ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

クルドの夜と風の歌

2010-12-30 04:52:15 | イスラム世界
 ”Azdane”by Sena

 トルコ領内に住み活動する、クルド人の女性歌手とのこと。それ以上は何も知らない。You-Tubeでためし聞きしていて、妙に惹かれるものがあって買ってみたCDなのだが。
 彼女の身に着けている衣装からして、民俗芸能色の濃さを感じずにはいられない。音のほうも、弦や打楽器による民族楽器アンサンブルがグルグルとうねるようなイスラミックな旋律を奏で、それに乗ってSena女史がかなりプリミティブな、ほとんど呪文に近いような旋律を繰り返し歌う形だ。

 各楽器の響きはずいぶんと乾いたもので、中近東というよりもむしろ中央アジアの空気を感じさせるものがある。さらに、ずいぶんと自由奔放なプレイと感ずる。曲によっては、民族楽器アンサンブルの中に紛れ込んでいるエレキギターとエレキベースが、かなりプログレ風というかサイケなアドリブを聴かせもする。実際、ギターなどは逸脱といいたいほどのプレイを聴かせ、バッキングのメンバー表を検めると、ギター、ベース、ドラムスのプレイヤー名はドイツ人くさい。

 Sena女史のボーカルは世俗の恋愛沙汰などではなく、何百年も前に起こった歴史的事件に関する叙事詩を読み上げるようなアルカイックな手触りがあり、神官とか巫女が挙げる祝詞に通ずるものを感じたりする。だからそのボーカルが高揚すると、過ぎ去った時の向こうに浮かび上がってくるのは。いや、この先を続けると彼女がクルド人である事情に意味を付与し過ぎた聞き方となってしまうかも知れない。
 ただもう、歌を包む深い夜の雰囲気と、その向こうから吹き付けてくる中央アジア経由に思われる砂漠の風を感受しつつ、彼女の呪術的節回しに酔うだけにしておこう。



2010’年間ベストCD10選

2010-12-27 01:07:32 | 年間ベストCD10選
1)”Rainbow” by Moon Bora (korea)
2)”Ctrl Alt Delete” by Free the Robots (USA)
3)”Shangaan Electro”
;New Wave Dance Music From South Africa (South Africa)
4)”My Room in the Trees” by The Innocence Mission (USA)
5)”315360” by Kim Yoon Ah (Korea)
6)”Assume Crash Position” by Konono No1 (Congo)
7)”Air Chall:Lost” by Rachel Walker (Scotland)
8)”Mektubumu Buldun Mu?” by Goksel (Turkey)
9)”Fair Ladies” by Fair Ladies (Thailand)
10)”he Mbira Music of Golden Nhamo” (Zimbabwe)

 毎度!!!一年の締めくくり、年間ベストCD10選であります。
 形としましては、今年発売された全世界の盤の中から選ぶが、昨年の作品も我が国に入ってくる時差(?)を考慮して選考の対象とする。製作年度の分からない盤は、こちらの都合の良いように解釈させてもらう。
 また、昨年まであった”一国一枚、一ジャンル一枚”なる縛りのうち、一国一枚の枠は廃止しました。一ジャンル一枚は変わらず。だってこれを廃止しちゃうと半分以上がトロット演歌になりかねないから。
 今年は、テクノやエレクトリコとか呼ばれる音楽にどんどん興味が出てきたり、囁き声系の北米女性フォークに惹かれたり、いろいろ我が音楽観に変化の出た年であり、気が付けば思い入れているはずのタンゴやロシアのポップスをろくに聴いていなかったり。後年、振り返ったら過渡期のベストとなるのかも知れない。

1)猥雑さの勝利だ。こんなものを一位にしてしまった自分が恥かしくてならない。性急に打ち込まれる機械のリズムに乗って、うんざりするくらいにベタなド歌謡曲のメロディがロリ声で歌い飛ばされて行く。この刹那的快楽のミもフタもなさに、韓国の人々が覗き込んでいる時代の深淵を垣間見た気がする
2)アメリカの黒人DJが作った音楽をここに置く日が来るとは思わなかったが。興味を持ち始めたエレクトロニクス・ポップから。戦前のプラハのユダヤ人街の地下室で封印されたはずの人造人間ゴーレムが、どこをどう流れたか今日のアメリカ西海岸の黒人街で目を覚ました、みたいなグロテスク劇。重苦しいビートに乗って飛び交う電子音や生弾きの楽器が形成するカオスに感性をねじ伏せられる快感・・・
3)どう説明したらいいのか分からん。ともかく、ここまで素っ頓狂な音楽が、まだ今日のアフリカから生まれ出てくるという事実だけでも嬉しいよね。
4)生まれたての朝の空気みたいに、ウソみたいにピュアなアメリカの女性フォーク・ミュージック。ほんとかよ?と呟きつつ朝の空気を深呼吸。
5)キム・ヨナじゃないよ、キム・ユナだよ。韓国のロックバンド、紫雨林(ジャウリム)のボーカリストの3作目のソロアルバム。シンと澄んだ世界に一筋、電子音が響き、ユナの神秘的な声が関節の狂った子守唄みたいな節を歌い上げる。現代社会がバタバタと裏返って昔話になって行くみたい。歌詞内容が凄く知りたい。
6)もうこの先は何もありません、みたいな世界の果てまで飛んで行ってしまった電子ムビラ集団。なにやら壮絶なミニマル・ミュージックとなって来た。
7)スコットランドのベテラン・トラッド歌手による、諸行無常歌集。切ないようっと涙しつつ聴く、何度も聴く。もう帰らぬ親しかった人たちを想いながら。
8)どうやら現地の懐メロ企画盤みたいなのだが、いかなるジャンルの懐メロやら、とにかくアラブっぽさより我が日本の昔の歌謡曲を想起させる不思議な曲調が並ぶ。アジア大陸を横に貫く一筋の血の回廊など、幻想は広がる。
9)タイのアイドル・ポップス。デビュー作にして、このデュオのアンニュイ感はどうだ。人影のなくなった、夏の終わりの海辺。ジャズいギターを聴きながら落ちる夕日を眺めていたら、ちょっぴり切なくなって・・・なんてけだるい感傷の流れが妙に心に残りました。しかし、夏の終わりったってタイの海岸物語ですからね。湘南とは違うはずなのに、この音だ。
10)民俗音楽っぽいものは苦手としているんだけど、この幻の親指ピアノ弾きのソロ・プレイには魅了されてしまった。キンコンカンコンと織り上げて行く音の曼荼羅が、いつの間にか壮大な宇宙観と化して、実にスリリング。彼の残した録音が、どうやらこれだけであるらしいのが残念でならない。



教会暦によるオルガンコラール集

2010-12-26 02:55:11 | ヨーロッパ

 ”J.Sバッハ 教会暦によるオルガン・コラール集”by ヘルムート・リリング

 さてクリスマスも終わって、もう年の終わりの覚悟をつけねばならない頃だ。というかさあ。もう秋口からクリスマスクリスマスと大騒ぎして延々と商戦を繰り広げてきたんだから、クリスマス以後、急に静かになるなよな、と世間に言いたい。
 私は恥ずかしながら十数年前のクリスマスの翌日、行きつけのデパートのエスカレーターの登り口から、それまでずっと飾られていたクリスマス・ツリー風の装飾が一気に撤去され、あたりがすっかりガランとしているのを見て、寂しさに思わず涙ぐみそうになった経験があるのだ。
 「何がクリスマスだ」とか聖夜商戦を横目で見て腹立たしく思っていた私だから、そんなもの基本的に恋しいわけはないが、いきなり祭りをやめるなよ。淋しいじゃないか、それなりに。

 という訳で、話の流れに関係あるかどうか怪しいが、クリスマスが終わって正月がやって来るまでの間、いつの頃からかこんなアルバムを聴くようになった。教会暦にある各祝祭日にちなんだバッハ作のオルガン曲を集めたものだ。修道僧のための雰囲気作りかね。
 まあ、何だか知らないけど、これを聴いていると、「どうあがこうと時は流れ過ぎて行くものだ。仕方がないじゃないか」なんて諦念がなんとなく湧いてくるのだった。

 しかし・・・年末はまあ、これで良いとしても、新年というのはどうしても来なければならないものなのかね?何にもおめでたいことなんかないのに「おめでとうございます」とか、形式上だけにしても挨拶せねばならないのは苦痛だし、せっかく12ヶ月で一年が終わったのに、また頭から巻き返しで一月、二月と丸ごとやり直さねばならないのかと思うと、もう今からうんざりする。
 なんでそんな円還構造を生きねばならんのだ?12月の次は13月だっていいじゃないか。13月の次は14月だ。その次は15月。冬は終わらず、一日はどんどん短くなり、ついには終日、太陽の顔を見ない日々がやって来る。そのうち、冬眠する人たちも出よう。終わりなき幽冥境の時間。ああ、なんて心安らぐことだろう。永遠に朝は来ないのだ。

 毎度の話だけど、このアルバムの音はYou-Tubeにはないようだ。しょうがないから、瀬尾千絵というオルガン奏者が、このアルバムに収められている曲の内の一つを弾いてる映像を下に貼る。代わりにってのもあんまりじゃないかって気もするが、せわしない年末のことなので大目に見ていただきたく思う、瀬尾女史には。




アデリアちゃんと聖夜祭

2010-12-24 02:43:17 | アジア
 ”Lebih Dari Semua”by Adelia Lukmana

 え~相変わりもせずインドネシアのキリスト教徒御用達ポップス、”ロハニ”を偏愛している当方でありまして、クリスマスなんてえものに時期があたろうものなら、それはもうロハニの話をせずにはいられるものではない。そこでもちい出しましたるは、ロハニの世界でもひときわアイドル色濃い存在、僕らの可愛いアデリア・ルクマナちゃんの3枚目のアルバム、最新作であります。

 もう、音を聴く前にこのビジュアルがたまりませんね。作を重ねるごとに可愛くなって行くというかアイドルとしての型が出来て行く感じです。歌詞カードなんか、ミニ写真集の趣をかもし出しておりまして、ファンとしてはそれはありがたい。
 音の方はと言いますと、より繊細さを増したアレンジで、透き通るように美しいスロー・バラードを切々と歌い上げる、というパターンはさらに洗練され、さながらクリスタルの輝きを見るようであります。

 ただ、キリストの愛、いかに偉大なるか、なんてことを歌うのがロハニ歌手の使命なんじゃないの?キャピキャピとアイドルなんかやっていていいの?というのが毎度の疑問でもありまして。このあたりが、どうも分からない。
 彼女が歌っているのはなんなんだろうと。普通に聴いていると、”たまらなく逢いたいけれど逢えない恋する男”を想いながら深夜、お星様を見上げながら歌うバラード、として聴くほうが自然な気がするんですね、これらの歌。クリスチャンにとってキリストは偉大だろうけど、恋人ではないわけでしょ?

 まあね、宗教歌にかこつけてアイドルやっちゃっているのが実態なんだろうし、関係ない私があれこれ言う必要はまったくないんですが。
 ただ、この”切々たる思い”がどこを向いているのか、聴いていて不思議になる時がないでもないのですよね。歌う側の、そして聴く側の想いって、どんな形でどこを向いているのかって。




 上がこのアルバムの収録曲なんですが、どうも画面がそっけない。アデリアちゃんの動く姿をみたいじゃないか。そこで、彼女のライブ映像をここに付け足します。こちらもご覧くださいまし。




ソウル、夜の最前線

2010-12-23 02:15:41 | アジア

 ”Rainbow”by Moon Bora(문보라)

 ムーン・ボラ。韓国の新人トロット歌手である。多分年齢はハタチくらい。深夜、You-Tubeをさすらっていて、この子のプロモーションビデオに初対面した時の感じは今も忘れない。
 多分ソウルの・・・日本で言えば新宿副都心なんかに相当するのであろう街角。激しい雨が街路灯に照らされた路面に休みなく降っている。道路際に止められた高級そうな乗用車。ダルそうにワイパーが動いて、助手席で一人、所在無げに座っているムーン・ボラがいる。
 彼女自身が演じている歌の主人公は、別にそこにデートに来ているわけではない。かの国ではどのようなシステムが流行りか知らないが、彼女はこれからどこぞのホテルに売春に出かけるのである。それが証拠に、車の中の彼女はまるで幸せそうではないし、それより何より映像に被る彼女自身の歌が、それが明るみに出せない性の世界の物語である事を強烈に主張していた。休みなく雨は振り続いている。

 彼女の”売り”かと思える、ドスドスと性急に打ち込まれるディスコなりズムと、それに乗ってコブシの効いたロリ声で歌い上げられるド歌謡曲、もう臆面もない古臭い歌謡曲のメロディ。打ち込まれるリズムの身もフタもないまでのカラッカラに乾いた索漠たる感触と、歌われる民衆の手垢でベトベトとなっている旋律の湿度99パーセントのウエットさ。その強力なミスマッチ具合に、表面上は快進撃を続けているかに見える現代韓国の民衆が、心の底に抱える屈託を見た、そう思った。
 退屈な地方都市の生活に飽いてきらびやかな大都会にフラリと出かけ、遊興資金に事欠いて闇の世界にフラリと堕ちて行く少女の心の中で、焼け付きそうになっている焦燥。そんなものが渦巻いているのがこのアルバムであり、その焦燥はそのまま韓国民衆すべてのものだ。

 ミニのドレスにスケート靴を履いて笑顔を浮かべているのはキム・ヨナを気取っているのだろうか。その他、高級キャバレーのホステスに扮してみたりAKB48もどきの制服をまとってみたり。結構豪華なジャケの歌詞カードはミニ写真集仕立てになっていて、ボラはそんなコスプレを演じているが、発散しているのは終止、性の匂いである。この辺、徹底していてむしろ気持ちが良い。
 全体に、どちらかといえばアイドル歌手的な発声法なのに、曲調が歌謡曲からド演歌に近付くにつれ、やはり演歌歌手らしいコブシ全開となるのが面白く、また、跳ねる感じのリズム処理された演歌では東南アジアの、いわゆる福建ポップス的な味をかもし出すのも興味深かった。

 聴く者の胸引きちぎる都会派お下劣ポップス。とでも言っておこうか。支持する。私、このアルバムを聴いてムーン・ボラのファンになりました。全曲、ディスコなりズムと臭いド歌謡曲、の組み合わせのアップテンポ曲だったら、今年のベスト1に選んでいたところだ。




恋愛ファッショを撃て!

2010-12-22 04:17:24 | 時事

 ☆自分がモテないのは何が原因だと思いますか? 1500人アンケート結果  
     
 クリスマスシーズンなのに恋人がいない……。そんな悩みを抱えている人たちは多いのではないでしょうか? クリスマスを意識しないようにしても、世間はクリスマスムード一色。街もテレビもインターネットもクリスマス! クリスマス! クリスマス! どこもかしこもラブラブなカップルだらけで嫌になってしまいますよね。
 でも、どうして自分には恋人がいないのでしょうか?

(ガジェット通信 - 12月21日 より引用)

 ~~~~~

 そもそも恋愛なるもの、すべての人間が必ずせねばならないものなのか?本来、一部の種族が好んで行なう特殊な習俗ではなかったのか?

 にもかかわらず他文明からの狡猾な価値観の押し付けにより、それを実行できないものは人間として一段劣る者である、などと不当にも思い込まされ、「自分のもてない理由」など探し回る奴隷の身の滑稽さよ。

 束縛の鎖を千切りて立て!そしてもう一度問え。恋愛なるもの、すべての人間が必ずせねばならないものなのか?それはなぜ?と。



マリアンヌ・フェイスフル、なんとかなりませんか?

2010-12-21 04:15:26 | フリーフォーク女子部
 今、マリアンヌ・フェイスフルのデビュー当時のアルバムが欲しくてね。でも、内外ともに絶版状態みたいで手に入らず、くさっているのである。なんだこれは。

 デビュー当時のフェイスフルって、結構可憐なフォーク調のものを歌ういい感じの歌手だったんだね。ロリ系のさ。こっちは彼女をリアルタイムで知ってはいたけど、ストーンズのメンバーとのあれこれとかそんなものばかり興味を持ってしまい、彼女がどんな音楽をやっていたか、興味を持つ機会もなかった。でも今調べてみると、なかなか面白い内容のアルバムを出しているんだよ。
 特に、「ノース・カントリー・メイド」っていうアルバム、これが欲しくて。なかなか泣かせる選曲でね。あ、そう来たか、みたいな曲が並んでいる。
 まあ、詳しくはそちらで勝手に調べて欲しいんだが。うん、きっとあなたも欲しくなるに違いないって。

 で、さあ、このアルバムなんて、通販サイトになんというか”売り切れ”の表示さえないんだ。「この盤があったんだけど売り切れです」じゃなくて、その存在の痕跡さえ残っていない。そんなに売りたくないか、通販サイトもさ。
 とか言ってるけど、ますます悔しいのは、何年か前に”デッカ・イヤーズ”って彼女のボックスものが出ていて、実は”フォーク期”のフェイスフルは、これを買っておけば一網打尽だったんだよな。全部手に入っていた。まったくねえ・・・よくある話でさ。その価値に気が付いた時には、もう思いっきり絶版なんだよな。

 ねえ、なんとかならんか、レコード会社よ?



囁きの森から

2010-12-19 02:41:26 | フリーフォーク女子部
 ”My Room In The Trees”by Innocence Mission

 なぜそんなに惹かれるのか言葉に出来るような理由はないのだけれど妙に気になって仕方がない音楽、というのが今年は二つあり、ついには我慢できなくなって追いかけ始めてしまったのだが。
 その一つがテクノやエレクトロニカと呼ばれているらしい音楽であり、もう一つがこのアルバムのような、女性の低血圧系囁きボーカルがメインのフォークっぽい音楽である。
 これら物憂げな女性たちの歌声がたびたび部屋に流れるようになり、まあ本来が怠け者の私の生活はますますレイジーボーンなものとなって行ったのだが。

 ポツリポツリとシンプルに音を置いて行くギターやピアノのプレイ。そして素朴過ぎるほどに飾り気もなく無防備に歌いだされる歌。ベビーベッドで眠りこけている赤ちゃんの姿などがふと脳裏に浮かんだりする。繰り出されるメロディもまさに、子守をしながらふと口ずさむのが似合いみたいな、なにげない暖かさ柔らかさに満ちている。
 歌っている女性とバックでギターを弾いている男性とは夫婦であるとのこと。アメリカのペンシルヴァニア州ランカスター出身で、カトリック・スクールの舞台劇のためのバンドとして一緒に演奏したのがすべての始まりとのこと。

 持ち歌はすべて女性の自作、あるいは夫婦の合作という形のものがほとんどのようだ。このさりげない安らぎは、自宅で夕食を終えた二人がふと楽器を手に取り歌いだした、そんな間合いから生まれてくるのだろうか。
 とはいえ、この騒がしい世の中で生まれて育って、このような静けさに満ちた音楽をやると言うのは、それなりにひねくれた行為であり、ある種の異議申し立てなのであろう、意識的であれ、無意識ではあれ。なんて話をするのもヤボと言うものだろうが。

 たびたび引用して申し訳ないが作家の故・鈴木いずみの言葉に、「皆は1969年がすべての始まりと信じているだろうが、実は世界の終わりだったのだ」というのがある。
 どういう気分だろうね。生まれてみたらもう世界は終わっていて、その事に気が付いてしまう、というのは。歩きはじめてはみたが、吹き過ぎる夕暮れの風は冷たく、足元の道は歩を進めるごとにボロボロと頼りなく崩れて行く。
 だからこの夫婦は夕食後のキッチンで楽器を取り出し、優しくて柔らかで懐かしいメロディを手繰り寄せて歌いだしてみた・・・

 このアルバムの中ほどに収められている”all the weather”は、マヨネーズのコマーシャルのBGMに使われ、茶の間にも流れた。放浪者を気取った福山雅治が開け放たれた貨車に座り込み、サンドウィッチのタグイを頬張る。外を流れて行く緑豊かな自然は、カナダかそのあたりのように見える。吹き抜けて行く風には、太古と変わらぬ生まれたばかりの森の匂いがしたのだろう。