ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

漢江を渡りてジーザスは

2011-04-30 02:37:46 | アジア

 ”CCM for Consolation”

 まるで信仰心なんてないくせに、宗教音楽となると変に入れ込んでしまう私が最近、気になっているのが、韓国のCCM(contemporary christian music)なのでありますが。

 まあ、欧米のゴスペルの影響下に、その国なりのキリスト教系ポップスを作り上げた、なんてあたりはインドネシアのロハニなんかと同種のものかとも思えます。結構洗練された都会派ポップスの相貌を持っているのも共通している。
 が、ロハニと比べると、あの南国の熱情とラテンの血の騒ぎみたいなものは見受けられません、韓国のCCMには。代わりにあるのは爽やかさ、でしょうか。ある韓国通の人のブログの表現によれば”パステル調のポップス”と言うことになる。朝の目覚めのBGMには、ちょうどいい感じ。胃にもたれない軽さで綺麗な、そしてちょっぴり切ないメロディがクリアな発声のボーカルによって爽やかに歌われて行きます。

 とはいえ、先のブログでは「韓国語の分からない人には、気持ちよく楽しめるでしょう」なんて苦い(?)一言で紹介文は終わっているのであって。
 なにしろ教会での礼拝の際にも歌われると言うCCM、歌詞はやはりディープなキリスト教信者のためのものであり、そうでない者にはかなりの違和感を与えるものなのであろうかと思われますな。
 爽やかに聴いていられるのは、語学力なきゆえに韓国語をただの”サウンド”として聴いてしまえるのが幸いといえるのかも知れません。まあこれはロハニなんかも同じ、というかゴスペルだってカッワーリーだって同じことだろうけど。

 ここに取り出しましたるは、”CCM for Consolation”なる、4枚組CD。わざと、一番俗っぽそうなのを買ってみました。
 このタイトルといい、きれいなモデルのお姉さんがおしゃれにポーズをとっているジャケといい、どうもあんまり生真面目な宗教っぽさは感じません。なんか、リラクゼーションのためのアロマオイルのパッケージみたい。
 で、収められているのが石鹸の匂いがしそうな健全な男女の歌手の爽やかポップスというわけで、もしかしたら現地では特にクリスチャンに限定せずに、普通に”癒しの音楽”として大衆に受け入れられているのかなあ、などとも思えてきます。まあ、歌詞の問題はひとまずおくとして。

 でもいいのかなあ、こんな風に「疲れなくていいや」とか言いつつ気軽に聞き流していて。まあ、私が韓国語を理解できるようになる日は、もし来るとしても相当先のことにあるだろうしね、とりあえず、このまま。

 下に試聴として、これはカバーもかなり多いし、韓国CCMを代表するナンバーと言っていいんじゃないでしょうかね、「愛されるために生まれた」なる曲を貼っておきます。画面に歌詞英訳が出るんで、その世界を理解する一助となるかと。まあ、この曲なんかは、あんまり賛美歌っぽくはないけど。



生きている君たちが

2011-04-29 04:00:59 | 時事

 福島第1原発:学校の放射線量目安、市民団体も撤回要求

 福島第1原発事故で、文部科学省が福島県の小中学校や幼稚園での屋外活動を制限する放射線量の目安を決めたことについて、原子力資料情報室など六つの市民団体は27日までに「大人よりはるかに高い子どもの感受性を考慮に入れていない。年20ミリシーベルトを強要する政府に抗議する」と、決定の撤回を求める声明を出した。

 声明は、目安とされた「年間の積算被ばく放射線量20ミリシーベルト」を「原発作業員が白血病で労災認定を受ける基準に匹敵する」と強く批判。また、学校側の自主的な防護措置を妨げる恐れがあり、文科省と原子力安全委員会による決定プロセスも不透明だとした。

 ☆2011年4月27日・毎日新聞”毎日Jp”の記事より。
(http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110427k0000e040013000c.html)






ジャワ追憶

2011-04-28 02:28:32 | アジア

 ”Jawa in Orchestra”by Semarang Fantasy Orchestra

 これは切ないアルバムであります。民俗楽器を含む大オーケストラ編成で、ジャワの民謡端唄のタグイを交響曲にアレンジして演奏している、そういった企画ものです。
 まあ、生真面目なファンの人は怒るかもしれない代物なんだけど、ともかくすべてを”懐かしさ”に包んで、情感溢れる演奏に仕上げているんで、ジャワ方面の音楽を古くから聞いてきた方はたまらないんじゃないでしょうか。

 遠眼鏡の向こうの風景は、懐旧の涙の中のジャワの風景は、まるで子供の頃の縁日で見た幻灯機の映像みたいに闇の向こうにほの明るく頼りなく灯って、揺れているのであります。もう、たまらなくジャワに帰りたくなりますな。
 いや、帰るってのは変なんだ。私が昔から言っているように、”いもしなかった所には帰れません”と、そういうことなんでね。でも。
 このアルバムに溢れる濃厚なノスタルジィに浸っているうち、なんだか自分が子供時代をジャワで過ごした、みたいな勝手な幻想が生まれてきて、ふと荷物をまとめてジャワに帰ってしまいたくなる。行ったこともない、あの故郷に。

 聴いているうちに何度も思い出したのが、昔読んだ”怪傑ハリマオ”のモデルになった、日本人の評伝でした。
 日本人の血を引いてマレイの地に生まれ育った彼は、折から起こった太平洋戦争に、その立場ゆえ引きずり込まれ過酷なかかわり方をさせられるんですが、最後の時には彼を育んだマレイの地にあるイスラムの墓所に自ら望んで迎えられて行く。
 そんな”ハリマオ”の、南の地への口には出さぬままだった想いが静かに香る、そんな空想をさせられる幻想絵巻のようなアルバムです。

 この音楽、この場に貼りたかったんですがね、どうもネット上にはないようだし、にたようなものも見つからない。残念です。しょうがないから、というのも失礼な話だが、ジャワの大歌手、ワルジナーなど貼っておきます。



森の少女 from 韓国

2011-04-27 01:11:54 | アジア

 ”dream light”by lu sienna

 はい、正直に申告いたします。上のジャケ写真をご覧になってお察しの通り、ジャケ買いの一発であります。一目見て、即”買い”でありました。このルックスで歌手名が”lu sienna”となると、欧米人とのハーフの子かも知れないな。
 もっとも、中ジャケの写真を見てすぐに幻想は破れましたが。歌手は、普通のルックスの韓国の少女でありました。ジャケ写真にあるエキゾティックな美少女、というのはこの歌手が厚化粧をして、ある角度から写真を撮ればそういう顔に写ることもある、という仕組みのようで。いや、そうしなくても、そのままでも可愛い子なんですがね。

 韓国の実力派新人歌手のデビュー盤。何でも韓国で人気のオンライン・ゲームの主題歌など歌って人気の歌手だそうな。あちらのアキバに相当する場所で人気だったりするんでしょうか。ゲームの主題歌は、ファンの間では”神曲”だったりするんでしょうか。歌詞がなかなか幻想的だったりするらしいんですが、谷山浩子みたいな世界でも展開しているんでしょうか。興味をそそられます。

 音楽の出来上がりは、なかなかに爽やかなフォークロックで良い感じ。癒されます。 特に、韓国の実力派歌手にありがちな、ハスキーな声を「ドスコイッ!」と力んで熱唱に持って行ってしまうやり方ではなく、あくまでナチュラルな、”普通の女の子”の声質をキープしたまま朗々と歌い上げる歌唱法は、凄く好ましいと思います。このまま行って欲しい。
 雨上がりの森を吹き抜けて行く風、みたいな涼やかな曲想とアレンジ、そして歌声は、歌詞の分からない当方も現実のもう一つ隣りにある妖精郷でのリフレッシュ・タイムをひととき、楽しめたのでありました。

 惜しいのは、これが韓国では当たり前になっている”ミニ・アルバム”であること。5曲入り、正味20分間なりの小旅行では、いくらなんでも物足りないよなあ。次回は是非、フル・アルバムをお願いしたい。




ソウルマン・ソウルタン

2011-04-25 01:55:12 | イスラム世界


 ”Code”by Ahmed Soultan

 アーメッド・ソウルタン。なんちゅうとぼけた芸名使ってるんだろうね。なんぼソウル・ミュージックが好きか知らんが。
 こやつに関して検索かけて調べようとすると、パソコンの方が気を使って「スペルはそれでいいのか?違うんじゃないか?アラブにはSultanという言葉もあるぞ。そっちじゃないのか?」と懸命に忠告し、そちらへ誘導しようとするのがおかしい。かつ、うっとうしい。しょうがないじゃないか、こいつがそんな名を名乗っている以上。

 ソウルタンは1978年生まれのモロッコ人のシンガーである。モロッコ人とは言っても、アラブ人が北アフリカにやって来る以前のかの地の先住民、ベルベル人の血を引いているようだ。そんな彼は非常に若い頃(子供の頃、という意味か?)フランスへ移民として渡っている。ヨーロッパ生活のほうが長いのかもしれない。
 彼の音楽は、まあ、そのような人生を歩んで来た彼なりに誤読した、アメリカの黒人音楽の潮流に連なる音楽、とでも言えばいいんだろうか。ファンクやヒップホップの色濃い重たいビートが繰り出され、その上にモロッコの民俗楽器の音や、英、仏、アラビア、ベルベルの4種の言語が交錯する歌声が重なる。

 形状としてはまったくアメリカの黒人音楽そのものみたいなものなのだが、意外に気に入ってしまったのは、そんなアメリカのブラックミュージックの器に盛られた料理から、スパイスの効いた北アフリカらしい刺激臭が伝わって来たから。
 それとも、オノレのアイデンティティがどうのこうの、なんて言う余地もないままに異境の音楽に骨がらみにされてしまった身の、歪んだ復讐劇の予感を聴き取ってしまったから、とでも言おうか。
 いやいや、その音楽の上に吹いている、ヒリヒリする熱い砂漠の砂と風の手触りに、なんだか妙に血が騒いだから、という感じだろうか。



台語天后、降臨す。

2011-04-24 00:27:26 | アジア

 ”一口飯”by 蔡秋鳳

 台湾演歌シーンにおける、我が最愛の人の新譜が手に入った。もはや大ベテラン、ジャケにも「台語天后」と刷り込んであるくらいの存在である蔡秋鳳のアルバム、”一口飯”である。なんかM-1とか思い出しちゃうタイトルだけど、別に関西の漫才コンビとは関係ない。
 彼女には別に、「鼻音天后」なんて変なあだ名があって、独特の鼻にかけた発声法が売りの歌い手だ。その鼻声は「ミャー」とか「ビャン」なんて音が耳につく台湾語のアクの強さをさらに増幅する効果があるみたいで、一声響けばあたりには濃厚な台湾情緒が満ち満ちる。
 さらに彼女の声は妙なところで裏返り、しかもその際、ヒステリックな擦過音を伴うこともしばしば。いや、悪口を言っているんじゃなくて、そこが良い。大衆音楽の美学とクラシックの正しい発声法は、なんの関係もないからね。

 このアルバム、冒頭に置かれたタイトル曲のビデオ・クリップなど検めてみるとホームレス問題などテーマにしているようで、まあテレビドラマの主題歌ではあるんだが、いずれにせよちょっと気が重くて見ていられなかった。これは音だけ聴くことにしとこう、と。
 その曲も含め、このアルバムに収められているいくつかの曲は、彼女の最高傑作といえるであろう「金包銀」の、あからさまに影響下にある出来上がりである。つまり、いくらか社会的なテーマに傾いた重い歌詞を、ディープな講談調のメロディで歌い上げる、という形。
 やや社会派チックなドラマだったらしい「一口飯」が、それなりに話題にもなり曲のほうもヒットもし、という事情から、柳の下の何匹目かのドジョウ狙いでそのような曲が並んだのか。

 まあ、本当のところは分からないんだけど、ほかの歌手なら頭でっかちで堅苦しい出来上がりになってしまうそのような設定も、女后・蔡秋鳳の歌声が響けば、ますます濃厚な台湾情緒を醸し出すきっかけとして作用するばかりで何も問題はなし。というか台湾の精神風土により深くコミットすることになり、アルバムの出来に深みが出たといってもいいんではないか。
 となるとドラマ「一口飯」についても、どのようなものか、ちょっと知りたくなるんだが、どうも重い話みたいなんで、この時節、遠慮しておきたい。それより今の私に必要なのは、下に貼ったみたいな一見、たわいない演歌の歌い流しだ。こんな具合に、常に弱い庶民の傍らに立ち、ただ無力な涙を流し続ける、そこのところに大衆音楽の勘所がある。分かる人にしか分からない話かも知れないけどね。





フジ・ミュージック恨30年

2011-04-22 23:58:18 | アフリカ

 ”Iwa ”by Sikiru Ayinde Barrister

 もう、この話は何度もしてきているんだけれど、かってワールド・ミュージックに”ブーム”と言えるほどの光が当たり、あちこちで各国を代表するミュージシャンが集合してのワールドミュージック・フェスティバルのタグイの大規模なコンサートが催された、なんて時代があった。今となっては現実とは思えないくらいなんだが。ともかくパキスタンのヌスラット師などという畏れ多い方のライブを当たり前の顔して見ていたんだから恐ろしいもので。
 その中でも飛び切りの大看板といえたのは、やはりナイジェリアからジュジュ・ミュージックを引っさげて世界に打って出たサニー・アデの来日だったろう。当時、普通の夕方のニュース枠で、民族衣装に身を固めたアデが成田空港に颯爽と姿を表す様子が報じられたのだから、とてつもない話。時は流れて今、サニー・アデが何をしているのかを、というか、その名を覚えている人もろくにいやしない。現実は過酷だ。

 そのアデ来日の頃、我が国の輸入レコード店にナイジェリアからの輸入盤が溢れた、なんて椿事もあった。アデ人気に当て込んで仕入れたのだろうが、結果はどのような収支決算となったのか。私などは砂糖壺に迷い込んだ蟻状態で、手当たり次第にそれらの、なにやらめちゃくちゃ汚れた埃だらけの盤を大喜びで買い込んでいたのだが、レコード店側の裏事情をご存知の方、どこかに追想録でもまとめてくれないものか。
 そんなナイジェリア盤の中から、たとえばフジ・ミュージックなどという怪物に出会い、すっかり魂を持って行かれてしまったのは私ばかりではないだろう。ボーカルとパーカッションのみ、という潔い楽器編成。ボーカリストの鋼の喉から搾り出されるイスラムっぽいコブシのかかった、しかも日本民謡と極似した音階を持つ、実に魅惑的なダンス・ミュージック。
 その、西欧音楽の影響をこれっぽっちも感じさせないワイルドで黒々としたアフリカ風美の洗練のありように我々は、こんな音楽があったのか!とすっかり魂を持って行かれたのだった。などと思い起こすだけでも、血が騒ぐ思いがするのだが。

 その当時、私が出くわした最初のフジ・ミュージックが、この”Iwa”だった。フジ・ミュージックの開祖、といわれるアインデ・バリスターが1982年、ナイジェリアはラゴスでリリースした、強力盤。私は、その地獄の底から響き来る悪鬼の蠢きみたいな険悪な気配に満たされたパーカッションのアンサンブルの迫力と、独特のエコーを伴ってのた打ち回る野太いバリスターの歌声にすっかり魅了され、フジのレコードを求めての、オノレこそが悪鬼であろう、と言われても仕方のないレコード店めぐりが始まった。
 そして時は流れ。なにやら今日のフジ・ミュージックは、かっての黒く重たいビートを捨て、非常にスピード感のある、だが妙に軽く薄味な方向に梶を切っている。と、私には思える。そうなってしまった音楽、私にはもう、フジ・ミュージックとは思えないのだが。
 先日、バリスターの訃報を聞いた。正確な彼の享年を知らないのだが、いずれ早過ぎる死であることは確かだろう。生涯現役ではあったが、もうすでに大御所のポジションにいたバリスターは今日のフジ・ミュージックのありようをどう思っていたのだろう?

 このたび、その思い出の”Iwa”のCDを手に入れた。こんなものが出ていたんだな。アナログ盤を買い集めていた当時、その埃だらけであちこち反っている盤を聴きながら友人と、「そのうち、ナイジェリア盤のCDなんてのが出てくるのかもな」などと、あくまでジョークとして言い交わしていたものだが。いつの間にかそいつは現実になっている。
 CDに姿を変え、久しぶりに聴く”Iwa”は、記憶の中で高熱を帯びて鳴り響いていた音より、幾分かクールなものとして聴こえた。まあ、こちらもアフリカの音楽はその後、それなりに聞き込んでいるからね。
 さまざまなリズムが交錯するメルティング・ポットと感じたパーカッション群は、むしろ整然として重く地を這う感じだ。ミニマルミュジック的、なんて言い方さえ出来そうだ。それは、姿勢を低くして対戦相手に接近する手だれの格闘家のすり足、なんてものを連想させる。
 そしてバリスターの歌声。最近のものと比べれば、相当に若く青い響きが、こちらをなにやらセンチメンタルにさせる。まだ若く、手に一物も持たない街角のヒーローたる青年、アインデ・バリスターの怒りに満ちた呻きが、イスラム仕込みのコブシとなって、脈打つリズムと共に灼熱のラゴスの街を流れて行った、そんな日々を思う。

 あれから。30年くらい、過ぎて行ってしまうんだよな、簡単に。




サン・サーンスのパリ暮色

2011-04-20 02:06:55 | クラシック裏通り

 ”Camille Saint-Saens ・Melodies Sans Paroles
  (Songs Transcribed for Oboe & Piano)”
 
 フランスの作曲家サン=サーンスが、もともとは歌曲として書いたメロディを、オーボエとピアノのデュオ用に編曲したもの、なのだそうです。クラシックの世界では、このような変奏は、どのように認知されているんだろう?もちろんポップスの世界では、やりたい放題なんだが。
 それはそれとして。私はこの、ピアノだけをバックに木管楽器が鳴り渡るデュオ編成って大好きなんですね。ジャズでもクラシックでも、見かけるとつい買ってしまったりする。木管系の内省的な響きが、ピアノとの静かな対話の内に、心の内に染み入るように想念を広げて行く、そんな感じが。

 まあ、クラシックの熱心なファンでもない私のようなものにとってはサン・サーンスといえば「動物の謝肉祭」なんだけど。中学の授業で聞かされたその作品はクラシックにしては楽しい出来上がりで結構好印象を持ったものだった。とは言え、メロディの断片一つ、まともに覚えちゃいないが。
 この作品集で聴かれるサン・サーンスは、なんだかめちゃくちゃに粋な人、という印象であります。中学の記憶を掘り起こし、ここまで粋な人だったのか?なんて思ってみたりもしますな。

 ジャケの絵にあるような19世紀のパリの煤けた町並みを、蹄鉄の音を石畳の道に響かせて馬車が行く。夕暮れが忍び寄りガス灯に灯がともり、優雅な夜会服に着替えた人々が行き交い、街は華やぐ。そんな大時代なロマン暮色が、盤の隅々までビッシリつまっている感じです。
 もともと”歌心”というものを機能させるために編み上げられた歌曲のメロディが歌詞さえ剥ぎ取られて、より抽象的な器楽演奏という形で、空間に解き放たれる。それがこの作品においては、作曲家が意図したよりも明瞭に、メロディのうちに潜む切ない感傷が零れ出てしまった。そんな気がするんですが、どんなものでしょう?

 サン・サーンスという穏健にして知的な(と、ウィキペディアには書いてあった)大作曲家の胸のうちに息ずいていた若気の至りが仄見える、そんな気がして嬉しくなるんだけど。
 いや、ほんとに切ない、それこそ私の求める”港々の歌謡曲”状態で、メロディは夕暮れのパリの街角に響き渡っているのであります。




フェリーニのジャズ

2011-04-17 03:13:41 | ヨーロッパ

 ”Fellini Jazz”by Enrico Pieranunzi

 何年前だったか、イタリアの映画監督、フェデリコ・フェリーニ没後10周年企画として製作されたアルバム。すべての収録曲の編曲も担当している、ヨーロッパ・ジャズ界の大物ピアニスト、Enrico Pieranunziが中心となり、アメリカジャズ界の応援を得て製作した、フェリーニの映画音楽をジャズってみよう、という趣旨の作品だ。ベースがチャーリー・ヘイデン、ドラムスがポール・モチアン、といった結構シリアスな(?)編成である。

 フェリーニの映画音楽、ということで収められた11曲中8曲がニーノ・ロータの作曲になるもの。だからどう演奏したってこうなるというか、ホーン勢はちゃんと吹いてるのに、なぜか調子外れっぽく鳴り渡ってしまう、みたいな味をはからずも出すスローものが良い。イタリアの場末にいつの間にか夕陽が差し込んでいる、みたいなダルい哀感が、そこら一面に漂う。
 ことに中盤、”アマルコルド~カビリアの夢~甘い生活”と続くあたりが、このアルバムのハイライトか。”あのころ”のイタリア映画に流れていた空気感が蘇るようで、たまらない気分だ。ただレコーディングのためにローマに呼ばれてテナーを吹いているだけのはずのクリス・ポッターの、”カビリアの夜”におけるソロには、気がつけばいつの間にか、イタリア庶民の喜怒哀楽がベッタリ染み付いている。

 ”甘い生活”において、どこか関節の狂ったみたいなリズムパターンを繰り返すリズム隊とホーン・セクションとのやり取りは、なんともニヤニヤさせれられてしまうのだが、”あの時代”は濃厚にジャズの時代だったんだなあ。フェリーニの映画に、そこまでジャズが鳴り響いていたわけでもないのに、このジャズアルバムには、フェリーニの映画が持っていた体温みたいなものが横溢してるんだ。
 9曲目、”ラ・ストラダ”の終わり近くであの忘れがたいジェルソミーナのテーマが浮かび上がるところが恰好いい。
 また、次の曲、”カビリアの夜”のテーマ提示をなにやら歌謡曲チックに決めて見せるところはイタリア気分横溢。あっと、この曲は旅芸人やらジプシー気分を暗示しているのかな?

 ラスト、フェリーニに捧げたワルツはいかにもイタリア映画のエンディングに流れそうな泣かせの旋律で、その、いかにものそれらしさにニヤリとさせるのだが、聴き終えればイタリア映画の一本も見に行きたくなってしまう一作なのだった。それもDVDなんか借りて来たんじゃダメだ。ちゃんと映画館に行って見たい。




ブラジリアの空へ

2011-04-16 04:17:21 | 南アメリカ


 ”GISMONTI PASCOAL, A MUSICA DE SGBERTO E HERMETO ”
       by HAMILTON DE HOLANDA & ANDRE MEHMARI

 ブラジルの怪物バンドリン奏者、HAMILTON DE HOLANDAの演奏をはじめて聴いたのは、あれはYu-tubeでだったのだが、暴力的とでも云うしかない爆裂的バンドリンの早弾きに圧倒され、ほとんどバケモノといった印象を受けたものだった。
 さらにその後、プライベートな思い出が交錯する2007年の小曲集、”Intimo”で、今度はまるで逆、自らの内面を見つめて切ないプレイを聴かせる姿に、「押し引き、どちらもいけるのか・・・」とすっかり恐れ入ってしまったのであって。

 だからこのほど出た彼の新作となれば当然注目なのであるが、才人と評判を取るピアノプレイヤー、ANDRE MEHMARIとのデュオで、なおかつ取り上げるのは今日のブラジル大衆音楽の最先鋭に位置する二人の巨匠作曲家の作品を取り上げたもの、などと知らされると、これは腕利きミュージシャンによる自己満足っぽい閉鎖的作品で、凡人にはついて行けない代物である可能性も・・・なんて気がして、実はおっかなびっくり盤に針を乗せたのだったが(つーか、CDだけれど)

 そして聴こえてきたのは、なんと神々の高らかな笑い声だったのだ。こちらのセコい前予想なんか吹き飛ばす、スケールのでかい音楽。
 今、この二人はここで、実にファンキーな達観の中にある。
 ブラジル大衆音楽の巨匠二人のユニーク極まりない作品たちをぶっ飛んだ感覚でバリバリ弾き飛ばして行くHAMILTON DE HOLANDAとANDRE MEHMARIの二人にはもう、「カッコいい演奏をして聴いている奴らの度肝を抜いてやろう」なんてスケベ根性はない。底にあるのはただもう、音楽をやることへの、つまりは生あることへの無垢な喜びが溢れるばかり。

 だから彼らがやっていることのレベルがめちゃくちゃ高くても、こちらが余計なこだわりを持たない限り、その音楽はまるで敷居は高くない。・・・こんな説明のしかたじゃ、この音楽のそこここに漂う至福感は伝わらないんだろうけど。けど、こんな風にミュージシャンが”解脱”しちゃうこともあるんだなあ、というお話をしてみた。