ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

ツイッター線上の人々

2010-06-30 22:25:26 | つぶやき
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発言1
監督も選手も、皆言うことが高校野球みたいでグッと来ました。こんな良いチームになってるなんて気づかなかったもんで。
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↑☆発言の趣旨はともかく、”皆言うことが高校野球みたいで”が褒め言葉である価値観に頭が痛い。

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発言2
他人のつぶやきにいちいち反応してどうするの?といってみる。気に入らなければ放置すればよろし。
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↑☆もっともらい口ぶりだが、こう言ってるご本人も他人の呟きが気に入らず、”放置できずにいちいち反応”しているんだよね、この発言は。

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発言3
今回の駒野選手の母親へのInterviewにて「皆さんに申し訳ない」という言葉を引き出した件についてTwitter上で知りました。敗因をあくまで個人の問題に帰するような報道姿勢にとても不愉快でがっかりとしました。今後このような報道は無くしてください。

発言4
駒野選手が支えた母親にTBSは朝ズバで「皆様に申し訳ない」と言わせたのか 朝ズバのtwitterアカウントとTBSのアカウント

発言5
今朝の「朝ズバ」を早く送りで見て確認したこと。(1)他の家族にはじゃんじゃん電話などでインタビューしていたが、駒野選手のお母さんに対して、生放送でインタビューするようなことはなかった。

発言6
自己レス。以下、ガセというご指摘をいただきましたので、すぐに削除します

@m: こういうニュースに接すると、日本にいなくて良かったと思う
RT @n: みのもんた「息子さんPK外しちゃったねぇ。国民みんながっかりしてるんだよ」だって
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↑☆要するに、「みのもんたでも誰でもいい、どこかの有名人が、このようなひどい行為をしていたら都合がいいな。それを良識の人ぶって非難してみたら、どれほど気持ちがいいだろう」という願望充足のための流言蜚語。
 噂の履歴は関東大震災の頃と変わらず、自分の都合に合わせて物語を作り上げるシステム。
 

バルカンの暴走女王

2010-06-27 01:59:41 | ヨーロッパ
 ”Decenija”by Ceca

 Ceca。本名スヴェトラーナ・ラジュナトヴィッチ。と言ったって我が国ではまったく誰も知らない存在であるが、彼女の祖国セルビアを始め、バルカン諸国では絶大な人気を誇り、”バルカンの女王”の異名も納得するよりない活躍ぶりのようだ。
 何しろバルカン諸国界隈におけるCDの売り上げだけでも一千万単位を誇るというのだからただ事ではないし、西欧のメジャーなレコード会社からの移籍の誘いにもまったく興味を見せていない
 また、そんな事実がこちらにまったく伝わっていないあたりも、いかにもワールドミュージック的寓話という気がする。

 その歌声、いかにもワイルドなハスキーボイスで、性急に打ち込まれるビートに乗り叩きつけるように歌う、その様はまさに情熱の火の玉みたいな迫力である。
 Cecaの音楽のスタイルとしては、イスラム色の濃いアラビックなメロディラインとパワフルに揺れ動き鳴り響く重いリズムに特徴がある、いかにもバルカン半島らしいエキゾティックな魅力に溢れたもので、非常に濃い血のざわめきを伴い、聴く者の鼓膜と心にダイレクトに飛び込んでくる。
 彼女はデビュー当時(14歳でプロ歌手デビュー!)から故郷セルビアの民俗音楽のポップス化をテーマに活動そしているようで、土俗ポップス好きのワールドミュージック愛好家には嬉しい存在である。というか、似たような志向の歌手をかの地で他にも見かけるので、そのような土俗ポップスへの需要がセルビア、あるいはバルカンの地には普通に存在しているようなのだが。

 セルビアの歌手、といえばいまだ忘れがたいあの内戦であるが、彼女の夫は争乱期、セルビアの武装民兵組織のリーダーであった。が、調べてみるとどうもこの人物、あまり評判はよろしくなく、単なる政治ゴロとの評価もあるようだ。彼女はその夫と1995年に結婚し二人の子供をもうけたが、夫は2001年の初めに暗殺されてしまう。夫に対し、Cecaはその死後も絶対的な支持を捧げているようだ。
 その夫とのかかわりもあり、同じバルカンといっても、ボスニア・ヘルツェゴヴィナにおいてはCecaは決してコンサートを開くことは許されていないし、一方、彼女自身も「ザグレブやサラエヴォでは決してコンサートはしない」と宣言したり、このあたりはなかなかややこしいことになっているようだ。

 その一方、Cecaは亡き夫から相続したサッカークラブのオーナーも一時期していたようだ。
 が、高価な毛皮のコートに身を包んでサッカー会場に現われ、プレーで失敗のあった選手にはとんでもない厳罰を科すなど無茶な行動もあり、そのためもあってか、かってユーゴスラビアのトップチームであったこのクラブは徐々にランクを落としていった。
 そりゃどうかと思うぜ、という話であるが、そんな彼女を「美しい会長を!」なんて理由で協会の会長にしようとしたユーゴスラビア・サッカー協会もどうかと思うぜ。2001年の話である。そして、実際に会長に選ばれたのは我々日本人も馴染みの深い元サッカー選手、ドラガン・ストイコビッチだった。

 などとCecaに関する逸話を聞いて行くと、どうも感情に走って支離滅裂な事をやってしまうプライドの無駄に高い女性など想像してしまうのだが、そういう女性がまた、良い歌を聴かせてくれてしまうんだから、大衆音楽と言う奴はややこしい。

 下に貼った映像は結構エッチなものだが、バルカンというか東欧ではこれで普通である。というか、アラブ~バルカン~東欧~ロシアをつなぐ音楽界の”エロ・ビジュアル・ブラッドライン”の存在を指摘しておきたい。その辺、ジャケ写真とか強烈だもの。



秘められた歌謡曲

2010-06-26 03:31:34 | 音楽論など
 昨日書いた、ギリシャの島唄に関して、コメントをいただきました。いわく、「こういう曲を聴いていいると、イーグルスの”ホテル・カリフォルニア”が思い出されてならないのだが、それでいいのか?」と言うことなんですが。なるほどねえ・・・
 いただいたその後感想に対する私の回答など下に公開させていただきます。

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 「全人類の心の中にある感性の湖」みたいなものを妄想することがあります。その湖は底の方で民族や文化の垣根を越えてつながっている。そこで鳴り響いているのが、”ホテルカリフォルニア系”の、マイナー・キイの貧乏臭い歌謡曲じゃないのか?

 そいつの一味は、たとえば”ストップ・ザ・ミュージック”であり”ダンシング・オールナイト”であり、”黒く塗れ”であり”哀しき街角”であり、”パイプライン”とか”シークレット・エイジェントマン”なんてのも含まれるのかも知れません。

 そいつの正体を掘り当てたくて、あちこち世界中の音楽を自分は聴きまわっているのかも知れません。ワールドミュージック歴が長くなるほど、そんな思いが強くなっています。

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 ・・・と、まあ、分かったようなわからないような話で恐縮ですが。

 上に書きました”ストップ・ザ・ミュージック”なる曲、ひょっとしたら若い層は知らないかなあと思い、下に貼っておきます。原曲はイギリス製だそうですが、1966年にスエーデンのバンド”リー・キングス”によってヒットしました。
 まあ、これこそは相当な”ホテル・カリフォルニア”振りでありまして、”歌謡曲ロック”の元祖みたいなものですな。ほとんどの歌謡曲っぽいロックは、この曲の変奏曲と言えるのではないでしょうか。



ギリシャの島唄

2010-06-25 03:26:12 | ヨーロッパ

 ”I AGAPI TA PANTA NIKAI”by SOFIA ARVANITI

 ギリシャの島唄である。半島ギリシャの南海域に点在するいくつもの島々に特有の歌、ということらしいが、偉そうに解説できる何の知識も持たない。毎度お馴染み、ただ好きで聴いてきた、それだけの話である。
 いずこも同じ、島唄らしい寄せては返す軽快なリズムと潮の香りに溢れている音楽。そして、明るいリズムの影に深い陰影を秘めた音楽であるのも同じである。

 ギリシャ伝統のブズーキ・バンドを従えたSOFIA ARVANITIのハスキーな歌声は、ときに軽快に海の脈動を伝え、ときに切々と胸に秘めた情熱を歌い上げる。独特の哀感を湛えたそのリズムとメロディーには、濃厚に東方、オリエントの響きが忍び込んでいる。
 ブズーキの合奏が波打つように広がるとき、そこには海からの潮風が吹く。東西の文化が打ち寄せあって織り成して来た東地中海の、長い歴史に晒され刻み込まれた悲しみが、音楽の内に脈打っている。

 地中海の外れのうら寂しい漁村を吹き抜ける風や、住人の遠いざわめきが伝わってくるような、ちょっと陰のある切ない音楽だ。




ハングル・ガールズの発火点

2010-06-23 04:45:35 | アジア
 ”SOUND-G”by Brown Eyed Girls

 何でも韓国ではガールグループが戦国時代の様相を呈している、なんて話も聞きましたが。セクシーアイドル系から”クラスのお友達”系まで、まさに群雄割拠とか。
 そんなガールグループたちの頂点に位置すると聴いたグル-プ”Brown Eyed Girls ”の、これが最新作、2009年新譜であります。なるほどねえ、確かに”最前線に立っている”という迫力がビシビシ伝わって来る作りとなっております。

 コーラスも音作りも硬派です。もう”雄々しい”という表現を使ってしまいたくなるパワフルなコーラスで、エレクトリックなファンク音を炸裂させる。スイートなアイドルグループのあまやかな歌声とはまるで違う、ハードな韓国R&B世界です。
 時刻ならば深夜、その闇の中でモノクロの、ストイックともいえる情熱の閃光を重く打ち込まれるリズムと共に炸裂させるBrown Eyed Girls の歌声。

 こういうパターンはあまり日本人には好まれないと予想するんだが、いかが?いかにもきつい性格っぽいファッションとメイクで身を固め、完璧なダンスと歌声でオーディエンスをほとんど威嚇する。アメリカあたりのショー・ビジネスには伝統的にあるパターンで、韓国でもそれは受け入れられているみたいだけど、我ら軟弱な日本人は、普通に可愛いアイドルがたどたどしい歌を笑顔で歌ってくれるほうを好むんだよね。いや、そういう民族性なんだから、別にかまわないと思いますが。

 非常に面白く思えたのは、地を穿つみたいな土俗的リズムを囲んで、ほとんど呪文のようなハングル・ラップがメンバー全員によって呻き上げられると、彼女らの歌声とダンスの向こうに、古代韓国の祭祀の幻想が立ち上がって見えてきたこと。幻はグルグル渦を巻くみたいに時空を越え、気が付けばセクシーな舞台衣装に身を包んだBrown Eyed Girlsのメンバーたちと、ソウルの朝市でキムチを売ってるオバちゃんたちが二重写しになってくるじゃないか。

 ミディアム・テンポのお洒落なナンバーなんかも収められているが、一度見てしまった幻影は消えやしない。ほんとに凄いことになってるんだろうなあ、韓国のガールグループの遠国時代は。などと溜息ついてしまったのであります。



自由の果実

2010-06-22 04:49:14 | 南アメリカ

 ”Aguaribay”by Cecilia zabala

 つまんない表現だけど、”フォルクローレの新しい波”とでも言うんだろうか。アルゼンチン女性のギター弾き語りによるイマジネイティヴな世界。上手過ぎるギターと自由気ままに宇宙を浮遊する、スキャット混じりのボーカルとが歌い上げる瑞々しい音楽。ここではフォルクローレの伝統性は、彼女の奔放な表現の奥深くで響く遠いエコーでしかないようにも思えてくる。
 ジャズやブラジル音楽の要素も大胆に取り入れた瞑想的な歌と演奏のうちに、大都会の幻想と古代の夢とが出会うみたいな時空を越えた独特の光景が広がる。遠い南の国からもたらされた見慣れぬ果実を丸齧り、その豊富な果肉を味わう、みたいな新鮮な驚きに満ちた瞬間に何度も出会える楽園からの便りだ。



台北ホンキィトンクブルース

2010-06-21 04:30:46 | アジア

 ”秀蘭瑪雅 ”

 ショウラン・マヤというのは中国人には珍しい四文字の名前だが、それもそのはず、彼女は人種的には中国人ではなく台湾の先住民族の一つ、農布族の血を引いているのだそうだ。そういわれてみると確かに目も口も大きく眉も太く、その他顔の各部分がそれぞれ大きめでいかにも南方系の顔立ちである。
 しかもその各要素が”美人”を形成する方向に作用しているのだからよくしたものだ。なんで若い頃にアイドル歌手として日本進出をしてくれなかったのだと言いたくなるが、まあ、余計なお世話である。

 台湾の先住民族の内部で流通するポップスというものは小規模なマーケットながら存在し、その辺のカセットなど私もずいぶん集めたものだが、彼女は民族のサークルの外、より広い世界にに歌手としての可能性を求めた。それも、台湾の大衆音楽のメインストリームである北京語ポップスで大ヒットを狙う、という方向ではなく、どちらかと言えば裏道とも言えましょう、台湾語による演歌や民歌の歌い手となる方向を選んだ。

 この辺に、どのような事情があるのか分らない。台湾において、よりメジャーな銭儲けに通ずる”支配者の言葉”北京語のポップスではなく、どちらかと言えば庶民の言葉と言うか、やや日陰者的存在である台湾語歌謡の道を選ぶ理由とは?
 もしかしたら若い女の競争相手の少ない台湾語のサーキットで細かく営業を廻っているほうが、手っ取り早いゼニ儲けになる、なんて考えの事務所に所属しているのか?いやいやそんな生臭い話じゃなくて、ただ単に彼女が台湾語歌謡が好んで歌われる環境に育って、ごく自然に台湾語の歌を歌っているのだ、と言うだけの話かもしれない。

 ただ、さらに不思議なのが、彼女の歌唱法が”根っからの演歌好き”な人のそれのようにコブシをコロコロ廻したりする泥臭いものではなく、はっきりとR&Bの影響を感じさせるものであること。かなり垢抜けた歌唱法なのだ、演歌歌手としては。

 垢抜けた、を通り越して場違いとも感じられる、黒人っぽくメロディをフェイクさせる、その歌い方。ともかく”洋楽好き”があからさまに読み取れる彼女の歌手としての芸風なんである。そしてバックの音も彼女の個性に合わせて、ジャズィに迫ったりしているんである、歌われている歌は古い演歌であるにもかかわらず。これはもう、彼女の”黒っぽさ”はセールスポイントになっているとしか思えない。そして実際、いい感じなんだ、ショウラン・マヤのジャズ演歌ってのは。

 先住民の血筋。あえて裏町において好まれる演歌を歌う。なおかつお洒落な洋楽っぽい音楽性を隠さない。
 この組み合わせがどのような事情から生まれたのか、今のところさっぱりわからないのだけれど、彼女自身はその辺に何も悩んでいない様子で、非常にディープにして昔懐かしい台湾情緒を、もう手馴れた様子で優雅に歌い上げるのですな。アルバムももう何枚も世に問うている、堂々たる人気者である。

 そして聴いているこっちも、知っているはずもない古き良き台湾の優しい面影に酔い痴れ、すっかり良い気持ちにさせられている次第で。
 台湾と言う複雑な歴史を生きた土地を、ある意味体現する歌手なのかなあ、彼女。などと勝手に納得しているんだけれど。



#140レイジーブルース

2010-06-19 03:52:14 | ヨーロッパ
 ”BACH ORGAN MASTERWORKS”

 いろいろままならぬ現世の成り行きのせいか、このところ気持ちが鬱に傾斜するばかりであって。だからこういうCDを聴いている、というのも理屈に合うような合わないような、やっぱり合わない話かと思うが、バッハのオルガン曲集だ。
 こうして外の雨の音を聴きながら深夜、一人で出口のない気分で聴いていると、「この音楽はブルースだな。それも戦前の、盲目の黒人がギター一発でやってる奴だ」なんて確信が沸いて来るのだった。 

 ズリズルと蠢きまわる低音と、ガシガシと奔放な走りを見せる高音部。即興性という名のもとに奔放な暴走を繰り返す演奏者の指先。
 20世紀のはじめ、アメリカ南部の夕暮れに街の辻に立ち、聴衆にギターのネックに紐で結んだ空き缶めがけて銅貨一つを放り込んでもらわんがために渾身の演奏を聴かせた貧しい盲目のブルースシンガーのギター演奏に、これら秘儀を尽くしたオルガンの響きは似たものを持ってはいないだろうか?それは人の魂のどこか深く、奇妙に歪んで生暖かく懐かしい場所での出来事なのだが。

 地中海の陽光に祝福されたローマ帝国の栄光を思えば辺地と言える、雪に閉ざされたドイツの地で、音楽上の様々な実験を鍵盤の上に、五線譜の上に展開させつつバッハは、ふとペンを止めて呟く。
 「ミシシッピィ河とは何のことだったかな?どうやら地名のようだが、どこで私はそのようなものを覚えてきたのか?」
 思い出せなかった。しつこいセキが、またひとしきり彼を苦しめた。今年の冬はことのほか寒く、そして長く続き、もしかしたら永遠に春は来ないのではないか、などという気持ちにまで襲われるのだった。

 ウィリー・ジョンは日がな一日続く綿摘み作業で痛む腰を叩きながら、今朝方から何度も頭の中で蘇っている”フーガ”とか”コラール”とかいう言葉の意味はいったいなんだったろうか、という妙な疑問の答えを探している。頭の隅のどこからか、そんな言葉が湧いて出たのだが、どこで聞いた言葉だったのか。
 いかん、こんな事をしていると白人の旦那方は、またオラたちを仕事をサボるなと叱るだろう。ああ、年老いたミシシッピィ河よ。お前は何を思いながらそうして毎日、流れ続けているのだ。俺らの苦労など知らぬ顔で。

 頼りに出来るものは何もない。ただ高みにいてすべてを見守っていてくださるあの方だけが心の支えだ。そう信じよと、教わって来た。
 雲の切れ目から陽が差している。また楽想が浮んだ。指が自然に鍵盤を、あるいはギターのフレットをまさぐる。音楽は続く。



風吹く波止場で

2010-06-18 03:33:15 | その他の日本の音楽
 ”船村徹が歌う愛惜の譜”

 新聞の通信販売の広告にある懐メロ演歌の箱ものCDセットが妙に気になったりする、なんて事を何度か書いている。最近では森繁ものか。まあ、実際に買ったりすることはありはしないのだが、朝刊の隅っこにあるそんな広告の曲名にふと見入っていたりはする。
 今日は歌謡曲作曲家の大御所、船村徹氏の10枚組である。すべて自作自演であるのが凄い。本気で買おうかとも思いかけたほどだ。船村氏がギター抱えて思い入れたっぷりに自作を歌うのは、一度テレビで見たことがある。もともと、人前で歌うことに抵抗がない、というかお好きなほうなのだろう。

 昭和30年の「別れの一本杉(春日八郎)}をはじめとして、戦後の歌謡界の一方をリードしてきた船村氏であるが、この種のもので定番の突っ込みどころの曲はある。たとえば「サンチャゴの鐘」「青春パソドブル」なんてあたりは、当時、ラテンブームに乗って、先生、若気の至りで作ってしまったのかな?なんて匂いがして楽しくなる。
 まだ聴いてもいないのに面白がっては申し訳ないが、若き日の船村氏はプレスリーの”ハートブレイク・ホテル”を聴いて衝撃を受け、「日本人だってこれだけやれるぞ!}と一気呵成に書き上げたのが、あの小林旭の「ダイナマイトが150トン」である、という挿話をお持ちの方であって、ヒットしそこなった曲を皆洗い出せば相当な拾い物があるかも知れない。

 とはいえ、その辺の収穫はこの箱には期待は出来ない。自作を歌うということで、歌唱技術上の問題もあるのだろう、どちらかと言えば自身の心との対話、ともいうべき地味目の内省的な曲中心に編まれた作品集となっているからだ。その結果、あんまり聴いた事のない曲中心のラインナップとなってしまっているが、こちらは別に演歌の大ヒット曲にさほど興味もないのでむしろちょうど良い。
 思えば船村氏が新進作曲家として売り出した頃、歌謡曲は戦後日本の復興期における都市の発展と農村の疲弊とを一つの大きなテーマとしていた。そこでは若者たちが夢を追い、恋人を追いして”夢の東京”を目指し、老人たちだけが取り残された村では渡る者のいなくなったつり橋が揺れ、恋人たちの別れを見送った一本杉の元に、もう二度と立ち寄る人影もなかった。すべてのものが変わってしまった。

 そして船村氏もまた、都会に出て成功を掴んだ村の青年の一人だったのだろう。「王将」やら「風雪流れ旅」といった「高尚なる」作品の製作により一つの権威としての位置付けの完了した「演歌」と、その作り手である自分自身。その事への後ろめたさの補間作業のように船村氏はここで、失われた村の風景を郷愁を込めて何度も繰り返し歌い、裏町のしがない酒場の哀感に生きながら自らを葬ることとなった。
 悔やんでも仕方がない、彼に、彼ら無辜の個人に、精一杯生きる以外の何が出来たわけでもなかったのだが。
 
 下に貼ったのは、船村徹と、彼とは学生時代からのパートナーであった作詞家の高野公男が歌う三橋美智也のヒット曲、「あの娘が泣いてる波止場」です。これなんか素朴で良いんで、ますます自作自演集が欲しくなってくるんですが・・・
 


この卑しき地上に

2010-06-16 21:26:17 | ヨーロッパ

 ”Phaedra”by Tangerine Dream

 2010年06月13日(日)
 ワールドカップが始まると、皆がいろいろな国名を口にし始めるので、一瞬、全員がワールドミュージックのファンになったのかと錯覚しかける。けれど、もちろんそんな事はなくて、誰もが相変らずイギリスとアメリカの音楽だけを”洋楽”として聴いているのである。

 2010年06月14日(月)
 再びワールドカップとワールドミュージック話。ワールドカップの試合中継の内、英語圏のイングランドとアメリカ関係の試合だけ見て、それ以外は興味がない、という人がいたらなんか変な人だと思うんだが、それと同じ事をやってるんだよね、「洋楽はアメリカとイギリスのものしか聴かない」って人は。

 ・・・なんてえことを思い付きでツイッターで呟いてみたんだけど、どんなもんですかね?まあ、どんなもんでもないわけですが。なんかもう、ツイッターにも飽きてきましたね。フォロワーをやめられるのが怖くて穏便な事を呟く人ばかり、というのが現状みたいだし、そんな生ぬるいところにいてもなあ。
 
 ワールドカップの音楽ネタといえば、南アメリカの会場で現地の観客が盛んに吹き鳴らしているなんとかいう名の民俗管楽器。あれはうるさいからとかなり不評のようだが、私はあれはあれでそれなりに面白い効果を出しているじゃないか、などと思ったりする。広い空間で大量のあの楽器が、おそらくユニゾン状態で吹き鳴らされ、響き合うことによって、なにやらミニマルミュージックと言うか、不思議な効果を出していると聴こえる瞬間がないでもないのである。
 そりゃまあ、こちらはテレビの向こうで吹き鳴らされているのを聴いているだけだし、現場で思い切り吹き鳴らされたら、それはそれで別の感想があるだろうけど。

 などという事をシトシト降る雨音を深夜に聴きながら書いているわけである。いずれにせよ梅雨の季節間近か。うっとうしい雨空が続きそうで憂鬱なんだが、こんな気分に合う音楽ってなんだろうなと考え、引っ張り出したのが、これはもうドイツの電子音楽の大御所、タンジェリン・ドリームの初期の名作と定評のある”Phaedra”である。
 殷々と重なり合い鳴り渡るシンセの響きと、地下深くでリズムを発振し、打ち込み音を複合させつつ闇の置く深くへ人を誘う、禍々しき凶音の旅である。あんまり音楽に興味のない人に聞かせると、「お化け屋敷の音楽?」とか問い返されちゃうのである。

 こういう音楽って、何が楽しくて人は聴くのかね?冷たい電子音が響き渡っているだけ、聴いて辿れるようなメロディがあるわけでもなし。
 いや、聴くのかねと言ったって、世にこの音楽のファンは確実にいるのだし、私自身にしてからがこの種のシンセの響きが好きで、あれこれ盤を買い集めているのであって。
 なんだかねえ、この深夜に焼けクソ気味で耳を傾けていると、「これは、鈍重な肉体に縛り付けられたまま、いつまでも卑しい地上を這い回らねばならない人類の半端な知性の呻き声だ」とかなんとか言ってみたくなるのですがね。

 それにしても、久しぶりに聴くこの盤、思い込んでいたよりずっと素朴な響きに感じ、意外な気がする。まだまだ支配的なサウンドエフェクト的部分はともかく、キーボードがメロディらしきものを弾くあたり、”電気オルガンのソロ演奏”っぽく聴こえたりする。そいつがまた、”レトロなホラー”っぽくて快感なんだけどね。やっぱ、この時期のタンジェリン・ドリームは良いわ。