ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

アナトリアの明けない夜明け

2011-06-30 04:31:31 | イスラム世界

 ”Ask Kac Beden Giyer?”by Hadise

 ブログ仲間のころんさんが先日、”2011年上半期ベスト10?”という記事を書いておられた。なるほど途中経過というのも面白いかもなあと、私も真似して選出しかけたのだが、どうもまだ、その歳の”肝心の盤”が聴けていない感じで、気が入らない。
 そんなわけで今年前半ベストは中止、代わりに今年前半を軽く浅く振りかえってみることにした。と簡単に書いてギョッとしたのだが、そうかあ、もう一年の半分が過ぎてしまったのか。

 今年は例年になく心切り刻まれる按配で過ぎていった日々だった。原因は、言わずと知れた東日本大地震だ。(不思議に思うのだが、昔起こった神戸あたりの大地震は”阪神淡路大震災”とか、細部に渡った命名が成されているのに、なんで今回のは”東日本”って大掴みなんだ?)
 で、これはいろいろな人が同じ様な感想を述べておられるので私が詳しく触れるまでもないのだが、たとえば私などは音楽を聴いてももう一つ楽しみきれず、酒を飲んでもさっぱり美味くなかった。

 それは、もたらされた被害の大きさや、原発事故への恐怖、ついであからさまになってきた、原発のシステムのもたらす大きな利権と、そんなシステムを守るために国民の健康や生命さえも考慮もせずに足蹴にする、という政府や大企業のやり口への怒りなどなど。さまざまな思いが絡み合い、なんとも納得できない青白いマグマみたいなものがこちらの心中にそのまま燃え残っているからなんじゃないかと思う。

 そんなルサンチマンにグダグダとなって日々を送るうち、気がつけば、妙にトルコの女性ボーカルというものに惹かれている自分に気がついた。
 ある面ではアラブ世界でもっともテンションが高いともいえそうなトルコ歌謡を、独特の喉を詰めた発声法でいかにも性格きつそうに歌い上げて行くトルコの女性ボーカル。どちらかと言えばこれまで、「うっとうしいもの」として遠ざけて来ていた音楽だった。それが震災以後、妙に聴きたくなっている。どころではない、なんか”渇望する”みたいな気分になってきて、気がつけばトルコからの輸入盤が手元にゴロゴロ積み上げられているのだった。

 この辺の趣向の変化、多分後になって、「ああ、そうだったのか」なんて、その理由が自覚できたりするのだろうが、今は真っ只中、トルコ女性のシャウトに翻弄されるばかりである。
 そんな次第で、今年上半期のベストを選べば当然、トルコの女性ボーカルだらけとなってしまう。暫定ベスト1とするなら、この辺だろうか。
 歌手はHadise嬢。1985年生まれ、ヨーロッパのオーディション番組などに出るうち注目され、05年にデビュー、09年にはユーロビジョン・ソングコンテストのトルコ代表となり、本選で2位となったそうな。

 そんな彼女の、これは今年出たばかりの手の切れそうな(?)一枚だ。バッチリ遊び人メイクで豹柄のドレスに身を包み、こちらを睨んでいる。夜の最前線における戦闘態勢に完全に入っているハディセ嬢のジャケ写真。もうこれですべて語り終えているみたいな一枚だ。裏ジャケを見ればスーパーマンやらハラキリやらと、すでに尋常でない曲名が並ぶ。
 盤をまわすと飛び出してくるのは、電子楽器主体のR&B調。
 無機的なリズムがすべてを支配し、ハディセ嬢のクールなシャウトが闇に木霊する。ときおり打ち込みのリズムの上をサズのソロが駆け巡り、イスタンブールの血の脈動を描いてみせる。

 都会の夜の最前線を彩る冷ややかな艶やかさとでもいうのか、ブラックライトの輝きに照らし出された、けだるい情熱の発露が脈打っている。
 打ち込まれる刹那的なマシン・ビートと、その裏に巧妙に隠された民衆の汗と埃が染み付いた歌謡曲メロディの土俗が、暗い情熱を孕みながら闇に堕ちて行く恐怖と悦楽を歌う。
 そして何度も聴くうちに気がつけば、なにやらコワモテの暗く荒い声でシャウトするハディセ嬢のその声の裏側に、実は可憐なアイドル声が透けて見えたりもするのだった。

 それにしてもかっこいい盤だね、これは。





街角のGee、あるいはロールオーバー、××××・××××!

2011-06-29 05:17:27 | 音楽論など
 
 どうにも粘りつくような憂鬱のベールにとらわれてしまい、ということはつまりいつもの普通の気分、ということなんだが・・・
 多分、近所のコンビニにでも行く気だったんだろう、ともかく先日、街の商店街をダラダラ歩いていたら、どこからかお馴染みのあのK-POPS、少女時代の歌う”Gee”とかいう軽い唄が聴こえてきたのだった。
 その歌が聴こえて来たことで凄く救われた気分になったのが我ながら意外だった、と言いたいところだが、実はその時私は、「ああ、なるほどなあ」と非常に納得した気分だったのだ。

 そうだよ、あんなんでいいんだと思う、大衆音楽というものはね。
 あんな風になにげなく聴こえてきて、調子よく人の心にひととき軽い風を送って行って、振り返るともう消え去っている。そんなものでいいじゃないか。
 たいそうなお芸術とか、ごめんこうむる。ただでさえしんどい毎日。疲れるだけじゃないか。

 あと、これは”ご時世”でもあるんだが、社会的な発言とか行動とかがいやに持ち上げられて語られるミュージシャンってのも嫌だなあ。普段は名前も聞かないのに、やれどこそこで災害があったから、そこへの支援のためにチャリティーをやる、なんて事になると、急にそのバンドの周辺が盛り上がり始める。おなじみツイッターの世界じゃ、そんなバンドのファン諸氏が大喜びで、その”偉業”を報じあう。

 いや、それを売名と受け取って「不愉快だ」とか言ってるんじゃないよ。やるなと言っているんでもない。おおいにやったら良い、そりゃそうだよ。
 ただね、「そんな”社会的活動”を行なうがゆえに彼らは偉大なバンドである」とでもいいたげな、そのバンドのゴヒイキ筋が不愉快だなあ、見苦しいなあ、というお話。 そうですか、社会活動に熱心だから、あなたの好きなそのバンドは音楽家として優れているんですか?私なんか、私の好きな音楽を演奏してくれるから、という理由で好きなミュージシャンを決めていますがね。

 ああ、なんか話が変な方向に行ってしまった・・・





ユーラシアの頂上にて

2011-06-27 01:20:09 | ヨーロッパ

 ”Silo-i”by Silva Hakobyan

 なんといっても、ジャケに記された文字のインパクトだけで、ワールドもの好きの血は騒がずにはおれなくなるのだ、アルメニア・ポップス。
 不思議な文字もあったものだなあ。アラビア文字とロシア文字の入り乱れたみたいな。まあ、その辺の地平にアルメニアという国があるんだからそれで当たり前なんだが、
 その文化も、世界史の裏通りのようなど真ん中のような微妙なポジションで長い歴史を刻んできた国らしい、非常にユニークなものを持っているのだろう、こうしてかの国のポップスを聴く限り。

 もはやこの分野で、伝統楽器や民俗音楽の要素と最新の電子楽器の交錯する音作りは珍しくもない。独特の巻き込むような旋回系のスイング感を持つリズムがまず打ち寄せて来て聴く者の足を払う。東方の香りを濃厚に漂わせる哀感を含んで、納豆のような糸を引きつつ流れて行くメロディ。
 バルカンのようでバルカンでなく、アラブのようでアラブではない。なんとも正体のつかめないアルメニアのエキゾチシズム。たとえば東欧などでは「イスラム文化とキリスト教文化の衝突」なんて”テーマ”が見えてくるのだが、ここでは何と何がぶつかり合っているのかも、良く分からない。もう一度、地図でアルメニアの位置を確認する必要があるのだろう。

 冒頭に、なんだか場違いなボサノバみたいな曲が収められている。こちらの思い入れをあざ笑うように、現地ではこんな「それ、面白いか?」と首をかしげるような意外なものが今ウケとなっている事も、ワールドミュージック道追求の課程ではよくあること。この場合は、ボサノバにしてはなんかもっちゃりして、かの音楽が売りにしている洗練や退廃の影が薄いあたりに注目したい。そういえばアルメニアの音楽、アップテンポで疾走する曲はあっても、あまり尖った印象を受けないって気がする。これが国民性だろうか。
 後半、8曲目でバックにブラスバンドが登場するあたりで音の民俗性が倍増しとなり、ますます面白くなってくる。その後もブラスは鳴り渡り、差し挟まれる宴会調の手拍子と掛け声も濃厚に民俗の血を漂わせ、Silva女史の歌声もアク強く、ユーラシア大陸ど真ん中の小さな大国の栄華を讃える。まだまだ面白い音楽はあるねえ。





時の向こうで台湾は

2011-06-26 04:48:54 | アジア

 ”台湾歌古早曲”by 黄乙玲

 台湾演歌のベテラン、黄乙玲がしっとりと台湾の古謡を歌った、切ない一枚。これは良いです惚れました。

 収められている曲、一つ一つの来歴など、もちろん知らない。歌詞カードもないので、漢字の意味を辿って歌詞内容を推察することも出来ない。が、どの曲も、もう失われてしまった古き南の夢の小島、台湾の持っていた心優しいバイブレーションを懐かしく伝えてくる佳曲ばかりだ。
 昔の江南名画に描かれたみたいな花鳥風月を宿す風景に揺籃されつつ、名もない巷の男女の切ない恋の一場面一場面が優雅に描かれて行く。

 古謡とはいっても、それは堅苦しい博物館行きのものではなく、裏町の気のおけない飲み屋で傾ける酒盃に似合いの、生きた庶民の調べである。一杯機嫌で飲み交わし歌い交わす、春刻は値千金なり、か。
 毎度言っている通り、いもしなかった場所に帰る事など出来ないのだが、そりゃ帰りたくなりますよ、昔の台湾に。歴史の過酷な波が、あの小島の岸に打ち付けられる、その前に時代に。日本人がこんなこと言っちゃいかんのかも知れないが。




イスタンブールの夜

2011-06-24 03:34:28 | イスラム世界


 ”Sözyaşlarım”by Deniz Seki

 Deniz Seki は1970年イスタンブール生まれのトルコの歌手、ということで。元は女子アナをやっていて途中から歌手に転進した、なんて軽そうな経歴が信じられないくらい濃密な歌を、ここでは聴かせている。まあ、転身といったってその後、もう十数年歌手稼業をやっているのだからね。

 古代の農民が行なった神に捧げる地鎮め踊りのステップの面影を宿す、みたいな東地中海独特ののた打つような重苦しいリズムが打ち込まれる。ギリシャの民俗弦楽器ブズーキやトルコのサズなどが哀感に満ちた妖しげなフレーズをまき散らす。
 エレキギターやシンセの類も使われているのだが、表面に印象が出てくるのは、素朴な弦楽器のつまびきや、ほんのちょっと吹き鳴らされる民俗管楽器の響きである。そして打ち鳴らされる、地霊を揺り起こさんばかり呪術的リズム。

 伝承曲っぽい構造ながら、その中央に濃厚な歌謡曲の匂いを宿すマイナー・キイの哀歌群を、ピンと張り詰めた発声で情感込めて歌い上げる。暗いメイクに黒いドレス、漆黒の薔薇の花束を抱えて。
 明るい曲調の歌など一曲も収められていない。どれも、古い宿命の星からの知らせにがんじがらめになった、血と悲恋の恨みつらみを闇に向って呻くように歌い上げる、濃厚な歌ばかり。暗さも、ここまで徹底すると、むしろ爽快な気さえしてくるのだが(?)

 長いこと聴いていると、喉の奥に鉄の棒一本、押し込まれたような気になってくる。むしろこのこの重苦しさはギリシャ音楽みたいだ。
 実は彼女が何年か前に出した、トルコの懐メロばかりを歌ったアルバムを持っているのだが、そこでのお茶目で明るい印象とは、まさに裏表の印象。アルバムの企画に合わせて性格を演じていたのか、それとも、歌手稼業を続けているうちにこんな性格に彼女は成長していった人なんだろうか。なんとも分からないけど。



菜の花畑を裸足で走れ

2011-06-22 04:04:54 | フリーフォーク女子部

 ”Songs Lost & Stolen”by Bella Hardy

 イギリスのフォークやトラッドに興味のある人たちには、かなりの好評をもってむかえられているみたいな、新人シンガーソングライター。このアルバムが早くも三枚目だそうな。
 なるほど、流れの生き生きとしたメロディのある曲を書き、ややひねくれた躍動感(?)をもって奔放に歌いまくる彼女は魅力的だ。

 彼女の歌からは、頭は良いんだけどちょっぴり意地悪、みたいな女の子像が浮かび上がる。まだ子供のクセに、いろいろ人生の機微みたいなものを知識として入れ込んでいて、時にドキッとさせる表現で鋭く大人をからかう、みたいな。
 そんな女の子の感じた日々のときめきや孤独なんかがリアルな手触りを持って立ち上がり、その辺を跳ね回る。そんなものを見る面白さだろう、彼女の歌の魅力は。

 アルバムを聴いていると、てっきり自身のギター弾き語りを中心にしたサウンド作り、なんて聴こえるんだけど、実はご本人はフィドルしか弾いていない。
 というのをデータを読んで知り、なんだか化かされたみたいな気持ちになったが、歌を聴いた後では、それも彼女の仕掛けたいたずらみたいに思えたりする。




当世アナトリア・ギャル事情

2011-06-21 04:14:01 | イスラム世界

 ”Gul Bahcesi”by Hale YAMANER

 はい、どうもジャケ買いの意図モロ見えの一枚でございましてまことに面目ない。ハリ・ヤマネルと読むのでしょうか、きれいなねーちゃんであります。トルコのハルクと言う民謡系ポップスの新人のようですね、彼女。

 ジャケが気になって買った盤ではありますが、一応中身も聴いてみるとまず冒頭、なんだかパリで録音したお洒落なリンガラでも始まりそうなトロピカル調の軽快なイントロがパチパチ弾けまして、リゾート感覚も心地良しと油断したところへ妖しの響きがイスラミックに揺れ動くアラブ名物のあのストリングス合奏が被り、歌は不思議な世界に飛んで行く。このアレンジの懲りよう、やはりレコード会社にしてみれば期待の新人なんでしょうねえ。

 曲調もバックの楽器編成も結構民俗調なんですが、艶やかな笑顔満開で涼やかな美声でそいつを歌い飛ばして行くハリ嬢にかかると、なにやらお洒落な音楽かとも錯覚させられる次第で。なんか本来はこのハルクという音楽、ベテランの女性歌手がドスを効かせて歌うものだったりしたらしいんですがね。
 そうして湿気や重さをハリ嬢のキャラが振り落としてしまったハルクは、なんだかアラブよりも中央アジアっぽいエキゾティシズムを分泌し始めたように感じられるのですが、私は。
 
 うんまあ、ともかく明るくって良いですな、こういうのは。





フジ・ミュージック奥の細道

2011-06-20 03:08:10 | アフリカ

 ”E Je K'ayinde Gbaiye”by Ayinde Barrister

 ありがたいことに、ナイジェリアのフジ・ミュージックの第一人者(今年、悲しいことに”故”を付けて語らねばならなくなってしまったけど)であるアインデ・バリスターの、まだ聴いたことのなかった70年代録音盤が手に入った。今後もこのような奇蹟の入荷を神に祈りたい。
 77年盤だということだけど、自身のレーベル、シキル・オルヨレを立ち上げる寸前、といった時期なのかな?いずれにせよ、黄金の80年代、全盛期に突入しようとしている、まだ若く脂の乗り切ったバリスターの姿に接する事が出来るわけで、こいつはもう、いつものあのきったねえナイジェリア盤を手にしただけで血が騒ごうと言うものである。

 音を出してみると、むしろ抑制の効いたサウンド、という感じだ。冒頭の”ご詠歌大発声”みたいなユニゾン・コーラスに血が騒ぐが、その後はほとんどがバリスターのイスラミックなコブシのかかったボーカル一人旅であり、その後の録音盤に聴かれる、バックのコーラスとくんずほぐれつのやり取りはほとんど聴かれない。
 またバッキングも、かなり音数の抑制されたもので、各パーカッション間の丁々発止のリズムの絡み合いの場面もあまり見られず。
 わざとやっているのか予算等の関係でそうなってしまったのかもとより知らぬが、なにやら隙間の多い音であり、とはいえ興隆期のバリスターの録音、つまらないなんてことはまったくなし。十分に興奮させられる、地を這うリズムと重いコブシ回しだ。

 そしてむしろ、”語り物としてのフジ・ミュージック”の側面がクローズアップされる感じで、聴いている間、何度も河内音頭に連想が行ったものだった。
 さらに。ソロで延々、コブシコロコロと口説を続けるバリスターを聴いていると、なんだか追分とかそんなものを歌っているみたいにも。そこまで来ると私の悪乗りの暴走は、短歌や俳句のタグイをひねりながらお遍路するバリスター、なんてものまで脳裏に浮べてしまって。うん、いいんじゃないか、爽やかバリスター(???)

 さすがにこの盤のサンプルはYou-tubeにはない。まあ、ほぼその時期の、そこそこ似ているバリスターの音を貼るんで、特にフジとはどんなものかご存じない人、じっくりお聴きになってください。



北風を越え、海峡を越えて

2011-06-19 03:45:18 | アジア

 ”ヒット全曲集”by 朴仁姫

 パク・インヒという韓国の歌手のCDを持っている。毎度申し訳ないが、この人の資料的なもの、人となりなど、何も分かっていない。何も資料が見つからないんだもの。もう過去の人なんだろうか。それとも韓国語が分かれば、そうでもなかったんだろうか。
 何でそんな人の盤を手に入れたかといえば、某所で偶然聴いたこの人のヒット曲、”放浪者”が、なんか気になって仕方がなくなってしまったから。曲として好きになった、というんでもない。むしろ、その歌の放つ孤独、貧しさ、そんなものの気配が心に残って仕方がなくなってしまったからだ。
 その貧しさ寂しさは私などの記憶の片隅に生きている、”戦後”の瓦礫の中からようやく抜け出した頃の我が日本の姿を想起させずにはいないものだったのだ。

 ジャケの写真を見ると、なんか寒々しい風景の中を今どきあんまり見ないファッションでギターケースを提げたパク嬢がうつむきがちにこちらに歩いてくる。全体に垢抜けない様子で、やはり一時代も二時代も前の歌手なのかと思わされるのだが。
 それは彼女の歌にしても同じで、なにやらうら寂しい、まだ韓国が貧しかった時代を思わせたりする。といっても歌っているのは演歌とかではない。昔の音楽のジャンル分けで”ホームソング”ってのがあったが、そんな感じ。韓国において終戦後に”うたごえ喫茶”の流行などあったか知らない、あったとすればその場で愛唱されたのではないか。

 伝統的な歌謡曲の尻尾をぶら下げつつも来るべき新しい時代の歌たらんとする、そんな意思のうかがえる歌を、彼女は歌っているのだ。彼女の歌うメロディは”北上夜曲”なんて歌に似ていたり、かってのトリロー工房が作りそうな曲だったりする。どれも、はじめて聴くのに不思議に懐かしい。
 パク嬢、ひとつ前の時代、日本で言えばマイク真木とか森山良子なんかがナウかった時代の、彼女は韓国における”フォーク歌手”だったのではないか。実際、パク嬢の歌を聴いていると、本田留津子なんて、60年代末・日本のフォーク歌手など思い出させる持ち味が漂ったりするのである。
 まあ、韓国と日本の歩いた年代のあちこちにズレは、それはいくつも出て来もするだろう。たとえば、私はパク嬢に60年代的な空気を感じているが、実際には彼女は70年代の人だろう。

 パク嬢の写真を見ると、その多くがギターケースを抱えて、何となく”旅”の風情を漂わせてポーズをとっているものが多い。そりゃ青春だもの。旅とかしますわ。と言う感じだね。「自分探し」なんてセリフは、まだ韓国でも日本でもまだ見つかっていなかったけどね。
 このアルバムを買った時の自分の「韓国のアナクロな歌を聴いて笑ってやろう」なんて期待が、ちょっと恥かしくなってきた。遠くない昔、苦悩の中から立ち上がり、おぼつかない足取りで歩き始めた姿は、日本も韓国も相似形だったろう。我々は似たような様子で石ころだらけの道を辿り、今日まで歩いて来たのだ。パク嬢のヒット曲、”放浪者”が身に染みるのも、何の不思議はないのだった。
 などと思っていると、CDからは”スカボロー・フェア”が聴こえて来て驚かされたりする。韓国語のこの曲を聴く日が来るとは思わなかった。

 いや、パク嬢の歌詞を訳したものをいくつかネット上に見つけたのだけれど、海辺の貧しい漁村で育った子供時代の思い出を歌った作品に強い共感を得たり、それから砂浜の焚き火を見つめながら歌う、”人生は煙と一緒に去って行く。灰だけを残して”なんて曲はサンディ・デニーの”時の流れを誰が知る”など想起させたりするのだった。というと言い過ぎだが。






バナナの見る夢は

2011-06-18 02:53:54 | エレクトロニカ、テクノなど


 ”When a Banana Was Just a Banana”by Josh Wink

 相変らず、何がなにやら分からぬままに、気が向くとつまみ食い的に聴いているエレクトリック音楽関係でありますが。これはもう、ネットでジャケを見て、「これは馬鹿な事をやっていそうな物件だな」と面白半分買ってみた一枚であります。演奏者のキャリアどころか人種国籍に至るまで、何の予備知識もなし。
 どこかに”アシッドハウスの傑作”なんて書き込みがありましたが、その種のジャンル訳の台詞はファンの仲間内の符丁みたいなものと考えてるんで、私はまるで気にしません。まあ、打ち込みのリズムが突き進む電子音楽ですよ、ようするに。

 まずリズムの提示がある。打ち込みの音がコンガっぽいせいもあり、どこか南の香りを感じてしまうのは、ジャケやタイトルのバナナからの連想でしょうか。そのうち、他のサウンドエフェクトが入り込み、メインのリズムに絡み始める。裏に廻り、はぐらかし、リズムのじゃれあいは進行する。短く無機的なメロディがミニマルに繰り返され、リズムの渦を幻惑で彩ります。

 このような無機的な電子音の連続を”音楽”として普通に楽しむようになったのはやはり、テクノという概念がセットされてからなんだろうか?
 このような音楽を希求してしまう自分の心を顧みると。むしろ、さまざまな文化のシガラミを離れて鉛菅とか叩く音に血が騒いでいる自分が痛快に思えていたりするわけですよね。
 なんかどっかで我慢ならなくなっている部分もあるかもしれないですね。文化の連鎖の内で生きていることが。で、すべてのシガラミを断ち切って一個のネジかなんかになって、ステンレスの夢の中に言ってしまいたくなる。

 そういえば、石は傷つかない、岩は決して泣き叫ぶことはない」って、サイモンとガーファンクルの歌もありましたねえ。