ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

ベタ歌謡は国境を越えて

2011-03-31 02:00:59 | イスラム世界


 ”Milat”by Yonca Lodi

 また出会ってしまいました、アナトリア発情念の女。こういうのって、なんかジャンル名があるんでしょうか、アラベスクのなんのと言う以外に。かの”怨歌”みたいなネーミングがなされていると楽しいんだが。
 ともかくYonka女史が想いを込めて歌い上げるのが、まったくのド歌謡曲の世界なんで、妙に嬉しくなってしまったのですな、根っからの裏町歌謡曲派としては。

 サウンド方面はそこはそれ、サズがビンビンとエキゾティックなフレーズをはさみ、パーカッションがツッツカトンとアラブ情緒をかもし出しますが、楽曲の骨格を成すのはザ・歌謡曲。アラブ歌謡、という匂いはメロディラインからはさほどしません。
 この音楽の屋台骨たるメロディは、アジアの西から東まで、いや、ポスポラス海峡を乗り越えてヨーロッパの裏通りにだって平気で入り込んで、当たり前に誰かの鼻歌となってしまうであろう、”ベタな歌謡曲”の系譜の中央を歩むメロディなのですな。
 もう、この歌なら八代亜紀だって、それから60過ぎて紅白に初出場した女性歌手がいたでしょ、あの人とかに歌わせても違和感ないし、ヨーロッパでも、たとえばミルバとかさあ、あの辺の化粧厚いオバハンひっぱり出して歌わせちゃってもいいわけじゃない。

 そんなインターナショナルにベタな歌謡曲をYonca女史はいかにもトルコの歌手らしいテンションの高さで凛!と歌い上げます。セクシー光線も惜しむことなく。これを忘れちゃいかん。大衆音楽の真実ですから。
 下のビデオクリップだって、恥かしいですよお。でも、御下劣系ワールドミュージックには、この種のベタな映像作品ってつき物なんですな。

 いいなあ、このマイナー・キイのダルなメロディがのた打ち回るのを聴いていると、なんか血が騒ぎますよね、それも下品なほうの。
 赤い灯青い灯が呼んでいますよ。安い涙と安い酒。人生負け犬の裏町酒場に人種や宗教や国境の垣根はないんですなあ。合言葉はただ、「分かっちゃいるけどやめられない」それだけだ。


エレクトロニカ大腸紀行

2011-03-29 03:07:11 | エレクトロニカ、テクノなど

 "I Care Because You Do" by Aphex Twin

 と言うわけで、プルトニウムまで検出されてしまったし、明日の朝さえ来るかどうか分かったものじゃない、なんて最悪の気分でいる時にピッタリ来る音楽なんて事を考えてみたわけです。

 テクノとかエレクトロニカなんて音楽を聴き始めた頃(今だって、何の知識も増えちゃいない、この分野に関しては単なる初心者でしかないんだけれど)に、ネットでその分野の代表的アーティスト連中をチェックして廻った時、「まあ、こいつのファンになることはないだろうなあ」と思ったのが彼、Aphex TwinことRichard David Jamesだった。
 1970年代生まれの彼は、イギリスのテクノやらアンビエントやら電子音楽の世界の第一人者ということなのだが、ともかくなんじゃこれは!と閉口するようなジャケの連発なんですわ、これが。
 見るものの気分を害しようとする意図だけでジャケ作ってないか、こいつは。イギリス式ドライ・ユーモアかなんか知らんが、なんたる悪趣味。(あえてここに挙げる気はしません、興味のある向きは検索でもしてご覧ください)

 そんな風に反発を覚えてしまった奴のアルバムを、なぜだかYou-tubeで聴いてしまった私なのだが、その音、ジャケといい勝負の不快な音楽と聴こえた。が。
 その”嫌な感じ”は、妙に心に後を引く嫌さだったのだ。あるでしょう、「嫌な臭いなんだけど、なぜかもう一度嗅いでみたい」なんてね。そして私は「やめたほうがいいかなあ」と首をかしげながら彼のCDを購入するのだった。
 そして正対してみたその音楽たるや。

 機械ポップスの常としての打ち込みリズムの狭間に、こちらの感性に足払いをかけてくるような妙なタイミングでフェイクが入り、ブーブークッションから空気を押し出すみたいなブホブホいう音がいたるところに垂れ下がる。なんだか聴いているうちに、人間の大腸の中を歩いているような気分になって来たりもするのですわ。
 それは第一人者だけあって、カラフルな音の仕掛けはいたるところに仕掛けられてあるのだが、そいつもお化け屋敷めく、思いもかけないタイミングで感性への不愉快さを突きつけてくる系統の物なのですな。そいつがあたかも”ファンキー”であるかのような作用を私の感性の内でして、なんか痛快みたいな心持ちになってくるのだが、これは勘違いではないかと思うがなあ。

 見ろ、文章にしてみると悪口ばかりじゃないか。にもかかわらず奴の、Aphex TwinのCDを買い続け聴き続けている私ってのはなんだ、しかし。



××××

2011-03-28 23:10:43 | 時事

 ここには、他の人たちがツイッターで呟いた、印象に残る言葉を集めてみたんだけど、 どうも私の書いた文章と誤解された方が多かったようなんで、全面削除いたします。
 紛らわしい事をして、すみませんでした。

原発事故、闇に潜る?!

2011-03-28 02:18:06 | 時事

 (上の引用文は、「琉球新報」3/24号の米谷ふみ子氏による「識者論評」より)

 どうやら東京電力は”大スポンサー”たる立場を使って、マスコミを黙らせることに成功したらしい。原発事故のニュースが格段に減っているし、あっても形ばかりの、しかもさっぱり信用が出来ない数字を並べ立てるばかりのもの。
 記者会見でも、記者たちからはろくに質問も出ないとのこと。

 どうなるんだ、こんな事で?これだけの危険な物質が連続して原発から放出され、”人体に危険はない”ですむわけがないだろう。東京電力の副社長の会見のコメントでは、早急にどうも出来ないし、する気もなさそうだ。”チェルノブイリ以上”でしょう、どう考えたってこのまま行けば。

 政治家もマスコミに右にならえか?何の行動も起こさないのか?
 民主党よ、野党の立場にいたら、追及した事項じゃないのか、これは?なんのための保革逆転だったんだ。
 そして、”野党・自民党”よ、動かないのか、真相を明らかにするために?ここで動くのが”野党”の役割じゃないのか?

 事故の真相を追い続けるフリー記者、田中竜作氏のブログをお読みください。
 ↓
 田中竜作ジャーナル

”終わり”の向こうのラブレター

2011-03-27 02:26:46 | ジャズ喫茶マリーナ

 ”Love Letters”by Julie London

 世界はまっしぐらに破滅に向って崩れ落ちて行くようで、しかも自分はそれをどうすることも。どころではない、「せめて自分だけは最悪の不幸を免れることができますように」などとちっぽけな祈りを、信じていもしない神に祈ることぐらいしか方策も思いいけない無力な一人であることを噛み締めるしかない時。

 そんな気分の時、妙にその心象と、ストリングスなんかが入ったゴージャスな造りの、昔々のバラードなんかが合うのに気が付いたのは、あれももう20年近く昔のことになるのか、かの「湾岸戦争」が地上戦に突入したニュースをラジオで聴いていた夜更けのことだった。
 「これはひどいことになったな」などと暗澹たる気分でベッドに腰掛けたままラジオをボッと見つめていたのだが、そのうち、ラジオからナット・キング・コールの、曲名は忘れたがスロー・バラードが流れ出したのだ。豪華なストリングの付いた美しいメロディのその曲は、もたらされたニュースの禍々しさと強力な対称を成し、痛々しいとも言いたい、こちらの感性をヒリヒリ攻め立てる壮絶美を作り出していた、と記憶している。

 そんな次第で、今夜はジュリー・ロンドンの、この盤を聴いている。いつ終息するとも知れなくなって来た原発事故のニュースを目の隅で追いながら。
 最近、気に入っているんだよね、ジュリー・ロンドンが。まさか白人のジャズボーカルの盤なんか集める日が来るとは思わなかったけど。いやあ、この歳になって、その良さが分かるようになってきたのだよ。その軽さがいい。素直にスッと出てくる歌心が快い。変にこねくり回さない歌唱法がいい。聴いているこちらが疲れなくていい。しかも歌い手は美人だ。

 収められているのは、今回は他人のヒットのカバーがメインのようだが、彼女が得意とする優美なメロディのバラードが多く、企画の段階でこれは楽勝と決まりのようなものだ。
 バックは、彼女の人生のパートナーでもあったボビー・トゥループ率いるストリングス・オーケストラが務め、豪奢にしてセクシーな一夜の幻想を奏でる。

 歌詞カードの片隅にジュリー・ロンドンの簡単なプロフィールが書かれていて、それによると彼女は引っ込み思案な性格で、歌手のクセして大勢の人前で歌うのが苦手であったそうな。そんな話を聞いた後では、綺麗な包装紙に包まれた高級装身具のように見えるこの音楽世界は、実は簡単に折れてしまう彼女の心の防御の、その副産物だったのではないか、なんて気もしてくる。
 そういえば彼女、ギター一本とかギターとベースだけとか、不思議にデビュー時からあえて簡素な伴奏をあてがわれ、閉ざされた世界の、やや退廃気味の美を歌って来たのだった。

 などと意味ない考えをもてあそびつつ、贅沢なデザインのロウソクがゆっくりと燃えて行くのを夜が更けるままいつまでも見守る、みたいな気分で。世界の終わりまで、あとどのくらい?



陛下と計画停電

2011-03-25 03:28:48 | 時事

 天皇皇后両陛下におかれましては、かの”計画停電”にあわせて毎日、自主節電をなさっておられるとのこと。
 いつも我ら民草の暮らしに心をお砕きくださる両陛下の、そのお心のお優しさに涙こぼるる次第である。
 ↓
 陛下と計画停電

 ところで先日、「計画停電のなされていない東京23区でも、いずれ停電の実行を」との考えを経済産業相がを明らかにした際の、23区民諸君のネットにおける反応はいかがだったろう。

 「日本の中心である23区を停電になんかしたらどうなるか分かってるのか、コラァ」
 「不公平にならないように?笑わせるぜ」

 そうだろうか。
 「待ってました!これでご奉公の埒外に置かれていた23区の我らもお国のお役に立てる!」と欣喜雀躍、計画の実施など待ってはおられぬと、その日から連日の自主節電、という方向もあったのではないか。
 隣近所で互いに言葉を掛け合って一斉の節電を行い、予想外の使用量低下に東京電力を慌てふためかせ、23区民の心意気を天下に示すなど、実に痛快だったのではあるまいか。

 そのようにするべきだ、などというつもりもない。ただただ、もったいなくも日々自主節電を続けられる陛下の御心の前で我ら、見苦しい振る舞いのなきよう、祈るのみである。

ギリシャの一夜

2011-03-24 00:34:32 | ヨーロッパ

 ”KALI SOU TIHI”by ARETI KETIME

 このジャケ写真、なんでカジノのディーラーの恰好をしているのか、歌詞の意味が取れれば分かるのでしょうか?ともあれ、なんか不思議なこのジャケに惹かれて手に入れてみた。ギリシャの新人歌手で、これがセカンドアルバムになるようです。

 ギリシャの歌い手と言うと、化粧も衣装もケバいお姐さんが腰を振り振り民族色濃厚な重い歌を、こちらを睨みつけながら歌いかけてくるイメージがあるんだが、このケティメちゃんの場合は瀟洒な、なんて言葉を使いたくなる穏やかな雰囲気に溢れています。あるいは文芸調とでも云うべきか。
 音楽的にはライカ等の泥臭い民俗調を志向しているみたいだけど、その歌い方はずっと淡く、”普通の女の子の普通の歌”として、それらは歌い上げられています。伴奏陣もキンキンした民俗調を強調はせずに、室内楽っぽい落ち着いたサウンドにまとめられています。

 もっとも、私が聴いていないファーストアルバムは、結構シンガー・ソングライターっぽい作りなんだそうで、彼女はもともとコンテンポラリーな個性の持ち主であるのかも知れない。
 You-tubeを探すと、彼女が民俗楽器のサントゥールなど弾き語りで披露する画像などに出会えるのだけれど、その様子など見るにつけても、結構”ミュージシャン”っぽい個性の子であるような印象がある。その辺で、民族色濃い歌を歌っても”同世代的共感”て奴で、異文化に育ったこちらもギリシャの古謡の世界にスッと入って行ける仕組みかも。

 いずれにせよ、彼女のしっとりと落ち着いた歌声によって紡ぎ出されるギリシャ歌謡は、幼い頃に絵本で読んだ西洋の昔話の記憶みたいな、静けさの中でセピア色化したエキゾティックな懐かしさや切なさの響きがあり、気が付けば「惚れてまうやないか」と呟いている自分がいたりするのでした。





アナトリアン・セクシータイフーン

2011-03-23 00:02:33 | イスラム世界

 ”Konusmadigimiz Seyler Var”by Sila Gencoglu

 シーラは今、トルコでビンビンに受けているセクシー・シンガーらしいです。これが4枚目のアルバムで、この種の歌手としては旬、というところじゃないでしょうか。とか言ってるが、彼女のアルバムを聴くのはこれがはじめてなのであって。

 性急な調子でハッシハッシと打ち込まれる民俗ビートと、そいつに絡む弦楽器の鋭い弓弾き音や時にアコーディオンの妖しの響きをお供に従えて、西アジア歌謡の尖がった部分ばかりを捏ね上げたみたいなメロディを、一筋”セクシー”にテーマを絞ってテンション高く歌い上げるシーラ嬢に、鞭でシバキ倒して!と歓声を挙げるトルコ男性は多いんじゃないでしょうか。
 アップテンポばかりではなく、バラードものでも心中の性愛の熱を隠さないシーラ嬢。そのコワモテの歌声は、闇の中にメラメラと燃え上がる炎のイメージでしょうか。ジャケの写真群を見るにつけても、セクシー・キャラのアピールも濃厚で、これはたまりません。

 とか言ってますが、実は私は、こういうタイプはきつすぎて、そういう対象とは考えれらないんです。草食ですまん、これが日本人の限界でありましょう。彼女の、こちらの感性をギリギリと締め付けてくるようなキツめの歌声を、ただ”音楽”として享受するのみ。しかし、すげえなあ。




波間のジーザス

2011-03-21 22:12:24 | アジア

 ”Keroncong Rohani”by Mus Mulyadi

 ムス・ムルヤディと言えば、インドネシアのポップスが日本に紹介され始めの頃、”ガムラン&ディスコ”なる奇々怪々なる音盤で大いに名を挙げた、あちらの音楽界の大物の一人だ。けど、この人、クリスチャンだったの?と、これは意外な盤に出会ってしまった。

 海千山千の音楽界のボスが居住まい正して、敬虔に歌い上げるキリスト教系ポップス。ロハニのアルバム、しかも収められている音楽はすべてクロンチョン仕立てだ。
 昔々、海を渡ってやって来たポルトガル音楽と、現地東南アジアの土地の音楽とが混ざり合い出来上がった、世界最古のポップスとも言われるクロンチョン。その形式にのっとった、実に優雅なロハニの世界が展開されているのであります。こりゃ気持ち良いや。

 各楽器が非常に細かいリズムを刻み、それらが精巧な編み物のように編みあがり、結果として実にゆったりとした大きなうねりを形作って流れて行く、不思議な構造の音楽が出来上がる。
 そして御大ムスは特におふざけも無しで(?)ゆったりとリズムに乗り、ただ伸び伸びと主イエスをたたえる美しいメロディを歌い上げてゆきます。インドネシアの伝統的にのっとったメロディに混ざって聴きなれた”主よ、御許に近付かん”なんて曲がひょっこり紛れ込む楽しさ。

 右手にはインド洋が左手は太平洋でございます。陽光の下、ピチピチと魚たちは波間で跳ね、南の海の豊穣を謳歌いたします。エイメン。





AC地獄

2011-03-20 22:13:46 | 時事
 思いやりがどうの。ニシナアキコのシキュウケイガンとかオシムのノウコウソクとか。その他、満員電車に妊婦でございます。急階段にお年寄りでございます。

 東北地方を襲った大地震以来、もう我々は何千回、”AC”なる団体の、作り物っぽい善意で煮しめたようなテレビコマーシャルを見させられているのだろう。ともかく、その善意の押し売りがうっとうしい。そしてくどい。しかも同じフィルムが執拗に繰り返し放映される。なんなんだ、これは。
 いつも見ている各社のコマーシャル・フィルムは、例の”自粛”と言う奴で放映されないのだろうとうすうす予想はつくのだが、その代りに居座ったこの代物は何だ。”思いやり”とか持ち上げるならまず、同じCMの繰り返しに倦んでいるテレビの視聴者をAC自ら思いやってみせろ。

 まあ、CMが嫌ならテレビを見なければいいとはいえ、なかなかそうも行くまいし、NHKだけ見ていればCMは流れない、という話もあるが、NHKって結構、局風がACに通ずる感じで、あまり解決にならなかったりするのだ。
 このうんざり感を私はさまざまな場所で語ってきたのだが、どうやら同じような不快感をあのACのコマーシャル氾濫に持っている人々はいるようで、テレビ局やACに対し、苦情の電話など寄せているようだ。私など、その事実を知るだけで救われたような気持ちになったものだが、(この気持ち、ACに一作撮って欲しいね。「あなたは一人じゃないから」とか言ってさ)氾濫の理由としては、やはり各社のCMが自粛撤退した後枠にACの広告を穴埋めとして放り込んでいる、ということのようだ。

 それゆえ、苦情を受けたACの側は困惑していると言うのだが、それでもACのCMの氾濫は止まらない。本当に困惑してるのかね?実はACの側としては現在の立場を内心、”好都合”と受け取っているのではないか?ともかく視聴者が不快に思っているのを知ったあとでも、その不快を軽減するなんらかの処置が取られている形跡はないのだから。

 そもそもACとはなんなのか?と検索をかけてみると、たとえば”スポーツ報知”のサイトでは、「公共広告により啓発活動を行う社団法人。テレビ、ラジオなど約1200社の加盟社の会費でCMを制作し、提供する」等とあるのだが、分かったようで分からない。その他のサイトもあちこち覗いてみたのだが、そのようなものを”会社”として立ち上げる切実な理由と言うのがさっぱり見えてこないのだ。
 だいた、もとは”公共広告機構”と名乗っていて、途中で正体の読めない”AC”に社名変更というのも、なにやらうさんくさい。
 で、どのようにしてACは企業として収益を上げているのかと言えば、賛助企業からの会費であるとのこと。それってヤクザのミカジメ料と、どれほど違うのか?

 なんて言うと叱られちゃうんだろうけど、いや、どうちがうのか分からないから。とりあえず、今回の出来事から一般視聴者がどのくらいACという企業とその広告に疑惑や反発をいだいたか、この表現から読み取って欲しい、AC関係者には。