ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

大腸は囁く

2006-09-30 05:04:44 | いわゆる日記


 整腸剤、”ザ・ガード・コーワ”のコマーシャルは、なんとかなりませんか。

 大腸の調子を整える薬なんですか、あのコマーシャルに出てくる男優の口調、とりわけ、セリフの合間に入る「ぬふっ」とかいう鼻息は何とかなりませんかね。

 「決まった時間に(ふぬっ)出ないん(ふんっ)だよな。出ても(ふんっ)柔らかかったり硬かったり」

 あの鼻息の中に、彼のウンコ(硬かったり柔らかかったり)の臭気が混入していて、テレビの画面から匂って来るようで、どうにも不快です。せめて、食事時は流すのをやめて欲しいです。

 あんまり気がついている人がいないみたいなんだけど、注意して聴いてみてください。一度気になりはじめると、もう(ぬふっ)耳障りで耳障りで(ふぬっ)かのCMが流れるたび(ふんっ)腹が立ってくるから。

 まあ、これをして音楽の話というのもどうかと思いますが、我ながら。



イージー・リスニングの黄昏

2006-09-29 03:47:34 | アンビエント、その他


  ”憂歌団”のギター弾きだった内田勘太郎が2002年に出したソロアルバム、”Chaki Sings”は、若干のダビングはあるものの、彼のギターのみで演奏された、「ひき潮」や「ムーン・リバー」や「夏の日の恋」など、かなりベタで、かつ時代遅れでもある”ムード音楽”の定番曲集となっている。

 ブルージーに迫る、まあ、この曲なら当たり前なのだが「我が心のジョージア」や、勘太郎がこのところ住み着いているという沖縄の音楽が取上げられていたり、といったフォローが入っているからいいようなものの、ブルースバンドたる憂歌団のファンだった者には「なんじゃこりゃ?」と首を傾げさせる設定のアルバムで、あるいは何かのアイロニーが含まれているのでは?ともかんぐる人もいるかも知れない。

 が、私は勘太郎自身の筆になるジャケ裏の解説文を読み、ははあ、彼も私と似たような幼時における音楽体験をしてきたんだなあと、ニヤニヤしてしまったのだ。そこで勘太郎は、ラジオからふと流れてきた”たくさんの楽器の音が響き合い滝のように流れたり夏の雲のように湧き上がったりする演奏”に別世界へ誘われる心地を味わったと、10歳にもならない頃の体験を語っていた。
 それはそのまま、”音楽ファンになる以前に聞えていて心惹かれていたが、惹かれていた事自体にさえ、まだ気がついていなかった音楽”に関する私の思い出を語るに十分な表現である。

 それらは、ストリングス主体のイージーリスニング・ミュージック、とでも定義すればいいのだろうか。”パーシー・フェイス楽団””フランク・チャックスフィールド楽団””カラベリときらめくストリングス””101ストリングス”なんて、それらを演奏していた楽団名も、記憶の片隅に転がっている。まあ、大甘なアレンジで往時のヒット曲を臆面もなく歌い上げる、安易な娯楽と言えばその通りの演奏である。

 そんなものが私の子供の頃は、市井で”軽音楽”として愛好されていたものだ。今日、その種の、町を流れる”とりあえずのBGM”の座は、アメリカ産のどぎついダンスミュージックに奪われて久しいのであるが。

 私にとっての、それらイージーリスニング・ミュージックの最古層の記憶は、母が針仕事などしている脇で鳴っていたラジオから流れていたものとして、である。

 その、過ぎ去った歳月によってぼやけかけた記憶の中で、商家だった私の家はいつも定休日である。店の照明が落とされた薄暗い家の中で母が針仕事をしていて、私は一人遊びに飽きて、手持ち無沙汰にラジオから流れるムードミュージックを聞いている。少年時代の内田勘太郎は、どのような環境で、あれらの音楽に別世界への扉が開くのを見ていたのか。

 もう少し成長してから、そう、あれはたぶん中学に入ったばかりの頃なのだろう、私は従兄弟が何かの祝い事の際に記念にくれたラジオを布団の中に持ち込んで、寝付けぬままにラジオの深夜放送を聴いていた。まだ、今日のように深夜のラジオが若者向けの番組一色に染められてしまう前の時代、夜はまだまだ大人の時間だった。森重久弥のトークエッセイの如きもの、女優によるお色気トーク”夜の囁き”といった番組、等々。

 当時、私が好んで聞いていたものの一つに、先に挙げたようなイージーリスニング・ミュージックにときおり詩の朗読などを挿入する構成の、”夢のハーモニー”なる番組があった。湧き上がる大編成のストリングスの響き。女性アナウンサーによって読み上げられる、やや浮世離れのした誌の一節一節。

 その時点でもすでにやや時代遅れ気味の雰囲気漂うその番組は、ずっと遠くの、もうとっくの昔に閉鎖になってしまった放送局が何十年も前に放送した番組が、どこかの時空のゆがみに閉じ込められていて、それを何かのきっかけで私のラジオが受信してしまった、そんな浮世離れの感触を孕んでいて、深夜の無聊の友としては、なかなかに味のあるものだった。

 この番組、そういえばいつ頃まで放送されていたのだろう。と言うより、私はいつ聞かなくなったのだろう、と言うべきか。受験生相手の騒がしい”ディスク・ジョッキー”が深夜のラジオを占拠し、私自身も乏しい小遣いを工面してローリング・ストーンズやアニマルズの新譜を買い、下手糞なギターを奏で始め、イージーリスニング・ミュージックのことなど忘れてしまうのは、計算してみると、遅くともその一年後くらいであった筈なのだ。

 押し寄せてきた騒がしい時代に慌しく踏みにじられ、いつの間にか喪われてしまった、やわらかな時間の記憶。思い出すよすがは、今でもスーパーのワゴンセールなどで490円とかで売られているムード音楽のCDであり、前述の勘太郎のソロアルバムだったりする。こんな音楽には、変な”再評価”の光など当たらないと思うが。もちろん、それで良いのであるが。


ユエの流れ

2006-09-27 02:49:24 | アジア


 ふと「ユエの流れ」という曲を思い出し、ちょっと調べてみようなんて気を起こしたのだった。誰だったか、日本語盤シングルを出していたのだったよな。
 それは「流れは月にきらめき 憶いは波にゆらめく」そんな歌詞で歌いだされる優しいメロディの恋歌で、ベトナムの民謡だか歌謡曲だか、そんな風に紹介されていたと記憶する。

 ベトナム戦争真っ盛りの1960年代末の話である。そのような暴虐の振舞われている現実と裏腹の、ひそやかな恋歌がベトナムから伝えられる。当時、その歌が(稀ではあったが)ラジオから聞こえてくると、なんとなく”襟を正す”みたいな気分になったものだった。

 ”帰ってきた酔っ払い”の大ヒットを受けて、フォーククルセイダースがその次のシングルとして用意していたものの、発売の前日に発売禁止となった朝鮮民謡、”イムジン河”を思い起こさずにはいられない、アジアっぽい旋律が心を惹く一曲だった。
 いや実際、”イムジン河”の話題性を横から拝借、の意識がリリースしたレコード会社にあったとしても不思議ではなかった。

 ちょっと調べてみると、意外にもこの曲、”甲斐バンド”の甲斐よしひろがソロアルバムでカヴァーしているようで、その情報ばかりが引っかかって来てくさってしまったのだが。

 それでもオリジナル(?)の歌手名が”マリオ清藤”であることは分かった。彼の顔は”ユエの流れ”のジャケ写真で見たものを記憶している。もう若いとはいえない、また、二枚目とも言いがたい(失礼!)小太りの男がマイクに向かっていた。かけていた大振りのサングラスが東南アジアっぽさ(?)をそこはかとなく演出していた。
 そこまでだった。その名と彼の”ユエの流れ”が1968年発売であること、それ以上の情報はなかった。高く、柔らかな声質の歌手だったと記憶にはあるのだが。

 ”ユエ”というのは、ベトナムの古都フエを流れる香江(フオンジャン)なる河を指すようだ。

 1968年の”テト攻勢”でベトナム解放軍がフエを解放したあと、米軍が反撃、フエ再占領をした。米空軍次官のタウンゼント・フープスが、1968年3月のメモに米軍のフエ攻撃の結果を次のように記した。
 ”残されたのは廃墟と化した市街だった。建物の80%が瓦礫と化し、破壊されたあとの残骸の中に一般市民2000の遺体が横たわっていた。市民の4分の3が家を失い、略奪が横行した。米軍に支えられた南ベトナム共和国陸軍の兵隊たちが最悪の犯人だった”(1967年ベトナム戦犯国際法廷文書集へのノーム・チョムスキーによるまえがきより)

 ユエの街は、豊かな歴史を誇るベトナムを代表する古都のようだ。そこで遠い昔、月を写す川面のほとりで恋する人を待っていた娘の面影。歌は、こう結ばれている。”装い凝らして待てど あの人 来ない”と。
 そして時は流れ、戦の暴虐は人の想像力を超える勢いで振舞われ。そしてさらに時は流れ。もう爆弾の降ることのないユエの流れのほとりで、恋人たちは逢瀬を重ねているのだろうか。

 検索しているうち、須摩洋朔(すまようさく,1907年 - 2000年)なる人物の名が引っかかって来た。第二次大戦中、東南アジア方面で軍楽隊のメンバーとして転戦し、戦後はNHK交響楽団のトロンボーン奏者などを務めている。この人物が歌謡曲の作曲家である筒美恭平とともに”ユエの流れ”なる曲を作った、との記述に出会った。私の記憶している曲がそれであるかどうかも、とりあえず検索では明らかに出来なかったのだが。



ラ・ビオレテラ

2006-09-26 01:58:49 | 北アメリカ


 ”街の灯”の一場面

 楽器店の店頭で楽器の試し弾きなどする際に、なんとなく弾いてしまう曲というのがあって、その一つが、”ラ・ビオレテラ( La violetera )”である。あの歴史上のコメディアン、チャップリンが1931年に作った映画、”街の灯”の挿入曲として世に知られている。

 貧しく盲目の花売り娘に大金持ちの紳士と誤解されたチャップリン扮する浮浪者が、彼女が視力を取り戻す手術を受ける費用を捻出するために悪戦苦闘する、その辺りで大いに笑ってもらう仕組みである。不況下にあるアメリカの矛盾を大いに突きまくりつつ。

 で、手術が成功し、明日は娘の目が見えるようになるという日に、惨めな文無しの失業者である自分を知られたくないがために、急な用事が出来たとチャップリン扮する浮浪者は娘の元から立ち去る。後世、有名となるセリフ、「大丈夫、世の中は勇気と希望と、少しのお金があれば生きて行けるのだから」を言い残して。

 「勇気と希望と」で、美しい話と見せかけて、「少しのお金」も必要であるという認識も滑り込ませる、その苦さがあなどれない感触を残す。

 チャップリンの感傷過多な世界ってのは好みではないが、このような作品に”街の灯”と名付ける感覚は好ましく思う。
 
 始めてこの映画を見たときは、「ははあ。これが名画と言われる、けど毎度おなじみのチャップリンの浮浪者ものコメディなんだな」くらいの認識しかしていなかったのだが、このような内容の映画がニューヨークで金融大恐慌が起こり、世界が激震しているまさにさなかに作られたという事実は、今、この日本の世情の中で思うと、ますます深いものに感ぜられてくる。

 ”ラ・ビオレテラ”は、その盲目の花売り娘のテーマソングとして奏される美しいメロディである。

 1920年代のスペインにおけるヒット曲との事。先の見えない不況の底辺で出会った不遇な二人の間に通い合う、宝石のような感傷を歌い上げるに十分な、逆にゴージャスに浮世離れした美しさが零れるメロディである。

 ラテンの血の生み出すメロディって、ときに”それゆえに罪悪”と判決を下したくなるほど美しかったりするのだなあ。




僕のベイビーに何か?

2006-09-24 01:44:13 | アジア


 ”When Something Is Wrong With My Baby ”by Sam & Dave

 駅前の”××ボゥル”といえば、××ホテル直営の変哲もないボーリング場なのだが、その前をたまに通るとき、それが夕暮れの時間帯だったりすると、妙に怪しげでいて切ないような不思議な気分に襲われる。

 なぜそんな気分になるかというと、中学の同級生で、その年齢ですでに不純異性交遊という奴で有名をはせていたN子が、そのような時間帯に所在無げに佇んでいるのを、高校時代に見ているからだった、考えてみれば。そんなに早くから男漁りに励むとなれば不細工と相場は決まっているのだが、N子はといえば、学校で一二を争うくらい見た目は可愛い子だったから始末が悪かった。

 おや、N子じゃないか。中学を卒業して後はじめて見るけど、相変らず駆け巡る青春をやっているのかなあ、そうか、あいつがあそこにいるって事はつまり、今、この町の不良の溜まり場の最前線は××ボゥルなのか、などと外角高めに見送りつつ、私はバスの窓ガラスの向こうに小さくなって行くN子の姿を目で追っていたのだった。

 その日私は、家に帰り着くとすぐに愛用の安物のレコードプレイヤーの前に行き、サム&ディブの”When Something Is Wrong With My Baby”を何度も聴いたのだった。N子の今の相手ってのは、誰なんだろうかな、などと妄想しつつ。
 
 When Something Is Wrong With My Baby (僕のベイビーに何か)というのは60年代、”ダブル・ダイナマイト”と讃えられたリズム&ブルース界の強力デュオ、”サム&デイブ”の熱血バラードナンバーである。あるアンケートのごとくのもので”決定的な思い出の歌とは”への答えとして私は、この歌を挙げたのだった。

 この歌を聴くと、中学~高校頃に気になっていた不良の女たちの事を思い出すのさっ。てな理由で。ドロンと暗い熱気が淀む”不良の現場”で場違いに燃え上がる純愛妄想の、それは格好のBGMと思えた。
 とは言え、私の育った田舎町のディスコでこの曲が演奏された事実は確認していず、すべては私の妄想の中に生きる”でっち上げの思い出”に過ぎないのだが。

 我が青春時代、不良連中のメインの活動場所といえばディスコと相場が決まっていて、ディスコで受けている”踊りやすい音楽”といえばリズム&ブルース、というのが当時の定番であったものである。
 1960年から70年代にかけての我が国におけるリズム&ブルースという音楽のありようは、”ディスコの不良連中の育んだ音楽”としての側面を抜かしては語れないだろう。

 都市の悪場所で出会った、外国の音楽などにまるで興味がなさそうなヤバめのお兄さんがソウル・グループの事情に意外にも詳しかったり、見事な黒人振りのステップで踊るのに驚かされたり。そのような想い出はいくつか持っている。

 そんな、アメリカ合衆国の都市の黒人たちが生み出した娯楽音楽としてのリズム&ブルースと、東洋の外れ、日本国の不良連中の”夜明けのない朝”の、意外にマッチするような、大変な誤解の元にすれ違っているような奇妙な相関関係は、なかなかに”良い話”として思い出せるタグイのものである。

 その後、80年代まで、バブルガム・ブラザースなぞというコメディアン上がりのデュオ・グループがその残り香を伝えていたものだが。
 そして”クラブ”などという日なた臭いものがもてはやされるようになった今日、その種の不良ロマンの湿り気は、繁華街のエアコンの排出する熱気とともに都市の上空に雲散し、消滅してしまった。




国歌斉唱・国旗掲揚

2006-09-22 23:47:25 | 時事

 ”本日のニュースより”、であります。元記事は最下部に引用してます。

 石原閣下は、「「式典で国旗・国歌に敬意を払う行為は(学校に)規律を取り戻すための統一行動の一つ」とか言っておられるみたいだけど、学校に規律を取り戻すってなんだろうなあ?

 普段、酒タバコにドラッグ売春恐喝強盗まがいをやりたい放題やってる生徒連中が、”指導”を受けて「ペナルティ食らいそうだから」、なんて理由で一時的におとなしくし、しらばっくれて整列して国歌なんかうたっているのを見て、「ああ、我が校の規律は守られている」なんて悦に入ってる教育関係者とかいたらアホでしょ。

 そんなもんでいいのかい、教育現場の規律って?

 大体、暴走族の暴走の現場を見ていても分かるとおり、国旗とか好きなガキって、不良に決まりだものね。まっとうに暮らしてる日本人はそんなものに興味は持ってないよ。
 それは、国旗だの国歌だのってものを、我々国民が”ある人々”に奪われたままになってる日本の国情による。外国におけるそれと比べるわけには行かないんだよ。

 まあ教育現場に限らず、上のような理由から、そもそも国旗とか国歌とか出てくる場面てのは、あとにろくでもない事がひかえてるって相場が決まってるから、逃げるに限る。うっかりその気になって最前線で弾除けにされてから、だまされてる自分に気がついても、もう遅いからね。


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 ○石原都知事が控訴方針…国旗・国歌通達の違憲判断(読売新聞 - 09月22日 20:21)

 入学式や卒業式で教職員に国旗に向かって起立し、国歌斉唱するよう義務づけた東京都教育委員会の通達を違憲とした21日の東京地裁判決について、石原慎太郎都知事は22日の記者会見で「控訴しますよ。方針は変わらない」と述べ、控訴審で都側の主張を訴えていくことを明言した。

 石原知事は「式典で国旗・国歌に敬意を払う行為は(学校に)規律を取り戻すための統一行動の一つ。裁判官は実態を見ていない」と反論。通達は文部科学省の学習指導要領などに基づく適法なものだとして、「義務を怠った教師が懲戒処分を受けるのは当たり前」と述べ、正当性を強調した。

 一方、小坂文科相は、この日の閣議後会見で「これまでの判決と照らして予想外で、都教委の主張が認められなかったことは驚き」と話し、都の対応を見守る考えを示した。

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ジャズ喫茶・忘れた闇の底から

2006-09-21 05:26:31 | いわゆる日記


 ”河出夢ムック・中上健次 没後10年”

 何年も前に出たムックの書評で申し訳ない。

 「河出夢ムック」の中上健次特集を読む。つまらない。面白かったのは、新宿で彼がフーテン状態にあった頃の仲間、川嶋光(その仲間のうちに、鈴木翁二がいた事を知り、ちょっと驚く)による一文だけだ。

 彼は、”あの頃の仲間”の視点を変えず、作家となり、社会的名士と化した中上を、「お前、何をまともな社会人みたいなツラ、してやがんだよう」と、変節したフーテン仲間としての扱いで、皮肉り倒す。湾岸戦争に対して反戦アピールを出した”作家協会の一員”たる中上に対して、「てっきりフセイン支持をぶち上げるのかと思っていたのに」と毒ずいてみせる。

 その死を悼む想いは、あくまでも内に秘められ、最後まであからさまになることはない。作家としての業績に関しても、無名のうちにあって、ジャズ喫茶の片隅で並べていた若き日の中上の益体もないゴタクを、当然の如くに上位に置き、世に文筆業者として名を成して後の業績になど、興味も示さず。その、身もフタもない論旨の偏りが、逆に、いっそ快く感ぜられる。

 その他の記事はいかがなものか。感心できるものは少ない。特に対談。ことに村上龍や某評論家(名も忘れた)などとの対談はクソである。話されているのは結局、「ここにいる俺らって、只者じゃないよなあ」それだけであり、そんな自足の宴に、何の価値があるものか。また、ビートたけしとの対談は、多くの”たけしvs文化人”の通例にもれず中上もまた、インテリをひたすら気取りたがるたけしに調子を合わせ、機嫌取りに終始するのみで、正視し難いものがある。

 そのような人間や、そのような状況を引き寄せてしまい、あるいはど真ん中に入り込んで自足してしまう部分。無駄に限られた時間を使ってしまったなあと、彼の早世を思うと、嘆息が漏れる。そんな連中と付き合っている時間に、1本でも多くの小説を書いておけばよかったのに。
 中上の”紀州・木の国根の国紀行”なる作品には、一読、すげー本だな、とのけぞった私なのである。それだけに。

 まあ人間、なにもかもどこまでもすばらしい、とはなかなか行かないのさ。ということだな。中上に限らずだけど。もちろん。




グレゴリアン・亡霊の囁き

2006-09-20 01:59:00 | ヨーロッパ


 ”Masters Of Chant: Chapter 4”by GREGORIAN

 ロックやポピュラー・ヒットをグレゴリオ聖歌風に歌う、というネタ一発のグループ、というかユニットのアルバムであります。と始める以前に、グレゴリオ聖歌とは何であるか?の説明が必要かもしれない。

 7世紀にカトリック教会の教皇が”精霊の導き”によって作ったと言われる教会のための典礼歌であり、ラテン語の歌詞を無伴奏、単旋律で歌う。まあ、今の感覚で聞けば単調、陰鬱な音楽であり、とうの昔に教会でも歌われてはいない。

 そのような、まあ亡霊のごとくの音楽フォームを埃を払って引っ張り出してきて、”いまどきの流行り歌”を歌ってみせる企画である。

 伴奏は、なんかいまどきの言葉で”アンビエントなサウンド”というらしい代物(この辺の見分けがよく分からない私も、結構、過去の亡霊か)であり、その硬質で無機的な響きは、グレゴリオ聖歌風の歌唱に、よく合っているとも感ぜられる。

 まあ、私のナワバリ的にはこのようなものを聴く機会もなかったんだけど、深夜のテレビでやっている、三輪明宏先生と何とやら言う霊能者(?)による霊感人生相談番組(?)のクロージング・テーマに使われているのが、このアルバムの中の曲であると知り、ちょっときちんと聞いてみたくなった次第。

 あの番組は、「テレビをつけっぱなしにしておいたら始まっていた」という形で何度か見ているんだけど、基本的に前世だ霊魂だなんて話は私は信じていません。
 だから番組も外角低めに見送っていたんだけど、そのエンディングの音楽が、なにか気になっていた。いかにも「聖なる音楽だぞ」ってな響きではあるものの、いかにもインチキ臭い響きも同時にあり、こんなものを聞いて良い気持ちになってしまったら、音楽ファンとしては不覚というしかないだろう。

 とはいえ。それは妙に人の心を惹きつけるインチキ臭さであり、何度か聴くうちに、その胡散臭さにあえて身をゆだねてみるのも一興ではないかといつか思い始めていた・・・そしてついに先日、その曲、”メイド・オブ・オリンズ”が収められた”グレゴリアン”の本アルバムを購入してしまった次第。

 で、腰を据えて聴いてみたら、これはそうそうバカにしたものではなさそうだぞ、むしろ相当な曲者ではないかと考えを改めた私なのであった。”裏のそのまた裏”みたいな話なんだけど。おっと、このグレゴリアンなるコーラス集団の首謀者は、ドイツのロック・ミュージシャンなんだな。

 ともかく選曲のセンスが端倪すべからざるものがある。”スカボロー・フェア”や”明日にかける橋”など、非常にベタなものから、マニアなものまで、ゴタマゼで突っ込んであって、その辺、受け狙いなのかジョークなのか、皮膜の間のギリギリを行っているのである。

 ジャケ写真も、これは中世の僧服のつもりなんだろうか、頭まで覆った長衣をまとったメンバーが立ち並ぶ意匠でずっと来ているんだが、どうみてもホラー映画の一場面としか見えず。長衣の下には、人間の姿をしていない何者かが潜んでいるみたいに見える、というか明らかにそんなイメージを抱かせる演出だな。

 そのような怪奇ビジュアルで名曲やら秘曲やらを、時代錯誤の氷の芸術みたいな温度の低い美しさのコーラスで聞かせる。
 イージーリスニングみたいに装ったその底に潜んだ人間存在そのものに対する底意地の悪い悪意みたいなもの。その苦いユーモアの手触りに、いつのまにかこの不気味なコーラス集団、”グレゴリアン”のファンになっている私なのであった。やっぱり不覚か?



旭硝子のショウコ批判

2006-09-19 03:43:28 | いわゆる日記


 旭硝子という会社のシリーズCM、”硝子と書いてショウコと読ませる女子高生の留学物語”ってのが、いかがなものかなあと思われるのだが、どうでしょう?

 続きもののCMによって、”引っ込み思案だったショウコが、ベルギーだかどこだかに一念発起して留学、やがて国際感覚を身に付けた、積極的な生き方を志向する一人の女性に成長して行く”そんな物語を見せたかったわけですな。先刻のワールドカップの際は、「友達とドイツに行きました」とか流行の話題も抜け目なく絡めつつ。

 最終的には広告代理店の決まり文句、「当社はこんな生き方を提案します」で締めたいと意図して作っているんだろうけれど。そこで提示されている”ショウコ像”が、日本の一般大衆には一番嫌悪される帰国子女のパターンをなぞってしまっていることに気がついているんだろうか、製作者は。

 ”西洋じこみの正義正論”を盾に、日本の精神風土を高所から見下ろし、それらを”未開のもの”として一方的に断罪する。そんな存在。そりゃ、嫌われるよ。
 ちなみに、嫌われているのは”正義”じゃなくて、その独善性なんだけど、自身は「正しいことを言っている自分を認めない社会に問題がある」って見解を崩さない。あなたの論が否定されているんじゃなくて、あなた自身が嫌われているんだってば。

 あのCMシリーズが織り成してゆく物語が帰着した結果として出来上がるのは、そのような人間でしかないんじゃないか?外国に行きさえすれば、皆、立派な人間になりますか?オノレの西洋コンプレックスを、キレイ事にまとめて、安い物語を作っているって反省はあるのかなあ。

 別に帰国子女的なものすべてが不愉快とか言っているんじゃなく、その辺の微妙な人心への配慮が出来ない連中が作ってるCMがあり、それがいかにも「良心派が作りました」みたいな顔して日々、流されてるって事実、困ったもんだと言いたかったわけですが。

 なんかさっきテレビを見ていたら、硝子チャンの留学も終わったようで、”帰国風景ヴァージョン”みたいなCMが放映されてましたが。さて、この留学物語、どのような総括がなされるのでありましょうか。あ、あのままなんとなく終わり、かな?(笑)



キャトル・コール

2006-09-18 02:30:27 | 北アメリカ


 日曜日の昼下がりのテレビで、二人の女性タレント、”オセロの黒”と”巨乳の優香”によるニューカレドニア島観光案内みたいな番組をぼっと眺めていたのだった。

 サンゴ礁が盛り上がって出来た海辺の長大な壁、という奇景が映し出され、そこでは奇妙なヤマビコのような現象が起こると紹介された際、ふと「それじゃあ、そこで”キャトル・コール”とか歌ってみるのも一興ではないか」とか思い、そんなものをメロディ付きで覚えていた自分に、ちょっと驚いてしまった。

 それはまだ私が小学校の低学年だった頃、テレビなんかまだ白黒で当たり前の時代だった。昭和30年代の出来事。
 テレビや映画でウエスタン・ムービー、当時のいわゆる”西部劇”を、つまり開拓時代のアメリカ合衆国を舞台にした勇敢なカウボーイやヤクザなお尋ね者の活劇であるが。という説明でもしないと誰にも”西部劇”なんて分からないかと思い書いているのだが、くだくだしかったらすいません。

 ともかくその種のものが好きな西部劇マニアの子供であった当時の私は、”アメリカの西部から本物のカウボーイがやって来る”なんて触れ込みの広告を少年雑誌で見かけ、おっこれは!と大いに期待したものだった。腰にガンをぶち込み、馬にまたがった粋なカウボーイたちが日本にやってきて、彼らの生活をテーマにしたショーを行うというのだから。

 当日、東京で行われたそのショーには、残念ながら連れて行ってもらえなかった私だったが、テレビ中継されたカウボーイ・ショーには、当然ながらかじりついた。

 サーカスの興行でも行われるような大きなテントのうちに牧場のそれを模した柵が張り巡らされ、宣伝通りの”アメリカから来た本物の”カウボーイたちが、その中を馬に乗って闊歩していた。
 まるでプロレスの実況のごとくにアナウンサーが、その場で行われていることを実況し、”アメリカ帰りの、アメリカ通の先生”なる人物が解説者としてコメントを述べる形で番組は進行した。

 番組が始まって10分と経たないうちに。「なんだか変だな」と私は感じ始めた。なんと言ったらよいのか、”本場のカウボーイのショー”が、まるで面白くないのだ。それはそうだ。今にして思えば、だが。

 実際にショーを行っているのは数人の馬に乗った外人だけであり、要するにそれだけなのだ。その連中がその場にいもしない”牛の群れ”を追う際の手順などを淡々と演じて見せても、間が抜けているだけで、ショーにも何にもなりはしない。

 今日だったら、たとえば荒馬に乗ってロデオを演じて見せるとか、派手に拳銃を撃ちまくって”ガンマン同志の決闘”などを大いにショーアップして見せるところだと思う。その程度の演出もなく、真っ正直に開拓時代の西部の習俗を演じてみても、そりゃ面白くないよ。

 彼ら”カウボーイ”が”後進国”たる日本を甘く見ていい加減なショーで小金を儲ける気を起こしたのか、それとも現地アメリカでも、そのレベルの”ショー”を行っていたのか知る由もないが、ともかく、鳴り物入りで宣伝し、テレビで中継までする価値のある見世物でないことは、当時まだガキである私でさえわかった。

 中継は、確か呆れた父がチャンネルを変えてしまう、という形で中断されたのだが、私としても文句を言う気はなかった。
 まあ、まだまだそんなものが普通に跋扈する時代ではあった。ようやく”戦後”から抜け出し、高度成長へ向けて走り始めたばかりの日本は。

 後年、五木寛之の小説で、この”ウエスタン・ショー”の背景について読む機会があった。やはりあのショーは、あまりのつまらなさに客が入らず大赤字を出したと。当時、日本のショービジネス界の寵児といわれた人物が、つまずき、没落して行くきっかけを作ってしまったと。

 それでも。私の記憶の中には。奇妙なことに、あの時、”カウボーイ”(いまや、それだって、本当に本物だったか怪しいが)が馬上で歌っていた牛追いの歌、”キャトル・コール”のメロディが生き残っているのだ。子供の頃の記憶というのも凄いものだが、それにしても。テレビで一回聴いただけだぜ?我がことながら驚いてしまう。

 おそらくはケルト起源と思われる、つまりはその方面からのアメリカへの移民者たちに歌い継がれて来たのであろう、美しい三拍子のメロディ。”トゥ~トゥ~トゥルゥリィォ~♪”という、そのメロディが、日米、どちらの関係者にとってもおそらく忘れ去りたいようなドジ公演の置き土産として、なぜか私の記憶の中に、いまだに生き残っており、歌えといわれれば歌える状態にあるのだ。

 ある意味、呪いといえようか。なんで私にかかってくるのか知らないが(笑)