ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

雨上がりのバンコクで

2012-04-29 02:29:37 | アジア


 ”A Little Big Thing”by Ging

 え~、可愛い子だからCD買っちゃいました。毎度、ジャケ買いの誘惑に負けてばかりで面目ない。
 彼女、ギンちゃんと呼べばいいのですかね、2009年デビューのタイのアイドル歌手であります。

 ギンちゃんはルックスよりは若干大人びた歌声で、アメリカの黒人音楽のナウいあたりやボサノバのリズムなんかも援用しつつ、雨上がりの都会を行くちょっとおしゃれな女の子の日常などを歌っている・・・のではないかと思います。そんな感じの涼やかなポップ感覚が鮮烈に香ります。
 多用されるメジャー・セブンス系の和音が、ビルの間をか細い糸を引いて流れ、そして消えて行く淡い感傷を繊細に響かせます。

 このようなアルバムを聴くにつけても、タイの若い世代には、もう全く新しい感性が育っているのだろうな、なんて思います。このアルバムで聞かれるような都会の洗練された日々の織り成す喜怒哀楽って・・・金子光晴のアジア滞在記なんかを片手に、”シナ海の南風下るところ”に想いを馳せて東南アジア・ポップスを聴き始めた私なんかの世代の理解の及ぶところではないのかも、なんて思ったりします。

 それにしても昨今のタイの女の子たちの、”顔立ちを欧米の女性っぽく見せる技術”の進歩というものは目覚しいもので、みんなほんとにきれいになりました。そしてどこの子も同じような顔立ちで見分けが付け難くもなりつつあるようです。
 これはメイク技術とかカメラマンのテクニックなどによるものであって、彼女らが一斉にメイクをぬぐい去れば、そこには昔私がタイ文字だらけのカセットテープのジャケ写真で見慣れていた、素朴なタイの少女たちの笑顔が戻ってくるのでしょうか。それとも、彼女らは、もう骨格の段階から欧米の女性みたいな顔立ちに変化を遂げたのでしょうか。

 アイドルとはいえ、ギンちゃんは芸能人としてしっかりした考えをもった人のようで、テレビの番組中でもウクレレの弾き語りなど披露して”ミュージシャン”たる自分をアピールしたりすることを忘れません。歌唱力は先に述べたように立派なものだし、大手レコード会社のイチオシでもあり、これからも堂々の進撃を続けるのでしょうね。
 そして次元の低い私は、「CDもいいけど、この子、写真集でも出さないかな」とか、しょうもないことを考えてみたりするのでした。




雑音の彼方に

2012-04-28 06:23:54 | いわゆる日記

 昨夜、ここにアート・リンゼイとか貼ったら、なんだかまとめてアバンギャルド方向の音を聴きたくなっちゃったなあ。大破壊的サウンドの出物はないですかねえ。
 アート・リンゼイのあの騒音っぽいギター・ソロとか、ああいうアバンギャルドっぽい音楽は音楽ファンの初期時代からすでに好きで、以来、フリー・フォームのグシャグシャのサウンドは時に”渇望”というレベルで聴きたくなったりする。

 どのくらい初期からかと言えば、ロックファンの身分ながら、おずおずとジャズのアルバムなども聴き始めた高校生の頃、ESPとかフォンタナ・ニュージャズシリースとかの前衛ジャズのレーベルに出会い、そのシュールなジャケ群にすっかり魅せられちゃったあたりから始まるんだろうか。サン・ラの「太陽中心世界2」とか、スティーブ・レイシーの「森と動物園」とか、見ているだけでドキドキしてくるジャケじゃないか。

 まあこれもジャケ買いの系譜なんだが、ジャケのデザインには惹かれるものの、中身のサウンドに関してはなにやら難しげな解説がなされており、これに腰が引けた。ジャケのデザインが気に入ったからって、手に入れてみたら肝心の音楽が楽しめなかった、では意味ない。
 で、おずおずと聴いてみたそれらのアルバムなんだが、これがなんの障害も感じず、普通に楽しめちゃったのであった。最初から。

 そのグロテスクにデフォルメされた楽器の音やら、覚えて歌えるようなところなど一切無しの、不安をあおるようなメロディラインやら、でたらめに叩いているようなドラムス、などなどがそれぞれ好き勝手に暴れまわっているサウンドは、しかし、拍子抜けするほどあっけなく私の心に馴染んだ。

 こうして私は3秒とかからずに前衛ジャズのファンになっていたのだった。未だにこれがなんで難解なサウンドとされているのかが分からない。うん、今回の文章の”言いたいこと”はこの部分。なんでアバンギャルドな音楽って”難解”ってことになっているんだろう?
 心にそのまま入ってこないか?”理解”なんてする必要はない。素直に聞いてりゃそのまま楽しめるはずなんだがなあ・・・と一応書いてみるけど、こんな話が通じない人がほとんどであるのは、もちろん知っている。

 そこであなたにお願いなだが、下に貼った音楽を、「音楽とはかくのごとくのものである」みたいな先入観を捨てて聴いてみていただけないだろうか?ごく普通に、熱い魂が脈打つのをお楽しみいただけると思うんだが。いや、やっぱり無理か???



”20世紀のベスト・ギタリスト100”特集に突っ込んでみる”

2012-04-27 02:46:23 | 音楽雑誌に物申す

 レコードコレクターズ誌5月号特集、「20世紀のベスト・ギタリスト」には唖然とさせられた。”20世紀の”と言われてもなんのことやら分からない。特集の中身を読んでも、なんだか漠然としている。
 まあ、ロックの歴史を丸ごと振り返っての、ということかとも思うが、どうも名を挙げられている黒人ミュージシャンすべてが、どこかにタテマエっぽさを含んだランクインて気がして、読んでいて居心地が悪い。そもそもジミヘンの第一位ってのが、「これをまず出しとけば文句のつけようがないだろ」的な、むしろ逃げを感じでしまうのだ。

 その他、チャック・ベリーとかロバート・ジョンソンとかBB・キングとかが上位に来ているのを見ても、彼らをそんなに上位に持っていった人たちに対し、「あんた、ほんとにそれ、クラプトンとかと並行して聴いてんの?」と、つい疑いのマナコを向けたくなってしまうのだ。「一応、ロックの成り立ちを考えに入れると、このへんは入れとかなけりゃな」みたいな、ね。そんなタテマエ主義が感じられてならない。
 タテマエっぽさでいえば、チェット・アトキンスとかレス・ポールとかもだな。そのへん、たとえばこの一年間で何回聴いた?とか、ほんと、教えて欲しいわ。
 などとまあ、考えてみればロック系のギタリストをさっぱり聴かなくなっていて、むしろ”チャック・ベリーやロバート・ジョンソン”なんかを聴く機会の方が多い身の当方としては、どうも素直にこの結果を受け入れる気分にはなれないのだ。

  また、アーティスト名のカタカナ表記が”ピーター・バラカンのアドバイス”により、より本来の発音に近いものにしているとのことだが、これもなんだか唐突で不自然だね。ロジャー・マグウィンとかロイ・ビューキャナンとかジョーニ・ミチェルとかいきなり言われてもなあ。
 まあ、この表記でレココレ誌、今後もずっと行くというのなら半分くらいは納得するが。

 ”半分くらいは”っての、あと半分はワールドミュージック野郎として言いたいことがあるのであって。
 ”本来の発音”ったって、”英語国民にとっての”でしかないんじゃないのか、結局。もっともらしく正確を期した様なこと言ってるが。
 たとえば、カルロス・サンタナはそのまま”サンタナ”となっているが、ほんとは、”本来の発音”は、”サンターナ”じゃなかったっけ?とうようさんが、よくそう書いてたっけな。
 その他、ジャンゴ・ラインハルトやイングヴェイ・マルムスティーンなんかの非英語圏の人々の名前の読みは、このままでいいんでしょうかね?これらも、”より本来の発音に近いものに”とするべく検証した結果と受け取っていいの?
 なんだ結局、「よりマニアックに英米文化に隷属してみました」ってだけの話じゃないのか?とか怪しまれてならないわけですよ、ワールド・ミュージック野郎としては。

 読んでいてふと思い出した。エイドリアン・ブリューっての、あの”リメイン・イン・ライト”で強烈な印象を残したギター弾きがいたな。彼なんかひところは大した羽振りだったが今回のベスト100には入っていない。話題にもなっていない。個人で挙げている人がいるだけで。
 結構好きだったんだけどねえ。栄枯盛衰は世の習いってやつだなあ。いや・・・こうして無名化しておいて、時が経ってから「忘れられたギタリスト特集」とかのネタにする訳か。その頃には、紙ジャケ・デジリマ・ボートラ付きで作品一挙再発の機運が高まっていたりして。まあ、いろいろありますわな。

 (とかなんとか言いつつ、「今はむしろこいつを聴きたい気分だな」の、アート・リンゼイを貼るのであった)




Lolaの島唄、ビギンの輝き

2012-04-26 01:16:10 | 南アメリカ

 ”LOLA MARTIN”

 という訳で、フレンチ・カリビアンものであります。カリブ海はグァデロープにて1969年の録音とあります。古き島唄、ビギン集。いやあ、実に愛らしい一枚と言えましょうなあ。
 いつまでもしつこく続く冬に対する不愉快気分の表現として、あえて北国の陰鬱な音楽をずっと取り上げてきたこの日録なんだが、このところ妙に暖かかったんで、そんな時にはこういう音も聴いておきたい。

 しかし良いねえ、この音は軽くて。こういう音楽に出会うと私は、タモリの名言を思い出してしまうのだ。いわく、
 「いいねえ、あんたの音楽は。な~んにも言ってなくて」
 言われた相手は井上陽水で、苦笑しながら「いや、何か一言ぐらい言っていると思うんだが」と不満げに呟いていたが。
 この音楽に関しても、「何を言っているんだ。この音楽はいろいろなことを言っているぞ」とお怒りの向きもあるかもしれない。まあ、そりゃそうなんでしょうけど。

 これが同じカリブ海の音楽でもキューバものといいますか、スペイン系のものなんかになると、あのドロッと粘り気のある濃い口のスペインの怨念とアフリカの爆発力とが入り混じって、”血の祝祭”みたいな業の深さがどうしても漂う。
 そこへ行くとこの種のフレンチものは、なにやら小洒落た雰囲気など漂わせながらスイスイと街角を流れ過ぎて行ってしまう感がある。口笛など吹きながら。
 収められている曲目は詠人知らず版権開放ものが大半ですが、メロディラインは、これはカリプソの系列に属するものですな。優雅に上下するクロマティックな音列が心地よい。

 これはさ、確かに実は何か言ってるのかもしれないけど、そんな素振りも見せずに紅灯の巷に姿を消す遊び人の粋に通ずる良さがある、ととらえたい。
 このアルバムの主人公、Lola嬢の歌声も、こりゃアイドル声と言っていいでしょう。立派な歌なんか歌うより可愛がられちゃったほうがおいしいわ、との価値観が楽しげに泳ぎ回っている。バックコーラスの男声陣との掛け合いのシーンも多く、そこにはそこはかとない大衆芸能の楽しさ、胡散臭ささ、などが漂います。
 バックのリズム隊もギターや木管吹きも、結構、ややこしいことやったりもしているんですが、それを押し付けてくる感じではないですな。

 終わり近く、歌謡曲色の濃いマルチニック賛歌(?)から愛らしいワルツに、そして島の祭りにて締め、という構成が気が利いています。ローラの島唄、これで終わりかなあ。もっともっと聴きたいがなあ。

 試聴です。
  ↓

  

ベルリンの明けない夜

2012-04-23 05:09:40 | アンビエント、その他

 ”No Sudden Movements”by Gaiser presents ; Void

 このところ、メリハリもなくダラダラと降り続ける雨ばかりの日々を送っている気がする。冬が終わり春がやって来た気配もなく。どうやら季節は冬の後の春を廃して梅雨に直結するつもりでいるのではないか。そんな気がする。冬、終わらぬまま梅雨、その後、突然の猛暑の日々。そんな嫌がらせのもてなしが用意されている今年の風向気配である。
 当方、毎度の癖で、しのつく雨の音を聞いているとテクノやシンセがメインのプログレなど、電子音楽を聴き込みたくなるヘキがある。どういう仕組みか知らないが。
 という訳で、ドイツはベルリンの街角より、のエレクトリック・ミュージック。

 素っ気ない紺色の紙ジャケの中にCDは放り込まれ、ジャケを開けてみても、”fng”とか”frz”とか”snw”とか、意味を伝える気が初めからないような理解不能の収録曲名が小さな字で並んでいるばかりだ。むしろジャケを収めたビニール袋に貼られた小さな小さなステッカーにある、”Made in Germany”の一言が、収められた音の含むスピリットを伝えているようだ。
 音数を極度に抑えた闇の空間に、雨の雫が鉄管を叩くような音色の信号音もどきがインド音楽の民俗パーカッション風ととれないこともないリズムを織り成す。実際のサウンドはもちろん、零度以下の温度まで垂れ下がりつつ、青白い火花をあげているのだが。

 4曲目、”mlt”あたりになるとラジオの発信音やら工事現場の騒音など加わりはじめ、空間がダブ的揺らぎで妖しく脈打ち始める。オバケ屋敷のホームパーティもさぞかしの、ブラック・ユーモアに満ちた闇の祝祭がリズミックに蠢く。
 これは凄い。ベルリンの街は今、どんな気候なのだろうか。以前、降り積もる雪に覆われたメインストリートの報道写真に、「ドイツって、そこまで”北国”だったのか」と呆れたものだった。
 このアルバムの音を聴く限り、永遠に春など来るとは思えなかったりもするのだ。




月世界旅行

2012-04-21 05:04:48 | アンビエント、その他

 ”Le Voyage Dans La Lune”by Air

 なかなか素敵な幻想音楽に出会ってしまった。

 映画史初期の傑作というか、世界初のSF映画とも呼ばれている、フランスのジョルジュ・メリエス監督作品「月世界旅行」(1902年)を音楽化したアルバムである。制作したのはフランスのエレクトリカのチーム、Air。もともとはモノクロ&サイレントの、この短編映画のサントラを作っているうちに構想が広がり、フル・アルバム化となったようだ。

 もともと映画が持っていた春の宵の夢のようなのんびりとした幻想にあわせて、電子楽器の使用を控えめにして、アコースティックな柔らかい手触りの音楽に仕上げているのが好感が持てる。不思議な懐かしさに満たされた空間に控えめに響く、古めのシンセやメロトロンの音色が、たまらなく美しい。
 
 この妖しげな春の夜の夢の一刻の、なんと愛しいことだろう。目の前に見えているのに容易には行き着けない、あの月面の冒険行に乾杯しよう。



Super Sonic Koto Music

2012-04-20 04:47:55 | その他の日本の音楽

 ”山田流箏曲”by 中能島欣一

 何事か探しものがあって部屋をゴソゴソやっている際に、ふとこのCDが出てきて、「うわ、こりゃ何だ?こんなアルバム、持っていたっけ?」とかジャケを眺めて驚いたりすることはあるのであって。そりゃそうだ、純邦楽、箏曲のアルバムなんてさすがに私も聴く趣味はないよ、本来。
 とはいえこのアルバムは別に間違いでも勘違いでもなく、確かに聴きたくて買った一枚で貼るのだった。

 あれはもう10年くらいも前になってしまうのか、ふとした気まぐれで国営放送の教育テレビ、「邦楽回り舞台」だっけ、あれをボ~っと見ていたら、はじまった琴の演奏に一発でやられたのだった。邦楽って、こんなにぶっ飛んだものだったんだ!
 それは日本の伝統音楽である邦楽、なんて垣根をもう初めからまったく問題にしていない、という感じで軽々と乗り越え、全く独自の美学が乱れ飛ぶ、マジカル・ワールドだったのだ。その曲は、ずいぶん昔に作られたものであるはずなのに、そして伝統的な邦楽の演奏形態を保った琴の独奏曲であるのに、空間に描き出される映像は、その果てしもないイマジネーションの彼方に、見たこともない新世界の輝きを感じさせた。

 そこにはクラシックの影響も伺えたし、ファンキー、と呼びうる部分も確実に存在していた。とはいえそれらは「あちこちつまみぐいしてみました」みたいな下品な雑食性などはかけらも見えず、すべては箏曲作曲家である中能島欣一の邦楽者としての美学のうちに消化吸収され、まったく中能島ワールドという以外に名付けようもない堅牢な建築物の一構成要素として、邦楽世界の中に磨き込まれて溶け込んだ、鈍い光など放ちさえしていたのである。

 その後、それなりに調べてみて、中能島欣一が邦楽界の大革命児であったことを知る。人間国宝であり文化功労者であり、昭和を代表する筝曲家であったことを。
 なにより驚いたのは彼が両親に早く死に別れた苦労人であり、私がなんとなく想像していた、文化的にも経済的にも恵まれた芸術家の家に育って、本職の邦楽と同じくらいクラシック音楽などにも造詣深く、それが当たり前のように育ってきた人、などではなかったことだった。彼の音楽の向こうに窺える、博覧強記とも言いたい内なる文化の多彩さは、彼が個人的努力で身に付けたものだったのだ。

 いや実に、この音楽の翔び具合は大変なものなんだよ。保守の権化みたいに見える邦楽の世界で、こんなにも奔放な冒険が行われていたとはね。
 とはいえ、中能島欣一はただ一人であり、そのような”邦楽の楽しみ”に応えてくれるような音楽は、そうそうあるわけではない。燃え上がりかけた私の邦楽への関心は、いつの間にか途絶えてしまったのだが。
 いや。これは私が不勉強なせいで知らないだけで、きちんと探せば中能島欣一的音楽上の冒険の続編が邦楽世界のどこかで繰り広げられている可能性だってあるのだが、もちろん。



風を測る日

2012-04-19 05:08:45 | アンビエント、その他

 ”Sanctuary”by radiosonde

 気象観測のために上げられる気球をユニット名とした二人組のデビュー・アルバム。悠然たるペースで、”存在しないはずの音楽”を奏でる。そういえば、ラジオゾンデという言葉自体も、ずいぶん久しぶりに聞いた気がする。
 ギター、オートハープ等の楽器とディレイなどのユニットを駆使して、遥か高みをさまよう気球の旅が、その気球の目線で描かれて行く。素朴な、と呼んでいいのか屈折したと呼ぶべきなのかよく分からない、イマジネイティヴな演奏が繰り広げられる。

 吹きつける風や、高速度で目の下を飛び去って行く大地のイメージが音の向こうから伝わってくる。まるで彼等が空に登って行き、風や雲と合奏しているような。
 思えば、観測気球の打ち上げなんてのは、ずいぶん素敵な大気への語りかけだった。ラジオゾンデの音楽が繰り広げる、空の旅のイメージに身を任せるのが心地よい。まるで大気という大海を行く帆船にでも乗って、地球の淵を見下ろしているかのようだ。

 なんて心地よい地球との対話なんだろう。



台湾、雨上がり

2012-04-16 03:42:58 | アジア

 ”査某人的話”by 李愛綺

 台湾歌謡界で20年以上のキャリアを誇るベテランの歌い手が、あるテレビ番組におけるあるアーティストとの出会いに刺激を受けて意識変革、名前を芸名から本名の李愛綺に戻し、まるで新人歌手にもう一度戻ったかのような新鮮な感覚の歌を歌い始めたという。
 そんな彼女の、これは新路線後2作目のアルバム。先行する一作目は、様々な音楽要素が飛び回るカラフルな出来上がりだったそうだが、残念ながら未入手。そのうち聴いてみねば。

 こちらの盤は逆にテーマを”故郷・台湾”に絞った、落ち着いた仕上がりだ。何か、どこかでしっとりと雨の降った後のような濡れた静けさの気配を感ずる。

 このアルバムに、彼女もスタッフも相当の力を入れているのであろうこと、CDのヴィジュアルからも推し量ることが可能だ。まず、なにやら紙袋に入れられたパッケージを開いてみると、グラビア・アイドル然とした歌手本人の姿が写し込まれた、大判の絵はがき風のものが何枚も封入されている。
 なかなかエッチでいいじゃないかとニヤつきながら裏をひっくり返すと、これが一曲一枚あての歌詞カード群であることがわかる。ということは、これはCDケースごと、李愛綺から届いた手紙、というコンセプトになっているのかと気がつく、という懲りようである。

 冒頭のアルバム・タイトル曲、曲調は台湾の演歌によくある、かっての日本支配の忘れ形見の如きもの。すなわち、昭和30年代くらいで時が止まったままの演歌を思わせる切ないワルツ曲。私などは子供時代、友人たちと日の暮れるまで裏の小川で遊んだ記憶など懐かしく思い起こしてしまうが、ほかの人々はどう感ずるのか?そして台湾の人々はどんな具合にこれらの曲を愛してきたのか。
 いずれにせよ、キイ・ワードは郷愁であること、間違いないのだろうが、それ以上の勝手な解釈は避けるべきだろう。

 それに続いて、今度は今日風の美しいフォーク調のバラードが、そして軽快なポップスがと飛び出してくる。いずれも、これがベテランの歌かと思うほどしっとりと水を含んだような新鮮さを持ち、これまでの彼女の歌より数倍、リアルな今日の台湾の手触りを感ずることができる。
 こんなふうに彼女ほどのベテランを変えてしまった、アーティスト(ロック系の人みたいだが)と彼女の間のやりとりとは、どのようなものであったのだろう。知りたいものだけれど、もう伝え聞けるのは噂の中で変形してしまった神話の類だけかも知れないな。




コーランを聴いてみる

2012-04-13 04:12:48 | イスラム世界

 ”Le Coran”by Cheikh Abdelbasset Abdelssamad

 そして私は、コーランのCDを聴いているのだった。
 何しろイスラム圏の音楽を好んで聴いている私である訳で、あの、預言者を讃え、その教えを説いたイスラムの聖典の詠唱も、CDなどきっちり手に入れて聴いておかねばと、以前より気になっていたのだ。

 というか、これまでも機会あるごとに聴こうとはしてきたのだが、たとえばそれは民族音楽研究のためのセットのうちの一巻だったりして、なんか名演かもしれないが地味で地味で仕方のない代物。おかしいなあ、テレビのドキュメンタリーのバックに流れていたコーランの詠唱は、もっとパワフルだったんだが。
 こんなことを言うのは申し訳ないが、CDに収められた名演のはずのそれらはどうにも退屈で、三分で挫折とかを繰り返してきた。が、ここにきて、それなりに快感、と受け止めつつ聴いていられる演者のCDが手に入り、やっと対面がかなったのだ。

 それがこの、アブデルバセット・アブデルサマッド氏の”Le Coran”のシリーズである。氏は1920年代に生まれ80年代に亡くなったエジプト出身の吟朗者。これは彼がコーランの全録音にトライしたシリーズの一枚だそうな。
 ともかくこの人の聖典詠み上げはある種の生々しさというのか、現世に生きるものの”ブルース”をどこかに引きずりつつ尊い教えを問いている感じで、異教徒の自分ではあるがそれなりに詠唱の響きに共鳴しつつ、向き合っていられるのだ。
 というか、心が折れそうなある夜に聴いていたら、ごく自然にイスラム教徒の人々の祈りの真似して、その場にひれ伏したくなったりもした。

 とはいえここでうっかり、やれ名朗者だなんだと誉めそやすのも、やめておきたい。イスラムの何たるかも、ろくに分かっちゃいないこちらなんだし、そもそもそんな快楽を追求するような聴き方をしてはいけないのかも知れないのだからね、コーランとは。

 コーランの全録音というと、何枚組のCDとなるのだろうか。この2枚組のCDの一枚目と二枚目でも、ずいぶん表情の違った”音楽”となっている。
 一枚目は、シンプルなフレーズの組み合わせを淡々と積み上げて行くもので、ある種、蒼古的というのか、遺跡の壁に書かれた教えが読み上げられるのをじっと聴いている気分になってくる。
 二枚目に収められているのは、こちらがいつも聴いているイスラム系のポップスでお馴染みの”イスラミックなコブシ”の世界に通ずるもので、詠唱が悠然とうねりながら続いて行くのは、なかなかの貫禄だなあと伏し拝みたくなっちゃうのだ、軽薄な反応だろうけど。