(前回、”ケネス伊東編”より続く)
先日、Hさんのゴ-ルデンカップスに関する文章を読み返しながら思った。GSの時代の終焉と、それに続く野音・ニュ-ロックの時代を、ソ連の解体と新生ロシアの誕生に例えるならば、カップスはゴルバチョフだったんだなあ、と。
カップスは、結局、Hさんが定義されるようにR&Bのバンドであり、あてがわれた「ダサいGS曲」を嫌々演じる際に最もスリリングなバンドだった。「ニュ-ロック前夜」に先頭を駆けていたバンドではあったが、ニュ-ロックのバンドそのものではなかった。
そういった視点からカップスの曲を、今、聞きなおしてみると、いかにも重たいバンドの個性、といった感が否めない。重たいといってもヘヴィという意味ではなく、言葉は悪いが「鈍重」といったイメ-ジ。良く言えば「地道」か。70年代を生きるニュ-ロックのバンドは、もっと腰の軽さが必要だったのではないか?メンバ-中、最も「ニュ-ロックだった」のは、当然ルイズルイスだったのだが、彼がバンドの行く末に、どれほどの興味を持っていたのか、怪しいものだ。(ルイズルイスの心の中で「やる気」というものは、どのような形をしているのか、ご存じの方、ご教示ください)
カップスにとってのニュ-ロックとは、結局「R&Bバンドの逸脱行為」以上のものには成り得ず、カップスが開いた扉からニュ-ロックの世界に入っていったのは、カップスではなく別のバンドたちであり、先頭を走っていたはずのカップスは「革命の日」に御用済みとなり、そして忘れ去られてゆく。この私にしてからが、60年代末期には、あんなに熱い思いで見上げていたカップスの事を、70年代が始まり、野音通いが始まると同時に、すっかり忘れ去っていた。
N2FO氏の提示されたカップスのディスコグラフィ(1131)を見て、なにか物悲しい気分になるのは、カップスが71年当時発表したアルバムに、ザ・バンドを初めとするアメリカン・ロックのカバ-が収められていることだ。
60年代末期の「ニュ-ロック前夜」には、「外国の最先鋭の曲」を見つけてきてレパ-トリ-に加える、それだけで栄光の「最先端のバンド」の座は十分、保証された。認知された。あの頃、「ウォ-キン・ブル-ス」や「モジョ・ウォ-キン」や「悪い星の元に」をレパ-トリ-に加えている、それだけでカップスは輝いてみえていた。(なにしろ「アンチェインド・メロディ」なんて曲さえ、先鋭的で恰好良く感じられた時代の話なのだ) が、71年には、もう、それでは済まなくなっていた筈だ。最先鋭のミュ-ジシャンの座は、それら外国の音楽を受け止めた後の、自分なりの回答を模索する者たちのものとなっていた。その連中の、大方の答えはトンチンカンなものだったのだが、それでも、時代の歯車は回ってしまっていたのだ。
が、カップスは、相変わらず「この曲やるって凄いだろ!」をやっていたのだ。それは、その時代に外国曲のカヴァ-が成されなかった訳ではないが、「その時点のカップス」だからこそ、戦術的にそれはやらない方が良かった。彼らが時の流れに取り残された象徴として残されたアメリカン・ロックのレコ-ディング。
それらの曲のレコ-ディングがなされた背景がどうなっているのか、事実関係は知らない。そもそも私はそのアルバムを聞いていないのだ。が、大方の想像は付く。
以下2点に関して、考察中。
1、この「答えを見つける」事と先に書いた「腰の軽さ」は大いに関係があると思うのだが。
2、これも上に書いたが、彼らがなぜ、あてがわれたGS曲を嫌々演ずる際に、もっともスリリングだったのか?
ここでいきなり、中断したままの野音話を再開するけれど、私は70年か71年に野音の客席で、ミッキ-吉野に出くわしたことがある。当時盛んだった
、昼過ぎに始まり、夕刻すぎまで続く、「ロックコンサ-ト」の途中だったのだが、我々がバンドチェンジ時に車座を作り、世間話に興じていたら、そこにひょっこりミッキ-が姿を現したのだ。
やって来た方向から、彼が普通に入場料を払って、正門から入ってきたのは明らかだった。彼は地味な服装と髪形、「ミッキ-吉野である」という事実を考慮に入れなければ単なるデブ、そういうしかない姿で我々の前に姿を現した。ふと、会場をのぞいてみる気を起こした、程度のものだったのだろう。(楽屋を訪ねるのではなく、ダイレクトに客席にやって来た事実に注目)
我々は口々に「あれ、どうしたの?」「久し振り」「また、やらないの?」などとミッキ-を囲み、まるで数年ぶりにあった同級生を前にしたような口振りで、彼を迎えた。(もちろん、我々はミッキ-の知り合いでも何でもなかった)が、彼は「うわあ、見つかっちゃったな」といったニュアンスの、照れくさそうな苦笑を浮かべ、何も語らず、夕闇の忍び寄る客席中央方向へ歩み去っていった。
誰かが「またやらないの?」と訪ねたのを、はっきり覚えている。N2FO氏のクロニクルを見ると、ミッキ-の脱退は71年の5月となっているから、その頃の出来事か?いずれにしても、彼がカップスを離れてから、そう長い年月が流れていた訳ではないはずだ。にもかかわらず、我々はミッキ-に「本当に久し振りに会った人物」としての懐かしさをこめて声を掛けたのだ。そんな気分になったのだ、その時。
ちなみに、ゴルバチョフたるカップスの次にエリツィンとして君臨したのは。結果論だが、そして解散後のメンバ-の活動すべてもコミで言うのだが、おそらく「はっぴいえんど」だったのであり、そしてそれは「日本のロック」にとって、あまり良い事ではなかったと、私は思う。詳細はいずれまた。