ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

赤い夕日の故郷

2010-08-31 05:42:16 | アジア
 ”黃昏的故鄉”by 秀蘭瑪雅
 
 台湾ポップスを聴いて行くと、日本の歌謡曲のカバーに少なからず出合うことになります。
 たとえば、我らが三橋美智也の「赤い夕日の故郷」などはほんとにいろいろな人がカバーしていて、よほど台湾人の琴線に触れる曲なんだなと感心してしまいます。ともかく、演歌歌手からラッパーまでジャンル越えてやってるわけで、ただごとではない。
 You-tubeなど覗くと、この歌の台湾版がゴロゴロ出てくるわけですが、ここでは私が最近、気に入っている”懐念R&B演歌”の歌い手、秀蘭瑪雅のヴァージョンなど紹介しておきます。
 画面を見て行くと、台湾の人たちは特に誤解も無く、まるでまともにこの歌を受け止めているようですが、実際、どんな風にこの歌が聞こえているのか知りたくてたまらん。まあ、台湾人になって聴く、というのも不可能なんで、何とももどかしいんですが。



生のさなかにも

2010-08-30 05:46:09 | つぶやき
 mixiニュース2題。なんだか分からねーが、私は朋ちゃんを支持しておこうと思う。

 ☆はるな愛、85キロ完走し号泣(ORICON STYLE - 08月29日)
 ☆華原朋美さん、意識もうろう…病院に搬送(読売新聞 - 08月29日)


 以前、この場で彼らのCDに関して記事にしたことがあったけど、ユニークな偽懐メロ歌謡ユニットである”泊”のボーカリスト、山田参助氏がツイッターで、「性病に罹っている奴が装着すると沁みる仕組みになっているコンドームがあるらしい。しかし、何のために?」と疑問を投げかけておられたので、ふと思いついて作ってみたのが下の偽懐メロもどきであります。適当に古臭いメロディうを付けて歌ってみてください。

♪コンドーム付けたら沁みたっけ 秋の最初の青空を 突き刺すみたいにツンと来た

 惚れたあの子で抜いた日を 思い出させる あ~あゴムの匂いの一人旅♪

太陽の黄金の林檎

2010-08-29 03:15:40 | フリーフォーク女子部
 ”Golden Apples of The Sun”by Caroline Herring

 何しろこのCD、タイトルが「太陽の黄金の林檎」なのだから、子供時代を熱狂的SFファンとして過ごした者としては、内容なんかどうでもいい、買わずに置く訳には行かないだろう。まあ、ブラッドベリの有名な短編を、どこまで意識したタイトルか知らないが。
 アメリカの女性シンガー・ソングライター(というより、”フォークシンガー”という古い呼び名のほうが彼女には似合う気がする)であるCaroline Herringの本年度作品。もちろん、上のような事情でタイトル買いをしたくらいで、私にとってははじめて聴く人だ。

 簡単な伴奏が入っている曲もあるが、基本的に自身のギター弾き語りをメインに聴かせる人のようだ。シンプルなコード弾きに乗せて、知性的な女性の落ち着いた、血から強い歌声が、ゆったりと渡って行く。
 ”サボテンの花”のカバーが入っているのを見ても明らかだが、最初期のジョニ・ミッチェルあたりの影響下で歌い始めた人のようだ。歌い方や曲作りの個性など、随所にその影響を見て取ることが出来る。

 が、この人のミュージシャンとしての個性にはジョニほどヒステリックというかテンション高いところは無く、かわりに独特のメランコリィを秘めた歌声で、彼女の日常を通り過ぎて行く現実と幻想を激することなくそっと捉まえ、静かに見つめ直すようなところがある。 女性に対して変なたとえだが、”上手く行かないことはあるが、へこたれない男の子”みんたいなイメージのある人だ。
 そして彼女は歌う、この、いつかどこかでボタンの掛け違ってしまった世界と、そこに降り注ぐ昔と変わらぬ陽光と、人々の物語を。

 「失われたものは失われてしまった、過ぎた時間は還って来ない。だから我々はこの土を一歩一歩踏みしめて歩き出すより仕方ないではないか」そんな覚悟が、彼女の歌声に、天からの日差しの暖かさを孕ませているのではないか、などと思ったりもした。



死刑廃止論者の暴論

2010-08-28 05:44:40 | 時事

 死刑執行の場である東京拘置所の刑場が27日公開された。
 刑場公開の意義は”死刑についての議論を進めるために”と発表されているが、本当のところは、刑場のリアルな姿を見せて感傷的なコメントの一つも付け、「死刑になる人って可哀相」といった感傷的な反応を見る者の心に呼び起こそうという、法相をはじめとする死刑廃止論者の小細工なんだろうね。

 死刑制度反対派の中に、死刑執行員制度を提唱する人がいる。裁判員制度に倣って、ランダムに選ばれた一般の人々に、死刑執行のボタンを押させるんだそうだ。
 「多くの国民は死刑制度に賛成なんだから、そのボタンも平気で押せるんだろう?」という形で問題を突きつけているつもりらしいが、現在、仕事としてそのボタンを押している刑務官たちの心のありようへの思いやりに、まったく欠ける発言ではないか?

 ことほど左様に、自分を無邪気に正義の使徒と信じ込んでいるヒトビトは乱暴な論理を平気で振り回す。彼らの”正義”に反対する者は無条件に”悪”なのであって、どのように傷つけようとまったくかまわないらしいのだ。
 おそらく彼らは心の内で、「死刑に賛成するものなど、全員逮捕して死刑にしてやればいい」とでも考えているのではないだろうか。恐ろしい話である。

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 <刑場初公開>執行、脳裏から消えず 元検事(毎日新聞 - 08月27日 13:13)

 死刑執行の場となる東京拘置所の刑場が27日公開されたが、更生を期待されない死刑囚への刑執行はこれまでごく限られた関係者だけで行われ、その最期もベールに包まれたままだ。狭く、無機質な刑場で、死刑囚はその時をどんな心境で迎え、取り巻く人たちはどう見送るのか。「別れの朝」に立ち会った経験を持つ当事者が重い口を開いた。【石川淳一、反田昌平】

 http://mainichi.jp/select/wadai/news/20100827dde041040005000c.html

曲馬団のタンゴ

2010-08-27 01:24:56 | 南アメリカ

 ”Orquesta De Carnaval”by Amores Tangos

 一部で話題となっている新人タンゴバンドのデビューアルバム。しかしほんとにジャンルわけはタンゴでいいのか?と首を傾げたくなるような、独特のバスキング感覚と言うか、街角の音楽の尖がった手触りがロックっぽい連中だ。音楽の形態が、ではなくあくまで時代感覚が、なんだけど。

 その音楽性も、やっている事はあくまでもタンゴの範疇にとどまるようでいて、濃厚にジプシー・ジャズやバルカン音楽の要素が入り込んでいる。演奏を支配する、闇に向う湿った熱っぽさは独特のもので、イメージとして浮ぶ画像は戦前の東欧の安酒場の一夜だ。
 そして全体に横溢する、タイトルやジャケ画からも連想されるようなサーカス(むしろ、”曲馬団”との表記が似合いか?)っぽい、猥雑なカーニバルの見せ物感覚。その浮き立つような楽しさと、裏腹に存在する哀感が懐深い世界を広げていて、思わず引き込まれてしまう。

 各楽器の腕前も相当なものだし、面白い連中が出てきたものだなあと、今後を期待せずにはいられないのだった。



アラブのダブケで踊らんかい、ワレ!

2010-08-25 04:41:26 | イスラム世界


 ”Dabkat Al Sharq ”

 ダブケという音楽については以前にも書いたことがあるが、いや、まだまだ謎の多い音楽である。
 どうやらアラブ世界におけるコミュニティのためのフォークダンスというから、盆踊りのための音頭とりの音楽というか、それこそあちら版の河内音頭のようなもの、と解釈すべきかも知れない。
 まあ、フォークダンスなどと言う軟弱な(?)イメージの言葉で説明するのは相当に危険であって、ともかくその音楽、相当にタフなダンス・ミュージックなのである。

 今回の盤にはシリアとレバノンで今日、踊られている現在進行形のダブケ音楽が収められているようだが、前回紹介の汎アラブものを上回るほどの奔放さ、力強さを誇っている。
 伝統楽器と、その間に巧妙に配された電気楽器とで、非常にザックリとした線の太いリズムが打ち込まれる。「ハッ」とか「ウッ」とかかかる掛け声は、我が国で言えば「ソイヤソイヤ!」にでも相当するものなのだろうか。
 入れ替わり立ち代り現れては野太い歌声を聞かせる男女の歌手もエネルギーに溢れており、「今日の、お上品になってしまったアラブ・ポップスにご不満な貴兄に」なんて紹介をしてみたくなるのだが、実際、古代からの遊牧民族の勇壮な魂の迸りを今日に伝える民俗芸能なのだろう。

 高度に洗練され複雑に入り組んだ、今日のアラブ大衆音楽の芯の部分に存在する野太い骨格、そいつの正体を垣間見たみたいな気分にさせる生々しいお祭り物件である。



ツイッターで最近呟いたこと

2010-08-24 22:45:09 | つぶやき
そうかな?結構みんな、権威者(例・有名ミュージシャン)や権力者の”つぶやき”をありがたがっていないか? RT @m--- RT @s---- 『ツイッター上では権威や権力は何の力も持ち得ない。つぶやく言葉がすべてで、それによってのみ判断されるのだ。』
posted at 22:24:26

”日清紡”の企業CMで、「女の子が森を散歩していたら熊さんに出会った。地球温暖化で森も暑く、熊さんは涼しくなろうと体毛を剃っていた」なんてのがあるが、その着ぐるみの熊が体を剃る様子が非常に汚らしいのである。しかも剃っている部位は下腹から陰毛にかけてであり、下劣、ここに極まる。
posted at 21:52:10

この頃、長淵剛が新曲のプロモーション・ビデオで、「おれたちシマンチュは~」とか怒鳴っているが、あいつはいつから”沖縄代表”みたいな顔をしてもよくなったんだ?
posted at 02:27:15

テレビを見ていて、「ハナミズキ」という映画のCMに出くわすと、もの凄い恥ずかしい気持ちになる。自分とは縁もゆかりもないヒトビトが勝手に作った映画なのだから、私が恥と思う必要は何もないのだが。
posted at 21:36:16

今、テレビで聴ける一番くだらね~フレーズ。それは→「石川遼のような生命保険」
posted at 00:43:17

テレビドラマの話に戻るけど、あの倉本聡という男は、「英霊」の一言を持ち出せば気に入らない奴はオノレの一存で殺してかまわない、むしろ殺されたことを感謝するべきだ、という考えの持ち主なんだな。
posted at 01:33:09

法則・BGMにロイ・オービソンの「オー・プリティ・ウーマン」を使っているCMは、必ずダサい。
posted at 22:51:01

私は「にんにく卵黄」のCMソングが嫌いだ。
posted at 22:49:48

名盤と評価のある盤の名を挙げて「あれなんか好きだなあ」「ボクも愛聴してます」駄作と定評の盤には「あれなんかひどいな」「ボクも評価できません」てな会話を毎日、延々と繰り返している人たちって、いますね。楽しいループ温泉(笑) RT @s----

台湾R&B小夜曲

2010-08-23 03:39:32 | アジア

 ”真心話”by 秀蘭瑪雅

 山之口獏にあったよな。”昔、恋人だったあなたがあの男と寝ると思うと、ただでさえ暑そうだったあの台湾が、ますます暑そうに想われてくる”なんて詩が。あれはほんとに短い詩で状況がよく分からないのだが、逆にそれゆえに、こんな関係もない場所と時間において、ただ大気の孕む熱気の気配にだけはうんざりするくらい切実に共鳴する、みたいな気分。そう、異常気象的にクソ暑い夏が続きますが、いかがお過ごしですか。

 秀蘭瑪雅を取り上げるのは、これで2度目だ。もう少し詳しいところを知りたく思うのだが、台湾の演歌系列の歌手に関する情報なんて、どこを探したってありゃしないよなあ。
 とりあえず分かっていること。秀蘭瑪雅は台湾の先住民族、ブヌン族の血を引く人だそうで、確かに四文字の、中国人としたら相当に珍しい姓名である。その容貌も、いかにも南方系のワイルドな風情が漂い、少なくとも私は、なかなか惹かれるものを感じる。
 それだけでも気になるところなのに、レパートリーの主なところは演歌や台湾の懐メロであり、そいつを台湾における一等言語(?)である北京語ではなく、やや疎外された庶民の言葉的存在である台湾語で歌い上げる。なおかつそれを独特のR&B風と言うか黒人っぽい感覚を濃厚に漂わせた歌唱法で行なうのだ。

 この、なんだか不思議な歌手としてのポジションの取り方が、どうにも気になる。先住民の血を引くものでありながら、先住民独自のポップス(というものが存在するのだ)を歌わない、のはまあ、個人の勝手と言うものだが、その代りに歌っているのが古い演歌や懐メロなのである。宣伝文句にも「懐念」とか「望郷」なんて言葉が目立つ。聴いてみても、台湾に特別の思い出などない、関係ないはずの私までが正体不明の郷愁に誘われてしまう、そんな曲ばかりが並んでいるのだ。

 ここだけ見れば台湾のお年寄りにアピールしようとしているのかと納得しかけるが、歌唱法が”R&B”なのが、よく分からない。「アメリカのブラック・ミュージック、大好きです」って嗜好が丸出しの歌いっぷりなのである。
 この辺がどういう構造になっているのやら分からない。台湾にもブラックミュージック好きの音楽ファンは存在するのだから、その連中を相手に、真っ黒な音楽を心行くまでやったらよいのであってね。
 などと、彼女の歌を聴いていると様々な「?」で頭の中がいっぱいになってくるのだ。ちなみに彼女は決してマイナーな歌手じゃない。1999年にデビュー以来、もう十数枚のアルバムを世に問うているし、映画やテレビドラマの主題歌の仕事も多く、それなりに結構な人気者と考えてよいだろう。

 もっともこれ、ワールド・ミュージック好きとしては結構居心地の良い状況でね。なんとも不思議な一面を持つ、そして魅力的に思える歌手を知り、その歌手が抱える”不思議”の真相についてあれこれと想いをめぐらす。これは、なかなかに胸ときめく時間であったりする。
 もちろん、有効な資料に出会え、謎が次々に解明されるのも楽しいには違いないんだが、見当の付かない謎を前にあれこれ気ままな推論を成しながら酔い痴れている時が一番楽しかったりする。そして秀蘭瑪雅、当分楽しませてくれる歌手の一人といえそうなのだった。




ネット・退屈の帝国

2010-08-21 02:58:53 | その他の評論

 ネットで知り合ったある人の帰国子女である息子さんが、「日本のネットは同じ話題が延々と繰り返されている」と呆れていた、という話を聞かせていただいた。なるほどなあ、そう感じても不思議じゃないなあ、だってその通りだものなあ。と私は苦笑し、のち、暗澹たる気分になったものだ。
 だってねえ、標準的なネット上の音楽に関する会話、と言えば。以前書いたことあったっけかなあ。大抵、こんなですよ。

 まず一人が、名盤と評価のある盤の名を挙げて「あれなんか好きだなあ」と言い出すと、それに答える者がいて、いわく、「ボクも愛聴してます」とかなんとか。それに続いて、同じような”意見”がダラダラとつながる。
 あるいは、駄作と定評の盤には「あれなんかひどいな」とその盤の名を出せば、「ボクも評価できません」と。以下、付和雷同。
 音楽雑誌ででも読んだんでしょうかね、もうとうに答えの出ている作品評価をデッドコピーというのか、丸ごと鵜呑みにして、ついこの間、自力で発見したみたいな口ぶりで発言を行なう。名盤とか名曲とかいう言葉が大好きだ。

 そんな生ぬるい会話を毎日、延々と繰り返すんですな。で、そこで上手いこと社交的に立ち回れる人は”ネットの偉人”と言うべき立場を得て、みなの尊敬を集めたりする。まあ、微温的といいますかなんと言いますか・・・何が面白いんでしょうかね、そんなことの。
 そんなサークルの中で、”同じ話題の繰り返し”ではないユニークな話題が出てくると、こののどかな会話サークルの人々はどう反応してよいか分からず、ネット用語で言えば”華麗にスルー”とかするわけですね。余計なことに頭を使いたくないから。
 で、毎日が西部戦線異常なし、というわけだ。

 いつぞや取り上げた「その盤を好きなんていうのはブラジル音楽を聴いたことのない人でしょうね」発言なんかも、そんな土壌にこそ咲き得た仇花でありましょう。”この盤は正しくない盤と公認されたものなので、いくら悪口を言ってもかまわない”との認識の元、発せられた一言なんだけど、ここには「本当にその盤は見るところのない愚盤なのか?これを機会にもう一度検証してみよう」なんて発想はかけらもない。
 認知された”常識”にただただ寄りかかるばかりで、自分の浸かっている微温的ループ会話の温泉を疑いもしないこの世界。なんとかならんのかなあ。

 そうなってしまうのが日本人の国民性なんだろうか?そう思いたくはないんですがねえ・・・




ハリラヤ音楽を聴いてみる

2010-08-20 04:01:00 | アジア
 ”SENTUHAN HARI RAYA”

 ハリラヤとはマレーの人々にとってのお盆のようなもの、と聞いた。彼らの信ずる宗教イスラムの重要な季節の行事のようだ。そのなかでももっとも大規模なものは、有名な断食の月ラマダンが明けた日を祝って一族の集まる祭り、ハリラヤブアサなのだそうだが、まあ、こんな付け焼刃の伝聞など書いていても何の説得力もないだろうなあ。

 ともかく今回の盤は、そのハリラヤを祝うための音楽を収めたもの。ここにあるような音楽を聴いてイスラムの祭りを寿ぐのだろう。とはいっても、たとえばナイジェリアのフジであるとかパキスタンのカッワーリーのように濃厚なイスラム的個性を持った音楽がハリラヤ用に存在している、というのでもないようだ。
 男女の歌手の掛け合いでウィ・アー・ザ・ワールド調に盛り上がるバラードものや、レゲのリズムでホテルカリフォルニアっぽい歌謡ロックのメロディを聴かせたり。その合間にマレーっぽいメロディが差し挟まれたりする。でも基本はアジアっぽくマレーっぽく解釈された今風の世界標準ポップスという感じだ。

 やはり世俗音楽と一線を画すのは、どの曲の歌詞にも律儀に”ハリラヤ~♪”の一言が挟み込まれていたり、参加歌手は皆、背筋のきちんと伸びた清潔感のある人たちで、ヤクザな個性を売りにしている気配がないところだろう。
 そしてなにより、どの曲にも家族的といっていい優しさや暖かさが込められているのが、この音楽の特徴と言えるんではないか。どこか鼻の奥がツンとしてきそうな懐かしさに包まれて、「俺たちは家族じゃないか」と呼びかけてくるような。そんな音楽。

 聴いていて、ふと昔読んだ、”怪傑ハリマオ”のモデルとなった人物の評伝の最後のページなど思い出した。故国である日本と生まれ育ったマレーの地。第2次大戦の真っ只中、その二つの故郷の狭間で翻弄された人生。彼はその人生の最後の時に臨み、マレーの地のイスラムの墓に自ら望んで身を横たえたのだった。