ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

ソウルの水脈、演歌の血脈

2011-11-28 22:49:17 | アジア

 ”Beautiful Life”by Zion

 パラレルワールドもののSFめくが、もし別の偶然が積み重なっていたら、この歌手はこの路線を行っていなかったのでは、なんて空想してみるときがある。
 新人歌手というのかどうか微妙な存在の韓国の歌手、Zion嬢の、ヒット曲”スーパーマン”を含む今年出たミニアルバム、”ビューティフル・ライフ”は、ピンクを基調にした、カラフルでリカちゃんチックなデザインのジャケに収められ、男たちばかりでなく若い女の子たちの共感も呼びたいのかな、とも想像させられる作りである。

 音の方は小股の切れ上がったZionのパワフルな歌声が炸裂した小気味よい仕上がりになっている。ミニアルバムゆえ全7曲ながら、R&B調のバラードばかりが並べられ、歌手としてのアピールのしどころもきっちり計算済みといったところだ。
 ところが。彼女はいかにも”ブラックミュージック好き”的なフェイクを織り交ぜながら熱唱を繰り広げているのだが、その底にあんまり”黒っぽい”という感触もないみたいな感じも受けるのである。

 では何があるのか、と言えば、それは演歌なのではないか。
 ワタクシ感じるのだが、Zion嬢のソウルフルなシャウトの芯の部分には、ド演歌の魂が横たわっている。彼女は濃厚な演歌魂のDNAを抱えてこの世に生を受けており、本来、ド演歌の歌い手として名をなすべき人だったのではないか。それもかなり男前な。日本だったら大漁旗をバックに「男の~船出はよ~♪」とか男歌を歌い上げていたんではないか。

 まあ、私にはそう聞こえる、というだけの話、なんの証拠も提示は出来ないのだが。が、そう思いつつ彼女の歌を聴くと、演歌と二重映しになったソウルミュージックという、なんともアンバランスなバランスの上に成立しているZionの歌世界、なんともワールドミュージック的な輝きを楽しめる一枚としてスキモノ諸氏には推薦申し上げたい気分なのである。

 ところで、先に新人と言えるのかどうかなどと書いたが。Zionは実は3年前にフルアルバムをリリースしているのである。で、今回のこのミニアルバムには、新曲の”スーパーマン”ほか一曲に、3年前に出たアルバムからピックアップした5曲を加えた、半端というか手抜きとも言える代物なのである。私のようにデビューアルバムを持っている者にはシングル盤としての価値しかない。(つまり、デビュー・アルバムはそれほどまでに売れなかったと解釈していいのだろう)

 妙な視点からではあるがZionのファンである私としては、今度出る(出ると期待する)2ndアルバムこそ、きっちり手のかかったものであることを期待するばかりである。




砂塵と令嬢

2011-11-27 02:21:22 | イスラム世界

 ”Bent Aboi”by Mashael

 ジャケ写真をご覧のとおり、歌手はなかなか清楚と言いますか気品ある美女でありまして、これはもう、あえて付け加えるほどのこともなくジャケ買いでありますな。彼女、サウジアラビアの人だそうです。が、中身はスケベ心を満たしてくれるどころではない、音楽的にも非常に聴きごたえのある一枚であった次第で。

 サウジの歌手と聞くと、例のユニゾンのストリングスが妖艶なメロディを奏でる、ゴージャスな湾岸サウンドなど想像してしまいますが、CDを廻してまず耳に飛び込んでくるのは、民族楽器と打ち込み混交でハードに打ち鳴らされるリズム群です。
 ガシガシと絡み合い地を這うそのリズム世界からは、湾岸というよりはむしろモロッコとかのマグレブ世界、あの北アフリカの乾ききったトランスサウンド吹き荒れるサハラ砂漠の砂塵舞う風景が浮かんでくる。ハードボイルドな男臭いサウンド・プロダクションと申せましょう。。

 そんな音に囲まれて、Mashael嬢が清楚な声を懸命に張り上げ、グリグリと曲がりくねった民俗色濃い、時に呪文に近いようなメロディを歌い上げてゆくさまには独特の迫力があり、何とも聴く者の血を騒がせるものがあります。
 実際、ここに貼り付けたものとは別に、彼女には遊牧民の生活をそのままバックにしたPVもあるわけでして。

 彼らアラブの民にとっての魂の故郷というべき遊牧民の生活とそこから直送のメロディを、むしろ都会的な美女であるMashael嬢に歌わせてしまう事の、ある種倒錯的でもあるスリルを現地の人々は楽しんでいるのではないかなあ・・・などというのはもちろん、無知な部外者の勝手な妄想でありますが。




生ぬるいぞ、キャンドロイド!

2011-11-25 03:08:26 | その他の日本の音楽
 え~、C-android という企画モノCDがありましてですね、昨日、23日が発売日だった。
 これが何かといいますとですね、エレクトリックポップスによるキャンディーズのカバー企画なんであります。
 レコード会社の宣伝文句によれば、”キャンディーズ゛のヒット曲を現在のミュージック・シーンに残し伝える事を目的とし、21世紀の音楽シーンを語る上で外すことの出来ないクリエイター達( kz(livetune), DJ TOMO, MANABU IWAMURA 他)によるヴァーチャル・キャンディーズ企画”なんだそうです。

 おそらく、コンピューター合成された音声によりヴォーカルが取られ、バックにはエレクトロニック・ポップのサウンドが暴れまわる、そんな形でかってのキャンディーズのヒット曲を楽しみ直す仕組みなんでしょうな。
 テクノ好きな、そしてもちろんキャンディーズ好きな私なんぞは、お。こりゃ面白そうだ、どんな具合にキャンディーズで遊んで見せてくれるんだろうと、発売日を指折り数えて待ったものです。で、さっき、レコード会社のサイトを覗いてみたらアルバム収録曲の各冒頭部分を視聴出来るようになっていたんで、さっそくクリックしてみたんですが。

 ありゃりゃ。どうやら私の期待は見当はずれだったようで。聴こえてきたのは、生身の女の子の歌声とまるで変わらない歌声が、無難な電子ポップスをバックに、キャンディーズの曲あれこれをただ歌う、それだけの音楽だったのであります。なんだ、この無難な仕上がりは。遊ばんかい、もっともっと。
 これじゃなあ。カラオケで素人の女の子が、ちょっとアレンジの変わったカラオケで”年下の男の子”とか歌っているのを聴いているのと、何も変わらないじゃないか。これで何が面白いんでしょうか。わかりません。

 などと傷心の心を抱きつつ、某巨大掲示板のその筋のコーナーを覗いてみたら。そこでは、「これはキャンディーズの音楽が分かっていない人の仕事ですね」「キャンディーズの音楽の良さが伝わってきません」などと、私とは逆方向からの、”キャンドロイド”批判がなされていたのでした。
 その論の骨子となっているのは、”電子音楽=心が通っていない”とかいう、滅茶苦茶ステロタイプな決め付けでありまして。お前ら、第二次世界大戦前にでも青春時代を送ったのか。まったく。あっちはあっちでこっちはこっちで。

 それにしても、焦って予約注文とかしなくてよかったよなあ。さすがにまだ You-tube には挙がっていないし、とりあえず、下がレコード会社の”キャンドロイド”のサイトです。
 ↓
「C-android」

ウクライナ逍遙

2011-11-24 04:12:53 | ヨーロッパ

 ”Ya Tvoya LYubov”by Sofia Rotaru

 ソフィア・ロタルと言えばウクライナの国民的歌手とでも言うべき存在で、旧ソ連時代からかの地に大歌手として君臨してきた。
 とはいえ、最初の夫を「反ソ連的行動があった」との理由で秘密警察(のようなものだろう)に暗殺されたり、ウクライナがソ連から独立する際は、”ウクライナでも大物、ソ連でも大物”ゆえ、ウクライナの愛国者諸氏から裏切り者との誹りを受けもした。
 それでも生き残り、今でも両地域における大物として君臨しているのだから、やはり偉大なる存在と認めざるを得ないのだろう。

 この2008年発表のアルバムでも、どこかに東方の香りを秘めたウクライナ独特のメロディを、そのハスキーな声でパワフルに歌いまくり、一体彼女は何歳なのだ?と首をひねるのも失礼なベテランの貫禄を示している。
 それにしても東欧圏というか旧ソ連圏というか、その辺のポップスを聴いていて、時に苛立たしく思えるのがバックのサウンドの工夫のなさだったりする。毎度おなじみの低温テクノにドスドスと道路工事みたいに空疎なディスコサウンドに、それからギターがガシガシとやかましいハードロック仕立てと。

 その辺の定番メニューがただ平板に演じられ、そう、なんだか韓国のポンチャク・ミュージックでも聴いているみたいな、一本調子でも盛り上がりさえすればいい、みたいな雑な音世界が展開されてしまうのだ。
 このへんのサウンドへの無神経は、このような大歌手(つまりは旧世代か)になるほど顕著のような気もするのであり、このへんも要するに”東側”のポップス界の後進性と理解し、新しい世代の台頭を待つしかないのか?

 などとブツクサ言っているのだが、しょうがないからこのCDを、やや抑え気味のボリュームで仕事のBGMとして気のない聴き方をしていると、その工夫の無いバッキングに乗って歌われる彼女の歌声の流れの中から、凍り付いた冬の川の淵にこびりついていた遠い時代のため息、深い深い哀感などなどがいつの間にか立ち上っていて、こちらの心をいつの間にかがっちり締め付けているのだから、やはり油断は出来ないのだった。



英国スケッチ

2011-11-22 05:59:20 | ヨーロッパ

 "ENGLISH SKETCHES" by Hilary James

 この秋、イングランドのトラッド歌手、Hilary James の新作アルバム、”イングランドのスケッチ”がなかなか良い感じだ。
 1990年代のはじめ頃から、もう何枚もアルバムを世に出してきた、Hilary James だが、このアルバムが英国の伝承歌の歌い手として名を高めるきっかけとなるのではないか。
 ともかく、そのたおやかでかつ涼しげな美声が伝えてくるのが、いかにも秋空に似合いの清々しい情感なのだ。

 秋はトラッドだよねえ。猛威を振るった凶暴な夏が消え去り、高々と青空が天の底まで晴れ上がり、シンと空気が落ち着いてきたら、人はなんだか人恋しい思いで一人旅に出たくなったりする。そんな気分で聴きたい音楽はやはり北国の繊細な伝承歌のメロディ。それも清楚な女性の歌声で聴きたい。

 裏ジャケにアルバムの趣旨が書かれている。これはイングランドの風土と天候と季節への賛歌である。それを、伝承歌やシェイクスピアなどの書き残した詩に新しくメロディをつけたものによって形に表したものであると。
 この、シェイクスピアというのがいいじゃないか。微妙な浮き世離れの間合いがいい。遠い時代の人ゆえ、ことが生々しくならず、しかも相手は大シェイクスピアだ。何が文句があるというのだ。

 バックを受け持つ、彼女の長年の音楽上のパートナーであるマンドリン奏者、サイモン・メイヤーが、ギターやバイオリンがメインの穏やかな、”森の楽団”的サウンドを演出している。アルバムの最初と最後だけに登場してくるオーボエの優しい響きがひときわ、心に残る。
 手入れの行き届いた瀟洒な英国式庭園、そこに吹きわたる風の表情をスケッチしたみたいな、瀟洒な一枚になった。ちょっぴり切なくて、ね。いいね。




夜間飛行

2011-11-21 05:50:40 | その他の日本の音楽

 ”Night Flight”by Perfume

 そろそろ新しいアルバムも発売になると言うことで、久しぶりにパフュームの前作、「トライアングル」を引っ張り出して聴いている。

 やはり”ピノ”のCMにも使われた曲、”Night Flight”が良い感じだ。やや陰りのあるテクノ歌謡なのだが、夜間飛行の独特の雰囲気をうまく醸し出している。
 夜の空を行く飛行機の金属の沈黙、窓の外に広がる雲の眺め、立ち込める若干の不安感、心の裏側を流れて行くささやかな旅愁などのやや湿った感触が、この曲のうちからジワジワと広がり、アルバム全体のムードを決定している。その陰り具合が妙に好ましく感じられ、気が付けば愛聴している。

 実はパフュームを”テクノポップ”としては全く評価していない。低音部もドラム音もやかまし過ぎるし、サウンドの全体もハード過ぎる。テクノを名乗るならもっと薄っぺらな玩具のごときサウンドにしてもらいたいものだ。
 が、まあこの辺りは製作者との”テクノ感”の違いということで、言ってみたってしょうがないんだろうが。じゃあ、なんで聴いているのかって?いや、パフュームのファンなの、単なるアイドルとしての。

 などとぼやきつつ、また自室に座ったきりの夜間飛行へ。



退屈する者の時間

2011-11-19 21:07:21 | アフリカ

 再び、<”From Africa With Fury:Rise”by Seun Kuti & Egypt80>に関して

 先日、「今、ワールドもの好き界隈で好評のシェウン・クティの新作アルバム、”怒りのアフリカより;RISE”が、私にはどうも皆が言うほど良い作品とは思えないのだが」と、戸惑い気味の文章を書いてみた私でありますが。

 先ほど書店に並んだミュージック・マガジン誌12月号の”クロスレビュー”のページに、なかなか小気味よい、というか私にしてみれば力付けられる文章を見つけた。それはかの雑誌編集長の高橋氏による、シェウン・クティの問題のアルバムへの評であって、そこにはこう書かれていたのである。

 <フェラ以外のアフロビートは緩急の妙というものがないものが多く、それが僕には面白くない>

 今回のシェウンのアルバムも同じだ、というのだから嬉しくなってくるではないか。<ノリは平板で軽い>とも、高橋編集長は言っておられる。もうこれは私の、「スムーズ過ぎて取っ掛かりがない」というのと、表現は違うが、似たような感想を抱いた、と考えていいのではないか。
 さらに、編集長のレビューは、このように締めくくられる。

 <一曲一曲では物足りないが、ずっと聴いてるとハマっていく>

 人は、あんまり乗り気でない物件に対し、無理やり自分を納得させ肯定的立場をとろうとする際に、よくこんなことを言うのではないか。私なりにこの一行を翻訳してみると、こうなる。

 「今度のシェウンのアルバム、そんな良いかなあ?あんまり乗れないんだけど、業界のコンセンサスとして、あのアルバムは大傑作って評価で行くってことになっているからなあ。まあ、何度も聴いているうちに良いような気がしてくるだろう。ここは、皆と口を合わせておくのがオトナの生き方ってものだろうな」
 違いますかね?まあ、私にはそう読めた、ということで。

 そうなんだよ。先日の私の文章は、皆があのアルバムをあまり褒めていたんで、ちょっと腰が引けていた。面目ない。今度は、はっきり書く。つまらないよ、あのアルバム。
 元祖アフロビートであるオヤジのフェラが持っていた、世界に対する強固な異物感、それがあのアルバムには決定的に欠けている。代わりにあるのはシェウンの、妙にのっぺりした二枚目顔のつまらなさだ。優等生の回答のつまらなさだ。皆があのアルバムを傑作扱いするのが、私にはどうしても分からない。たいしたことないアルバムと思うぞ。

 昔々、まだ面白かった頃のタモリがラジオで言っていた。
 「最後に勝つのがどっちかは知らないけど、最初に嘲ったのは俺だよ」
 そのひそみにならい、私もこう言っておこう。
 「あのアルバムの決定的評価がどうなるのか知らないが、あのアルバムを最初に”退屈だ”と言ったのは俺だよ」

 敢えて、問題のシェウンのオヤジ、フェラ・クティの音を貼る。シェウンのアルバムに感動する前に、もう一度聞き比べてみよう、皆の衆!




欧州古楽街道を行く

2011-11-18 03:14:09 | ヨーロッパ

 ”Futuro Antico III”by Angelo Branduardi

 イタリアのお伽話系(?)シンガー・ソングライターのAngelo Branduardi が、世紀の変わり目あたりからリリースを続けているFuturo Antico なる古楽発掘シリーズは、ヨーロッパの伝承音楽から濃厚に影響を受けつつ音の幻想物語をつむぐ彼の、いわば元ネタ公開とでもいえるもので非常に興味深い。

 彼が次々に引っ張り出してくる古きヨーロッパの音楽は、つまりは音楽によって語られる歴史絵巻で、ほとんど官能美といいたい妖しげな美しさを放ちつつ、ヨーロッパ文化の内懐を濃厚な流れで描いて行く。
 そのサウンドも、達者な古楽アンサンブルをバックに純朴過ぎるAngelo Branduardi の歌声が響く、アンバランスのような新鮮なような、なにやらむずがゆさを孕む、独特の面白さを放っている。

 それはいいのだがこれ、ともかく長大なシリーズで、もう第7集だか8集だかが出ているようだが、その意外にエネルギッシュな製作ペースに聴く側のこちらが全然追いつけていない。私なんぞは2002年に出た、この第3集あたりにいまだに引っかかっている始末だ。
 この回は、イタリア北部の都市 Mantova の貴族の家のために書かれた音楽を取り上げているのだそうだが、そんな方面には何の知識もない当方としては、うん、まあ、ああそうですかと恐れ入りつつ聴き入るよりなし。

 それにしても凄い連作を始めたものだなあ。とても読みきれない重厚長大なロシア文学かなんかにうっかり手を出してしまった感じもあるのだが、その面白さに触れてしまった以上、途中でやめるわけにも行かないのだ。



私はスマイルを聴かないだろう

2011-11-16 05:35:03 | 60~70年代音楽

 ”Smile”by Beacn Boys

 さっき書店で見かけた”レコードコレクターズ誌の最新号は、ビーチボーイズの”スマイル”の特集号だったようだ。何だ、またかよ、なんてうんざり気分で私はその雑誌を外角低めに見送ったのだった。なんかさあ、この雑誌、年がら年中、”スマイル”の記事を載せていないか。
 いや、年がら年中ってことはないだろうが、あのアルバムに関する記事が載るのは一度や二度ではないはずだ。もうそろそろ鼻についてきた、と感じるのは私ばかりではないと信ずる。

 私が”スマイル”の物語を知ったのはいつのことだったろう。まさかリアルタイムでなんてことはない。ビーチボーイズの、それほどのファンではなかった。私にとっての”ロックの季節”が過ぎ去り、オトナという奴になり、さらにずっと経ってからだろう。
 青春の挫折の記念碑はいつでも美しく、悲劇の芸術家の物語は、いつでも人の耳に快い感傷として木霊し、そのまま甘やかな一片の青春文学となりうる。
 ロックという音楽がまだ若く、眩しく光り輝いていた頃に、時代の最先端に切り込まんとして力及ばず、作品を死産させてしまったブライアン。

 どでかいテーマにぶち当たってしまったビーチボーイズのリーダー、ブライアン・ウィルソンが、そのテーマを具現する”スマイル”なるアルバムを作り上げようと試みたが力及ばずアルバムは未完に終わり、失意のブライアンはドラッグの海の底で長い長い隠遁生活に入ってしまった、あらすじはこんなところだろう。

 私も、すっかりチューネンという年代となったある日の仕事の合間、けだるい夏の昼下がり、クーラーに当たりたさに立ち寄った町の書店で、ブライアンと彼の生まれることのなかった奇跡のアルバムの物語を音楽雑誌の片隅に見つけ、遥か過ぎ去った青春の日々に鳴り響いていた”グッド・ヴァイブレーション”の響きと、その喪失の物語を重ね合わせて、それなりに切なくなってみたりもしたものだった。
 「聴いてみたかったな、その”スマイル”とか言うアルバムを」などとつぶやいてみて、リアルタイムで聴けば多分、自分にはわけが分からなかったであろう、その音楽を夢想し、そのアルバムが世に出ていれば、なぜか知らないが別のものになっていたらしいこの世界を夢想した。

 そいつは定番の過ぎし青春の日々と叶わなかった夢への感傷で、それを弄ぶためのガジェットとして好都合なものの一つが”スマイル”の物語だったのだ。
 そんな感傷があったっていい。それを一舐めすることが日々を生きて行くための慰めとなるならば。
 けどなあ。こうたびたび引っ張り出され話題にされて、ないはずのアルバムがいつの間にか出来上がっていて、そいつが何枚組もの秘蔵盤として大々的に売り出されてしまっては。もういい加減、興醒めと言うものではないか。

 そんなわけで。この文章もいい加減、長過ぎるものとなっている。結論を言おう。私は”スマイル”を聴かないだろう。



この秋、ツイッターで呟いたこと

2011-11-15 05:22:17 | つぶやき

2011年11月13日(日)

ある人物、いわく→ これでも暴動が起きない日本に呆れる

私→ そういうあなたが、暴動の先頭に立って駆け出すでもなし、そこに座ったまま。それが暴動の起きない理由です。

2011年11月13日(日)

@genpatsu_news 山本太郎、原発国民投票に向けて覚悟を決める。
 ↑
国民投票で「原発賛成」って結果が出ちゃったらどうするんだろ?”運動”の中にいる奴には見えていないものだけど、”民意”って、そんなに都合の良いものじゃないよ。

2011年11月11日(金)

”反対派議員”を”慎重派議員”にと、すわりの悪い言いかえをする放送局あり。反対と慎重じゃ全然意味が違うが、もちろん連中は意図あってやっているのである。

2011年11月08日(火)

某氏→ アフリカ(ナイジェリア)の音楽というと、いわゆる超土着的でプリミティブな音楽を想像する人が多いと思うんだけどPopもHiphopもRapもReggaeもあって

私→ でもあまり面白くないし、その方向には行かないで欲しいと願う。

某氏→ 面白くないっていうのは今流行ってる(主流の)音楽が、って事ですか

私→ 挙げておられる、「PopもHiphopもRapもReggaeも」の、すべてを指します。 とりわけ、アフリカのミュージシャンがアメリカの黒人のファッションまで真似てラップとかやっているのを見ると情けなくて涙が出てきます。

某氏→ 何故「情けなくて」涙がでてくるんですか

私→ 豊かなアフリカ音楽の源泉に暮らしながら、ラップなどという愚劣な音楽をありがたがる、その姿が哀れだから、です。

某氏→ アフリカのミュージシャンはいわゆるアフリカン・ミュージックをやってるのが一番良いって感じですか

私→ 何をやるのがいいのか知りません。ただ、つまらないものはつまらない、と思うだけで。

某氏→ 日本人ラッパーに関してはどうですか

私→ 死ぬほど頭悪いなあ、こいつら。なんでラップをやる奴らってバカばかりなの?と思っています。

2011年10月14日(金)

アメリカ南部の黒人たちだけが集う酒場に柳が飛び入りして「我が心のジョージア」を歌う、というテレビ企画があった。その際、柳がふと「ロード・ハブ・マーシー」と呟いたら黒人たちが「お前がそれを言うのかよ」てな顔して大笑いしたのだった。文化の垣根についてナマに感じた一瞬だった。

2011年10月09日(日)

前から思っていた事なんだけど。あの「カロリミット」とか言うもののテレビCMを見るたび、「いっぱい食べる君が好き♪」とか歌っているフニャフニャ声の男を思い切りぶん殴ってやりたくなるのは、私だけだろうか。

2011年09月25日(日)

かって浜岡原発を止めた管総理を、あなたがたは「早く辞めろ」と罵声で迎えた。そして今日、国連の場で原発推進を宣言する野田総理を、あなたがたは沈黙をもって承認してしまう。そんなあなた方のどこが、反原発派、脱原発派といえるんだろうか?