ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

バッハのマリンバな夜

2012-02-10 01:10:22 | クラシック裏通り

 ”Johann Sebastian Bach - Notenbuchlein”
  by Koen Plaetinck

 クラシック畑のマリンバ奏者が、バッハの作った”無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ”とか”無伴奏チェロ組曲”なんてあたりをマリンバのソロで吹き込んだ一枚。 昨年のクリスマスに買ったのだった。そして年を越し、いまでも何かと言えば手元に置いて鳴らしてしまっている。

 愛聴盤とかいうより、この音をボリューム抑え気味にして流しておくのが快いのだ。シンと心が静かになって、自分の意識の深いところにある小部屋へ降りてゆく、みたいな感じが気に入っている。

 マレットを持って木片を叩くマリンバという楽器の演奏上の特性からか、幾分演奏のタッチがフラットになっていて、若干のテクノっぽさを醸し出している。その一方、木片から発生する音故の、どこか暖かでユーモラスな感触が楽しくもある。
 聴いているこちらの頭の中に浮かんでくるイメージは、人目に触れるのを厭い、人里離れた廃屋に住まいする伝説の妖精属小人目に属する生き物が、律儀にバッハを奏でる姿か。

 信じられないくらい冷え込む夜が続くこんな冬は、この木片の歌うバッハが、凍り付いた空気を突いて夜の中に広がってゆくのが見えるように思える。



アベマリア、そしてアベマリア

2011-06-08 02:10:17 | クラシック裏通り

 ”Pianissimo”by 田部京子

 「君と語る無上の喜びの約束なんてもうどうだっていい。僕は当分、マリア様のこと以外、考えまい」と日々の倦怠への苛立ちをペンで叩き付けたのはアルチュール・ランボーだったっけ?だがさて詩人よ、あたり一面、マリア様だらけになってしまったら、君はどうなさる?

 その収録曲目構成に唖然とさせられてしまったアルバムである。
 まず冒頭から”アベ・マリア”という表題の曲が4曲、たて続けに演奏される。作曲者はシューベルトやらモーツァルトやら。それに続けて、”子守唄”として知られた曲が8曲連続。作曲者はシューベルトやらブラームスやらサティやら。そして締めはドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」に始まる幻想曲集という次第で。
 なんだか若き日、彼女を連れてはじめてのドライブ、なんておりに張り切って作ったカー・ステレオ用のカセットテープの中身、なんてものを思い出してしまったりもする。お気に入りの曲、隙間なく満載。
 それと同じ様なことがジャケの解説でも語られている。今回は田部京子のピアノで聴きたい曲を遠慮なしに並べてやった、と。

 クラシックの世界はまるで知らないが、こんな、ある種奇矯な試み、容認される風はあるんだろうか。といったって、とうにCDは出てしまっているのだから仕方あるまいが。
 もっとも演奏自体は背筋をスッと伸ばした、凛とした矜持のうかがえるもので、むしろ格調は高い。「甘過ぎにならず、上品なお味に仕上がりましたなあ」とか、なぜかお料理番組で、なおかつ京都弁で褒められるシーンなどが関係ないけど頭を過ぎった。
 つまりは快感原則に拠って並べられた曲たちだが、演奏者の深い内省による繊細極まりない曲解釈と表現により、むしろ逆の、ストイックな美の探究の場に、ここはなってしまっているのだ。
 砂糖菓子で作られた宮殿のレプリカが、練磨を経ていつしか実物以上の輝きを放ち始める姿に見惚れるばかり。

 残念ながらこのアルバムの中の曲はYou-Tubeには見つからなかった。田部女史のファンの人が、彼女のタッチを真似て弾いているものがあったけど(→)しょうがないから、ニューオリンズのR&Bの名歌手、アーロン・ネヴィルの歌唱でも貼っておく。私のような世俗音楽ファンには、シューベルトのアベマリアって、こっちの方が馴染みがあるのね。




ミクロコスモス

2011-05-11 04:04:08 | クラシック裏通り


 ”Mikrokosmos”by Bela Bartok

 ハンガリーの作曲家、ベラ・バルトーク(Bartók Béla 1881年3月25日~1945年9月26日)と言えば、クラシック畑の音楽家でありながら、自国の民俗音楽の研究に打ち込み、その影響下にユニークな作品をものしている。まあ、ワールドミュージック好きには、まことに”おいしい”クラシック関係者と言えよう。
 そんなバルトークは音楽教育にも熱心だったそうで、ピアノの初級から中級あたりまでの練習曲集をも残している。それが今回の”ミクロコスモス”で、なにしろ特異な音楽性を生きたバルトーク、このような初心者向けの教則ものでも容赦はせず、濃厚に東欧の民俗音楽の影差すスコアを書き連ね、なかなかに魂消る音楽世界を現出しているのだった。

 ここにその練習曲群がCD二枚にまとめられているのだが、当然ながら音数も少ない初心者用の音階練習曲においても妖しの影は出没し、音数が少ないがゆえにある種のシュールレアリズム絵画みたいな風景を想起させる曲想となっているのだった。
 そんな狭間に隙を見ては(?)”ユーゴスラビア風に”とか”トランシルバニア風に”などという民俗派らしい曲想が差し挟まれるのだから、たまりません。ワールドミュージック好きの血が騒ぎます。
 などと言っているうちに、レッスンが進めば女性歌手付きの”ハンガリー民謡”なんてそのままの曲が堂々と出てくるのだった。その他、バッハへの頌歌など一分もない曲なのだが、これもバルトーク節炸裂で実にスリリング。

 まあ、ピアノなど弾く気もないこちらは、こんな風に勝手に面白がっていればいいのだが、これらの曲を練習曲として本当に使った人々はどんな気分だったのだろう。この作品、実際にピアノ練習曲として使われる事も多かったと聞くが。
 そして終章、もうここまでくればあからさまに好きな事をやってしまえとばかりに開陳される”ブルガリアのリズムによる6つの舞曲”において、バルトークの文字通り小宇宙は爆発する。凄いなあ。

 そして単なる野次馬のこちらは、本物のバルカン民謡と、そしてなぜかセロニアス・モンクのソロ・ピアノが聴きたい気分になっていたりするのだった。




サン・サーンスのパリ暮色

2011-04-20 02:06:55 | クラシック裏通り

 ”Camille Saint-Saens ・Melodies Sans Paroles
  (Songs Transcribed for Oboe & Piano)”
 
 フランスの作曲家サン=サーンスが、もともとは歌曲として書いたメロディを、オーボエとピアノのデュオ用に編曲したもの、なのだそうです。クラシックの世界では、このような変奏は、どのように認知されているんだろう?もちろんポップスの世界では、やりたい放題なんだが。
 それはそれとして。私はこの、ピアノだけをバックに木管楽器が鳴り渡るデュオ編成って大好きなんですね。ジャズでもクラシックでも、見かけるとつい買ってしまったりする。木管系の内省的な響きが、ピアノとの静かな対話の内に、心の内に染み入るように想念を広げて行く、そんな感じが。

 まあ、クラシックの熱心なファンでもない私のようなものにとってはサン・サーンスといえば「動物の謝肉祭」なんだけど。中学の授業で聞かされたその作品はクラシックにしては楽しい出来上がりで結構好印象を持ったものだった。とは言え、メロディの断片一つ、まともに覚えちゃいないが。
 この作品集で聴かれるサン・サーンスは、なんだかめちゃくちゃに粋な人、という印象であります。中学の記憶を掘り起こし、ここまで粋な人だったのか?なんて思ってみたりもしますな。

 ジャケの絵にあるような19世紀のパリの煤けた町並みを、蹄鉄の音を石畳の道に響かせて馬車が行く。夕暮れが忍び寄りガス灯に灯がともり、優雅な夜会服に着替えた人々が行き交い、街は華やぐ。そんな大時代なロマン暮色が、盤の隅々までビッシリつまっている感じです。
 もともと”歌心”というものを機能させるために編み上げられた歌曲のメロディが歌詞さえ剥ぎ取られて、より抽象的な器楽演奏という形で、空間に解き放たれる。それがこの作品においては、作曲家が意図したよりも明瞭に、メロディのうちに潜む切ない感傷が零れ出てしまった。そんな気がするんですが、どんなものでしょう?

 サン・サーンスという穏健にして知的な(と、ウィキペディアには書いてあった)大作曲家の胸のうちに息ずいていた若気の至りが仄見える、そんな気がして嬉しくなるんだけど。
 いや、ほんとに切ない、それこそ私の求める”港々の歌謡曲”状態で、メロディは夕暮れのパリの街角に響き渡っているのであります。