ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

インドネシアの上海娘

2006-03-19 04:00:31 | アジア

 今、検索をかけてネットの世界をあちこち探してみたんだけど、”ユリア・ヤスミン”の名で、何もヒットしなかったのには驚いてしまった。記事も映像も何もなし?もう彼女は忘れられた人なんだろうか?それとも私の探し方が悪かったのか?

 ユリア・ヤスミンはインドネシア・ポップスの歌手である(であった、なのか、もう?)私の手元に今、私が彼女の歌に興味を持つきっかけになった1本のカセットテープがある。
 タイトルに、”YULIA YASMIN - AKU GADIS SHANGHAI 1976 - 1991”とあり、年代表示からすると、これはベストアルバムなんでしょうな。

 カセットには、中華風というよりはむしろ、沖縄の守礼の門みたいに見える建築物のイラストをバックに、これも中華風のつもりらしいがあんまりそう見せることに成功していない人民帽もどきを被った、歌手ユリア本人が微笑んでいるジャケ写真が付けられている。

 確かにそのジャケ写真を信ずる限り、彼女は、あまりインドネシア人風には見えない。色白であり、なんとなく太田裕美風(といったって、もう若い人は知らんか、”木綿のハンカチーフ”の)の顔立ち。そして、歌われている歌も、そこはかとなく中華風の装いの凝らされている感触のものが多い。何しろカセットのタイトルが「私は上海娘」である。

 まあ、そんなの特に珍しい話ではないですよ、異国の血をひいているとか、なんらかの事情があり、その特殊性を売り物にして芸能活動を行なうなんてのはね、どこの国でも普通に行なわれているであろう。
 けどねえ、ことインドネシアでとなると、これはちょっと事情が違うはずだ。なにしろ多宗教多民族多文化混在のモザイク状国家であるインドネシア、当時はまだ、独自の文化を高らかに謳う事など許されていなかったのである。ことに、インドネシアの経済面を握っているとも言われる中華系である。

 確か、このカセットが出た頃、中華系のインドネシア国民は、経営している店に漢字の看板を掲げることも許されず、マレー系の名を名乗り、目立たぬ生活を余儀なくされていたはずなのだ。
 だったらなぜ、ユリア・ヤスミンはこのような中華アピールのあからさまな芸能活動を行ないえたのか?その辺に興味を惹かれ、私はちょっと(ほんとにちょっとだけ)彼女を追いかけてみたのだった

 先に結論を言ってしまうが、まず彼女の中華な音楽性に関して。インドネシア政府の中華系国民に対する文化的圧迫は漢字使用の部分に多くかかっていて、音楽の旋律部分への規制などは行なわれなかったとのこと。これは、現地生活の長い人に教えてもらった。

 そして。というかそもそもユリア・ヤスミンの中華アピール、彼女を知れば知るほどシリアスなものであったとは思えなくなってくる。その後、手に入れた彼女のカセットのジャケ写真に見るユリア・ヤスミンの容姿は、あのカセットでの太田裕美もどきはなんだったのだと言いたくなるほど、普通にインドネシア女性のそれであったし。
 またその音楽性も、最初に例のカセットで聴いた”なんとなく中華系”を一歩も出ることはなく。というより、だんだん後退して、普通のインドネシア・ポップスと変わらなくなっていったのだった。

 ここにいたって私もそろそろ気がつく。彼女の”中華”って、”なんとなく”どころか、”なんちゃって”だったのではないか。なんかきっかけがあったんでしょうな。その血筋のずーっとさきに、中国系と言われていた人がいたとか、ある日撮った写真が偶然中国人っぽく写ってしまったとか。
 それで試しに、俗な中華っぽいキャラ設定にしてみたら、結構カセットが売れたんで、その後もずっとその路線で行っちゃった、とか。

 あ、知りませんよ、本当のところは。でもまあ、そんな感じではないかなあ。いやあ、勝手に”ちょっと珍しい中華系インドネシア人歌手って存在”の幻想なんか抱いちゃって、無意味なことしました。この辺も大衆文化の猥雑なる楽しさの一部って言えましょうが。