ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

TV・DAYS

2009-11-30 05:23:29 | 時事


 今、亀田と内藤の試合をやってるけど。俺はテレビ中継の解説に鬼塚が出てくると「このインチキ・チャンピオンが、何を偉そうにもっともらしい事を言ってるんだ!」とか、いまだに腹が立ってくるんだよなあ。亀田でも内藤でもいいからさあ、むしろ鬼塚を叩きのめしてみてくれないか、その場で?

 テレビをつけたら、「泣ける動物映画紹介」なんて番組をやっていたので、「また号泣営業かよ!」とムカつく。”フランダースの犬”を新しく映画化するとか、いろいろ。そうか、また安易な金儲けがしたくなったのか、ギョーカイの奴等が。なるほどね。

 SBカ○リーハーフカレーのCMで。 「カ○リーハーフだとママが楽しそうだから嬉しいな」とか、ぬいぐるみの熊が言ってますが。「楽しそうだから嬉しいな」とは、なんとブザマな日本語だろう。これを書いたコピーライター君、君も言葉の専門家なら、少しは頭を使おうよ。

 「有田みかん」のTVCMで。「一日2個でニッコニコ」とは何かね?「2個」と妙に具体的に数を挙げる割には、その効能が「ニッコニコ」って、ずいぶん漠然としてるぞ。「1日2個食べると××の効果があります」と言い切る根拠が見つからなかったのか?洒落を言いたかっただけとも思えないしなあ。

マレンコフ氏の夜、その他の夜

2009-11-28 03:45:09 | その他の日本の音楽


 ウエブ上でいろいろお付き合いいただいている”ちあきなおに”さんから、先日、あのマレンコフ氏が亡くなった事を教えていただいた。ウ~ム・・・と感慨に浸るほどのかかわりもなかった人だが。というかそもそもこれで、逢ったことさえないまま終わってしまったことになる人だが。享年84歳。まあ、大往生といえようか。

 マレンコフ氏は東京は新宿の裏町の飲み屋街に生きたギター流しの最後の生き残りの一人だった。あるいは夜の裏通りのヌシ、伝説の人。
 ネットで調べてみると、流しを始めたのは昭和24年のことだそうな。一度はカタギの仕事に付きながら、音楽への情熱病みがたく流しの生活に身を投じた。いずれは歌手としてデビューなど夢見ていたのだろうか。
 ギターを抱えて飲み屋を渡り歩き、「どうです、一曲?」と酔客の歌の伴奏をする。三曲でいくら、なんて形のチップを受け取る。

 客が歌おうとする曲が分厚い歌本の何ページにあるかすべて記憶していたとか、リクエストされて弾けない曲はなかったとか、さまざまな伝説。紅灯の巷をギター一本で半世紀以上も生き抜いて来たのだから、それはさまざまな逸話も生まれたろう。
 先に書いたとおり、私は飲み屋街でマレンコフ氏に遭遇したことはないし、だから彼のギターで歌う機会もなかった。どのようなタッチのギターだったのか、一度生で聴いてみたかったが。残念ながら、私は新宿のゴールデン街などを取材したドキュメンタリー番組の片隅で何度か彼の姿を見た記憶があるだけだ。

 あっと。これこそもっと早く書くべきだったが、マレンコフとはもちろん呼び名で、氏はコテコテの日本人である。若き日、当時のソ連の首相マレンコフに相貌が似ているからと付けられたあだ名であり、そいつがそのまま通称となった。活躍した場所が場所、時代が時代だけに、思想的背景とかあるのかと思えばそうではない、その肩すかしの感じがなんとなしに楽しい。
 マレンコフ氏の生涯を捉えたドキュメンタリー映画が製作途上と聞いたが、さて、どのようなものか。彼の身の内にあった喜怒哀楽というのは、どんなものだったのだろう。

 マレンコフ氏とは出会えなかった私だが、なにしろ盛り場生まれの盛り場育ち、彼ら流しの生態というものには、それなりに親しんではいる。彼らはこの世を支配する効率的銭もうけのシステムの狭間に生まれた余白みたいな盛り場の夢のあわいに幻のように現われ、酒臭い空気の中を泳ぐように生きていた。
 妙に上気した気配の漂う盛り場の夜のトバクチ。灯り始めのネオンサインの下、申し訳なさそうでいてふてぶてしくもある、みたいな不思議な間合いの後ろ姿を見せながら店の暖簾を掻き分ける彼らの姿は、子供の頃の記憶の中にも映画の一場面のようにある。

 そういえば私は一度、ドサクサまぎれに流しとしてギャラを受け取ったことがある。夜の酒場で知り合いの流しとギター談義をしていたら、彼らの仲間と勘違いされ、ご指名がかかってしまったのだ。
 相手はヤ○ザの幹部で、「違います」とか言って機嫌をそこねるのもヤバかったので、ちょうど知っている曲でもあったので、その場のノリで一曲、伴奏をあい勤めてしまった。何、こっちだってもともとはバンドマンだ。
 で、その分のチップをポケットに押し込まれたのだが、流しの兄さんの「いいから貰っておきなさいよ」という真剣過ぎる口ぶりが可笑しくて、いまだはっきりと覚えている。

 そんな彼らの姿も、カラオケの普及により、まるでカウンターにこぼれた水をお絞りで拭き取ったように一瞬で消え去ってしまった。



ロック、ワルシャワ、1969

2009-11-27 04:49:13 | ヨーロッパ

 ”Enigmatic”by Niemen

 このところ、仕事上やら日常の人間関係やらでつまらない行き違いが多く、すっきりしない気分が続いている。なんだかいつまでもシトシトと降り続いて嫌な雨だなあ、などと思いながらさっきから座り込んでいたのだが、ふと窓を開けてみると雨など降ってはいず、乾いた道路に冷たい月の光が降り注いでいる。
 こんな気分の時はそれを慰めるような音楽をなどと、これぞと思える盤を探し出し、かけてみればそれはたいていの場合まるで見当違いの選択であるのであって、その音楽のおかげでさらに気分は落ち込んでしまったりする。

 というような聴き方をついしてしまうのが、この1960~70年代のポーランドを代表するロック・ミュージシャン、Niemen である。なんと言うか何をやってもついていない、なんて落ち込み気分の良き友、みたいなところがある。
 ダサい長髪とヒゲと詰襟っぽいスーツが、まるで昔の安いサスペンスドラマに出てくるインチキ神父みたいにも見えるNiemenが、何本もの蝋燭が立てられた、こいつも怪しげな空間の真ん中でハモンドオルガンを弾いているジャケ、これがもうパッとしないのだが仕方がない。これがあの頃(1969年度作品)の東欧ロックのノリというものである。

 冒頭からクラシック調の荘重な混声合唱と教会オルガン風のNiemenのプレイとの対話が続き、人の意識の闇の底に一気に引きずり込まれて行く。ドラムスのリズムを伴ってボーカルが聴こえてくるのは8分ほど経過した後。
 Niemenの深い陰りのあるソウルフルなシャウトは、どうしてもその国の悲劇の歴史などに想いが行ってしまうポーランド語の独特のニュアンスと相まって、とてつもなく重い響きをもってこちらに伝わってくる。19世紀ポーランドの詩人の作品をもとに作られたアルバムと聞くが、どのような内容のものであるのか・・・

 マシュー・フィッシャーみたいなタッチのオルガンのフレーズと詠嘆調の教会音楽っぽいメロディライン、そしてR&B色濃いボーカルは、当然ながらあのプロコル・ハルムなど思い起こさせるが、かのバンドのようなロマンは見当たらず、代わりにより深い思索性が感じ取れる・・・という方向にどうしても受け取ってしまうんだけど、悲痛極まる重苦しいボーカルを聴くにつけても、業の深い人だったんだなあなどとも感ずる。1939年生まれ、2004年没。

 何はともあれ、60年代末の”あの時代”の深さ暗さ重さを煮締めたような作品といえよう。当時のポーランド・ロック界のレベルの高さにも驚嘆するしかない。




アララテの山から

2009-11-25 03:48:09 | アジア
 ”El qez chem sirum”by Lusine Aghabekyan

 アルメニアのポップス。というのは、これまでに2~3のCDを聴いたことがないでもない、くらいの付き合いであり、もちろん全然詳しくなんかない。歌手名がもう読めない。資料では、「ルシン・アガベキアン」となるらしいが。凄いよ、アルメニア文字の形って。ミャンマー文字と良い勝負じゃないのか。
 そもそも、イスラム教国居並ぶ西アジアにあって”最古のキリスト教国”の孤塁を守るなんてのは相当のつわものと言えるんではないか、アルメニアの国民性は。

 国土の90パーセントが海抜1000メートルの山地にあるなんてのは想像を絶する。そういえば首都の近くにそびえるアララテ山というのは、あの”ノアの箱舟”が洪水を乗り越えて漂着した地と言い伝えられている場所だった。
 その他、歴史の十字路とも呼ぶべき地勢にあるこの小国が舐めた、そして現在も解決の付いていない近隣諸国との紛争による苦難など・・・について語り始めたらキリはないし、当方の柄でもないのでやめておくが。ともかく音楽だってただ事で済むとも思えない。

 この盤、サウンドなどはこれまで聞いたアルメニアものの中では一番、”西アジアっぽさ”を感じさせない出来上がりになっている。現地では相当にお洒落な存在なのかも知れない、時にセクシー、時にコケティッシュな歌声を聴かせるこの歌手、アガベキアン嬢は。
 曲調にしても、なんか”雪が降る~あなたは来ない~♪”みたいなメロディが頻繁に出てきて、むしろ南欧のどこかの国のポップスと言われても信じてしまいそうな感触がある。西アジアっぽいイスラム臭さは、ほとんど感じられない。

 だがそれでも、旋律のあちこち、歌の節回しのそこここに潜む乾いた寂寥感が、この歌たちの本籍が風吹きすさぶ孤独な大地の果てにある事を、聴き進むうち、聴き手は深く心に受け止めるところとなるだろう。
 そう、寂寥感。そいつがこの音楽を特徴付ける最大のものといえるのではないか。欧米のロックをごく当たり前の顔して自分のものにしているバンドを従え、巧妙にショー・アップして歌い上げるアガベキアン嬢の歌の背後に吹き抜ける、遥か砂漠を旅して来た風たちの囁きが。




”ジャニスを聴きながら”を聴きながら

2009-11-24 05:33:44 | 60~70年代音楽

 ”ジャニスを聴きながら”by 荒木一郎

 深夜3時半なんて時間に寝起きだなんてのは私くらいのものか?別に仕事の都合とかじゃない、夜、テレビを見ながら寝転がっていたら、つい、本気で寝込んでしまった結果である。ああ、中途半端な気分だ。起き出すには早すぎるし、寝なおす気分じゃないし、酒を飲むわけにも行かないし。

 所在なし、という状態でつけっ放しになっていたテレビをいじくり回していたら「あしたのジョー」のアニメをやっていた。私もこの辺の世代ではあるんだけど、特にファンでもなかったので、このアニメを見るのははじめてだ。いつ頃作られたのかも知らない。ストーリー全体のどのあたりのエピソードかも分らず。

 画面に終始細かい雨が降っているかのような哀感が感じられたので、もうジョーの物語の終わり近くなのかなと思って見ていた。が、番組終わりの次回予告は”第8回”となっていたので、まだ物語は始まったばかりなのか。これが「ジョー」のタッチなのかも知れない。
 同じ時代の歌手を歌ったもの、という連想なのか荒木一郎の「ジャニスを聴きながら」をふと聴きたくなり、CDを引っ張り出して聴いてみる。

 同じ時代も何も実は、この歌で歌われている”ジャニス”が何者なのか長い事知らずにいた。まあジャニス・ジョプリンのことだろうと見当は付いていたのだが、歌のタッチがあまりにもフォークなので、誰か別の、私の知らないジャニスについて歌っているような気もしていた。

 この歌の歌い出し、”街はコカコーラ”を聴くたび、東京へ出て暮らし始めた年の夏の最初の日、友人たちと渋谷の街に遊びにくり出した思い出が、何枚もの連続写真みたいにストップした場面の連続で蘇ってくる。あの頃はジャズ喫茶に行くのが大好きで、それ一杯で粘り過ぎたおかげで、溶け出した氷にすっかり薄味になってしまったコーラを前に、飽きることなくジャズを聴いていたものだった。

 もっとも、ネットで検索してみるとこの部分、「街はロードレース」ともなっている。何かの事情で書き直されたのかもしれない。どちらがオリジナルか分らないが。当時あった、なにごとかの事件にちなむ歌詞なのだろうか。歌詞の他の部分、墨で消されて売られて行くプレイボーイ、というのは雑誌のグラビアでワイセツ事件でもあったのか?はっきり覚えていないけれども、そういうことがあったりした時代でもあった。オイルで汚れた引き潮、というのも、同じように現実の事件に関わるのか。

 そんなこともあったんだろう。あれもこれも忘れてしまったのだけれども。グダグダしているうちにも、残酷な夜明けは忍び寄っている。朝が来て一日が動き出したらせねばならないつまらない仕事のいくつかが記憶に蘇り、そのうっとうしさに、ふとこのまま死んでやろうかな、などと思う。ほんとに死にはしないけれども。

 ”人生はつかの間のゲームであり、その幻の賭けに負けた時は”と、荒木一郎はCDラジカセから歌いかけてくる。いや、彼は私などに関心はなく、ただ勝手に歌っているだけなんだが。”それだけのことなのさ”と。



愛以上、ヴァルバラ

2009-11-23 02:45:49 | ヨーロッパ
 ”Выше Любви”by Варвара

 読めもしないロシア文字を並べてしまいましたが、これで”愛以上 by ヴァルバラ”と言う意味になり、内容としては2008年に出た、これまでのベストヒット集ということ。

 このヴァルヴァラ女史は、写真やら動画やらを見た限りでは今日のロシア・ポップス界を代表する美人歌手の一人といって良さそうですが、その一方、芸術アカデミー出身の実力派でもあるそうで。
 そういわれてみると、ロシア~東欧圏の歌手にしてはあまりセクシーな演出を取らない人という感じもしないでもない。でもまあ、そのせいでしょうか、ユーロビジョンソングコンテストの国内予選で落っこちた、なんてパッとしない情報も伝わっております。

 彼女もまた、冷え切った音色の電気楽器と独特のエコー感が醸し出す、霧に巻かれたようなモヤッとした音像の中、打ち込みの音がけだるくリズムを刻み続ける、という現代ロシア・ポップスに特徴的なサウンドを売り物にしています。
 が、そのやや低めの声を凄むように押し出し、電気楽器だらけの世界に不思議な土俗っぽさを呼び込むあたりの、あくまでも覚醒しつつのシャーマニックな感じ、とも言うべきパフォーマンスはなんとも血の騒ぐものがあります。

 抑制の効いた表現の中にもスケールの大きさを感じさせる歌い手で、その歌声の向こうに、深い夜霧に包まれたモスクワの街と、それを包囲するように広がる広大なロシアの大地などを気配として感じさせる。
 シベリア生まれの寒気が日本海を越えて入って来て我が国上空に鎮座ましまし、キリキリと大気の冷え込む冬の夜なんかに、ふと聴きたくなったりする人です。

 下の試聴は、プロモーション・ビデオにはよくある近未来社会を舞台にした映像ですが、これがあくまでもロシア風な”近未来”であるあたり、昔からのSFファンの方など、嬉しくなっちゃうんじゃないでしょうか?昔ながらの、いかにもロシアらしい無骨な幻想味が奇妙な幻想をかき立てます。冒頭に出てくるネオンサインの漢字まがいが楽しい。




タイ田園に花ほころぶ

2009-11-22 01:07:50 | アジア

 ”Morlum Dok Ya”by Tai Orrathai

 これまで何度か話題にしてきましたタイの歌謡曲・ルークトゥンの若手の第一人者であるターイ・オラタイ女史であります。
 このアルバムは、そんな彼女がかの国の田園地帯の民謡、モーラムばかりを歌ったアルバムです。私の知り合いのタイ音楽好きたちが「出た!ついに出た!」って感じの色めき立ち方でこのアルバムの登場を迎えたのが印象に残っています。あ、本年度作品。

 よく日本の演歌に例えられるルークトゥンであり、そのでんで行けば田園歌謡のモーラムを歌ったこれは、「演歌のスター、民謡を歌う」なんて企画モノに相当するのでしょう。大歌手への階段を登ろうとするタイの歌謡曲歌手にとっては通らねばならない関門なのかも知れません、このようなアルバムにトライするのは。
 私といえばほとんど野次馬的な聴き方しかしていないタイ音楽であり、偉そうに感想を述べる資格もないんですが、いや、聴いてみればそんな私でもやっぱり非常に楽しめた作品であるのは事実なのであって。それなりの感想を素直に述べてみよう、なんて気になったのでした。

 まず感じたのが、非常に瑞々しさに溢れたアルバムだなあ、ということ。なんとなく”タイの演歌”たるルークトゥンの歌い手であるオラタイ女史はその足元に当たり前のように民謡の素地を持っていて、それこそ故郷に帰ったような歌声をコブシをコロコロ廻しつつ、堂々の歌唱を聞かせるんだろうと思っていたのですが。
 ところがCDからまず飛び出してきたのは、これまでルークトゥンのアルバムで見せてきた風格みたいなものと違う、なんだか「これでいいのかしら?」なんて戸惑いさえ秘めたようなオラタイ女史の初々しい歌声。その様子にはなんだかこちらもドギマギしてしまって、思わず「萌え!」・・・なんて感想をオラタイ女史に対して持つ日がこようとは思いませんでしたけどね。そうか彼女、あまり民謡体験豊富な人でもなかったのか?

 いやでも、何歳か若返ったみたいなフレッシュな表情を見せつつ懸命に馴れない(?)田園歌謡を歌いつずる彼女の姿には、ほんとにフレッシュな魅力を感じてしまったのでした。 変な話ですが私は、何となく日本の新春の華やぎ、寒風の中を歩みつつ、ふと見上げれば梅が一枝ほころんでいるのを見つけた、そんな新しい生命の息吹に触れるみたいな感触を得てしまったんです、オラタイ女史の田園歌謡集から。
 伴奏も端正な仕上がりで、きれいに整備された田園風景を描いて見せて、オラタイ女史の歌唱を見事にサポートしてくれます。つまりは民謡の泥臭さがあまりないとも言えるんだが、そのことで文句を言う人はいないと思う。この出来上がりならね。

 そして最後に。なによりまずこのCDはジャケが良い!田園調の衣装に身を包み、田舎踊りのポーズを取ったオラタイ女史の清楚な美しさにまた一萌え!でしょうかね。もともと美女の誉れ高い彼女でありますれば、中ジャケの写真を眺めるだけでも買う価値はある、と申しましょうか。



ベンガルまでお豆腐買いに

2009-11-20 05:07:34 | アジア

 ”BENGALI MODERN SONGS”by Nirmala Mishra

 ベンガル歌謡の大物女性の若かりし頃のレコーディング、というところらしい。ジャケには例によって何のデータも示されてはいないので詳細が分らず、ジャケ写真や音質、歌声の若さからそう判断するだけなのだが。

 タブラがトットコと鳴り、メリスマのかかったボーカルがうねりながら流れて行く、いわゆる”インド音楽のボーカルもの”なんだけど、それほど濃厚で官能的な臭味は無く、なんともおしとやかで控えめな歌唱が続く。バックの音も民俗楽器なども使われている割には、強力な民俗性は感じられない。時に、スチールギターがソロを取ってみたりしてね。

 むしろあちらこちらで、日本の昭和30年代の歌謡曲などにも共通する人懐こさを感じさせたり、欧米の古きよき映画音楽の影響など想起させるような、異文化圏に育った者にも親しみやすい下世話に切ない裏町の流行り歌っぽさが窺え、ワールドミュージック者には嬉しくなる瞬間が多いのである。

 船から下りたよそ者が気まぐれに、ちょっと寄っていって一杯やっていても叱られたりしないような、開かれた場の空気のトキメキが感じ取れる。
 汎アジア歌謡とでも言うのかなあ、タブラやハーモニゥムを従えたNirmala Mishraの歌声の向こうに、三橋美智也や島倉千代子や神戸一郎の歌謡ショーのエコーが聴き取れる感じなのである、あともう少しで。

 で、それなら安心と心を許してゆったり寛いで聴き始めるのだが、実はそれら音の細部にエキゾティックな土俗性がひそやかに花開いていて、気が付けばすっかりベンガル歌謡の魅力にはまっている・・・のかも知れない。
 うん、まあ、それならそれで別に良いじゃん、と腰を据えて聴き続けるのだが、なんかどこからか昔懐かしい豆腐屋さんのラッパの音が裏通りに響き、隣の家のお姉さんが一丁買いに飛び出して行く、なんて昔見た風景がまぶたの裏に蘇ってならないのである。

 この盤の試聴はYou-tubeには無いみたいなんだけど、とりあえずベンガル・ソングの有名どころをmishraの歌で。




波止場のアコーディオン

2009-11-19 03:44:31 | その他の日本の音楽

 ”DoReMiFa”by 中山うり
 
 中山うりについてはブログ仲間のkisaraさんが取り上げておられて、先日、そいつを読んではじめて存在を知った。だが彼女はもう2年も前に、このデビュー・アルバムを出しているのであって。素早い人はとっくに知っていて、「今頃、何の話をする気だ」とか思うんだろう。まあ、しょうがないね。そんなにあちこちにアンテナを張り巡らして生きているわけにも行かないし。

 アコーディオンを弾きながら昔の日本の歌謡曲や古いラテンとかジャズの影を感ずる自作の曲を歌う中山うりである。kisaraさんのブログではじめて聴いた際には、昔々、子供の頃に風邪を引き寝込んだ夜の夢など思い出したものだ。
 蒲団の中で汗びっしょりで目を覚ますと、やっと熱が引いたのだがもう真夜中で、家族は皆、寝静まっているようだ。シンと静まり返った部屋の中でボッと天井を眺めながらつい先ほどまで見ていた夢の風景を反芻する、そんな時に脳裏に浮かんでいる風景。月とラクダ。夏祭り。古い煙突。マドロス横丁。

 まだうら若き女性である彼女と我が身の年齢差を思い「彼女はどこでこんな風景をみたのだろう?」とか首をかしげるのだが、意外に我々日本人には普遍的な風景であるのかも知れない。喪われてしまった紙芝居の手触りに通じるチープな彩色を施された、時の止まったような風景。
 付けられているメロディもそれに似合いの行き届いた時代錯誤ぶりを演じており、そいつをケロッと当たり前みたいな涼しい顔で作り歌われてしまうと、「こいつは出来過ぎではないか?」なんて言いたくもなるのだが、中山うりの世界には作り上げたものの無理やり感があまり無く、ますます不思議である。

 一度テレビで長めのインタビューをされる彼女の姿を見ているのだが、的確な回答がホイホイ出てくる人のようで、「中山うりの世界の虚構性は何パーセント?」などと尋ねたら、もう簡単に納得できる答えを出されてしまうのだろう。
 それじゃつまらない、彼女の歌は虚構と現実の皮一枚、夢と現実のあわいのトワイライト・ゾーンて奴に置いておくのが一番のようだから、もし彼女に出会う機会を得ても、「中山、という苗字を見ると、まず中山美穂に連想が行く、というか登場を期待するんだが、そこにあなたが”うり”なんてとぼけた名前でアコーディオンを持って現われる、これはそういう類のギャグと取っていいんだろうか?」とかどうでもいい話をしておくのがよろしかろう。まあ、会う事ないだろうけどさ。

 一つだけ注文。バックの演奏がボサノバであるとかミュゼットであるとか、きちんとした素性でカチッと決まってしまうと、なんか歌が閉じ込められてしまった気がしてつまらない気がする。あくまでも「得体の知れない」存在であって欲しいと思う。「本格派」とかいう退屈なものを目指さずに。




”ご意見様”の幸福な日常

2009-11-17 23:00:24 | 時事
■「イジメ、バカ騒ぎは視聴者不快」民放連に意見書

 番組が気に入らないなら見なければ良い、それだけの事なのだが。
 テレビそのものを家に置かないようにすれば、もっと良いだろう。

 ”自分の気に入らないもの”がこの世に存在する事を許せないと思うことの傲慢さ。
 手に入れた怪しげな”権力”を笠に着て、その”気に入らないもの”の圧殺を謀る自分自身の胡散臭さに気がつけない鈍感さよ、愚かさよ。


 ○「イジメ、バカ騒ぎは視聴者不快」民放連に意見書(読売新聞 - 11月17日 19:17)

 バラエティー番組の下品な表現への苦情が相次いだのを受け、放送倫理・番組向上機構(BPO)は17日、日本民間放送連盟(民放連)に番組制作の指針作りなどを求める意見書を送った。
 意見書では、BPOに寄せられた26件の苦情を、「イジメや差別」「内輪話や仲間内でのバカ騒ぎ」など5項目に分類し、「多くの視聴者が不快に感じている」と指摘している。
 これに対し、民放連の広瀬道貞会長は同日、記者会見を開き、「趣旨と正面から向き合い、制作者レベルまで広げて議論を深めたい」と語った。