ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

赤道直下のターンターンターン

2010-02-28 00:17:02 | アフリカ

 ”BEND SKIN BEATS”by Tala Andre Marie

 タラ・アンドレ・マリー。アフリカは赤道直下、我が国とは主にサッカー関係で時々変な縁が出来てしまう国、カメルーンのトップ・ミュージシャンである。盲目であるため、時に”カメルーンのスティービー・ワンダー”なる呼び方もされるようだが、アフリカには各国にそうあだ名される人がいるみたいなので、これはあんまり重要な情報ではないのかも知れない。
 彼はともかく、あのジェイムス・ブラウンにデビューアルバムの中の曲をカバーされるという栄光の記録があり、でもなんかそればかり称揚されるとちょっと鼻白む気分もありで、かってLP時代にタラ・アンドレ・マリーの日本盤が出たにもかかわらず私は買っていなくて、その辺、何となくへそを曲げた結果かも知れない。

 そんな次第で、このカメルーンの大スターの音楽を聴くのはこれがはじめてなのだが、確かにこれはいけてる人と言っていいのではないか。あのファンクの帝王JBがカバーしたというから、熱っぽいファンク・サウンドが炸裂しまくるのかと思いきや、むしろかなりクールな響きのある洗練されたファンク・ナンバーが整然と展開されたのである。
 ボーカルもクールというより知的という表現を使いたい落ち着きようであるし、唄、作曲と共に”売り”であるらしいギターのプレイも、渋めのファンキーな展開を示し、これも捨てがたい魅力あり、である。

 この、音の細部までに神経が行き届いた繊細さというのは、アンドレ・マリーの個性なのか、それともカメルーンという国の持ち味なのか、などとぼんやり考えつつ聴いていたのだが、驚きはまだその先に待っていたのだった。

 このアルバムはアンドレ・マリーの初期総集編とも言うべきもので、70年代のデビュー当時のレコーディングから1998年の曲まで、20年以上にわたる彼の活動の軌跡が収められている。その中でも最初期に属する作品が面白いのだ。
 なにしろフォークロック調なのであり、しかもその内にしっかりとアフリカらしさも滲み込ませている。この、赤道直下のクソ暑い国のポップスとも思えない爽やかさには、ちょっと魅せられてしまったのだ。キャリアの始めの頃は彼、こんなフォーク調の曲が好きだったんだなあ。

 そういえば、この記事に添付しようとYou-tubeを漁っていたら、彼がエレキギター一本抱えてミニライブをやっている映像がいくつかあり、そこでの彼はバーズのジム・マッギンも相好を崩すであろう実にジングル・ジャングルなギター(分る人にしか分からない表現だが、すみません、先を急ぎます)をかき鳴らしてもいるのだ。
 ギター・プレイをさらに観察してみると、アフリカン・ポップスを語る際に必ず出てくる”アフロ=キューバン調”ではなく、むしろロックギターがルーツにあるとあからさまに伝わるものがあり、何だかこのカメルーン男にますます親近感を抱いてしまったのだった。

 もう彼はアフリカ調フォークロックはやらないのかなあ?やればいいのになあ。初出時はカメルーンの人々はどんな顔してこのサウンドを受け止めたのか、などと空想は広がる。いやいやまだまだ面白い音楽はあります。




童神?それは違うだろ

2010-02-27 05:19:35 | 奄美の音楽

 奄美の城南海ちゃんの次の新曲が、古謝美佐子が歌っていた”童神”となる事を知った。。なにそれ?今、かなり面白くない気分の私であります。
 なんかドラマの主題歌に使われるらしいが、そんな”沖縄の威を借る奄美”みたいな扱いで南海ちゃんが売れても何も面白くないよ。奄美と沖縄の区別が付かない人も普通にいるからね。

 ”童神”は古謝女史が書いた歌詞にヤマトンチュの作曲家がメロディをつけた、”一見沖縄風ニューミュージック”でしょう?その予定調和的”きれいなメロディ”のうちには出来合いの南国イメージで飼い馴らされたきれい事の沖縄があり、そいつを奄美の南海ちゃんが指でなぞらされるって訳だ。
 そもそも、これまで南島出身の先輩たちがやって来た手垢が付いたような企画の繰り返しを、なんで南海ちゃんがいまさらやらなけりゃならないのだろう?

 めちゃくちゃ白けてます。

 いや、沖縄の唄を取り上げるのはすべて反対とか、そんな事を言うつもりはない。”スローラジオ”なんかで南海ちゃんが三線片手に沖縄の唄をひらりと取り上げ歌ってみせる、あの感じは大好きなんだけどね。奄美~沖縄間をユラユラ浮遊するうちに、ちょっぴり型崩れがし、奄美風にクセの付いた沖縄のメロディは、不思議に聴く者の血を騒がせるものがある。あいつはむしろファンだ、私は。

 ”童神”を歌うってのはそれとは違う。南海ちゃんを出来合いの(しかも沖縄の)観光パンフレットの中に封じ込めることだ。彼女がこれまでやって来た、そして我々が応援して来たそのこととはまるで逆行してみせる事なんだ。
 つまらない、と思う。売れませんように、とファン生命をかけて願っている。

マイペンライ月夜唄

2010-02-26 03:41:34 | アジア

 ”Buppah Saichol ”

 さっきゴミ出しに行ってきたらさあ。あ、ウチの方はいつ出してもいいの。ゴミステーションっていう建物の中へゴミ袋を置くんでね。まあ、それはそれとして。
 その時、軽く雨が降っていて風も吹いていたんだけれど、もう真冬の寒さじゃなくてね。なんだか吹き付ける雨が、夜中にパソコンに向って煮詰まっていた頭を洗い流してすっきり心地良くしてくれるみたいな感触があり、うわあ、一気に春がやって来ているんだなあとビックリした次第。

 そんな春の気配だけでも妙に心が騒ぐのは、春風の運んでくる南の気配のせいだろうなあとか思いつつ、このアルバムを取り出してしまったのだった。70年代タイの名女性歌手、プッパー・サーイチョンの復刻シリーズの第1集で、タイ音楽ファンの間では、とうに話題になっていた物件であります。

 ともかく彼女がヒット曲を連発していた70年代のタイは、上に書いたような心ときめく南のエキスの香りに満たされ、風物のなにもかにもがまるでアニメで描かれた楽園の姿をしていたに違いない。その頃のタイと日本とは河一本を隔てただけの距離しか離れていず、その気になれば泳いで渡ることが出来た。その頃のタイには、諸外国からの珍奇な物品が港に山をなし、人々はそれらが与えてくれる楽しみを享受する、愉悦だけに満ちた日々を送っていた。
 そして、そんな風景を中天から見下ろして、月は夜毎、眩しい明かりを放って楽園タイのすべてを明るく照らし出していた。

 いや、現実がどうであれ、このアルバムから聴こえてくるタイは、そんな姿をしているのだから仕方がない。
 冒頭、ジャジィな、ちょっと調子っぱずれでもあるホーンズに囃し立てられつつ始まるのどかなタイ風ロッカ・バラード一発で、もうやられてしまう。サーイチョンののどかで、でも艶やかでパワフルな、なんて言い方では何がなんだか分らないかも知れないが、いや実際、そんな具合なんだから。

 タイの田園調あり、60年代風エレキでゴーゴーあり。ともかく彼女はグングンと歌い進んでしまう。まだまだのんびりとした時間を生きていた当時のタイ情緒を伝えるポップスは、どこかに昭和30年代の日本を満たしていたものとよく似た空気を孕んでいる。
 なんか懐かしい気分にさせるな、この曲は?と思いつつ聴くうち、それがよく知っているあの曲の、タイ風に変質した姿だったことに気が付き、うわあ、これはやられたなと兜を脱ぎたくなるカバー曲との遭遇の楽しさ。まあ、彼女の歌う”ソーラン節”でも聞いて御覧なさいって。

 私の部屋の窓に時々南国の月の光が差すのは、実はそんな理由があるのです。

 (下にYou-tubeの画像を貼ったけれど、上手く再生されないなあ。でも、あなたの機材なら大丈夫かもしれないんで、このままにしておきます。まあ、他の画像を貼ろうにも、何も見つからないしね)




メダル裏街道を行く

2010-02-24 21:41:37 | 時事
 ベタで恐縮ですが、オリンピックのお話でご機嫌をうかがいます。

 フィギュア女子のメダルレースの鍵は、やはり大会が始まってから母親の急逝という不幸に見舞われたカナダの選手が握っているでしょう。どこの世界でも民衆はベタなお涙頂戴の物語を好むものですし、この選手のケースは、まさにお誂え向きといえるものだからです。
 大会寸前まで彼女を励ましてくれた母の墓前に捧げる涙のメダル。まさにバカでも分るメロドラマでありまして、盛り上がるでしょうな、皆、彼女がメダルを獲ったら。
 とはいえ、金メダルまでやっては話があからさまになりすぎる。ゆえに銀メダルをカナダの、このロシェット選手にということになりましょう。

 ここにはもちろん、「俺ら白人主体の国カナダが主催するオリンピックで、貴様ら有色人種に金銀銅と3個もメダルをやる道理は、なーんにもありゃしないからよ」というカナダ政府、およびカナダ国民の意向が反映されております。日韓の選手がどんなに接戦を繰り広げようと、日本と韓国で全メダルを分け合う、なんてシーンが見られることはありえません。
 同じような意味合いを持ちまして、現在、カナダを舞台にスケート選手活動を行なっているキムヨナ選手が”白人代理”の資格をもちまして金メダルを獲るのは、これもオリンピック本選が始まる前から決定事項ですね。

 さ、これでもう浅田真央ちゃんに残されているのは銅メダル一個ということになってしまいます。いやもうこれ、決まっていることですから。いまさら誰がどう頑張っても、結果は同じです。
 いやですねえ、こんな世界。うんざりしますねえ。でも、裏で偉い人たちがもう決めちゃったんですから、しょうがないんです。

さあ、バリスターの新譜だ

2010-02-23 03:02:16 | アフリカ

 ”Image & Gratitude”by Sikiru Ayinde Barrister

 ナイジェリアのフジ・ミュージックといえば、ワールドミュージック・ファンとしての私なりのランク付けで言えば特Aクラス。ともかくナイジェリアのイスラム系ダンス・ミュージックと聞けば無条件で飛びつくことにしている。いくつものパーカッション群が生み出すうねるリズムの迫力、そいつに乗ってイスラミックなコブシ全開で展開される黒光りしたボーカルと、これはもうたまらんものがあります、何も言うな、何も言うな。

 しかしナイジェリア盤の入手が非常に困難な状況はずっと続いていて(理由?そんなの知らん。教えて欲しいのはこっちのほうだ)なかなかに狂おしい歳月を送って来たのだった。
 そんな状況下で手に入ったこのアルバム、フジ・ミュージックの創始者であり、いまだ現役の人気歌手であるアインデ・バリスターの新譜であるそうな。血が騒がずにはおれぬというものである。
 もっとも、このようにして時たま間歇的に(?)手に入る新譜を聞く限りでは、我が最愛のフジ・ミュージック、あまり良好な状況にあるともいえないようで、なんかどこか納得できない仕上がりのものに出会ってしまうことも多いのだ。

 たとえば、これは今日のフジ・ミュージックでは平均的な相場のようなのだが、異常に高速化されたリズム。それは速さを獲得した代わりに重さの喪失という現象を起こしている。かって、フジ・ミュージックの黒く地にへばりつくような重いビートに魅された者には、それはどうしても物足りなく感じられるものである。
 また、これも流行のようだがギター、シンセ等の楽器の導入。パーカッションのみ、というストイックな楽器編成が生み出す硬派なアフリカ的洗練の世界を、なぜ彼らは手放してしまうのか。などなど。
 そんな次第で、期待よりも実はそれを上回る不安が勝っているのも事実なのであった。
 という状態で聴いてみたバリスターの新譜である。

 まずはボーカルのみのイスラミックな詠唱が聴かれ、そこにストトンとリズム・イン、聴き慣れたバリスターの音楽世界が提示される。「結構良いじゃないか」というのがとりあえずの感想。余計な楽器も登用されず、ストイックなイスラム=アフリカンの美学は貫かれている。
 が、やはりリズムの異様な高速化はバリスターといえども無縁ではおれないことだったようだ。せっかくバリスターがディープなコブシ回しで迫っても、この気ぜわしいリズムが駆け回る中では、今ひとつ魅力を発揮しそこなっていると言わざるを得ない。
 まあ、ナイジェリアの人々がこのようなリズムを好んでいる、必要としているというのなら、こちらが文句を言うのは余計なお世話、あれこれ言う筋合いではないのだが。

 で、その高速ビートの中のバリスターのボーカル、ことにバックコーラスとのやり取りなど聴いていると、あのアパラの英雄、故・アインラ・オモウラなどを彷彿とさせる部分もないではないのだ、意外にも。
 もともとは素朴なイスラム系ダンス音楽アパラより出でて、より複雑な音楽構成を獲得して独自性を発揮して行ったフジ・ミュージックである。
 が、この盤におけるバリスターからは、そんなアパラへの回帰の姿勢とも考えうる姿勢がうかがわれるのだ。全体のサウンド構成を見ても、かっての急激なリズム・チェンジなどは聴かれず、よりナチュラルに音楽は流れて行く。とうにベテランと呼ばれる年齢であるバリスターであるのだが、壮年に至り、音楽上の故郷が懐かしくなってきているのではないか、そんな気がした。

 以上、めでたさほどほどというのか、やや複雑な気分で聴き終えたバリスターの新譜である。いや、出来にそれほどの不満があるわけではない。バリスターの歌声は相変らずの迫力であり、文句はない。要はリズムだ。あの気忙しいリズムは、なんとかならんのか?ナイジェリアの音楽ファン、あなたがたのリズム感って、どうしちゃったのだろう?
 という訳で。バリスターの次作も、彼のライバルたちの盤も、どうか今後も上手いこと入手が叶いますようにと祈りつつ、無駄話を終わる。

 このアルバムの音、さすがにYou-tubeには挙がっていなかった。が、何もつけないのは淋しいので、バリスターの画像を適当に見繕って貼っておこう。




春のハートビート

2010-02-22 03:28:57 | ヨーロッパ
 ”Celtic Woman (Compilation)”

 まずは、例の桜の群生がやっと開花してやれやれめでたしと言ったところだ。
 私の街の裏山には早咲きの桜の群生があり、いつもなら1月の終わりには満開となっているはずのそれが今年はなぜかいまだにつぼみのままで、これはどうしたのかと気になっていた、とはいつぞやこの場に書いた。その桜が今日、車を転がして覗きに行ったらきれいに花開いて例年通りの桜のトンネルを作っていたのだった。

 やはりこの冬の気候がおかしかったのが原因だったのだろう。桜が冬の寒さに痛めつけられた後、不意に訪れた春の気配を感じ取って一斉に花開く、という習性があると聞いてはいた。暖かくなるだけではダメなのだ。その前に寒さの刺激がなければならない。で、そういえばこの冬は、裏山にほとんど雪を見ていないのだ。
 それがどうやら2月に入ってから気温の低い日があったことと、昨日あたりから気候が暖かくなり始めた事で条件がドサクサながらも整ったのではないか。裏山の別荘地を覆って桜は、遅ればせながら(とはいえこれでも全国平均よりはよほど早く)花開いた。

 人気のない別荘地を思い切りゆっくり車を転がし、桜色の饗宴を楽しみながら、カーステレオで聴いていたのがこのアルバムだった。アイルランドの女性コーラスグループ、”ケルティック・ウーマン”のベストアルバム。マニアの人には「何をベタな」と鼻で笑われてしまうかも知れないが。
 ”ケルティック・ウーマン”とは、例の”リバーダンス”のプロデュースを行なった人物が才能を認めたトラッド系女性ミュージシャンを集めて作り上げた、かなりショーアップされたトラッド・グループだ。私も、ショービジネス的にキレイに演出され過ぎの感があり、やや興味から外れるかなとは思ったものの、車の運転のGMにはこのくらいがちょうど良いのではと持ってきたのだが、これが結構な”当たり”だったのだった。

 道の両側から枝を伸ばした桜が花びらのトンネルを作り、その下にはすでに散り落ちてしまった桜の花がピンク色に染めた道路が続いている。こうして出来上がった桜色のパイプラインを走り抜ける。季節を越え、生まれ変わり死に変わりし連綿として流れて行く生命の息ずきと、アイルランドの女性たちの見事にコントロールされた歌声による伝承歌がきれいに響き合った、と感じられた。
 どちらかといえば秋や冬のイメージであるトラッドだけれど、こんな具合に噴出したばかりの春の命の気配が空気の中に満ちて行く、そんな中で聴くのもまた、相当に心騒ぐ体験と言えよう。

 それにしても気になるのは、私の町内に立っている、私が勝手に”長老”と名付けている桜の巨木である。こいつは街の早咲きの桜の中では一番日当たりが良いくらいの場所に立ち、いつも冬の真っ盛りに先頭切って満開状態となっているのだが、今年はまだ咲く気配を見せない。やっぱり異常な冬なんだろうな。大丈夫か、しかし。”長老”がこんなことになるのは、見た事がないんだが。



地球の思い出

2010-02-21 04:20:41 | ヨーロッパ

 ”The Talisman”by Max Corbacho

 シンセサイザー音楽というのは結構好きで、たまに盤を取り出しては、シュィ~ン、ヒュォ~ン、とかいう響きに一人聞き入っていたりする。それは人間社会のややこしい感情の渦に辟易し、忘れてしまいたいいろんなことが身に染み付いてきた時だったりする。
 変にポップだったりリズムがしっかりしていてダンス音楽として使用に耐えるとか、そのような”邪念”の感じられないものが良い。ただもう無愛想で無機的な電子音が淡々と響くだけ、そんな”電子音楽”の姿勢に徹したものほど好ましい。

 たとえば深々と寒気が押し寄せる冬の夜に、温かみのまったく感じられないシンセ音の泉に触れる快感というのは、キンと冷えた銘酒による雪見酒の快楽に相当する。
 あるいは、夜空の真ん中で瞬きもせずに凍り付いている遥か遠くの星々の狭間に彷徨う絶対的な冷気と孤独を手繰り寄せ、自らの魂のすぐそばに置く、その愉悦である。

 このアルバムはアルゼンチン出身、スペイン在住の電子音楽のプレイヤーによるもので、ジャケの星空、と言うより宇宙空間の映像に反応して入手したのだが、期待を裏切らぬ無機世界で、気に入っているのだった。
 ここには覚えられるようなメロディも、刻まれるリズムもない。ただ空間に気まぐれに漂い出てゆらめき、たゆたい、やがて消えて行く電子音の音塊があるだけである。

 この種の電子音は、たとえば三味線のようには、たとえばバイオリンのようには、ともかく人類の歴史において何も背負っていないのであって、だから我々はそこに生きるうえでのシガラミも何もひとまず置き、重力からも自由になって、異空間に身を置く慰安を得ることが可能なのだろう。

 もっとも、何もなかった空間にひたすら音の曼荼羅を描き続ける Max Corbachoなるミュージシャンがここにいて、そこに塗り込められたのはやっぱり彼の想念であり、我々の妄想はそんな受け皿に向って照射されているのであって、実はこいつも普通に人間的行為である、なんて構造にはなっているんだろうけど。




60'ワルシャワをロックした女

2010-02-19 03:03:52 | ヨーロッパ

 ”Nejwiększe Przeboje”by Ada Rusowicz

 生まれたばかりのポーランド・ロック界をリードした女性歌手、アダ・ルソヴィッツの足跡を辿るアルバム。1960年代半ばから1970年代半ばに至る彼女のヒット曲集となっており、最後にポンと飛んで80年代の半ばに吹き込まれた”レット・イット・ビー”で終わる。
 全体にやはりヨーロッパのロック、というか”若干野暮ったいフレンチ・ポップス”みたいな感触がある。すなわち、”黒っぽさ”であるとかルーツっぽさの探求とかへの志向はない。あくまでもお洒落な”新風俗としてのロック像”への憧れが一貫して流れ続ける。そいつはテレビ番組、”ザ・ヒットパレード”などで日本の歌手によるカバー曲経由でロックに馴染んでいた世代としては、むしろ親しい感覚ではあるのだが。

 60年代はともかく”エレキでゴーゴー!”なお調子者のロックバンドをバックにアルト気味の強気な歌声が突っ張りまくり、この時代のロック姉ちゃんのノリはこれだよなあ、万国共通、などと変なところでニヤニヤさせられる。

 ”エレキでゴーゴー!”なバンド演奏に加わったファンキーなハモンドオルガンの響きに、どこかで聴いたような懐かしさを覚えて曲のクレジットを検めれば、この場ですでに2度ほど取り上げているポーランド・ロック界の大物、チェスワフ・ニーメンの作曲だったりする。(ちなみに、たいした曲ではない)
 おそらくハモンドの演奏もニーメンなのだろう。重厚な作風で知られるニーメンの若き日、グループサウンズ時代(?)のやや軽薄なロック野郎だった姿が窺え、これも楽しい。

 そんなアダも70年代にいたり、”ロック革命”の波をかぶる事となる。フリーキーなサックスの響きが印象的な前衛的な作品を吹き込んだりしているが、効果としてはますますユーロ・ポッップス色というかシャンソン色を増す方向に作用してしまっている。これの行く先はロックではなくユーロヴィジョン・ソングコンテストでしかない。
 いずれにせよこの辺はきつい感じで、その中にポンと置かれた西欧ポップスのオールディズっぽいカバー曲が一番生き生きと感じられたりする。やはり彼女は60年代の人なのかも知れない。

 そして最終曲。男性歌手とのデュエットでポーランド語のレット・イット・ビーを貫禄で歌うアダ・ルソヴィッツを聴いていると、ポーランド・ロック界の刻んできた歴史など遥かに想われたりするのだが。いやもちろん、垣根のずっと向こうに見える景色でしかないんだけど。同じ時代を生きてきたんだなあなんて、それなりの感慨。




あの頃、ブカレストで

2010-02-17 02:09:18 | ヨーロッパ


 ”MAGIC BIRD - THE EARLY YEARS”by Maria Tanase

 1930年代。東のパリと呼ばれた美しい都市ルーマニアの首都ブカレストで”ルーマニアのエディット・ピアフとの異名を取る名歌手として鳴らした”マリア・タナセ”の奇蹟の初期録音集である。

 とか分かったような事を言っているがもちろん、マリア・タナセに付いて詳しく知っていたわけではない。それどころか、このアルバムの発売予告を読むまで、そのような歌手が存在した自体、知らずにいた。
 それでも、一時は世界の裏庭みたいな扱いを受けていた”東欧”あたりがかって”中欧”と認識され、世界をリードする文化を誇っていた時期の大衆音楽のナマな姿に触れられるとはと胸ときめく思いで手に取ったのだった。

 ”ルーマニアのピアフ”と聴いたので、これは先日、この場に書いた同じルーマニアの第2次大戦後、あのチャウセスク治下のルーマニアの国民歌手、マルガレータ・パスラルのように汎ヨーロッパ的なポップスをルーマニア語で歌っているのかなと予想したのだが、これは逆だった。
 そのような意匠で編集された盤だから、という事情があるのかもしれないが、収められている曲はすべて、ルーマニア、あるいはバルカンの土に根ざす伝承音楽、まさにディープ・ルーツ・ミュージックばかり。古来より伝わる舞曲やジプシーの恋歌、などなど。そしてほのかに漂う東方の芳香。
 東欧のトラッドをそれなりに、ではあるが聴いて来た身としては、意外なところで聴き馴染んだ音楽に出会ってしまったというところで、何だかむず痒い気分にもなってくる。

 歌のスタイルは、この時代の大衆歌手によくあるようなクラシック風にコロコロと声を宙に転がすタイプのものだが、タナセの声域がやや低いせいか、あまり古い音楽を聴いているという感じはしない。彼女の歌い方が基本的にクールであるせいもあるかも知れない。そしてかもし出される気品や神秘な奥行き。
 バックを務めるピアノやバイオリン、アコーディオンといった楽器に、バルカンの民族楽器によるアンサンブルのコンパクトにまとまった響きと相まって、なにやら不思議に今日的も感じられる音楽が、そこには出来上がっている。

 この音楽、ルーマニアから遠くはなれた西ヨーロッパの人々の耳にはどう聴こえていたのだろう?ヨーロッパがその懐に抱え込んだ、奇妙な迷宮の響き。幼い日、暖炉の前で聞いた昔話。寝汗と共に見た甘美な悪夢のふるさと・・・遠く聞こえる汽笛が運ぶ夜汽車の幻想が行き着くところ。
 いや、タナセの音楽の孕む硬質な幻想味は、リアルタイムで聴いていたルーマニアの人々にもある種のファンタジーを運んでいたのではないかとも思えてくるのだ。


テロ駆け抜けて

2010-02-16 04:16:47 | 時事

 ★ Microsoft、『Windows XP』に障害発生でパッチを配信停止(japan.internet.com)

 「いつまでもXPを使っていないで早く買い換えろ」という、Microsoftからの脅しとしか思えませんね。
 むしろ、Microsoftからユーザーを標的にした同時多発テロというべきかも知れない。
 そして、こんな目にあわされても怒りの声一つ挙げない、見事に飼い馴らされたパソコン利用者の、草食系の情けなさ。
 トヨタの車はアメリカでリコールの嵐じゃないのか?MSは、これから被害を受ける可能性のある人々に対して何の警報も鳴らすでなし、すでに被害を受けた人々への補償はな~んにもする気はないようだ。
 不思議でならないんだよ、怒りの声が沸きあがらない事が、さ。

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 (japan.internet.com - 02月13日 12:14)

 Microsoft は、先ごろ公開したセキュリティパッチの自動配信を一時停止した。同社によると、このパッチを適用した『Windows XP』の一部で、クラッシュが多発している模様だという。
 問題のセキュリティパッチは『MS10-015』で、Microsoft が2月の月例更新の一部として9日に公開したものだ。
 公開後、すぐさま XP ユーザーの間で問題が発生し始めた。システムが際限なく再起動を繰り返し、いわゆる「死のブルースクリーン」(BSoD) 障害が発生するという深刻な問題だ。
 Microsoft は11日午後までに、問題を引き起こしていると見られるパッチの配信を中止したが、多くのユーザーにはもはや手遅れだった。

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