ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

スーパーの怪人・創作趣意書

2012-05-26 22:55:54 | ものがたり

 我が田舎の温泉街のスーパーも、いつごろからか夜の11時過ぎても営業をしてくれるようになり、嬉しい限りだ。とは言っても特に夜半に買い物の必要に駆られることが頻繁にあるわけでもなく、夜、なんとなく出かけてブラブラ出来る場所があるというのは、医師に酒をひかえるよう言われて酒場ライフを絶たざるを得なくなった自分には非常に助かる、という意味である。

 夜、なんとなく手持ち無沙汰な気分となり、愛用のバイクを引っ張り出して明かりの消えた商店街を横切り、スーパーを目指す。節電の昨今、やはり夜間に煌々と外壁の明かりを灯すわけにも行かないのだろう、夜の街にくろぐろと姿を沈めたスーパーの店内に歩みいると、なかにはいつもと変わらぬ明かりが灯り、昼間と比べると人数は少ないものの、のんびりと買い物をする客たちの姿がある。
 その光景は、太陽が力を失い西の空に力なく落ちてしまい、人々はいつ終わるともしれない夜の闇の中に封じ込められ、皆がひとりぼっちでいつ来るかわからない次の日の出まで生き残る算段をせねばならない、夜風の伝えるそのような噂はすべて嘘であり、それが証拠に、ここにこうして光あふれる昼の破片が生き残っているではないか、などと行ってくれているようでもあり、ああ、助かったなあ、とため息をつく、と言ったらオーバーすぎる話ではあるが。

 惣菜売り場の商品は、さすがにタダ同然の価格に値下げされており、これを買って帰って一杯やったらさぞうまかろうと思ったりするのだが、諦めるよりない、今日は酒を飲んでもよい日ではないのである。
 ところで。このような深夜スーパー行脚の日々を続けるうち、気になる人物の存在に私は気がつくことになる。それは私が「深夜スーパーのヌシ」とひそかに名付けた人物なのであるが。

 ともかくその彼は、深夜にスーパーを訪れると、そこに居なかったことはない。ともかくそこに行けば彼は必ず、あるいはカゴを抱えて買い物の最中であり、あるいは仕事上の知り合いらしきオバサンと談笑している。ともかく100パーセントの出席率だ。毎日。ともかく夜毎、彼はスーパーに姿を現しているとしか思いようがない。
 そのメガネと顎ヒゲの具合など、若き日のデビット・ブロンバーグ、かのアメリカン・ルーツミュージック系ギター弾きに似ている彼は、いつもタオルを頭に巻いて長髪を纏め、ジャージの類を身にまとっている。年齢は30代半ばくらいか?いや、もっと若いか、もっと歳がいっているか、どちらもありそうな感じだ。

 なぜなのだろう、どことなく”追われた種族”みたいなイメージで影を引きずり、交わす会話も声をひそめがちな感じの深夜スーパーの客たちなのであるが、そんな人々の真ん中で彼、”スーパーのヌシ”だけはいつも陽気で、ニコニコと商品を眺め、知り合いと会話を交わしている。
 スーパーの入口に小さな喫茶室のような場所があり、客たちはそこに座り込んで、今買ったばかりのジュースを飲んだりアイスを食べたりしながら談笑することが出来るのだが、それも昼間のこと。夜ともなれば談話室の照明は消され、隣のパン売り場から漏れるか細い明かりのおすそわけでぼんやりと室内を照らし出すだけ、うら寂しいばかりでそこに立ち寄ろうとする人もいない。ただ、”スーパーのヌシ”だけは、違う。時に彼は、薄暗いその談話室の椅子にたった一人で腰掛け、楽しそうにコーヒーを飲んだりしているのである。

 ある夜、そのスーパーに欲しかった品物がなかったので、街のもう一軒のスーパーへ移動し、そちらで探してみたのであるが、ふと気がつくと、二つほど先の棚に向かい、なにやら買い物中の”スーパーのヌシ”がいた。本気で恐怖したものである。さっきまであちらの店にいたというのに。
 彼は深夜営業しているすべてのスーパーの店内に遍在しているのか。あるいは私は追われているのか。未だにあれはどういうことだったのか分からない。

 そもそも彼はどんな仕事をしているのだろうか。他に行きどころのないホームレスとかではないようだ。着ているものも小ざっぱりしているし、ちゃんと仕事を持ち普通に日常を送っているきちんとした生活者の雰囲気がある。
 彼の存在に気がついてどれほどになるのか。特に関わろうともせず、その姿を見てみぬふりでそそくさと買い物を済ませて帰ってきてしまう私だが、彼の”正体”に関わるバカな説でも思いつけたら、それを小説にでも仕上げたいなんて気持ちも無いではない。タイトルは、有名な”オペラの怪人”をもじって”スーパーの怪人”である。

 そうなると当然、クライマックス・シーンは、スーパーの秘密の地下洞にある巨大な湖に、空気を満たして膨らませたレジ袋を集めて作った船に乗った彼が、誘拐した美女を抱えて乗り込み・・・

 さて、夜も遅いし、スーパーに買い物にでも行ってくるか。



東京電力の長い午後

2011-05-21 06:11:37 | ものがたり

 冷え切った空気が大地を張り付くように覆っていた。力ない光を放ちながら灰色の空を、ゆっくりと太陽が横切って行く。埃っぽい道は地平線に向ってまっすぐに続いていた。道の両側にはひと気のない田舎町が広がっている。
 ひょろ長い体に青い作業服を着け、集金鞄を下げた耐放射線ロボットは、途方に暮れた眼差しで街を眺めた。この街・・・人影も見当たらない廃墟の町にしか見えないのだが。
 それでも職務に忠実な彼は通りの入り口の商店に入り、声をかけた。
 「ごめんください。東京電力のものですが。電気ご使用量の集金にうかがいました」
 返事はない。気がつけば薄暗い商店の中には厚い埃が降り積もり、およそ人の暮らしの気配はなかった。
 彼が製造され、東京電力に配属されて最初に申し付かった仕事がこれだった。
 ”もうどこからも電気料金の振込みがなくなってしまった。だから一軒一軒、契約家庭を廻ってメーターの検針を検め、直接電気料金を徴収して来い”
 そして彼は、上司たるメイン・コンピューターから渡された地図を片手に、この街にやって来たのだ。しかし。
 
 彼は、もう見ることの出来ない子供たちの笑顔や失われた日本人たちの暮らしを想い、自分がもし人間だったらきっと、ここですすり泣いたりするのだろう、と思った。
 いや。何を泣くことがあるだろう。確かに日本人は滅びてしまったが、東京電力は守られたのだ。国の庇護の下、株式会社として残ったのだ。もういなくなってしまった日本国民たちの税金を使って。そして今日も原発は順調に確実に、電気を町に送り続けている。
 何を文句があるのか。この状況に文句があるなら代替案を出せ。この便利な生活を、原子力無しで、どのようにして守ろうと言うのか。文句があるなら電気を使うな。
 ロボットは出もしなかった涙を拭う真似をし、立ち上がった。
 命令に従うのはロボットの責務。なんとしても彼は電気料金の集金を果たさねばならなかったのだ。



生まれたものは

2011-02-24 02:52:32 | ものがたり
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 ☆小林麻央が妊娠5ヶ月 海老蔵7月にパパ(ORICON STYLE - 02月23日 12:15)

 歌舞伎俳優・市川海老蔵(33)とフリーキャスター・小林麻央(28)夫妻に今夏にも第一子が誕生することが23日、わかった。海老蔵の所属事務所によると現在、麻央は妊娠5ヶ月で7月に出産予定という。

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 十月十日の日満ちて、生まれた子供は黒人なりき。さらにその子、ミルクを灰皿に満たして飲むをことさら好む。怨念の残露の恐ろしきかな。

 ここにいたりて海老蔵、ついに観念し、その子をリオンと名付けけり。

 まこと因果は巡る糸車、それを演ずるは歌舞伎役者の本懐と、江戸市中の人々、大いに噂に興じたりと言ふ。平成大飢餓の前年の出来事なり。


猫の踊る話

2010-03-03 02:18:07 | ものがたり
 猫は死んでいました。それはもう、どうしようもなく死んでいたのです。何しろ先ほど魚屋の角で車に轢かれた猫の体はすでに死後硬直を起こしていて、猫の横たわっている真冬の夜のコンクリートの道路と、冷たさにおいても硬さにおいても、それほど変わりのない様子になっているのですから。
 自分の体は死んでしまったが、この魂はどこへ行くのだろう、動けぬ体で猫は、そんな事をぼんやり考えていたのですが、いつの間にか一人のニンゲンの紳士がそんな猫を見下ろしていたのです。
 「こいつで試してみようか」
 紳士はボソッとそう呟くと、手に持ったスコップで固くなった猫の死体を乱暴に地面から引き剥がし、袋につめて歩き出しました。

 それから後のことを猫はあまり思い出したくありません。紳士は猫に何本もの注射をし、電極を差し込み、それから何本もの鉄の棒を猫の体に押し込みました。もうとっくに死んでしまっている猫に痛みを感じる能力はありませんでしたが、もしその能力が残っていたらさぞかしひどい苦痛を感じたであろうと思わずにはいられない、それはそんなに乱暴な作業でした。棒の差し込まれた皮膚の穴からは、濁った液がどろりと流れ出しました。
 猫の体に棒を差し終えると紳士は、机の上のパソコンを操作しました。すると差し込まれた鉄の棒が勝手に動き出し、猫の死んだ体はユラユラと立ち上がり、ぎこちない踊りを踊るのでした。とうに死んでしまっている自分が踊りを踊っている。しかも、生きている猫なら絶対にしないような無理のある動きをしながら。それはとても奇妙な気分でしたが、猫にはどうするわけにも行かず、踊り続けるしかないのでした。

 紳士はそんな猫の様子を見つめ、満足げに頷きました。「よし、想像以上に上手く作動している。こいつで行こう」
 紳士は立ち上がり、取り出した携帯でどこかに連絡をとろうとしましたが、そこでふと、スイッチを切られたのでまたも動かないからだとなってしまっている猫に向き直り、こんな風に話しかけました。
 「ほかにいくらでも猫はいるのに、どうして自分がこの役割に選ばれたのか、不思議に思っているだろう?それはお前がとても不幸な猫だからだよ。ノラ猫として生まれ、なんの生きる喜びも感じることなく、車に轢かれて死んでしまった。私の装置をスムーズに作動させるには、そんな不幸に満たされた動物の心が必要なのだよ」
 冷たい目で猫を見下ろしながら紳士はそう言い、部屋を出て行きました。

 翌朝、猫は「スタジオ」という名の場所に連れて行かれ、アヒルとかいう奇妙な鳥と一緒に何度も踊りを踊らされました。猫は、このアヒルという鳥もまた、猫と同じような事情でここにいるのだろうかとぼんやり考えたりもしましたが、アヒルとのコミュニケーションをとる方法が分りませんでした。
 あまり何度も踊ったので、終わり頃には鉄棒を差し込んだ皮膚の穴からまたも濁った液が流れ出したのでした。その液はひどい悪臭を伴うものでしたので、いつも猫は乱暴に消毒液を叩きつけられたのでした。すでに死んでいる猫にとって、それはさほどの苦痛では、もちろんなかったのですが。

 スタジオで撮られたフィルムはCMというものになってテレビで流されたのですが、紳士の目論んだとおりに社会は「猫とガキさえ見せておけば勝手に幸せになるおめでたい連中の集合体」であったらしく、そのCMは好評のようでした。だから次々に続編が作られ、猫はそれなりに忙しい思いもしました。運動量に比例して猫の体内組織は劣化して行くようで、踊るたびに猫の体はグシグシと音を立てて軋み、悪臭のあるにごった液が滲み出ました。

 そんなある日。猫たちとCMで共演している女優が撮影の合間、休憩中の猫を見ながら、こういったのです。
 「最初は死んだ猫の踊りなんてグロテスクとしか思えなかったんだけど、見慣れてしまうと、こんな化け物でも可愛く見えてくるのよね」そう言って彼女は猫の頭を撫でようとしました。
 「あ・・・」
 あの魚屋の曲がり角で車に轢き殺されて以来、冷たい石となっていた猫の心が、その女優の気まぐれな一言に反応して、ポッと熱を持ったのでした。
 スタジオの隅に立っていた紳士はそれを見、「あ、そいつに向ってそんな事を言ってはいけない」とあわてて叫びましたが、遅かったようです。不幸に満たされた心が成り立たせていた猫のゾンビは、たとえひとかけらでも優しさが苦手だったのです。
 猫の体はビクン!と一つ大きく痙攣したかと思うとドロリと溶け崩れ、一瞬にして薄汚れた液体の溜まりとなってしまいました。

 翌日から、不幸な猫を探して街をさすらう紳士の姿がまた見られるようになりました。どういう理屈で動いているのか分らないアヒルは、毎日元気に食事をあさりながら次のパートナーを待ち、猫に優しい言葉をかけた(たいして優しくもなかったのですが)女優は、つまらない痴話喧嘩の際、同棲中の恋人に殴られ、脳内に出血を起こして死んでしまったそうです。

地底人の探求

2009-12-30 04:49:01 | ものがたり

 何年か前、まだ”モーニング娘”のメンバーだった頃の矢口真里のラジオ番組の中で、番組を担当している放送作家らしき男性が地底人に関する話をしていた。矢口は「何を馬鹿な話を」と言った風に笑って受け流していたが。

 そう言えば地底人の姿を見かけることも、最近は稀になってしまった。私の少年時代、昭和30年代には、よく蓋が開いたまま放置されたマンホールなどを見かけ、「ああ、地底人が出てきたんだな」などと頷きあう事など、普通にあったものだ。

 何しろ人間に出会うとすぐに逃げ出してしまう地底人であったので、その姿の詳細は定かではないのだが、最も印象に残っているのは、彼らの背の低さだ。身長は1メートル20センチ程が平均だったのではないか。

 その身長と、一様にやや小太りの体型から、なんとなく無邪気な子供のようなイメージを持たれていた彼らだったが、その顔立ちを良く見てみると、それは成人したヨーロッパ人種のそれであり、曲がり角で鉢合わせするなどして、予期せずその顔をまじかにしてしまった時など、その顔立ちの大人びた感じや、その目の表情の意外なほどの暗さに、なんだか気おされるものを感じたりしてしまったものだ。

 彼らが身にまとっていたのは、いわゆる「全身タイツ」というべきものだったのだが、その色に関しては各々の記憶の中で微妙な差があり、定説と言ったものはないようだ。私の記憶の中では、やや青みがかったグレイなのだが、完全な灰色、あるいは黒、と言った具合に、諸説がある。

 彼らがそれなりの文明を地底において築き上げていたのであろう事から考えて、彼らが自身の言語を持っていたのは間違いの無い事実だろうが、彼らが我々地上人に対し、何事か語りかけてきたことは、残された記録を見る限り、ないようだ。彼ら同士が言語によるコミュニケーションを行っている現場も、とりあえず公式には確認されていない。

 彼らが何を求めて地上にさ迷い出てきたのか、それに関する定説も無い。我々地上の人間には、ほとんど何の関心も示していなかったし、例えば彼らの地下世界で手に入らない、なんらかの資源を採取していた気配も無かった。彼らはただ地上に現れ、慌しくあちこちを徘徊して廻り、気が付けばまたマンホール伝いに、地下深くに枝葉を広げた彼らの迷路世界に帰っていったのだ。

 アメリカ軍が彼らの生体の捕獲に成功した、などと言った噂も流れたのだが、さて、その事実が本当にあったのかどうか。彼らへの生物学的研究の成果、などといったものが発表されたと言う話は、寡聞にして聞かない。

 彼らの姿を見かけなくなったということが彼らの絶滅を意味するのかどうか、私にも分からない。現代の進んだ土木技術なら地下を掘り進み、彼らの地下都市に至る事も不可能ではないのでは、とも考えるのだが、そのような動きも無いようだ。

 いや、逆に、我々の間には地底人たちに関する記憶を忘れ去ってしまおう、彼らが存在したことなど無視し去ってしまおう、といった動きが隠然として存在するらしいのは、嘆かわしい気がする。地底人はかって確かに存在し、我々の世界の片隅にその姿を現していたのだから。

海の最後の日

2009-08-30 04:57:19 | ものがたり

 その日は夏休み最後の日で、その時私は小学校6年生だった。

 空気の中にまだ夏の暑気はわだかまってはいるものの最盛期の勢いはすでにうせており、何よりその日はどす黒い雲が空を覆い、まるで海水浴日和などと言えたものではなかった。だが私は、物好きにも海水パンツ一枚で浜辺に出たのだった。夏休みが終ってしまうのだから夏は今日で終わりと観念するよりないのだが、私はまるで泳ぎ足りていなかった。その夏のはじめに心に描いていた水泳浸りの夏休みは、台風の到来やらなどに阻まれ、まるで実現できていなかった気がしていた。

 だから、たとえ泳ぎに向いた日でなかったとしても私は、家のすぐ前に広がる海岸に直行し、こなしきれなかったノルマを解消せねばならなかったのだ。
 いやいや、ただ単に楽しかった夏休みを終らせてしまわないための呪的行為としての海水浴を行おうとしていただけだったのかも知れないが、その時の私は。

 もうすっかり秋の色が支配する砂浜には、海水浴客などは十数人が出ているだけだった。誰も皆、寒そうな様子で浜に佇むばかりで、妙に黒褐色が勝った色の波が打ち寄せる海には入って行こうとしない。砂浜の監視員は、今日で終わりとなるバイトゆえすでにやる気も失せており、なにより閑散とした浜のありように倦んでいた。

 彼は本来そこに詰めているべき監視台から降りてきて、どうやら顔見知りらしい小学生相手に砂を投げつけては「汚いから海に入って体を洗え」と命じ、小学生がその通りにするとすかさずまた砂を投げつけ、「ほらほらどうした、まだ体が汚れているぞ」と因縁をつけるという、つまらないイジメを陰湿に続けていた。

 私は気持ちを鼓舞して海に入りはしたものの、びっくりするほどの水の冷たさに、すぐに浜に上がってしまい、成すすべもなく打ち寄せる波をただ見つめるだけの、砂の上の海水浴客の群れに加わるしかなかった。

 そんな砂浜での一時の人気者は、誰かが連れてきた黒い大きなシェパードだった。その犬は、誰かが砂浜の上のボールなどを海に向かって投げるたび、フルスピードで海中に飛び込んで行き、それを口に咥えて得意げに戻ってくるのだった。皆は何度も海に向かって物を投げ、そして犬は大張り切りでそれを咥えて来た。海水浴客は本来の目的の海水浴が寒空ゆえにままならぬうさを晴らすかためのように、オーバーな歓声でそれを迎えた。犬はますます得意になり、尻尾をさかんに振って次の獲物を催促した。

 そこで私はつまらない細工を思いついた。私は海岸の砂を丸く固めて砂団子を作り、それを犬に示してから寄せる波に向かって投げつけた。犬は猛ダッシュで海に飛び込んだが、もちろん砂団子は海水に触れると同時に霧消しているのだから、咥えて戻ってくる獲物など存在しない。犬はしばらく困惑した様子で海中を探索していたが、やがて諦め、すごすごと何の獲物もないまま、浜辺のギャラリーの元に戻って来たのだった。

 皆は間抜けな犬の様子に大笑いだったのだが、小細工をした当人たる私は、戻ってきた犬のいかにも申し訳なさそうな様子に、ひどくばつの悪い思いをしてしまった。邪心のないイキモノを騙してしまったことへの良心の呵責という奴が、胸の中に湧き上がって来たのだった。あんな事をするのではなかったと心を痛めたのだが、といって、犬を相手では事情を話して謝罪をするのも不可能だ。

 そんな事からひととき内省的な気分になった私は、そこで初めて気がついたのだ。いつもは友人たちと騒いでいた浜だったが、今、私の周囲にいるのは、知らない人たちばかりだと。砂浜で犬と戯れる、見知らぬ人々。いつもの遊び仲間はどこへ行ったのだろう。通いなれた浜までもが、なんだか見知らぬ場所のように見えてくるのだった。
 私はすごすごとその場を離れ、浜の外れにある石段を登った。その先は国道に通じ、国道を横切れば私の家がある。それは八月最後の日であり、夏休みはその日で終わりだった。

 その翌日から砂浜は立ち入り禁止となり、浜を撤去する工事が始まった。以前から下水道の流入等により海水の汚染が指摘されていた浜であり、そこを遊泳禁止にして砂を掻い出し、テトラポットを並べてしまおうという市議会の決定が出ていたのだ。浜が”泳げる海”であるのは、あの日が最後だった。翌夏からは海岸の防波堤の向こうには無愛想なテトラポットが並ぶだけの立ち入り禁止の海が広がり、私たちは、そして町は、自由に泳げる海を失った。
 
 いくらなんでも観光地の海岸を遊泳不能のままにしておくのはもったいなかろうと市当局が気がつき、海岸にいったん並べたテトラポットを撤去し、その場所に湘南方面から砂を持ち込んで人工海水浴場が作られ、奇妙な形ではあるが”泳げる砂浜”が町に戻ってくるまで、その後、20年以上の時を要した。




秒速アルジャーノン

2009-08-22 21:01:57 | ものがたり

 ばかのぼくがぱんやさんではたらいているとだいがくのえらいせんせいがきて、ぼくのあたまをしりつしてあたまをよくしてくれるというのでだいがくにいきました。だいがくにいってしりつをうけるとその効果は即効的であり、また絶大なものであった。そして私は、知能に障害を持って生きてきた日々の何たるかを知りだいがくからかえってくると、ぼくはまたばかにもどっていました。せんせいはおかしいなこんなはずではなかったのになにがげんいんかしらべてみようといい、ぼくのあたまにちょうさのためのよびしょちというのをしてくれました。するとその効果は意外なもので、私の知能指数は、またも顕著な上昇を見せたのである。私は執刀医と共に、この件について様々な検証を加えてみたのだが、その途上で不意にぼくはまたばかにもどってしまったのでぱんやさんにもどりました。ぱんやさんではたらいていると、まただいがくのせんせいがきて、あのよびしょちのかていでいがいなこうかがあらわれたので、もういちどしりつをしようといいました。ぼくはもうしりつはいやなのでないていやがったのですが受けてみると、またも効果は絶大にして即効的なもので、私の知能は前回の処置時よりも、さらに向上していたのである。予備処置の過程のどこかに、知能の上昇を喚起するなんらかの有効な方策が存在しているのではないかと言う仮説を立て、だいがくのせんせいとぼくのあたまをずっといいままにしておくためになにかいいほうほうはないかなとはなしあっているうちに、ぼくはまたばかにもどってしまったのでぱんやさんにかえりました。だいがくのせんせいがまたやってきてもういちどとらいしてみようといいましたがぼくはもうだいがくにはいきませんでした。ただ、ぼくのあたまのけんきゅうのためのじっけんにつかわれていたねずみのアルジャーノンがしんでしまったというのでアルジャーノンのおはかに献花をお願いいたします、と書いて、私は、そのような文章を書いている自分に気付き驚嘆した。今回は、例の”処置”を受けることなく私の知能が回復しているのだ。原因は定かならぬとは言うものの、私の脳内に、私をこのまま高度な知能の状態にキープしておくための何らかの作用が起こっている可能性が高い。繰り返されたあの”予備処置”に、まぐれ当たりとも言うべきなんらかの効果は、やはりあったのではないか。私はパン屋を走り出、大学に向かう道を全速力でたりらりらんのほーいほい。

お遍路宇宙船の日

2008-02-13 04:49:16 | ものがたり


 幼い日の思い出として、お遍路宇宙船搭乗の記憶はあります。おそ
らく子守を託された祖母が、宇宙船に乗りたいとグズる私に手を焼き、
窮余の一策として巡礼宇宙港に向かったものと思われます。

 それまで乗り込んだこともなかった私鉄電車に乗り、山奥に向かっ
て何駅か行った所に、巡礼宇宙港はありました。
 広大な宇宙港に立ち並ぶ銀色の宇宙船、と言ったものを想像してい
た私は、山寺の境内に設けられた木造のロケットランチャーと、そこ
に置かれた、なんと申しますかヤニ色の小さな古びた宇宙船が一基だ
け、といった風景に、まるで拍子抜けしてしまったものでした。搭乗
口の前に列を作っているのが、ことごとく数珠を片手の老人たちであ
る事も異様に思われました。

 乗り込んでみた宇宙船の内部は、薄暗い、磨き込まれた木製の廊下
の両側に並ぶ六畳や八畳の畳の間、と言ったものでした。その船を利
用するのが老人ばかりであるのを考慮した作りなのでしょうが、これ
もまた私にとっては期待はずれと言っていい風景でした。

 三々五々、畳に座り込んで渋茶をすする老人たちの間で、お茶受け
の煎餅など齧っているうちに、操縦室に陣取った宇宙僧侶たちの読経
が始まります。木魚が連打され、鐘が打ち鳴らされますと、いつのま
にか宇宙船の機体が細かい振動を始めていました。

 読経の声が高まります。そうこうするうち、あれは職名としては
「艦長法主」となるのでしょうか、宇宙船を航行させる僧侶たちの主
任の力強い声による「オンニョハンライゲンシュピラーゲンアーヘン
ソワカ!」なる、ドイツ語混じりの引導が宇宙船中に響き渡りました。
と、宇宙船が静かに地上を離れ、上昇を始めるのが感じられました。
僧侶たちの法力が、万有引力の法則に打ち勝ったのです。

 祖母の開けてくれた障子の向こう、強化ガラスの窓越しに、私は見
ました。さきほどまで自分がいたお寺の境内が、視線の遥か下に小さ
くなって行くのを。
 やがて、眼下の風景は、学校の地図帳に載っていた通りの形象を呈
し始め、そしてほどなくそれは海に囲まれた日本列島の姿へと変わっ
て行きました。

 そんな宇宙船の中で私は、なんだかこのまま自分は、このしなびた
ような老人たちと共に果てしもない宇宙巡礼の旅に出るのだ、二度と
帰ってこられないのだ、そんなひどい孤独感に襲われ、こらえようも
なく号泣してしまっていました。それでも、窓の外、漆黒の宇宙空間
に浮かんだ青い地球の姿は、とてつもなく美しく感じられはしました
が。

 その船は、惑星八十八ヶ所巡りの為の大型宇宙船に老人たちを運ぶ、
いわばフェリーボートとして機能していたものだったようです。すぐ
に船は、地球を巡る軌道上を回遊していた、より大きな宇宙船に機体
を横付けにし、数珠を片手の老人たちはその船にゾロゾロと乗り込ん
で行き、そして漆黒の宇宙の更なる深みに旅立って行きました。
 二度と帰らない旅に連れ出されてしまったのでは?との私の恐怖は
杞憂と終わりました。

 帰りの船内は、そのまま地球にとんぼ返りする祖母と私の、二人だ
けが乗客でした。地球に帰れる、と知った私は急に気持ちが大きくな
り、船内をはしゃぎ回って祖母を困らせたものです。

 やがて船は元のお寺の境内に着陸し、こうして私の実質30分にも
満たない、生まれて初めての宇宙旅行は終わりました。
 それから私は、境内を出た参道にある土産物屋で買って貰った飴を
舐めながら、家で待つ両親と妹への土産であるお饅頭の折りをぶら下
げ、祖母に手を引かれて家路を辿りました。

 それはちょうど今日のような、空気が澄み、空がどこまでも青く晴
れ上がった、静かな冬の日の事でした。

ディズニーランドで暮らすには

2007-10-02 01:00:34 | ものがたり


 東京ディズニーランドで暮らしてみたい、なんて言ったら、よほどあの遊園地が好きなのだろうと思われそうであるが、そういうことは全然無い。あのような場所で遊んで面白く感ずるような感性を失ったのは、とうの昔だ。

 浦安にあるあの場所に行った事は、実は我が生涯に二度ほどあるのだが、どちらも付き合っていた女の歓心を買うのが目的で、私の趣味では全然無いのだ。
 だったらそんな場所で何故暮らしたいのだ、と問われても、ズバリの回答は思いつけない。なんとかコトバにしてみれば、出来るだけ広大な非日常の世界の中で、無味乾燥な日常を送ってみたいのだ、とでも。これでも、何の説明にもなっていないな。

 そもそも、どうやってあの中で暮らすのかといえば、なんか山の間を巡る西部開拓時代の蒸気機関車、みたいなアトラクションがあるでしょ。あの”山”の上の方に立っている書割り風のセットの家、あの中にこっそり、客にみつからないようにするから住まわせてくれないものかと思うのである。
 家のような形をしているが、まあ、実体は小さなものだろう。中が、たとえば四畳半くらいのものだったらちょうど良いや、学生時代を思い出して中に四枚半の畳をひいて、布団など持ち込むのである。ガス、水道など引いていただいて、簡単な炊事などさせていただけるとありがたいのだが。
 トイレは、園内のものを使うわけだが、”山の家”から出てくる姿を入園者に見られてはまずいだろうから、山陰に簡単な隠れ道など作ってもらうしかない。風呂は、何しろあれほどの規模の施設だ、おそらく当直する従業員用のものがありはしないか?そいつを同様に使わせてもらう。

 さて朝。”西部の山”に建つ”山小屋”の中に隠された四畳半下宿の万年床の中で目覚めた私は、二日酔いに苦しめられつつ(昨日の接待はきつかった)顔を洗い、朝食を食べ、そして山陰の道を通って、もう押し寄せてきている来園者を横目に、管理事務所の裏口なんかから園の外に出る。ディズニーランド詣での客たちのために、東京駅からの直通バスが運行されていたから、あれを通勤に利用させてもらおう。
 都心に出てする仕事は、もう、何のやりがいも無い灰色の仕事であって欲しい。

 夕方、その仕事に心身をすり減らして一日を終え、私は再びディズニーランド行きのバスの乗客となる。同乗者たちは、夜のディズニーランド観光を楽しみにするアベックたちだったりする。疲れ果て、浮かない顔をしてバスの座席に腰を下ろしているのは、もちろん、私一人である。
 やがてバスはディズニーランドに帰り着き(私以外の乗客にとっては、”到着”である、当然)私は、エレクトリカル・パレードとかなんとかいったものに熱狂する来園者たちを掻き分け、園内の目立たない道を辿って、山上の我が家に帰る。

 部屋に帰り着き、手に提げたコンビニの袋から出した缶ビールをプシュと開け、エビフライ弁当560円なり、を食べたりしよう。インスタントラーメンでもいいだろう。カップものではなく、袋入りのものがいい。作った鍋に割り箸を直接、突っ込み、食う、70年大学生風スタイル。
 部屋の隅の古びたテレビで野球の中継を見る。興味も無いチーム同士のどうでもいい消化試合を、いかにもつまらなそうに見よう。”下界”からの喧騒を遠く聞きながら。
 夜が更ければ、万年床にもぐりこんで眠る。
 園内の施設で遊んだりは、一切しない。そんな事のために東京ディズニーランドの住人になったのではないからだ。

 休みの日には、ディズニーランドの近くの海にでも行ってみよう。あるだろう何か、近くに。とりあえず、波打ち際くらい。別に行楽の名所などでなくても十分。汚れ放題でもかまわない。大量の水をたたえた空間の広がりがそこにあればそれで十分。その場所で一日中、空白の時を過ごそう。

初秋

2007-09-25 03:20:00 | ものがたり


 午睡の中にあった。昼の日差しはまだまだ夏の面影だが、こうして風通しのよい居間に寝転んでいると、空気そのものの中に密かな涼気が忍び入っているのが感じられる。昼食後の怠惰なひととき。ほんの一刻、横になるつもりが、いつの間にか深い眠りに引きずりこまれていたようだ。

 ふと気が付くと、店で母と妹が、何事か会話を交わしているのが、聞こえてくる。妹が来ていたのか。隣りの町内に嫁に行った妹が”里帰り”に来るのは日々、特に珍しいことでもない。二人の会話の内容は、どこか不明瞭で、聞き取れない。話し声そのものが小さいのか、それともこちらがまだ夢うつつにあるせいか。

 再び眠りに入っていたようだ。睡眠は浅くなり深くなり、何事か夢は見ている筈なのだが、記憶には残らない。
 隣室から、先刻より咳払いの音が聞こえてきていた。聞き慣れた、が、このところずっと聞く事のなかった咳払いの音。それが、十数年前に死んだ父のそれであるのに気が付くまで、しばらく時を要した。

 父は、60過ぎても、言葉に妙なところで幼児語の切片が残っている男だった。眉毛の事を「マミヤ」と言い、魚の「鮎」を「あい」と発音した。「自分は人生の成功者であり、人生の成功者は人の集まりがあったところで壇上に上り、挨拶の一つもするものだ」と信じ込んでいた。だから宴席に臨むたびに当たり前のように乾杯の音頭を取ったのだが、実は彼は人前が苦手で話し下手の男だった。
 だから彼の”演説”は、頻繁な絶句と意味の無い咳払いが大量に含まれた、しかも、慣用句を継ぎ足しただけの、ほとんど中身の無い、無残な長話でしかなかった。生涯、彼は自分が下手糞な話者であると言う事実に気付かずにいたようだが。少しぐらいは「何か変だな」とか「なぜ、自分の話は他の”成功者”のように流麗ではないのだろう?」などといった疑問を持っても良さそうに思うのだが、その気配はなかった。
 「そうでありたい」と「そうである」とは、必ずしも同一ではない場合がある、というより、食い違うケースの方が圧倒的に多いのが、その種の客観性の欠如を抱えたまま、彼は鬼籍に入ってしまった。

 ついでに言えば父は、自分で思っているほどの”成功者”でもなかったろう、他人から見れば。
 父の残した借金を返すのには、若干の歳月がかかった。
 そんな父が生前、演説の場で絶句するたびに、持てない間を埋めんとするかのように頻繁に発していた、あの咳払いが隣室から聞こえてくる。

 横臥したままの私の視界に、天井近くにしつらえられた収納庫が入ってくる。あそこには、何が収められているのだろう。子供の頃から不思議で仕方がなかったのだが、その謎が解明される前に、家は改築され、収納庫は解体、破棄されてしまったのだった。

 居間の真下に、商品収納のための地下倉庫が作りつけられているのは、改築前も以後も変わりない。ただ、改築前の地下倉庫は、現在よりもずっと狭くて汚くて、なにやらすえた匂いがしていたのは、鼠の死骸などが、見えないどこかに転がっていたせいだろう。
 その地下倉庫からある夜、祖母の号泣する声が聞こえてきて、まだ幼かった私は、ひどく動揺した、そんな記憶もある。どちらかといえば気丈な性格の祖母であり、それが、そんな形で人目を忍んで泣かねばならぬ、どんな理由があったのか。何も分からぬままに、ただ私は祖母の泣き声のただならぬ激しさに怯え、一人、居間で震え続けたものだった。
 もう40年も前に鬼籍に入った祖母の泣き声が、遠く近くに聞こえている。それはとてもかすかな響きで、小さな胸の痛みを残しはするが、私の心を、あの日のようにかき乱しはしない。祖母の号泣の理由は、いまだ、分からぬままだ。

 母の声がし、私は午睡の世界から現世へと引き戻される。母は言う。これから妹と一緒に買い物に行くから、そろそろ惰眠を切り上げ店番にかかれ、と。私は冷め切った番茶を飲み干し、立ち上がる。
 コンクリートの箱として立て直されて久しい我が家に、雨が降るごとにひどい雨漏りに悩まされた、あの古い木造家屋、私が生まれたあの家の面影はどこにもない。

 店の表戸を開け、国道の向こうに広がる海水浴場を望む。砂浜に人影はない。夏の間にあれほど渋滞を繰り返した国道は閑散とし、すっかり弱まった日差しの下で、白々と東へと続いている。

 私は吹き抜ける秋風の中で大きく伸びをしてみる。足元に、干からびたトンボの死骸が一つ、飛び来たり、そしてまた、飛ばされて行った。