ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

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ウクレレは燃えている

2007-08-31 00:52:15 | 太平洋地域


 ”Ukulele Paradise!”by 平川洌

 サンズイに”列”で”キヨシ”と読むとは知らなんだなあ。ともあれ、私が恐れ入りつつ”スロウハンド”と密かに渾名しているウクレレの名手、平川氏の好アルバムであります。

 スロウハンドとはもちろんクラプトンの昔のアダ名を念頭に置いているのであって。平川氏はエディ・カマエ~ハーブ・オオタの流れに連なる、ウクレレの風雲児系列のプレイヤーであります。つまり、旧来の、のどかに和音を奏でるリズム楽器の立場に甘んじることなくバンドの中央に位置し、ソロで華麗にメロディを弾きまくるタイプのミュージシャン。

 とは言え、日本ハワイアンの歴史などにはまるで詳しくない私、平川氏がその世界でどのような立場にあるのやら、詳しくは存じません。が、その演奏を聴く限りでは、かなりの革命児なのではあるまいかと想像する次第で。

 平川氏がアルバムで取り上げる曲目の多くは、いわゆるハワイアンからは大幅に逸脱するケースも多い。プラターズやらナットキング・コールやらプレスリーなどのレパートリー、映画音楽やポルカやら。ともかく、ロックの、といいますかビートルズの時代の到来寸前までのポピュラー音楽総まくり、みたいなセレクトであり、まあ平川氏、その頃に青春を送られたかと思うんですが、興味深い。

 また、バンドの編成もハワイアンへの固執はまるでみられず、私の集めた近作においてはスチールギター等の、いわゆるハワイアンぽい楽器は使うことなく、むしろ軽くジャズっぽいプレイをするピアノ弾きを相棒としてスインギーに決める演奏を好まれるようです。

 それにしても、情け容赦のないプレイをする人だなあと、今、CDを聴き返して思わず笑ってしまったんだけれど。アップテンポの曲では素早い各種フレーズを駆使し、演奏時間いっぱいを存分に駆け回る。スローな曲では凝った装飾フレーズ全開で、切ない情感を歌い上げる。

 他の楽器がソロを取っている時でも、あるいはパワフルなコードストロークを、あるいはアルペジオを、あるいは凝ったオブリガートで主旋律に絡みまくりと、自己主張をやめない。この人、あとちょっと生まれるのが遅くてロック・ミュージシャンをやっていたら、ブッとい音でレス・ポールとか弾きまくっていたんだろうなあ、などと空想し、ふと笑えてしまったりしたのだけれど。

 そういえば。私は観光地の繁華街で育った者であり、その地の利を生かして(?)キャバレー等に出ている、人生ハスに構えたイナセなバンドマン諸氏に楽器の演奏法や音楽理論を学び、育って来たのだけれど、よく言われた言葉がある。「バンドをやるなら、音楽のジャンルにこだわるなよ。手前の楽器にこだわれ」と。
 この言葉の実践なのだろうなあ、平川氏の演奏姿勢なども。

 ともかくこのアルバム、この夏、私がもっとも頻繁に聴いたアイテムなのであって、夏の締めくくりとして、ここに紹介する次第。平川氏の作品にしては、取り上げられた曲は素直にハワイアン中心である(笑)特にラストの「ホノルルの月」の切なさは、何度聞いてもよろしいですなあ。
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シリア暴走王

2007-08-30 00:17:00 | イスラム世界


 ”Highway to Hassake”by Omar Souleyman

 サラーム・アレイコム。皆さん今日は。カセム・アリです。
 ・・・などと言うギャグの意味の分かる人々もすでに死に絶えて久しい。あたりは一面の荒野だ。
 
 オマール・スレイマン。シリアの大衆ポップス・スター。当方はもちろん、今回初めて聞いたのだが、すでに長いキャリアを持ち、数多くのカセット(CDではなく、カセットであるところが泣ける)をシリア国内においてリリースしているようだ。

 音を聞くまでもなく、ジャケ写真がすでにうさんくさい。アラブの民族衣装として馴染みの頭巾は赤白チェック柄であり、漆黒のレイバンのサングラスと大きな口髭は彼を、まるでコントに出てくる戯画化されたアラビア人のように見せている。現地に行くことがあったら、こんな見かけの人物からは、何か買ったり、紹介された車に乗り込んだりはしない方が無事であろう。

 聴こえてくるのもまた、そんな彼の外見を裏切らない素敵な論外ミュージック。
 まるでパロディかと思いたくなるようなぶっ飛んだアラブ大衆音楽の歌と演奏であり、何回かまえに記事として取り上げたシリア歌謡界の女王の音楽とは、まるで生きる世界が違っている。あくまでも民衆の埃にまみれた喜怒哀楽とともに生きて来た猥雑な実感が彼の勲章なのだと、その音楽は強力に物語っている。

 安い打ち込みのリズム、わざと下手に弾いているのかと首をかしげるミストーンだらけの民俗楽器の早弾きショー。そして何より、猥雑なエネルギーに溢れたスレイマン本人のボーカル。それは、なにやら”公民館からのお知らせ”なんかに使われていたと思われる埃まみれのPAから飛び出してくる。

 音が割れようと知ったことか。いやむしろ、多少割れているほうがカッコいいような気がするぞ・・・多少と言うより、思い切り割れていたほうがますます良くないか?
 悪乗りは果てしなく。曲数を重ねるごとに、音楽は狂騒と騒音の坩堝、地獄と極楽の区別の付かない無限のユートピアへと逆落としである。

 こいつはおそらく韓国の歪んだ大真珠、あのポンチャクの遠い、だが非常に濃く血の繋がった親戚なのであろう。本来、ボーカルなどに使うべきではないPAを平気で使いまわす大衆音楽のタマシイは、あの21世紀アフリカの星、コノノNo1などを嫌でも思い出さずにはおれない。西欧仕込みの”高度な音楽性”など、笑い飛ばしてやれ、それで十分。

 夢想する。世界を図抜けた笑いで包囲する、アホ系ワールドミュージックのブラッド・ライン。
 いや、やってる当人たちは本気なんだろうけどね。だが、私も本気で支持するから、それでアイコだ。文章が意味不明だが気にするな、いまさら。
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雨。その他の天気。

2007-08-29 00:00:05 | いわゆる日記


 さっき、フルダチの”ニュースステーション”なんてのがテレビで始まったので、そいつをチャラチャラチャララ~ン♪と左に受け流し、私は恒例の夜のウォーキングをはじめたのだった。

 家から出ると、意外にも強い風が海岸通りを吹き抜けていた。ふと、1960年代に流行った、”夜の東京の片隅で”なんて古い歌謡曲を思い出してしまった。
 詞の一節に「風が出てきたね。雨になるんだろうか」ってのがあり、それが昔々、初めて聞いてからずっと記憶に残っていた。風が吹く、と言う現象を雨がやって来ることの予兆と捉える、そんな考え方もあるのを知り、当時、なんだか新鮮に思えたのだ。

 夜も更けた暗い湾に面し、きらびやかなネオンの光を垂れ流しながら風に吹かれている人間の築いた大都会があり、そいつはだが、巨大な自然と比べればちっぽけで、地球の歴史と比べれば、まさに拭けば飛ぶような存在でしかない。その都会の片隅で、寄る辺ない日々を送る男女が会話ともいえない会話を交し合っている。「雨になるんだろうか」と。
 そんな生の風景の一齣がなんだか妙に心に残った。

 そういえばあの歌を歌っていた歌手は、大橋巨泉がスカウトして来た、と言うのがデビュー当時の触れ込みだったのではないか。ジャズ評論家の巨泉のくせに、その歌手がやや古めかしい雰囲気さえ湛えた演歌の歌い手だったのが意外だった。

 その後、数年たってから巨泉も、「俺が見つけた時は、ギターの弾き語りで軽い感じで歌っていた。それが良かったんだけどね」とかコメントしていたので、彼も、あのような形で売り出されるとは心外だったのかも知れない。その歌手もこの世を去り、すでに何年かの歳月も流れた。自分が引き立ててやった後輩に、先に世を去られるのはどんな気分なのだろう。どうなんだ、巨泉?

 都会の片隅で「雨になるんだろうか」と話を交わす男女の風景に、ふと連想してしまうのがベテラン・シンガー・ソングライターのランディ・ニューマンが歌った、”I Think It's Going To Rain Today ”だ。
 この狭い地球に人類が溢れそうなひととき。自分は家に一人座り込んで、「今日は雨になりそうだなあ」などと考えている。昔、友人にしてしまった過酷な仕打ちなど、いまさら反省しても取り返しはつかないと言うのに、ウジウジと何度も反復しつつ思い出しながら。

 あの歌を聴くたび、”ザンジバルに立つ”なんてSF小説を、それこそ関係ないのに、読みたくなったりするのだった。ちなみにこの小説のタイトル、全人類を直立不動でぎっしりと詰めて立ち並ばせれば、ザンジバル島にすべて収納可能だ、という計算に元ずく。

 歌詞の意味の聴き違いを楽しんだ(?)のが、キッカワ・コウジの”レインダンスが聴こえる”だった。
 あれは多分、雨音を”雨のダンス”と表現した歌なのだろうと思うが(いまだに本当の歌詞は分かっていない)私は、長い日照りに苦しんだアフリカの農民が、やっと降った雨を喜び、豪雨の下の農地でびしょぬれになって感謝の踊りを踊っている、そんな風景を歌った歌と勝手に解釈した。本当の意味を知ってしまうのが嫌で、あえて歌詞を調べたりせずにいる。

 もっとほかに決定的な雨の歌があった気がするのだが、今は思い出せない。というかこの文章、私は何を言いたかったのやら。
 外ではまだ風は吹いているのだろうか。雨になるんだろうか。
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右腕

2007-08-26 02:24:48 | いわゆる日記


 今年は酷暑だろう、なんて言っていた気象庁が夏本番になると自信をなくし、「意外に冷夏かも」とか言い直したりしたが、何のことはない、夏が来てしまえばやっぱりクソ暑いじゃないか。

 なとど言っている間にもう時計の針も真夜中を回り、気が付けば8月最後の日曜日は、もう来てしまっている。そういえば、日課の真夜中のウォーキングの際にもこの頃は、海浜公園のあたりからはいつの間にか虫の声なども聞こえているのだった。
 明日、いや厳密にはもう今日なのだが、ともかく明けて日曜日となれば、夏休み最後の悪あがきと言うべきか、凄い人出なんだろうな今年も。

 毎年、私の街では8月最後の日曜日に、ひと夏に何度やったか分からない花火大会の締めくくりを行なう。さすがにそこまで来てしまうと、もう近隣でも夏のイベントはあらかた終わってしまっているようで、その花火大会には、夏を惜しむ、行き所のない観光客が大量に押し寄せるのだった。

 そいつが終わればさすがにひと段落と言う感じになり、海水浴場に押し寄せる客の数もガクンと減る次第となっている。そういえば今現在も、いつものように酔っ払った観光客が砂浜に花火を持ち込み、自主的に花火大会を挙行しているのだが、その花火の音もなんだか力を失って聞こえる。秋が来たとはっきり目には見えないものの、ふと風の音に驚かされると古人が詠ったのも、こんな感覚か。

 思い返してみると、この夏は稲川淳二の怪談をテレビで3回くらいしか聞かなかったなあ。良くないなあ。その辺を減らして行くのがテレビ局の編成の方針だとすればきわめて面白くないぞ、怪談マニアとしては。あんなものは季節の定番だし、同じ話だって良いのだ、落語とかだってそうじゃないか、何度聞いても面白い話は面白いのだよ。
 あれはバブルの頃という事になるのか、深夜のテレビで夜明け近くまで延々と怪談を語る番組などあって、良かったなあ、あの頃は。

 深夜に怪談の放送は、相当以前に遡っても行なわれていたのだろうな。私は学生時代、というよりほんのコドモの頃にも、そのようなものに見入っていた記憶がある。
 当時、稲川淳二に相当する怪談スターは誰だったのだろうな?まったく記憶はないが、それなりに名手はいて、陰々と闇を語る営業をしていたはずだ。

 そういえば。過去のそんな番組の中で歌われたある歌があり、今にして思えばそれをきちんと聴いて記憶にとどめて置けばよかったと私は悔やんでいたりするのだ。

 その時私は深夜、居間のテレビに見入っていた。家族は二階の寝室でとうに寝入っていたと思う。私は一人、深夜の怪談番組を楽しんでいたのだ。今日のその種の番組よりずっとのんびりした作りではあったと記憶にはある。
 老人の司会者がゆったりと時間を割り振り、出席者は静かに体験談を語り終え。そのあたりで”幽霊”に扮したコメディアンかなにかが不意に乱入し、スタジオに賑やかしに呼ばれていた女性タレントが悲鳴を挙げる、なんてのが定番の進行だった。

 そんな中で一人だけ、ちょっとレベルの違う怖い話をした出席者がいたのだ。どんな話だったか、一言も覚えてはいない。ただ、深夜に一人だけで聞くのは、ちょっとヘヴィ過ぎると感じたことだけ覚えている。彼が話し終えると、他の出席者が「うわ」とか言って腕に出来た鳥肌をこすったりした。

 司会者はそこで、さて、とこちらに向き直り、ここで怪異に関する持ち歌がおありの歌い手の方がゲストにいらしているので、歌っていただきましょうと言った。
 その歌手、誰だったかなあ?女性歌手であったこと以外、何も思い出せないが、確かにそんな歌がレパートリーにあっても不思議はない感じの歌い手ではあった。筈だ。

 その歌は「右腕」というタイトルの歌であり、「この歌は、本当にあった事に取材して作られたんですよね」なんて会話が、司会者と歌手の間であったような気もする。

 彼女はスタジオの中央で一礼し。陰気な感じのイントロが流れ。そこで私は。なにしろ根性なしで、その後の次第を報告するのも恥ずかしいが、ともかく当時私はまだ頑是無いコドモであったので、お許し願いたい、そこで私は恐ろしさに立ち上がっていた。あんなに怖い話を聞いたあとで、そんな気持ち悪そうな歌など、とても聴けないと思った。

 家族は二階で寝静まっており、あたりはシンとして風も起こらぬ夜の静粛が広がっているばかり。そんな環境で自分は一人ぼっちなのだ。

 そして歌手は冒頭の一節を歌った。

 「裏の沼で」と。

 そこで私は。う~ん、はっきりとは覚えていないんだな。ともかく私は、その歌の続きを聞いていない。テレビのチャンネルを換えてしまったのか、それともテレビを切ってしまい、そのまま2階へ、家族の元に行き、オシッコして寝てしまったのか。

 で、今にして思うのだ、あれはどんな歌だったんだろうなあ?と。検索かけてみたり、いろいろと調べてみたんだけど、何もそれらしき資料に出会えない。もはや、「そんなこと、本当にあったのかな?」と、自らの体験ながら疑いの気持ちまで起こって来る始末。
 まさか、まさかね、そんな歌が放映された事実はなく、私が聞いたと思っている歌など、ぜんぜん歌われていないし、そもそもそんな歌は存在しない、なんてことは・・・

 夏は行く。
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Richard Sings Thompson 切望

2007-08-24 00:49:44 | ヨーロッパ


 ネット上の知り合いである”神風おぢさむ”さんがリチャード・トンプソン一家の音楽について日記に書いておられたので、ちょっと尻馬に乗って、これまでも何度か主張してきた”例の話”をまた繰りかえしてみようかと思う。

 リチャード・トンプソンといえば、60年代末、あの伝統あるフォーク・ロックバンド、ファポート・コンベンションのメンバーとしてデビューした後、一貫してイギリスのトラッド寄りのフォークロック・シーンをリードしてきた巨人であるわけだが。
 当方、彼が70年代、当時の奥さんリンダとのデュオで活躍していた当時の作品を、彼自身のヴォーカルで録り直したアルバムなど作ってくれないかなあ、などと長年、夢想してきているのである。アルバム・タイトルもとうに決まっている。”リチャード・シングス・トンプソン”だ。

 事情を話せば。
 70年代の初め、「もっと英国トラッドの研究を極めたい」との理由でフェアポートを脱退したリチャードが、72年、研究の成果の一つとして世に問うたのが1stソロアルバム、”ヘンリー・ザ・ヒューマンフライ”だった。こいつは当方、”我が永遠のロックアルバム20枚”みたいなものには確実に入る傑作と思っているのだが。
 リチャードはその後、奥さんで歌手のリンダとデュオ・チーム”リチャード&リンダ”を結成、まあいわゆるオシドリ・デュオという奴として、音楽活動を続けることとなる。で、このチームは二人の夫婦生活が終わりを告げる80年代初めまで継続するのだが。

 実は当方、このリンダという人の歌、あんまり好きではなかったのだった。なんというか、ややアメリカっぽかったというか、日向臭いというか、リチャードの陰影にとんだ歌を歌うには、やや歌声の輪郭がはっきりしてい過ぎた感があるのである。
 だからさあ。もったいないなあ、と思うのだよ、リンダのファン、およびリンダ自身にはまことに申し訳ない話だが。

 当方、リチャードと言う人の全盛時代というのは、このリンダとのコンビ時代、つまり70年代だと信じている。まあ、その後のリチャードの音楽も、それは素晴らしいのでしょう、きっとそうなのだろうとは想像するが、だが60年代に世界を夢見る事を教えられ、70年代に燃え上がる世界を自分なりに駆け抜けてみた世代としては、どうしても”70年代最高!”そう信じてしまうのだ、放っておいてくれいっ。

 で、その時期、リチャードはたくさんの素晴らしい歌を書いているのだが、デュオのユニット内ではギター弾きに徹することも多く、曲のほとんどは当時のパートナーである、そして当方があまり歌手としては評価しないリンダが歌っているのである。

 これはねえ、リチャード&リンダの現役時代から不満だったのさ。「この歌、リチャード自身の歌声で聞けたら素晴らしいだろうになあ」なんて、新作アルバムを手に入れるたびに、実に歯がゆい思いをしてきた。
 だからねえ、どうせもうリンダと分かれちゃって久しいのだしさ、当時の曲をリチャード自身の歌声で聞かせてくれないものかと。やっぱり彼の音楽の一番理想的な表現者はリチャード自身と思うんでね。

 なんてえことを何度も何度も主張してきたのだが、この企画は実現に至らない。まあ、私の文章なんかリチャードが読むはずもなし、そりゃそうなんだけど。
 けど、賛同者の一人くらい、出て来てくれてもいいんじゃないかと思うんだがなあ。あなた、聞いてみたくありませんか、”リチャード・シングス・トンプソン”を?ねえ?ねえ?
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ケニア・ナイロビ80's

2007-08-23 01:42:05 | アフリカ


 ”Kenya dance mania”

 日本においてザイール(当時は、その国名だった。今はコンゴである)原産のリンガラ・ミュージックに注目が集まり始めたのはやはり80年代の始め頃と考えていいのだろうか。ルンバ=ロックなる今日的リンガラのパターンをぶち上げたパパ・ウェンバなんて”スター”も生まれたりしたのだった。

 そのあたりにはいろいろ不思議な騒ぎも起こったりしたようだが、ちょうどその頃、田舎暮らしを始めてしまった当方は”東京リンガラ・シーン”の活況を具体的には知らない。どなたか詳しい向きが書き記して下さるのを待つのみである。

 ところであの頃、本場であるコンゴはキンシャサから、はるか離れて東アフリカめざして辺境巡業の旅に出たバンドたちに思い入れていた方は、どのくらいおられたのだろうか。

 オンボロ・トラックに楽器とバンドのメンバーを積み込み、大平原を東へと旅に出る”放浪のバンド”のロマンはなかなかおいしい幻想をかき立てる。 が、もちろん現実は厳しいものだったろう。それでも出かける東アフリカ、ケニアのナイロビなどには、それなりの稼ぎの場が控えていたのだろうか。

 ・・・なんか話の運びがギクシャクしてしまうが、実は暑さのゆえに頭が少々茹っている、お許し願いたい。

 あの80年代、我が日本のリンガラ・ファンの皆がルンバ・ロックに狂い、パパ・ウェンバの動向に注目していた頃、私はそっぽを向いてケニアの音楽シーンに思いをはせ、国境線をまたいでコンゴからケニアに流入したバンドたちの音を追いかけたりしていた。
 まあ、生来のへそ曲がり、という事情もあるが、それ以上にリンガラ音楽展開の地としては”辺境”である東アフリカで、ある意味、歪んだ形に表現を尖らせている連中の音に、不思議に血が騒ぐ、そんな事情もあったのである。

 これに関してはブログをはじめたばかりの頃に、大好きだった在ケニアのコンゴ人バンド、”モジャ・ワン”についての記事も書いたので、参照願いたいが。

 で、この盤、”ケニア・ダンスマニア”は、70年代終わりから80年代にかけての、ケニアにおける音楽シーンを飾った歴史的録音を集めたアルバムである。現地ケニアのバンドあり、コンゴからの、あるいは南の隣国タンザニアからの、国境超えのバンドあり。
 80年代当時は、このような音に焦がれて、ケニアからの直輸入のシングル盤など、どうして見つけ出したのか我ながら驚いてしまうのだが、ともかく買い集めて聴きまくっていたのだった。

 ”本家”たるコンゴのリンガラポップスの音はケニアにおいて、ルオーやキクユといった現地の部族ポップスの影響を受けつつ変質していった。その変質具合に、現実との感性高いバンドマンたちの切り結びようが窺われて、実にスリリングである。

 先に、これもケニアの部族ポップスとして気を惹かれる、ベンガ・ビートについても感じたのだが、バンドの音は、コンゴのものよりずっと”ロックバンド”っぽくなる。よりコンパクトにまとまり、都会の喧騒を駆け抜ける要領を身に付けた、みたいなシャープさを感ずるのだ。

 南アフリカ共和国から、ここケニアあたりにかけての地域における低音楽器の充実を指摘していたのは中村とうよう氏だったか?ともかくここにおいてもベースギターのプレイは確かに素晴らしいものがあり、その方面のプレイヤーの方は是非御一聴をお願いしたいものである。かっこいいぞ。

 ともかく。80年代頃のケニアの文化的状況というもの、どうなっていたのだろう、などと思いをはせてしまう。ここには明らかに、ある一面において、世界の最先鋭に触れた瞬間がある。80年代のケニアはナイロビ!多くの音楽ファンには知られることなく、しかし、最高に弾けていた!
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ダマスカスは燃えているか

2007-08-20 23:43:57 | イスラム世界


 ”Moshtaqa” by Asaalah

 シリアのトップ・女性シンガーとのこと。いや、トップも何も、シリアのポップスを聴くこと自体、初めての体験だったのだった。

 まあ、激しく煽り立てるパーカッション群、妖しく揺れ動くユニゾンのストリングス、そして妖艶にしてテンション高いヴォーカルが鳴り渡る、そんなアラブの女性ポップスの定番に沿った出来上がりなのだが、なかなかに凛とした個性を持っていて、さすがは一国のトップシンガーと、ちょっと惚れてしまう。

 私は勝手にアラブのポップスで一番テンションの高いのがトルコのもの、などと決め付けている。で、もっとも男気のあるというか剛直な印象があるのがイラクのもの。シリアもそんな、アラブポップス界を貫く硬派ラインの一角を担う国と考えていいのではないか。とかなんとか、CDをたった一枚聴いただけで、よく言うが私も。
 なんと申しましょうか。湾岸から発し北へ向うハード系のアラブポップスの版図など想定して悦に入っているのですな。

 聴いていて、”アラブポップスにおける都会的と田舎的なるもの”なんて事をふと考えた。このアルバムにおいては、かなりワイルドにパーカッションが鳴り響いたりするのだが、田舎っぽい感じにはならず、あくまでも都会派のクールなサウンド統制下における激情の発露、抽象化された民俗性、みたいに私には感ぜられるのだ。
 そのあたり、結構、土俗的にドロドロの世界に突入して行くエジプトなど北アフリカ勢、つまりマグレブ勢とは、一線を画している。

 なんか都会的にきりりと締まった、小股の切れ上がった鉄火肌の姐さんの歌って感じでね、かっこいいです。アラブっぽいエキゾチックな感触はきちんと生きているし。”今日を生きる都市、ダマスカス”における街の鼓動、雑踏の血の騒ぎ、なんてものが伝わってくるのですね。
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Summer In The City

2007-08-19 23:47:51 | 北アメリカ


 先にこの話に関連する話題は書いているのだが。

 60年代のニューポート・フォークフェスティバルにおいて、ボブ・ディランが始めてロックバンドをバックにつけて歌い、観客からの大ブーイングを浴びた有名な事件の翌年、自身がロックバンドであるラヴィン・スプーンフルがフェスティバルのトリをとり、今度は大いに喝采を浴びた、とのこと。
 たった一年で観客の意識もずいぶん変わるものである、と私が読んだ(もちろん、日本語訳)アメリカの音楽雑誌の記事は、風刺的なニュアンスよりはむしろ本気で不思議がっているような調子で結ばれていたと記憶している。

 で、それは電気楽器使用云々というよりもむしろ、ラヴィン・スプーンフルというバンドがジャグバンドミュージックなど、ニューポートの客好みのトラディショナル・ミュージックの要素を色濃く取り入れたバンドであるゆえに、観客には仲間意識を持って迎えられたのであろう、と私は推測するのであるが。

 ところで、そのスプーンズ(とアメリカ風に略する)のヒット曲中、もっともロック的というか、やかましい響きを持つ”サマー・イン・ザ・シティ”なんて曲(1966)はどうなんだろう?あの曲は、ガチャガチャとかき鳴らされるエレキギターのコード弾きをバックに、マイナー・キーの、いかにも”エレキでゴーゴー”なメロディラインを持っていて、スプーンズの得意とするトラディショナル・ミュージックの要素を生かしたロックとは別物のような印象を受けるのだが。

 もっとも、それは私が無知なだけであって、あの曲を、たとえば生まれて一度もアパラチア山脈の奥地を出たことがありません、みたいなアメリカ伝統音楽で煮染めたみたいな爺さんを連れてきてバンジョー弾き語りで、山地でアメリカ開闢以来変化もせずに伝承されてきた、なんてスタイルで歌わせれば、「ああなるほど、あれはあの曲が元ネタなのか。アイルランド民謡までさかのぼるわけだな」とか納得できたりするのかも知れない。
 不思議な転調のし具合といい、なんかそんな予感もしないではない旋律ではあるのだが。どうなんだい、ジョン・セバスティアン?

 それにしても、複数のギターが、特に目に付くフレーズも無しにただコード弾きでガチャガチャとかき鳴らされる、あの間奏のカオス状態(?)は、まさに熱気にゆだったような夏の街の埃っぽい喧騒を見事に表現していると思う。妙なダルさと苛立ちとが焼け付くような陽光の中で燻られているような、夏の街の空気感覚。

 もはやあやふやな記憶になっているのだが、確か”サマー・イン・ザ・シティ”は、アメリカでヒットしてから日本盤のシングルが出るまで、何の事情があったのか知らないが、時間がかかったのではなかったかなあ?
 それで、当時、大橋巨泉がやっていたプロモーション・ビデオを紹介する洋楽ベストテン形式のテレビ番組で、早回しとスローモーションを交互に使った、なかなかひょうきんな出来上がりのあの曲のビデオを見ながら焦れていた記憶があるのだが。

 しかし気になるなあ、”サマー・イン・ザ・シティ”のメロディの成立由来。裏話をご存知の方、ご教示のほど、よろしくお願いします。
 それにしても暑いですねえ。
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On a Foggy Night

2007-08-18 23:01:28 | ものがたり


 灼熱地獄の昼間にまさか日課のウォーキングは出来ないので、このところ日が暮れて少しは涼しくなってから歩き始めているのだが、今日も今日とて遅めの夕食を終えて海岸に出てみたら、街は霧に包まれていた。

 まだ昼間の熱気が地面から立ち込める街は、上からは霧に蓋をされ、ひどく蒸れた風呂場の脱衣場みたいなうっとうしさで、いずれにせよウォーキングなんか出来る日ではないのだと思い知ったのだが、もうこちらの体が一日歩かないと気持ちが悪いと感ずるようになってしまっているので、そのまま海岸遊歩道を行くよりしかたない。
 それでも夜の砂浜では蒸すような熱気の中、ビーチバレーに興ずる若者たちなどもいて、若さと言うものの持つ果てしなく無駄で猥雑なエネルギーに呆れさせられてしまうのだった。

 そして夏の夜の海岸における定番のお楽しみ、自主・花火大会。
 観光客がコンビニで仕入れてきた大型の打ち上げ花火を、砂浜のあちこちに陣取り盛大に打ち上げているのだ。夜の砂浜付近がそのせいでひどく火薬臭いのも、もう夏の風物詩として我々浜辺の住人は認知しかけている。
 ちなみに、砂浜での花火は禁止なのだが、というかそもそも夕刻を過ぎての海水浴場への立ち入り自体も本来は禁止なのだが、もはや誰もそんな事は気にかけていない。

 ライトアップされた砂浜は、際限なく打ち上げられる花火が上げる硝煙と、上空を漂う濃い霧とが入り混じり、白いもやの塊があちこちで渦を巻くような状態にあった。その中で三々五々打ち上げられる大小の花火は、妙に音が伸びず、ポンと気の抜けたような炸裂音を響かせる。

 ”ザ・フォッグ”と言う映画は、仰ぎ見るような出来ではなかったが、結構気に入ってはいた。今蘇る百年以上前の恩讐と、海からの怪異の襲来。それらが、孤独な人々が日を送る物寂しい海辺の小村を覆った霧の神秘に絡めて語られる様子が、良い雰囲気を出していた。
 私が見たのは90年代に作られた初代作だったのだが、その後に作られたリメイクの出来はどうだったのだろう。

 先日、交通事故死したばかりの、知り合いのA氏の事が妙に心に引っかかっている。長いこと、私の車の面倒を見てくれていたのだし、それが突然の訃報が入り、その時点でもう葬儀が終わってしまっていたので死に顔も見ていない。会葬者も駆けつける間もないうちに早々と葬儀を終えたのは、奥さんたちの看病で親族たちが大変だろうとの配慮のようだが、なるほどそりゃそうだと、今となっては納得出来る。

 それはそうなのだが、どうにもA氏が亡くなったという実感がわかないのだ。そのうちひょっこり、いつものようにその辺に顔を見せるのではないかという気がして仕方がないし、そうしたら一言、言ってやりたいこともある。

 「何やってんの?あんな場所で無茶なスピード出して、曲がり切れるわけないじゃない。あんたらしくもないなあ。奥さんも娘さんもいまだに助かるかどうか分からない状態なんだよ。ひどいこと、やっちまったなあ」
 「ウチの女房と娘が「ですか?なにかありましたか?」
 「何をとぼけた事をいってるんだよ。あんたが事故を起こして大怪我させちゃったんじゃないか。わすれちゃったのかい」
 「えーと・・・そうですかねえ・・・あ、あのバイクですけど、マフラーに問題がありまして。部品が入ったらすぐに直して、そちらに持って行きますよ」
 「いや、それはいいけどさあ、あんた、その」
 「・・・部品が・・・あればすぐに・・・直せたんですがねえ・・・入ったらすぐに・・・」

 A氏の姿はゆっくりと崩れ落ち、あたりに立ち込める霧の中に同化して、見えなくなってしまう。後には、今夜は妙にオレンジ色が強く感じられる街路灯の光の下に放置された私のバイクと、ただ立ちすくむ私自身、それだけが残されている。あとは立ち込める霧、霧、霧・・・

 海岸からは、相変らず花火が打ち上げられる音が遠く近く響いている。ずっと遠くの県道を、救急車のサイレンが行くのが聞こえた。
 街のホテルや飲み屋の発する明かりは、淀む大気の中で混じりあい、不思議に郷愁を誘う黄色く曖昧なひとかたまりの輝きと化している。
 街を覆った厚い霧は、その黄色い光を内に飲んだまま、まるで葛で作った和菓子のような、つるりとした半透明の固形物の感触をいつの間にか感じさせつつ、中空に淀み、動こうとしない。いや、ほんとうに霧は、固形物と化し、街を覆い始めているのかも知れない。

 固形物と化した霧に街もろとも飲まれ閉じ込められてしまう前に、一刻も早くこの街を出るのが得策のような気もするのだが、私のバイクの調子が悪く、動けない。そして、バイクの面倒を見てくれていたA氏が死んでしまった今となっては、どうすることも出来ないのだった。

 霧は立ち込め、夜は更けて行く。
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8月15日。2日遅れで

2007-08-17 02:47:16 | 時事


”ピース・ナイン”by 笠木透と雑花塾

 8月15日と言うことで、それにちなんだ話でも書こうかと思っていたのだが、知人がお盆の帰省ラッシュで混雑する国道で車を駆っていて交通事故を起こし、亡くなってしまうという出来事があった。
 さらには車に同乗していた彼の女房子供も怪我を負い、生死の境をさまよっているのであって。当方としても、まとまった文章が書ける状態ではない。いつもだってまとまっていないじゃないかといわれれば、それまでだが。

 目の前に、超ベテランのフォーク歌手である笠木透のアルバムがあって、そこに”あの日の授業・新しい憲法の話”なんて歌が収められている。
 このテーマを笠木は別のアルバムでも取り上げていて、どうやら”子供の頃に戦争を体験した社会派フォークシンガー”たる彼にとって、ライフワークとでも言うべきテーマなのだろう。

 第2次大戦後、発布されたばかりの新憲法、それも第9条に付いて論じていた先生の思い出。泡を吹いて怒鳴ったり吠えたり、熱っぽく語っていた先生だが、こちらは何の話か分からなかった。
 「これから我が国は軍隊を持たない国になるのです。軍隊がなくなっても心細く思うことはない。日本は正しい事を世界に先駆けてやるのです。世の中に何が強いと言って、正しいことほど強いものはありません」と、先生はおっしゃっていたのだが。

 時は流れ、今、先生のあの時の気持ちが良く分かる。教え子を戦場に送ってしまった心の傷のいえない先生の、訴えかけたかったことが。・・・そのような歌なのだが。
 そういわれてもなあ。これがネット右翼諸君の言う「左翼のお花畑理論」と言う奴なのだろう。「だったらお前よう、その”正義”とやらで北朝鮮のミサイルを止められるのかよ。拉致された人たちを奪い返せるのかよ」と、非難されたりする事になるんだが、これで返せる言葉はあるんだろうか。

 CDの中の笠木透の歌声も、なんだか昔話をする人の良いお爺さんみたいで(まあ実際、年齢的にもそうなのだが)物語はすでに語り終えられ、良いおじいさんも悪いおじいさんも鬼が島の鬼も皆、とうに死に絶えてしまっている、みたいに感じられ、これを機会に”憲法を考えてみよう”などという思いは、笠木には悪いが湧いて来ない。

 このような生のテーマを掲げるよりも、いつものように大自然への愛や子供たちの夢について歌うのが笠木の本来の仕事であろうし、それが結局は、彼の想いを人に、より効果的に伝える事になるに違いないのだが。

 私の父は戦争中、関東軍の兵士として中国東北部、ロシアとの国境付近に駐屯していた。
 父が関東軍兵士の軍務として戦時中、一貫して直面していた最大の問題は、日々振るわれる上官の暴力といかに対峙するかだったようだ。「そんなに不満なら、今からでも遅くはない、元上官に仕返しに行けばいいのに」子供の頃、父の昔話に接するたびに、私はそう思った。

 最大にして唯一の”敵”は、国境の向こうにいる外国人でも、理想でも理念でもない。軍規にかこつけて陰惨なイジメ願望を思い切り発動させていた同胞の湿った心だった。

 なにが「靖国で会おう」だ。そんな事を言い交わしていたのは一部”マニア”だけだったのであって、大多数の日本人は途方に暮れ、恐怖に打ちのめされつつ戦場に引き出されていったのだ。そして、砂のごとき庶民の心根に、戦前も戦後も、なにが変わりがあるものか。

 この時期、軍神のなんのと言う上っ面の話を聞くたび、上官の鉄拳制裁をただ恐れ、腹いっぱい飯を食うのがともかく夢だった、そんな情けない兵士だった 亡父の思い出話を、私は彼のための勲章として胸に飾りたくなるのだった。
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