ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

レユニオン島からの便り

2007-07-31 04:19:00 | アフリカ


 ”Sitantelman”by Tifred

 アフリカの東海岸に浮かぶ小島、レユニオン島のローカルポップスである”マロヤ”・・・なんてものがたびたび話題になるなんて場はここぐらいのものだぞ、と無意味に威張っておくけど。
 これは、そのマロヤ・ミュージックのの新人である”ティフレッド”のデビュー・アルバムであります。

 ジャケの、昭和30年代の日本風の版画(?)が気になる。
 あの頃のアクションものの貸本漫画に出て来た”殺し屋”みたいなシルエットが佇んでいる。胸にハート型の風穴が空いていて。

 昔の漫画に出て来た殺し屋ってイメージを受けてしまったのは、その斜めにかぶった帽子や大き目のコートのせいだけれど、これはもしかしたら1940年代のアメリカの黒人たちの間で流行ったズートスーツという奴を身にまとっているのかも知れない。

 聴こえてくるのはいつものマロヤのシンプルなサウンド。メロディ楽器は一切使われていない。パーカッション群とコーラスのみをバックに、ティフレッドの錆びた歌声が、時におどけて、時にしみじみと響き渡る。使われている言葉は、もの凄く訛ったフランス語。おそらく普通のフランス人には理解できないであろうと思われるくらいの、アフリカ語化したフランス語である。

 どれも、長くても8小説ほどのシンプルな、どこか悲しげな風の吹くメロディだ。マロヤを聴くたびに思うのだ、このメロディの中に漂う独特の哀愁はどこからやって来たのだ?と。インド洋に面したアフリカ東海岸の音楽というより、むしろある種のサンバなんかを連想させる部分もなくはない。

 打楽器群だけをバックに、男女数名のコーラスとコール&レスポンスしながら進む歌といえば、まず頭に浮かぶのはナイジェリアのフジやアパラだが、あのような凶悪な熱狂とは程遠い、素朴な民謡調の不思議な哀感を伴う瀟洒な音楽。どこかに潮風の香りも漂っていて。

 シンプルなリズムやメロディを執拗に反復するうちに、どんどん熱くなって行くのがアフリカ音楽の一典型と言えるのだが、マロヤの場合そうはならず、静かな反復のうちに、ただ進んで行く。ある意味、クールである。ミニマル・ミュージックなんて言葉もふと思い浮かんだりするが、それがこの場合、適切であるのかどうかは分からず。

 そしてある時、ふと思いついたからとでもいう感じで、まるで気ままな散歩の終わりみたいに音楽は立ち止まり、終わる。それから再び”詠唱”なんて表現を持ち出したい感じの無伴奏のメロディが歌い上げられ、リズムが入り、次の曲がはじまる。

 聞けば聴くほど、奇妙な音楽だなあとの思いが濃くなる。時の止ったような、古代の世界を描いた絵画から聴こえてくるみたいな、乾いた哀感が吹き抜ける音楽。まだ生まれて間もないこの音楽がどのように変化して行くのか、非常に気になる。そして、音のうちに漂う、正体不明の独特の哀愁の出所も。

ディランへの道・第1章(?)

2007-07-30 02:16:39 | 60~70年代音楽


 先日来のベストアルバム選考騒ぎ(?)の余波、いまだ治まらず、音楽ファンとしての自分の過去検証が実は面白くなってしまって、ついでに、ボケて思い出せなくなる前に昔の事を書いてしまおうという思惑もありで、昔話が続きます、お許しを。
 で、今回のテーマは、”日本の音楽ファンは、そして私は、ボブ・ディランをいつ頃から普通に聴くようになったのか?”である。

 まあ、ディランの昔の記録フィルム、”ドント・ルック・バック”の完全版のリリースが音楽雑誌で大きく取り上げられたり、ベスト企画でディランのアルバムがランクインしたりしているのを見て、「そういえばディランて、いつ頃から普通に聞かれるようになったんだろう?」と不思議に思ったのがそもそもの話で。だって、ディラン個人の日本におけるヒット曲なんてあっただろうか?

 いや、史実なんてものはレコード会社の売り上げ資料でも当たってもらえばいいとして、私は音楽ファンとしての断片的な思い出話を並べ立てるしかないのだが。
 そもそも私が音楽ファン稼業をはじめた当時、ディランなんか日本の音楽ファンは聴いていなかったと思うのだ。

 当時、有力な海外の音楽情報を得る場だったラジオのヒットパレード番組でディランの曲がかかるなんてこともなかったわけで。「風に吹かれて」なんて曲が森山良子ヴァージョンの甘ったるい”訳詞”を付けられた状態でアマチュアのフォークグループに愛唱はされていたものの。また、当時のフォークファンというのは、まあ90パーセント以上はピーター・ポール&マリーの小奇麗なコーラスのファンで、ディランのようなアクの強い歌手に注目はしていなかったはずだ。

 おっと、当時というのは大体60年代半ばくらい、ディランが生ギター弾き語りからロック路線に転じた頃を指す。これに関してはちょっと挿話あり。

 当時、私は音楽雑誌でニューポート・フォークフェスティバルに関する記事を読んだ。普通のロックファンだった私はフォーク情報に興味はなかったのだが、好きだったロックバンド、”ラヴィン・スプーンフル”のステージ写真が掲載されており、気を惹かれたのだ。
 そこには、「昨年、フォークのプリンス(と書いてあった)のディランがロックバンドをバックに歌を披露して観客から顰蹙を買った同じステージで、今年はロックバンドのラヴィン・スプーンフルがトリを取り逆に大喝采を浴びた。たった一年でずいぶん観客の意識も変わるものである」なんて文章があった。

 まあ、それだけの話なんだけど、ディランが顰蹙を買った話は何度も語られているものの、翌年のラヴィン・スプーンフルとの対照の妙の話は誰もしていないようなので、ここに記録しておく。

 かく言う私自身も当時、ディラン本人の歌は聴いていない。その代り、バーズをはじめとして、ちょっと面白い音を出す興味を惹かれるバンドが決まってディランの歌を取り上げているので、「こいつは何かありそうだ」とは感じていた。ロックバンドの音を追いかけるのに忙しく、ディランの音楽まで聴く気まぐれは起こす余裕はなかったが。

 そんなある日、東京でフォークゲリラをやっている高校の先輩なる人が帰郷してきた。その辺の運動に興味を持っている友人に誘われ、その先輩の家に遊びに行ったのだが、そこで私はディランの音楽に初対面したのだった。

 先輩が彼のコレクションの中からまず聴かせてくれたのが、”ライク・ア・ローリングストーン”だった。
 予想したよりワイルドな音で感触は良かったのだが、レコード購入予定に入れるほどほれ込みはしなかった。私がその頃好んで聴いていたストーンズやアニマルズの音楽にあった禍々しい不良性が、ディランの音楽には感じられなかったのが大きいだろう。

 それにそもそも、その音楽のうちでもっともかっこよかったのはディランの歌声ではなく、アル・クーパーの弾く(と、後で知った)ハモンド・オルガンの響きだったのだし。

 その先輩の部屋には、モジリアニの展覧会のポスターが貼られ、いかにも「愛読書」といった感じで”都市の論理”なんて本が書棚に置かれ、”フォークリポート”やら”ガロ”なんて雑誌が積み上げられ、まだ会員制でしか手に入らなかったURCレコードの全種揃いがあり・・・というかそもそも彼がレコードをシングルではなくLP中心で持っている事実に圧倒された。先輩は、彼の戦ってきた学生運動の話を聞いて欲しそうだったが、我々はそんなものには興味はなかった。

 今思い返せば、その先輩氏はいかにも当時風のスノッブだった気がしてくるのだが、まだ純朴というかアホだった私は、「うん、こんな部屋に住むようなかっこいい人になりたいかも」などと志を持ったりもした。
 まあ当時、ディランのレコードが流れるのはそんな場所だった、というお話。文章が長くなるばかりで話がさっぱり進まないなあ。退屈だろうと思われるので、とりあえずここで中断しときます。

スイートルーム遊牧

2007-07-28 23:57:07 | イスラム世界


”Ensan Akthar” by Abdul Majeed Abdullah

 アラブの大富豪ネタのジョークの中で私が好きなのが。

 ”華のパリ~♪の超一流ホテルに宿泊した、あるアラブの富豪の一家。最上階の最高級スイートルームで旅装を解いた。
 彼らは部屋のど真ん中に砂漠で使うテントを張り、そして高価な絨毯の上に火をおこし、周囲に凄い匂いを撒き散らしながら羊の丸焼きを作り盛大にしてワイルドな晩餐を行なう。
 翌日、ひどい状態になった部屋の修繕費をポンと全額支払った彼らは、悠然と次の目的地に旅立つ”

 という話なんですが。いや、これは実話であって欲しい。

 高級ホテルの権威などハナから認めないアラブの民のマイペース振りが嬉しい、遊牧民の末裔たる誇りに溢れた良い話じゃあありませんか。
 そんな挿話が似合う音楽といったら、たとえばこのAbdullah氏のアルバムなど、いかがなもんでしょうか。

 いわゆるアラブ・ポップスの常道である扇情的なパーカッション群の響きに、怪しげに鳴り響くユニゾンのストリングスの音、といった世界が、一味も二味も奥行き深く展開されていて、さすがに”アラブの盟主”たるサウジアラビアのトップ・シンガーの自信作と唸らされます。

 イスラミックな旋律を奏でるストリングスの響きは、ここではいつものように圧倒的音圧ですべてを覆い尽くすのではなく、妖しげな気配を仄めかすにとどまる。上品な関西風薄味と申しましょうか。

 そしてその後に広がるのは重みのある、豊富なバリエーションを誇るリズム・パターンを駆使するパーカッション群。それらが描くアラブ音楽の豊饒です。
 まさに、ド~ンと広大なサウジアラビアの大地が目の前に広がるような雄大な音像の世界。ゴージャスであります。
 そして、ややハスキーながらも上品な美声の持ち主、Abdullah氏の歌声のむこうから伝わってくるのは、やはりアラブ文化の豊かさ。

 厚みのある文化を背にした者の余裕、優雅さ・・・でも、その背中合わせに、やっぱりワイルドな遊牧民の激情の血が潜んでいて、いつでも出番を待っている。
 一朝、事あれば高級ホテルのスイートルームで羊を屠り、丸焼きの一つもしてくれようという過剰な魂は、豊饒なサウンドと上品な語り口の歌声の裏側に脈々と生き続けている。

 その辺の優雅さとワイルドさのバランスが非常に魅力的な一枚なのであります。

ハワイアン・ミュージックへの断念

2007-07-27 05:28:33 | 太平洋地域


 ギャビー・パヒヌイ(1921~1980)

 雑誌広告に、「パニニ・レーベルからギャビー・パヒヌイをはじめとしたハワイ音楽の名盤各種がCD復刻」なんて書いてあって、なんだか「もういいよ」みたいな疲れた気分でそれを眺めてしまったのだった。
 そこに紹介されているアイテムのうち、ほとんどを私はかなり前に(もちろんアナログ盤時代に)手に入れ、そしていつの間にか手放してしまっている。”疲れた気分”というのはすなわち、ハワイ音楽へのある種の諦念のようなものだ。これらのアルバムはとうに聴き馴染み、そしてついに何も分からなかった、という・・・

 市民プールのBGM、くらいの認識しかなかったハワイアンを”探求する価値のある音楽”と認識させてくれたのは、ありがちな話ではあるが、ライ・クーダーの”チキン・スキン・ミュージック”だった。あのアルバムでスラックキー・ギターなるハワイ独特のオープン・チューニングのギターの弾き方を知り、巨匠、というかハワイ音楽中興の祖、ギャビーの存在を知った。

 その演奏に興味を惹かれてハワイ音楽のレコードを集め、と行きたいところだが、そうは行かなかった。ハワイの音楽などその辺に普通に転がっているだろうくらいに思っていたのに、たいした盤にお目にかかれない。売っている店自体に出会えない。読むべき解説書のタグイにも出会えず知識も深まっていないので、そもそも何を買えばいいのか、音楽の勘所はどこなのかなども分かっていなかったりもしたのだが。

 仕方がないので、ライ・クーダーとギャビーとのセッションアルバムや、ギャビーのソロ、あるいは所属していたバンドのアルバムなど数少ない獲物を繰り返し聴いてみるのだが、「なるほど良い感じの演奏だな」とは感じるものの、それ以上に踏み込めるものがない。”白熱のアドリブ合戦”とか”A民族とB民族、奇跡の文化混交”みたいな派手な見所聴き所があればまだしも、なのだが、そのような分かりやすいフックもなく、ハワイ音楽はただのどかに流れて行くばかり。

 出会いのはじめは目新しく思えたスラックキー・ギターも聴きなれてしまえば「どれを聴いてもただぼんやりとした響きがあるだけだなあ」との感想があるばかりなのだった。

 いや、突っ込んで聞けばそれなりのものがあるのだろうが、私にはその”音楽のシッポ”とでも言うべきものをついに掴むことができずに終わった。
 他の人はどうなんだろう?同じように”チキン・スキン・ミュージック”でハワイ音楽に興味を持った人は少なからずいるはずなのに、”その後の成果”を誇っている人に、あまり逢ったことはないのだが。

 まあ、他の人の事情はともかく、ギャビーのアルバム群はそんな私の、ついにものにできなかったハワイ音楽への敗北の記念碑みたいなもので、苦い思いばかりが残る代物なのだ。

 おかしいのは、私はそのくせして、たとえば日系2世のウクレレ名人、オータサンことハーブ・オオタの音楽が大好きだったりすることだ。
 オータサンの音楽はバンドのスタイルがハワイ音楽風だったりするけれども、その実態はウクレレを使ったジャズだったりイージー・リスニングだったりする。あるいはボサノバを演じてみたりの逸脱を繰り返している。全編、バッハをソロで演奏したアルバムさえある。

 そんなオータサンや、あるいは彼のスタイルのフォロワーたるウクレレ弾きたちの音楽を愛好することは、単にウクレレの音が好き、といった事情以外の何があるのか。
 ん、まあ、考えたって分からないことだろうな~。うん、もうハワイ音楽近辺に関してはあれこれ考えることはやめたの。ホイホイっと。


振り返らない街角

2007-07-26 06:22:55 | 音楽雑誌に物申す

 昨日のレココレ誌のベスト選話の続きでありますが。

 読者にベスト選考を募る応募要項の隣に、これは”回答例”って意味ででしょうかね、”ウッドストック・カフェ”なるお店の店長氏の選んだ”60~89年の間に発表されたロックのアルバム・ベスト20枚”が掲載されていたんだけど、そのセレクトに目を通した私は、うわ、これは凄いと、まことに申し訳ないながらも笑っちゃったのでありました。

 だってさあ、ベスト1がエリック・アンダーセンの”ブルー・リバー”で、その後に続くのがジャクソン・ブラウン、ニール・ヤング、ディランにバンド、ライ・クーダー、ジーン・クラーク、ボビー・チャールス、と、”70年代初頭のアメリカン・ルーツロック愛好会選定”もいいとこの世界がきっちり20アイテム、並べられていたからであります。

 もう、絵に描いたようなあまりにも典型的な例を挙げられると、思わず笑ってしまうってのはあるでしょう?そ、そりゃあんまりだ!そんなど真ん中の直球ってあるかい!と。

 まあ、何年かのずれはあるかもしれないが、この店長氏、私と同じ世代の人なんでしょう。私も70年代のはじめには、たとえば伝説のロック喫茶”ブラックホーク”に通いつめるなどして、これらの音楽に入れ込んでいた時期はありました、ハイ。そしてそれは忘れがたい素晴らしい時間ではあったんだけど・・・

 けど、この30年間のすべてを、あの数年間の思い出の中にってのもいかがなものかと。あれから後、音楽も、そして私たちも、それなりの人生を生きて来た、歴史を重ねてきたんじゃないの?

 そりゃまあ、パンクのセックスピストルズを”70年代のベスト1”としたレココレ誌の”公式見解”ってのももの凄くどうかと思う。
 で、この店長氏が今回、ベスト20選を発表するに至った契機となるのも、セックスピストルズのベスト1占拠(?)への反発があるようで、それには大いに同感できるんだけど、60年から89年の30年間の成果をピンポイントで70年代初頭のアメリカの一握りのミュージシャンに集約させるってのも、問題あるって意味ではいい勝負じゃないかなあ。

 けどまあ・・・こういう人って、いるんだろうな。私が想像するよりずっと多いのかもしれない。”あの時代だけが”と結論を出し、割り切ってしまえる人は、それなりに幸せなのかもね。
 けどねえ・・・私は、シンガーソングライターやらアメリカ南部サウンドに酔い痴れていた時代の思い出が素晴らしかったならなおさらのこと、そこからさらに一歩でも歩き出さなきゃしょうがないでしょ、と思うぞ。スモールタウン・トークは遠きにありて思うのもの、ってねえ。
 

ペットサウンズ現象

2007-07-25 04:06:33 | 音楽雑誌に物申す

 ここのところ何回か、ロックのベストやらジャズのベストやらを選出する、なんて祭りに合流して騒いできたわけですが。その震源地たるレココレ誌がついに、「あなたが選ぶ洋楽ロックアルバム」なんて企画を発表した。読者に各々のベスト20を選ばせて、その集計を行なうカタチでロックのベスト100を選出するのだそうな。またこれで一荒れあるか?(笑)

 応募規定を見ていて奇妙に感じられるのが、”1960年から1989年に発表されたロックアルバムの中から”とされている点。この30年間に限ることにどんな意味があるのかな?ロックンロールの誕生はさらに何年か前に遡ると思うんだが、それを切り捨てる事にどれほどの意味があるんだろうか?その一方、最近の10数年間も選考基準外とするのはなぜなんだろう?

 これまでのレココレ誌のベスト企画のように60年代、70年代、80年代と区切って発表してきたことにはそれなりの意味も効用もあったのだろうけど、今回のこの処置の意味は良く分からない。
 勘ぐらせてもらえば編集部に、今回の選者たる読者に対して深層心理のレベルで不信感があり、「どこかで縛りをかけないと、あいつらどんな無茶をやるか分からない」なんて形のない懸念が、なにごとかの”枠”を設ける事を欲し、”30年間に限る”とやらせたとか。

 いやほんと、何度考えても分からないね、この”30年間縛り”の理由は。特に時期を限らず、”オールタイム・ベスト”でいいんじゃないかと思うんだが。

 で、集計結果ってのは、よくあるロックの歴史の本にあるようになるのかなあ、やっぱり?単純に考えてみればビートルズとかがまず”基本”として入るわけでしょ?ストーンズもランクインだろうなあ。ハードロックの元祖としてツエッペリンとかは入るだろう。ディープパープルとかはどうなのか?あと、グラムロック関係でデヴィッド・ボウイとか。アメリカ方面はディランとザ・バンド関連かなあ。

 そのハザマに、リアルタイムじゃ誰も聴いていなかったくせに、まるで当時から名盤と認知されてきたかのような顔してビーチボーイズの”ペットサウンズ”あたりが入り込んで、一気に話はうさんくさい方へ。

 そういや、”後から追いかけたお勉強の結果の一票”と、”その音楽と同じ時代を生きた者の証言としての一票”が同居するってのはどうなの?これはちょっと意味が違うんではないか。と、ここまで考えて、自分がこの種の企画に感じる違和感がなんであったのか、判ったような気がした。

 勝手に”ペットサウンズ現象”とか名付けようか。こいつは、歴史が、あとの時代の人の都合で書き換えられてしまう事に対する、リアルタイマーとしての居心地の悪さの表明である。

 もう一回言うけど、発表された当時、日本のファンで”ペットサウンズ”を評価していた奴なんて、誰もいないんだからね。それがいつの間にか、”当時、我々はブライアンの目指した音楽の高みに驚嘆したのだった”とか、歴史の捏造が行なわれてしまう。
 一方、当時を知らない若いファンは、すでに勝負の終わったゲームの、その結果だけを見て「やっぱ、この辺は定番でしょう。早くデジリマ再発されないかな。当然、紙ジャケでね」とか言う、と。

 どうにかならんのか、と思うんだけどねえ。まあ、こんな風にして記憶は歴史に書き換わって行くのだろうけれども。と、もう完全に老人の慨嘆だなあ、これは。

九龍あたりのジャズの風

2007-07-23 01:32:28 | アジア


 ”迷”by Unique

 え~今、一枚のCDを聴いておりまして、ジャケを見ると片方の目ばかりが大写しになった女性の顔写真があり、”迷...Unique”の文字があります。私は最初、これがアルバムのタイトルなのかと思っていたんですが、どうやらこの”ユニーク”ってのが、香港人特有の英語名みたいですな。そう、これは香港の女性歌手、”ユニーク”嬢のCDであります。

 で、聴こえてくるのは、まあ、音楽的にはジャズです。黒のレザー・パンツに黒のTシャツ、長い黒髪をなびかせまして、英語中国語日本語入り乱れる落書きでいっぱいの香港の裏通りを歩む粋な姉さんである”ユニーク”女史は、香港随一のジャズ歌手であるわけですな。ジャケの解説文にも、「得がたきジャズの天才歌手である」とか書いてある。

 で、歌われる曲は”バードランドの子守唄”に始まりまして、”ミスティ”に”A列車で行こう”、ついには”ラウンド・ミッドナイト”へと、臆面もなく、といいたいくらい真正面な選曲であります。バックを受け持つピアノトリオ+ギターの中国人と英国人混成のバンドもなかなか達者な音で香港の夜をリードしております。

 アルバムの主人公、ユニーク嬢の歌いっぷりも、けだるげな歌唱にときおりシャバダバとスキャットなど織り交ぜまして、まずは堂々たる女性ジャズボーカルぶり。どうやら香港の小さなクラブにおけるものらしいライブ録音は、世界上どこでもジャズのライブが行なわれる現場では醸し出されるのであろう、らしい空気を万全に醸し出しているのでした。

 まあそれだけなら特にここで文章にしておこうとも思わないんですが、一箇所だけ彼女がまさに”ユニーク”なところがある。それは、それらジャズの大スタンダードナンバー群に彼女は自分で広東語の歌詞をつけ、歌っているんですな。

 おかげで、なにやらビミョ~な雰囲気が彼女の歌には漂ってしまっている。音楽的には、まったく普通の、ありがちな、常道を行くジャズなんですよ。今、私がしているように、文章を書くのに使っているノートパソコンのあんまり上質ともいえない再生装置で聴いていると、異常に気が付かずに聞き流してしまいかねない。でも、よく聞いてみると、これはやっぱり広東語のジャズなんですわ。

 コトダマとはよく言ったもので、その広東語詞の濃厚な響きは、ユニーク嬢のジャジーな節回しのむこうに、喧騒の香港の街のきらびやかなネオンの輝きや、その光の下で繰り広げられる香港人たちの人間ドラマの発する体温から匂いまで、余さず描き出してしまうのですな。音楽的には”ありがちなジャズボーカル”のままで。
 いや、可能ならそちらにまで聞かせに行きたいくらいですけどね、この奇妙な歌世界を。

 そんな事をユニーク嬢がすべて意図して行なったとは言いませんけどね。彼女はただ、好きなジャズ曲を自分の言葉で歌ってみたかっただけでしょう。そうすれば、香港の地でそれほど認知度が高いともいえないらしいジャズ音楽を取り巻く状況が、もう少し変わるのではないかとか、あるいは考えたのかもしれない。

 いやまあ、分かりませんけどね、それもこれも推察の域を出るものではない。私が彼女について知っているのは、気まぐれで購入したこのCD一枚がすべてで、この文章を書く上で下調べの検索をかけてみたけど、何も引っかかってこなかったしね。
 ただ、誰が歌ってもこんな具合の”効果”を醸し出すとは限らないだろうし、これも一つの才能なんではないかと。

 とか何とか言いながら裏ジャケを見ると、発売年度は1996年になっております、このCD。そうかあ。返還十年。香港が北京政府に”返還”される、それがもう目の前に迫っている頃に、このアルバムはリリースされたんですね。ユニーク嬢は今、どうしているんだろう?”ジャズ歌手”なんて微妙な存在にとって、政情の変化ってどんなもの?

 いやいや。その程度の社会の変化はいかにも香港人らしく図太くやり過ごし、今も何も変わらなかったような顔してジャズを歌ってるんでしょう、ユニーク嬢は。そう決めておきます。

Trav'lin' Light

2007-07-21 00:25:28 | 北アメリカ


 いつか放映されていた英会話学校か何かのコマーシャルに、

 先生「that's right!」
 生徒「それは明るい!」
 先生「?」

 というのがあったが、私にはあまりおおっぴらに笑えない理由がある。あ、何がおかしいかは、分かるよね。

 ”Trav'lin' Light ”は、ジャズ・ボーカルの大御所、ビリー・ホリディ(画像)の創唱になる佳曲で、男と別れた女性が一人気ままな旅に出る様を描いている。それまでいたものがいなくなってしまった喪失感と、厄介ごとから自由になった開放感とがない混ぜになったような、乾いた感傷が印象的な歌詞だ。
 彼女のバンドメンバーのペンによるメロディも、シンプルなフレーズの変奏を重ねた独特の構成で、あてどなく風に吹かれて行くような旅愁を、上手く表現している。邦題は”身軽な旅”とされているのを見たことがある。

 実は私、この”身軽な旅”って歌のタイトルを”旅する明かり”と長いこと解釈していた。どう勘違いしたかは、分かるよね。いや、その程度の英語の実力だ、放っておいてもらいたい。それはそれとして。
 まあでも、このイメージは悪くないと勝手に決めている。いつまでも夜の明ける事のない広漠たる大地があり、その薄明の街道などを、ちっぽけな明かりを手にした旅人が一人、また一人と、癒されることのない孤独を胸に、あてのない旅を続ける、そんなイメージ。

 この歌には奇妙な思い出がある。

 もう20年も前になるが、はるか年上の友人から借りた、戦後すぐに進駐軍巡りをしていた日本人バンドマンが使っていたというジャズの楽譜集をめくりながら、気まぐれに目に付いた曲を探り弾きしていたのだが。そのうちの一曲に強力なノスタルジーを感じ、オーバーな言い方をすれば電流を通されたような状態になった。
 「自分はこの曲を知っている。ほんの小さな子供の頃に、自分はこれを聴いている。しかもそれは、何か非常に悲しい出来事の背景に流れていたのだ」
 そんな確信があった。とは言え、いつ起こった、どのような事情に絡むものなのか、何も思い出せはしなかったのだが。
 子供の頃、私の生活環境に普通に存在していた、キャバレーなどに出ていたバンドマンたちに関わる何ごとかではないか、との漠然たる思いがあった。

 たとえば小学生の私が友人と路地でメンコなんかしているそばで、バンドマン同士が、抱え込んだ悩み事を話し合っている。それはその時の私のような幼い子供には理解の出来ない、ややこしい人間関係に関わることだ。あるいは、人間が背負わされた、どうにもならない過酷な運命に関する物語。
 私は、聴こえない振りをして遊びに興じながら、その話から耳をそらせずにいる。それは非常に悲しくやりきれない物語なのだが、そもそも話の全貌さえ理解できない子供の身、”楽器を演奏する職業のオニーチャンたち”の置かれた窮状に心を痛め、あるいはそのような現実が実在するという事実にショックを受けながらも、しかし、いかんともすることが出来ない。

 いや、本当にそんな場面があったのか、それさえも定かではないのだが、ともかくそんな場面に大きく関わりがあると確たる理由も無しに信じうる
、何ごとか心の古傷を微妙に刺激するメロディであったのだ、その曲は。
 「なんだ、この曲は?」と私は首をひねり、何度もそのメロディを弾いてみたが、胸中に正体不明の古びた姿をした感傷が湧き上がるばかりで、何ごとも明確なものは浮かび上がって来ない。そんな具合にして生まれた疑問は、今も正体不明のまま、なのだが。つまりそれが”Trav'lin' Light ”なる歌だったのであるが。

 その歌がどのような素性の歌であるのかなど、その時に調べたのだが、もちろん私の事情と絡むはずもなく。ただ、”旅する明かり”を燈しながらうら寂しい世界の果てまでも旅を続けるバンドマンたちのイメージが心の内に住み着くばかり。
 そういえば、あれら現実世界のバンドマンたちは、その後、どのような人生を歩んだのだろう?時代は変わり、生バンドの入ったキャバレーも次々に姿を消して、職場を追われた彼らは、いつの間にか私の生活圏から姿を消してしまったのだが。

 ”Trav'lin' Light ”の歌詞をビリー・ホリディは地方を演奏旅行中に書き、それに彼女のバックバンドのメンバーが曲を付けた。旅先で金に不自由していた彼らはその曲を、知り合いの小金持ちのミュージシャンに、二束三文の値で売り飛ばした。その曲への評価はだが、その後、非常に高いものとなり、ビリー本人が物故してからもずっと、歌の権利を買い取ったミュージシャンの懐に多大な著作権料をもたらし続けたという。まあ、そういうものだ。
 

私版・ロック・ファンの選ぶジャズ25枚

2007-07-19 02:45:09 | いわゆる日記


 そんなわけでただいま、やっと選出完了しました。mixiにおけるマイミク横断企画第2弾、”ロック・ファンの選ぶジャズ25枚”の我がセレクトであります。

 ワールドものばかり聞いている私がロックファンと言えるのかどうかがそもそも怪しいって話もあるのですが、もともとはロック好きとして音楽ファン稼業をはじめたんで、お許しいただきたい、と言うかなんと言うか。まあ、私の愛するジャズのアルバム25枚、どうかご覧ください。

1) Eric Dolphy / OUT TO LUNCH (1964) #写真
2) Thelonious Monk / SOLO MONK(1965) 
3) Charlie Parker / FIESTA(1952) 
4) John Coltrane & Johnny Hartman(1963)
5) Fats Waller / BEST OF ・・・
6) Johnny Griffin / THE KERRY DANCERS(1962)
7) Jimmy Smith / AT CLUB "BABY GRAND"1&2(1956)
8) Dollar Brand / AFRICAN PIANO(1969)
9) Chet Baker / SINGS(1956)
10) Paul Desmond / EASY LIVING(1965)
11) Art Farmer / TO SWEDEN WITH LOVE(1964)
12) J.J.Johnson / BLUE TROMBONE(1957)
13) 山下洋輔トリオ / MONTREUX AFTERGLOW(1976)
14) Sun Ra / THE HELIOCENTRIC WORLDS OF SUN RA 1&2(1965)
15) Ornette Coleman / CHAPPAQUA SUITE(1966)
16) Misha Mengelberg / WHO'S BRIDGE(1994)
17) Bill Evans with Jeremy Steig / WHAT'S NEW(1969)
18) Boby Enriquez / THE WILD MAN(1981)
19) Don Cherry / ETERNAL RHYTHM(1968)
20) Steve Lacy / THE FOREST AND THE ZOO(1966)
21) The Jazz Composer's Orchestra / COMMUNICATIONS #8~11(1968)
22) Herbie Mann / MEMPHIS UNDERGROUND(1968)
23) 渡辺貞夫 / ムバリ・アフリカ(1974)
24) Art Ensemble Of Chicago / URBAN BUSHMEN(1980)
25) Charlie Haden / LIBERATION MUSIC ORCHESTRA(1969)


 戦前の、ミュージシャンと言うよりジャズ芸人(もちろん褒め言葉!)とでも呼びたい5)ファッツ・ウォーラーから近代の前衛ジャズまで、脈絡は何もありませんが、私にすればごく素直に選んでの結果です。
 トップを争うドルフィとモンクの二人が、我が最愛のジャズマンと言えるのかなあ。

 3) は、巨人パーカーがラテン・ジャズというかアフロ・キューバンものばかりを楽しげに吹きまくっている一枚。こんなお気楽な歌心に溢れた奴も好きなんですよ。
 18)22)23)あたりは、そんなノーテンキな音楽を欲する我が嗜好が反映されております。まあ、細かいところを突っ込めばいろいろあるかも知れないけど、なんとなく流れ聴こえてくれば楽しくなれる、それでいいじゃないか、と。

 18)のフィリピンの怪人ピアニスト、ボビー・エンリケスなんか、今、どうしているんでしょう?リッチー・コールasのサイドメンとして来日した際、そのナイアガラ瀑布みたいな雄大なソロに度肝を抜かれたものでした。オスカー・ピーターソン発山下洋輔行きとでも言うのか。

 ボーカルものでナット・キング・コールを入れたかったんだけど、あれはジャズ歌手と言うより黒人のポップス歌手、というのが私の定義なんで、替わりに4) にジョニー・ハートマンを入れました。バラード集で当てた後で調子に乗る(?)コルトレーンを相棒に、”て~おんの魅力”で夜を愛しんでおります。
 あとは、10)11)なんかの、ちょっと小味の切ない感傷も捨てがたいですな。

 ロックを聴く上での”参考”として聴いてみたのが付き合いのはじめ。その後、私の音楽趣味の正面に出ると言うか、”一番好きな音楽”の座に着いた事はないんですが、かといって、一度も興味を失うこともなく今日まで来た不思議な相棒、ジャズ。何者なんでしょうねえ、こいつは・・・

日本のジャズ in 50'~60'(中途半端ですまん!)

2007-07-18 01:30:17 | いわゆる日記


 え~、昨日予告しました我が”ジャズ・ベスト25”ですが、どうも中途半端な結果となってしまいました。
 例の1)で提示した、”戦後のジャズブームの頃、地方の歓楽街で少年時代を送った者の記憶の中のジャズ”ってテーマなのですが。

 当時、まだガキだった私がバンドマン連中と一緒にレコード聴き狂っていたわけでもなし、盤の名など挙げられず。今の時点で後追いで彼等の好んでいた盤の名を並べても、それは単なる調査結果でしかないし。どうにもベスト25など並べようもなし。

 しょうがないから当時の空気を伝える日本のジャズベスト10など発表してお茶を濁させていただきます。明日にでも、本来の私にとっての”ジャズ・ベスト25”を発表させていただきます。2)になる訳ですかね。

 なお、下のリストは編集盤やら未発表発掘やらベストやらばかりなので発表年度は記してありませんが、録音はどれも1950年代の終わりから1960年代のはじめ頃とお考えください。個人的思い入れとしては、小粋なジャズコーラスグループ、”伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズ”のアルバムでも入れたかったところなのですが。


1)幻のモカンボセッション’54 by 守安祥太郎 秋吉敏子 渡辺貞夫 &・・・(写真)
2)ビッグ・フォア・プラス・ワン登場! by ジョージ川口&ビッグ4
3)銀巴里セッションJUNE 26,1963 by 高柳昌行と新世紀音楽研究所
4)松本英彦のモダン・ジャズ by 松本英彦
5)KING RE-JAZZ SWING: CHIEMI SINGS by 江利チエミ
6)ジャズ&スタンダード by 美空ひばり with 原信夫とシャープス・アンド・フラッツ
7)スタンダードを唄う by 弘田三枝子
8)クレージー シングルス by ハナ肇とクレージーキャッツ
9)オール・スター・ジャズ・イン by V.A.
10)可愛い花”by ザ・ピーナッツ(シングル)

 1)は、当時の日本ジャズ界のまさしく先頭を走っていた幻の天才ピアニスト守安の貴重なレコーディングが聴ける、これが凄い。まあ聴いてみてください。不幸な事件で夭折してしまった守安の激情に、あなたの感性をぶつけて欲しい。
 2)は、当時のジャズブームを牽引したスター・バンドの爆発を。
 3)は、まだ前衛音楽に踏み込む前の、リリカルかつエネルギッシュな高柳のギター・プレイが聴きものなのです。
 4)も、粋なジャズ・アルバムでした。
 5)6)7)と日本のジャズ・ボーカルを並べてみましたが、私としては江利チエミをもう一つ押したい気分です。再評価を促すって奴ですか。1963年の吹き込み当時、まだ16才の弘田三枝子のエネルギッシュな歌唱も良いですね。その後彼女はご存知のように歌謡曲の世界に行ってしまうのですが。
 8)は・・・当時、クレイジーはまだ、ステージで音楽ネタのコントとかやっていたのですね。当時の日本人は皆、それを愛していました。
 9)ですが。1957年度のスイング・ジャーナル誌の人気投票結果にもとずいて集めたメンバーにより吹き込まれた、お祭り的オムニバス作品。当時の音楽状況が分かり易いんで、下に曲目とアーティスト名をコピペします。ラテンの曲あり、戦前ネタあり、実験作あり、の混沌振りに注目。

1. アイ・ゲッド・アイディアス(南里文雄・ウィズ・原信夫とシャープス・アンド・フラッツ)
2. いとしのヴァレンタイン(伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズ)
3. ベサメ・ムーチョ(海老原啓一郎・ウィズ・原信夫とシャープス・アンド・フラッツ)
4. 私の彼氏(鈴木章治・ウィズ・原信夫とシャープス・アンド・フラッツ)
5. テンダリー(丸山清子・ウィズ・原信夫とシャープス・アンド・フラッツ)
6. ヴィブラフォン・ラプソディによるテーマ(平岡精二・ウィズ・原信夫とシャープス・アンド・フラッツ)
7. ベイシー氏エンジェルに会う(原信夫とシャープス・アンド・フラッツ)
8. 枯葉(松本英彦・ウィズ・原信夫とシャープス・アンド・フラッツ)
9. 夜も昼も(中村八大・ウィズ・原信夫とシャープス・アンド・フラッツ)
10. ラモーナ(河辺公一・ウィズ・原信夫とシャープス・アンド・フラッツ)
11. パリの四月(高柳昌行・ウィズ・原信夫とシャープス・アンド・フラッツ)
12. スペインの姫君(武井義明・ウィズ・原信夫とシャープス・アンド・フラッツ)
13. スウィート・スウ(鈴木章治とリズム・エース)
14. タキシコ(白木秀雄・ウィズ・原信夫とシャープス・アンド・フラッツ)

 10)筒井康隆がこの曲のヒットを、「自分の好みと世間の好みが一致した稀有な例」とかエッセイに書いておりましたが・・・まあ、この曲でリストを終わりたかったのであります、私としても。

 しかし、こうして10枚並べてみると、ほんとに瑞々しいといいますか、眩しい思いさえいたしますなあ。