ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

金曜日、官邸前にて老害

2012-06-30 23:39:24 | 時事
 金曜日の官邸前のデモにかんして、noiehoieさんのツイッターにおける発言が興味深かったので、ここで勝手にリツィート。

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noiehoie ‏@noiehoie
いままで団体旗などなかった金曜日の官邸前抗議活動に、今日になって国労とかの旗がたった。で、俺は優しいから団体名伏せて置いてやるが、千葉からきた旧国鉄関係者の団体よ。お前らが「邪魔だ!」って言いながら子供連れの家族を押しのけて機動隊に絡もうとしてたよな?お前らが邪魔なんだよ。

noiehoie ‏@noiehoie
いやほんまに、金曜日の官邸前抗議活動がすばらしくてここまで人を呼ぶようになったのは、主催側が、「クソサヨクもクソ右翼も排除しよう」としてたから出来たことなんだよ。

noiehoie ‏@noiehoie
「金 曜 日 」の、官邸前抗議活動の主催は、首都圏反原発連合。中にはいろんな思想の人がおる。でもみんな「普段の思想はおいといて反原発で団結しよう」ってがんばってはるわけ。 そういう純粋なひとらが、「俺らも我慢するから団体旗は禁止にしよう」って呼びかけてるわけよ。そのこと考えようよ

noiehoie ‏@noiehoie
なんでふつうの親子連れや、仕事帰りのサラリーマンが、純粋に、「再稼働反対!」って言いに来ている集まりなのに、「◯◯君の即時釈放を!」とか「◯◯解雇を許さない!」とかいう幟が必要なんだろう。 本当に、ロートルは邪魔。年寄りは頼もしいが、ロートルは本当に邪魔。

noiehoie ‏@noiehoie
現場にいたものとして言おう。今日の官邸前抗議活動に味噌をつけたのは、今になって自己顕示欲の為にわらわらと集まってきた、国労などの、ロートル左翼の集団であったと。お前ら、警察よりたち悪いんだよ。大衆運動の邪魔なんだよ。

ロハニと少女

2012-06-29 04:33:05 | アジア

 ”Kubr'ikan syukurku”by Nikita

 ロハニという音楽に惹かれてしまっている心情というもの、どう表現すれば人に理解してもらえるのか、こいつがどうにもわからないのだ。何度も文章にしようと試みてはいるが、その心情を的確に表現出来ているとは到底思えない。

 おおかたは回教国として認知されているのであろうインドネシアの、キリスト教徒たちの音楽。南の風にさらされ、インドネシア風にデフォルメされた賛美歌の世界。
 その多くはヨーロッパ白人の快感原則によって構成され、四角四面に上下する清き旋律。そいつが、本来不似合いなインドネシア語の巻き舌で発音されてしまうことの不自然、そこから生まれるスリリングな美学。

 さらにその底には遠い昔、その音楽と、その根となる宗教を、あの南の島国に運びきた南欧の国の面影がある。時の向こうで伝説として漂白されてしまい、もはや気配しか残っていない古き国の情熱の忘れ形見。
 どのみち、屈折した心根の発露としての音楽の愛好であり、退廃もいいところなのだ、歌い手は敬虔なる祈りを込めて歌っているのであろうものを。そもそもこちらはキリスト教の信者でも、もちろんないのである。

 以前、この場で、”ラブ・エターナル”なる素敵なアルバムを取り上げたことのある若きロハ二の歌い手、ニキータ嬢の、2004年度作品。
 まだこの頃の彼女は、ほんとに少女の面影そのままの初々しさをたたえた歌い手であり、今日の歌声と比べれば生硬と感じる部分などもある。が、その部分がむしろ、いたいけな少女の一途な祈りと聴く者に感じさせる切実さを醸し出しており、ますます切ない。

 ジャケ写真の初々しい横顔の清冽な美しさに、なんかロリコン魂を掻き立てられてしまいかける我が身がまことにもって面目ない、と南十字星に向かって首を垂れる日々である。(あっと、冒頭に掲げた画像は、ここで語られているアルバムのジャケではありません。それの画像がネット上に見つからなかったので、彼女の他のアルバムのものを流用しました。ご容赦)




田園行きの失われた道

2012-06-28 01:52:32 | アジア

 ”Plai Koy Kong Kwam Hug”by Tai Orrathai

 よく”タイの演歌”などと紹介される、かの国の大衆歌謡、”ルークトゥン”の女王格、ターイ・オラタイの今年度作である。モーラム集などリリースした後の新作で、一区切りつけたのちの一歩、みたいな感じなんだろうか。

 オラタイというと私は、彼女の背景に近代的(近未来的?)な高層ビル街が蜃気楼のように浮かんでいるジャケ写真や、そんな街の通りで憂いに沈むおしゃれな彼女を捉えたジャケ写真などが印象にあるので、彼女のクールな歌いっぷりとも関連付けて、そんな、洗練された都会への憧憬イメージとセットで彼女を見ていた。
 今回のこれは、それとはずいぶんニュアンスが違う。緑豊かな野原に民族衣装をつけて身を置く彼女である。手には花一輪を持ち。野の花である。なにやらゆかしすみれ草、なんて句もあった。

 これは何事ならんと聴いてみると。3曲目のなんか民話風(?)の一曲に、すっかりやられちゃったのであった。
 この、ちょっぴり甘酸っぱい懐かしさと、ちょっぴりのうら寂しさにゆらゆら揺れる曲調はなんなのだろう。アジア人どうしの共有意識、なんてものを勝手に持ち出して酔ってしまいたくなるのだが、この曲は”誰か故郷を思わざる”だよなあ。故郷の思い出の街角に響いていた、子供の頃の遊び歌の面影が、影絵のように仄かに息付いている、このメロディ。

 「僕の恋人、東京へ行っちっち」なんて歌もついでに思い出したなあ。若者たちが田舎の昔ながらの共同体を後にして、あてない夢に引きずられるまま高度成長経済へひた走る大都会を目指した昭和30年代の日本には、そんな都会志向の憧れの歌と、その背後で静かに、確実に崩壊して行く農村の姿を歌った田園調歌謡があった。
 かってオラタイのアルバムを飾っていたそびえ立つビル群もまた、同じような夢を歌っていたのだろうか。

 ともかくその3曲目のイメージ決定のまま、その後に控える曲も、帰れない、失われた田園の日々を切なく歌っている。というか、私にはもう、そのようにしか聴こえない。まあ、ジャケだって上に述べたようなものなのだから、このアルバムのテーマ、そのようなものだと想定しても、あながち間違いではないだろうと、すでに決定させてもらっているのだが。

 表現者としてのオラタイのクールな都会志向のイメージ作りが、歌手としてのキャリアの一区切りの後に、遥か後にしてきた田園への道を辿る方向に転換して行く。
 この姿勢と、タイの民衆が今日、丸ごと対峙しているある心象とは、多分、無意識に呼応しあっているのだろう。そして、その”帰り道”はおそらく、もうすでに失われてしまっている幻の田舎道である、という現実などは、この盤を覆う淡い悲しみのトーンからも明らかである。



トラックスマン、悪意の使者の凱旋

2012-06-26 23:25:38 | 北アメリカ

 ”Da Mind of Traxman”by Traxman

 あー。これは面白い盤だなあ。このところ、こればかり聴いているんだ。
 まず冒頭の曲で、沸き上がる親指ピアノ音のみずみずしい美しさに陶然となる。そして、地の底からブクブクと湧き出して親指ピアノと絡み合うシンセ音。都会の闇から発せられたかと思われる引き攣るリズムに煽られつつ、音の遊戯は思いがけないほどクリアな稜線を描きながらいつまでも続いて行く。
 その他、ジャズやロックやソウルやテクノをワルガキのいたずら書きよろしく切り張りし、意図のさっぱり読めない編集が編まれ、何処とも知れぬ楽園で紡がれる奇怪な悪夢のようなカラフルなイメージの奔流は果てることもなく、都会の夜を侵食しつくす。

 アメリカはシカゴのダンスミュージック・シーンの闇の大立者の、キャリア20年目にして初のアルバムだという。確かにそれらしく音楽の引き出しは豊かだ。そしてそのタマシイは一筋縄では行かないほど歪み倒している。
 自他共に認める大ラップ嫌悪者としては、現代アメリカの黒人大衆音楽関係者の作品などにいれ込む羽目になるとはなんとも居心地が悪くも感ずるのだが、この場合、音楽が確かに面白いのだから、これは仕方がないね。

 それにしても、こんな音楽で踊れるのかと不思議だったりするのだ。そりゃ、シーンの中に入り込んでしまっている連中は、踊れないほうがむしろ不思議だとか言うのかもしれないが、なんの予備知識もない人間にこれを聞かせて自然にダンスが始まるケースがむしろ稀じゃないのか。
 字余り気味に引き攣り、終始、聞き手の予想に足払いをかけてくるその独特のリズム提示のパターンなど、むしろ人間の運動神経をあざ笑うがごときで、普通に踊れる奴の方が病んでいるのではないか。が、その悪意に翻弄され、ボロ人形のように吹き飛ばされる刹那に、歪んだマゾなファンキーが生まれ、グジグジとこちらの神経に突き刺さる奇怪な音刺激の不愉快な快感。

 などといいつつ、何度も聴き続けてしまうのである。悪夢の胎内巡りに、夜明けはない。



ブルースターに耳をふさいで

2012-06-25 04:00:44 | いわゆる日記

 気がつけばいつごろからか、NHK総合テレビで宇宙の渚とかいう科学ドキュメンタりィのシリーズをやっている。地球に降り注ぐ放射線とか、数え切れないほどの流星とか、オーロラとかの話。いや、まだ番組に気がついて見始めたばかりだからちゃんとしたテーマは知らないのだが。

 そもそも今日の宇宙開発テーマの話は、アホらしくて耳を傾ける気にもなれなかったのだ。
 まあこれは以前より何度もしている話だが、私が子供の頃読んだSFとかの中では、21世紀ともなれば月や火星に人類はとうに到達していて、植民都市なんかを作っているのではなかったか。
 にもかかわらず今日の我々の”宇宙開発”の姿は、未だに地球の周囲をグルグル回るのがやっとであり、その一方では核の恐怖なんていう、SFのテーマとしては古過ぎてカビの生えてしまったような現実から立ち上がることもできずにいる。なんてブザマな21世紀だ。

 だが、宇宙を大海になぞらえ、地球の大気が宇宙空間と出会うあたりを波打ち際ととらえ、なんて視点は好きで、”地球礁”なんて小説のタイトルも好きだったので、なんとなく付き合ってやってもいいような気もしてきている。
 そういえば”宇宙ショー”というのか、例の金環日食とか天文ネタの見世物がこのところ多い。とはいえ、どれもなんだか乗れない気分で、その種のもので感動したのはなんといっても、探査船ボイジャーが送ってきた”木星の大赤斑が動く姿”だったなあ、もうずいぶん前の話だが。木星の赤斑の姿は子供の頃から見慣れてはいたが、それがどんな具合に動くのか、リアルに見た嬉しさというものは。

 直接見た物件では、あの”大接近”時の火星の姿だった。あれも何年前になるんだろう。
 時刻はそろそろ深夜に至り、いつものようにダラダラとネットをやっていたら、「なにやってんの!あなたが見ておくべきものでしょ?」とのメッセージを突然もらい、慌てて外に出てみると、近所のホテルの駐車場の真上に、肉眼ではっきり見える大きさで、静まり返る街の風景を睥睨するように強い光を放つ、その星があったのだった。
 やっぽりその時の心に基調として響いていたのは、挫折のテーマだたんだけどね。人類は宇宙に行けていないが、自分自身も、一体どこに行き着けたのだろう、ただ馬齢を重ねるばかりで、何を成し得たのだ、みたいな無念さ。そんなものを噛み締めながら、生涯、もう二度と浴びることもないであろう、赤い星の光の中に立ちすくんでいたのだった。

 宇宙テーマのエレキ・ギター・インストものと言えばシャドウズの”ブルースター”にとどめをさす。なんか、好きな女に打ち明けたいのだがどうして良いのか見当もつかない青少年が途方に暮れて見上げる空に星ひとつ震えている、みたいな青臭い恋慕と、未知の遥かな星々への憧れがないまぜとなった切なさがいいよなあ。
 You-tubeを探してみたのだが、いろいろな人によるカバー演奏の貼り付けはあっても、オリジナルのシャドウズの演奏によるものがない。
 こりゃまたどういうわけだ。権利上の問題でもあるのか。

 そんなわけで探すのも面倒くさくなったんで、もうなんだっていいやあの曲ならと、「シャドウズ・ブルースター」と検索かけて一番最初に出てきた奴を、下に貼ってやったぜ。どうだ、ワイルドだろう~♪



歌詞における性の逆転について

2012-06-23 06:31:39 | 音楽論など

 昨日、気まぐれにAKB48についてなど書いてみたが、そのついでに。

 以前から不思議に思っていたのだが、AKB48の歌詞の多くが男言葉によるものであるのはなぜなんだろう?これまでリリースしてきたシングル曲の殆どがそうでしょう。「君が好きだ~♪」とか、男の立場で恋を歌っているものばかりだ。
 彼女らはもちろん女のコの集団なのであって、それがオトココトバで歌うのはどう考えたって不自然なのであって、何か理由があるはずなんだが。

 一番初めに思いつくのは、歌における性の要素の漂白ということだ。女の子が男の言葉で、「ボクは~」とか歌うことで、その歌からはリアルな性の匂いは剥ぎ取られて、なにやら健全めいた世界が広がる。なんか永遠にセックスもせずに、ニコニコとフォークダンスでも踊っていそうな世界。
 けどねえ、流行歌なんてものの多くが古来より男女の性愛をもっぱら歌ってきたのであって、表現のツールにわざわざその場を選んでおきながら、そこからセックスの気配をあえて剥ぎ取るってのも不思議な話なんであって。

 ファンの男の子たちの意識を、「メンバーとリアルにセックスしたい!」ってことなどに向かわせず永遠の幼児性の中に閉じ込めておいて、コンサートのチケットとかグッズとかCD買うこととか”総選挙”のことだけ考えるように閉じ込めておく、そのための細工なんじゃないだろうか、なんて考えたりするのだが。

 そういえばずっと以前にこの場で、女性シンガーソングライターであるヒトトヨウの作になる”ハナミズキ”の歌詞が、なぜ男言葉であるのかについての考察をゴテゴテ書いてみたことがあったなあ、なにを書いたのか思い出せないが。まあ、思い出せないくらいだから、大したことは書いてなかったのだろう。

 昔の、というか高度成長期の歌謡曲など振り返ってみると、逆に男の歌手たちが頻繁に女言葉の歌を歌っていたものだ。”夜のムード演歌”とか称して。
 あれもどういうものなのかと不思議なのだが、興味深いのは、その場合の歌詞における性の逆転はむしろ、より深い性の深淵をうかがわせるものだった、と言うことだ。
 たとえば若き日の森進一が苦しげに顔を歪めて「あなたにあげた夜を返して」とか歌っていたのを思い出すと、その種の歌を当時、支持していたオトナの女性たちが内に抱えていた性の懊悩が濃厚に匂うような気分になる。このへんも面白いなあ。

 とか、疑問を列挙しただけになってしまったが、このへんは今後もしつこく考えてみたい。



アイドル好きの明けない夜明け

2012-06-22 04:38:29 | いわゆる日記

AKB48の「歌声」ってのは、誰と誰の声によって構成されているのかなあ?とか疑問に考えてみる。
 いや、そりゃ全員(と言っても何人が参加しているのやら)によるコーラスがリフレインのところに来ると聞こえてくる訳だが、歌の導入部分では、確かに数人だけが声を合わせて歌っているわけでしょう。それは誰と誰なんだろう?女の子のコーラスものとしては、若干、低い音域が特徴かと思う。あれは個性付けとして設定しているのか、それともメンバーの声域上の都合から成り行きでそうなっているのか。
 そんな具合に、確かに一度聞けば区別のつく”AKB48の声”ってのはあるわけで、シングルでは毎度、グループの歌声担当ってのがいるらしいのは、それでわかるんだが。大島優子とか高橋みなみとか、あのへんなのかなあ、普段の会話の音域から推測するに。

 などとふと思ってしまったのは、さっき聴いていたラジオから流れて来た前田敦子のシングル曲の声が、あんまりAKB48全体の歌声の中で聞いた覚えもないような気がしたんで。彼女、中心メンバーの中の、そのまたど真ん中なんでしょ?それにしては聴き慣れない声だなあ、ってのもおかしいでしょ。
 なんてことを書くとマニアの人から「何も分かっておらん。あれは誰と誰の声だと、普通に聞いて丸分かりではないか」と軽蔑されるかもなあ。
 まあ、それもしょうがないです。私も若き日にはおニャン子クラブの”歌声”に含まれる新田恵利要素と国生さゆり要素との聞き分けを楽しんだり、キャンディーズのコーラスの中にラン、スー、ミキの声を聞きとるのは造作もないことだった。
 そのへんが分からなくなってるってのは、やっぱりアイドル世界は遠くなりにけり、いい年してポップスファンやってるなよ、ってな感じなのかなあ。

 なんてぇ話題から含蓄のあるワールドミュージック話に持って行ければいいんだけど、このところ日常の雑事に追われて心がヒラヒラしっぱなしでね、物事をあれこれ考えてみる余裕もなし、いやあ、情けないですなあ。ほんと、ろくなことがないんだよ、このところ。

 ところで私の”推しメン”は、佐藤亜美菜ちゃんであります。以前、ラジオであの子が喋ってるのを聞いて、「うわあ、これ、片岡聖子の再来だ」とか、驚かされちゃったんで。片岡聖子ってのはもちろん、あの”オールナイターズ”で”おあずけシスターズ”をやっていた子です。うん、結構あの子のファンだったんですわ。面目ない、
 だってさあ、ラジオで声だけ聴いてると、声質、喋り方、そっくりに聞こえたんですわ、聖子と。以来、推しメンです。それが証拠に、私の札入れには車の免許証と一緒に、それとそっくりな作りの亜美菜公式ファン証が入っている。恐れ入ったか。以上。




香港ミュージカルコメディ60’

2012-06-20 03:07:22 | アジア

 ”寄塵之歌”by 寄塵

 一聴、うわあ昔の香港に、こんなにとぼけてイカした奴がいたのかよと思わずのけぞる。実在を信じるより、ワールドミュージック・ファンに一杯食わせてやろうと今日、マニアな誰かがでっち上げた音源であると言ってくれたほうが納得しやすいというものだ。
 かって香港で活躍したコメディアン兼シンガーが、60年代にリリースしたアルバムとのこと。そのダミ声と飄逸な歌いっぷりから、どうしたって我が国のエノケンなどを連想してしまうのだが。

 収められている音源も、おそらくは彼の出演映画の一場面からピックアップされたものなのだろう。歌の間に挟まるかまびすしい広東語のセリフと、デュエットのお相手の女性歌手の甲高く気取った歌いぶりなどから想像するのだが。
 ともかく彼の、その”洋楽志向”ぶりに感動すらしてしまう。このアルバムで広東語の歌詞を付けられて歌い上げられるのは、”日曜はダメよ”や”南太平洋”や”スピーディー・ゴンザレス”といった欧米のポピュラー音楽のカバーばかりなのだから。おっと、”バッテンボー”(この意味がわかる人は、年齢が知れるぞ)も入っていたな。

 その選曲の妙には、なんだかニヤリとせざるを得ないのだ。もちろん共感のあまり、ね。
 香港で封切られた欧米の映画から拾ったネタではあるのだろうが、香港の庶民相手に、コテコテのギャグ満載のミュージカルコメディなど撮っていたのだろうコメディアン寄塵の、外国の文化に寄せる憧れ、遠い目線など、思えば切ない限りなのだ。彼は何を愛し、どんな生涯を送ったのだろう。

 ところで寄塵、”スピーディ・ゴンザレス”における、ルンバのビートでC-Am-F-Gと進行する、まあロックンロールでは定番の、”ヤーヤヤヤヤヤヤヤヤー♪”ってコーラス、進行が理解できていないようで、小節を食いまくりなのが笑えるぞ。センスはあっても音楽の基礎教養はなかった人のようで、なんだかそれも愛せる気分だ。録音が他にもあるなら、聴いてみたいものだなあ。



西サハラは燃えているか

2012-06-19 05:15:28 | アフリカ

 ”El Aaiun Egdat”by Mariem Hassan

 アフリカの北西端に位置する西サハラの女性歌手の本年度作。西サハラといっても勉強不足でなんのイメージもわかない、なんとなく広漠たる砂の広がりが浮かぶばかりだが、実際、人口密度の低さでは世界でも指折り、みたいなことが、さっき覗いたサイトに書いてあった。

 音の概要としては、土着のベルベル文化やら北からのアラブの要素、南からのブラックアフリカの要素などが混交するかの地の、泥臭い民俗音楽そのものと窺われるものをパワフルな声で朗々と歌い上げる。バックにギターやサックスなどがセッション的に加わり、今日っぽくワールドミュージック化しているのだが、いや、そんなことはどうでもいい感じで、聴き手はMariem Hassan女史のぶっとい歌声が響けば、ただその強力な存在感にノックアウトされてしまう、ただそれだけのことだ。

 サウンドどうこう、ワールドミュージックとしてはいかがな具合か、なんてことは、彼女のぶっとい声が鳴り渡ればどうでもよくなってしまうのであって。この、源泉かけ流しみたいに滾滾と地の底の地母神の懐から湧き出してくるエネルギーの塊の迫力は凄いよ。音楽を聴く耳を持つ者なら、誰も抵抗をするすべを持つまい。

 歌詞の英訳を読んでみると、隣国のモロッコに根拠のない実効支配をされている西サハラの地に寄せる彼女の想いを、直截に歌い上げたものが多い、というか、それこそがこのアルバムのテーマのようだ。
 「政治のことを歌っているからこの歌はレベルが高い」とかいうアホの共感とか呼んでしまったらつまらないので、これにはあまり触れないでおくが、”アラブの春”に仮託して彼女の訴えるその想いの熱さに、なるほどタイトル通り西サハラの地は燃えているのだろうと深く頷かされるのだった。



引き潮の街で

2012-06-18 06:50:15 | いわゆる日記

 「父の日」絡みということなんだろうか、この二日ほどにキヨシローの「パパの歌」などという歌がラジオから流れるのを何度か聞いた。そのたびに不愉快な気分になった。
 家庭における父親はトドのように寝転がっているばかりでだらしないことこのうえないが、昼間の彼はちょっと違う、輝いているのだ、とかいう歌だ。
 なんで輝いているかというと、会社へ行って仕事をしているからだという。いい汗をかいているという。昼間のパパは男だぜ、と賞賛してみせる。
 本気でお前はそんなことを考えていたのか歌っていたのかと、呆れるくらいしか反応のしようのない歌だが、こんなものもキヨシロー信者にはありがたいものなのだろうか。
 こんな具合に”まっとうな暮らし”を賛美してみせる俺って、渋いだろう、オトナだろうとキヨシローは自慢だったのだろうか。なに、歳をとって本当らしい嘘が自分にも他人にもつけるようになった、というだけの話じゃないのか。

 日曜の深夜だ。海岸の遊歩道のあたりを散歩してみた。
 昨夜までの、週末の観光地を彩ったネオンサインは、多くが点けられておらず、祭りのあとのうら寂しさを歌いながら夜風に吹かれている。もう観光客たちは街に帰ってしまったのだろう、スカスカの客室やマイクを握るもののいないカラオケを満たしている妙に寒々しい空気の感触が、夜の街角まで流れ出てきているように感じられる。
 いつまで経っても現れない客を、それでも待つしかない客待ちのタクシーの列が夜の中、遊歩道の脇に続いている。
 売れない演歌歌手の、何年も前に出た”新曲”のポスターが潮風に曝され、変色しかかっている。ポスターには、キャバレー回りの果てに、この街にいつのまにか居着いてしまった歌手自身による、手書きのスケジュール告知が貼り足してある。うら寂しい街ばかりを歌って歩いているんだよなあ。
 なじみの飲み屋はどこももう、店をやめてしまった。空家となった店舗には、次なる借り手は現れないままのようだ。
 かってそれらの店で、一緒に飲んで騒いだ友人たちもとうに街を去り、消息を知らせる便りもいつか絶えた。

 毎度お馴染み、休日の終わりの哀感。明けて明日からはまた、きつい日常が続いて行くのだ。
 遊歩道の向こう、ヨット・ハーバーのどこかで、悲しげな鳴き声のようなものが長い尾を引いて聞こえた。ような気がした。
 海獣のものかと思ったが、ここは気楽にアザラシのタグイが訪れるような湾でもない。ヨットの持ち主が連れ込んだ飼い犬かなにかか。あるいは訳ある深酒で悪酔いした人間の呻きか。
 暗いの水の広がりを眺めながら耳を澄ましていたが、それきり声は聞こえることはなかった。