”With a Song in My Heart”by Stevie Wonder
最後まできちんと聴いた事のない盤について書く。もちろん、現物を持ってもいない。
”我が心に歌えば”は、あのスティービー・ワンダーが1963年、まだ13歳の頃に出したアルバムだ。ディズニー・ソングの「星に願いを」をはじめとして、チャップリン作の美しいバラード、「スマイル」などスタンダード・ナンバーを、オーケストラをバックにじっくり歌い上げた作品集だ。
ストリングスや大編成のコーラスが前面に出ていたり、ジャズっぽいアレンジだったり、大人っぽい音作りの中でスティービーは、それら古き善き時代の思い出たる名曲の数々を丁寧に歌い上げている。
ジャケの、大きく口をあけてマイクに向う幼いスティービーの屈託ない笑顔が、なにより印象に残る。
音楽ファン稼業を始めた頃、なんとなくこのアルバムに憧れを持っていた。まずタイトルがいいじゃないか。我が心に歌えば、だ。当時貰っていた小遣いではロックの最新シングルを追うのが精一杯で、とてもR&Bのアルバムなど購入する余裕はなかったのだが。
当時の私はこのアルバムをよすがに、幼くして視力を失ってしまった少年歌手のスティービーを見守り、その才能を育んでやろうとする彼の周囲の大人たちの愛情溢れる視線と、青春のとばくちに立ち、未知の明日に向い頬を上気させているステービー少年の胸のざわめきなどを空想して、陶然となっていた。
世の中がそんな奇麗事で出来上がっているなんて事はありえないと、その頃の私はもう、うすうす知っていたのだが。いや、だからこそ、そんな甘ったるい妄想を弄ぶのが快かったのかも知れない。
このアルバムをスティービーが録音したのと同じくらいの年齢だった私は、オトナになったら子供の頃からの憧れの通りにSF作家になろうか、それともこのところ急激に胸中に育って来ている音楽への情熱に殉じた一生を送ろうか、などと思い巡らせながら、丘の上の中学校へ至る坂道を歩いた。背中に春の日差しを感じながら。
お笑い種さ、そんな夢を信じたがっている自分は、とてつもない甘ったれだ。学校に行き着く頃には、いつもそのような結論が出る事になっていた。
歳月は流れ、懐具合にも余裕が出来、が、私はついにこのアルバムを買うことはなかった。 大人の耳で聞けばこのアルバム、変声期ただ中のスティービーの幼い歌声が、なにやら思春期前期の少年の青臭い性の懊悩など連想させ、気色悪くも感ずるようになっていたのだった。
だから私はレコード店店頭で一度試聴しただけで、もうこのアルバムを忘れてしまう気でいたのだが。ご覧の通りこんな具合に、アルバム”わが心に歌えば”をふと思い出す夜もある次第である。。