ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

サスペンスの岸辺にて

2013-01-23 23:50:23 | 書評、映画等の批評

 体の不調に耐えつつ、テレビで「エイリアン2」など見ているわけだが、(この選択がそもそも間違っているのは、自分でもなんとなくわかっている)すでに何度も見ていてストーリーも頭に入っている身としては、登場人物の行動にいちいち「そこでそんなことをすればそうなると、わかりきっているだろうが。何をマヌケをやっているのだ」と、苛立たしくなってならない。

 そもそも、そんな危険なところになんで生身の兵士たちを投入するのだ。索敵用ロボットでよかろうが。そのくらいのものは平気で作られているくらいの、未来社会の出来事じゃないのか。
 そうやって見物人をイライラさせる、そうしなければサスペンスというものが生まれないのだ、という作劇上の都合は理解しているのだが、それにしても仕掛けがセコ過ぎる気がする。

 一度、登場人物たちの行動に一つのドジもなし、偶然の不運も起こらず、使用する機械はきちんと作動し(つまり、車のエンジンは非常時でもちゃんとかかるし、銃は肝心な時に弾切れになったりしない)、密かに余計なことを企む(会社の儲けのためにエイリアンの保護を企む、とか)混乱形成用の登場人物も出てこず、そして登場人物たちは「おお、ジョニー!助かったのね」とか言って抱き合う前に、ちゃんと周囲の安全を確認する、なんて設定でやってみろというのだ。

 なおかつ、主人公は女でもなし子供でもなし、屈強な体と冷徹な判断力を持つクールなタフガイ、みたいな設定で、ちゃんとハラハラさせられる手に汗握るサスペンスを作ってみろと、映画人諸君に言いたいのである。どうだ、ええ?

「ミック・ジャガーは60歳で何を歌ったか」を読んで

2012-11-07 14:32:13 | 書評、映画等の批評

 「ミック・ジャガーは60歳で何を歌ったか」by 中山康樹(幻冬舎新書)

 タイトルそのまんまというか。ミック・ジャガーをはじめ、60~70年代のロックのヒーローたちは老境を迎えた今、なにを考え、どのように生きているのかを、彼らのその時点での新譜から読み取っていった書である。
 「全盛期」は遠く時の彼方に過ぎ去り、歓声を持って彼らを迎えたかってのファンたちも年を経て、多くのものは音楽ファンの看板さえ降ろした。そんな現実を前に、ただ老いて行くことも拒否して現役を続けるミュージシャンたちの戦いの記録である。

 とはいえ、ミック・ジャガーの、というかストーンズの新譜なら、まだ多くの人が買い、聴いていることだろう。また、同じ世代のたとえばポールマッカートニーの新譜なら未だ、大層な売れ行きを示すだろうが、同じ元ビートルスのリンゴ・スターのアルバムなど、誰が聴いているのか。
 ”あの頃”には大変な人気者だったクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルだが、そのリーダーだったジョン・フォガティの新譜を今、どれだけの人々が追い続け聴き続けているというのだろう。そしてエリック・バードンは。エルトン・ジョンは。グレアム・ナッシュは。

 などなど。著者はここで、律儀に彼らかってのロックスターたちの新譜を追い続け、それらの作品の検証を行う。浮び上がってくるのは、きらびやかな照明を浴びようが浴びまいが、時代の波に乗っていようがいまいが、彼らの人生は続いて行くということ。そして、それら与えられた時間の中で最善を尽くそうとする、老いたるロックスターの姿だ。そこに聖なるものを読み取るのもいいが、それより彼らの新譜、聴いてやったらいいじゃないか。
 などといっているが、この私も、かってのロック・ヒーローの新譜をきっちりフォローなどしていない。何しろだいぶん前にロックファンからワールドミュージック・ファンに宗旨替えしてしまい、一部を除いてロックそのものを聴かなくなって久しい身なのであって、あんまり偉そうな口は利けない。

 ちょっと例外的立場にあると思われるのは、ブライアン・ウィルソンのケース。彼の今日の活躍を「奇跡の復活」と誉めそやし、幻の作品であった「スマイル」の今頃になっての「完成品」を、「待たされたなあ」とか言いつつ買い求める連中のほとんどは、実は、ビーチボーイズ時代のブライアンを、つまり「スマイル」を「作り損なった」頃の彼をリアルタイムで知っていたわけではなさそうな気がする。
 彼らは、音楽ジャーナリズムがブライアンの復活に合わせて書き立てた「復活の神話」に乗せられ、ただ”祭り”に合流してみせているだけであって、ブライアンの音楽を何十年にもわたって支持して来たわけでもない。まるでそうであったかのようなことを言っているが。
 このイカサマのあたりに、我々の落ち込んだ歪みの世界を解く鍵がありそうな気もする。

フランシスコの二人の息子

2012-08-10 23:56:20 | 書評、映画等の批評

 あれは何日前のことだったか、オリンピック中継の狭間の真夜中のテレビで、”フランシスコの二人の息子”なる映画を見た。
 映画ファンではまるでない当方、もちろんこの映画に関する知識はまるでなく、これが現地では大ヒットしたブラジル映画であることなどまるで知らず。

 どこぞの田舎町に、赤貧洗うが如く、なんて言葉を思い出させる暮らしを送りつつ、よせばいいのに子沢山の父親がいて、子供を音楽の世界で成功させる事を夢見て楽器を買い与えたりしている。そのうち、父親の期待に応えるように多くの息子のうちの二人がボタン式アコーディオンとギターのデュオで、その地方の民謡か何かを街角で歌い始め、小銭を稼ぎ始める。そこに、子供たちの才能に興味を持った、いかにも胡散臭い興行師のオヤジが絡み出し、二人を演奏旅行に連れ出したりする。いかにもいかがわしい、食堂の片隅のチップ目当ての”興業”だったりするのだが。

 この、映画の冒頭部分を見ながら私は、勝手にメキシコ北部あたりが舞台の物語と誤解していた。子供たちが歌う民謡はいかにもメキシコのカンシォーン・なんたらと私には聞こえたし、子供たちの演奏旅行の途中で途中でケイジャン・ミュージックのように聴こえる音楽も登場した。おそらく途中で物語は国境を越えて、話の舞台はメキシコ北部からアメリカのテキサスあたりに移るのだろうな、とか予想した。
 そしてこの映画、貧しい子供たちの悲惨な運命に絡めて、ラテンアメリカ世界の矛盾を鋭く突いてきたりするんだろうなと。

 が、どうも成り行きがおかしく、そこで初めて検索をかけて私はこの映画の正体を知ることとなる。
 この映画は、
 ”2005年に公開されたブラジル映画。ブラジルにおけるセルタネージョ(ブラジルのカントリー・ミュージック)のトップミュージシャン、ゼゼ・ヂ・カマルゴ&ルシアーノとその家族の半生を事実に基づき描いている”(ウィキペディアより)
 であったのだった。

 どうりで、というかなんというか。若干の成功へいたらんがための苦悩の描写など挟みつつ、街角で歌っていた貧しい少年たちは、あっという間に大スタジアムを満員にした観衆の熱狂に包まれるラテンポップスのスーパースターへと成り上がって行くのだった。
 (いわゆる”天使の歌声”を聴かせていた子供が、青年になるにつれ、脂ぎったヤクザなラテンの伊達男に姿を変えてゆくのは、結構、胃に来る。なんてのは、虚弱なアジア人らしい感想なんだろうね)

 などとダラダラ書いていても仕方がないが。この映画が私の心に妙に残ってしまったのは、冒頭に書いたごとく、最初、舞台がメキシコではないかなどと私に誤解させたくらい、この映画が我々日本のワールドミュージック・ファンが一般に持っているであろう”ブラジル音楽”のイメージをすっきり無視した作りだったから。
 そこではサンバのリズムのサの字も響くことはなく、成功を手中にした”フランシスコの息子たち”が熱狂する大観衆を前にして歌うのは、普通のエイトビートのラテンのバラードである。こんなのがブラジルの大衆の一方の本音であるのも、厳然たる事実なんだよね。

 うん、なんだかその”裏切り”が、こちらの固定概念を覆してくれて痛快だった、というオハナシであります。まあ、普通に見れば歌謡スターのベタなサクセスストーリー、なんだが。

「ミック・ジャガーは60歳で何を歌ったか」を読んで

2011-12-04 04:29:46 | 書評、映画等の批評

 ”ミック・ジャガーは60歳で何を歌ったか”by 中山康樹(幻冬舎新書)

 1960~70年代、あの”輝けるロックの時代”に先頭グループを走っていたミュージシャンたち。そして今、もう過去の人、あるいは懐メロ歌手としての扱いしか日本においてはされていない人々の、その後の活動に光を当て、彼らが今日に至るまで、どのように音楽を作り続けてきたかについて論じた書である。

 俎上に揚げられるのは、ジョン・フォガティ、エリック・バードン、ロジャー・マッギン、ブライアン・ウィルソン、リンゴ・スター、エルトン・ジョンなどなど。そのハザマに、リーヘイゼルウッドやディオンといったマニア好みのアーティスト、あるいは一見、場違いにも思える(いや、場違いどころか非常に重要な意味合いを持って名を挙げられているのだが)シルヴィ・ヴァルタンを置いている辺りが、曲者の物書きたる中山康樹の面目躍如たるところか。
 面目躍如といえば、ビーチボーイズの「スマイル」を「あえて完成させるほどのアルバムでもない」とぶった切っているのも痛快。

 話は「世界最高のロックバンド」として君臨するべく仕組まれたローリングストーンズとミック・ジャガー」なる陰謀(?)の記録で始まり、過去の音源の度重なる出現と、「ネバー・エンディング」と銘打たれたツァーの連なりの中で、過去も現在もどちらがどちらか見定めることが困難になっているかのようなボブ・ディランの今日について、で終わる。
 確かに、青春の日々、憧れの目で見上げ、小遣いを貯めて買ったシングル盤のA面B面を擦り切れるまで聴いたあの”ロックスター”たちの”今日”に、何の興味を持つこともなく過ごしていた当方であったのだ。それは、音楽の関心の中心がワールドミュージックに移行してしまい、ロックという音楽そのものに興味を失っていた身ではあるものの。

 読み進むと、彼らもまた、”栄光の日々のその後”の長い時間を彼らなりの誠意をもって戦ってきたのだな、という当たり前の現実に出会い、そして遠い気持ちになってみたりするのだが。
 ある時は全く見当違いな道に踏み迷い、ある時は若き栄光の日々を凌駕するような傑作をものにし、が、かってのように注目は集まらず。そして運の悪い者は道の途上で早々とこの世を去り。
 振り返ればやってきた道は効率悪く曲がりくねっているが仕方がない、誰もが先の見えない霧の中を未来に向かって歩いてきたのだ。

 彼らのまだまだ元気な様子を伝える”新譜”を聴いてみるべきかとも思うのだが、先に述べたようにアフリカの太鼓や東南アジアの小娘の演歌などにもっぱら耳を傾けるわが身、それらの盤を楽しめる自信がなく、その記事に関しては、出る気持ちのない同窓会の通知を眺める、みたいな気持ちで読み流すしかない。これは少し寂しいのだが。まあ、元気でやっていればいいよ、とはなんとつまらない締めの言葉だろう。



”艶歌”の捏造

2011-01-18 02:46:00 | 書評、映画等の批評
☆創られた「日本の心」神話
 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 輪島祐介・著(光文社新書)

 まだ形成されたばかりと言っていい「演歌」なる大衆音楽のジャンルを、まるで大昔から我が国に存在した音楽であるかのように吹聴する。そして「日本人の心である」などと言いくるめる。そんな無茶な歴史捏造はなんのために発生し、どのように人々に受け入れられて行ったのか。日本の大衆音楽史の大いなる闇にメスを入れる書。
 さらに、五木寛之の小説に登場する昔気質のプロデューサー、”演歌の竜”と、そのモデルになった人物とのキャラの落差が何を意味するか?など。
 あの頃、なんでもなく聞き流していた”流行歌”の影で何ごとが起こっていたのかが執拗とも言いたい追求の内に姿を現す。凄い凄い。




イマジンなんかじゃなくて

2010-10-06 03:39:36 | 書評、映画等の批評
 ”書評・「ジョン・レノンを聴け!」中山康樹著 集英社新書”

 音楽ライター中山康樹による、残されたレコーディングに対するローラー作戦的徹底検証によるジョン・レノンの内面炙り出し、とでも副題を付けたいような一冊。
 ともかくジョンによるソロ名義のレコーディング曲すべてを、それはもう全米ナンバー1となった大人気曲から、ベストアルバム製作の際のボーナストラックとして、やっと陽の目を見たような片々たる没録音までをまさに細大漏らさず、公平にすべて”1曲1ページ”の扱いで評論しまくっている。

 そのある意味厳格、ある意味みもフタもない切り刻みように、なにやら残酷なユーモアなど感じつつ、その狭間に浮かび上がってくる”ジョン・レノン”という見慣れたつもりでいた一人の男の意外な素顔に、なにやら粛然な気持ちにもさせられる一冊である。
 ”愛と平和の使者”みたいな能天気なジョン像などは、真っ先に冷徹なる哄笑をもって虚飾を剥ぎ取られる。過酷な現実に翻弄され、慌てふためき、ブザマなご都合主義でそれに対処しようとして時に成功、時に惨めな敗北を味わう一人の男の滑稽で悲惨な肖像が、そこにはあるだけである。

 とはいっても、著者にジョンに対する悪意はない。むしろ、生きるのにぶきっちょだった一人の男の間違いだらけの人生への著者の哀惜の念が、その歯に衣着せぬ文章の狭間から吹き零れる。
 非常にシンプルに、ジョンは一人のロックンローラーだった。彼の輝きはそこにあった。要はそれだけの話なのである。が、”シンプルにそれだけ”では済ませては貰えぬのが人生と言うものであり、ために人はそいつを切り抜けようとさまざまな、たとえば”愛と平和の使者”とかなんとかの悪あがきをする。その悪あがきのほとんどは考え違いなのであり徒労に終わる。

 だが、それは後に冷静になってきた道を振り返ってはじめて自覚できること。人は基本的に、何も分からぬまま生きて行く。その途上で突然命をを絶たれたりしたなら、それは分からぬままでも仕方のないことであった。では、ロックンロールをもう一曲。
 (それにしても全曲評論てのは凄まじいな。それも、こう論理的にやられたら、もう逃げ場はない)



遥かなる誤爆王に寄せて(平岡正明のDJ寄席・平岡正明著・愛育社)

2010-09-29 03:26:53 | 書評、映画等の批評
 この本をいつ買ったのかあまり記憶がないのだが、平岡の訃報を聞いてからしばらくしてからであったのは確かだ。ああ、こんな本も出していたのか、と特に感慨もなく思い、それでもどんなことが書いてあるのか知りたいと言う気まぐれを出して本を買い込み、そしてそのまま未読本を突っ込んだ段ボールの中に忘れていたのだった。さっき、ふと気まぐれを起こして読んでみたのだが。まあ、私なりの何周忌かの法要代わりといったところかもしれない。

 彼の本をはじめて読んだのは十代の終わりころだったろうか。「この人物は何者だろう?一応ジャズ評論家らしき看板を掲げているのだが・・・?」何がなにやら分からなかったが、というか分からないゆえ面白く思えて読み続けた)
 悪巧みやら革命やら。レゲにサンバにタンゴに美空ひばり。談論は風発する。河内音頭に空手に後年は落語や新内や横浜野毛への思い入れ。ともかく、あちこちから見つけてきたガジェットの数々を獲物として振り回し、世界にケンカを売りまくる無茶振りがたまらなく快感で、たちまち愛読者となって彼の著作を追いかけた。

 彼の思想等に興味を持った事はなかった。ただその怒涛の暴言、嵐の独断が奔流となって暴れまわる、その文章のパワーと速度に身を浸しているのが快感だった。時折かます、思い込みによる誤爆さえも一つの愛嬌ある決まり芸として、愛することが出来た。
 山下洋輔たちと”冷やし中華同盟”など作って空理空論の乱打戦を行ったあたりが彼のもっとも華やかだった時代か。いや、その少し前に平岡は、山口百恵を菩薩に喩えた本で柄にもないベストセラーをものにしていたのだったか。

 皮肉なもので。そのバカ騒ぎが一段落するころに、私は彼の本を追いかけるのをやめている。なんとも説明不能なのだが、彼の発する波長と自分の内にある思いのリズムとが食い違うようになって来ていたのだ。時の流れの中で彼も変わったし私も変わっていった。
 それから何年かが経ち。彼の姿を久しぶりに見たとき、彼はジャズ喫茶の椅子に座り、テレビカメラに向って独白をしていた。
 「ベルリンの壁の崩壊時も、自分は関係なく過ごした。完璧なる鎖国である。それが証拠に自分は、こうしてジャズ喫茶の中で喧騒のジャズに浸るだけで、外の世界の存在が意識されることはない」
 そんな風に彼は自閉を語っていた。

 彼のような人でもやはりサヨクはサヨク、ソ連が崩壊し、赤旗の側に”負け”が宣告されたのはショックだったのかな、などとずいぶん意外に思えたものだった。
 それからさらに歳月は流れ、私は彼の訃報を聞く。まだ60代の早過ぎる死だったが、私には感傷はなかった。もう彼は私の思い出の中ではとうに片の付いてしまった人だったから。ひどい言い方ではある。

 そしてこの本の書評。のようなもの。
 これは、平岡がジャズ喫茶を借りきって気ままにレコードをかけながら彼の音楽論を集まった客を前に吹きまくると言う、ようするに本でやっていることのライブ版の宴の文字起しである。とりあえずレコードを廻して喋っているので”DJ”の名を冠せられてはいるが。
 読んでみると、やはりあまり迫力は感じられない。昔の話の蒸し返しも多いし、彼の突きつけてくる問題意識が、もう時代とずれてしまっているような気がする。そんなうら寂しさを感じた。

 その一方、今回の出版の企画には。この”DJ”なる一語にひっかけて、平岡を”ヒップホップ”のフィールドに囲い込もうとする若者の一群が絡んでいるようだ。
 今日の黒人文化の話題などを盛んに持ち出して平岡を焚きつける彼らは・・・「いやあ、ヒップホップ文化には俺も前から興味を持っていたんだよ。俺も真似してラップやっちゃおうかなあ」とか平岡に言わせたかったのだろうか。自分たちの”ムーブメント”に平岡のお墨付きでも欲しかったのだろうか?

 平岡は、そんな若者たちの思惑に対し、この催しを実行して彼を持ち上げてくれた若者たちの顔を立てて、一応話に乗るようなそぶりを見せつつ、が、いつもの平岡ワールドを展開して見せるだけである。そっぽを向くでもなし、安易に同調して見せるでもなし。
 いいぞいいぞ、平岡、などと思うのだが、いや、そのようにして若者たちを片手でひねって捨てたのか、それとのその頃の平岡には、そんな反応しか出来なかったのか。それは分からない。

 そして私は。読み終えたこの本を、ブックオフ行きの段ボール箱の中に押し込んだのだった。



傲慢なる帰郷

2010-08-16 03:57:44 | 書評、映画等の批評
 ”テレビドラマ「帰国」(2010年8月14日)”

 何度も流された番宣コマーシャルを見て、おそらく「英霊」にかこつけて、昨今の世情が気に入らないジジイが手前勝手な説教を垂れる番組であろうと予想していた。確認のため見てみたら、まさにその通りに進行して行ったのであった。

 この番組を見て分かったけど、あの脚本家の倉本聡という男は、「英霊」の一言を持ち出せば気に入らない奴はオノレの一存で殺してかまわない、むしろ殺されたことを感謝するべきだ、という考えの持ち主なんだな。そりゃ、戦争も起こりましょうよ。

 クラモトもこのままでは不自然になるとでも思ったのか、石坂浩二演ずる殺された男に亡霊と化して自分を刺し殺したビートたけし演ずる”英霊”のところに行き、「おかげで目が覚めました」とか、”お礼”を言いに行かせている。目が覚めたけど死んでましたか。

 あんな滑稽なシーンもないものだが、みんなちゃんと腹抱えて笑っただろうな?それとも聞き分けの良い昨今の人々は、あんな話にコロッと乗せられ、「感動しました」とか言ってるんだろうか。

隠された欺瞞の記録

2010-01-08 05:04:49 | 書評、映画等の批評
●あの時、バスは止まっていた・高知「白バイ衝突死」の闇
 (山下 洋平著 ソフトバンククリエイティブ)

 冤罪の記録である、と言ってしまっていいだろう。それも現在進行形の。なにしろ罪を着せられたバスの運転手はこの文章を書いている時点で、まさにその冤罪により有罪の判決を受け”服役”中なのである。
 すべての科学調査や目撃者の証言は、”スピードを出し過ぎてコントロールを失った白バイが停車中のスクールバスに激突し、運転者の警官が死亡した”というのが事故の顛末であろう事を示しいる。
 が、警察は続々と捏造としか言いようのない穴だらけの”証拠”を提出して白バイ側の運行の正当性を主張し、裁判官もまたバス運転手側の主張をいっさい破棄、警察側の主張をそのまま受け入れ、”スクールバスが不注意から白バイを跳ね飛ばした”という方向の判決をくだす。まさに真昼の暗黒。
 裁判官の、「第三者の目撃証言だからといって正しいとは限らない」なる文言には唖然とするしかない。それならいったい、どんな証拠なら採用するというのだ。
 警察側は、裁判所は、そしてバス運転手を無実の罪に陥れて殉職者年金を受けているのであろう白バイ警官の家族は、この欺瞞が永遠に保持されると信じているのだろうか。いつか真実が白日の下に明かされた時、歴史はあなた方をなんと呼ぶのだろうか。それを考えた事があるのか。
 
 ~~~~~

<春野の交通死亡事故:控訴審、即日結審--高裁で初公判 /毎日新聞>

 平成18年3月、高知県吾川郡春野町の国道で県警の白バイと生徒22人を乗せたスクールバスが衝突し、白バイ隊員=当時(26)=が死亡した事故で、業務上過失致死罪に問われている同郡内の元バス運転手の男性(53)の控訴審初公判が10月4日、高松高裁で行われ、男性はあらためて無罪主張し結審した。
しかし10月30日の高松高裁の判決で柴田秀樹裁判長は、証拠を捏造した疑いは全く無いとし、控訴を棄却した。
 バスの運転手と乗っていた生徒らの証言では、バスはゆっくりと停車し、反対車線の車の流れの切れ間を待っていたところに猛スピードの白バイが衝突したとあるが検察側はバスが右方向を十分に注意せずに横断、そこへ安全速度で走ってきた白バイが衝突し、その後3m引きずり急ブレーキで停止したと主張した。
 しかし検察の挙げた証拠には、バスのタイヤ痕と見られる証拠写真がきわめて不自然であり、また事故直後の写真のバイクの破片の位置が衝突地点に無いなど、不審な点が多く、証拠は警察により捏造されたのではと問題となっている。

 ~~~~~

第60回NHK紅白歌合戦寸評

2010-01-01 04:49:03 | 書評、映画等の批評
 ここでもしゃしゃり出てきた、毎度こまっしゃくれた”こども店長”とか、訳のわからないガキのコーラス隊とか、ともかくガキの姿がやたらと目につきうっとうしかった、今回の紅白だったのであって、あれをなんとかしろと。

 紅組でも白組でもない、ガキフェチ組の勝ちだよ、今回は。
 製作側にしても、ガキさえ出しておけば視聴者は喜んでいるんだから、何の工夫も要らず、こりゃ楽な商売を見つけたもんだねえ。

 で、なんなの、俺らが住んでるこの社会って?