ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

香港のホワイトクリスマス

2012-12-24 11:16:29 | アジア

 ”Pause”by Jade Kwan

 さてクリスマスか、などといって香港のジェイド・クァンの今年の新譜など取り出したのだが、考えてみればこれ、クリスマス・アルバムでもなんでもないのだった。なのに私は、何の疑いもなくこのCDをクリスマスに聴くためのものとして購入したのだった。
 だってねえ。彼女との出会いは2009年に出た”Shine”なるアルバムだったのだが、クリスチャン色の濃厚に漂う歌詞に、切実な想いの込められた切なすぎるメロディの附された、しかも南の島、香港にも似合わぬ清涼感に包まれたそのアルバムの佇まいは、どう考えたってクリスマスを寿ぐアルバムとしか思えなかったのだ。

 そして一年後に届けられた彼女の新譜、”Beginning”は、雪まみれになりながらどこともしれぬ荒野で、同じように雪に埋もれたピアノと向かい合うジェイド・クァンの幻想的な姿を捉えたジャケが象徴的な、これも冬景色が似合いなアルバムだった。
 凍りつく冬の大気の中でリンと一筋、弦を震わせて、雪の結晶を見るような精巧なメロディを謳う氷のピアノ、そんな壊れそうな道具を相棒に、彼女の歌うバラードは、すべてがクリスマスという舞台装置に見事に収まるような気がした。だから私は、彼女の歌う歌は全てクリスマスソング、みたいな思い込みをしていたのだった。

 彼女の歌の前では、香港島は現実のそれよりずっと北の緯度に位置する、シベリア寒気の只中に位置する小島にと変質する。
 チムサァアチョイに大雪は降り積み、人々は香港名物の2階建てバスを降りながら吹き付ける北風に思わず分厚いコートの襟を合わせる。コーズウェイ・ベイは凍りつき、フェリーは今日も欠航だ。降り止まない吹雪の向こうからかすかに聞こえるのは教会の鐘の音だろうか。人々は誰に言うとでもなく呟く。メリー・クリスマス、こちら九龍は、素敵なホワイト・クリスマスだよと。

 んなこたあねえよっと。冗談じゃない、香港は沖縄よりも台湾よりも南にあるんだ。熱帯の、クソ暑い島なんだよ。

 調べてみるとジェイド・クァンは20歳の時にカナダ国籍を取り、大学もカナダのものを卒業している。が、その後、彼女は香港の会社のオーディソンを受け、香港のレコード会社からアルバムを発表し続けている。
 彼女がカナダ国籍の人となったのは、まあ、それなりの事情といったところなのだろうが、歌手として世に出るために香港に還るあたりが面白い。おそらくは生活の場はカナダ、金稼ぎには香港、及びその周辺の中華地域ということなんだろうけど。

 彼女の歌世界に頻出する北の叙情は、おそらくはそのカナダで心の中に育て上げたものなのではないかと想像するのだが、そいつと彼女のクリスチャンとしての感性などがないまぜになり、南のファンキーな小島、香港を歌ってしまっている。その強引な幻想のありようが素敵で、どうにも彼女のファンはやめられないな、というお話。
 そんな次第でこのアルバムも、彼女らしい可愛いバラードが収められた、いつもの素敵なクリスマス・アルバムだったのである、




十字架に帰ろう

2012-12-09 23:14:09 | アジア

 ”J's Song With Me”by J

 韓国のクリスチャン・ミュージックに関しては、もう何度か書いてきた。我が国に比べても総人口に占めるキリスト教徒の率は相当に分厚く、韓国なりのゴスペルのシーンも存在しているようで、それはキリスト教に関わるポップスのたぐいも存在していて不思議はない。
 興味を持ってあれこれ聴いてゆくうち、その独特の存在の仕方など、なかなかに味わい深いものがあることがわかってきた。
 その音楽の宣伝のされかたなど見てみると、どうやらこれ、かの国のクリスチャンでない人たちにも、いわゆる”癒しの音楽”として愛好されているのではないか、と思えて来た。宗教色のあまり濃くない歌詞内容のものもかなりあるようで、その清潔感の漂う曲想など、普通の心安らぐイージーリスニング色の濃い大衆歌として韓国の人々は、これらの歌に親しんできているのではないか。

 我が国のフォークやロックのミュージシャンの中にも、心優しげな歌詞やメロディで、その種のものが好きな層に好評な者がいる。そのような”癒し”を提供するポジションに、韓国では世俗宗教歌がいる、ということではないのか。
 この辺の本音と建前の狭間に微妙に存在する何者か、というのも面白いので、もう少し調べてみたいが。
 そういえば韓国のゴスペル界は、黒人系ゴスペルの影響を受けた連中と、白人系のゴスペル音楽の影響を受けた連中と二派に別れ、互いに微妙な関係である、なんて記事を読んだことがあるのだが。それが本当なら、これは私好みのヘンテコ世界ということになり、興味津々なのだが、さて、どんな運びになりますやら。

 というわけで。今回紹介は、どうやら普段はR&Bなど歌っているらしい(もう何人目かわからない”韓国のジャニス”の一人なのだろうか)”J”なる女性歌手のアルバム。普段は世俗音楽の世界に生きつつも、ときにこのように宗教色の濃いアルバムを出したくなったりするものなのだろうか、敬虔な信者の人たちは。 
 よく分からないが、このジャケの清楚なイメージにはやられた。正直言って内容知らずのジャケ買い物件である、実は。

 内容は、シンプルなピアノの調べに乗って清純なメロディを歌い上げてゆく、という、この種のアルバムの定番。その中にホーンの入ったソウルっぽい仕上がりのものやら、さわやかなボサノバ調などが混じってくる、幕の内弁当的構成。
 歌詞の大意訳など読んでみると、もう神への愛、神への感謝の連発で、まあ当然なんだけど、汚濁の芸能界なんで生きてゆくことにふと疲れを感じたりすると、こんなアルバムを作りたくなってしまうんですかね。それともこれも、とうに様式美の世界になっていたりするんだろうか。

 それにしてもこのアルバム、いかにも普通はソウルっぽいメロディをガッタガッタ!と歌い上げているのだろう、ハスキーなJ嬢の声質が、よくあるクリスチャン・ミュージックに比べると若干のディープさを醸し出していて、この一味違う重い手触りが、なかなか面白いのだ。
 この方向で思い切りソウルフルなゴスペル・シャウターの世界を展開すれば強力なものが出来るのではないか。ちょっと中途半端だったかな、もったいないな、とか感じたのだが、そこまで濃厚にやってしまわないのが、韓流ゴスペル世界の美学なのかもしれない。まあ、よくわからないですな、信仰心のない者に神の世界の事情は。

 (なお、このアルバムの曲はYou-Tubeには見当たりませんでした。とりあえず参考のために、J嬢の通常営業曲といいますか、世俗の歌でも聞いておいてください↓)



落花

2012-11-29 01:35:05 | アジア

 ”FALLEN FLOWERS”by CHERRY MA

 一聴、サリー・イップの「真心真意過一生」なんて古い作品を思い出してしまったのである。まだ香港が「借り物の時間」の内にいた英領時代、サリーのあのアルバムは、中華民族のドメスティックな喜怒哀楽の只中で静かに湧き出ていた、透き通るような詩情が心を込めて歌われた、見事な作品だった。
 2010年、遥か時をおいて世に出されたチェリー嬢のこのアルバムもまた、時の狭間で人知れず咲いた野の花一輪、みたいな可憐なトキメキを持ってここにある。
 連想は、アルバムの真ん中過ぎてまさに聴かせどころのあたりに、どちらのアルバムも同じように「哭砂」という中華バラードの古典が置かれていることなどに誘発されているだろう。

 もっとも、サリー・イップのアルバムはディスコっぽいダンスナンバーも含む艶やかな出来上がりだったが、こちらは生ギターの爪弾きなどが中心となったアコースティックなサウンドのうちに繊細なバラードばかりが呟きのように歌われて行く、たいへんに静的な作りだ。静謐を歌う、なんて副題が付いていてもいいんじゃないか。
 収められている歌の素性は当方の親しく聴いているものもあり、見当もつかないものもある。いずれも、中国伝統の大衆歌謡のメロディと西洋音楽の和声感覚との交差の果てに生まれた、繊細な美しさを持つ”モダン中華ポップス”ばかり。(いや、外国曲や民謡も含まれてはいるのだが、ここまで親和してしまえば、もう同じこと?)

 どれも20世紀の中国で巷間、親しく歌われていた大衆歌謡の有名無名の佳作群から撰ばれた曲なのだろう。
 そんな、微妙なバランスでこの世にひと時だけ存在した宝石の面影が、時代遅れの幻灯機に映し出されて姿を現す。
 荒れ狂う憂き世に、過ぎ去ってしまったものだけが美しい。そんな悲しい余韻を残して、それらは儚く夜闇に消えてしまう。見送る我らを現世に残して。



台湾サパークラブの夜は更けて

2012-11-23 04:49:02 | アジア

 ”手只”by 黄千芸

 台湾の演歌歌手、黄千芸の2010年度作品。とはいえ、10年前に作られていたとしても、10年後に作られるとしても、同じような作りになっていたろう、なんて気がする。彼女の歌声は、そんな、ジットリと民衆の心に染み付いて取れないままの年季を経たシミみたいな音楽だ。

 黄千芸女史は落ち着いた歌声の、決して派手なキャラクターではないのだが、なにやら濡れ雑巾のようにヌメッとこちらの心の裏側に張り付いてくる独特の癖のある歌声の持ち主で、当方は初めて聴く人だが、それなりにキャリアは長いのではないか。
 このアルバムの中に男性歌手とのデュエット曲が2曲あるのだが、そのデュエット相手に合わせる彼女の歌声は、楚々たる印象のうちにも、何とも言えない淫靡なエロティシズムを醸し出していて、これは深い世界だなあと感心した次第。

 バックの演奏がまた傑物で、生のピアノが前面にでているのだが、これがレコーディングでプレイする内容ではないだろう、というもの。どちらかと言えばボイストレーニングの際にコーチの先生が弾くようなピアノ、という感じだ。それに従うリズム隊も、ズンチャカチャッチャ、ズンチャ、ズンチャとなんの工夫もないルーティン・ワークに終始し、全体としては田舎の温泉町のホテル最上階のサパークラブの風情が漂う。そいつがまた、黄千芸のレイジーな演歌に似合っているのだった。

 どういう経緯か分からぬが、遠い昔に日本から、おそらくは民衆の口から口へと歌い伝えられつつ台湾の地に移入した演歌音楽。それは昭和30年代あたりで本家たる日本演歌の影響を離れ、台湾独自の道を歩き始めた。
 結果、生まれたのは、我ら日本人にはたまらなく昔懐かしい演歌の響き、でもよく聴くと深いどこかで決定的に違っている、そんな不思議な音楽。

 その音楽が抱きしめた台湾の人々の不安と孤独。いくつもいくつもの夜が、南の島の岸辺を洗った。
 そして今夜も、田舎町のサパークラブの夜は明けない。




ティップちゃんのおしゃれモーラム

2012-11-09 02:54:53 | アジア

 ”O.K. BOE AI”by KAWATIP THIDADIN

 初めてこの子の歌う姿を You-tube で見たときは、「やあ、ついにこんな子が出てきたんだな」と、すっかり嬉しくなっちゃったのでありました。
 タイ東北部の、まあ言っちゃあ悪いがド田舎の泥臭いローカル歌謡、モーラムを、こんなに新しい感覚で歌う女の子が現れた。それも、とてつもなくカッコいいサウンドを引き連れて。しかも可愛い。なおかつ現役女子大生であるというんだから。一体どこに文句のつけようがあるというんだろうか。
 なんか、これがセカンドアルバムなんだそうだけど、くっそう、デビュー盤、聞き損なっちゃったよ。まあ、このところタイって、あんまり気を入れて聴いていなかったからなあ。まこと、筒井康隆の言うとおり、全てのジャンルの熱狂的ファンであるのは物理的に不可能だ。

 思い返せば、タイのポップスを聴き始めた頃は、このモーラムみたいなローカル歌謡ばかり聴いていたものです。
 法事の時に坊さんが打ち鳴らす鳴り物みたいなパーカッションの打ち鳴らすねちっこいリズムに乗って、ドロドロの水田でのたうつナマズみたいにグネグネとコブシを回して、鼻の詰まったみたいなミャーミャー声で歌われる田舎の祭りの演芸みたいな音楽を聴くのが、何やら非常にスリリングに感じられた。汎東アジア的ファンキー感覚の源流に触れた、みたいな気持ちになっていた。

 でもまあ、人は飽きやすいものでしてね。そのうち、”洗練された都会のサウンドのうちに秘かに息づく民族の血”みたいな、そんな微妙な世界に興味が行き始めた。同じタイの泥臭歌謡でも、いくらか今日的な、まあ演歌であるルークトゥン、それもどちらかと言えばあんまり田舎臭くないものなんかを私は好んで聴き出していた。
 そんな隙(?)を突くように登場したのが、この KAWATIP THIDADINちゃんだったのであります。
 伝統色濃いディープな語り物であるモーラム歌謡のニュアンスを、アイドル的でさえある明るい歌い口で昇華し、キュートに聴かせてくれてしまっているわけですよ。で、ラストの曲なんかでは、ちゃんと田舎娘の素朴な心情なんかをほのぼの、かつネトッと聴かせてもくれるんで、このあたりも憎いですねえ。

 で、そのサウンドは。これはバックに付いてる連中の功績なんだろうけど、ヒップホップなんかの要素を入れ込みつつ、全く新しいタイ・ポップスのサウンドを作り出してしまっているんで、これも良い仕事してると思うわ。注意して聴いていると、色々なイタズラが仕掛けてあってね、あちこちでニヤニヤさせてもらいました。
 聴き終えて妙に心に残ったのが、3曲目あたりの、こういうのをラガマフィンっていうのかな、レゲのリズムに乗せて、やや影のある世界を聴かせる。こんなのもいいよな、いろんなことがやれるよな、とますます彼女の明日に期待してしまう私なのでありました。



Causway Bay の朝は変わらねど

2012-11-05 00:30:01 | アジア

 ”Purely”by Lily Chan

 窓から眩しい朝の日差しは入って来て、いつものように爽やかな朝が始まろうとしている。そう、それは確かな現実なのだ。けれど。
 吹き抜けて行く風の歌う歌に、なにか一筋の哀しみの節が混じっているような気がする。いや、そんな悲しみなど、あるはずはないのだが。
 何が悲しいのかわからない。頭を振って忘れてしまおうとするのだが、その正体不明の想いはなぜか、いつまでも心に残って消えることがない。街は、人々は、もうすでにエネルギッシュに今日一日の営みを始めているのだが。

 あのテレサ・テンのカバー集や、さらにさかのぼって戦前、上海歌壇のスターとして鳴らした伝説的歌手、周旋のカバー集など、印象に残るアルバムをたて続けに送り出してきた香港のリリー・チャンが、またも気になるカバー作品をリリースした。
 今回は、かっての香港ポップス黄金時代に男女スター歌手たちが世に送り出したヒット曲各種を再演したもの。香港ポップスに想い入れる者にはまさに、痒いところに手が届く選曲であり、ほのぼのと嬉しくなります。まさに俺たちの宝石だぜ、などと口走ってしまいそうな愛しきメロディたちの万華鏡。
 ああ、この曲がヒットしていた頃は、あんなことをしていたなあ。あの頃のあいつは、あの時のあの子は、みんな、どうしているんだろう。

 だが、時代を彩った名曲集とは言えリリーの歌声に過度の思い入れはなく、むしろ囁きやつぶやきに近いさりげないもの。まるで自らの心のうちに生きる思い出だけに向かって歌いかけているように。
 そんなリリーの歌声に合わせて、バックの音作りも室内楽的というのか、物静かなものとなっている。ピアノやギターの爪弾き、フルートの囁き、そっと立ち現れては消えてゆく控えめなストリングスの揺らめき。すべてが水彩画のような淡い色合いを持って、そっとリリーの歌声を支える。

 それにしても、この水彩画の世界に静かに降りしきる水色の悲しみの正体って、なんだろう?単に、過ぎ去った時代への感傷、そればかりではないように思えてならないんだが。



台湾極楽隊近況

2012-10-29 02:36:01 | アジア

 ”Only Love”by Huang Lian Yu

 台湾に、”新寶島康樂隊”なる土俗系フォークロックバンドあり。
 それはいかにも台湾らしいとぼけたユーモアと、その陰に潜む毒と、濃厚な土属性を湛えた、なんとも奇態なるバンドで、もう十数年前になるがバンドの歴史の初期には日本盤さえ出たことがあるとは、全く今となっては信じられない話だ。よくもまあ、あんなマニアなバンドが。いずれ、バブルというのはすげえもんだな、という方向に話は帰着してゆくのだが。まあ、それはいいとして。
 これは、そのバンドの中心人物のひとり、ホァン・リェンユーが2008年にリリスした2枚目のソロアルバムである。

 ホアンは漢民族の中でも独特の歴史を生きた支族、”客家”の血を引く者で、客家語を用いて歌う、そのあたりは珍しい存在であったりする。というか彼が籍を置いた新寶島康樂隊というバンドそのものが、北京語や台湾語、そして客家語が乱れ飛ぶ、不思議なバンドだったようだ。
 ホァンは、台湾の現実にたいして彼が感じている共感や違和感を、その飄々としたユーモアを湛えたキャラのうちに表現してきた。このアルバムでもその姿勢は変わらず、なんとも楽しい楽趣のうちに、台湾の現実がくっきりと浮かび上がってくる仕掛け。

 なんといっても4曲目に収められたタイトルナンバーあたりからが、このアルバムのハイライトだ。なにしろ台湾語のマージービート・ナンバー。非常にビートルズを感じさせる作風である。多分、”愛こそはすべて”あたりをパロディにしたかと思われる世界が、実に楽しげに繰り広げられる。
 そして次に現れるのが台湾語による沖縄島唄。デビュー当時のネーネーズあたりがモトネタなんだろうか、のどかに沖縄への憧れが歌われるが、時期的になにやらむずがゆい気分にならないでもない、というヤバさをあえて楽しむ、なんて気分で聞くとますます楽しい、みたいな妙なポジションに置かれているのかも知れない、この曲。

 さらに次にはモロに”カラオケ”なるタイトルの曲で、ベタな男女デュオの演歌調が、台湾の場末で安酒に興ずる名も無き大衆の喜怒哀楽を伝える。
 そんな具合にファンクナンバーやらロックやらフォークやら演歌やらが乱れ飛ぶ、おもちゃ箱をひっくり返したような楽しさで、これで歌詞の意味が分かったらますます楽しめるんだろうなあと、もどかしくなったりもする。

 歌詞で思い出したがこのアルバム、歌詞カードがすごい。ミュージシャンの手書き、というか明らかに作詞作曲の際に使ったメモのコピーをそのまま並べている。
 歌詞の訂正箇所は横線を引いて消され、推敲後の言葉を書き加え、その文章の上にはコードネームが書き込まれている。いちいち汚い。
 まさに舞台裏をそのまま公開してしまっている身も蓋もなさが笑える。さらに、どうやら彼はメロディを書き記す際、五線譜に音符ではなく、数字を並べる、いわゆる”ハモニカ楽譜”を使っている、なんてことまで分かってしまうありさま。

 この辺のあけっぴろげなユーモア感覚がともかく彼の魅力と言えるだろう。そんな彼の個性のよく出た好作品だ。




香港、冬の情景

2012-10-19 05:30:04 | アジア

 ”預見?...遇見。”by Vincy

 香港製の冬景色系とでも言うしかないポップスの形態というのは、あれはなんなんだろうなあと以前から不思議でならないのだが。あるんだよね、昨今の香港の歌手が発表する、冬景色が目の前に広がるようなスタイルのポップスが。
 これは以前、この場で取り上げたことがあったが、キリッと澄んだ叙情が味わえるジェイド・クワンの”shine”や”New Bigining”といったクリスマス福音系ポップスまで、探してみれば、続々と見つかるのであって。新しい時代の人気者、Vincyが一昨年出したこの盤も、そんな感じの音楽が収められています。

 窓の外を見ればまばゆい星空の下に広がる雪景色。厚いコートを羽織り外に出る。一人行く冬景色の中を。凍えた掌にそっと息を吹きかけてみる、静けさの中。
 なんて感じで、自らの心の内を研ぎ澄ました冬の情景表現に託して繊細に歌いあげる、そんな感じの内省的な感触のポップス。
 だけどねえ。そんな歌が歌われている場所が、香港ですからね。沖縄よりも、台湾よりも南の地。そのクソ熱く湿気の多い土地柄で、なんでこんなありもしない冬の表情を持った歌たちが生まれてくるのだろう。
 せまくるしい土地に高層ビルがいくつもおっ立ち、かしましい中華民族の日常が展開されている、そんな日常の中から、シンと静まった温度も湿度も低いほの暗い部屋の中、繊細極まる魂がそっとピアノの鍵盤を押して出来上がった、みたいな音楽がやって来る不思議。

 ここで、”返還”直前の、不思議な焦燥感と終末感に身悶えるような切迫感を持って時代を歌っていた、”あの頃”の香港ポップスに今だ思い入れのある私などは、やはり関連付けて想像を繰り広げてしまうのですね。
 借り物の夢の時間は終わり、だが世界は終わるわけでもなく、違う日常がやって来る。過酷な現実に浸食されてゆく時間が。
 そんな時間の中で、ある種の人々の傷つきやすい魂は別の世界の夢を見る。来るはずのない冬の中で凍りついた世界を。そこでは時が流れることもなく、現実世界からの夾雑物は降り次ぐ雪の中に埋もれ、見えなくなってしまう。

 それはもちろん、かりそめの夢でしかないのだが。だからなおのこと、幻想は深い悲しみの色をおび、鋭利に研ぎ澄まされて行く。
 さて香港、明日の天気は?



大韓ロリロリ娘

2012-10-13 05:46:53 | アジア

 ”EMOTION”by Yu Chae Young

 情け容赦もなく打ち込まれる機械のリズムの嵐の中に響くトロットロに甘ったるいロリ声という組み合わせは、私の結構好きなパターンです。
 あの、いかにも世紀末めいた罪深い快楽の匂う雰囲気が良い。理性を打ちのめし、打ち砕く無機的なリズムと、幼ぶった装いの裏に、逆にほのめかされる性の快楽の気配。
 ”罪を犯す”という後ろめたさに裏打ちされた悦楽の気配。禁忌は時に、闇の快楽をむしろ、増大させる役割を担うものであったりします。
 例えば90年代香港のロリ声代表、ステファニー・ライなんて歌手はいまだに忘れ難かったりする。どうしてるんでしょうねえ、彼女。まあ、その話はこの際、関係はないが。

 ここに挙げました韓国の、なんでもかの国の”テクノ三人娘”の一角をなす人気者のようですが、 Yu Chae Young嬢のデビュー盤も、ヤバい喜びにあふれた一枚となっております。この子は、このロリ声のままでバラードとかも歌っちゃうから、ますます罪は重い(?)ね。
 これがまた、口やかましい儒教の風吹きすさぶ韓国の事であれば、ますます痛快って気分にもなろうというもので。まあ、この年代のコたちにしてみれば、どうってことないのかも知れませんなあ。いいぞいいぞ、行け行け、どんどん。



ヤシの実流れ来る故郷

2012-10-12 01:39:58 | アジア

 ”太陽月亮”by Ado' Kaliting Pacida

 演唱歌手:阿洛・卡力亭・巴奇辣 
 專輯名称:太陽月亮
 專輯語言:原住民阿美族語

 という訳で、台湾の先住民歌手、Ado女史の本年度作。2006年デビューで、これ以前にもアルバムは出ているらしいけれど、私にはこれが初対面。ともかくジャケを開き、その濃厚に”異民族”を主張しているビジュアルにまず、圧倒されます。
 台湾先住の民族というのは、北ボルネオのあたりから移ってきた人々、なんて話も聞いたけど、ともかく彼女のジャケ写真のどれもがビジュアル面で濃厚に”東南アジア”を発散していて、いわゆる台湾のイメージに対する、”異物”としての迫力が半端ではない。

 アルバムから聴こえてくる音楽も、中華民族とはとりあえず関係のないもの、を主張している。一言で印象を言えば、ハワイアンが既知の音楽で最も近い響きを持っているか。予備知識なしに冒頭のタイトル曲を聞かせれば、100人に100人がハワイの音楽と受け取るのではないか。
 時に、ヒップホップ仕立てやら普通の台湾ポップスに近い作りの歌謡ものなど挟みつつ、そんな”東南アジア出自”の色濃い先住民族古謡の世界が開陳されて行く。使用言語もアミ族の言葉ゆえ、エキゾティックな響きはいや増し、台湾がマレーシアとインドネシアのあいだのどこかにある、くらいの幻想は生まれる。

 ジャケの解説など読む限り、かなり精神性が濃厚な音楽という感じなんだけど、これはどこまでリアルなんだろうか。ともあれ、Ado女史の演出する不思議な台湾山地=東南アジア最北端幻視行に一時、魂を預けてみるのも一興であります。