ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

70'野音・尋ねバンド

2007-06-30 23:21:39 | 60~70年代音楽


 野音、といいますが、要するに東京は日比谷の野外音楽堂。そこにおいて70年代のドアタマに、もう毎週のようにロックコンサートが行われていた時期がありましてね、まあ、ちょうど東京に出たばかりの私などは好きなものだからさんざん通いつめた。その頃見聞きした事を記憶の彼方から掘り起こして書いてみようかな、と思った次第。

 まあ当時は”ウッドストック”とか、あんな大型の野外ロックフェスティバルが話題になっていましたからね、それに刺激されて、という側面は大いにあったでしょう。
 コンサートは大体、昼過ぎ頃始まって、夜、8時9時頃まで行われた。出演したのは有名無名の日本のロックバンドたち。それが入れ替わり立ち代り、何曲かずつ演奏を披露して行く訳ですな。
 当然、というべきか、まだ日の高い頃に出てくるのはアマチュアに毛が生えたようなというか、いや、アマチュアそのものだったかも知れないバンドたちでした。
 やがて夕暮れが迫る頃にはだんだんと大物が登場して来る訳だけれど、大物ったってレコードはまだ出していなかったりするのが”日本のロック”の当時の状態だった。

 そもそも、そんなにも頻繁に、そのような総花的なコンサートがたびたび行われたというのも、当時は今日のようにあちこちにライブハウスなんてなかったし、演奏者側にもファンの側にも、他にロックのための場が無かったからだ。”ロックが存在可能なのは、東京の山手線の輪の内側だけ”なんて言葉もあった。当時、町に流れる流行歌といえば演歌が大々的に主流だったし、ロックで食って行けてるバンドなんてあったのかどうか。レコードだって、リリースは簡単なことではなかった。
 ロックを演奏できる場って、そんな野音みたいな所にしかなかったし、当然、ロックを聞きたい側にとっても事情は同じだった。

 その野音の「8時間ロックフェスティバル」の入場料、よく憶えていないんですが、500円だった時があって、「高いなあ」と感じたのを記憶しています。だから、普段の料金、推して知るべし!現在との物価の違いを考えても。やっぱり安い!
 まあ、当時はロックそのものが商売にも何もならなかったし、そこで採算取るとか考えていなかったんじゃないでしょうか。まず、日本にロックを根付かせたい、そしてなにより、自分たちの音を聞いてもらいたい、そんな情熱優先でやっていたと思います、皆。それは観客も同じ事、でしたね。そんな熱気に溢れていた時代でした。

 その一方で、出演するバンドの側も、そりゃ、トリを取ったりする大物連中はともかく、早い時間に出てくる無名のバンドに関しては、今から考えると、かなり貧相な音を誇る(?)連中も、相当数、いたわけでしてね。そうそう、”バンド変われど音変わらず”なんて言葉もありました。まだまだ幼かったんですよ、日本のロック全体のレベルも。
 どいつもこいつもジミヘンやクリームなんかの下手な模造品を演じていただけって事実は確かにあった。きっちりとしたバンドとしてのパフォーマンスを提示出来る実力を持つバンドなんて珍しかったし、独自のサウンドなんて、ほとんどのバンドにとって、まだずっと先の話だった。

 だから、同世代で”野音通い”をしていた人と話なんかすると、夕闇迫り、最後の方の大物バンドが出る辺りを見計らって野音に出かけた、なんて体験談を聞くこともあり。まあ、そちらのほうが賢い選択といえるんでしょうが、私は、そんな”昼の部”のパッとしない無名バンドもまた、愛していたんで、昼過ぎには必ず出かけていきましたね。それに、そんな時間帯だって、思わぬ拾い物がないでもなかった。まれではあるけれど。

 たとえばそんな”昼の部”で一度だけ忘れがたいステージを見せてくれたバンド、なんてのもいた訳です。ライフだったかライブだったか、よく名前を憶えていないってのも間抜けな話なんですが、彼等なんかもそんな忘れがたき無名バンドの一つでした。

 ギター二人にベースとドラム、4人組のバンドでしてね、見た目もなんだかアマチュア臭く。ステージに出てきて開口一番、「僕たち、解散する事になりました。これが最後のステージです」とか言って演奏を始めた。
 それがまた渋く、されど軽快なブギの連発だったんです。当時の流行で、重苦しいブルースを延々とやるバンドは多かったけれど、同じブルース族でもブギ専門とは一本取られたね、でありました。聞く側にとっても。

 とにかくバンドの個性、一言で言えばマニアックで、かつ人懐こい!矛盾している表現ではありますが、だって、そうだったんだもの。
 自然に手拍子が起こりましたね、観客の間から。当時の野音で、そんなの初めて見たなあ。一発で観衆の心を捉えた、って奴だった。1曲2曲と演奏が続くうち、野音を埋めた観衆の中に、非常に和やかな空気が広がって行くのが見えるようだった。
 彼等自身も、解散するってんで気分的にも吹っ切れていたんじゃないですか。飄々としたステージには、凄く好感が持てた。

 だから、そんな彼らが10日ほど後の、やはり野音のステージに「この間のみんなの声援に力を得たんで、もう一度やってみることにしました」と言いつつ帰って来た時は、皆、歓声を持って、それに答えたものでした。
 その日の彼らのステージは、やはり飄々としてリズミックで、非常に楽しめるものだった。けど結局、それが私が見た彼らの最後のステージでしたね。その後、どうなってしまったのだろう、彼等。予定通り(?)やっぱり解散してしまったんだろうか。今頃になって、彼らのその後を知りたくて、当時に詳しい人に尋ねたりもしたんだけど、そもそもそんなバンドを記憶している人に逢った事がない。

 どうなったのかなあ、彼等。まだ青臭いガキで、そんな世代の思い込み一杯でコチコチになっていた私に、楽しみながら音楽をする道もある事を教えてくれたバンドだったんだけど。せめて日本のロック史にひとかけらでも足跡が残らないかと思って、折あらば彼らの事を語ってみるのだけれど。などと言ってはみても、なにしろバンドの名前自体がはっきりしないんでは、どうしようもないんだけど(苦笑)

 どなたかご存知ありませんかねえ、このバンド?何かご存知でしたら、あるいは”そのバンド、見たことがあるぞ”という方、おられましたらご一報をいただければ幸いです。それにしても、どうしてるんだろうなあ今頃、あの連中は。

サイケな街だぜ、イスタンブール

2007-06-29 02:24:21 | イスラム世界


 ”GENCLIK ILE ELELE ”by MUSTAFA OZKENT

 とりあえず、”70年代前半にレコーディングされたトルコのサイケデリック・幻の名品”なんて話だったんで、物は試しと聴いてみたんですが。ハハ、これは一本取られたね。

 冒頭の何曲かは70年代と言うより、ゴールデン・カップスあたりが”最も先鋭的な存在”として幅を利かせていたGS時代末期の日本のサイケな状況とか想起させる60年代末の”あの音”です。

 ともかく”あの時代”につながるダサい熱気が横溢していたので、なんだか笑えて来てしまって、「ギャハハ、やったれやったれ、この分だと”ルイズルイス・フセイン”とかもいるんだろ?そいつのベースソロを聞かせろ」などと軽薄に受けていたのであります。

 サイケなフレーズを飽くことなく繰り出す”ファズ”のかかったギターのソロやら、まさに”GS時代のミッキー吉野”を彷彿、のハモンドの響きなど、懐かしい限りでありました、あの時代に青春を送ったものとしては。当時、トルコの街角で熱い音を響かせていたのですかねえ、こんな連中が。

 けど、トルコの民族色が濃く出て来た中盤以降(と言っても、たかが知れているんだが。まあ、そんなに深いものではないです。”それらしい音階を使った観光地音楽”程度の扱い)を聴くにいたり、こりゃあんまり笑ってもいられないぞと。

 アラビックな音階を上下して執拗に絡みつくようなギター・ソロを繰り広げるうち、本当にとんでもない世界へ飛んで行きそうな空気が立ち込める”Emmioglu”など、底は浅いながらも聴いているとうっかり手に汗を握ってしまうような瞬間もあるわけで。

 こりゃ当時、確かにこのバンドの周辺にはトルコ民族独自の”サイケへの扉”が開きかけていたのかも知れないな、なんて、ふと思ってしまったのであります。

バグダッド発、世界へ

2007-06-27 01:53:53 | イスラム世界


 ”Yawmyat Rajoul Mahzoom ”by Kathem El Saher

 イラクの大歌手であります。その、ただいま全アラブ世界で話題の新作、とのこと。

 彼が2003年に発表したアルバム、”Hafiat Al Kadamain ”が私は初対面でしたが、その歌声の”ストイックな激情”みたいな持ち味が印象に残りました。それ以前に聴いていたイラク・ポップスのアンソロジーなどから受けた、アラブ世界においてはかなり硬派に属するイラク・ポップス、というイメージをそのまま踏襲するような歌手と感じました。

 なんと言いますか、アラブ・ポップスの世界の歌い手が一様に身に付けている官能性というんでしょうかね、そのような感触が、イラクの歌手には、やや希薄なんではないか?なんて感じています。
 代わりに、アラブ民族の誇りを背に負った、図太い土性骨が一本通った硬派な歌い手が多いように、私には思える。

 これは”今日のイラクの現実”というものを念頭に置き過ぎた、先入観に満ちた見解かも知れませんが。
 もっとも、彼の新曲プロモーションのためのビデオ・クリップにも、濃厚に”平和で知的だったイラクの人々の暮らしに土足で踏み込み、暴虐を加えるアメリカ兵”の画像は頻出し、その現実はやはり、”こっちへ置いておいて”という具合には行きそうもないのですが。

 このアルバムも、そんなアラブの伝統が濃厚に影を落とす、民族色濃厚、かつパワフルなサウンドをバックに、やや陰りを帯びたKathem El Saherのストイックな歌声が響き渡る、そんな作りとなっております。
 民族色は濃厚だけれど土臭くはなく、これがイラク風の洗練なのだろうか?ロック等、欧米の流行り音楽からの影響はまるで感じられないものの、きちんと同時代感覚を放っているあたり、端倪すべからざるものを感じさせます。

 ともかくすっと背筋を伸ばして立ち、目の前の現実をきちんと見据えて、派手さはないが誠意に溢れた歌を歌って行く、そんな歌い手の姿勢に心の奥深くで共鳴せずにはおれない、そんな作品であります。まあ、イラクの言葉が分かるわけでもなし、何を歌っているのかは、もちろん分からずに聴いている当方なのですが。

 冒頭に述べた2003年のアルバムにも収められていますが、彼は、サラ・ブライトマンと”戦争は終わった”なんて曲をデュエット(と言うには、彼の出番が短過ぎる気がするが)していて、さて、国際的にもその存在が認知されつつある、と考えていいのか?
 この辺のメジャーなポップス状況はよく分かりませんが。まあ、”今ウケ”するには彼のキャラクター、ちょっと無骨過ぎるような気もするんですがね。
 

ニューオリンズ、懐かしいニューオリンズ

2007-06-26 01:10:05 | 北アメリカ


 ”New Orleans Lullaby ”by Rick Trolsen

 海水浴場が間近かに広がる海辺の観光地に住んでいる。朝、仕事にかかろうと家を出てバイクにまたがると、目の前を水着の女の子がアイスを舐め舐め歩いて行ったりして、一気に働く気を失ったりする。住んでいる町内そのものが夏の間、海の家と化すのだ。

 夜、夕涼みにはちょっと遅すぎる時間に、散歩がてらヨット・ハーバーのあたりをウロウロしていると、観光客たちがコンビニで買いこんだ花火を浜辺で打ち上げていて、ライトアップされた海岸の上空が火薬の煙で霞がかかったようになっていたりする。そんな場違いのはずの硝煙の匂いさえも、いつの間にか夏の風物詩として町の夜景に溶け込んでしまった。

 海岸の遊歩道は昼間に照りつけていた太陽の熱気が空気の中にまだ淀み、ドロリと空間の歪むうちに、現実と非現実の皮膜がゆっくりと溶けて行くような幻想に人を誘う。あちらから歩いてくるのは、はたして現世を生きる人間なのだろうか?
 国道の向こうで灯る繁華街のネオンが海面に揺れ、風に鳴るヨットの係索が、まるで巨大な怪獣の咆哮のように湾に響く。アメリカ南部のどこかの田舎町に自分はいるのだ、と信じ込もうとするのだが、そいつはやっぱり無理があるようだ。

 Rick Trolsen は、ファンク・ミュージックを演奏するユニークなブラスバンド、”Bonerama”のトロンボーン・プレイヤーとして一部のスキモノたちの間で名をはせる存在であるが、昨年、この、過去への追憶でコテコテに固められた、セピア色のソロ・アルバムを世に問うている。
 何でも彼は若い頃にアメリカ海軍の軍楽隊に所属し、ニューオリンズの街に少なからぬ日々、駐屯していた過去があるとのこと。そんな”音楽の都”における若き日の思い出に捧げたのが、このアルバムであるそうな。

 とは言うものの、いったい彼はいつ頃、どんな風にニューオリンズで過ごしたのか。
 裏ジャケの写真、深夜のニューオリンズはフレンチ・クオーターの通りの一隅に腰掛け、トロンボーンを手に追憶に耽る風情の彼は、すでに白髪の老人である。いつもの攻撃的なサウンドを売り物にするファンク・ブラスバンドのメンバーとしての彼が、無防備にそんな自分の実像をさらけ出してしまっている。

 収められている演奏もすべては後ろ向きであり、明日に向かう何ごとも存在せず、すべて甘やかな過去の思い出に捧げられている。
 取り上げられた曲は、ファッツ・ウォーラー、デューク・エリントン、ホギー・カーマイケルらの手になるスタンダード・ナンバーばかりであり、第2次世界大戦以後、時間の経過はなかったかのような風情。

 ただ一曲収められたRick のオリジナル曲、タイトルナンバーである”ニューオリンズ・ララバイ”もまた、そのラインナップの内にあって何の違和感もないアナクロな優しさに溢れた佳曲である。
 スタイルとしてはピアノトリオをバックにしたトロンボーンのソロ・プレイ。何曲かで Rick は、ルイ・アームストロングばりの渋い喉も披露している。

 海軍軍楽隊出身というのが珍しいかどうかよく分からないのだが、とりあえず白人ジャズ・プレイヤーとしての彼のキャリアは王道を行っているとはとても思えず。初期にはジャズ・ロックバンドに所属し、その後はブラジル音楽に興味を示し、今日はファンク・ミュージックにうつつをぬかしている。
 それが彼が望んで歩んだ道なのか、こいつももちろん分かりはしないのだが、そんなキャリアの彼が感傷の対象とするにはちょっと不思議な、スタンダードなオールド・ジャズで埋め尽くされた盤である。

 アグレッシヴな活動を続ける彼の心の底には、ニューオリンズ仕込みの、このような感傷が、ずっと息を潜めていたと言うのだろうか。
 それとも、ここで聞かれる感傷と言うのはニューオリンズという街そのものの孕んだ感傷を Rick が演じて見せたものであって、これは一幕の虚構なのだろうか。

 などと余計な推測も、Rick の奏でる、流れるようなトロンボーンの調べにいつしか溶解し、気がつけば古きジャズの都、ニューオリンズの街に Rick が寄せる感傷に今夜はとことん付き合うぞ、そんな気分にさせられているのであった・・・

ナポリタンの嘘

2007-06-25 03:45:20 | 時事


 嘘っぱちだな。
 ドラマで使われた曲のヒットのおかげで忘れられていたスパゲティのナポリタンが復活した、なんて趣旨の記事だけど、何言ってやがる、街ではこれまでも普通にナポリタンは食べられてきたし、忘れられたことなんてないぞ。

 話題作りのために現実を捻じ曲げやがって。こういう”作り上げられた歴史”って凄く気持ちが悪い。

 でもどこにもいるお調子者は、話を疑いもせずにすぐに話題に乗って、、「ああ、そういえば昔、ナポリタンってのがあったよなあ。あははは。また食えるようになったの?すげえ懐かしいじゃん」とか言い出すんだよな。で、そういう奴が”ノリの良い奴”って事になったりするんだけど、うん、ただのバカだと思うよ、そういうのは。

 ○復活!懐かしの「ナポリタン」 (ゲンダイネット - 06月23日 10:10)
 「愛しのナポリタン」という曲がヒット中だ。日本テレビ系ドラマ「喰いタン2」のテーマソングで、「粉チーズでおめかし、嗚呼ぁ タバスコ、愛しのナポリタン~」とラテン調で歌う。オトーサンたちの間でも、「昔、喫茶店で食べたナポリタンが懐かしい」という声が強まっている。
 「ナポリタン」(小学館文庫)の著者・上野玲氏もこう話す。「洋食屋やビアホール、居酒屋などで、『懐かしの』と銘打ってナポリタンを復活する店が増えています。コンビニでもナポリタンは隠れたベストセラーです」

陽のあたる島、あのあたりに

2007-06-23 01:20:35 | アフリカ


 ”Mgodro gori”by Mikidache

 ボサノバを”ジャズの一種”呼ばわりにされて頭にきたアントニオ・カルロス・ジョビンが、「ジャズの誕生などよりずっと前から、ブラジルの海岸に寄せる波の音の内から、あのリズムは聴こえてきていたのだ」なんて言ったのだったが、(うん、細部はちょっと記憶が怪しい話だが)そんな挿話など思い出してしまう、これもまた海から生まれ、陽のあたる島で育った伸びやかなリズムの物語である。

 コモロ諸島の音楽、と言ってもそれがどこなのか、すぐに見当の付く人は少ないだろう。アフリカは東南の海岸、マダガスカル島との間に広がる海峡に点在する島々であり、これはその地のローカルポップスのヒーロー、Mikidacheがものしたアルバムである。

 ともかく爽やかな海辺の音楽である。アフリカの地にありながらどこかほのかにアジアの気配をも漂わせる。いかにもインド洋の音楽らしい、といって良いのか、ハチロク系の軽やかなリズムは、まるで南の島に打ち寄せる波のように寄せては返す。
 アルバムの主人公、Mikidacheの陽気な歌声が、晴れ上がった空に向かってどこまでも登って行く。アコーディオンがメインに出てくる部分では、なんだかブラジルっぽくも感じるニュアンスまで現われ、なかなかに楽しいものがある。

 このあたり、つまりはアフリカ東南部はマダガスカル島周辺で歌われる音楽のメロディラインの正体には、以前から非常に興味を惹かれている。
 カラッと乾いているように聴こえるものの、その奥深くのどこかに不思議な湿り気が含まれている旋律。降り注ぐ陽光の元の不意の陰り。あるいは真夏を吹き抜ける一陣の冷風。

 どこからやって来たのやら履歴の分からない奇妙な哀感が、太陽の賜物とも言いたい、このあたりの音楽の芯の部分にひっそりと身を潜めている。それが音楽の表情に、その土地にはありえない日本の秋をも連想させる微妙な陰影を刻んでいる。
 どこからやって来たのか、この湿り気は。

 などというこちらの、もしかしたら考え過ぎの観察を尻目に、この”世界のバス通り裏”みたいな(?)気の置けないちっぽけで愛すべき大衆音楽は、ローカルな祭の華やぎを繰り広げて行く。

 コモロ諸島を構成する島のうちの大部分は、独立国としてささやかな産業なども持ちはするものの、いわゆる”世界の最貧国”のレベルの生活に苦吟しているようである。
 その一方、このアルバムに収められた音楽の故郷であるマヨッテ島はいまだフランス領の内にとどまり、それゆえに、観光地としてそれなりの栄華を享受しているとのこと。

 これもなにやら微妙な気分に誘われはするのだが。
 まあ、そのような部分に関して、地球の裏側の住人たる我々があれこれ言うのも余計なお世話であろう。
 ああ。波の上を音楽が渡って行く。

”百万本のバラ”に突っ込む

2007-06-21 00:10:30 | ヨーロッパ


 先にここで、「加藤登紀子よ、テレビで見たけど、ロシア・ポップスの”百万本のバラ”を、ボサノバのリズムなんかで歌ってんじゃねえよ。どういうセンスのアレンジだ、あれは!」とか文句を言ったことがあるが、そういえばあの歌の歌詞もどうかと思うぞ、と言う話をしそこねていたのだった。

 百万本のバラ。まああれの大意はほぼロシア人の書いた原詩のままのようなので、加藤登紀子にだけ文句を言っても仕方ないのだが。

 歌の概要としては、”貧しい絵描きが女優に恋をし、彼女が好むと言うバラの花を百万本、何とか金を工面して彼女が泊まっているホテルの周囲に飾り付けた。翌朝彼女はバラの花でまっかっかとなった街角を見て唖然としたのだが、そのまま次の公演地に行ってしまい、画家と女優は無関係のままであった”といった物語のようだが。

 なんなんだ、この詩は?これ、どこに感動すればいいんですかね?まあ、百万本と言うのは比喩だとしても、非常に大量のバラを想定した歌詞であるわけでしょ?そんな物量作戦を発想することのどこに”詩”が存在しうるのかと。
 この辺、文化の基本的な違いを感じてしまいますわ。悪趣味でしょう、そんなのは。いかにも肉食民族の西洋人が思いつきそうな”ガサツな詩情”と思います。やだねえ。

 だいたい、”貧しい画家”が生涯に持っていいバラの花の本数はマキシマムで一本、これでしょう。10本でも論外なのに、百万本とは何ごとだ。そんなの、想像するだけでも間違っている。「いや、この間、バイトしてちょっと金が入ったんだよ」とかそういう問題ではない。清貧の精神、というものは、そういうものでしょうが。

 あのいかにもアメリカの下品な感性を象徴するような映画、”ランボー”の最近作で、主人公が体力をつけようとしてグラスに入れた大量の生卵を飲んだりする、見ているだけで胸が悪くなるようなシーンがありました。あれが西洋人の感性なんだよな。
 あそこは、日本人だったら握り飯とオシンコでしょう。それだけを腹に収めて山中にこもり、ストイックに修行に打ち込む。

 それと同じことでね、いくら相手の女がバラを好きだからって、町を本当にバラだらけにしてどうするんだよ。だいいち地球に優しくない。後始末をどうするのか考えたうえでの狼藉なのか。
 いやしくも君は芸術家でしょう?本物のバラなんか買い集める前に少し工夫をしてみたらどうだ。画家なんだから街中バラの絵で埋め尽くしたっていい。そしたら神様だって奇跡を起こしてそのバラを本物に変えてみせるくらいのサービスも考えたかも知れないじゃないか。

 まったく。あの歌のメロディはともかく歌詞って、なにをどう感動すればいいんですかね?私はいまだに分からないんだが。いや、”批判”とか銘打ってはおりますがね、ほんとに素朴な疑問。ロシアの人たちって、あの詞で、どんな具合に感動してるんだろ?


 ☆添付した写真は、”百万本のバラ”の創唱者、Алла Пугачева(アーラ・プガチョワ)

”ザードのボーカル”問題

2007-06-20 00:15:06 | その他の日本の音楽


 え~とですね。今月初め、あの”ザードのボーカル”である坂井泉水が不慮の事故(らしい)で亡くなりました。

 で、それに絡めて私は、ここに以前より”ザード”に関して思っていた事を書きました。

 一つは、「洋楽がどうのとか言ってロックの名盤1000枚集めたって、日本人にとって、あの種の低血圧で小奇麗な音楽が結局、限界なんだろうなあ」そう思い知らされたのが、”ザード”のいつまでも衰えぬ人気であったこと。

 もう一つ、何かと言うと亡くなった坂井泉水が”ザードのボーカル”と称されるのが異様な気がしてならなかったこと。”ザードというバンド”なんて何も実態はなく、坂井泉水なる歌手を売り出すための虚構でしかないのは、音楽ファンの誰もが知っている。にもかかわらず、なぜ、性懲りもなく”ザードのボーカル”なる肩書きは繰り返し提示されるのか。

 この記事に関し、以前よりの知り合いであるシン@本さんがブログのコメント欄になんども感想を書き込んでくださいました。

 そのやり取りが印象に残り、あまり人目につかないブログのコメント欄に置いておくのももったいない気がしたので、ここに記事として公開する次第です。シンさん、勝手な事をしてすみません。事後承諾を迫る形になってしまい、申し訳ないのですが、どうかお許しください。

 (下のやり取りの元になるのは、6月5日の”終わりなき循環コード”という記事→であります。合せてご覧ください)

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★ロックではない (シン@本) 2007-06-09 02:49:38

なるほど、頭の中がすっきりしました。
JUDY AND MARYとかは、「最近の音楽なにが好き?」と聞かれたときに答えるための方便みたいなものなのかもしれません。
「ジュディマリが好き」
「へ~、おしゃれなの知ってるね」みたいな。
「ZARDが好き」と言ったら
「ふーん……(じろじろ)ZARDねえ」
と、いろいろ見すかされるような気がする。
(でも考えてみたらどちらも「最近」ではないかも)

あれはフォークだな、とは前から思っていました。
系譜をたどると、「ふるさとの話をしよう」とか「早春の港」とか……童謡や唱歌からしてそうですね。

でも唱歌ってアイルランド経由でしたよね。
(違ったかな?あいまいな記憶ですみません)
近代以前はどうだったんでしょう。ZARDから江戸の歌までを考えてしまいました。

でもZARDってロックは意識していないのでは?
ファンも(つまり私も)ロックにあまり重きを置いていないし(笑)。
むしろバンドブームに乗っかったのでは、と思うのですがよく分かりません。

こんなに長く書くってことは、自分の心にモヤモヤがあったんですねえ。あらためてそう思います。

★. (マリーナ号) 2007-06-10 02:15:52

ザードの音楽ってのは、日本人の音楽の好みの”痛いところ”を突いてくるって気がします。その人が音楽の知識を持っているほど、それは”痛い”というべきか。
いずれもう一度、ちゃんとした形でザードについて書いてみたいと思っています。

唱歌ってのは、いずれにせよ西洋かぶれの音楽家によって作られた、あんまり自然なものではない作り物ですよね。近代以前はどうなんだろう?わらべ歌なんてのは、普通に日本音楽の系譜につながるものと思っていましたが、詳しく調べてみると何か出てくるのかもしれません。

”ザードとロック”を考える時、基本になるのはあの「ザードのボーカル」って言い方ですよね。”ザードのメンバー”って”ボーカル”しかいないって明白な事実なのに、テレビのニュースのアナウンサーまでもが、その言い方をする。これって、”ザードはロックだぞ”と念を押すためのものと思うんですが、では何のために?この辺も、解きたい謎です。

★ロックの要素はひとかけらもない (シン) 2007-06-14 19:57:59

>ザードのメンバー”って”ボーカル”しかいないって明白な事実なのに、テレビのニュースのアナウンサーまでもが、その言い方をする。これって、”ザードはロックだぞ”と念を押すためのものと思うんですが

いや、それはどうでしょうか。
ZARDに、ロックと思われていいことがあるとは思えません。今でもロックの印象といえば「騒々しい音楽」なんですから、さわやかなイメージで売ってきた彼女には、ロックと呼ばれるのはむしろマイナスだと思います。

実態のないバンドをZARDとして存在させ続けることによって、神秘的な雰囲気を作ろうとしていたのではないでしょうか。テレビにも雑誌にも出ない、という戦略の一環だったように思います。

★, (マリーナ号) 2007-06-16 03:26:02

まあ、あんまり論争するテーマとも思えませんが(笑)
その”バンド”ってのがアレなんですね。今、日本で、”ボーカル”なんてパートのいる”バンド”ってのはロックバンドしかいなんで、やっぱりあれは”ロック”って商標で売りたいのでは?
”ロックは騒々しい音楽”ってのは、そりゃ洗練された文化に生きる人が持つイメージで、”ロック→西洋の音楽→あっちから来たものは無条件にお洒落”なんて貧困な価値観のうちに生きているのが一般大衆というものではないでしょうか。
で、そんな”大衆”に”かっこいいもの”としてアピールしようって戦略だったんじゃないかと。

★むきになることでもないんですが…… (シン@本) 2007-06-17 14:22:47

私もこんなに長びくのはちょっとどうかと思うんですが(笑)このままモヤモヤしているのもなんだし、書いちゃいます。

ボーカルのいるバンド=ロックバンド

という公式は、どうかな、あまり成り立たないんじゃないでしょうか。
最初はそうだったかもしれないけど(詳しいことは分りません)、今はロックだなんて意識せずに「ボーカルのいるバンド」をやっているところが多いような気がします。
いえね、なんでこんなにこだわるのかというと、私自身ZARDをロックだなんて感じたことは一度たりともないんですよ。全然、まったく、ロックではないもん。
これがBzとかGRAYとかだったら分るんですよ。ロックと思われることがステータスになる、ということが。でもZARDはねえ。ロックと思われて得することがあるとは想像できないんです。

★, (マリーナ号) 2007-06-18 22:45:06

うーん、そうすると、なんだって彼女を語る場合、”ザードのボーカル”といちいち強調されるんでしょうか?音楽番組や芸能情報ばかりではなく、一般のニュースのアナウンサーまでが、わざわざそう呼ぶわけは何なんでしょう?「歌手の坂井泉水さんが亡くなりました」で十分用事は足りるはずなのに。
”ザードのボーカル”と付け足す必要がある誰かがいる。しかも彼は一般のニュース番組にまで影響を及ぼす”権力”を持っている。これはなんなんでしょう?

★思いつきだらけです (シン@本) 2007-06-19 02:08:23

なんででしょう……もうここまでくるとなにがなんだか分りません(笑)。

レコード会社がバンドとして売り出して、その結果バンドとして売れたから「ZARDの坂井泉水」として呼ばせて、それが定着したのかもしれません。
特に深い意味はないような気がします。

あ、今思いついたんですが、「ブギの女王、笠置シヅ子さんです!」や「永遠の若大将、加山雄三さんの登場です」に近いのかもしれない。「ZARDの坂井泉水さん」って。
最初はバンドの名前だったのが、形骸化するにつれてだんだんと枕詞のようになっていったんじゃないでしょうか。
ん~、でも本当はよく分らない。というか、私、あんまり気にしたことなかったんです。

亡くなってみると、彼女の歌が無性に懐かしい。なんだかんだ言っても結局好きだったんだなあ、と今になって思います。

★. (マリーナ号) 2007-06-19 21:38:22

 一つ確かなのは、大の大人が「何ごとかわざわざやる」のには、その裏に金か権力か、そんなものが存在していなければならない、と言うことです。
 全国放送の、芸能担当でもない一般のアナウンサーが、各局揃って「ザードのボーカルの」とやるのは、やっぱりなんか異様です。
 これが”サザンの桑田”が死んで、それを報道するのだったら、「サザン・オールスターズのボーカルの桑田さんが」とアナウンサーが言っても何も変ではない。我々は”サザンなる”バンド”の実在を確認済みですから。だけど・・・”ザード”なんて”バンド”が実在していないのは、日本の音楽ファン誰もが知っていることです。
 なのに、あちこちのニュースで当たり前のように「ザードのボーカルの」と各局のアナウンサーたちが真面目くさって言っている。なんか気色悪いです。その裏にあるものを何とか知りたく思い、ここで、「ロックなるナウいものの捏造」という仮説をとりあえず出してみたのですが。

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ロッキン・ロシア民謡を求めて

2007-06-18 22:49:03 | 音楽論など


 先日、吾妻ひでおに関わる話のところで”鶴”を聴くために鮫島有美子の”ともしび・ロシア民謡を歌う”を引っ張り出した、なんて書いたが、そのアルバム自体について。
 とはいっても彼女はクラシックの歌い手であり、徹頭徹尾裏町の大衆音楽支持者の私はクラシックという音楽形態に対する興味は皆無といった状態である。大した感想もいえないのだ。ともかく、上手いも下手も良いも悪いも分からない。ああ、こういう音楽もありましたか、と右から左に受け流すだけ、といった有様である。

 だったらなんでクラシック歌手のCDなどをを買ったのだ?と疑問に思われようが、収められているロシア民謡が好きなものばかりだったのでふと気が惹かれたのと、すべて日本語で歌われているようなので、歌詞を覚えるのに都合が良かろうと考えたのだった。
 歌詞を覚えたところで、いまさら歌声喫茶でロシア民謡を労働者学生諸君と高歌放吟する機会もなさそうだが、まあ、好きな歌の歌詞を楽して覚えられるのは良いからね。

 で、聞いてみた感想としては、うん、やはり私にクラシックは関係のない音楽だなあと再確認した、と言うところか。俗世と隔絶されたかに思われる環境において研ぎ澄まされた高度な演奏技術の提示よりも、譜面も読めないような雑民が欠陥だらけの自己流のテクニックで奏でる、街角で生きるメロディに、やはり私は血が騒ぐ構造になっている。

 それにしても、かって我が国でも相当の広がりを擁して愛好されたと言う割には、あんまり聴くに値するロシア民謡の録音って見当たらないではないか。通販サイトのレコードを検索しても、結局、ダークダックスとかを買うしかないようである。あのようなお上品なコーラスでロシア民謡を聞いてみても、私としてはもう一つピンとこない。

 これはあまり面白くない情勢ではないか。加藤登紀子?いや、論外ですから。

 などとぼやいていたら、以前、岸本力氏の歌唱を推薦されたことがある。バスの実力者で、日本におけるロシア民謡の権威である由。うん、氏の名はロシア民謡を扱っている店のカタログで何度か拝見して存じ上げているのだが、残念ながら、どうやら氏は日本語で歌っておられないようなんで。(一緒に、”二期会の会員です”とも教えていただいた。うう・・・。そう言われましても、私、二期会なるものが一体何なのか、まったく分かっておりません。すみません)

 ともかく岸本氏はロシア民謡を原語でのみ歌っておられるらしい。これは私にとっては大きなマイナス・ポイントです。

 まあロシア民謡に限らず、外国音楽をその国の言葉だけで歌ったアルバムに、どうも私は興味をもてない。それだったらその金で現地の歌手のアルバムを買ったほうが良いからね。外国の歌に、文化に、我が国の言葉を持ってトライした、そんな闘いの記録が欲しいのだ、私は。心惹かれた異国のメロディに、たとえ舌足らずであろうと、我々の言葉による詞が付けられたものを、その歌手の真似して歌ってみたいのだ。

 つまらないなあ、まったく。いても良さそうなものだと思うんだがね。岩のように逞しくワイルドなロシア民謡の歌い手。めちゃくちゃロックンロールな奴。音楽的教養なんてなくてかまわない。その代り、庶民の歌い手らしく街角で培った、直感一発ですべてを理解する、つまりは大衆音楽の歌い手のフットワークを十全に備えた、そんな歌手が。

 いたんじゃないかと思うんだよ、そんな歌い手となる素養を持った者が。かってのロシア民謡ブームの時代に。でも彼は、学校できちんと発声を習わなかったから、譜面も読めないから、とか言うつまらない理由でスポイルされて無名のまま忘れ去られていった。あったような気がしてならないんだがなあ、そんな事が。

”鶴”と漫画家

2007-06-17 03:23:31 | 音楽論など


 ”うつうつひでお日記”by 吾妻ひでお

 昨年、自身の失踪体験とその後のホームレス生活、さらにその後のアルコール中毒による入院の次第を描いた漫画、「失踪日記」が注目を集めた(と言うのも昔からのファンにしてみれば悲しいが)吾妻ひでおの新著、「うつうつひでお日記」をこの頃、就寝前に寝床で読んでいる。
 「失踪日記」に著された波乱の後、どうにか漫画家としての生活を取り戻した吾妻の、しかしかなりリハビリ色の濃い日々を自虐的ユーモアを込めて描いた作品。「何もしてません。事件なし、波乱なし、仕事なし」などと帯に書いてあるが、その件に関してはあんまり他人事ではない当方としては、笑えず。

 でまあ、こちらも自虐的となりつつ読んでいるのだが、ふと音楽的に気になる部分が出て来た。たとえば、吾妻が妙にロシア民謡の”鶴”に執心であったりする部分。市民コンサートの類に出かけて吾妻は、この曲が演奏されるのに出くわし、「好きな曲だ」と落涙し、後日、”鶴”の収録されたCDを手に入れては、またも涙ぐみつつ一日中聞いている。

 まだ精神安定剤などの力を借りつつ日常生活を成り立たせている事もあり、かなりセンシティヴな状態にあるのであろう、吾妻の心。
 そのような吾妻の心に、そんなにも”作用”している”鶴”なる曲の実相を知りたく思った。
 曲自体を聴くのは簡単。吾妻の手に入れたCD、鮫島有美子のロシア民謡集を私は、ずっと以前に購入済みである。が、弱ったことに私には”鶴”なる曲に、特に記憶がないのだった。

 ”鶴”はアルバムの1曲目に収められていて、真面目にアルバムをアタマから聞いていったりしない私は、それより後に収められた別の曲を聴くために、いつも飛ばしてしまっていた曲なのだ。
 そんな訳で、実質、初めて聞く”鶴”である。アルバム冒頭を飾るにふさわしい荘重な曲調の歌である。短調の、重々しく悲しげな、いかにもロシア民謡、と言う感じ。

 確かに悪い曲ではないが、吾妻がそんなに入れ込む理由が簡単に納得できる、という感じでもない。2~3度聴くうち、「そもそもなんでこんなに間奏が長いのだ」なんて疑問も出て来た。
 原曲がそうなのか、このアルバムのアレンジャーが凝ってしまったのか、複雑に盛り上がる間奏は、なんだかプログレッシヴ・ロック好きが喜びそうな芸術趣味であり、”民謡”でこれはいかがなものかと思ったのだが、クラシックのアルバムにそんな文句を言っても仕方ないのかも知れない。

 歌詞は、”戦場で倒れた兵士の魂が鶴に変じて故郷に帰る”といった趣旨のもので、今流行の、”千の風になって”なんて歌を連想させるものがある。もちろん、こちらのほうがずっと歴史の有る曲なのであるが。

 それにしても、”鶴”などというジャパネスクなもの(?)が主題となる外国曲も珍しいが、ロシアにはそのような言い伝えなどあるのだろうか?と調べてみると、どうやらこの詞、ロシアの詩人により、広島における原爆被爆を念頭において作られたものと分かった。鶴などが出てきたのは、被爆者の枕元に飾られた千羽鶴からの連想のようだ。

 そうなってくると、間奏の”芸術くささ”も意味合いが想像ついて来る。この曲が冷戦下のソビエトで、”帝国主義に抗する人民芸術”と官僚根性で決め付けられ、箔を付けられた”芸術歌曲”である証なのだろう。

 もちろん詩人も作曲家も、そのような事情を念頭に置いた上で”鶴”の詩情を歌い上げたわけではあるまい。それとも、冷戦下のソビエトで、それなりに高名な芸術家として生きるのは、つまり、そのような結果を承知していたのだろうか。
 いや、詩人と作曲家の仕事に何の不純な意味も見出せはしない。音楽の向こうに提示された、灰色の原野を行く鶴と魂の永遠に関するメッセージは、確かに聞く者の胸を打つ。ただ、無理やり付与された”芸術くささ”が、奇妙な不自然さを漂わせるばかり。

 なんて事を考えつつ”鶴”を聴いていると、そのむこうにそそり立つ”国家”というバケモノの巨大さと、それに対峙する無名の庶民たる漫画家、吾妻の姿の、あまりの小ささに唖然としてしまうのだ。

 けれど、放浪やアルコール依存で傷つきながらも、遥か異国の詩人の祈りに共鳴して頬を濡らす、そんなあまりにナイーブ過ぎる個人の感傷がその庶民一人一人の胸にあるうちは、最後の希望もまた奪われはしない、なんて、文章にしてみると凄く恥ずかしい事を、ふと考えたりもした。