ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

日本捏造

2008-06-30 16:21:28 | 音楽論など


 ”The Rough Guide to the Music of Japan ”

 イギリスのレコード会社が”The Rough Guide to the Music of ~”なんてワールドもののシリーズを大分前から出していますな。各国の大衆音楽の概要を紹介するって趣旨の、まあ旅の本の”地球の歩き方”シリーズみたいなものです。
 私はもう欧米人によるワールドミュージックの紹介とかにあんまり興味がないので、この種のものには手を出していず、詳しいことは分からないのですが、かなりの数の盤が出ていて、もちろん、我が日本の音楽を紹介する盤も出ている次第で。

 で、この盤がその”The Rough Guide to the Music of Japan ”であるわけです。
 編集は日本の大衆音楽に詳しい、と定評のあるらしいイギリス人音楽ライターのポール・フィッシャー氏。1999年に、すでに同じく彼の編集で日本音楽の”ラフ・ガイド”は出ていて、これは第2弾、もしくは改訂版にあたるようです。
 で・・・と今回、その内容を検めてみたのですがね。

 1、は民謡の”熊本ハイヤ節”であり、また2、と3も今日的アレンジを加えられているものの、奄美と沖縄のそれぞれ民謡、4も沖縄民謡の巨匠ですな。それから9、が河内音頭、10、が筝曲、11、が雅楽、13、が小唄と、この辺が地道に日本の伝統音楽を押さえてある、まあ、盤におけるタテマエの部分と申しましょうか。15、の笠置シズ子、16、の都はるみもそれに加えてよいのかも知れない。

 このように俯瞰的にさまざまな日本音楽の切片を並べ立てて何が分かるのかなあ?と疑問に思わないでもないのですが、まあ、このような企画ものにおいては仕方がないことなのかも知れません。

 今回、どうかなあ?と首を傾げてしまったのは、それ以外の部分なのですな。下に全メニューを挙げてみましたが、これらの音楽、あなた、聴いたことがありますか?というか、これらのもの、日本の大衆のほとんどが聴いた事もないし、ジャンルとして愛好もしていない、聴かせてもおそらく”自分たちの音楽”としてピンとは来ないであろう代物である。

 民謡のロック化を試みるグループ(2)、アイヌ音楽ネタのダブ・バンド(5)、アメリカ人とイギリス人による琉球音楽ユニット(6)、一部の人々からは絶対的な信仰を集めているらしいマニア好みのロックバンド(8)、僧侶による声明とギター奏者の共演(12)、浪曲師がアメリカで結成していた三味線入りブルーグラス・バンド(14)って、こりゃなんなのよ?でありますな。
 (16)の都はるみだって、あんまり聴かれている曲じゃないでしょ、これは。なんでわざわざ、この曲が置かれる訳?

 最後に収められている”渋さ知らズ”だって、”その種のセクトの支持者の玩弄物”って印象しかないんだけどなあ。ファンの方々には申し訳ないですが、いや、”輪”の外から眺めている私のような者には彼らへの評価、過大なものとしか感じられないんですよ。彼らの音楽、本当に日本を代表する物件といえましょうか?もちろん、普通の意味でのポピュラリティなんかありゃしませんよね。彼らを知ってる日本人と知らない日本人とでは、後者の方が圧倒的に多いのは言うまでもない。

 というわけでこのアルバム、つまりは大昔、マルコ=ポーロが”東方における見聞”として並べ立てたデタラメにも相当するファンタジーでしかないのではないか。あるいは”日本通”の英国人、ポール・フィッシャー氏が勝手に夢見た”あるべき日本音楽”の姿。
 いや、そういうものを作ったって、そりゃかまいませんがね。ただ、いやしくも”ラフ・ガイド”と銘打ったアルバムがこの内容って、いかがなものかと。
 この分で行くと、各種ある外国音楽の紹介盤てのも、あんまり本気に受け取らない方が無事なんだろうなあ、とか思った次第であります。


 ★The Rough Guide to the Music of Japan 収録曲目

1. Ushibuka Haiya Bushi
2. Yagaefu
3. Subayado Bushi
4. Koza Renka
5. East of Kunashiri
6. Shinkaichi [Saru's Meditation Dub]
7. Asadoya Yunta
8. Ah Wakaranai
9. Kawachi No Ryu
10. Futatsu No Hensokyoku Sakura Sakura
11. Hyojo Netori
12. Gobai
13. Hara No Tatsutokya
14. Appalchian Shamisen
15. Tokyo Boogie Woogie
16. Yuhizaka
17. Tokyo Bushi
18. Akkan
19. Bonus Materials [CD-ROM Track][*]

バートン・クレーンの世界

2008-06-29 02:09:46 | その他の日本の音楽


 ”バートン・クレーン作品集”

 戦前の日本のジャズソングを集めたアルバムなど聴いていると時に外国人歌手による不思議な日本語の歌が紛れ込んでいるのに出逢う。「家に帰りたい 野心がありません 頭が痛い おなかが大変」なんて調子の舌足らずの日本語をとぼけた調子で歌った、なかなかに人を食った出来上がりの曲ばかりである。

 ああ、この時代にもすでに我が国の芸能界には”外タレ”というのがいて、こんな奇妙な歌を歌ってウケを取っていたのかなあなどと感心したものだ。

 ちなみにその歌手、バートン・クレーンの本業は当時日本で発行されていた英字新聞、”ジャパン・アドバタイザー”の記者である。彼が宴会の席でアメリカのポピュラー・ソングに日本語の妙な歌詞を付けて歌っているのを聴いたレコード会社の社長(米国人)が吹き込みを薦めたのが事の始まりのようだ。基本は宴会芸なのですな。

 2006年にバートン・クレーンの散逸していた吹き込み曲を集めた、集大成的ともいえる、このアルバムが出た。発売は”バートンクレーン発行委員会”となっていて、この歌手の強力なマニアも確実に存在しているのだなあと、その丁寧な仕事に恐れ入った次第。
 で、出来上がったアルバムを聴いてみるとこれが珍曲奇曲の目白押しで、なかなか凄まじい代物である。こんな曲たちが1930年代初めの日本に”流行歌”として流布していたとはなあ。

 基本的には酒好き女好きのお調子者の外人、というキャラ設定の語り手が、”マヌケな不良外人と銀座のカフェーの女給”などという構図を取りつつ、その”青い目に写った日本社会”を戯画化して描き出して行く、そんな趣が見えてくる。
 とは言ってもそいつは結果としてそのような傾向が作品群に漂うという話で、これらの歌が生み出されたリアルタイムにおける事情は、”外人コミックシンガー”なる素材を生かして、どのようにヒット曲を作り出そうか、そのための創意工夫の歴史なのだろうけど。

 使われるメロディは、歌い手がアメリカで聞き覚えた来たのであろう、俗なポップスや民謡、ホームソングのタグイであるようだ。分野を特に定めず、平均的アメリカ人が当時好んで愛唱していたのであろう雑多なジャンルの歌に、素材を求めた。
 このあたり、日本の俗とアメリカの俗が微妙に絡み合い、不思議なハーモニー、あるいは誤解による混乱(?)を醸し出していて、こいつは聞き流して行くとかなり楽しい。

 とは言え、アルバム一枚、全25曲にじっくり付き合うと結構疲れてしまう部分もあるのもまた事実である。
 ”補作詞家”としてバートン・クレーンを支えた森岩雄の活躍も大きく作用していそうだが、その歌の世界、当時の日本の文化状況に深くコミットし過ぎ、構成が懲り過ぎの感を受ける曲もないではないのだ。

 クレーンのデビュー曲であり最大のヒット曲であるという”酒が飲みたい”みたいなシンプルな世界をただ追っていたら、もっと気軽に聞き流せる”ジャズ小唄”の世界が出来上がっていたのではないか。ちょっと惜しい気がする。
 まあ、これもファンの欲張りな要求であって、こんな楽しい歌の世界が戦前の日本に存在していた、それだけで十分に嬉しくなる話なんだけどね。

 また、バックを務める日本のコロムビア・ジャズバンドの演奏の見事さには敬意を表するよりない。これだけ多様な音楽をこなしながら、破綻する瞬間というものがないのだから。なんて褒め方も失礼かも知れないが。

 それにしてもバートンのとぼけた日本語の言葉遣いの裏側から顔を覗かせる、その結構厭世的な人生観には、時にドキリとさせられもする。彼の歌が巷に流れていた時代の、日本は国際連盟を脱退、ドイツではナチスが政権を獲得、なんて世相を反映しているのだろうか。

 ”仕方がない”(バートン・クレーン作詞)

 僕は君に惚れたし 君も僕が好き
 でもお金がなければ生きられない
 君背中を向ける 僕は下を向く
 いくじがないから仕方がない

 産業合理化なんて誰が言い出した
 僕には妻子があるし2号まである
 どうせ駄目なものなら殺しておくれよ
 このまま生きていても仕方がない

奄美の土俗ファンク!

2008-06-26 03:22:32 | 奄美の音楽


 ”ハブマンショー”by サーモン&ガーリック

 これは奄美の民謡をモトネタに、ファンクというのかヒップホップというのか、その辺の用語の使い方がよく分からないのだが、ともかくその辺の音楽のアイディアを持ち込み、かなりブラックなユーモアを味付けとして新展開させてみせたバンド、というかユニット(この辺も、何か特別な呼び名があるのやも知れず)の、今のところ唯一のCD作品。

 バンドの形としてはヴォーカルの二人がそれぞれ三線とパーカッションを担当し、それにベースとドラムが加わる、というもの。ともかく最初に聞いたときは、「あやや、奄美にここまで行っちゃっている連中がいるのか」と、すっかり嬉しくなったものだ。

 ドスドスと脈打つ低音に乗って、一見ラフなように聞こえるが実は結構計算の行き届いた三線がかき鳴らされ、ワイルドな歌声がファンキーに骨太にダンスミュージック化された奄美の民謡を唸りまくる。こいつは相当な聴きものである。もっとやれ、もっとやれと声援送りつつ握り拳を固めた次第。

 あちこちに泥絵の具を叩きつけるようにまき散らされるジョークのタグイは、強力に奄美文化の伝統臭を放っており、こいつも楽しい。
 ともかく各所で奄美のコトバが連発される、それだけでも非常に痛快な気分になるのであって、昔々、アフリカのミュージシャンがリンガラ語で会話する様子を収めたテープを聞かせてもらった事など思い出してしまった。ただ話されるだけで十分ファンキーな音楽として成立するコトバってのがあるんだよ。

 冒頭、奄美で伝統的に挨拶代わりにうたわれる”あさばな節”が取り上げられていたので「なんと律儀な連中」と可笑しくなってしまったのだが、これもまた、彼ら一流のジョークなのかも。
 ライブではかなりの人気者となっているみたいだが、当方はこのCDが初対面。しかもこのCDにしてからが奄美限定発売なのだそうで、あんまり全国展開する気がない連中なのか?もともとは知り合いの結婚式のお座興として始まったバンドということで、”地元の仲間内での演奏”にこだわりでもあるのだろうか。

 もっとも、”内地”の音楽産業に下手に手を出されて音楽を変節、劣化させられるよりは、そのような流れに抗するパワーが確立されるまで、”奄美ローカル”にこだわるのも得策といえるだろう。
 ともあれ、これは嬉しい連中がいたもので、次々にあとに続くものが出てきたらと思うと、なんかゾクゾクしてしまうのであった。

肝がなさ節

2008-06-24 02:45:28 | 沖縄の音楽


 ”肝がなさ節”by 饒辺愛子

 さてこのアルバムの表題曲、沖縄民謡界のベテラン(1945年生)歌手であり、コザで民謡クラブ「なんた浜」を経営もしておられる、饒辺愛子さんのヒット曲であります。購入したアルバムの冒頭に収められていたこの歌、妙に耳残りがして何度も何度も聞き返してしまったんで、何か書いてみようと思った次第。

 この人は20代の頃、ラジオ沖縄で”民謡三人娘”のメンバーとして活躍し、65年に「なんた浜」でレコードデビュー、その後、88年にリリースした、この「肝がなさ節」がロングランヒットとなった、とのこと。ともかく、”沖縄の母”的な、味わい深い歌唱を聞かせてくれる人です。
 それにしても。いやあこの歌、最初に聞いたときはコミックソングと信じ込んでいたのさっ。

 あまり沖縄臭くない、むしろ韓国の民謡とかアメリカのカントリー・ミュージックのフィドルのフレーズとかを連想させる一癖あるメロディと、巧妙に韻を踏んだ歌詞が非常にトリッキーな印象を与え、これは絶対可笑しい歌だ、とか私は信じ込んだのですな。
 作曲者名を検めると”普久原恒勇”とある。ああ、それならね。
 普久原恒勇は、普通の意味での沖縄臭くないところが逆に非常に沖縄を感じさせるなんて、まったく一筋縄では行かない作風の沖縄の大物作曲家である。

 奄美の音楽を聴き始めたことで得た別の視点から、これまであまり馴染めずにいた沖縄の音楽を聴き直してみようと考えている昨今、キイポイントとなる存在のような予感がしているのであります、この人。まあ、それはそれとして。この人の作るメロディなら、それはこちらの固定概念を揺さぶって当たり前だな。

 そして、あまりにもリズミカルに軽妙に韻が踏まれているゆえに沖縄の言葉が分からない悲しさ、てっきりコミックソングかと思った歌詞も、調べてみれば人の心と愛のありようを深く切り込んだ内容になっていると知る有様で。異文化に接する際には早合点は禁物と、いまさらながらの思いをいたした次第でありました。
 でもほんとにこの曲は流しているだけで心地良くなれる曲で、なにかというと聞き返してしまうのですな。

 それにしても、このアルバムに何曲も収録されている、いかにも古い日本の歌謡曲の尻尾を引きずるマイナー・キーの悲しげな演歌は、音楽雑誌の”沖縄の音楽特集”なんて際にはオミットされている世界ですな。キナ・ショウキチ経由で沖縄に接し、ソウルフラワーなんとかがレコーディングに参加、なんて話題を正面に押し立てて作り上げられた沖縄のイメージからすると雰囲気ぶち壊しとなるからなかった事にされているのか?ちょっと揚げ足取り根性で注目してみたくなってます。

 その他、”ケーヒットゥリ節”の地味ファンクな手触りの心地良さや、最後に収められたデビュー曲の”なんた浜”の、静かな宇宙との対話のなんという美しさなどなど、まだまだ楽しめそうな盤なのでありますが、この辺で。

 肝がなさ節 (作詞とりみどり 作曲普久原恒勇)

 里がするかなさ 肌がなさ かなさ 年重び重び肝ぬかなさ
 肝がなさらやー 思みかなさらや

思案橋の椰子の実

2008-06-21 02:00:49 | その他の日本の音楽


 ”思案橋ブルース”by 高橋勝とコロラティーノ

 黒潮圏文化なんて言葉もあるらしいが、赤道近くに発し、東シナ海を北上して日本の南岸に沿って行く巨大な海流である日本海流、いわゆる”黒潮”の流れに沿う形で東アジアの海洋性ポップスに関して論じてみたい、なんて思いがずっと以前からある。

 東南アジアの中華系ポップス歌手が出したカセットに収められていた、おそらくは現地のヒット曲のメドレーの中にポツポツと日本の演歌などが混じっているのを聴いているうち、”さまざまな民族の音楽を飲み込みつつ流れて行く東アジアポップスの潮流”なんてイメージが浮かんだのだ。
 が、どのように手をつけて良いのか分からず。まあ結局、書かずに終わるんだろうけど。

 そのイメージの歌謡潮流の片隅に置いておきたいと考えているのが、”川原 弘・作詞、作曲、高橋勝とコロラティーノ・歌”の、昭和43年のヒット曲、”思案橋ブルース”である。いかにも長崎から出て来たグループのヒット曲らしいエキゾティックなムード歌謡だった。

 ”話題の新曲”として売れ始めていた頃、テレビの歌謡番組でリアルタイムで聴いたあの歌の印象を、かなり異様なものとして記憶している。
 ボーカリストは全篇裏声で歌いっぱなしだったし、なんだか彼らが歌っている画面全体が不思議な湿気に包まれ、テレビの画面に結露が生じているような気さえした。

 これらは時の経過によって変形した記憶に違いなく、今日、この歌を聞き返してみればヴォーカリストは”裏声混じり”程度の歌唱を行なっているだけであり、テレビが画像の影響で湿気るはずがない。

 しかし。いいや。あれはまるで台風の際に赤道近くのエリアから熱気に湿った南の空気が押し上げられて日本の岸を覆うように、東南アジア音楽のエコーが流れ来て”思案橋ブルース”の調べの中に入り混じり、熱気と湿気を放っていたのだ、なんて妄想を繰り広げてみようかとも思ったりする。

 長崎をテーマにした歌謡曲に独特の、夏の夜の夢みたいな感触の正体ってなんだろう?ある種の異国情緒と、不思議な湿気に縁取られた幻想性。そいつは黒潮に乗って日本の港町に漂着した南の気配ではないのか。
 遥か南に通ずる歌謡水脈のイメージ。おそらくそいつが私の脳裏に、先に述べたような幻想を生じせしめたと考えられるのだが。

 それにしても、曲名となっている長崎の思案橋なるもの、この歌が作られた頃には川は暗渠となり橋自体は取り払われ、”思案橋”なる地名以外は残っていなかったと今回知り、ちょっと驚いた。橋の実態も無しに、よくあんな曲が出来たものだと思う。
 
”思案橋ブルース”

泣いているような長崎の街
雨に打たれてながれた
ふたつの心は
かえらないかえらない無情の雨よ
ああ長崎思案橋ブルース
 
川原弘:作詞 

沢知美を求めて

2008-06-19 03:06:04 | その他の日本の音楽


 ”人の気も知らないで”by 沢知美

 繁華街をちょっと外れたあたりに昔ながらの”ナイトクラブ”という奴があって、紫色の小さなネオンサインを夜の中に地味に燈している。その外観、私の少年時代からどこも変わっていないように思える。

 色気付き出した中高生の頃、その場所は神秘な夜の牙城に思えた。夜の世界に興味はあるものの、そこは自分のようなガキがとても近寄る資格のない場所。そう、あの頃は夜の遊びは本物の大人にしか許されていなかったのだった。ディスコへの出入りではない、ことは”ナイトクラブ”なのだ。
 その建物に近寄ると、もうずいぶんとくたびれた外観に気がつく。今、こんな時代遅れの昔ながらのナイトクラブに通う客など、はたしているものなのかどうか。

 毎度、こんな話をしているが、入ってしまった学校の校風に馴染めず、それよりなにより夢中になり始めたロックミュージックへの傾き、いよいよ増して行き、家出をして当時全盛だったグループサウンズの世界に身を投じる夢ばかりを見ていた高校時代。
 が、エレキギターを抱えてどこへ飛び込めば良いのか田舎の少年には見当もつかず、計画ばかりの家出は、ついに実行に移されることもなかった。唯一、ある弱小プロダクションからもたらされたスカウトの話は親にかぎつけられて潰され、ケツをまくって中途退学する気でいた高校に中途半端な気分のままついに卒業まで通い続けたブザマさ。

 熱い思いだけが見当違いの空振りを続ける、そんな悶々たる日々、ふとラジオから聞こえて来たのが沢知美の歌う、”モーニング・ブルース”だった。
 当時のテレビの人気深夜番組、”11PM”のカバーガールとして人気だった彼女の歌う、ということだが、私の記憶の中に彼女の姿がない。かの深夜番組はスケベ部門を中心に好んで見ていたはずだから、どこかで彼女の姿を目にしているはずなのだが。どこかに記憶の錯誤がある?まあ、その探求はいずれするとして。

 ともかく、その”モーニング・ブルース”には、やられた。ジャズ調歌謡、とでも言うんだろうか。ジャジーに弾むピアノに導かれ、結構ブルージィにうねるメロディを、ハスキー&セクシーな響きの裏に実は結構さばけた気風のいいおねーさん、みたいな雰囲気を漂わせた沢知美の歌声が歌い流して行く。レイジーだぜ。カッコいいぜ。
 ダルそうに、そぞろうっとうしくなりつつある恋を歌うその声が、生温かい日々の煉獄に倦んだあの頃の私の心に妙にフィットし、忘れられない曲となった。

 が、レコードを買うことはなかった。ガチガチのロック少年だった私が、歌謡曲なんか買うはずないじゃないか。そんな金もなかったし。
 が、おかげでこの歌は、変に心に深く刻まれることになってしまったのだ。あんな歌があったよなあ、と何度も思い起こす作業を繰り返すうちに。レコードを買っていれば、逆にここまで思い入れることもなかったかも知れないのであって。
 その奇妙な歌との関係は、レコード発売の年、1969年から遥か過ぎて2007年、沢知美のアルバムが初のCD化なるまで続いたのだった。とっとと再発しろよなあ、レコード会社よ。

 というわけで手に入れた沢知美のアルバムである。あの60年代末、非行少年にもなりきれずに行き所なく、登校拒否まがいを繰り返すだけの中途半端な落ちこぼれ少年にしてみればとても手が届かないように見えたオトナの世界である夜の街、昭和のネオン街の匂い横溢のたまらない一作である。そうかあ、あの”ナイトクラブ”の中では、こんな光景が展開されていたのか。

 沢知美の、意外に、といっては失礼か、なかなかに細かいところまで神経の行き届いた歌唱が、丁寧に60年代末期の日本の夜の盛り場最前線をたどって行く。”あの頃の大人”の吸っていた夜の空気に触れる感じだ。
 彼女はこのアルバムでこちらの世代、つまりガキども相手に歌いかけているわけではない。もっと上の酒場通いを普通に出来る世代を意識して歌われる歌。そう、当時、歌謡曲というものはオトナのものだった。
 ガキどもの手の届かないところでセクシーなオネーサンは、紫煙に巻かれつつキャバレーの観客たるハゲのオヤジども相手に過酷な戦いを繰り広げていたのだ。ガキの出る幕じゃなかったのだ、この時代。

 ”モーニング・ブルース”につながるブルース調の曲が多く含まれていると言うことはなく、「つめ」「あいつ」「ウナセラディ東京」などなど、当時の夜のムード歌謡の定番中心に選曲がなされている。演歌を歌ってもいわゆる演歌調にはならず、あくまでも”歌謡曲”である歌声が嬉しい。
 そう、「夜の歌謡曲」なのだ、この良さは。「ロンリー・ブルーナイト」「ポート・ヨコハマ」といった、このアルバムで初めて聴いた小曲が、非常に好ましい夜の歌謡の感触を伝えてくる。これは外国人の作曲となっているが出自はなんなのか、セロニアス・モンクの”ラウンド・ミッドナイト”を演歌化したような「メランコリー」なんて曲も面白い味を出している。

 それにしても、「ポート・ヨコハマ」「ウナセラディ東京」と続いて、不思議なタンゴ調の「夢の終わり」に至り「あいつ」で締める、オリジナル盤のエンディング、最強だわな。このアルバムのオリジナルが出された1969年、狂騒の(と言っていいだろう)高度成長をひた走る我が日本国の日陰で咲いていた庶民のひそやかな”インター”を聞け。

 もう我が国では絶滅してしまったかと思われる「歌謡曲」のつつましい感傷が夜霧に濡れつつ、大都会の深夜を静かに横切って行く。その足跡、失われて久しい。そう、あの古いキャバレー、一度、行ってみようか。意味ねーか、いまさら。

リベリアの一夜

2008-06-17 01:53:32 | アフリカ


 ”SONGS OF THE AFRICAN COAST, CAFE MUSIC OF LIBERIA ”

 先に、”ブラック・ヘブライ”の音楽について書いた際、アフリカのリベリアなる国がチラッと絡んだ。そこでこのアルバムを思い出して引っ張り出してみた次第。
 民俗音楽研究家のアーサー・アルバーツが1949年にアフリカはリベリアに赴いて行なったフィールド・レコーディングであり、その時点における西アフリカの大衆音楽の一様相が覗える仕様となっている。

 とはいってもこのリベリアなる国がややこしい国で、何度その歴史を読み返しても、その概要も把握が出来ない。
 そもそも19世紀の初めにアメリカ合衆国内の、奴隷の立場から解放された黒人たちをアフリカに帰し、ひとつの国を成立させようなど、どのような者が思いついたのか。ぶっちゃけた話、その予算は誰が出したのか?計画の成功にどれほどの目算があったのか?
 ともかくも、その運動を計画した”アメリカ植民協会”なる組織は西アフリカの一角に土地を獲得し、その土地に向けて何回にも渡ってアメリカからの黒人たちの”帰還”は行なわれた。

 当然ながら、というべきか、その土地に住んでいたアフリカ人と、”還って”来たアメリカ黒人たちとの間には、今日イスラエルとパレスチナとの間で起こっているのと同質の軋轢も発生した。
 また、強引に建国はしたものの、国を支える産業がないため、外国にゴムの木を貸与を依頼してみたり、時には外貨を稼ぐためにリベリア人労働者をスペイン領赤道ギニアに向けて船積みし、それが”かっての奴隷貿易と変わらないではないか”と国際的批判を受けるという、まことに皮肉な結果を呼んだりした。

 その他、この国の歴史は前述の帰還者と先住民の抗争やら帰還者同志による勢力争いなどが複雑に絡み合い、長きに渡る内戦が繰りかえされ、まことに錯綜した様相を呈している。

 このアルバムの前半には、1940年代終わり頃のそんなリベリアの、とあるピアノ・バーにおける”一夜のお楽しみ”が収められている。
 演ずるは、”ハワード・ヘイズとメリンダ”なる、ミュージシャンよりはあえて”芸人”と愛情込めて呼びたい感じのピアノ弾きと歌手のコンビである。コロニアル感覚横溢した、愉快な酒場芸が堪能出来る。
 後半には、40年代のリベリアの大衆音楽を体現すると考えていいのだろう、グリーンウッド・シンガーズなる歌と楽器演奏を共に行なう、こちらの感覚ではフォークグループと呼ぶしかないグループの、素朴なパフォーマンスが収められている。

 どちらも演目は古形のカリプソや、ラグタイムやらカントリー音楽やら、当時のアメリカ風ダンスホール音楽の影響色濃いものである。このような音楽が熱気わだかまる西アフリカの夜の中で溶け崩れ、やがてアフリカ独自のポピュラー音楽を形成して行ったのだろうな、などと想像すると、なんだか血が騒ぐものがあるのだ。

 ことに、アフリカ大衆音楽の古層を成す”ハイライフ・ミュージック”の世界で古典とされる”All fo You ”や、”ココナツの木の下で”などといった、アフリカ音楽好きには気になる曲の原型が聴けたのも嬉しいことだった。
 こんな音楽が流れていた、当時の西アフリカの街角のありよう、どんな感じだったんだろうな。その音楽を愛したリベリアの人々は、どのような喜怒哀楽を生きたのだろう。音の向こうに想いは膨らむ、膨らむ。

黒いユダヤ人?

2008-06-15 01:52:31 | 北アメリカ


 ”Soul Messages From Dimona ”

 アメリカにおける”ブラック・モスリム”なる集団を知った時も、ずいぶん不思議な気がしたものだった。なんでアラブ世界から地理的にも離れたアメリカ合衆国内の、しかも黒人たちに、イスラム教に帰依する集団が出て来たのだろう?と。まあ、これに関してはただ宗教上の存在でもなく、アメリカにおける黒人と白人の対立に関わる微妙な代物で、当方、いまだにそのすべてが理解できたともいえないのだが。

 とか言っていたら、このほど、”ブラック・ヘブライ”なんて自称する人々の存在を知ってしまい、ますます訳が分からなくなった次第。黒いユダヤ人?大体のところは知ったつもりでいた黒人文化、まだまだ未知の領域があるようだ。

 ことの起こりは近世、アメリカ大陸でユダヤ教と接した黒人たちの中に、それを受け入れる勢力が出て来たあたりのようだ。ここでもやはり黒人の社会運動にも関わりあいつつ、「ヤコブは実は黒人であり、我々がユダヤ教徒を名乗るに当たり、そもそも改宗の必要さえない」などなどの、ジャマイカのラスタ主義など想起させる主張なども行ないつつ、勢力を伸ばして行ったようだ。

 ここに挙げたアルバムは、その”ブラック・ヘブライ”の文化を代表するバンドと言えようか、1970年代から80年代にかけてイスラエルのディモーナなる街をベースに活躍していたファンクバンドたちのレコーディングを集めたものだ。
 CDのジャケを覆っている紙カバーの写真には、アフリカ人のようなインド人のような、はたまたハリウッド製作の聖書ネタの映画の登場人物のようにも見える衣服を身に付けた黒人たちの姿がある。彼らが”ブラック・ヘブライ”世界の音楽で主導的な存在だった”ソウル・メッセンジャーズ”のメンバーだそうな。

 70年代に「黒いヘブライ人」を名乗るアメリカの黒人グループがアフリカのリベリア(アメリカの黒人奴隷が帰還して建国した国)への移住を計り、が、それに失敗した後、イスラエルのディモーナに定住した、などという記録があるようだが、その連中がすなわち、ソウル・メッセンジャーズのメンバーにつながるのだろうか。ちなみに、イスラエル当局は彼らをユダヤ人とは認めていないそうだが。

 こうして調べてみると、なかなか微妙な存在といえそうなブラック・ヘブライである。
 そのサウンドも同じく。ようするに70~80年代のデトロイト~シカゴ風のソウル=ファンク・サウンドをベースにし、それにブラック・ヘブライとしてのメッセージを込めて出来上がっているもののようだ。
 あの当時のやや浮ついた(?)ノリの良いファンクサウンドに、当方にはなんとも正体不明に感じられる宗教的主張から来る辛気臭さが入り混じり、なんとも不思議な世界を描き出す。どこか腰の座らない落ち着かなさなど感じてしまうのは、彼らの浮き草的生き様が反映されているせい、と受け取るのが正しいのかどうか。

 ブラック・ヘブライの宗教運動としての厚みがどのくらいあるのか寡聞にして知らないのだが、はたしてこの”黒いユダヤ音楽”の明日はあるのか?と、”?”マークばかりが並んでしまうのである。
 ともかく未知の音楽、まだまだ世界には溢れているようで。

タクラマカンの月の下で

2008-06-13 00:30:38 | アジア


 ”新疆名歌”by 黒鴨子

 今回取り上げるのも、私が最近興味を持って聴いている中国のローカルポップス・シリーズの一枚。中国の人気女性コーラス・グループ、”黒鴨子(ヘイヤーズ)”による、新疆ウイグル自治区の大衆歌集です。
 まだまだアイドルで通用しそうな美しいコーラスで三人は、中国西北部、タクラマカン砂漠に天山山脈、なんて昔のNHKで”シルクロ-ド”のシリーズを見ていた人には懐かしいあたりに住む、ウイグル族の人々の伝承歌を歌って行きます。

 もちろん、この盤に民俗音楽的厳格さを求めると物足りないということになるんでしょう。
 なにしろヘイヤーズの三人は漢民族であり、歌詞もすべて中国語に訳されています。その彼女らが見事に洗練されたハーモニーで歌うメロディからは、ウイグルの人々の生活の匂いなどは、洗い流されてしまっているでしょう。
 そして、ベテランのアレンジャーによる巧妙な装飾の入ったサウンドは、新疆の砂漠の土埃り巻き起こる生々しい風土とは、大分かけ離れてしまっているのではないか。

 結果、出来上がったものは観光絵葉書的といいますか、埃を洗い落として風景化された新疆の”旅の想い出歌集”みたいなもの。
 でもねえ、これが良くないかといえばとんでもない、なんかすごく愛らしい作品集になっていて、「こりゃやられたなあ」と聞き惚れてしまって、愛聴盤となりそうな気配です。
 何が良いって、先に書いたように綺麗にアレンジされしまった新疆の歌、そのようにして純粋に”メロディ”として”歌謡曲”として聴いてみると、どの曲もめちゃくちゃ可憐で美しいんです。そんな旋律の目白押しなんですね、新疆の歌って。

 この地方の音楽にはずっと前から興味を持って聴いていたんだけど、これまでは現地のウイグルのミュージシャンの歌や演奏の泥臭い迫力とか、そんな方向ばかりに注目していて、その音楽がどれほど愛らしい旋律を持っているか、なんて事に意識が向いていなかった。だから、このアルバムを聴いて「一本取られたなあ」と頭を掻いた次第。

 いやほんとに。
 中央アジアの過酷な自然の中で、民族の十字路とも呼ばれる地に住むウイグルの人々が、さまざまに変転する歴史に翻弄されつつ心の中で紡いできたメロディの美しさ、優しさにこのアルバムで初めて気付かされました。いいんだよ、ほんとに可憐な曲ばかり。
 砂漠の中に咲く一輪の花。異民族の娘の美しい笑顔。オアシスの葡萄棚を吹き抜ける一条の風の爽やかさ。銀色の月の光の下を舞い踊る太古の幻。

 今回、中華人民共和国が新疆地区に対して行なっている強圧的支配等については、あえて触れませんでした。そいつはまた別の機会に、と言う事で。今は、”新疆の歌”のもたらす、優しい幻想に酔っていたいんでね。お許しを。
 

沖縄PWブルース

2008-06-10 05:35:17 | 沖縄の音楽


 ”「時代」-金城実、戦時戦後を歌う”

 このアルバムがこの5月にCD復刻されていたと、今、知った。なにやら懐かしく、昔買ったアナログ盤を取り出してみる。
 このアルバムも、買ってからもう20年近く経つ。当時、沖縄のローカル・レーベルのレコードを買うのは初めてだったんで内容よりもそのヴィジュアル面が興味深く、ともかくジャケ写真で関係者が正装し正座した姿に強力な印象を受けたのだった。

 沖縄民謡の重鎮である金城実が、戦前、戦中、戦後に沖縄で巷間歌われた歌を集め、歌った力作アルバムである。同時に、沖縄のナマの庶民史としても興味深いものがある。

 ともかく冒頭に収められた”裸足禁令の唄”からいきなりインパクトが強い。これは戦前、「アジアの盟主として君臨すべき大日本帝国の臣民が裸足で歩いているのは、見た目が悪い」との日本政府のお達しで、沖縄に”裸足禁止令”が発布された、その際に作られた”キャンペーンソング”のようだ。
 発掘されたこの歌の歌詞に歌いこまれていることで、長年謎だった裸足禁令発布の年が”紀元2601年”であると判明した、なんて話も聞いた。

 「裸足で出歩くなど、皇国臣民として恥ずかしいことだ」と歌われるのだが、それが教訓調ではあるものの沖縄の言葉で書かれてあり、またメロディもサウンド面もかなりディープな民謡調の作りであるあたり、さすがに沖縄・・・といっていいのかどうか。

 アナログ盤で言えばA面に戦前戦中の歌、B面に戦後を歌った歌が収められているのだが、A面の戦争完遂に向けての国威発揚ソングは、そしてまたB面の戦後のアメリカ民主主義礼賛ソングともども、やはり無理やり感が強い。
 歌による歴史の証言として厳粛なものはあるが、単純に歌として聴くのは、辛い部分もある。
 それでもさすが沖縄、とやっぱり言ってしまうが、「銃後の護り」なんて国策ソングが明るく軽快なラテンっぽいリズムになってしまっているのが楽しかったりはするのだが。

 一方、聞く者の心にシンと染み込んでくるのは、B面はじめに収められた”PW無情”や”屋嘉節”といった敗戦直後の悲しみや苦しみを歌った歌だ。ことに前者は、沖縄的でありながら同時に、まるで黒人のブルースをも思わせる独特のメロディ構成を持っており、心惹かれる。私がブルースマンだったら歌ってみたくなってるだろうな。

 主人公の金城実の、強靭な喉を唸らせた歌声も凄いが、そのバックで鳴り渡る三線とマンドリン、そして鼓のアンサンブルが発散する空気がど~んと重くて暑く、南シナ海を下り、遠くインドネシアあたりまで達しようかと思われる”南アジアの響き”を孕んでいるのには、何度聴いても唸らされる。
 実際、そのサウンドの持つ暑苦しい雰囲気は、ガムランの楽団に混じりこんでも区別がつかないんでは?歌われている内容が内容だけに、ますます複雑な気分になってくるのだ。

 戦争当時の為政者たちも、この黒潮を越えてアジアに向ってとうとうと流れて行く一筋のブラッドラインが孕む真の意味を読み取っていたら、あんな無茶はやらなかっただろうに、などと思ってみる。


【収録曲】

1.裸足禁令の唄 
2.強い日本人 
3.白黒節 
4.別れの盃 
5.銃後の護り 
6.新昭和節 
7.PW無情 
8.屋嘉節 
9.敗戦数え歌 
10.アメリカ節 
11.あこがれの唄 
12.果報節