ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

トロット街道、氷結

2009-03-31 03:52:18 | アジア


 ”第1集”by Jio

 ああっ恥ずかしいっ。こんな音楽を聴いているところを誰かに見られたらどうしようっ!・・・と身悶えしつつ、でも聞く事をやめられない。大衆音楽ファンのこれは因果な醍醐味でしょうなあっ。
 などと深夜一人、CD廻しながらわけの分からないボヤキを呟いてみる。いやなに、今、手に入れたばかりの韓国のトロット演歌の新譜を聴いていたんでね、多少の妄言はお許し願いたい。

 ”Jio”なる若い女性歌手の、おそらくデビュー盤。まあ大きなくくりの中では美人なんだろうが、妙に逞しいものを感じさせる女で、”女子プロレス”なんて言葉も頭を過ぎる。そんな外見にふさわしく相当にタフな喉の持ち主で、新人らしからぬパワフルな歌唱力を真正面に押し出し、ふてぶてしいとさえ言える歌を聞かせる。トロット演歌の歌い手なんてものは、このくらい強面でなけりゃやっていけないのかもなあ、などと勝手に納得するしかない。

 アタマに収められているのが・・・昔、いましたね”わらべ”とかいう欽ちゃん番組に出ていた女の子3人組が。彼女らの”もしも明日が”なんてヒット曲を思い出させる”嬉し恥ずかし昔のド歌謡曲”的曲調の一発で、もうアタマからこれだもんなあ。妙な上昇志向などかけらも見られない、臆面もない歌謡曲ぶりがいっそ爽やかともいえよう。

 その後も、ほんとにこんな曲を聴いているところを誰にも見られたくないなあと首をすくめるような、感傷垂れ流し古臭い歌謡曲感覚丸出しのド演歌が次々に繰り出される。
 アルバムの主人公であるJioの歌声は時に「インネンつけてるんか?」と尋ねたくなるようなドスの効かせっぷりで響き渡り、バッキングも、「裏町酒場の酔いどれの感傷に時代の流れなど関係はない」と言わんばかりの時代錯誤ぶりを誇りつつ、揺るぎのないブンチャカブンチャカ道を全うするのである。

 聴いていると、夜闇の高速道路を夜っぴて飛ばす長距離トラック運転手や、ソウル発最終列車に凍えた体を押し込み家路を辿る生酔いのサラリーマンたちの孤独や怒りなどが、安酒場において供されたイカ焼きの臭いとマッカリ焼酎の酔い込みでこちらの体にまで染み付いてくるような、ディープなディープな韓国風うらぶれフィーリングが溢れ出て、死ぬほどやりきれない思いに身を焼く羽目となるのである。

 ・・・と、ケチばかりつけているように聞こえるかもしれないが、これでも文意としては大衆音楽トロットの新人デビュー・アルバムの出来上がりを褒めているのであって、その辺を行間から読み取っていただけると幸いである。

ウクライナの秘祭

2009-03-29 03:42:06 | ヨーロッパ


 ”Wild Dances” by Ruslana

 ウクライナの人気女性ポップス歌手のルスラナのことなど。

 以前、彼女の”ブレイク前”のアルバムをここで話題にした事があったけど、今回はまさに彼女の出世作を取り上げる。2004年、ここに収めれられている”ワイルドダンス”という曲で彼女は、もしかしたら”東欧圏初”であるのかも知れない”ユーロヴィジョン・ソングコンテスト”における優勝を勝ち取ったのである。
 このアルバムはその快挙を受けて、前年に出されていたアルバム”ワイルドダンス”を、ボーナストラックを加えて再リリースしたものだ。

 彼女の音楽は”ウクライナの古い山岳民族の音楽をエレクトリック・ダンスミュージック化したもの”と言われているようだが、その”民俗性”がどの程度リアルなものなのかは浅学にして分からない。
 ともかく彼女のプロモーション・ビデオなどを見る限り、その”野生のエネルギーを秘めた辺境の異民族”っぽい演出はファンタジー映画を見る如くであり、このあたりのエキゾティシズムが彼女の”売り”であるのは容易に想像が出来る。

 このアルバムで聞ける彼女の歌はどれも、ロシア民謡風という言い方が適当なのか分からないが、ほのかにスラブ系の哀愁を漂わせたメロディに、バルカン音楽風、あるいはジプシー音楽あたりを想起させる香気を混入させたような、ややクセのあるメロディであり、アジア人である我々には妙に親和感を覚えさせるものである。
 ともかくどれも初めて聴くメロディであるはずなのに、初聴きで馴染んでしまい、爪先でリズムを取り、歌声を追ってハミングを始めている私がいる。

 ホーンセクションがバルカン半島を連想させるイスラムっぽいフレーズを高らかに吹き鳴らして暴れまくり、ルスラナがコーラス隊を従えて「ヘイ!ヘイ!」とワイルドなシャウトを繰り返す。あるいは打ち込みのリズム、あるいはハードロックっぽいエレクトリック・ギターのリフ、あるいは渦巻くようなシンセ音の洪水、さらに民俗打楽器の呪術的響きなどが渾然一体となって襲い掛かってくる迫力はなかなかのもの。
 このあたりの土俗性と今日性を激しくバッティングさせた演出には、ワールドミュージック好きとしては手もなくやられて「ルスラナ最高!」と叫ぶしかないのである。

 ルスラナの、こんな異形の音楽世界を目の当たりにすると、ウクライナってヨーロッパ人にとってどんなイメージの土地なのだろうと、あれこれ空想を試みたくなる。そうこうするうち、キャラ設定のためにいつもエグいメイクをしているルスラナって結構いい女なんではないかなどと余計な事にも目が行ってみたりする。

 打ち鳴らされる大太鼓と角笛の響き。裸馬に乗って荒野を駆け抜ける夷たちが遠く呼ばわる声。ウクライナの夜祭りの幻が駆け抜け、”ワイルドダンス”のメロディは耳を去らない。



アルジェリアのロボ声音頭

2009-03-27 04:56:44 | イスラム世界


 ”ROCHDI & GHANIA”

 アルジェリア版のレッガーダか?とも言われる祝祭系ダンス音楽、スタイフィの新作であります。
 なんか常に男女のデュオの形で行なわれるみたいですね、この音楽は。音楽の発祥が相聞歌のようなものだったのだろうか?

 で、今回のコンビの片割れのGhania女史は以前、別のオヤジとコンビを組んでアルバムを出していて、そいつもなかなかの根性もの(?)だったんだけど、こちらもタンゲイすべからざる・・・
 というか、この辺の人たちって出来も不出来もない、フタを開ければ常時、こんな音楽が充血状態で飛び出してくるんじゃないかって気がしないでもない。そんなエネルギーの奔流を感じさせる音楽の響きとなっております。

 確かにこの音楽、レッガーダと共通する要素はいたるところに認められます。
 特徴的な、前につんのめるように性急に打ち鳴らされる気ぜわしいリズム。打ち込みやら民俗打楽器やらあり。そしてこれもお馴染み、イスラミックな旋律を歌い上げる声はボコ-ダーによって変形され、ロボット声化して、電動コブシがコロコロと砂塵の上を舞う。この喧騒感、猥雑なエネルギーと強力な異世界感覚は確かに、モロッコのベルベルの人たちのレッガーダ音楽と良いライバル関係かも知れない。

 レッガーダとの相違点を探してみれば。まずこちらのほうがメロディを歌い上げることが比較的重視されていて、歌謡性が強いような気がします。また、リズムやアレンジのバリエーションもスタイフィのほうが多いように感じられる。
 なんていうと、スタイフィのほうが優れた音楽であるかのように取る人もいるかもしれないけど、なーに、乾燥しきった感性で一本調子を演ずるレッガーダのほうが逆にクールでかっこ良い、とも言えるかと。これが今日の感性。とはいってもいずれ、微細な差なんだけどね。

 そのロボ声なんだけど、大迫力の女性歌手のGhaniaのパワフルな歌声よりも、やや地味目な今回の相方である男性歌手、Rochdiの声のほうに、より有効に作用している。
 これは他の作品においてでも同じなんだけど、女より男のほうが、そして歌唱力があるよりないほうが、より効果的にロボ声を使い切る事が出来るなんて法則は成立しないだろうか?私がこれまで聴いて来たレッガーダ関係を思い起こすと、そう言える様な気がするのだけれど。

 これ、以前、中村とうよう氏が言われた、”少数民族の音楽においては、女性歌手はどんどん雄々しくなり、反対に男性歌手は女々しくなる傾向がある”って説と関係ありそうな気がする。まあ、まだ”気がする”ってだけのレベルなんだけど。これは今後の研究課題。

 このアルバム、収録時間が49分余と表示されたんで「何だよ、収録可能時間一杯音を押し込めばいいじゃないか、ケチしやがって」とか思ったんだけど、聴きはじめると濃厚な音の連続で、後半に至ってはゲップが出る状態。
 そして、使用音階やリズムなど、あと一歩で河内音頭になりそうな雰囲気のある最終曲に到ってはすっかり精神的筋肉痛状態(?)で、やっとのことで聞き終える始末。パワーねえぞ、日本人!いや、私だけか、こんな軟弱者は?

地球の岸辺にて

2009-03-26 04:19:02 | アフリカ

 ”Afai Bawon Ja”by King Sunny Ade

 昔、こういう人がいたんだけれど、もうお忘れでしょう?・・・とか、同好の方々にジョークで呼びかけてみたくなるんですが。まあでもこの言い方は、半分ほんとに皮肉ですからね。だってサニー・アデが今、何をしているか知っている方、おられますか?あれほど大評判を取った人だったのに。私は知りません、自慢じゃないが。
 あのナイジェリアのジュジュ・キングの、これは70年代初頭に行なった演奏の発掘音源のようです。裏ジャケに”1970-75”とあるんで、そのあたりのレコーディングでしょうか?

 まだ、”ワールドミュージック・ブームの大看板”として大舞台に引っ張り出される事になろうなんてご当人もまったく考えていなかったであろう頃のサニー・アデの、のびのびとしたプレイが聴ける。
 ナイジェリアものとしては毎度お馴染みの長尺の演奏で、各楽器とも、心行くまでインプロヴィゼーションを繰り出し、絡み合い、白熱のノリを織り成しています。全体のサウンドは、まだまだ”世界デビュー”以前のゴツゴツとした手触りで、アフリカ・ローカルの鄙びた輝きに満たされている。

 ポコポコと口数多く動き回るベースとか、結構”ニューロック”状態のフレーズもあり、で切り込むギターとか、この辺は初めて聞くパターンなんでなかなか楽しく、また刺激的です。 定番の複数のギターのキビキビとしたフレーズの応報、その狭間を駆け抜けるスチールギターの響き、おなじみトーキング・ドラムを中心とした各種パーカッションの繰り出すリズムも強烈で、ああ良いよね、アフリカ音楽ってと、ごく普通に思えたりします。
 ほんとに生命が沸き立ってくるような演奏で、これはナイジェリア音楽が、いや少なくともアデの音楽が非常に幸福だった時代の記録と言えるんではないでしょうか。

 これがいつの間にか”時代の最前線”に押し出されて「シンクロ~ッ!システムッ!」とかシンセの響きかなんかお供に叫んでみたりで。西欧文明のビジネス・スタイルの中でもみくちゃにされて。いつのまにか”忘れられた人”のポジションに押し込まれちゃったりして。
 ほんとにどうしてるんでしょうね、サニーアデ。明るい太陽に照らされて、どこまでもコロコロと転がって行くようなアデの歌声にひととき包まれつつ、遠いナイジェリアの日々を思う。炎熱のラゴスの街の喧騒を思う。

 時は容赦なく過ぎ行き、ちっぽけな人間の営為など知らぬげに地球は周り続ける。我らはその岸辺でひととき、許されて果てしない幸福の調べを奏でる。
 


可愛い子たちは皆、死んだ

2009-03-25 03:47:07 | アジア

 ”3”by Bubble Sisters

 照明を落し気味にした部屋に置かれたソファがあり、そこに妙齢の美女4人が結構ヤバい衣装を身にまとってしどけなく腰を下ろしている。あるいは横になっている。
 こいつはありがたいや、とそのCDジャケを手に取り、彼女らのお姿に目を近付け、じっくり見てみると・・・アリャリャ?いや、「意外にも、と言うか想像以上ににブサイクだった」とか、そんな話はしてませんよ。してませんてば。それはこれから。
 そういや昔、”太陽とシスコムーン”なんて名前の女性ボーカルグループがいましたっけねえ。仕掛け人の”つんく”が彼女らのコンセプトは何かと尋ねられ、「ブスです」と答えていたのには、「うわあ、こりゃやられた」と頭を抱えたものですが、そうかあ、海峡の向こうにも似たような連中がいたとはねえ。

 韓国の女性ボーカルグループ、”バブルシスターズ”であります。これは2007年に発表された3rdアルバム。
 なんかしょっぱなから、彼女らが揃いも揃ってブサイクみたいな、そんな話題ばかりしてますがねえ、いやでも、そもそも彼女らの売り出し時のキャッチフレーズが「可愛い子達は皆死んだ」だったってんだから、そりゃしょうがないでしょ。凄い売り出し文句もあったもんだわ。
 このバブルシスターズ、デビュー当時はシャネルズあらためラッツ&スターみたいに顔を黒塗りにしてテレビに出ていてアメリカの人権団体から「人種差別ギリギリですよ」みたいな警告を受けたりもしたらしい。その黒塗りだって、シャネルズのような黒人への憧れというよは、どうせブサイク隠・・・ああ、いやいや、この話題はもうやめましょ。

 さて、バブルシスターズの音楽性といいますに、これはもう日本を含む昨今の東アジアの流行そのままの、「R&B大好き症候群」的、ソウルなソウル(前者は”SOUL”の、後者は”京城”のほうのソウルね。カビの生えたようなシャレで申し分けないです)のコーラスグループです。
 さすがルックス度外視して集められただけの事はあり(おいおい・・・)パワフルでもあり味わいもある、黒人音楽大好きっ子の実力派女史集団の面目躍如であります、聴いていて安心できるし気持ちが良い。そのしっかり地に足のついたハングル=ソウル表現が。
 ことに、収められた曲の半数以上を占めるバラードものはしみじみと良い出来で、こんな風になんとなく心の隙間に風が吹き抜ける、みたいな夜には非常に癒しになりますな。グラスを掲げて「たまんないぜ、漢河レイジー・ブルース!」と部屋に流れる彼女らの歌声に乾杯する理由は十分にあります。

 日本のR&B歌姫諸嬢との決定的違いは、その表現の乾き具合。我が国の歌姫たちはもう、黒人らしさを表現するに当たり、その歌声を感傷でびしょびしょの水浸しにするわけですが、この韓半島のソウル・シスターズの歌声は乾いている。感傷でびしょびしょになったりはしない。
 これ、凄くさわやかに聴こえます、”ビショビショのR&B”に食傷した身には。
 なんかねえ、バブルシスターズの歌声の向こうには、朝もや煙るソウルの朝市でガラガラ声張り上げてキムチ売っているオバちゃんたちの豪放な生き方、そんなものに直ずる逞しい心意気が感じられるんだよね。
 薄暗い照明の下、タバコの紫煙けむる不健康なクラブで歌っていても、彼女たちのど真ん中に息付く向日性の魂は何者にも曲げられる事はない。そんな生命力の木霊がしっかりとした手ごたえで伝わってくる、そいつにいつしか惹かれている自分がいたりする次第で。

城南海のニューシングル!

2009-03-23 04:00:43 | 奄美の音楽

 あっと、うっかりしていた。奄美出身のアイドル(なんだろうか?私にとってはそうなのだが)歌手、城南海(きずきみなみ)ちゃんのニュー・シングル発売と、それに伴う九州ツァーや故郷奄美への凱旋コンサートの日程などがmxiニュースで先日、発表になっていたのだった。
 気がつかなかったなあ。マイナーな話題だからニュースが表示の目立つ位置まで上がってこなくて気がつかなかったってか。ちょっと悲しいが、まあ、まあこれからだよ、南海ちゃん。ということで。

 で、そうかあ、奄美のコンサートや九州ツァーの様子など、ネットのどこかで映像で見ることは出来ないのかなあ。などと、気がつけばもうすっかり城南海ちゃんの単なるミーハーなファンになってしまっている私だった。思えばこの正月、枕もとのラジオから突然流れてきた奄美の民謡に「なんだなんだ?」と驚かされて以来、急転直下、この有様である。
 でもねえ、奄美の民謡の不思議な魅力に魅せられて首を突っ込んだ後、あれこれ音や文献に当たってきたけど、我がアイドル志向まで奄美に満たしてもらえるとは思っていなかったからさ。これはありがたい話であります。

 mixiニュースで、4月15日発売のニューシングルの冒頭部分を試聴出来るので聞いてみる。おっかなびっくり、なんだけどね。彼女みたいな個性をどう演出するのか、なかなか難しいものがあるでしょ?せっかくの若き奄美の島唄歌い、単なるアイドルソングを歌わせるのもつまらないし、と言って、民謡歌手であるからっていきなり”黒だんど節”なんてのをシングルに切ったって、そりゃ、売れる枚数は知れているしね。
 その辺、彼女のスタッフはどのように処理しているのだろうか?ピントはずれな代物を歌わされていやしないだろうかと。

 で、聴いてみた結果。まあ、ほんの唄の出だししか聴くことは出来ないんで、あまり決定的な話も出来ないんだけど、とりあえずひどい仕上がりにはなっていないようだ。といっていいんじゃないかな?
 パターンとしては元ちとせなんかの線、つまり、いわゆるJ-POP路線の唄を民謡のコブシを生かしつつ歌って行く、という形を取るようだ。城南海のデビュー曲もその辺の路線のフォーク調アイドルソングだった。あの曲、民謡のコブシの揺らしどころも巧妙に配置されていて、なかなかの傑作だったと私は考えている。

 まあ、この辺が落としどころだろうなあ。この路線を続けるうちに、奄美の民謡の要素を生かした城南海らしい路線が見出せたらいいんじゃないか、と。南海ちゃんも軽く廻したコブシに南の海の香りを漂わせつつ、爽やかな青春ポップスを切なく歌っております。
 まあ、単なるファン話を書いてしまっているけど。いや、当方、城南海の単なるファンですが何か?とか居直りつつ。ああ、4月に出るCDが楽しみだなあ、うん。


 ○城南海、期待のニューシングル
 (バークス - 03月21日 11:10)
 奄美大島出身のシンガー、城南海(きずきみなみ)が、初めて地元・奄美でコンサートを行なった。
 城南海は奄美大島を離れてから島唄を歌い始め現在に至るため、意外にも奄美でのパフォーマンスは初のこと。凱旋コンサートとなった3月17日の奄美ROAD HOUSE ASIVIでは、デビュー曲「アイツムギ」や4月に発売の2ndシングルなどを披露し、満員の観衆を魅了した。
 奄美からスタートした九州ツアーは、3月18日鹿児島CAPARVO HALL、3月19日福岡ROOMSでも行なわれる。
 4月15日リリースのニューシングル「誰カノタメニ/ワスレナグサ」は、収録曲3曲全てがTVドラマ、映画のタイアップ作品という要注目の期待作だが、3曲とも試聴が届いたのでご紹介しよう。

 ●「誰カノタメニ」試聴
 ●「ワスレナグサ」試聴
 ●「光」試聴

 着うたはドラマ「エゴイスト~egoist~」がスタートする4月6日から先行配信開始なので、ドラマとともにチェックを。

 城南海は、次回地元・奄美にて行なうパフォーマンスは、大注目の<ECLIPSE2009奄美皆既日食音楽祭>(7月16~24日)。神秘的な皆既日食とともに響く城南海の凛とした歌声が、宇宙へ馳せる想いとともに空に溶け込んでいきそうだ。

「誰カノタメニ/ワスレナグサ」
1.誰カノタメニ
東海テレビ・フジテレビ系連続ドラマ『エゴイスト~egoist~』主題歌
2.ワスレナグサ
東海テレビ・フジテレビ系連続ドラマ『エゴイスト~egoist~』挿入歌
3.光
2009春公開予定・映画『アニと僕の夫婦喧嘩』主題歌
※フジテレビ系連続ドラマ『エゴイスト~egoist~』(東海テレビ制作、4/6スタート、月~金午後1時30分)
※映画『アニと僕の夫婦喧嘩』(2009年G.W.、渋谷シアターTSUTAYA他、全国順次ロードショー)

<城南海ライヴ>
●3月17日(火) 奄美大島ROAD HOUSE ASIVI 初ライブ(ワンマン)
●3月18日(水) 鹿児島CAPARVO HALLワンマン
●3月19日(木) 福岡ROOMS
●3月26日(木) 渋谷duoイベントw/川江美奈子、宝美
◆チケット詳細&購入ページ
●4月5日(日) “桜祭り!”Vol.“春”ぽっぽ@渋谷AX
●5月2日(土) N.Y.桜祭りライブ
●5月31日(日) 奄美フェスタ@豊島公会堂
●7月16日(木)~25日(土) ECLIPSE2009奄美皆既日食音楽祭@奄美大島


外人稼業2009

2009-03-22 05:34:33 | その他の日本の音楽

 ”宇多田ヒカル4年半ぶりの"Utada"で「離婚後の心境暴露?」”(日刊サイゾー - 03月21日 08:10)

 日本人の”アーティスト”が海外進出とか言った場合、「それを話題に日本国内での売り上げを伸ばしたい」ってことだからね、つまり。こんな具合にニュースにしてもらえばそれで十分宣伝になるって仕組みで、このCD、外国でほんとに売れなくてもかまわないわけです。
 出した本人もアメリカで売れるなんてはじめから思ってないんじゃないかな?
 ただ、あいもかわらぬ日本人の外人コンプレックスを刺激して、「ウタダはアメリカでも人気があるのか、凄いなあ。え、離婚後の本音を歌ってるのかよ!お、エロい歌詞があるのか!しかも英語で歌えるんだからたいしたもんだ。こりゃ買わなきゃっ!」なんて具合に、素朴なヒトビトにドサクサ紛れでCD買わせちゃおうって魂胆があるだからね。
 まあ、外人稼業は今日も大繁盛ってわけですよ。

(”外人稼業”に関しては、以下の拙文をお読みいただけると幸いです)
   ↓
 ●第一部
 ●第二部
 ●第三部

 ○宇多田ヒカル4年半ぶりの"Utada"で「離婚後の心境暴露?」
 (日刊サイゾー - 03月21日 08:10)
 宇多田ヒカルが3月14日、"Utada"名義としては4年半ぶりにアルバム『This Is The One』を発表した。日本先行発売と銘打たれた同作は、全曲英語詞による、いわば"洋楽アーティストUtada"の作品。同様の体裁でリリースされた前作『EXODUS』がアメリカでは大コケに終わっただけに、今回のリリースに驚く声も聞こえてくる。
「日本では100万枚以上のセールスを記録した『EXODUS』ですが、アメリカでは5万枚程度のセールスにとどまり、宇多田の海外進出は失敗したという評価でした。日本における宇多田人気が持ち直している今、なぜ再び英語で歌う必要があるのかという意見も出ています」(音楽番組関係者)
 同様の声はレコード会社スタッフの間でもささやかれていたという。しかし宇多田自身、海外進出に関して今も強い意欲を持っており、売れっ子プロデューサーのスターゲイトらを起用した本作で、あらためてヒットを狙っているそうだ。
「現在のアメリカの市場動向を踏まえた、よく出来たポップアルバムに仕上がっています。ただし、実際にアメリカで売れるかどうかは別問題。R&B系の女性シンガーの場合、セクシーな魅力がブレイクの決め手になることが多いのですが、どちらかといえば中性的な風ぼうのUtadaがいかに受け入れられるかがポイントです」(前出の関係者)
 一つ注目されるのは、日本語詞の時とは異なる、セクシーで挑発的な歌詞だ。男にお金を貢いだ女性の気持ちが歌った「Taking My Money Back」という曲では、「なぜってセックスは最高で 私は乗せられちゃったみたい」(大意)というフレーズも登場する。
「日本語詞では書きにくい、R&B風の歌詞を楽しんで書いている印象ですね。アメリカの音楽市場を意識した部分もあるのでしょうが、中には離婚後の心境を歌ったのでは? と思える曲もあり、宇多田ファンの間で波紋を呼びそうです」(音楽ライター)
 先日は週刊誌の恋人報道をブログで即座に否定して話題となった宇多田ヒカル。その私生活を知るヒントは、意外とアルバムの中にあるのかもしれない。
(玉井光太郎)


転がって行くよ、HAPPY TRIP

2009-03-21 03:45:09 | アジア


 ”HAPPY TRIP”by LANNA COMMINS

 タイの女性ポップス歌手の2006年度作品です。一瞬、この名前は”ラーナ・カミングス”と発音するのかと思ったのだが、よく見てみたらそれじゃスペルがおかしい。ランナー・カミンスと発音するのでしょうか。
 ブログ仲間のころんさんがこのアルバムに触れているのを読み、興味を持って購入した物件であります。
 何に興味を惹かれたのかと言えば、まず彼女の母親がタイ北部出身の大物歌手で、おそらくは豊富な地方音楽の響きの中に育ったラーナーは、身に染み付いた地方音楽の要素を生かしたロックやポップス系の音楽をやっている、というあたりだったのでした。
 ジャケに映っているランナーのファッションも、そういう視点で見るとなかなかに味わい深いものがあるし。

 と言うわけで手に入れたこのアルバムなのですが、期待にたがわず、非常に楽しいものでした。アコースティックな響きを生かしたフォークロック調のサウンドの中に、タイの田園の土の香りが息ずいている。なんとも暖かい印象の、なおかつカラフルな出来上がりのアルバムです。こんな音楽をやってる人がいたんだねえ、タイに。
 こりゃめっけものだ、あと2枚出ているらしい彼女のアルバムもなんとか手に入れなきゃな、などとまたも楽しくも悩ましい音盤収集の奥の細道を思いやる私だったのですが、ただ一つ、どうも気になる部分がある。

 それは、ころんさんがランナーの唄を”下手クソ”と表現していたこと。そうかなあ?私も彼女の唄を、まあ、めちゃくちゃ歌唱テクニックがあるとはそりゃ思いませんが。確かにへっぽこな歌声と言えばその通りなのでありますが。でもそれが彼女の音楽世界を表現するに物足りないものとも思えない。
 むしろそののどかな歌声は、いい湯加減で彼女のアジア性田園調フォークロックの真ん中にすっきり収まって十分に必要条件を満たしていると私には感じられたのですね。なんかねえ、陽の当たる農道を泥のついたままの野菜がコロコロ転がって行くみたいな景色が目に浮んでくるようでね。

 いや、ころんさんも彼女の歌を”絶対に許せない”とか断罪しておられるわけではない。ただ、”これで歌が上手ければ素晴らしい名盤が誕生したのでしょうけどね~。”と残念がってはおられたのであって。
 そして私も、「下手でもいいじゃないか」と言いたいのではなく、そもそも彼女の唄を聴いていて「上手い・下手」といった評価基準がはじめから頭に浮ばなかった、という話であります。
 
 私も最初は正確な音程で歌えるとか大きな声が出るとか高度なテクニックを駆使できるとか、そんな事を「うまい」と言うのかと思っていました。
 が、そのうちそれが形式主義や権威主義やらから出てくる固定観念のようなものって気がしてきて、以後、私には「うまいへた」が分からなくなりました。
 「嫌な唄だなあ」とか「悪趣味だなあ」とか言う歌はありますが、「下手だなあ」と思う事はない。
 また同時に、実は「うまいなあ」とも思う事がないんですね。「この唄、好きだな」とか「かっこいいなあ」とか感じはするものの。
 なんなんですかねえ、表現における「上手い」とか「下手」って評価って?

トバ幻想紀行

2009-03-20 02:37:46 | 南アメリカ

 ”PLEGARIA DEL ARBOL NEGRO” by TONOLEC

 アルゼンチンの文化人類学系音楽ユニット(?)の2ndアルバムである。
 アルゼンチン、ボリビア、パラグアイといった国々が国境を接するあたりの、文明と隔絶した辺境の地で自給自足の生活を送る”トバ”なる民族の音楽を取り上げ、それらを今日に蘇らせようと試みる男女二人組。

 まあ、ワールドミュージックの世界では古くから行なわれている手法といえばその通りなのだが。が、たとえばこのバンド、ライ・クーダーあたりによるその種の作業のようにヒューマンな響きを音作りの根幹に置く、と言う感じではない。

 基本はアコースティックなサウンドのロックバンドが時に電子楽器、時に南米の民族楽器をフューチュアしつつ、トバ族の音楽の再現を行なってゆくのだが、そこではあまり人のぬくもりは強調されず、かなりクールな音像に仕上げられている。シンセが絡む曲はほのかにテクノの香りさえする。民族楽器群も、泥を払ってからきちんとチューニングされた後、奏でられている、そんな感触。

 そんな、整然たる民俗ファンクとも呼びたいサウンドの中で、ひたすら人間臭さを振りまくのが、女性メンバー、チャロ・ボガリンのボーカル。写真などを見ても、どうやらアメリカ大陸先住民の血を受け継ぐらしい彼女(それがトバ族なのかどうかは不明)のその歌声は全体のクールな音像と比するに、かなり土臭い呪術的響きがあり、両者の、おそらくは故意の乖離はそのサウンドに独特の刺激をもたらしていると言えよう。

 もう一人のメンバー、キーボード担当の男性、容貌を見る限りではこちらは移民系というか白人系であろうディエゴ・ペレスと共にこの二人、ここで聴かれる仕事の巧妙な仕上がりから、相当のインテリであろうと想像される。

 二人がトバの民俗音楽を元に作り出したオリジナル曲はまさに南米の秘境から直送、みたいなプリミティヴでエキゾティックな魅力があり、そいつが彼ら独特のクールなリズム感で揺れ動く様は、なかなかに血が騒ぐものがある。それがどれほどリアルな”トバの音楽”になっているのか、その見当はつかないのではあるが。ともかくは濃厚な密林の幻想に陶然とさせられるのである。

 そんな中で非常に心惹かれたのが終わりの3曲。この3曲はどれも、どこかわらべ歌っぽい優しいメロディラインの柔らかい幻想味が溢れるものであり、聴く者の心を不思議に懐かしい感傷で包む。
 聞き馴れない不思議な音楽世界のさらに奥の間があった形であり、どうやらこれは繰り広げられたトバの秘境幻想を締めくくり、客人たちを現世に送り返す儀式の場なのだろうか?などと勝手な想像は広がる。


光の中のフィリピン

2009-03-18 03:40:09 | アジア
 ”Sharon Sings Valera”by Sharon Cuneta

 ずっと遠くで呼んでいる。あれは、遠い昔から糸一筋で続いているラテンの血の騒ぎか。それとも、もっと別のなにものかなのか。時の流れの中で、あまりに遠い面影になってしまって、その姿をしかと認めることも叶わないけれど。

 フィリピンの歌手、シャロン・クネータによる、同国の名作曲家、レイ・ヴァレーラ作品集であります。以前にアナログ盤で世に出ていたもののCD化で、すでにタガログ語ポップスの名盤として誉れ高いもののようです。
 シャロンは清純な美声を素直に響かせるタイプの歌い手で、そんな彼女にこうしてヴェレーラによる美しいメロディを、流麗なストリングスなどバックに歌われると、なんとも心洗われる気分になってきますな。

 ポップ・インドネシアなんかでもそうなんだけど、この種の洗練された東南アジアポップスを聴いていると、その奥で息ずいているラテンの血のざわめきのエコー、とでも言えばいいんでしょうかね、そんなものが気になってきます。歌われているのは、なんだか南欧の国のポップスめいた佇まいの旋律なんですね。
 それは、そのあたりを長期間にわたって植民地支配していったヨーロッパの国々が、その土地々々の人々の心の中に置き忘れていった唄の魂、その残滓なんでしょうけど。そいつが、東南アジアポップスが洗練に向うほどに目を覚まし、切ない残照のメロディを歌い出すかのような。

 植民地支配は何百年にも渡った訳ですから、その年季の入り方と言うものが違う。「R&Bが好きで~す」とか言っている昨今の我が国の”Jポップ歌手”あたりの付け焼刃とは。
 何代も何代も先から受け継いできた血の中に潜んだ、ずっとずっと魂の深い部分から、インドネシアやフィリピンの人々における”ヨーロッパのエコー”は吹き上げてくる。この深い味わいには、もう手もなく酔わされてしまうんですな、いやあ美しい、と。

 とは言うけど、もちろん植民地支配を受けるのが気楽な稼業であったわけはないんで。何度も書いて来たけど、インドネシアを領有していた時期、オランダの人々の平均身長は数センチ伸びた、というんですからね。当然、その数センチ分をインドネシアはその時期、奪われていたわけです。
 その苦痛を想像すれば呑気に音楽に酔い痴れているのも申し訳ないような気分になって来ますが、それでも美しい音楽である事自体は確かで、それを美しいと感じてしまう後ろめたさが、その音楽にますますの陰影を与えるという悩ましい形勢となって来ます。

 このあたりに関して、もうずいぶん以前に、ある絵本作家と論争したものでした。彼が、「だからヨーロッパの植民地支配を一概に責める事もないんですよ。二つの文化が出会い融合する事が出来たんですから」とか言うんでね。よくもまあ、そんな結論を簡単に出せるものだとその乱暴な論理に呆れたものでしたが。
 そもそも植民地支配を受ける人々の側に、それら文化上の影響を受けるか否かの選択の自由はあったのか。そして、すべてを奪われた人々が自らの文化を再び起こすのに、どれほどの努力が必要だったと思っているのだ、と。

 ほんとに、良い気持ちでこの音楽の美しさに酔ってしまっていいんですかね。そんな戸惑いを笑顔で打ち消す天使みたいに、シャロンの素直な歌声は緩やかに伸びて陽の光の元、太洋の波の連鎖の上をどこまでも渡って行くのでした。

 ☆付記 

 ■のり子さんに在留特別許可、叔母夫妻が養育者に

 この一連の報道におけるフィリピンという国の扱いについて問いたい。関係者諸君、あの国はこの世の地獄のような場所なのかね?
 マスコミの諸君、君たちの、「あのような劣等国に、先進国たる我が日本育ちの”のり子さん”を送り込むのは残酷過ぎます」とでも言わんばかりの報道に問題はないだろうか。

 ”のり子さん”ご本人よ。君にとってフィリピンとはなんだ?「人の住む価値もない薄汚い地獄」とでも思っているような君の態度だ。
 が、あの国にも日々を懸命に生きている立派な人々はいて、そして君は両親からその人々と同じ血を受け継いでいる。彼らは君の同胞なのだ。そんな彼らとフィリピンの地で暮らすのが、君にはそんなに苦痛なのだろうか?

 この事実を君は、どう考えているのだろう?「日本語しか話せないからフィリピンでは暮らせない」と言いながら、家では両親とタガログ語で会話していたと言う君よ?
 そして”のり子さん”の両親よ。君たちが生まれ育ったフィリピンではなく、法を犯してまでこの日本で暮らさねばならなかった、その理由はなんだ?

 恥と思え。申し訳ないと思え。たとえ現状がどうであれ、君らの父祖が、その血と汗と涙をもって守り育てた愛すべき祖国フィリピンではないのか。
 君ら家族三人は、故国の同胞と一緒に額に汗しフィリピンの大地を耕せ。そしてフィリピンを日本人がその豊かさをうらやむほどの理想国に、君らの手で育て上げるが良い。

 それに付けても非常に胡散臭く思うこと。
 この”各社右へならえ”で”かわいそうなのり子さん”報道を垂れ流すマスコミの異常な姿勢の裏に、露骨な陰謀が透けて見えて仕方がないのだ。
 日本の一般大衆のうちに、「不法滞在する外国人は同情すべきかわいそうな人たちだ」との思い込みを刷り込まんとする策謀が。
 なにかね、これは?裏に誰がいて、どのような勢力が利益を受け取らんが為の裏工作なのか?見守ろう。すべてのイカサマを見逃さぬために。

 ○のり子さんに在留特別許可、叔母夫妻が養育者に
 (読売新聞 - 03月16日 21:16)
 不法入国で強制退去処分が確定した埼玉県蕨市のフィリピン人、カルデロン・アラン・クルズさん(36)一家が日本にとどまることを求めていた問題で、法務省東京入国管理局は16日、中学1年の長女、のり子さん(13)に期間1年とする在留特別許可を出した。
 一家は家族全員の許可を求めてきたが、今月13日、東京入管との協議で、アランさんと妻サラさん(38)は強制退去処分を受け入れ、のり子さんはサラさんの妹夫妻が養育者となり、現在暮らしている埼玉県蕨市内にとどまることが決まった。両親は、のり子さんが2年生に進級する来月8日の始業式を見届けた後、同13日に帰国する。
 アランさんは「のり子に許可が出たのは支援してくれた人たちのおかげ。のり子にはダンスの先生になるという夢をかなえてもらいたい」と語り、のり子さんは「両親がこれまでやってくれていたことをこれからは自分でやらなければならない。もっとしっかりしなければと思っています」と話した。