あれは大分前の出来事だったが、ネット上にライ・クーダーのファン・コミュを見つけ、覗いてみたら「ライのアルバムは初期の3枚が最高”!」なんてタイトルのスレが立っていた。我が意を得たり、みたいな気分になった私は大張り切りでさっそく書き込みをしたものだ。
「異議なし!ライは初期の3枚が良いです。あれらのアルバムで描かれる戦前のアメリカのモノクロームの風景がたまりませんよね。あとのアルバムはどうでもいいや、もはや」
すると、そのスレを立てた人から困惑気味のレスが「帰ってきたのだった。
「あのう・・・私はライのほかのアルバムも素晴らしいと思っているんですが」
ああなるほどなあ。その人はライの活動時期を何期かに区切っていくつかのスレを立て、それぞれの時期の良さを語り合おうと意図していたんですなあ。
まあ、私みたいな割り切り方をする者の方が珍しいのかも知れないけど。でも、私はそんな風にライ・クーダーの音楽を結論つけてしまっているのだった。
私はライのソロ・デビュー盤を、ほぼリアルタイムで聴いて即ファンになるという道を歩いたわけなんだけれど。初期のライの音楽はまさに”師事した!”って感じで聞きこんだものだった。
古いアメリカの土の匂いが漂うような大衆音楽、それも白人黒人の区別のない、彼らの共有財産としての大衆音楽の面白さなど、ライは非常に楽しめる型で提示してくれた。
そしてライは、まだ”エレキバンドのコピー”レベルにいた我々に、音楽がどのような構造で成り立っているかを、音楽のアカデミックな知識が無い状態のまま把握する方法を示してくれたのだった。
彼の音楽を追いかけて行くだけで自分の音楽の持ち駒もどんどん増えて行くように思えていた。戦前のブルースマンや白人の民謡歌手たちの演奏する音楽の楽しみ方。スライドギターやオープンチューニングにしたギターの響きがどれくらいカッコいいものか、など。
そのうちライはその軽やかな足取りで当たり前みたいな顔をして音楽の国境線を乗り越えてみせ、そのことがいかに知的なスリルをもたらしてくれるのか、身をもって示してくれるようになった。
たとえばテックス・メックス・ミュージック。たとえばハワイアン・スラックキー・ギター。国境線の向こうに息ついている、見知らぬ果実の恵みのいかに豊なものかを教えてくれた。
まだワールドミュージックなんて言葉が現われるずっと前の話、そいつはまさに心躍る時代として記憶の中に生きている。この辺がアルバムで言えば「パラダイス&ランチ」や「チキン・スキン・ミュージック」あたりだ。
その後、はじめてのライブアルバムが出、それから不思議な手法で初期のジャズに迫った「ジャズ」が出て。
そのあとあたりからか、ライの発表する新譜に、なんだか首を傾げたくなるようになったのは。国境線の向こうの音楽への視点も見当たらなくなってしまった。
「彼のルーツであるR&Bの世界に回帰しているのだ」なんてのが音楽評論家諸氏の理解だったようだが、私にはなんだかあまり面白くない袋小路にライが入り込んでしまったようで、さっぱりそれらアルバムを楽しめないのだった。
その頃、こちらのそんな気持ちを見透かすかのようにライの「僕は水先案内人じゃなくミュージシャンなんだ。新しい音楽紹介ばかり求められても迷惑だ」という発言も聞こえて来た。
そりゃそうなんだけど・・・でも、「単なる音楽」として聴いてみてもその頃のライの音楽には輝きが見出せない気がしていた。たとえば「バップ・ティル・ユー・ドロップス」なんてアルバムを聴いてみても、印象に残るのはライのプレイよりはゲスト参加している”新人”ギタリストのデヴィッド・リンドレィのギターソロのほうに何度も聴き返す価値があるとしか思えないのだった。
その後ライは、私には袋小路としか思えない音楽に入り込んだまま、映画音楽の製作などに入れ込むようにもなり、いつしか彼は私の興味の範囲内から消えた。一方、彼が教えてくれた(ばかりでもなかったけれど)国境線の向こうの音楽の探求はますます面白くなっていた。
やがてCDの時代がやって来た。私はあれこれ考えた挙句、最初に述べた彼の初期作品である1stから3rdまで3種をCDで買い直し、アナログ盤は皆、レコード置き場の一番隅にある「思い出のためだけにおいておく盤」のコーナーに収めた。初期三枚はこれからも聴く気になる日があるだろうけど、それ以外の盤に、もう興味がもてそうになかった。
どうせ国境線の向こうの音楽を聴くなら、ライが演ずるものよりは現地の、本物の、たとえばテックスメックス・ミュージックのほうがエキサイティングであるのだから。
私にとってライ・クーダーというミュージシャンはなんだったのだろう?彼の最近の仕事、たとえば”ブエナ・ヴィスタ・・・”はテレビ放映されたものを見たが、キューバ音楽はともかく、ライがその場にいる理由というものがよく分らなかった。
結局私はライを、彼の言葉通り、「水先案内人」としか認識していなかったのだろうか?そのあたりがよく分からないんだが。
彼の初期の3枚のアルバムはとりあえず「水先案内人ではなく、彼によって案内されて行く側にいるミュージシャン」として扱っている。だからまあ許せや、なんてのも妙な結論だけどね。