ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

カウボーイ、中華街で暴れる

2006-11-30 04:48:37 | ヨーロッパ


 フランク・チャックスフィールド楽団と言えば、1940~50年代を風靡したイギリスのムード・ミュージックの大御所ですが。と書いて自ら笑っちゃうんだけど。そんなものに興味を持つワールドミュージック・ファンなんかいるもんかってば。

 でもまあ、話をはじめてしまったものは仕方が無いんで続けるのですが。この楽団の1952年の録音に「ハイ・ヌーン」ってのがある。ウエスタン映画の名作、”ハイ・ヌーン”のテーマ曲ですな。カントリーっぽいメロディの、のどかにしてなかなか切ない曲で、私も子供の頃、好きでしたねえ。
 で、今回問題にするのは、それをチャックスフィールド楽団が、彼らのレパートリーとして吹き込み直したものなんですが。そのアレンジがなんとも奇怪なものでありまして。

 まずボンゴが、”ぽっぽこすぽぽぽ♪”と間抜けた、と言ってよいリズムを奏でます。開拓時代のアメリカ中西部、というよりは、ハリウッド映画に出てくる”南海の原住民の村”を想起させる、場違いな雰囲気。
 それに乗って、これはオーボエでしょうか木管楽器の音が、これもマヌケと紙一重ののんびりとしたタッチで曲の冒頭部分を吹き鳴らします。妙にコブシの回った、なんだかチャルメラの音一歩手前、みたいな印象を与えつつ、メロディは渡って行きます。
 と、そこに”ボワ~~~ン!”と鳴り渡りますドラの音。

 ここで他の管楽器も合流、合奏となるのですが、ここでアレンジの基本となっているのが6thの和音、中国の音楽を表す際に用いられる、”チャカチャカチャッチャッチャチャチャ~~~ン”なんてフレーズがありますね、あんな音の組み合わせが使われているんですよ。まあ要するに、どのようなメロディを奏でようと中国民謡に聞こえてしまう仕掛けになっている。
 
 そして曲が佳境に入ると、さらに連打されるドラの音。おいおい。どう考えても楽団の主催者、チャックスフィールド氏は聞き手を完全にどこやら南の島に作られた中国街の一隅か何かへ連れて行くつもりのようだ。

 いや実際、ちょうどこの頃、ムードミュージックの世界で人気を博していた、マーティン・デニー楽団の”エキゾティック・サウンド”ってのがあるんです。欧米人の異国幻想、南国幻想を音にして好評を博していたんですが。どうもチャックスフィールド氏も、そのサウンドをちょっと真似してみたくなったってのが本音じゃないですかねえ?

 それにしても。私が面白いなあと思うのは、高度な教養を身に付けた英国紳士たる音楽家、フランク・チャックスフィールド氏にしてみれば、アメリカのカントリー音楽なんてものも、マーティン・デニーが採り上げた”南洋の土人の音楽”(当時の白人の人種意識を表現するため、あえて使ってますよ、この言葉)と同レベルの”低俗で無教養な大衆音楽”としか認識出来ていなかったんだろうなあ、ってことです。

 この”ハイヌーン”の演奏に対するアメリカ市民の感想って、どこかに記録が残っていないかなあ?ぜひ、彼らの耳にどんな風に聞こえたか教えて欲しいものであります。南洋中華街風にアレンジされちゃった、彼らにしてみれば非常にドメスティックな流行り歌であるカントリー・ミュージックが。



書評・「銀河鉄道の夜・探検ブック」

2006-11-28 03:54:26 | その他の評論

 今、NHKで再放送された「銀河鉄道への旅・我が心の賢治」を見終えたところだ。

 あの宮沢賢治が、最愛の妹の死の直後、「妹とは死んだのではなく、どこか遠くの町で生きているのかもしれない」との観念に取り付かれ彷徨ったという南カラフトを、番組ホストの作家・畑山博氏が、自らの母親への追慕も兼ねて賢治の足跡を辿る、という企画の番組。そして、再放送にはもちろん、先日亡くなった畑山氏自身に対する追悼の意味がある。

 氏の著書で忘れられないのが、「銀河鉄道の夜・探検ブック」だ。
 あの有名すぎる童話を畑山氏なりに検証し、銀河を旅したあの不思議な鉄道の詳細を、氏なりの視点で辿り直したもの。
 実に心優しいイマジネーションの飛翔が切なくもあり心楽しくもあり、心の隙間にふと風が吹きぬけるような夜には手に取ってみたくなる本だ。

 番組の中で畑山氏は、カラフトの凍てつく空を見上げ「向こうに確かに存在する世界がある。そこは確かに存在しているのだけれど、決して行くことが出来ない」といった呟きをもらす。

 死んでしまった妹は、実はどこかの町で生きているのではないか。そんな想いは非現実的であり、賢治のその旅は、実際には何の意味もないものだった。
 だが、そんな賢治の想いは、生の時間を重ね、生きてゆく事は愛していたものを一つ一つ失って行く過程であるとの、苦い気持ちを噛み締めることを憶えてしまった者には、馴染めない感覚ではないだろう。

 画面の中の畑山氏は、雪に覆われた道を辿りながら、昔、同じ場所に歩を進めたのかも知れない、今は「あるけれども行けない」場所の住人である賢治に語りかける。自らの想いを賢治の足跡に重ね合わせるように。
 それは我々人類が開闢以来、歩き続けた道だ。手の届かない遠くへ遠くへと行ってしまった者への思慕を握り締めて。あてもなく。

 グッバイ、畑山さん。銀河鉄道の乗り心地はどうでしたか。「行けないけれども確かに存在する」場所の住み心地は、いかがですか?

(2001年9月5日・記)



中華ガムランの駄菓子屋美

2006-11-27 01:38:42 | アジア


 ”Degung Bali・Top Hits Mandarin & Taiwanese Songs”

 以前、この”Degung Bali”シリーズでは、バリ+スンダ風のガムラン・サウンドでコテコテの日本の歌謡曲を演奏した盤を「何をやりたいんだ?」との疑問符つきで話題にしましたが、これもそのシリーズの新作。今回は中国のヒット曲をガムラン・サウンドで聴かせる趣向のようです。

 一聴、”日本篇”のように異様な感触はありません。ガムランの音の中に中華ポップスのメロディは無理なく溶け込み、スムーズに流れて行く。元々、中華方面と東南アジア、文化の基盤にかなり共通するものがあるってことなんでしょう。爽やか、爽やか。

 今回はともかく、ジャケにすべて、”この作品が何であるか、どう受け取ればよいのか”が明記されているんで、分かりやすいです。まずタイトル、”Degung Bali”の上に”ラウンジミュージック”と記されているし、内ジャケには”リラクゼーションのための音楽”とあり、つまりは「なんじゃこれは!」なんて野暮な疑問符は放り出して、昼寝気分で聴いていれば良いわけであります。

 で、「スンダのデグンとバリのガムランの美しいメロディとエキゾティックなリズムを、そして優しい鳥たちの声の響きを、昔々の中国皇帝が後宮の庭でそうしたようにお楽しみください」なんて事も書いてありますな。そういうイメージで作られた盤である、と。なるほどね。そんな甘美な幻想世界は、確かに構築されていると感じます。

 そうそう、ジャケの隅に”Feat;Birdsong”とあり、実際、盤のあちこちに鳥のさえずりの声が収められているんでした。現実世界の鳥たちが盛んに鳴き始める早朝などに聴いていると、CDの中の鳥の声と区別が付かなくなり、ますます不思議な感触にとらわれますな。というか、聴き終えて記憶に残っているのは、その鳥たちの鳴き声ばかりだったりもします。アルバムの本当の主人公は、この鳥たちだったのだろうか?

 それにしても良いジャケ画だなあ。赤を基調とした、昔のメンコとかに描かれていたようなカラフルな駄菓子屋美(?)が嬉しくて、これだけでも持っていたくなるのでありました。



クリスマス営業歌往来

2006-11-25 23:36:32 | いわゆる日記


 やあ、始まってしまいましたね、世間的に。何がってクリスマス営業の季節が。
 クリスマスにかこつけてさまざまな営業が我々に襲いかかり、「あれを買えこれを買え!ここで金を使え、あそこでも金を使え!」と喚き倒す季節がやってまいりました。うっとうしいよなあ。まだ11月なんだがなあ。

 何をもって「始まってしまった」と認識したかと言いますと、竹内まりやのなんたら言う歌がテレビCMで流れ出したから。こんな歌です。

 ”クリスマスが今年も やってくる
  楽しかった思い出を かき消すように”

 多分、本当はこんな歌詞ではないと思う。が、私には毎年、こう聞こえてならないのだから、これはしょうがないのであります。
 
 クリスマス営業物件でなにが一番愚劣かと言いますと、私はマライヤ・キャリーのなんたら言う歌をまず挙げたく思います。さっきから”なんたら言う歌”と再三繰り返しまして申し訳ないのですが、ともかくうっとうしくてならないクリスマス営業の歌ですからね、タイトルなんか覚えたくもありません。

 え~、で、マライヤ・キャリーのなんたら言う歌でありますが、毎年クリスマスになると死ぬほど流されるあの歌です、と申し上げればすぐお分かりいただけるでしょう。あの歌、何とかなりませんか。あんな、道路工事の際の掛け声みたいな粗暴な歌をみんなが日々、流しっぱなしにしておいて平気でいられるって、まさに末世と思わずにはいられません。

 クリスマスが近付くと、あのような歌がいつの間にか当たり前のように流れるようになったその背景には、我が日本民族の音楽性をすり減らし、感性を鈍磨せんとするCIAの陰謀があろうかと疑いたくなるのですが。
 
 今のところ、マライヤ・キャリーの例の歌は街に流れてはおりません。かの歌、クリスマス営業の日程が進行し、「ここぞ!」と言う状況になった際、集中的に大衆の元に投下されるのでありましょう。そう、パチンコ屋における”軍艦マーチ”の如くに。そして人々はあの荒いリズムに判断力を失い、彼らの思う壺に嬉々としてはまって行くのですねえ。

 いやな季節がやってまいりましたなあ。



未踏の重金属、DEW

2006-11-24 22:59:31 | 60~70年代音楽
 前回に続いて、またも別の場所で発表済みの文章で恐縮なんですが。今回も30年以上前の日本ロック界の話など。

 ~~~~~

 野音通いを続けておりますと、野音の「通」としての贔屓バンド、なんてえものが出来てまいります。知る人ぞ知る、みたいなバンドをつかまえて、「凡人には分からねえだろうが、アタシなんかはこの頃、あのバンドでなくっちゃあいけません」などと粋がったりする。当時の我々にとってはDEWなんてバンドが、それにあたりますな。(何故、落語口調になるのだ?止め止め)

 DEWとは、ブル-ス・クリエイションの創設メンバ-だった布谷文夫が結成した、ハ-ドなブル-ス・ロックのバンドなのだが、これが1度見たら忘れられない個性を持っていた。と言って、その「個性」はエグ過ぎて、一般的な人気に繋がる性質のものではなかったので、通ぶって贔屓にするには実に好都合だったのだ。

 どんな個性かと言うと、このバンド、楽器の音もボ-カルも、とにかく全てTOO MACHだった。すべての針が振り切れていた。誰かが布谷のボ-カルを「すべての音に濁点が付いている」と表現していたが、まさに彼はその通りの個性の持ち主で、そんなリ-ダ-の重苦しいケダモノのオタケビに引きずられるように、ギタ-もベ-スもドラムス(4人編成)も、地面をのたうち回るような臨界点ギリギリのブル-スを奏でていた。各人が力みすぎ、コントロ-ルが効かなくなって分裂する、その寸前で危うく踏みとどまっているような、そんな彼らの「やり過ぎ」のステ-ジ。我々は失礼ながら、そんな彼等に、「因果物」的な面白さを見いだしていたのだ。

 暗くなりかけた野音のステ-ジ、照明の中に浮かんだ彼等が演奏を始めると、そこだけ煮えたぎる坩堝に見えてきて、しかもそこから生まれ出るのは、ことごとく歪んだ鋳物ばかり。そんな彼らを我々は、こちらも負けずにオ-バ-過ぎる喝采を持って迎えたものだった。もちろん、そんな悪のりのカラ騒ぎをしているのは我々(注)だけで、隣に座った「凡人」たる他の客たちは、きょとんとして「有名なバンドなんスか?」とか尋ねてきたものだ。もちろん我々はにっこり笑って答えた。「ううん、無名のバンド」と。
 (注・この野音シリ-ズにおける「我々」とは、例の「はっぴいえんど関係アンプ運びバイト軍団」を指します)

 レコ-ディングの機会には恵まれなかったDEWだったが、何故か、71年のライブ音源が98年になってCD化された。が、このCD、ライブにおける彼等の「針の振り切れ具合」までは、残念ながら捉えきれていない。ミキシング云々とか言うより、例の「村八分のライブの凄さ」と同様、それは、音盤に収めることの不可能な「何物か」なのか、とも思う。

 DEW関係の逸話二つ。

 一つ。オ-バ-アクションで歌っていた布谷が、完全にボ-カルマイクから外れて歌ってしまったことがある。が、あの男、どういう喉の構造をしているのか知らないが、その声は、PAを通した際と全く変わりない音量で我々の元に届いてきたのである。やっていたのがスロ-ブル-スで、出ていた音数が比較的少なかったとはいえ。ちなみに我々は、野音の外延近く、一番後ろの席で、まさに高みの見物をしていたのだ。
 あまりのことに我々は、驚くより前に笑い転げてしまったものだ。聞いたかよ、今の。マイクから外れても音量が変わらないって何なんだよ、と。

 二つ。当時、友人が、遠藤賢司のコンサ-トを企画して、が、どんな宣伝をしたのか、あるいはしなかったのか集客に失敗、ひどい状態になってしまったことがある。その悪夢のコンサ-トのオ-プニングに起用されたのがDEWだった。

 すべてが終わり、エンケンに「ボクだってプロだからお金は欲しいしね」と、しごくまっとうなお叱りを受け、ボロボロとなった友人が、DEWの連中にその日のギャラ(大した金額ではなかった)を差し出すと、彼等は「そ、そんなにくれるの!?」と青くなってのけぞった。そこで友人は頭を掻き、「あ、間違えた」と言って、そのギャラの半分をポケットに戻し、残りを再度、差し出したのである。と、DEWのメンバ-は「そ、そうだよね」と安心顔となって頷き、それを受け取り、そしてなぜか両者とも冷や汗を流しつつ、握手をして別れた。大好きなエピソ-ドである。

 DEWというバンドがいつまで続いたのか、寡聞にして私は知らない。その後布谷は、たしか73年にソロ・アルバム「悲しき夏バテ」を発表する。冒頭に「現役でバリバリやってる布谷くんです」との紹介コメントがあり、それに周囲の者が失笑する、というギャグ?が挿入されているところから、この時点で布谷はすでにステ-ジを降りていたようだ。

 さらにその何年後かに布谷はカムバック、大滝詠一のナイアガラのお笑い企画の一貫として、着流しに妙な眼鏡や帽子、といったバカな姿で「ナイアガラ音頭」を吹き込むことになる。
 真っ昼間の主婦向けTV番組の「売れない芸能人特集」みたいなコ-ナ-に出て、その姿でそれを歌い、清川虹子かなんかに「芸能界以外に本業があるなら、それに打ち込んだら?」とかアドバイス?されていたのが印象に残っている。
 
 現在でも布谷は、自己のバンドを持ち、どうやら副業ながらも歌い続けているようだ。マニアとしては「もう一花」と願わずにはいられないところなのだが。


初期の”はちみつぱい”

2006-11-23 01:27:58 | 60~70年代音楽


 えーとですね、以下は現在のムーンライダースの前身となる”はちみつぱい”ってバンドに関する思い出話です。以前、別の場所で公開した文章なんですが、読みたいと言う人がおられたんで、こちらにも転載する次第です。さあ、30年以上前の日本のロックの世界をお楽しみ(?)ください。

 ~~~~~

 で、はちみつぱいの話。まあ、私は「初期の」はちみつぱいしか見ていないんで、その分、話を割り引いて聞いていただきたいんですが、それにしても印象の薄い連中だった。

 何人で、どの様な楽器編成でやっていたのかも思い出せないし、演奏の細部も、漠然としたイメ-ジ以外、記憶に残っていない。あえて思いだそうとして甦るのは、そのくすんだギタ-の音色だった。ハ-ドな音を聞かせるバンドの歪んだ音でもなく、といって、クリアな音でもないそれは、他のバンドにはないものだったから。また、何時も彼等のステ-ジには照明が当たっていなかったような、あるいは常に照明から外れる位置で演奏していたような記憶がある。まさかそんな筈はないだろうが。「煙草路地」と「こうもり飛ぶ頃」の2曲ばかりを演奏していたような気がするんだが、まさか。いや。これは本当に、そうだったかも知れない。

 そんなふうにウスバカゲロウの如き、儚いイメ-ジばかりが残るバンドだったのだけれど、私は彼等に、言葉にしてみれば「彼等はどうやら、俺の知らない美学にもとずいて音楽をやっているようだ。なんかパッとしないのは、それがまだ完成の域に達していないからなのであろう」といった感想を抱き、一応、彼等に敬意を表することに決めたのだが、その決定にはあまり自信はなかった。それは私ばかりではなく、当時の観客たちは皆、「初期のはちみつぱい」にどう対処すべきか、見当がつきかねていた筈だ。

 ところで、「百軒店のグレ-トフル・デッド」なる言い回しが当時あったとすれば、それは、関係者の間で無理やり言っていただけの事でしょうね。その言い回しが公共のものとして成立するためには、1、はちみつぱいというバンドを知っていて、その演奏への理解が、ある程度出来ている。2、グ-トフル・デッドというバンドを知っていて、その演奏への理解がある程度出来ている。3、「ロック」がまだ未成熟だった日本において、その両者を並列させるという洒落を理解する能力がある。最低、この3つをクリア-している人間が一定量必要と思うのだが、当時、日本に何人いたというのだ?

 はちみつぱいの演奏に、私が初めて強力な自己主張を感じたのは、まだ無名だった頃のあがた森魚のバッキングで、だった。その日あがたは、ステ-ジ上でマンガの単行本を広げてみせ、「これが幸子さんで、これが一郎君です」とか説明したあと、例の赤色エレジ-を唄いだしたのだが、スネア・ドラムだけを鼓笛隊風に肩から下げてあがたの隣に立ちジンタのリズムを刻んでいたドラマ-をはじめ、「ぱい」の連中はその日、「大正末期から昭和初期にかけての日本のロックバンドは、こんな音を出していました」みたいな時代錯誤でピント外れの妖気を発していて、ああ、こいつらはこんな方向を指向していたのかと、勝手に合点したものだった。

 ついでに報告しておくと、その際のあがたの唄いっぷりは、今日、レコ-ド等で知られているものとは違い、絶唱というか、とにかく全面的に泣き叫ぶスタイルのものだった。あの状態でアルバムを1枚でも出しておいてくれたら面白かったような気もするのだが。彼がメジャ-から同曲をリリ-スするのは、それから半年以上も後のことだ。

 やがて私は、彼等の演奏に接する機会を失ってしまう。いつの間にかコンサ-ト通いからレコ-ド収集へ私の興味の中心が移ったせいもあろうが、その頃の彼等も、主戦場をレコ-ディング・スタジオに移していたのかもしれない。

 その後、大分経ってからリリ-スされたはちみつぱいの初のアルバムを聞き、腕を上げた彼等に舌を巻く一方で、なんだか私は、戸惑いも覚えた。そこにいたのは、当時の我々の興味の中心にあった外国のロックを巧みに消化した、「立派な」ロックバンドの姿だった。それは確かに好アルバムで、愛聴もしたのだが、ただあの捉えどころのない、儚くも怪しげな「初期のはちみつぱい」は、そこにはいなかった。

 私が勝手に幻視した「彼等の未来」はむしろ、ぬぐい去られるべき「若気の至り」の残滓として、そこに微かに漂うのみだった。その時の気分を例えれば、「友人と居酒屋に行って騒ぐ約束だったのに、約束の場所に行ってみたら、そこはなんか高級そうなバ-だった」みたいな。
 いや、良いんだけどね、ここでも。でも。あれ?そうだったの?ここでいいの?そんな戸惑い。(こんな話、当の「ぱい」のメンバ-にぶつけてみても、見当違いの思い込みと笑われるだけだろうが)

 そしてその「残滓」は、彼等がム-ンライダ-スへと進化し、そのアルバムが重ねられるごとに薄れ、やがて消え去って行った。いや、彼等ばかりでなく、バンドごとにそれぞれ事情は異なるものの、そんな風にして「日本のロック」は成熟して行ったのだ。行ったのだが、本当にこのバ-で良かったの?と、時に思わないでもないのだ、私は。



レユニオンの謎の歌

2006-11-22 02:13:55 | アフリカ


 ”KRIE ”by Salem Tradition

 アフリカ東岸に浮かぶ不思議の島、マダガスカル島に寄り添うように浮かぶ、これもまた個性豊かな文化を育む島、レユニオン。なんて解説を、かの島の音楽を語るたびに繰り返さねばならないのだろうか。面倒くさいなあ。
 なんて言いたくなるのはつまり、レユニオン島が小島ながら意外に音楽的には健闘しているって証拠でもあるのだろう。
 かの島からまた届けられた痛快音楽である。レユニオンの大衆音楽、”マロヤ”を代表するグループらしい。もういつもの、と言ってしまっていいのだろうか、ボーカルとパーカッション・アンサンブルのみのシンプルな音楽世界。

 痛快な複合リズムの疾走に乗って、朗々たる女性ボーカルが快い。その”朗々たる”の部分に、レユニオン特有の潮の香りとともに”アジア的な歌謡性”を感じ取ってしまうのは、こちらの勝手な妄想ゆえか?いや、実際、アフリカ的とばかりも言えない響きが、その歌声に濃厚に滲んでいるのであるが。

 レユニオンを含む、この辺りの音楽の”インド洋の文化性”という奴、こんな風に語るのは簡単だが具体的にどうだとなると索漠として掴みきれない。アフリカ東岸からインドネシアまで、どれほどの距離があると思っているのだ。しかもその間に横たわるのは、古代からの行商人が踏み均した交易路なんかじゃない、広漠たる海水の広がりだけなのだ。

 その一方、古来よりのインド=アラブ圏とアフリカ東岸との文化的、経済的関係は古い歴史を持つものであるし、さらに今日でも、たとえばインド映画がアフリカ東岸地方に住む庶民に日常的に愛好されている、などというエピソードに代表される草の根のかかわりも存在すると言う。
 広いのか狭いのかインド洋、などと実態の見えない遠方よりの見物人としては頭を混乱させるだけなのだ。

 このアルバムで最も聞く者を混乱させるのは2曲目の、無伴奏コーラスで始まり次第にテンポアップ、パーカッションの疾走で終わる作品だろう。どう聞いても古いキリスト教の賛美歌のメロディを持つ歌である。むしろ、イギリスのトラッドバンド、スティールアイ・スパンの初期アルバムにでも収まっている方がふさわしく思える曲が、なぜこんなところに?

 島の人口のほとんどは黒人系のクレオールであり、住民の90パーセント近くがカトリック、などという背景を思えば、キリスト教系の歌が歌われているのは何も不思議な事でもないのだが、ここまで”ヨーロッパ直送”でなくとも良かろう。レユニオンの地まで来る間に、それなりの変形を、なぜ体験しなかったのか。

 なおかつ。その歌詞を検めると”アラー”とか”モハマド”なんて文言が見受けられて、え?とか目を疑うこととなる。いや、曲のタイトルがそもそも、”ALLAH”ですから。アラーって、これ、イスラム教の歌なの?しかも、もっともキリスト教的メロディの歌が?

 ここまで南に来ればアラブ文化の影響も大きくは無いだろうし、そんな歌を歌ってキリスト教徒とイスラム教徒の融和を図る、なんて小細工も不要と思うが。(融和どころか揉め事の種か、そんな歌を歌うのは)
 そんなややこしい歌じゃなく、ただ単に他の意味の言葉が”アラー”と聞こえているだけ、真相はそんな腰砕けのものだったりするのが世の常だけどね。いやでも、アラーにモハメドだよ、歌詞に出てくる人名が。

 とか何とか。ほんとの事情を知っている人がこの辺を読んだら、「なにも分かっていないなあ、こいつは」とかせせら笑ってるかもなあ。あのう、突っ込んでいただけるとありがたいんですが(笑)



グナワ・ディフュージョン

2006-11-21 04:00:12 | イスラム世界


 ”Souk System”by Gnawa Diffusion

 ワールドもの方向では話題のグループと言うことでありますな、グナワ・ディフュージョン。

 グループ名の”グナワ”は、かって北アフリカ在住のアラブ系住民に奴隷として使われていた黒人たちを指す言葉だそうな。とはいえ、このバンドがその種の人々の末裔によって構成され、ストレートにグナワの音楽を演じているわけではなく、その衝撃的な概念をバンド名に掲げることに意義を見出しているようだ。

 バンドの中心人物は北アフリカ出身のなにやら高名な作家の息子というが、ともかく”グナワ”ではなくアラブ系の血筋に連なる人物である。十代で亡命中の父を追い、フランスに渡り、そのままその地で音楽活動を続けて来た。

 バンドの歌は、アラブ音楽の要素とレゲのリズムが入り乱れるサウンドを伴いつつ、アルジェリア社会の矛盾、フランスに生きるアラブ系をはじめとした移民たちの置かれている過酷な現実、などに問いを突きつけているようだ。とは言うものの。CDに付されている収録楽曲の歌詞日本語訳などに目を通すと、その生硬な言葉の羅列には、ちょっとうんざりさせられるところがある。

 まあ、青少年の頃には、この種の歌に接して熱くなったりするものです、「凄いんだぞ、彼らの政治的主張は!嘘っぱちなこの社会を鋭く突いているんだ!」とかね。

 でも、生きて来た時代が時代で、その種の”運動”に関してはさまざまな幻滅を味わいつつ今日まで来たオジサンとしては、ちょっと辟易するところがあるわけだ。
 その辺りで生じた、このバンドの音に対する疑問は、結局、アルバムを聞き終えても解消されることは無かった。

 このバンドの純・音楽上の醍醐味というのは、砂漠にすむ蛇の如くにうねるアラビックな音楽要素が、世界の”抵抗音楽”の定番と化したレゲのリズムに乗って強引に突き進むところにあると思うのだが、そのスリリングな音楽のありように、どこか頭で音楽をやっている者の脆弱さもまた感じてしまうのだ。

 ”革命戦士たる音楽家”なんかより、能天気な恋歌を土着の音で野太く提示する銭金目当ての”バンドマン”連中の方が、その存在としてはよっぽど革命的なんだよな、いつも。そして、こんな事を言うと”反革命”のレッテルを貼られてしまうのもいつものことなんだが。

 何ぞとぼやいていてもしょうがないのだが、彼ら、先に書いた”アラブ=レゲ”を、政治的主張なんかこっちにおいておいて、あくまで音楽的に研ぎ澄ましてみたらいいんじゃないかなあ。アラブの伝統的音楽を、都市型の悪意を秘めた現代に生きる音楽に再生させる道は、確かに開けて見えるのだから。

 なんて事を言っても、頭に血を登らせた若き音楽戦士諸君には通じる話じゃないんだけどね、うん、私も青二才だった一時期、そんなだったからさ。それは分かっているんだけれど。
 



ジョージィ・フェイムの街角

2006-11-19 01:30:27 | ヨーロッパ


 長いこと放り出したままだったジョージィ・フェイムのCDを、ふと気が向いて聞いてみたら心地良かったので、おおこれは良い按配だとここのところの、いわゆるマイ・ブーム状態だった。
 だったのだが、先日店に並んだ某音楽誌で小特集が組まれていたり、その記事でフェイムの初期作品が国内盤CDとして軒並み復刻されると知り、この分では世間的にも小ブームになりかねないなあ、なんだかつまんえねなあと、ちょっと盛り下がってしまったのだった。というのも人間の器が小さいかもしれないが。

 ジョージィ・フェイムといえば、60年代初期のイギリスのジャズやR&Bシーンをリードしたオルガニスト&ボーカリストだった。のちに国際的な人気を博することとなる多くのミュージシャンが、当時はまだ無名のまましのぎを削っていた、そんなイギリスのロックの現場が孕んでいた熱の、ある局面の最先端に立っていた人物ともいえよう。

 とかなんとか分かったような事を言っているが私は、実を言えば彼の音にリアルタイムで接していたわけではない。60年代中頃から後期にかけてのイギリスのビートグループのファンとして音楽ファンの第1歩を踏み出している身ではあるのだが。
 私としてはフェイムを、自らのアイドルとして仰ぎ見るブリティッシュ・ビート連中のなかでもひときわ伝説的存在と認識はしつつも、実際には当時、彼のレコードに接する機会はなかった。

 60年代、フェイムの音楽は我が国で本格的に紹介されていたのか?少なくともラジオの洋楽ヒットパレード系の番組(あの頃は貴重な情報源だった)で普通に聞けた音楽では無かったはずだ。こちらも、”地味なマニア好みの人”なるイメージを持ち過ぎていて、初めから敬遠気味であったのも確かだ。

 が。今、手元にある初期レコーディングを中心とした編集盤を聞く限り、フェイムは何もむずかしいことはない、なかなか聞き応えのあるミュージシャンといえよう。アルバムには”スィンギィン・ロンドン”と称された60年代半ばのロンドンの街の、熱に浮かされたようなざわめきが温度を伴って伝わってくるようなサウンドがぎっしり詰まっている。

 60年代初めのロンドンのフラミンゴ・クラブ。フェイムがホームグラウンドとして演奏を行っていた場所である。ここでは、いわゆる”モッズ”連中や、西インド諸島やアフリカから流入した黒人たちや、夜の世界で働く人々などにより構成される客層が、素敵にいかがわしい雰囲気を醸造していたようだ。

 それはフェイムの演奏にも影響を与えた。本来の持ち味であるジャズやR&Bばかりでなく、カリプソやスカなど、遠くカリブ海の音楽要素もまるで当たり前のようにフェイムの演奏には鎮座ましましている。フェイムの実に洒脱な楽曲処理能力により、それらはワールドミュージックがどうの、なんて理屈を超えてそこに自然に存在してしまっている。

 この、異人種異文化までも巻き込んで怪しげにときめく、都市の悪場所発のざわめきの伝わり具合が、初期のフェイムの音楽が孕む最高の醍醐味というべきだろう。
 夕暮れ迫り、ラフな、ヤバい空気漂う街角に流れ出すフェイムのファンキーなハモンドオルガン。そして、ふと紛れ込む異郷の音楽の響き。そんな場に身を置く者の胸のトキメキが生々しく伝わってくるフェイムの音楽は、やはり魅力的だと思う。

 

上海喪失

2006-11-18 04:55:56 | アジア


 ある方のブログで戦前中国の”上海ポップス”が話題になっていた。そういえば以前、その辺の音楽をずいぶん聴いたものだなあ。

 各国からの侵略を受け、”租界”などという、まあ体の良い植民地をあちこちに立てられていた、そんな現実を抱えながらも”国際都市・上海”は、第2次大戦前、そしてさなかにも華やかな文化の花を咲かせていた。そんな”花”としての上海ポップス”である。
 中国人独特の美学に彩られたその音楽世界は甘美でもあり、また世界へ開かれた窓としての上海に育まれた音楽らしく、非常に垢抜けた表情も持ち、実に魅力的に感じられた。

 私がそれらを興味を持って買い集めていた頃、それは香港盤CDで手に入ったのだが、どれも豪華な箱入りの装丁で、中華民族としての過去の文化遺産への敬意といったものが感じられ、気持ちの良いものだったのだ。
 ところが。一巻、また一巻と楽しみに集めていったそれら上海ポップスの盤を私は、いつのまにか数枚を残しただけで、手放してしまっている。

 その音楽を聴きなれてしまうと、なんだか私には歌手たちの、これも中国人特有の高音好みと言ってよいのかどうか知らぬが、甲高い歌声が妙に耳障りになって来て、聞くに堪えなくなってしまったのだ。昨日まで愛していた音楽を、気がついたら受け付けなくなっている。これも寂しい話だが仕方が無い。

 と言って、中華民族の音楽を受け付けないと言うわけでもない。中国本土の音楽限定で相性が悪い、そんな構造が私の感性のうちにあるみたいなのだ。
 中華民族の大衆音楽総体を好まないわけではない。香港、台湾、あるいは東南アジア諸国に散在する中華街ポップス(?)には、特に興味を失うこともなくいる。

 ”返還”後、なんだか独特の末世感、緊迫感が消えてしまった感じで、ちょっとご無沙汰している香港ポップスにも、面白い動きがあれば、即、飛びつく用意はあるし、台湾や東南アジア華人の動きにも気になるものがある。

 そこで、たとえば私は中華思想とか、そんなものが内に息付いている音楽が好きになれないって事ではないか、なんて仮説を立てているのだが。
 先にちょっと述べたが、”返還”を目の前にした香港人の焦燥が焼け付くようだった香港ポップスなどには私は、大いに惹かれたものだったし、辺縁でジタバタしている中華民族には共感できるのだ。

 と、まあ、ここで話は先延ばしの宿題とします。まだ、この先を論ずるほどのネタも見つけていないんでね。いや、尻切れトンボで申し訳ないですが・・・