ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

2枚のディスク

2012-09-30 04:21:59 | 音楽論など

 たとえば先日来、”MAREWREW / もっといて、ひっそりね”なんてアルバムを買おうかどうしようか、なんて悩んでいたりする訳ですよ。
 これ、ワールドもの好きなら、もう評判はお聞き及びかもしれない、アイヌの伝承歌を歌う女性三人組のコーラスグループのデビューアルバムであるわけです。
 北方の、未知のフォークロア、音楽的には非常に興味を惹かれるんだけど、私のような者に興味が持てるタグイのものかなあ?と二の足を踏んでいるところなんですわ。

 何しろ私はワールド・ミュージック好きとは言っても民俗音楽系は苦手で、どちらかと言えば”港々の歌謡曲”に興味があるポップス系のヒトなんで、古いスタイルのアイヌのコーラスの再現とか、楽しむ自信はあまりない。
 実際、ネットやラジオなんかでMAREWREW の歌声を聞くと、いかにも真面目な人たちが律儀に伝承音楽に取り組んだ成果、という感じでねえ。学究的過ぎて堅苦しい感じがする。まあ、私が聞くには、ですがね。

 これが、「戦前、アイヌの社会だけで人気のあったローカルな歌謡曲歌手の残したSP盤のCD再発」なんて言ったら、そりゃ血が騒ぎますけど。
 これはやっぱりジャンル分けとしては、”正しい音楽”の方に入っちゃう感じだなあ、なんてね。思ったりしているわけです。

 あっと。そんなことを言っても意味不明の人がほとんどか。この場でこの話は記事として出たことはなく、コメント欄のやりとりとして話題に登っただけだものなあ。
 まあ、どうしてそんな話が始まったかなんて、くだくだしい前置きはすっ飛ばして、いきなり中身だけ話しますけど、ここに2枚の音楽の入ったディスクがあるわけですよ。で、その内の一枚には”正しい音楽”が録音されている。さらにもう一枚には、”間違った音楽”が収められているとする。さああなた、どちらか一枚を聞くとするならどちらを聞きますか?という話なんですが。

 私はもう、考えるまでもなく”間違った音楽”の方を選ぶなあ。世の中に正解は一つしかないが、間違いは人間の数だけある。人間のイマジネーションの狂った焦点の先に、どのような奇矯な像が結ばれるか、めちゃくちゃ興味があるじゃあありませんか。
 とか言ってるが、もちろん、正しい音楽を選ぶ人もおられるでしょう。だってそれは正しいんだもの。正しい音楽を聴かずしてどうする。わざわざ間違った音楽になど、時間を費やすべきではないはずだ。
 まあ、そりゃそうですな。

 これは思想調査とかに活用できるんではないか。そんな物々しいやつでなくとも、お遊びの性格調べとかね。
 さてあなたは、間違った音楽と正しい音楽、どちらに興味を惹かれますか?




アンニョン・ボヘミアン

2012-09-29 04:46:28 | アジア

 ”Goodbye Bohemian”by Nagyeom

 深夜、ネットで韓国の女性ボーカルCDを物色していた際、なんとなくジャケ写真が気になる、という形でこのアルバムと出会ったのだった。
 ジャケに写っている歌い手の、真紅のワンピースと金色に染めた髪のほのめかす奔放な性のイメージが、かの国の歌い手としては物珍しいと感じられ、これは結構な遊び人の女ではあるまいか、などというこちらの不埒な好奇心をそそられたのだった。
 もっともその後、それ以外の写真やYou-tubeの映像などで知った彼女の素顔は、幼いというか無垢な少女のそれであって、その件に関しては当方の想像は全くの見当違いということになるのだが。

 彼女、Nagyom嬢の奇矯な服装をしたり金髪にしたりする行為はむしろ、やや”不思議ちゃん”っぽい彼女の個性を象徴するものと考えていいようだった。
 それは彼女の歌の世界も同様であって。
 軽やかにボサノバのリズムを刻むガットギターの響き。のどかで懐かしいメロディを奏でる、アコーディオンやハーモニカ。そして、ほんわかとシャボン玉のように湧き出し、フワフワと空を舞うようなNagyom嬢のボーカル。
 なんともほのぼのとして、幼い時の夢の世界に地続きで歩いて行けそうな彼女の歌世界に、”期待はずれ”もどこへやら、私はすっかり和まされたものだった。

 歌詞内容がどのようなものか分からないのがもどかしいのだが、特にタイトルナンバーである”さよならボヘミアン”などの内容が分からないのがなんとも口惜しいのだが、”錆びた鉄道””自転車旅行”などの曲タイトルから、マイペースな女の子のほんわりとした夢想などがテーマとなっているのだろうと、曲調がそんな感じであるゆえ、なんとか想像をつけてみるのである。

 いずれにせよ、韓国歌謡の深々とした情念の世界(そいつが魅力ではあるのだが)とは正反対の世界にあるかと思われる、Nagyom嬢の歌世界の軽やかさ。
 フワフワと風に吹かれるまま、どこまでも気ままに飛び行くタンポポの種のような彼女の歌の、そのこだわりのない身軽さが振りまく春風が、いつか凍り付いた岩盤を穿ち、すべてを自由に向かって解き放つ日もまた来るのではないか、などと呟いてみる昼寝の夢なのであった。





ハングル・ソウル・バラードの10年

2012-09-28 01:58:13 | アジア

 ”The Best Collection : 2000-2011”by Lee Eun Mee

 イ・ウンミという歌手は重厚なサウンドをバックに、壮大な曲想のソウルっぽいバラードを、いかにも韓国女性らしいブットイ声帯から繰り出されるハスキーな歌声で真正面から叩きつけてくる人、というイメージが私にはあったのだが、この10年余の発表曲をまとめたこのアルバムを聴く限り、最近の活動はずいぶん趣きを異にしていたようだ。
 ジャケの雪の積もった並木道、私はネットCD店のカタログで見た際、勝手に韓国の学生街の一風景と思い込んでいたのだが、現物を手に入れてみると、ニューヨークかどこかのようだ。まあ、同じ事なんだけどね、雑なこと言ってすみませんが。

 ともかく。降り積む雪の道を行く人々がいる風景。シンとした空気の感触が伝わってくるような道が広がっている。このアルバムはそんなアルバム。
 このアルバムに収められているのは、ピアノやギター一本をバックに、静かに孤独を握り締め、自分に語りかけるようなイ・ウンミの内省的な歌声である。それは、内ジャケに掲載されている、雪に覆われた異国の街角を行く彼女自身の姿にオーバーラップしてくる。音楽によって、静かに自らとの対話を繰り返す、イ・ウンミ。

 各曲のタイトルを見ても、「罪人」「古い記憶」「無情ブルース」「別れている途中です」などなど。「ウエディング・ドレス」なんてユメユメしい内容であってもいいタイトルの曲も、聴いてみればマイナー・キーの暗いシャンソン調のワルツであり、しかもそのすぐあとにひかえているのは「結婚しなくてよかったでしょ」なる物騒な?タイトルの曲であり、という具合。
 アルバムのどの部分にも、ほろ苦き人生の裏表がじっくりと歌いこまれているようだ。まだ一回通して聴いただけだけれど、この先、じっくりと付き合えそうな気がする盤ではある。

 もっとも、終わり近くに収められた「ノクターン」「恋人います」みたいな、これまで彼女が得意にしてきたような熱唱型のバラードを、どうしても聴き返したくなってしまうんだっけれどね。やっぱりすごいもの、この迫力は。




アルメニア交差点

2012-09-25 02:33:13 | アジア

 ”Asta La Vista”by Anahit Simonyan

 とりあえず、書いた文章は地域別にジャンル分けして登録している訳ですが、どこに置いてもすっきり収まらないのが、アルメニアという国。
 場所的には”イスラム圏”に置きたい気もするんですが、なにしろ”世界最古のキリスト教国”ですからね、それも都合が悪い。音楽的にもイスラム色濃厚って感じでもないし。地図上、納得できる場所である筈の”アジア”に置くには、なんかそこはかとなく漂うヨーロッパ臭が気になるし。なんか、どこにおいてもすっきりしない気がするんですわ。

 そんなアルメニアのセクシー・アイドル(?)、アナヒット嬢のこのアルバムなども、やはり西アジア圏の音なんだろうかなあ、などと思ったりもするんだが、「ここ」と決めた途端に、それからはみ出す要素が目に付きだして、何が何やらわからなくなってしまう。
 全体を覆う、小雨が常時、降り込めている様な、しっとりとした情感を漂わせる歌謡曲っぽさは濃厚にアジアを発散しているし、とはいえ、打ち込みのリズムやシンセの音にはヨーロッパ的なクールな響きがあったりする。とか思っていると、そのシンセが尺八みたいなフレーズを高々と吹き鳴らしてみたり。
 主役のアナヒット嬢の顔立ちだって、南欧風といえばそうだし、インドっぽいといえばそうも思える。

 あれこれ混乱しつつ聴いていると、音楽的に一番近いのはインドネシアかも、なんて苦し紛れのヤケクソ気味な想いも浮かんできたり。そもそも、このジャケに書かれているアルメニア文字の訳の分からなさはなんなんだよ。どこの文字にも似ていないんだから。私は、ブラッドベリの小説に出てくる火星人ってのは、こんな文字を使っていたんじゃないかって気がしてならないんだよなあ。
 とかなんとか言っていると12曲目、サズっぽい弦楽器によりアラブ丸出しのフレーズがかき鳴らされ、トルコっぽいとしか言い様のない民族色濃厚な歌が始まってしまう。この曲はタイトルの英訳が”New Year”となっているが、もしかしたら新年を寿ぐアルメニアの伝統に則ったトラッドな曲なんだろうか?

 などとウワゴトを呟いているうちにもアルバムは終盤。東欧といえば東欧のような、東南アジアといえば東南アジアのような街角を、憂愁を背に負いそぞろ歩くアナヒット嬢のバラードは切なくユーラシア大陸のど真ん中に鳴り渡るのでありました。



もう登るまい、アッツ山には

2012-09-24 03:44:33 | いわゆる日記

 夕食後、ぼんやりテレビを見ていたらふと居眠りしてしまった日曜日の夜。目を覚ましたら「岳」とかいう登山がテーマの映画がテレビから流れていた。チャンネルを切り替える気力も出ないままぼんやりその映画を見ていたら、なんともうんざりしてしまったのだった、その内容に。
 映画に関する知識はろくにない。評価の高い映画かもしれない、ファンの多い映画かもしれない。それゆえヒンシュク買うかも知れないが、もう一回言っておきたい、あんな映画は嫌だ。

 要するに「山はいいなあ、山の仲間はいいなあ」と言っているだけのストーリー。そこに、湿っぽい自己犠牲の精神やら友情の証しやらが繰り返し、聖なるものとして歌い上げられる。
 登場人物は、何かというと吠える。叫ぶ、というレベルではない、嬉しいこと、悲しいことがあるたびに、空に向かって声を限りに吠えるのだ。それはある種の宣言のように聴こえる。「我々は感情の存在しか認めない。理性的な判断など、断固拒否する」という。
 なんかうそ寒い気分、というのはこういうものを指すのかねえ。「死を恐れていて山岳救助隊が務まるか」みたいなセリフが出てきていたが、オノレが遭難して、なんの救助隊か。そもそもその救助費用なるもの、かならずしも登山なんかに興味のない一般市民の払った税金から捻出されているのではないか。自己陶酔している権利なんかあるのか。

 ニュースなどを見ていると、そのような山の遭難の現実としては、驚く程高年齢の登山者たちが遭難の当事者として登場してくる。私なんかよりもちょいと上のダンカイの人々とか、それら高齢者たちが「山登り」が青春だった世代なのだなあと、シミジミ知らされたりするのだ。
 そういえば、その世代の人たちが歌っていた”古典的日本のフォークソング”にも、何曲も山と遭難に関わる歌が歌われていたのだった。「山よお前は憎い奴、友の命を奪っていった~」とかいう歌詞が私などの記憶に残っているくらいだから、そこそこラジオなどからも流れたのだろう。”反戦フォーク”なんてものがわが国でも歌われるようになる直前の時期にあたるだろうか。そういえば高石友也なんて人のデビュー曲も、広義の山の歌、スキーに関する歌だった。

 それら歌のテーマとして提示される、美化された死のイメージ。なんだかそれが私には、第二次世界大戦中の「アッツ島玉砕」のエピソードなどに直結するものと思われて仕方ないのだ。すべての山の遭難を美化する作業、それらは根を同じくするものではないのか。そんな風にして続いていたんだよね、”戦前”は戦後になっても。

 大日本帝国の敗戦色が濃厚となったその頃、その島の守備隊の玉砕の美化の成功、それがすべてを変えた。
 もう「大本営発表」において負け戦を勝ちと虚偽の報道をする必要もない。戦いにおいて敵に敗れ、全員が命を落とすことは美しいことなのだ。お国のために死ねることの栄誉をありがたく受け取れ。そして兵士でもない人々までが、俘虜として恥を晒すよりはと沖縄の崖の上から身を投げていった。そんな風にして第二次大戦の後半は、”アメリカ軍と日本政府の合作による日本市民の大虐殺”の残虐劇の場となって行った。

 もういい。死ぬことは美しくなんかない。もう登るまいアッツ島によく似た山などには。何年経っているのだ、あの戦いが終わってから。



影を引かれた夜

2012-09-21 16:24:51 | いわゆる日記

 昨夜、つけっぱなしにしていた机の上のラジオが「宇崎竜童作曲作品集」なんてのを流し始めた訳です。
 まあ、そういうものかと聞き流していたんですが、何曲か続くうち、それらの曲に付けられた阿木耀子のペンになる歌詞というものが無性に腹立たしくなり始めた。なんか、それらの歌詞のテーマやら言葉使いやらが気に障ってならない。
 そのいらだたしい思いは、研ナオコの「愚図」なる歌が流れ始めたあたりで頂点に達した。

 「えーい、つまらないことにグダグダ耽溺して、チマチマ文章を塗り上げ腐って!いいかげんにしろっ」

 一瞬、ラジオを爆破しそうになったんですが、幸いなことに、手元にダイナマイトのたぐいがなかった。
 まあ、昔の歌謡曲を聴いて、ムキになって怒ってみてもしょうがないんですが。しかし、なんだって私はあの時、あんなに腹が立ったのだろう。それらの曲が流行歌としてリアルタイムで街に流れていた頃は、特に気にもせず、聞き流してきたはずなのに。

 まあ、浅く考察してみるに、ですね。私が、あるいは今日の日本が、「それはもう解決済み」ということで時の流れに置き去りにしてきた何らかの想いというのですかね、理念というのですかね、そんなものがあったんじゃないか。
 そんなものを阿木作品が、「解決していない。あのことが忘れられない」と指摘しているように、あの時の私には感じられたんではないか。とりあえず物情騒然とするこのご時勢に、ですね。過ぎたことにいつまでもこだわりやがって。そんな気がするんですがね。

 まあ、普通の精神状態ではない深夜のひと時、気まぐれに生まれ、夜の闇に消えていった想いの正体などあれこれ考えてみるのも、それこそ”つまらないことにグダグダ耽溺”でありまして、閑話休題、とかいってそのまま終わったらダメですか、この文章。
 その番組の後半で、その月の歌かなんかで流れた吉田拓郎の新曲かなんか。こちらは逆に歳月の流れも感じさせない十年一日の如き能天気な歌で。お前は呑気でええのう、などと奮然たる気持ちでオシッコして寝てしまった夜だったのでした。

いつか「人権無罪」と叫んでスーパーに火を放つ日

2012-09-20 01:09:16 | 時事
■人権委法案を閣議決定=臨時国会提出目指す

 そういう事であるならば。
 我々は来るべき社会に対処するため、あの「中国人のデモのやり方」をよく学んでおくべきなのかも知れない。

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 ☆人権委法案を閣議決定=臨時国会提出目指す(時事通信社 09月19日)

 政府は19日の閣議で、法務省の外局に人権救済機関「人権委員会」を設置する法案を決定した。人権侵害に対する救済や予防を行うため、国家行政組織法に基づく「三条委員会」を設置する内容。藤村修官房長官は記者会見で「人権擁護に政府が積極的に取り組む姿勢を示す必要がある。(法案)提出の閣議決定はもう一度必要だが、政府の姿勢を示すために決定した」と強調、10月召集が予想される臨時国会に提出したいとの考えを示した。 



ハリージの月の下で

2012-09-19 23:16:43 | イスラム世界

 ”MJK”by HAIFA

 アラブのエッチの女王、とか言ったら叱られるのか。なんか世界の美女100人とか、その種の催しにもランクインしたとかで、かの地の男どもの煩悩を鷲掴み、みたいな存在らしいHaifa女史の、今年度最新盤の登場であります。
 このアルバムのジャケもまた、そんな欲望をジャストで刺激、みたいなエロいシロモノですが、気になるのは”MJK” なるタイトル。これ、”ミス・ユニバース”をアラビア語に訳した、その頭文字を拾ったものなんだそうで。もう、「恐れ入ったか!」みたいなものなんでしょうねえ。

 サウンドの方もそれにふさわしい甘美な性の妄想全開のアッハンウッフン・ボイスとピンク色に染まった脈うつ拍動の交錯する異世界の扉を開けんとする代物。
 けど私には、なにやらスペースもののアラブ歌謡の新境地なんて聴き方もできるなあ、なんて思えても来るのです。
 あまりディープに泥臭くならない打ち込みのリズムがカチカチと脈打ち、シャカシャカとシュワシュワと、これも濃厚になり過ぎないギターやシンセの、夜空を浮遊するようなフレーズが夢の淵をなぞるように、Haifa女史の甘美な歌声を縁どって行く。

 そもそもがことのほか暑苦しいこの夏の夜であります。シリアスなワールド・ミュージックのファンの方からはもしかしたら、あまり民俗臭が強くなくて物足りないとのご意見もあるやも知れませんが、私などは、そこが逆に快いと思える。ここで聴かれるサウンドの現実感の無さがね。
 で、その現実感のないものを無理やり存在させてしまうのが、その音楽のうちに立ち込める性的妄想という、それはもう抗い難い代物であります。
 
 どんなものでしょうねえ、夏の夕暮れ、恋人のことなど想いながら見上げるアラブ世界のお月様、なんてえものは。



夏の終わりのハングル・ブルース

2012-09-18 01:04:28 | アジア

 ”Love chapter 1” Bobby Kim

 いまさらSoulとSeoulの駄洒落もないものだが、ソウルっぽい意匠を込めたスロー・バラードを売り物とするポップス歌手が何人いるともしれない韓国歌謡界であって。ここまで国民規模ではまりまくっているならそのうち、以下のように主張する、かの国の音楽学者も出てくるに違いない。すなわち。
 ”ソウル・ミュージックは19世紀半ば、韓国は慶尚北道においてパンソリより派生した民族音楽として誕生した。それが、朝鮮戦争当時、国連軍の一員として韓半島に足を踏みいれたアメリカの黒人兵によって自国に持ち帰られ、独自の発展を遂げたものである”
 とかなんとか。

 まあ、くだらない冗談はともかく、そんな韓国のソウルなスローバラード歌手を、それも本来、女性歌手にしか興味のなかった当方としては例外的に男性歌手なんかこの数日、聴きこんでいたのも、我ながら妙な気分である。
 ボビー・キム。このボビーというのはソウル・ミュージック好きゆえに自分で勝手につけた英名なんだろうけど、誰なんだろうな、彼のアイドルである黒人歌手は。ボビー・キムは韓国におけるレゲやラップの創始者のひとり、みたいに紹介されている文章を読んだことがある。(今の彼の音楽、例えばこのアルバムに、それらの音楽の影は見受けられないのだが)してみると、意外にアメリカ合衆国の歌手ではなく、ボビーってのはボブ・マリーなのかも知れないな。
 レゲやラップを好んで演ずるミュージシャン、とくれば日本ではアホの証拠でしかないが、韓国ではどうなんだろうか。

 どうも余談ばかりで話の本筋になかなか入れないが。
 このバビー・キムなる歌手に興味を惹かれるきっかけといっても、毎度お馴染み、ほかのことを調べるためにYou-tubeを覗いていて、偶然出会った彼の歌が気に入ってしまったからだ。
 その地声の強さというか、まるで岩石の如きその声帯の特性を生かし、生かし過ぎ、リミット目いっぱいに歌い込み、時に暑苦しい結果も出てしまう大韓ソウル・バラード界においてボビー・キムは、むしろ抑制されたボイス・コントロールでクールな表現を得意としており、特にこのアルバムのように冒頭から淡い味わいのスロー・バラード連発の構成においては、まるで水彩画のようなもの静かな感傷の世界が現出して、こいつがなかなか良い感じなのである。

 どういう理由でかもう消されてしまったみたいだが、彼のヒット曲”オンリー・ユー”に付された、海辺のリゾートタウンの一夜を描いたイラスト集が心に残っている。ボビー・キムの歌の良さがうまく表現されていたと思う。
 というか、一度見ただけのそれ、もはや本当に見たのか、何かの記憶違いか、実は自信を持てなくなっているのだが。
 ともかく。とうに時の流れの中で失われてしまった情熱の残り火を遠く思う、みたいなバビー・キムの歌声は、ようやく行こうとしている過酷だった今年の夏の残滓が、海辺のホテルの向こうに燃え落ちて行くのをただ黙って見送る、みたいな気分にはぴったりで、何度も聴き返したくなってしまうのだった。






小人物行進曲

2012-09-17 03:36:25 | 音楽論など
 ツイッターを覗いていたら、よそ事ながら心の底から情けなくなるような一連の発言に出会ってしまいました。下のような発言に代表されるものですがね。

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ヒップホップと繋がっとるのはマイルスよりもむしろコルトレーンだと。ヒップホップが愛したのはマイルスよりもコルトレーンでは無かったかと。” ヒップホップが愛したのはコルトレーンのほうで、ヒップホップを愛したのがマイルスですか。
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 つまりは、同好の士が寄り集まって、あれこれ理屈をこねてはジャズとヒップホップを無理やり関連付ける試み、というか悪あがきを繰り広げているわけです。
 なんのことはない、権威付けを欲しがって高名なジャズマンに擦り寄る、ヒップホップひいきの見下げ果てた心根が丸出しになっているんだけど、そのみっともなさの自覚さえない。情けない限り。

 もの欲しげな小細工はせずに、「ジャズなんて知らねえよ!」と蹴飛ばしてやればいいと思うんですがね。何かというと「それなりの権威」が欲しくなってしまうのが小者の証明。
 まあ、ヒップホップ好きの頭のレベルなんてこの程度のもの、という結論でも出しておけば十分なのでしょう。