ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

革命前のイランのサイケ

2013-01-08 04:25:54 | イスラム世界

 ”Funk,Psychedelia and Pop from the Iranian Pre-Revolution Generation”

 1970年代、革命前のイランで民衆に愛され、巷間に流布していた音楽の中から、とりわけサイケでファンクな色彩を放っていた作品が、アナログ盤やらカセットからピックアップされ、ここに登場した。
 一聴、当時のイランには世界各國から様々な文化が流入し、またイランの民衆も、それをたくましい胃袋で受け入れ、消化し、それらの影響下にカラフルな音楽文化を展開させていたことが理解できる。

 我々の感覚では70年代というより60年代末みたいに感じられる”サイケ”の芳香があちこちに漂い、怪しげな花を咲かせている。イスラム伝統文化と奇矯なサイケの試みとの出会い頭の混交。なんともファンキーな。
 聞いていると、なにやら失われてしまった夢の王国の音楽サンプル集が、どこでもない時間の中にぶら下がっている、かみたいに思えてきて、何やら哀しい。これらの音楽はもう、かの国からは失われてしまったのだ。



マラケッシュ超特急

2012-12-05 23:08:44 | イスラム世界

 ”Yed El Henna”by Fnaire

 とりあえず、ラップ嫌いでは人後に落ちない当方にとって、このようなジャケのCDを話題に取り上げるのは、まさに慚愧に耐えない、という気分なのであって。はい、お定まりの帽子にシャツ、せっかくの砂漠(?)をバックに、見飽きたポーズの三人衆であります。
 でもまあ、こいつらの風体を知る先に音を聴いて気に入っちゃったんで仕方ないな。こいつら、モロッコのヒップホップのグループだそうです。

 あれはいつだったかなあ、ワールド物に関して雑誌なんかでいろいろ発言している人たちがツイッターで、コンゴというかキンシャサの街のラップ状況に関するYou-tubeの画像をいくつも挙げ合って、「これ、カッコイイ!」とか盛り上がっているのに出会い、なんとも嫌な暗澹たる気分になったものだった。
 そこに挙げられた画像は、サウンドからファッションまでアメリカの黒人の猿真似のコンゴ人ラッパーが入れ替わり立ち代り持ち芸を演ずる、という代物だったのですな。もはやザイール川流域の風俗はニューヨークの下町と変わりませんてか。そりゃあ、めでたいこって。

 かってのアフリカ音楽の総本山キンシャサ。あの”都”の栄光を知るものとしては、情けなくて情けなくてねえ。当時、夢中になって聴いたものだったけどねえ。ルンバ・ロックとか、かっこよかったよねえ。
 ついでに言えば、そんなアフリカのラップで盛り上がっている人たち。某音楽雑誌のベスト・アルバム選にディランとかが十年一日の如く選ばれているのは納得できない!と異議を唱えている、その気持ちは支持したいけど、その一方、持ち上げるのがアフリカ人によるアメリカ音楽の愚劣な猿真似じゃ、どもならんだろうが。

 で、ここに挙げる連中は、そんな情けない猿真似ラップなんかじゃなく、ヒップホップの手法を創造のヒントとして、そのツールをモロッコの伝統音楽の構成要素できっちり埋め尽くしたもので、これは痛快なシロモノだったのだ。
 アラーの名が連呼される曲なんかはコンパクト版のカッワーリーみたいに聴こえなんでもないし(?)、日本の村祭りを彷彿とさせるサウンドが結果として出来上がってしまっている曲なんかも相当なファンタスティック。
 猿真似どころか、ここに新しい音楽ジャンルが出来つつあるんじゃないか。そんな期待さえ見えてくるような気がする。

 ヒップホップなる表現形態を、モロッコの土の伝統に、父祖より受け継がれる血の流れに帰還するよすがとして使い、ヒップホップより出てて、それよりもはるかに高みに至る。最高だね、こいつら。こんな連中ばかりなら、私もいちいちラップ小僧に腹立てずとも済むんだけどねえ。



カライブラヒムギル幻想館

2012-10-30 21:22:10 | イスラム世界

 ”Ben Buraya Ciplak Geldim”by Nil Karaibrahimgil

 ニル・カライブラヒムギルと読むんだそうです、この名前。トルコのぶっ飛びアイドル、Nil嬢の2012年新譜であります。いや、1976年生まれとのことで、アイドルとか”嬢”とか呼んでいる場合じゃないんですが、ジャケ写真や、その音楽性などから、あえてそう呼んでみたい気分なのですな。
 盤を回してみると、なるほど噂に聞いた通りの音楽遊園地ぶりで、嬉しくなってきます。その、トルコの各種伝統音楽を踏まえつつ微妙に脱線を繰り返し、果てしなくズッコケ続けて行く暴走の快感、これはクセになりそうだ。

 Nil嬢の、やや情緒不安定気味かと見えつつも崩れ落ちることなく、コケティッシュにしてリズミカルに狂って行くハスキーな歌声、これも魅力的であります。先に、伝統音楽を踏まえつつ、などと書きましたが、伝統楽器とエレクトロニクスの要素との混交もかっこよく決まっています。
 例えば3曲目に収められている、イスタンブールを歌った歌など、聳え立つ古きモスクの優美な姿の影から、不意にモクモクと今日的な狂気が飛び出し、風景のすべてを不吉な色に染め変えてしまう。そんな幻を呼ぶ手つきも鮮やか。このディープでアーシーな幻想館に一度囚われれば二度と出ること能わず。

まあ、さほど帰って来たいとも思えない現実世界だけれどもね。





エジプトの夜の標的

2012-10-27 22:44:05 | イスラム世界

 ”Aktar Men Ale Waqt”by Laila

 アラブ・ポップスの世界においては、まさに”今が旬”と言わんばかりのノリで攻勢を強める湾岸サウンド、”アルジール”の、天地を揺るがすようなポリリズム攻撃の快感にただ身を任せるばかりの私だったのだが、その間を突いてこんな具合にグッと重心を落として迫る一枚も出てくるのだから、アラブの音楽魔界はますます深い。
 エジプト出身の若手だとのこと。彼女、見た目もエロいが歌声も十分エロい。ジリジリと摺足で目標に迫る中世語りものの腕利きの刺客、なんてものを想起させる、地を這い回るようなテンポを落としたリズムに乗せて、官能的な、だが刺すような怜悧なものも内に秘めたライラ女史の歌声が発火する。

 うっかり親戚の法事の席の帰りに聴いてしまったせいか、このアルバムを支配するリズム、念仏のテンポと同じだよな、なんて思ってしまう。あるいはヤクザのタンカバイか。
 ともかく今のアラブ世界でこのテンポでジットリと迫る人は、あまりいないはずだ。何やら凶悪な(しかもセクシーな)ケモノに狙いを定められ追い詰められた気分。
 そのノリはアナログ盤の用語で言えばA面が終わり、B面に移ったところで一気に燃え上がる。リズムは一気にアップテンポとなり、狂おしく燃え上がるライラ女史の粘度の高い唄声は、そのまますべてを焼き尽くしてしまうのだった。

 初めて聴いたときは、「なんか地味だなあ」とか感じたものだったが、聴き返すたびに味わいが増し、奥行きが広がってゆくようで、これはすごいものに出会ってしまったかな、などと思ってみたり。




ハリージの月の下で

2012-09-19 23:16:43 | イスラム世界

 ”MJK”by HAIFA

 アラブのエッチの女王、とか言ったら叱られるのか。なんか世界の美女100人とか、その種の催しにもランクインしたとかで、かの地の男どもの煩悩を鷲掴み、みたいな存在らしいHaifa女史の、今年度最新盤の登場であります。
 このアルバムのジャケもまた、そんな欲望をジャストで刺激、みたいなエロいシロモノですが、気になるのは”MJK” なるタイトル。これ、”ミス・ユニバース”をアラビア語に訳した、その頭文字を拾ったものなんだそうで。もう、「恐れ入ったか!」みたいなものなんでしょうねえ。

 サウンドの方もそれにふさわしい甘美な性の妄想全開のアッハンウッフン・ボイスとピンク色に染まった脈うつ拍動の交錯する異世界の扉を開けんとする代物。
 けど私には、なにやらスペースもののアラブ歌謡の新境地なんて聴き方もできるなあ、なんて思えても来るのです。
 あまりディープに泥臭くならない打ち込みのリズムがカチカチと脈打ち、シャカシャカとシュワシュワと、これも濃厚になり過ぎないギターやシンセの、夜空を浮遊するようなフレーズが夢の淵をなぞるように、Haifa女史の甘美な歌声を縁どって行く。

 そもそもがことのほか暑苦しいこの夏の夜であります。シリアスなワールド・ミュージックのファンの方からはもしかしたら、あまり民俗臭が強くなくて物足りないとのご意見もあるやも知れませんが、私などは、そこが逆に快いと思える。ここで聴かれるサウンドの現実感の無さがね。
 で、その現実感のないものを無理やり存在させてしまうのが、その音楽のうちに立ち込める性的妄想という、それはもう抗い難い代物であります。
 
 どんなものでしょうねえ、夏の夕暮れ、恋人のことなど想いながら見上げるアラブ世界のお月様、なんてえものは。



ウズベクの施餓鬼の夜に

2012-08-23 03:49:23 | イスラム世界

 ”Tortadur”by Severa Nazarikhan

 Severa Nazarikhan。ウズベキスタンの歌姫とのこと。
 その、ややくすんだ、内に沈み込むような語り口は、吹きすさぶ砂嵐と広大に開けた不毛の荒野などの様々な歴史物語の場面場面を想起させ、こちらの中央アジア幻想気分を駆り立てるようだ。
 すでに著名英国人ミュージシャンのプロデュースによるワールドミュージック・チックな派手なサウンドの盤を何枚か世に問うてきたらしいが、当方、彼女はこの盤が初対面にて、それらは未聴。こちらの盤はドタール、タンブーラといった現地の民俗楽器のみが使われた地味な音作りの作品である。自らのルーツを振り返ってみた作、なのだろうか。

 古き伝承歌の調べに乗せて歌われている歌詞は古代の歌謡詞から宗教詞、はては近代にいたり、反ロシア思想詞まで多様のようだが、もちろん言葉を知らぬこちらには理解できるものではなし。
 しかし、そのサウンドや歌われるメロディ、その節回しのはるかな懐かしさ、こちらの感性にぴったり来具合はどうだろう。おそらくこれがウズベクの民族歌謡のオリジナルの姿なのだろうが。

 収められているのはどれも、しっとりとした情感を湛えたスローな語りもの、とでもいいたくなる内省的な歌唱ばかりなのだが、そのマイナー・キーのメロディのひっそりとした響きが、なんとも五木の子守歌というか、子供の頃に祖母の膝の上で聴かされたものと解釈したくなるような不思議な懐かしさに溢れたものなのである。
 このような旋律が古来より遠い中央アジアの地で歌い継がれてきたのかと思うと、果てしない時間と空間を隔てた人々に寄せる恋慕の感情に近いものが身を切り裂いて行くのを感じる。

 ハラカラよ、ハラカラよ!あれから本当に長い時が流れたが、元気でいたか。そちらにもこちらにも、それは取り戻すこともかなわぬ、長い長い旅だった・・・

 ウズベクの伝統楽器たちが織り成すサウンドは、茫獏と広がる夜の闇に溶けて行くような神秘の響きがある。それはしかし、我々には見慣れた、同じ手触りのビロードの漆黒を連想させはしないか。
 このバックのサウンド、稲川淳二の怪談のバックに流したら素晴らしい効果を産むんではないか、などと夢想してみる夜。酷暑の夏はアジアをジットリと覆い、惰眠を貪る。



ペルシャの夜を遠く離れて

2012-07-20 02:14:23 | イスラム世界


 ”I WILL NOT STAND ALONE”by KAYHAN KALHOR

 とりあえずワールド・ミュージックのファンをやっているのだが、各国の民俗音楽とか古典音楽とかには、あまリ興味は持てないのだった。時間の流れから隔離されて博物館に陳列されているような音楽を退屈こらえて聴いているよりも、各国の生きのよい流行り歌、港々の歌謡曲に、同時代を生きるものとして共鳴したい。
 この盤はイランの民族楽器、カマンチェの奏者による古典音楽ということで、まあ、いつもの私ならスルーする筈の物件なのだが。これが不覚にも、というのも変だが、試しに聞いてみたら一発で引き込まれ、ついにはCDを手に入れてなんども聞き返す羽目となったのだった。

 カマンチェというのは、床に対して垂直に立て、弓弾きする胡弓タイプの撥弦楽器であり、今回は特に倍音成分の多い豊かな音色が出るように調整された特別な楽器を使っているという。伴奏には、チター系、と言えばいいのだろうか、これも従来のものより弦の数を増やし、低音域を充実させたものが使われている。
 この二つの楽器が濃密に絡み合う演奏を聴かせて行くのだが、なにやら深く静かな悲しみの感情の表出に、それこそ同時代的に共感してしまった私なのだった。
 二つの楽器の対話メインで構成されている演奏だから、当然、音の隙間の多い演奏となるのだが、その隙間にビロードの手触りの夜が存在している。

 二つの楽器とその奏者たちを囲んでシンと静まり返り、どこまでも広がっている濃厚な夜の気配があり、その暗闇を探ろうと伸ばされる、音の触手がある。音は凛としたテンションを保ちつつ、殷々と啜り泣く。アルバムタイトルは、なにかの逆説であろうか。むしろ永遠に埋められるとこのない人間の普遍的な孤独への嘆きが、この盤一杯に敷き詰められているのだから。
 全てはオリジナル曲、とはいえペルシャの古典音楽の形式にのっとって書かれたこの音楽が、全く同時代のものとして切実にこちらの胸に響くのは、なんとも不思議な気分。これはこの盤の主人公、カイハン・カルホールの資質によるものなのか、こちらが胸襟を開けば、本来古典音楽もこのように楽しめるものなのか。それはまだ、よくわからずにいる。



ギターのオマール

2012-07-13 02:49:34 | イスラム世界

 ”Guitar El Chark”by Omar Khorshid

 1970年代半ばの数年間、「アラブ世界にエレキギターを持ち込んだらどうなるか?」という趣旨の様々な音楽的冒険を繰り広げた男の途方もない足跡が2枚組のCDとなって、ここにある。
 いやほんとにおそらくはじめは、「ウードのフレーズを、このエレキギターなるナウい代物で弾いてみたら面白いんじゃないか」というイタズラ心から始まったんではないかと想像するのだが、その後に展開された世界は・・・

 粋でいなせな60年代エレキバンド風のスタイルから、ホテルのサパークラブ・タッチの甘々なエコーだらけのムーディな一夜を、一気に飛んでプログレ紛いの複雑怪奇な迷宮の構築までと、聴いて行くと頭がクラクラするような世界が広がっているのだった。何やらとてつもないスケールの創造力の持ち主だったようだ、このエジプト人は。

 アコーディオンの伝統的プレーヤーと組み、華麗なアラブ音楽絵巻を繰り広げるかと思えば、チュニジアのトラッドをサカナに、まさにプログレバンドかと見まごう狂躁世界を描く。この振り幅の凄さ。そいつをまさに”カミソリ”の切れ味のピッキングで弾き倒してみせた彼だった。
 エンリコ・マシアスの「ソレンツァラ」など取り上げているのは、もともとがアラブ・ルーツであるマシアスへの共感をこめてなのか、それともあの曲自体、アラブ世界でもお馴染みの”流行歌”だったのか。

 ライナーなど読む限りでは彼の音楽は、アラブの庶民の日常生活の様々な場面で、まさに使い慣れた道具、通いなれた道、くらいの気安さで愛されていたようだ。そんな彼の音楽が人肌の距離感で鳴り響いていたアラブの街角を想像すると、なにやら血が熱くなってくるようだ。
 そんな彼、オマールが、まったく納得しがたい形で若くしてこの世を去らねばならなかったのは、実に口惜しい出来事と言うしかないのだった。



アトラスの風吹きて

2012-06-04 06:05:47 | イスラム世界

 ”Rou7 ”by Asma Lmnawar

 民族打楽器の打ち出す野太いリズムの提示から始まる。モロッコの人気女性歌手とか。

 あの、砂漠の嵐にさらされ乾ききったみたいな、モロッコ特有のハードボイルドな変則リズムが、ひりつくような手触りで聴く者の魂を炒り立ててくる。そんなビートをど真ん中に置きつつの湾岸歌謡。アトラス山脈作法の脈打つリズムの上に流れる、湾岸風妖しげなユニゾン・ストリングスの響き。

 いかにも北アフリカらしいハスキーな、荒々しくも扇情的な歌声を突きつけてくる、Asma Lmnawar女史。不意に吹き鳴らされる民族管楽器の合奏と、ワイルドな女声コーラス陣の掛け声が、野生の血の騒ぎをあからさまに突きつける。

 マグレブ世界の涯からアラブ歌謡本流に裸足で殴り込んだ、みたいな人騒がせな存在感がなんとも痛快な歌い手だ。今後もガシガシ行って欲しい。



奴はアラブの伊達男

2012-05-21 02:58:21 | イスラム世界

 ”Abdelhalim Hafez”

 ともかく冒頭の曲の出だしで、あのアラブ独特のユニゾンのストリングス・オーケストラが、スタンダード・ナンバー「煙が目にしみる」のメロディをアラブ風に様々に変奏しながら曲を展開して行く、その有り様に度肝を抜かれた。
 アラブの伝統的歌謡のスタイルの合間に、明らかにアメリカのミュージカル映画の影響であろう、西欧世界風に洗練されたオーケストレイションが堂々と顔を出し、ホテルのラウンジが似合いのカクテルピアノが華麗なソロを取る。うわあ、こんなんありかよ。

 当時はそんな映画もアラブの民衆に普通に享受され、人気を博していたのだろう、今日のように西欧世界とアラブ世界がこじれきった関係になる以前の、まだまだのどかだった時代の空気がここにうかがえる。
 1950年代のエジプトはカイロにおけるデビューから、70年代の半ばに早世するまで、アラブ世界の大衆歌謡に粋な二枚目のクルーナー歌手として君臨した男の、その生涯を振り返る2枚組のCDの登場である。
 これが歴史の裏面に息付く庶民の様々な喜怒哀楽の様相を生々しく伝えてくれて、非常に興味深いのだった。ベタな二枚目として俗塵を被って生きた人の評伝であるがこそ、刻まれたリアルな歴史の相貌。

 そのボーカル・スタイルも濃厚なアラブ色を漂わせるものではなく、その時点でのインターナショナルな二枚目のイメージに準拠したナチュラルな響きの青春スターの歌声が響く。クセのない歌唱法のまま廻されるイスラミックなコブシが妙に新鮮に感じられ、なにやらかっこよくも感じられてくる。
 また、その音楽志向の中に紛れ込んだ”西欧世界の視点から見たアラブ世界のエキゾティックさ”が、”本物のアラブ音楽表現”とないまぜになり、展開される、その危うい美しさよ。

 まさに”大衆音楽の真実”がてんこ盛りで光り輝き、生き生きと呼吸をしている一枚なのであった。それにしても下に貼った画像、”若大将映画”というものは洋の東西を問わず、どこに行ってもこういうノリなのだなと・・・