ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

星へのきざはし

2006-12-31 02:19:25 | ものがたり


 星へ通ずる小道はいつも、変哲もない裏通りのさらに横道、そんな場所にひっそりと存在している。
 私の町で言えば、市街地を抜けた国道が大きく曲がって海沿いの崖の上に向かって伸びて行くあのあたり、もう使われていない倉庫や、住む者もなく朽ち果てるにまかされた家々が立ち並ぶ淋しい通りの裏にあるのだが、知る人はもちろん少ない。

 まるで近所の銭湯にでも出かけるようなサンダル穿きでその通りを歩いてみれば、ほんの一筋裏に入っただけなのに、国道の喧騒は気配も伝わらず、いつもシンと静まり、人影もない。小道は働き者のオヤジがいつまでも元気な、あの布団屋の自宅である、大きな庭のある日本家屋と、東京の大会社の社長の別宅であるとか聞く、生垣に囲まれた古い洋館との間に、緩やかな傾斜を持って裏山に続いている。
 小道に踏み込み緩やかな坂を登って行けば、道の片側に、ゲームセンターで使われるタイプの大振りなゲーム機が何台も何台も放棄されているのが見える。どれもかなり古い形式のものである。どのような事情でそんな場所に捨てられたのかは分からない。

 バブル期に建てられた、入居者がいるのやらどうやら、いつみても閑散とした感じのマンションが曲がり角の先に唐突に巨大な姿を現したり、まるで中世の古城のような奇矯なデザインの一戸建てを見つけて怪しんで表札を検めれば、高名な建築家の別荘であることに驚かされたりする。そんな風に道は続いている。
 道は、ゆるゆると曲がりくねりながら裏山を縫って登って行く。次第に道の両側に家屋も少なくなり、雑木林がその層を厚くして行くばかりである。木々の間からときおり町の姿が、意外なほど下の方に広がっているのが見える。

 喉の渇きに、道端の自販機に寄って清涼飲料を求めようとするが、収められている缶入り飲料はどれもその表面に記された文字が見たこともない、もちろん判読の仕様のないものばかりであり、困惑させられる羽目になる。何とか見当をつけて購入してみると、不思議な文字が記された缶にふさわしい、奇妙な飲み心地のものである。それでも良く冷えた水分を取ったことで、それなりに生気を取り戻すことは叶い、再び道を登って行く事となる。

 どれほど歩いたろう、気がつけば足は地面を踏んでいない。何もない空間を、中空をただ歩き続けている自分である。裏山は、いつのまにか足下遠くに広がる箱庭の如くであり、そのさらに遠くに、もはやジオラマと化した町の風景がある。広がっていた青空はすっかり漆黒へと変化し、星々の輝きはすぐ傍、まるで手を伸ばせば届くかと思われるほど近くに感じられる。やがて地球は、暗い中空に浮かぶ一個の球体に過ぎなくなる。

 歩き続ける。あるいは星々の生成を見、あるいは凍りついた永遠の時を見る。歩き続けて、やがて一つの惑星に下る小道を辿る事となる。
 その日、星は祭りだ。輝く青空の下で紅い幟、青い幟が風にはためき、ときおり花火が打ち上げられる音が響く。星の人々は、こちらが外界からの客であろうと気にする気配もなく魚の言葉で話しかけ、笑いかけて来る。風は涼やかで、すべてが幸運に包まれていることを示す感触が空気を充たしている。

 時はいつか過ぎ、ふと、あの星への小道の登り口に立っている自分に気がつくこととなる。星で過ごした時と、自分が帰り着いた時との矛盾は、いつものことである。星へ旅立ってから、数年後に小道に帰る場合もあれば、星への旅に立つ数日前に帰り着いてしまった例もある。この場合は、まだ旅立つ前の自分自身と間の悪い邂逅をしてしまう事となる。
 いずれにせよ、星々への旅に出るなら徒歩に限る。ただ、あなたが星へ向かう小道を見つけることが出来ればの話ではあるのだが。



銀座ACB、1968年・冬

2006-12-30 01:54:14 | 60~70年代音楽


 ACB、と書いて「アシベ」と読む。グル-プサウンズがブ-ムだった頃には、その生演奏に接することの出来る店があちこちにあり、それらは「ジャズ喫茶」と呼ばれていた。「ジャズのレコ-ドを聞く場所」と、名称としてはごっちゃだが、誰も気にしてはいなかった。今でいうライブハウス、と言ってしまうとどこかニュアンスが違うような気もする。もっと「芸能界」っぽい匂いがあった。芸能大手プロダクション系列の経営が多かったのかも知れない。
 名称から察するに、戦後すぐのジャズブ-ムの際に生まれ、そのままロカビリ-・ブ-ム、GSブ-ムと、洋楽指向の日本のバンドの最前線の現場として受け継がれていったのだろう。マスコミが「今日の奇矯な若者風俗」を取り上げる場合、客席で熱狂する女の子たちの様子とコミで、そこにおける「青春スタ-」たちのステ-ジ写真を添えるのが、まあ、当時の定番だった。

 東京の銀座ACBは、その本家みたいな存在で、新宿ACBというのもあった…ような気がする。ジャズ喫茶チェ-ン店「ACBグル-プ」が存在していたのだ。あのタイガ-スなども、確か大阪のACBに出演していた際に内田裕也オヤブンに見いだされ、デビュ-のきっかけをつかんでいる。

 あれは1968年のクリスマスも近い頃と記憶しているが、当時、そこら辺のガキだった私は、東京のイトコの家に遊びに行ったついでに、その銀座ACBを覗いてみたことがある。

 妙に天井の高い、が、それ以外は単なる普通の喫茶店だな、というのが第一印象だった。思っていたより古び、薄汚れた感じだな、とも感じた。店の片側に、不自然なくらい高くそびえ立った、円筒形のステ-ジがあった。(立ち上がった状態の、私の肩より高かった)あるいは2階席があったのかも知れないが、その時には気がつかなかった。8分の入りくらいで、席を探す必要もなかった。

 ステ-ジは、まず、店のハウスバンド?の演奏で始まり、全体の司会も兼ねるそのバンドのボ-カル氏に呼び出される形で、その日の出演バンドが登場する仕組みになっていた。今思えば、その「座付きバンド」は、演奏はそつがないが花もなく、陽の当たるチャンスもないまま、とうにアイドル年齢は過ぎていた、みたいな哀愁があってなかなかイイ味を出していたのだが、もちろんバンド名なんか覚えていない。

 私が行った日の出演バンドは、491とジャガ-ズだった。491について説明の必要があるかどうか分からないが、フォ-・ナイン・エ-スと読み、GS時代のジョ-山中の在籍バンドだ。と言って、期待を抱かせてしまったとしたら申し訳ない。ジョ-は、というより491というバンド自体、特に光るものを感じさせるバンドではなかった。(その日は、なのか、その日も、なのかは分からないが)バンドのユニフォ-ムである白いス-ツに七三分けサラリ-マン髪形でシャウトするジョ-の姿だけは記憶に残っているのだが。491のシングル曲なんて知らないし、それ以外にやったのは地味なR&Bのカヴァ-ばかりで、盛り上がりようがなかった、という事情もあったが、客席の反応も、冷やかなものだった。

 そういえば、忘れないうちに書いておくが、当時、私は、主に2流のGSのライブを幾つか見ているのだが、どのバンドも、ライブでやる外国曲のカヴァ-は、ロックよりもR&Bネタの方が多かった気がする。この傾向はカップスばかりではなかったのだ。タイガ-スとかテンプタ-ズとかの「一流の」バンドはどうだったのか、見たことがないので分からないが。

 491のパッとしないステ-ジが終わり(ヤバイなあ、ジョ-、読まないだろうなあ、この文章)、バンドチェンジの際、近々レコ-ドデビュ-すると言う女の子の歌手が「本日の特別ゲスト」として出てきて、座付きバンドをバックに「いかにも歌謡曲」な歌を歌った。この辺が、今日のライブハウスと違う「芸能臭」が漂うところだな。バンドの演奏の慣れ具合から、彼女が向こう一ヵ月位の間、連日、この店で「本日の特別ゲスト」を勤めて来ただろう事は、想像に難くなかった。更に1曲、当時流行っていた「サマ-ワイン」を、バンドのボ-カル氏とデュエットで歌ったが、彼女は、それだけ覚えているらしい1コ-ラス目の歌詞を、2コ-ラス目も3コ-ラス目も繰り返し歌っていた。うら寂しい光景だった。

 短い中休みをはさんでジャガ-ズ。やはりヒット曲のあるバンドの華やぎを、そこそこ感じさせつつの登場。しかし意外にも、と言うべきか、客席の冷やかな反応は491の時と大した変わりはなかった。そして私の関心も、演奏自体よりメンバ-の持っている楽器に向かっていた。「おお、本物のリッケンパッカ-だ!」などと。それは、彼等が私にとって、特に思い入れのあるバンドでなかったせいもあるが、なんというか、彼等の演奏自体も、客席の温度の低さに呼応するように、とりあえず予定をこなしただけと言うか、あまり熱の感じられないものではあったのだ。

 演奏はそのまま、ヒット曲にR&Bカヴァ-(彼らもだ!)を取り混ぜて淡々と進み、そして終わった。数人のファンの女の子がステ-ジ下に行き、飛び跳ねながら(なにしろステ-ジは高い位置にある)去りかけるメンバ-に握手やらサインやらをねだっていたが、ほとんどの客は、三々五々、特に感動も無さそうに席を立ち、出口へ向かった。

 まあ、私のその日の目的は「あのACB」をこの目で見ることだったので、十分目的は果たした筈だったのだが、妙な割り切れなさが残った。だって、491はともかく、「若さゆえ~」のジャガ-ズと言えば、GSとしてはビッグネ-ムなんじゃないのか?にもかかわらず、あの「現場」の、ヒンヤリした空気はなんだ?オトナたちに顰蹙を買っているはずの「GSに熱狂する頭のおかしいムスメたち」は、どこへ行った?「八分の入り」の客席はなんだ?ステ-ジ上のメンバ-に飛びつこうとするのが「数人の女の子」でいいのか?

 1968年といえば、例えばタイガ-ズの「君だけに愛を」や、テンプタ-ズの「エメラルドの伝説」「純愛」オックスの「スワンの涙」等々の、GSを象徴するようなヒット曲が大量に生まれた年であり、ついでにいえばカップスだってこの年にデビュ-しているのだ。そんなレコ-ドのリリ-ス状況、売れ行き状況だけ見れば、豊作といえる年だった筈だ。

 私は恐らく、GSブ-ム退潮の、最初の波の一つに立ち合ったのではないか。変わらず全国に吹き荒れているかに見えた「GSの嵐」も、その時、「ジャズ喫茶」という最先鋭の場では、もはや女の子たちの興味の中心からは外れ始めていた。都市の奥深くで発生した「ヒップな現象」(それの源流の多くは、都市辺縁部やら本当のイナカであったりするのだが)が、商業化しつつ、始めは無関心だったイナカ方面へ支持を広げ、やがて全国的な流行現象としてビッグ・ビジネスと成り上がる、が、その頃、実はその現象の発生源、根っこの部分はすでに腐り始め、シ-ン全体の崩壊への序曲が奏でられている。あの日私が見たのは、そんな現場だったのだろう。

 良いものを見た、ある意味では。と、思う。そして、明けて69年、GSの終焉は予感から現実へとなって行くのだが。


少年の朝

2006-12-29 02:45:16 | ものがたり

 あ、僕の配達受け持ち地区ですか?河出町から山鳴町までです。はい、自転車で配達するにはずいぶん広いですが、お給料をたくさんいただくためにはね!
 はい、父は交通事故で亡くなりました。母もその前から病いがちで寝たきりです。父が亡くなった後、お金がなくて、僕等一家はすぐに家賃を払うのにも困りました。困っている僕たちを見かねた、近所の親切なおじさんが紹介してくれたのが、このエロ乳配達のお仕事なんです。
 ええ、エロ乳を配った後は学校がありますし、すごく眠いですけど、病気の母をお医者様に診せる費用も必要ですし、弟と妹も小学校にやらなければなりません。中学生の僕が頑張らなくちゃ、そう思うとモリモリ力が湧いて来ますよ。
 それに、毎朝玄関の前にご夫婦揃って全裸で立って、僕がエロ乳を配るのを待っていてくれる、たくさんのお得意様たちを見ると、疲れも眠気もふっ飛びますよ!
 あの通りの向こうのヤマガキさん、僕がエロ乳のビンを差し出すと、その場で一息に飲み干してくれるんですよ。すると、それまでうなだれていたヤマガキさんのチンコが、一瞬にしてピーン!と勃起するんです。朝の澄み切った空気の中で湯気をあげて大きくなるヤマガキさんのチンコ、見せてあげたいなあ。
 この仕事をやっていて一番嬉しいのは、そんな風に皆に喜んでもらえた時ですね!弱音なんて吐いてはいられませんよ。
 さあ、僕はもうひとっ走りエロ乳配達をしなければならないんで、これで失礼します。

@テーマソング

僕のあだ名を知ってるかい? エロ乳太郎というんだぜ
エロ乳配って もう三月 雨や嵐にゃ慣れたけど
やっぱり朝には チンコ立つ~~~♪

すまんm(__)m



アイラ・ヘイズのバラッド

2006-12-28 04:11:23 | 北アメリカ


 ”The Ballad Of Ira Hayes ”by PETER LAFARGE

 昨日書いたと同じ”第2次世界大戦に米軍兵士として参加するアメリカ先住民”ネタとして思い出さずにはいられなかったのが、60年代、ピーター・ラファージというシンガー・ソングライターが創唱した、”アイラ・ヘイズのバラッド”だった。

 戦場で武勲を立て勲章を得てヒーローとなる、アメリカ先住民の兵士、アイラ・ヘイズ。
 だが、戦争が終わり故郷へ帰ると、彼はそれ以前と同じ、アメリカ社会では疎外された少数民族の一人でしかなかった。望んだような職も得られず、いつしか酒におぼれて現世を忘れようと努めるようになる。
 そしてある朝、泥酔した挙句にアイラ・ヘイズは溝にはまって息絶えていた、そんな歌である。

 現実はそのようなものだろう。昨夜、論じた映画、「ウインドトーカーズ」に出てくるような”不思議な魔法を操る、愛すべき、妖精のごときアメリカ先住民”なんて扱いが絵空事であること、考えなくとも想像は付く。

 ピーター・ラファージのアルバムは昔々、シンガー・ソングライターの音楽が興味の中心だった頃に手に入れ、聞いてみたことがある。が、アメリカ先住民の血を引く歌手のアルバムというので、その民族色豊かな世界を期待していたのに、さほどその色は強くなく、60年代の平均的なアメリカの”フォークシンガー”としか感じられず、拍子抜けしてしまって、すぐに手放してしまったのだった。(ちなみにラファージは60年代、何枚かのアルバムを世に問うた後、その才能を期待されながらも事故で夭折している)

 彼と同じく、アメリカ先住民の血を引くシンガー・ソングライターとしては、同じく60年代から70年代にかけて活躍した、パトリック・スカイなどという人も思い出される。彼もまた、60年代のグリニッジ・ヴィレッジ色というか、当時のアメリカン・フォークの土壌の中でその音楽を展開した人で、先住民色はまるで感じさせはしなかったものだ。

 その一方で奇妙なビブラートを効かせた歌い振りで印象に残っている、バフィ・セントメリーなどという”先住民系シンガーソングライター”もいたのだが、こちらは逆にその音楽の神秘めかした手触りが私にはわざとらしく感じられてしまい、こちらも逆方向で好きになれなかったものだ。

 その他、民俗音楽としてのアメリカ先住民の音楽という奴も、興味を持っていくつかを聴いてはみたのだが、どれもなんだか昔ながらのウエスタン映画に出てくる”アメリカ・インディアンの音楽”を想起させる神秘めかした感じの太鼓のリズムや笛の音などばかりで、あまり面白いものではなかった。私の選んだサンプルが悪かったのだと信じたいが。

 先に挙げた”先住民系フォークシンガー”たちの仕事があまりはかばかしいものではなく、一方、民俗音楽系もまたそのような具合であること。これは、かのアメリカ合衆国の先住民たる彼らの蒙った社会的抑圧が彼らの文化をも押しつぶしてしまった結果とも思え、なんだか寒々しい気分になってくるのだが。この印象は私の、彼らの音楽に関しての無知ゆえから来ていると信じたいのだが・・・
 
 付記。ちなみに、ラファージが歌にした「第2次世界大戦中にアイラ・ヘイズが立てた武勲」とは、現在クリント・イーストウッドの映画で話題になっている”硫黄島”でアメリカ国旗を戦勝の証に丘に突き立てた、あの兵士のうちの一人だったことであるそうな。




欺瞞セッションatマリアナ

2006-12-27 05:07:44 | いわゆる日記


 今、深夜のテレビで「ウインドトーカーズ」なんて映画が始まっていたんで、なんとなく見ていたんだけど、こりゃひどい代物でしたな。ジョン・ウー監督、ニコラス・ケイジ主演。
 第2次世界大戦におけるマリアナ諸島攻防を扱った戦争映画なんだけど、ともかくうさんくさい。

 その戦闘においてアメリカ先住民のナバホ族の言葉が通信時の暗号として効力を発揮したという、まあ、ほんとかどうか知りませんが史実に元ずき、アメリカ軍の中にナバホの兵士がいるわけです。で、何かというと、そのアメリカ大陸先住民の”精神性”が取り上げられる。こいつが見せ所みたいだ、どうやら。

 頻繁にナバホ族の祈りのシーンが映し出されたり、それだけではアメリカ映画における”白人優位”が揺らいでしまうからでしょうか、白人の主人公が戦場で負った心の傷が意味ありげに強調されるんだが、こいつもいかにもとって付けた風でうそ臭い。

 ついには、作品中に頻繁に響き渡る、ナバホの民族楽器らしい縦笛と、白人兵士の吹くハーモニカが、両者の魂の交歓を表現してるんでしょうなあ、共に演奏されるシーンなんてのは気持ち悪くて鳥肌が立ちましたね。

 監督のジョン・ウーってのは香港映画からハリウッドへスカウトされた監督のようだけど、こいつも食えない奴だなあ。今、その人となりを知るために検索かけてみたんだけど、アクション・シーンに鳩を飛ばして、「平和への祈りを込めたのだ」とか主張しているらしい。そんな安易なおためごかしってあるかい。

 結局はアクションが売りの戦争活劇のくせして、何を思わせぶりをやっているんだかなあ。こんなものに最近の観客ってのはコロッと騙されちゃって、簡単に感動とかしてしまうんだろうか。情けない話であります。
 で、最後には戦場の友情やら持ち出して、定番の人情劇で締める、と。ああくだらないくだらない。時間の無駄でした。



JB!こんな平和は欲しくなかったのに

2006-12-26 01:11:19 | 北アメリカ


 クリスマスの日の夕方のテレビのニュースで、「アメリカのソウル歌手、ジェームス・ブラウン氏が」と臨時ニュースを伝えるテロップが流れたので、てっきりまた、かのソウル帝王JB氏が、なにかやってあちらの警察に捕まったのかと思った。

 これまでも、散弾銃抱えてレストランのトイレに立てこもったり、いろいろやってきたものなあ。そしたらなんと、”死去”の知らせだったんで、これは一本取られたね。死ぬような人とは思わなかった。だってソウルの帝王JBだぜ。ゲロッパ、ゲロンナッパの人だぜ。

 アトランタの病院で亡くなった。73歳。今の時点ではここまでで、死因は聞こえてこない。なんか、明かせないような事情があるのか?まあ、おいおい明らかにされて行くんだろうけど。

 彼の音楽が、アメリカ中に飛び火していた黒人たちの生きる権利を求めての戦いに、見事に呼応して燃え盛っていた60年代。彼は、そのファンク・サウンドに乗せて”俺は黒い!それが誇りだ!”と、黒人であることの誇りを、美しさを高らかに宣言したものだった。

 それから時は流れ、・・・帝王JBの音楽はダンスシーンにおける、安易に盛り上げるためのネタとして切り売りされ重用され。そんな形で”市民権”を得てしまった。

 そして今、アメリカの黒人たちは、黒人という呼び方、黒という色自体を差別として忌避し、”アフロ・アメリカン”なる呼び名を用いるのが作法となった。

 すべては曖昧のまま、それなりの地位を手に入れた黒人たちが、”黒は差別”として臭いものにフタをしてしまうその時、JBの”俺は黒い、それが誇りだ!”との叫びもまた、闇の彼方に葬り去られて行くのだろうか。

 それにしてもクリスマスを選んで死ぬとは。嫌がらせだよな。黒人たちを奴隷として使役する際に都合の良い宗教、キリスト教なんかを押し付けた白人たちに対する。と信じておく。



ノルウエイの讃美歌集

2006-12-25 01:05:09 | ヨーロッパ


 ”Julekvad ”by Asne Valland

 今、このアルバムについて記事を書こうとして、一応参考資料を求めて検索してみたら、彼女、というのはつまりこのアルバムの主、ノルウエイの女性歌手、 Asne Vallandのことなんだけど、彼女は、1996年作のこのアルバムの後、作品をどうやら発表していないらしいのに驚いた。現地のカタログに、何も他の作品が掲載されていない。

 厳密に言うと2001年に”Himmelske Balsam Og Sodeste Drue ”なる作品があるようだけど、これはVCDとなっているんで、ちょっと音楽作品とは言えないのかも知れないので。

 彼女、ノルウエイのトラッド系の歌手でしてね。私などは、その憂いを秘めた、いかにも北国の静謐さを感じさせる清楚な少女らしい歌声と、ついで(ほんとか?)に美貌にまいってしまったものでした。

 で、このアルバムが世に出たころ、「これは素敵な新人歌手が出てきたなあ」とか同好の士(きわめて少数)と頷きあったものだけど、その後の展開ってなかったんだなあ。なにしろ情報を手に入れるのもむずかしい遠い異国のこと、こちらが知らない間に大歌手に成長していてくれるかと思ったんだけど、地味なトラッド歌手では、なかなか難しかったのかもなあ。

 なんと、かのマルティン・ルター作詞になる古い賛美歌で幕を開けるこのアルバム、どうやらクリスマス限定商品だったらしいんですな。ラストはノルウエイ語の”清しこの夜”で締められるんだけど、それ以外の収録曲もおそらく、曲調から考えて有名無名の賛美歌なんでしょう。

 キリスト教と縁のないはずのこちらも、なにやら敬虔な気持ちにさせられてしまう、Asne Vallandの歌声です。軽薄なクリスマス便乗商品などとは程遠い作りであります。
 徹底して音数を絞りこんだサウンドをバックに、いかにも北欧らしい、澄んだ可憐な歌声を響かせる様は、まさに「静謐を聞く」の感あり。心洗われる、という奴ですな。

 絞り込んだサウンドと書いたけど、ともかくパープとトランペットです、”楽団”の編成は。それに、たまにパーカッションが絡む程度。こんな編成で賛美歌を演ずる伝統ってのがあるんでしょうかね?まあ、イングランドにも”ブラスモンキー”とか、妙な編成のトラッドバンドがあることだし、これはそれほど異様な者でもないのかもしれない。

 そっと耳を傾けていると、空から金色の粉かなんかが敬虔な想いを歌い上げる彼女に降り注ぐ風景などが浮かんで来ます。先日、「クリスマスは不愉快」みたいな事を書いたけど、こんな音楽を聞かせてくれるなら、悪くはないでしょう、クリスマスも。

 どうやら彼女は、デビュ-盤にあたるトラッド・アルバムと、この賛美歌集の、2枚しか作品がリリ-スされなかったようだけど、いや、まだこれからです、微力ながらも応援してるんで、頑張って欲しいです。というわけで、月並みではありますがメリー・クリスマス。
 



クリスマス呪詛気分

2006-12-23 02:52:02 | 北アメリカ


 クリスマスというものがすっかり苦手になってしまったのはいつ頃からなんだろうか。

 子供の頃は、まああの頃は今と違って激動のクリスマス商戦とか吹き荒れはしなかったものの、それなりに世間が年の瀬の到来とともにクリスマス・ツリー色に染まって行くと、こちらもガキなりにときめいたものだったが。けどまあ、今の私にサンタさんが贈り物を持って来てもくれないだろうしねえ。

 ともあれこの季節になると、年々ひどくなる感じのクリスマス商戦の、「おい、クリスマスだぜ、幸せだろう?そう思わない奴は皆に一番嫌われるタイプの暗い奴と烙印押されるがそれでもいいのか?良くないんだったら笑えよ。幸せそうにしろよ。クリスマスなんだぜ。幸せそうに笑って金を使えよ」みたいな脅迫イメージにうんざりしつつ町を歩く日々なのである、毎年。

 そんな年末になると思い出すのが、もう20年も前(いやもしかしたら、あれから30年くらい経つのかも知れない。ともかくそれがアナログ盤の新譜だったのは覚えている)に友人に聞かされた、あるブルースマンのアルバムである。その歌声である。

 そのブルースマンの名前を思い出せないのがもどかしいのだが、ともかくスチールギターの弾き語りという、珍しい存在だった。1950年代のシカゴあたりで活躍した人ではなかったか。

 彼のそのアルバムに、クリスマスに関するブルースが収められていて、その歌が、この季節になると妙に聞きたい気分になるのだ。”メリークリスマス・ベイビー”とかいったかなあ。曲名も記憶の彼方に霞んでしまったけど。

 何でもそのブルースマンはひどく白人を嫌っていて、レコーディングもあまり数はなく、彼を写した写真やインタビュー等の記録も、まともに残っていないとか。ジャケに使われていた、彼を写したモノクロのステージ写真は、だから非常に珍しいものだったのだろう。

 気難しそうな顔つきのミュージシャンがカントリー・ミュージックの世界で使う大型のペダル・スティールギターの上にかがみこんでいる、そんな様子がひどく奇妙に感じられる写真だったのだが。

 彼の音楽は、そのモノクロ写真に漂ううそ寒い空気をそのまま伝えるものだった。ブルースギター定番のフレーズも、スチールギターの安定しない奏法で爪弾かれると、独特の不安感を醸し出した。
 そして、地の底から響いてくるような彼の歌声が囁く。”クリスマスおめでとう、ベイビー♪”と。めでたくもなんともない。凍りつくようなイメージが広がる。

 クリスマスなどという白人にとってばかり都合の良いキリスト教の祭りに対する呪詛みたいに、それは聞こえた。彼はなぜ、そんなに不愉快ならクリスマスなんてものを題材に歌なんか作ったのか?それも白人への嫌がらせか?

 ともあれ、機会あればもう一度聴きたいなあ。あのスチールギター弾き語りの、氷点下のクリスマス・ソングを。
 


帰郷

2006-12-22 03:12:00 | 音楽論など


 あれはNHKの”みんなの歌”なのかな、深夜のテレビでときどき、「いらっしゃい」って歌を聴くことがある。この間、ふと興味が湧いて、いつもは見逃す画面の表示を注意してみたら、倍賞千恵子が歌っているようだ。作詞作曲者は読み取れなかった。

 まあ、歌としてはですね、「おいでんせえ」「ゆっくりしっちょくれ」なんて、どこやらの方言を駆使して歌われてます。ふるさとの人の心は何も変わっていないよ。みんな君の帰りを待っていたんだよ、なんてメッセージが優しく歌い上げられる。

 どうやら都会暮らしから久しぶりに故郷へ帰って来たらしい、その村出身者を優しく迎える昔馴染みの横丁のオバサン、なんて立場からの暖かな心使いを歌う歌であるようだ。
 「あのおばあちゃんの駄菓子屋はコンビニになってしまった。だけどおばあちゃんはまだまだ元気だよ」なんてフレーズを差し挟み、懐旧の涙を聞く者の胸に溢れさせる仕組み。

 けどねえ。その歌詞につけられた音楽が、まあ、当たり前といえばその通りなんだけど、西洋音楽のフォームに元ずくものなんだな。ちょっと聞いた感じではフォーク関係者、あるいはクラシック関係者の可能性もあり、なんて感触のメロディであります。

 これって、どんなもんかね?”懐かしい日本の田舎の風景”を歌うための音楽が西洋の音楽である。今、流行のフレーズ使えば「欧米かよ!」であるのは困るんじゃないかな?
 実際この歌、おそらくはそれが原因で、私の心には「なんかでっち上げの感傷くさいなあ」と反発を生じせしめ、さっぱり響いてこなかったりする。

 とはいえ。とはいえ、ですよ。それじゃこの歌が日本古来の民謡のメロディを持っていたとしたら。それはますます聞くものの心に違和感を増してしまったでしょうね。だって普通の日本人、”日本の伝統音楽”なんてものを含む日本固有の文化なんかに包まれて育ってきたわけじゃないし。アメリカのポップスの方がよほど気軽に楽しめるんだよ。

 心安らぐ故郷なんて、実はどこにもない。つまり我々日本人、二重の意味で音楽的には孤児であるんですね。

 うん、まあ、いまさらあえて書くようなものじゃないけどね、こんなテーマ。でも、”日本人にとってのワールドミュージック”を考える時、嫌でも思い出さざるを得ない事でしょ。とりあえず書いておこうかと思って。
 誰でしたっけ、「”日本人だから日本人らしくやろう”と考えた時点ですなわち、もうその姿勢は不自然なのだ」って言った人は。




無責任忌

2006-12-20 23:33:52 | その他の日本の音楽


 今朝早く、青島幸男が亡くなった。

 昭和30年代、当方がガキの頃、一世を風靡した「スーダラ節」「日本一の無責任男」などなど、植木等やクレイジーキャッツの面々に提供した歌詞や、テレビ番組「しゃぼん玉ホリデー」における”画面に出てきてしまう放送作家”としての彼の悪ふざけ根性は、当時の我々悪ガキにとっての基礎教養みたいなものを成していたように思う。あるいは高度成長期を生きた日本人の魂のアンダー・トーンか。

 後年の政治家としての活動などは、痛快に思えたものもあるとは言え、基本的には興味のもてないものだった。むしろ国会議員になった後、当時司会をしていたワイドショーにおいて、視聴者の質問に、妙に慣れきった政治家口調で答える彼に、なにか汚れたものを感じてしまい、残念に思えもした。

 日本人のほとんどが政治家である彼に慣れきった後に作った”これで日本も安心だ”などという”再びの植木ソング”の歌詞も、”ひらめきの感じられないオヤジの床屋政談”の感もあり、失望させられた。
 そういえばその頃彼は、「スーダラ節」などの昭和30年代当時のヒット作を、「社会への呪詛に満ちた歌だった」と定義し、半ば、その価値を否定していたようだった。

 作家としても一家を成したが、これも当方にとっては、どうも薄味の感があり、こいつもまた興味が持てなかった。 
 結局、当方にとっての青島幸男は、昭和30年代の、あの悪ふざけの過ぎる作詞家兼放送作家だった。あれで十分だった。十分過ぎた。
 
 太宰治の”桜桃忌”を真似て”無責任忌”なんてのをふと思う。意味ないけどな。せめて彼が生きているうちに”スーダラ節”が日本の国歌になれば良かったのにと思う。いや、本気でさ。