”島時間”by 大島保克
というわけで。奄美の民謡を聴く行き掛かりに、かってあまり馴染めずに終わった沖縄の島歌に再入門を行なっている今夏なのである。
今回のこの歌い手、というか石垣島の民謡系のシンガー・ソングライターと呼ぶのが正確なのか、大島保克などは、そんな当方の最近のお気に入りなのである。その、悠久の風に吹かれて枯れ切ったかのような歌いっぷりに象徴される、飄々たる個性がいい。
民謡と、それに根を生やしたオリジナル曲の二本立てで勝負しているようだが、特に気負うでもなし、両者を当たり前のように並列させて歌ってしまっているのも、ある種、痛快である。
オリジナルに関しては、とにかく三拍子のバラード(というのか?)で、大島は良い味を出す。このアルバムの冒頭に収められている”カラ岳”や、逝ってしまった島歌の偉大なる先達に捧げた”流星”、そして最終曲の”真砂の道”など、どれも深い、が湿度の多過ぎない感傷が心地良く、何度でも聞き返したくなるものがある。
面白いのは、三線が奏でる”カラ岳”の間奏の始まりが、まるでアメリカのカントリー・ミュージックでも始まるかのようなノリを示したり、また2曲目、”大和からぬ舟”の三線の織り成すリズム・パターンが同じくアメリカのオールドタイム・ミュージックにおけるバンジョーの奏法を彷彿とさせるものがあったりするあたり。
まあ、わざとやっているのかも知れないが。なにしろバイオリンや西アジアのものらしきパーカッションも当たり前のように伴奏に取り入れてしまっているアルバムなのだから。と言ってもあくまでさりげなく、なのだが。
酷暑、エアコンの効いた部屋で夏バテの体を横たえ、遠い南の島を想いつつ聞き入るには最適の、静けさに満ちた、まさに”島”のゆったりとした時間の流れを届けてくれるアルバムである。
もっとも、良い気持ちでばかりは終わらせてくれない苦さも舌に残して行く。先に述べた冒頭の”カラ岳”の問題である。
そこは標高、ほんの100メートルほどの”山”なのだが、霊的な雰囲気さえ感じさせる景勝地である。また、観光資源としてばかりではなく貴重な動物相にも恵まれている。
そのカラ岳がこの数年、新石垣空港の建設候補地として挙げられ、その自然が根こそぎ破壊される危機に貧しているとの事。建設計画における行政の強引で乱暴過ぎる動きと、一部の者だけに利益誘導をせんとする策謀のあまりのあからさまさに慄然とする。
その有様、まさに税金の無駄遣いとしかいえない静岡空港の建設に反対し続けている静岡県民としては他人事とは思えず。
いずこも同じゼネコン行政に憤然たる思いを禁じ得ないのだが、そのあたりを頭に入れて”カラ岳”を聞き直すと、物静かな表現の内に燃える静かな怒りの炎に粛然たる気持ちにもさせられるのである。
”カラ岳ぬ上や いちまでぃん ユリぬ花どぅ咲き
カラ岳ぬ上や いちまでぃん カヤぬゆれる”
(”カラ岳”作詞・大島保克)