戸」云々という歌など、シロウトにはとても歌いこなせない壮大な曲調、「瞽女」をテーマにする文学趣味など、いかにもという感じである。この歌を、彼の”フォーク化”以前のレパートリーである「函館の女」などと続けて歌ってみれば、「アイヤ~♪」を歌ううち、自分の心が陰湿なフォーク根性に満たされてゆくのが実感として理解できると思うのであるが。
 美空ひばりの「愛燦々」などもフォーク演歌の典型と言えるのだが、あれは小椋佳の曲だっけ?彼などは阿久悠とともにフォーク演歌の形成に大きく関わった戦犯と言えるのではないか。

 ここで思い出したのだが、フォーク演歌の不愉快な副産物として、独特の気色悪い造語、というのもある。サンプルを示せば、「夢待ち人」「歌人」「来夢来人」なんての、あるでしょう。あの辺もフォークの影響かと思うのだが、嫌なところ、嫌なところを選んで影響受けて行くよなあ、どういう感性してるんだろう。

 ともかく。フォークぶりっこの気色悪さ、安い芸術ぶりっこの権威主義のいやらしさなど、実に不愉快な代物と思うのだが、フォーク演歌。でもみんなは、今日もカラオケであれらの歌を歌うんだろうね。うん、今日も。



逝ってしまった演歌のために

2012-08-30 05:06:16 | その他の日本の音楽

 昨夜、藤圭子についての文章など書いたら、ミクシィ仲間の神風おぢさむさんからコメントを頂いた。それに対する返事を書いていたら、これはちゃんと一章設けるべき文章だな、という気がしてきたので、このような形で公表することとしました。勝手にこのようなことをして、すみません。どうかお許しを、おぢさむさま。
 下が、神風おぢさむさんから頂いたコメントです。

 ~~~~~
藤圭子がリアルタイムでもてはやされていた頃は、演歌というジャンルは毛嫌いしていて、別の世界の話として聴く耳を持っていませんでした。最近の素人が作る楽曲の酷さを聞くにつれ、プロが作る詞・曲の凄さというものが、少しだけれど理解できるような気がします。
 ~~~~~

 藤圭子がもてはやされていた頃の私の演歌に対するイメージというものを書いてみると、二つに分裂した印象がありました。
 片方は全盛期(?)の美空ひばりに象徴されるような、”偉そうな音楽”としてのそれ。そのイメージが極まったのは、ひばりが”柔”なんて歌を歌っていた時期ですね。ひばりが、あれは明治時代の”書生”をイメージしたんでしょうか、男ぶりの短髪のカツラをかぶり、袴姿で見えを切り、「ヤワラ一代~♪」とか歌い上げていた。その姿って、「演歌の女王」として君臨することによってたどり着いた地位、権力者としてのプライドを振り廻す、とても不愉快なものと思えました。そのきらびやかな王宮は、だが、「所詮は芸人風情」といった一般社会からの賤視によって裏書きがなされているものではないか、そう思うと、それはますます虚しいな強がりとしか見えなかったのですが。

 その一方で、辛い浮世の裏町酒場で酒飲み交わす無名の市民の憂さを晴らすか涙酒、みたいなうらぶれ気分に寄り添う音楽としての、負け犬のための歌、演歌。これは、なにしろ観光地の飲み屋街で生まれて育った私には、心のふるさとそのもの、みたいな気持ちがありました。自慢できるような部分はまるでないけど、俺はそこで育ってきたんだ、みたいな。

 昨夜書いた藤圭子のデビュー曲に「ネオン育ちの蝶々には」なんて歌詞があり、この場合の”蝶々”はもちろん、ホステスのことなんですが、私はこの部分を聞くと、別のことを連想する。
 中学生の頃、下校時、同じクラスの女子が制服姿で、いかにも酒の道の達人が通いそうな酒場の鍵を開けて中に入ってゆく姿なんかを思い出すのですな。なんのことはない、彼女の両親がその酒場を経営していて、彼女はその両親とともにその酒場の二階に住んでいた、それだけの話なんですが。でも彼女だってネオン育ちには違いないだろう。

 それとは別に。これも中学の頃ですが、クラスの中で”化け物””汚い”と忌避されていた女子一名がいた。ある日、彼女が校舎の片隅に突っ伏して号泣しているという事件があったんですが、「なにがあったんだ?」といぶかる私たちに担任は、「ともかく皆、少しはあいつに優しくしてやれよ。あいつも、親の都合で酒の席の仕事をさせられて辛いんだから」なんて言ったものです。おいおい、可哀想は分かったけど、中学生がそんな仕事をするのを、教師が公認かよ、と思うのは今だから。当時は何も不思議には思いませんでしたね。社会全体がそんな具合だったから。
 そんな彼女は、修学旅行なんかでマイクを握ると達者な演歌の歌い手でした。
 そして私の街は、そんな街だった。

 今日、レコード業界における演歌の売上は消費税程度、つまり数%でしかない、という凋落ぶりで、もはや”偉そうな演歌”なんてもの、存在する余地もない。紅白歌合戦にすがってプライドをつなぐだけのはかない存在に成り果ててしまった。
 そして裏町演歌、こちらについては音楽のジャンルとしてもう滅亡していると考えるしかないでしょう。五木寛之はかって、このような歌を「未組織労働者のためのインターだ」なんて言ったものですが、ともかく作り手たちが過去の作品の焼き直しばかりで、ろくな楽曲も生み出せないでいるんだから仕方がない。

 その一方で今日の演歌の主流をなしているのは、「津軽海峡冬景色」とかに代表されるフォーク演歌、といえばいいんですかね、そのようなもの。これはいかがなものかと思いますなあ。私は素直に、大嫌いです。
 フォーク演歌の特徴はといえば、まず歌詞がダラダラ長い、しかもくどくどと説明調で、ハギレ悪いったらない。いちいち歌の場面設定がこっているから、くだくだ説明しなければならないのでしょうな。でも私は断言するぞ、演歌の歌詞なんて1コーラス4行で終わる、これがダンディズムというものでしょうが、ええ?
 そして曲調はダラダラと感情を垂れ流す、70年代の日本のフォークあたりの影響濃い、ハギレの悪い代物で、さらにアレンジは実に大げさな大作主義で、バックにドカンと鳴り渡るオーケストラにはティンパニの轟きさえ聴こえる。

 などと書いて行くと全くうんざりしてくるんですが、まあ一言、日本における演歌は絶滅した、といえばいいのかもしれない。




演歌の幻想、1970~2012

2012-08-29 01:50:05 | その他の日本の音楽

 ”演歌の星・藤圭子のすべて”by 藤圭子

 輪島祐介氏の著作、「創られた”日本の心”神話」(光文社新書)は、”演歌は日本人の心の歌である”などという、いつのまにか当たり前のように言われるようになった言葉が本当に実のあるものなのかを疑ってかかり、そもそも演歌は言われるような音楽なのかを検証し直した、大変意義深い本だった。
 いかに作り上げられた神話が定説として流通してしまっているかを見事に指摘して見せてくれたこの本で、一九六〇年代から七〇年代への変わり目に、擬制としての演歌の定義が確立される時代を象徴する歌手として登場した藤圭子。彼女のデビュー・アルバム、”★演歌の星・藤圭子のすべて”を、ここで改めて聞いてみた。

 そもそも藤圭子なる歌手、今となっては振り返られる事もなくなった。話題になるとすれば、なにやらアメリカのギャンブル年に大金を持ち込もうとした事件とか、あるいは彼女の娘の歌手としての成功談の余談としてでしかない。
 七〇年当時は、時代を象徴する「艶歌」の星である、いや、これは「怨歌」である、などと作家・五木寛之まで巻き込んで、なにやら大変な扱いとなったものであるが、その後、歌手としての再評価がなされるでもなし、カラオケの場で彼女のヒット曲が歌われるのも聴いたことがない、というか、歌われそうな空気というものが想像できない状態だ。なにか、あまりにも時代の空気と密着し過ぎる形で評価されたためにその歌は、時が流れ去るとともに強引に時のむこうに押しやられてしまったみたいに見える。

 今、ここでこうしてこのアルバムを聴いてみても、懐メロとしての懐かしさもあまり感じない。ただ、”昔、このような歌があった”という感慨が残るのみで、歴史を伝える旧跡を見て回る気分だったりする。
 かって五木寛之に、「このように幼い少女がここまで深い表現を」と息を飲ませたデビュー時の藤圭子の歌声も、今、私としては「ロックに出会いそこなったロック少女の歌」などと定義を思いついたりしている次第だ。歌いまわしの独特な癖に、ちょっとした「萌え」を感じたりもしている。まあこれは、時が流れ、そして聞き手の私もそれなりに人生の時を重ねた、という事情あっての話なのだが。

 このアルバムが出たばかりの頃、五木の賛辞の尻馬に乗るように、サブ・カルチュアの世界でも藤圭子の歌声は一つの権威として横行してしまっており、私としては鼻白む思いがしないでもなかった。
 そんな、あの当時の異様な入れ込み気分に基づく熱に相当するものが今日の我々の社会にはなく、ために”あの頃”の藤圭子の歌声は受け皿もなく、ただ暗闇に響いているだけと感じられる。
 そして、これは私の個人的な感想にしかならないのだろうが、そんなアルバムの中で、「柳ケ瀬ブルース」「東京流れ者」と続く二曲に、妙に自分の心が反応するのを感じた。とりあえず私にとってはこの2曲は「生きて」いる、などと勝手なことを言ってみる。

 何が違っているのだろう。「柳ケ瀬ブルース」、この歌は、日本中に広がる夜の盛り場のネットワークを伝い、幻のように流れ生きて行く「流し」の演歌師の面影が漂う。一方、「東京流れ者」は、何やら硬派気取りの半端者が粋がった革ジャン姿で夜の都会に繰り出す血の騒ぎが歌われている。
 どちらも夜の中で輪郭の定かではなくなった現実の中を幻のように流れる、そんな寄る辺ない魂の彷徨がテーマとなっていると解した。
 五木が高い評価を与えた”夢は夜ひらく”のような、時代に楔を穿つような表現とは別方向に、今、流れ出す人影の幻。なにかその先に見えてきそうなのだが、まあ、他なるアルコールの見せた虚妄なのかも知れない。



ハリラヤの慈悲に抱かれて

2012-08-26 02:23:21 | アジア

 ”Persembahanku”by Lucky Resha

 ポップ・ムスリム、ということで、インドネシアのイスラム教徒のあいだで愛好されている世俗宗教歌(?)のアルバムであります。インドネシアのキリスト教徒におけるロハニみたいな存在、というと話が逆なのか、それでいいのか。

 イスラム歌謡とはいっても濃厚にコーラン経由のコブシが入ったりヌスラットばりにハードなボーカリゼーションを繰り広げるとか、そういうことはないんであって、むしろロハニなんかとも共通する部分も多い、清純なバラードがメインであります。
 が、ロハニに比べると歌唱もバックの演奏も、より粘っこいというかディープでアーシーな手触りを感じないでもない。そして、そのあいだに一曲、二曲と混じってくる、いかにも東アジアポップスらしいマイナー・キイの哀愁溢れる歌謡曲っぽい作品が、何やら生々しい感情を伝えてくる。インドネシア語の響きも、ロハニよりもしっくりと楽曲に馴染んでいるように感じられます。まあ、この辺、微妙すぎる話だけれど。

 ジャケに紹介されている彼の地のイスラムの人々の暮らしぶりを伝える写真など見つつ、あまり強力にイスラムっぽさを伝えてくる作品集ではないところが逆に当方のような異教徒にも親しみやすいこれらムスリム歌謡に耳を傾けていると、体にまとわりつくこの夏のクソ暑い大気の感触も、遥か南の島の人々と共有するイベントと納得しておこうか、などという気に一瞬はなりかける、この辺も神の加護でありましょうか。

 そしてふと、ずっと以前に読んだ「怪傑ハリマオ」のモデルとなった人物の伝記の終章など思い出すのです。マレーで生まれて育った一人の日本人が第二次世界大戦のさなか、歴史の波に翻弄され、「大日本帝国」のために働くが、その人生の終わり、自ら望んでマレーの地のイスラム教徒のための墓所に埋葬される、そんなエピソードを。



ナポリに還る日

2012-08-24 02:36:24 | ヨーロッパ

 ”NOA:Noapolis - Noa Sings Napoli”

 ともかく。「日本の夏ってこんなにハードだったっけ?」とぼやきつつ、ブログの更新もままならない日々が続いているわけでありまして。いやホントに、この7月8月なんて、サボった日の方が多いくらいで、ひどいものだな。
 などと言っていたら酷暑に打ちのめされる体と心へのひと時の慰謝となる一枚がイタリア方面から現れた。ノア、という人はこれが初対面だけど、若手の地味な実力派、みたいなポジションの人だろうか。古いナポリの古謡というか大衆歌ばかりを弦楽四重奏をバックにじっくり歌い上げた、ナポリへの愛に溢れた一枚であります。

 冒頭に置かれた「はるかなるサンタルチア」が、もう好きな曲なんで嬉しくなってしまうんだけど、この曲名を挙げると、いわゆるイタリア民謡の有名な方の「サンタルチア」を思い出して、「ああ、それなら知ってる」なんて答えが返ってくるんで残念だ。私の手元にはこの歌の日本語訳詞の付された楽譜が載っている”世界の民謡”なんて古い本があり、おそらくは”歌声喫茶”の時代などに我が国でも愛唱されたんではないかと想像するんだが。
 ともかくこの歌は好きでした。歌に現れる、光あふれるナポリの港を恋しがる船乗りの想いと、遠く離れた南イタリアの地に憧れるこちらの気持ちがうまい具合に重なり合って、実に切ない。こんな歌を聴いていると、心底、ナポリの港に帰りたくなってくるねえ。いや、行ったことはないけどさ、そもそも。

 なんてことを言っていても仕方がないが。あ、「帰れソレントへ」も入っていますな。その種の、小学校で習ったような”イタリア民謡”と、後年、音楽ファンになってから、マニアックな店でやっと手に入れたイタリアの知る人ぞ知るトラッドバンドのアルバムに入っていた、ドロドロのアレンジで聴かせるナポリの伝承歌が、ごく自然に同居しているのがなんだか不思議なこのアルバム。そしてその両者が裏表でもなんでもなく、どちらも等価にナポリである、という当たり前の事実。
 現地ナポリの人々にはこのアルバム、どのように聴こえるんだろうか。

 ノア女史の歌唱は、ともかく掌のうちで慈しむように心を込めて、ナポリ伝統の美しいメロディを描き出すことだけを心がけているように感じられる。時に生ギターも加わる弦楽四重奏もイマジネーションにあふれるプレイを聴かせてくれ、安心して心を任せることができる。
 聴いていると、歌の主人公はほとんど南の陽光かとも感じられて来ますな。マイナー・キーで進行していた語りだしの部分が終わり、サビの部分でメジャーに転調。光あふれる。この展開って、元ネタはナポリじゃないかとまで思えてくるんだが。
 ともかく転調とともに地に満ち溢れる南の陽光のイメージ。それを全身に浴びて吹きこぼれ、天にまで伸び上がろうとする溢れる歌心、その想い。ナポリの人々って一体なぜ、ここまで深い憧れを胸に育んだのだろうか。

 懐かしいです。帰りたいです。古き、懐かしきナポリの街角に。うん、行ったことはないけどさあ。




ウズベクの施餓鬼の夜に

2012-08-23 03:49:23 | イスラム世界

 ”Tortadur”by Severa Nazarikhan

 Severa Nazarikhan。ウズベキスタンの歌姫とのこと。
 その、ややくすんだ、内に沈み込むような語り口は、吹きすさぶ砂嵐と広大に開けた不毛の荒野などの様々な歴史物語の場面場面を想起させ、こちらの中央アジア幻想気分を駆り立てるようだ。
 すでに著名英国人ミュージシャンのプロデュースによるワールドミュージック・チックな派手なサウンドの盤を何枚か世に問うてきたらしいが、当方、彼女はこの盤が初対面にて、それらは未聴。こちらの盤はドタール、タンブーラといった現地の民俗楽器のみが使われた地味な音作りの作品である。自らのルーツを振り返ってみた作、なのだろうか。

 古き伝承歌の調べに乗せて歌われている歌詞は古代の歌謡詞から宗教詞、はては近代にいたり、反ロシア思想詞まで多様のようだが、もちろん言葉を知らぬこちらには理解できるものではなし。
 しかし、そのサウンドや歌われるメロディ、その節回しのはるかな懐かしさ、こちらの感性にぴったり来具合はどうだろう。おそらくこれがウズベクの民族歌謡のオリジナルの姿なのだろうが。

 収められているのはどれも、しっとりとした情感を湛えたスローな語りもの、とでもいいたくなる内省的な歌唱ばかりなのだが、そのマイナー・キーのメロディのひっそりとした響きが、なんとも五木の子守歌というか、子供の頃に祖母の膝の上で聴かされたものと解釈したくなるような不思議な懐かしさに溢れたものなのである。
 このような旋律が古来より遠い中央アジアの地で歌い継がれてきたのかと思うと、果てしない時間と空間を隔てた人々に寄せる恋慕の感情に近いものが身を切り裂いて行くのを感じる。

 ハラカラよ、ハラカラよ!あれから本当に長い時が流れたが、元気でいたか。そちらにもこちらにも、それは取り戻すこともかなわぬ、長い長い旅だった・・・

 ウズベクの伝統楽器たちが織り成すサウンドは、茫獏と広がる夜の闇に溶けて行くような神秘の響きがある。それはしかし、我々には見慣れた、同じ手触りのビロードの漆黒を連想させはしないか。
 このバックのサウンド、稲川淳二の怪談のバックに流したら素晴らしい効果を産むんではないか、などと夢想してみる夜。酷暑の夏はアジアをジットリと覆い、惰眠を貪る。



ピアニッシモ

2012-08-20 21:21:39 | いわゆる日記
 ずいぶん前から探してるんだけど、”ピアニシモ”という曲に関する情報が見つからないんですわ。いや、そう聞いてあなたが思い浮かべられたその曲ではなくて。多分、別の曲です。
 なんか同名異曲の多い曲みたいで、検索かけても、題名は同じだけど全然違う曲がゴロゴロ出てくる。けど、私の探しているその曲の話題がさっぱり出てこない。まあ、古い曲だから忘れられてるんだろうけど、しかし、どこかに一つぐらい記事があってもよかろうに。You-tubeにも、上がってないみたいだなあ。

 私の探している”ピアニシモ”は、多分ヨーロッパのどこかの国(イタリアのような気がするんだが)の曲で、若い女の子がピアノの伴奏で歌っている。清楚な印象のクラシックぽい静かな曲、とはいえその声はか細くて消え入りそうで、それこそピアニシモだった。
 初めて聞いたのは遥か昔、さすがの私もまだガキの頃でした。深夜、眠られぬままにベッドの中でラジオに耳を傾けていると、ふと聴こえてくる。そんなふうにその曲とは付き合った。歌っているのがどんな人なのか、もちろんわからない。ヒットした曲なのかどうかも。

 ともかく深夜のラジオで、忘れかけた頃にひょっこり聞こえてくる、そんな状態がしばらく続いて、その後、全く聞くこともなくなった。この年になって思い出したら、妙に懐かしい。こんなふうに思い出してみると、まるで夜の静けさの中から生まれでて、また夜の中に帰っていった、そんな曲にも思えてくる。
 こういう曲はむしろこのまま、何もわからないままにしておいたほうが良いような気もする。ただ、もう一度聞いてみたい気もするなあ。

 昔、ヤング・マーブル・ジャイアンツなるニュー・ウェーブのバンドがデビュー時、「夜、ラジオに耳を澄ませていると、遠くの名も知らないラジオ局が懐かしい曲をかけているのが聞こえてくる、そんな感じの音を出したい」とかバンドのコンセプトを語っていて、ラジオ主義者としては非常に気になった。そのイメージするところ、すごくわかるから。
 この”ピアニシモ”って曲も、まさにそんなふうに聞こえてくるのがふさわしい曲なのである。
 その歌手のアルバムを手に入れてみると、全曲、”ピアニシモ”みたいな曲が収められていて。なんて空想をしてみると、ちょっと血が騒ぐんだけどね。

ラジオ主義者の明けない夜明け

2012-08-19 03:12:33 | いわゆる日記

 昨夜、ツイッターで以下のように発言していた人がいた。

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時々オーディオに否定的な意見を言う人がいるが、生では一生聴けないであろう秘曲や死んでしまった人の名録音をより良い音で聴きたいというだけのことなのだが。そういった欲求がおかしいとでもいうのだろうか。
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 さらに、それに対してこのように共鳴した人も。

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好きな音楽なら少しでも「良い音」で聴きたいと思うのは、ごく自然な人情だと思います。
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 まあ、人がどのような価値観で音楽を聴こうが勝手なのであるが、普遍的な「良い音」といったものが存在する、との認識があり、それを是とするのが自然な人情なのだ、と結論が出されてしまったら嫌だなあ、と思った。
 会話を交わしている方々はオーディオ・マニアの側面も持つ音楽ファン同志のようだが、高級なオーディオの生み出す音が良い音、なんて定説が出来上がるのはうんざりである。
 で、とりあえず下のようなコメントを発しておいたのだが。

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私は「ラジオ的な音」が好きです。いわゆる「オーディオ的な良い音」は、ちょっと私にはやかまし過ぎるんですね。まあ、「良い音」の概念も人それぞれかと思います。
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 以前も書いたが、私はそのような”ラジオ主義者”である。あまりにも装置が巨大すぎて玄関壊して自宅に運び入れた、なんて逸話を持つような超高級なオーディオの生み出す分厚い音響より、窓辺においたちっぽけなラジオから偶然好きな曲が流れ出た瞬間を愛したい音楽ファンである。

 そんな自分の特性に気がつかないでいた青春の日、マニアな人からは笑われるレベルではあろうが、それなりのオーディオ・セットをやっとのことで買い込み、聴いてみたのだが、どうも音が仰々しくて馴染めない、なんて体験をした。
 しょうがないからつまみを回してまず、最も鬱陶しく感じた低音域をカットした。それでもうるさいから高音域をカットし、さらに中音域をカットした。さらにボリュームも大幅に落としてみて、「しかしこれ、意味ないだろ?」と首をかしげた。
 時代は移り、世にラジカセなるものが流通するようになった。早速手に入れた私は、お気に入りの盤を外出時にも持って出られるとは便利なりと、愛聴していたアナログLPをカセットに落とし、そいつを出先で聴いてみたのだが。あっと驚いた。そこから流れ出たのがまさに、”私の理想としているレコード再生装置”の音であったから。

 うわあ、なんだい、私が求めていたのは、大層なオーディオ装置ではなく、はるかに簡素なラジカセの、つまりはラジオの音だったのである。そしてこの志向は今でも変わっていない。音楽を聴くのは常にちっぽけなCDラジカセ経由である。
 このような感性を持つに至ったのは、音楽ファンのなりたての頃、ひたすらラジオの洋楽ヒットパレード番組を追いかけて聴いていたからとか、もっと幼少時、針仕事をする母がいつも傍らに置き、聴いていたトランジスタ・ラジオの音色に馴染んでしまったから、とかいくつか仮説を立ててみたのだが、真相は分からず。そういえば思春期に熱中していた海外からの日本語放送傍受も、ラジオ趣味全開と言えるよなあ。さらには、私の”AKB48メンバーの中の推しメン”は、ラジオのトークを大得意とする佐藤亜美菜ちゃんである、という具合。
 いや、ラジオってホントに素晴らしいですねえ、と、つまらない締めの言葉しか思いつけないのが申し訳ないが。

 ラジオといえば先日のNHK・ラジオ深夜便が快感だった。第一部のジャズサックス特集は、ソニー・ロリンzスやスタン・ゲッツといったジャズ街道ど真ん中のプレイヤー連発で、いやあ、そんなにストレイトなジャズをこのところ聴いていなかったので、実に新鮮な驚きがあった。ジャズが一番かっこよかった時代のジャズを久しぶりに堪能した次第。
 また、司会のアナウンサーが良かったなあ。ジャズマニアであることを隠そうともせず、イヤミの一歩手前まで”通っぽさ”を押し出したトークは、深夜にジャズを聞くことの快楽を”秘儀”にまで至らしめてくれた。
 そもそも、あの番組で喋っているアナウンサーたちの素性って、どんなんだろう?日常、放送で馴染んでいる連中とは、なんかまとっている空気が違う。
 何十年も前に深い事情あって冷凍処置を施された者たちが深夜だけ蘇生を許され、地下の倉庫から這い出て喋っているみたいな響きを帯びている、そんなふうに感じてしょうがない時があるんだが、私には。

 そしてその日の第2部が笠置シズ子特集で、それは彼女の名前も歌も聞いた事はあるけれど、実はきちんとまとめて聴くのはこれが初めて、の私は、もう夜明けが近い部屋の中で一人、「ロックンロール!」などと見当違いな掛け声かけて一人盛り上がったのだった。凄い歌い手だったんだね、彼女。いやあ、まいった。

 ラジオ主義者の病は深い。癒えることはない。夜を飛び交うすべてのラジオ電波に栄光あれ。



兵学校から500マイル

2012-08-17 03:21:48 | その他の日本の音楽

 知人から昨日来たメールの中に「最近、鶴田浩二を聴いている」なんて一節があり、ワールドミュージックの道遥かなり、などと思ってしまったのだが、鶴田の名を見て書いておきたかったことを思い出したので、そいつを文章にしてみようと思う。意味あるものになるかどうかわからないのだが。

 生前は我が町内の町会長などもやっていたことのある写真館経営のMさんは、もう多くの日本人が失ってしまっている習慣を一人、守っていた人でもあり、それが何といえば国の定めた祝日には必ず国旗を挙げる、というものだった。律儀に、というか凛とした姿勢でピンと綺麗な日章旗を祝日ごとに店先に翻らせる様を見ていると、そもそも国旗さえ持っていない自分が申し訳ないようにさえ感じられさえしたものだった。

 そんなMさんの写真館の片隅に、彼の思い出の写真コーナー、みたいなものが設けられていて、そこに掲げられた写真の一枚が、Mさんが鶴田浩二と並んで撮ったスナップ写真なのだった。
 場所は、旅館の廊下か何かなのだろう。私の記憶の中よりちょっとだけ若いMさんと、揃いの旅館の浴衣を着た鶴田浩二が並んで写っている。その世代の人たちらしい無骨さで、特に笑顔を見せるでもなく、なんとなくぎこちない表情で二人は写真の中にいた。
 軍隊の同窓会、とは言わないか、ともかく戦争中に同じ部隊か何かに属していた者たちが、戦後、もう一度集ってみて旧交を温める、みたいな集いのひとコマと想像できた。戦時中は海軍で通信兵などやっていたらしいMさんだったが、鶴田も同じ部署にいたのだろうか?特攻隊の話などしている鶴田ばかりが記憶に残っているので、それもピンと来ないが、軍隊における”同期”の定義もよくわからないので、このへんは何とも分からない。

 その写真と一緒に並べられていた海兵グッズ(?)が、私はちょっと好きだった。通信兵が訓練施設で学ぶ様子を描いた写真やら図説やら。通信兵の訓練用の機器のフィギュアのようなものもあった。悲しい戦争の時代だったけど、それはそれでMさんの青春だったのだろう。それらのものを見ていると、Mさんが兵学校のある日、胸いっぱいに吸い込んだ朝の空気や、友人たちと交わした会話や、戦乱の狭間にも、それなりにあったのだろう胸のときめき、そんなものが瑞々しく蘇ってくるように見えた。鶴田浩二がそのどこに絡んでくるのか、よくわからなかったが。

 このような話を書くと、冒頭の国旗掲揚のエピソードもあり、Mさんが右翼的な人物であったかのように受け取られてしまうかもしれないが、むしろ彼は戦前のモダニズムに生きたインテリ青年の陰りなど漂わせた、まあ、若い頃はかっこよかったんだろうななどと想像させる、立派な体躯のオシャレな老人だったのだ。だけどちょうど戦争が、ということなのだろう。
 Mさんの戦争時代の体験や、戦後、寫眞館を開くに至った経緯など、特に訊いたこともないのだが、それはいろいろあったのだろう、それは。
 そんなMさんも数年前、長年連れ添った奥さんと、まるで互いに相手を追い合うように同じような時期に静かに逝かれた。まるで消え去るように。兵学校の日々を遥か離れて。

 鶴田浩二で好きな曲といえば、「赤と黒のブルース」だろう。というかそれ以外、彼の歌をあれこれ言うほど聴いてはいないが。
 「赤と黒のブルース」は、詳しいことは知らないが、まあ、昭和30年代とかに作られたアクションもの映画の主題歌なのだろう。当時の流行りものをあちこちに配したノワールものの作りは悪くない。なんか暗黒の快楽系の、初期のトム・ウエイツが作りそうな曲ではないか、詞も曲も。

 それこそ、戦争から復員してきた一本気な男が、戦後の理不尽な時代の変化に馴染めず、黒社会にズルズル落ち込んで行く、兵学校の日々を遥か離れて。その自堕落な快楽が思い切り歌われている。そう、ダメになって行くことの心地よさが。このへんも大衆音楽の真実の重要なテーマですな。



今日も香港の夕暮れは

2012-08-15 04:15:04 | アジア

 ”你們的幸福”by 謝安 (Kay Tse)

 毎度、この話で恐縮だが、香港の街が99年間の租借期間を終えて英国から中国、というか北京政府に”返還”される、その直前の数年間の香港ポップスには非常に惹かれるものがあり、愛聴していた。彼らの日々を飲み込まんとする時代の大波に直面し、あるいは焦燥し、あるいは諦めのうちに退廃の中に沈み込む、そんな香港の人々の揺れ動く心情に、私の心の中に強力に共鳴するなにかが生まれていたのだ。
 やがて”返還”の時は至り、私は憑き物が取れたように香港ポップスを聞くのをやめた。香港の音楽も時代とともに変貌しつつあったし、なにより、何事もなかったかのように大陸中国の大海に飲まれてしまった香港の街に、なにやら興ざめ、みたいな気分にもなっていたようだ。

 それでも、あれだけ惚れ抜いて聴いていた香港であって、やはりその後が気にならないわけもない。振り返ればすでに、”歳月”と呼ぶに十分な時間が過ぎ去っているのだ。
 という訳で今日の香港を代表する歌手、ということなのだそうだ、謝安なる歌い手の昨年作を聴いてみた。
 ジャケ写真や歌いぶりから何となく彼女をスタイリッシュなおしゃれなギャル風の個性と思い込んでいたのだが、彼女の名で画像検索をかけると、むしろ日本のJUJUとかいう、あの歌手を思わせる、つまりド~ンと肝っ玉おっかあ的貫禄の女性の絵がゾロゾロと出てくる。
 まあ、それはそうだろうな。私が彼女を聞くのはこれが初めてなのだが、彼女は大学を卒業後、ピアノ教師を経て歌手デビュー、これが9枚目のアルバム・リリースであり、既に一児の母でもある、それは貫禄もあるでしょう、ベテランと言ったっていい歌い手だったのだ。

 冒頭、シャカシャカと刻まれるギターのリズムに乗り、やや懐メロっぽいメロディが、あくまでクールに歌われ、その次に控えているのが、なにやらアンニュイな口調で歌い捨てられるハードロックっぽい曲であったりする。なるほどこれが今日の香港のおしゃれ最前線なのかな、などと。
 が、その後は次第に都会的なバラード主体の香港らしい展開となっており、それでもかって私が聴きこんでいた香港の流行歌とは、やや肌触りが異なる感じはあるのだった。

 そいつは、たとえば第二次大戦前の中国は上海で全盛を迎えていた中国映画の伝統が、中華人民共和国成立とともに香港に逃れ、それがのちの香港映画の興隆の基礎となった、みたいな話とつながる。
 政治や経済や、あるいは人には言えない個人的事情を抱えて、ともかく様々な、人民共和国となった大陸中国に暮らせない事情を抱えた人々が流入した香港。そんな根無し草の流れ者の孤愁を懐に抱いて、ただ銭儲けだけに血道を上げるかのように送る、ヤクザな植民地気分の租借地の日々、香港暮らし。
 そんな、どこかに風の吹き抜けるような腰の定まらない浮草感傷は、今日の香港のトップスター、謝安の歌にはないのだった。冷たいコンクリートのビル街だけれど、そこは触れば確かな手応えのある彼女の故郷であり、「借り物の時間、借り物の場所」の当て所なさはそこにはない。
 そこは英国の植民地なのではなく、彼女と同じ中国人が統治する中国の都市なのだ。それはまあ、様々な事情はあろうとも、小平の言った言葉を信ずるならば、、香港の日々は今後百年変わらない、筈なのである。

 ともあれ。時代はどのように変われども、人々は生きて行く。流れる雲の行く先にその暮らしがある。そして夕暮れの街角からは、こんなふうに歌も聞こえてくるのだろう。