ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

ペギーHの探求

2010-10-30 02:13:34 | フリーフォーク女子部
 ”Sing Sung Saing”by Peggy Honeywell

 近付いているという台風のせいだろうか、海沿いの国道は風が出ていて、ときおり霧雨が降りかかる。ヨットハーバーからは波に揺れる各艇の装具が触れ合ってカチカチと鳴る音が聴こえている。そして自分は海沿いのコンビニに買いものに来ているのだった。もはや気候は冬と変わらず、毎週のように花火大会が行われ観光客でごった返した海岸通りはその面影もない。ただうら寂しい街路灯の光の下で、シンと静まり返っているのだった。

 さっきテレビの番組にエイベックスの社長と言う人物が出ていた。彼は言っていた、CDなどという時代遅れの商品に、今日を生きる企業はいちいちかまっていられないのだ、との持説を。
 そうじゃないだろ、話が逆だろ、と思う。CDをプレスし、それを収めるプラケースを成型し、それを包むジャケを製作する。商品製作にそんな手間をかけるより、”ダウンロード”するシステムを置いておけば消費者は勝手にそこで自ら商品を製作し、代金をおいて行く。企業にとってそっちの方が断然、商売はおいしいものな。
 だから君ら企業は消費者に、「ダウンロードの方がナウくてカッコいい」とする価値観を吹き込み、そして、とうの昔にいいなりになるのにすっかり慣れきっている消費者は、「それもそうかと思うげな(by添田唖蝉坊)」と言うわけで、「ダウンロード以外、考えられないね。なに、いまだにCDとか買っている人がいるの?信じられない」と大喜びで言うようになる、という作業工程だ。

 買い物から帰ってぼんやりテレビを見ていた。「世界の車窓から」とかいう、数分の帯番組。映像のバックに女性の歌うフォークっぽい音楽が流れていて、それに妙に耳に引っかかる。
 ほぼギター弾き語りみたいなシンプルなサウンドに乗せて、シロウトくさいか細い声で、彼女は歌っていた。ある意味素朴な、ある意味シュールな、みたいな、シンプルなくせしてどこか一癖ある独特のメロディが、歩き方を覚えたばかりの赤ん坊みたいなペースでユラユラと空間を渡って行く。
 なぜか子供の頃見た冬の朝の光景が浮んだ。小学校の登校風景。差し入る朝日に皆の息が白く、水溜りに張った薄い氷を踏み破り、嬌声を挙げていた。

 あれ、この歌、なんだか良くないか?と半身を起こすのに時間はかからなかった。さっそく歌手名を調べ、資料を探してみる。アメリカのシンガー・ソングライターのようだ。
 Peggy Honeywellという名で歌手活動をしているが、別の名で画家稼業も行なっているそうな。そちらが本職なのかも知れない。CDのジャケも自分で描いている。なんだか北国版のアンリ・ルソーみたいな素朴画で、これもよい感じだ。これだけでもファンになる価値がある気がする。
 が、残念なことに現在、彼女のアルバムはすべて絶版のようで、どこの通販サイトをあたっても購入不能である。新譜というのもないようで、もう歌手活動はしていないのだろうか?これは、いずれ再評価の時(あるはずである。その価値はある)を待つしかないのかも知れないが、くそう、じれったいなあ。欲しいよう、Peggy Honeywellのアルバムが。

 まあ、もう少し、どこかで売れ残っていないか探してみようと思ってるんだけどね、どうしても”盤”が欲しい私としては。ねえ、どこぞの社長さんよ。




龍の喪失

2010-10-28 03:11:14 | フリーフォーク女子部
 ”ゲド戦記歌集”by 手嶌葵

 昨日、ウチに不在連絡表を置いていった宅急便の配達員に呆れるほどの怠慢行為あり、さっそく翌朝早く、そいつの携帯にかけて思い切り説教、ついでに宅急便の会社にも電話し、くわ~しく苦情を述べ立て、のち、そいつの代わりに荷物を持ってきた奴の同僚も怒鳴りつけてやる。
 ざまあみやがれ正義は必ず勝つ!と握りこぶしを固めたのだが、そういう自分がうっとうしくてたまらない気分なのだった。
 振り返れば腐秋。見回せば周りは、どいつもこいつも身勝手な欲望からくっだらねえ策略をめぐらし、ゴミみたいな日を送っている。
 こんなくだらないゴタゴタに身をすり減らして。俺はいつか。などと駆られる焦燥。

 こんなとき、ふと思い出すのがカナダのシンガー・ソングライター、ブルース・コバーンの曲、”If I had a Rocket Launcher”なのだった。とはいえかの曲は、コバーンがアメリカ合衆国の暴虐の嵐に晒された南米のゲリラへシンパシーを込めて歌った政治の歌である。
 私の方は、そんな立派な志があるじゃなし、使い古したトカレフでもなんでもいい。この日々をふと振り返り、鋼鉄の塊を打ちまくれるなにものかがあれば良いのだ。そうして、私がこれまでの生活の中で愛したものも憎んだものもひとまとめに。

 凛として己の世界を構築して現実なんか大嫌いな古風な文学少女、そんな少女が歌う歌が聴きたい、なんて想いがある。極初期のジョニ・ミッチェルなんかがそんな感じか。もっといそうな気もするが、今は思いつけない。”時の流れを誰が知る”を作った時のサンディ・デニーなんかもイメージだな。
 そんな子が同級生たちの明るいおしゃべりに背を向けて机にかがみこみ、キリリと尖らせたエンピツで書き上げたなにかの結晶みたいな歌を聴きたいと思っていたりする。どうしても聴きたいから盤を探し回る、なんて感じじゃないが、ふとそんなものを聴きたい渇望を感じる。

 このアルバムは、例のスタジオ・ジブリの。なんていったってアニメそのものに何の関心もない私にとってはなにやら分からず、もちろん作品も見たことはないのだが、ともかくこれは、あのアーシュラ・K・ルグィンの原作になるファンタジィ、「ゲド戦記」のジブリによるアニメ化作品のイメージソング集とでもいうのだろうか。
 収められている10曲のうち、映画で使われたのは2曲だけだそうだ。2曲のうち、”テルーの歌”は、このアルバムの主人公、手嶌葵がテレビで歌っているのを何度か見たことがある。
 その他の曲も”ゲド戦記”の中のエピソードに準拠して書かれたもののようだが、使われる予定が初めからなかったのか、その辺はわからず。が、映画のサントラのようでいて実はこのアルバムの中にしか存在しない歌、という密室感?が、逆にその世界をふさわしい独特の虚構性を高めていると感じた。これはこれでいいのだろう。

 彼女の歌はほとんど呟きであり、他人に聞かせるというよりは自分の心に歌い聴かせる感がある。歌われるのは、龍が跳梁する異世界の日常である。異世界の石畳の道に彼女の長い影が落ちる。歌を呟きながら彼女は歩を進める。他に人影はない。ただ廃墟と化した都市と島々を渡る孤独と生命の木と見上げる空と。
 ギターだけとかピアノだけとか、たまに聴こえるアコーディオンとか、伴奏はきわめてシンプル。いや、いくつかの楽器が重なり合う瞬間はあっても、その響きはアルバム全体を包み込む静けさの内にあり、分厚い印象は残らない。

 ゲド戦記。SFに夢中の少年だった頃、SF雑誌の情報ページでル・グィンの書いたと言うその小説の紹介を読み、熱烈に読んでみたいとおもったものだった。が、いくら待ってもそれは訳出されず。まだあんまりSFにファンもいなかった頃の話である。
 時は流れ、私がオトナとなり現実のあれこれに追い回されてSFを手に取る機会も無くなった頃、”ゲド戦記”はいつの間にかいわゆるカルト的支持を集めつつ刊行されていた。懐かしさから、そのシリーズを一気に買い込み読もうとしたが、哀しいかな、なにが面白いやらさっぱり分からない。私にはもう、この種の異世界ファンタジーを楽しめる心は失われていたのだった。
 私はシリーズを途中まで読み、諦めてすべてを古書店に売り払ったものだ。今回のこの”戦記歌集”を音楽として楽しめる事実に感謝せねばなるまい。



南洋中華仏前ポップス

2010-10-26 01:18:45 | アジア


 ”Voice of Peace and Purity”by Callie Chua

 マレー半島在留華人の、と言いますか、私が勝手に作った呼称を使えば、”南洋中華街ポップス”の歌い手でありますカリー・チュア(蔡可荔)が新譜を出しました。またも仏教歌集であります。
 もともとは彼女、中国民歌やら日本のナツメロ演歌やら洋物ポップスやらのゴタマゼ世界を中国人の好きなチャチャチャのリズムに乗せて陽気に弾ける、いかにも赤道近くの中華の屋台から流れて来るに似合いの王道B級ポップスを聴かせてくれるイカしたお姐さんだったんですが、この数年、すっかり宗教付いて、仏教歌といいますか、御仏の教えを褒め称えるための歌ばかりを歌うようになってしまっています。
 仏教歌、まあ概要としては、お経の文句にフォークロック調の美しいメロディをつけ、敬虔に歌い上げる、という感じなんですが。

 これの機能する世界の実際がどのようなものか分からないんですが、昔はよくソウルシンガーが人気の絶頂で引退を表明して「私は神に奉仕する道を選ぶ」とか宣言してゴスペルシンガーになってしまうとかありました、あんな感じなんですかね?
 ともかく、カリー・チュアは仏門歌手となってしまった。どうも中華世界にはジャンルとしての仏教歌というものが存在しているようで、彼女以外にも何人もの歌手が御仏の教えを歌ったアルバムを発表しています。その中にはディスコアレンジがなされた般若心経、などという私らの感覚で言えば言語道断な代物も含まれており、その世界の全体像、これまた想像を絶します。
 まあ、文化を異にするこちらとしては唖然として見ているしかないんですが、この音楽、もともと宗教そのものには興味がないくせに宗教歌には惹かれる変な感性を持っている私などにとっては、なかなかにおいしい代物でありまして、その過剰な線香臭さには目を瞑りつつ、「う~癒される・・・」などとウワゴトを。

 それにしてもカリー・チュア、ジャケ写真など見ますとますます本気、といったところで、これまでの仏教歌アルバムのジャケではまだまだ”クラブで歌っているお姉さんが地味目の化粧をしてしおらしく蓮の葉の間に佇んでいる、なんて意匠だったんですが、今度の彼女はそれどころではないぞ。
 芸能人らしいドレスはきっぱり脱ぎ捨てまして白一色の簡素なもの一枚を羽織り、髪は短くして後ろに束ね、化粧もますます地味になっています。顔の表情もいかにも信仰に生きる人のものとなり、こりゃ仏教歌を本気で歌っているのはもちろん、日常生活も完全に”信徒”のそれに移行してしまったのではないかと思わざるを得ません。
 音楽の方も、これまでのプロの歌手っぽい技巧は捨て去った感じで、ただ素直に御仏の教えを褒め称える気持ちだけが表れた、木綿の手触りとでも言いましょうか、質素な美しさが溢れるものとなりました。う~ん彼女、行くところまでいっちゃったかなあ・・・

 ああ、この音楽にどこまで付き合って行けるか、私にも分からない。と言うか、世俗のポップスを歌っていた頃のカリー・チュアが結構良い女だっただけに、なんかもったいないような痛々しいようなものを感じてしまうのですな。何がきっかけでこのような歌の世界に飛び込んでしまったのかしらないけどさ。なんて感想も、俗世の穢れた価値観に過ぎないんだろうなあ。
 それにしても。ラストで歌われている、これはカリー・チュアの父祖の地である福建の民歌なんですかね、彼女にとっては歌い馴染んだ曲なんではないでしょうか、”不老歌”って曲。この曲で彼女は、他の収録曲のようにストイックな表情ではなく、ホッコリと春の花がほころんだみたいな明るい歌唱を見せてくれ、何だかすっかり救われたみたいな気持ちになったものです。うん、この歌は普通に大好きだ。微笑を含んだ彼女の歌い口を聴いていると、彼女がそれで幸せならそれでいいじゃないか、なんて気持ちにもなって来たのでした。

 このアルバムの収録曲はまだ、You-tubeには上がってきていないので、下には以前のアルバムからの曲を貼ります。まあ、仏教歌とはこんな感じのもの、と分かっていただければ。この歌は中国民歌調ですが、全体としてはもっと洋楽フォークっぽいものも多いです。


陽だまりとロボット

2010-10-24 01:39:35 | エレクトロニカ、テクノなど
 ”Grace Days”by I am Robot and Proud

 しばらく前からテクノとかエレクトロニカとか呼ばれている電子ポップ音楽に興味を惹かれだしている。
 まあ、そのへんの趣味は元々あって、アフリカやアジアの泥臭い田舎のポップスを聴く一方でクラフトワークとかタンジェリン・ドリームなんて”シンセもの”のアルバムを聴いて来た。ただ、それらが自分の趣味のメインに出てくることはなかった、というだけのことであって。
 いや、同じことだと思うんだよね。クラフトワークなんてドイツのフォークソングに聞こえるし、タンジェリン・ドリームなんて凄く人間臭い音楽をやっていると思う。
 それが、このごろは結構本気であれこれ聴きはじめているのだが、まだテクノやエレクトロニカ音楽の世界の鳥瞰図が書けるほどにはなっていない。あちこち覗きまわって気になる盤を買ってみる、レベルの行き当たりバッタリを演じているだけで。

 そんな中で気になるミュージシャンも出て来たので、ちょっと書いてみる。I am Robot and Proud なるユニットである。これはちょっと気に入ったね。
 I am Robot and Proud は中国系カナダ人のミュージシャンの一人プロジェクトの名称である。一人でいくつもの楽器を操り、多重録音で音楽を作り出す。
 で、このロボット君、この種のエレクトリック・ポップとしてはずいぶんと人懐かしい手触りの音楽を聴かせてくれるのだ。
 それは幼い頃の記憶の中に忘れられたまま転がっているような音楽。はじめて聴くのに、いつかどこかで聴いた事があるような、不思議な懐かしさに満ちたメロディが奏でられるのだ。その底の方では名付けようもない哀しみや淋しさが風に吹かれて舞っているようにも感じられる。
 なんだろう、これは?こんなメロディを彼はどこで見つけて来たのか。何でまたそれを、このような電子ポップの形態で演奏する事を選んだのだろう。
 まだ聴き始めたばかりでその正体、つかめていないのだが、何か気になるミュージシャンだ。

 今のところ一番気に入っているのが、2枚目のアルバムのタイトル曲、”Grace Days”だ。ジャケに使われている、灰色の空の下にひっそりと片寄せあっている家々の画像と相まって、妙に胸に迫るものがある。聴いているうちに、私が物心付いた頃から抱き続てきた孤独と響き会う何かが、それら家々の角を曲がったすぐそこにいて、でも我々は互いに知り合うすべもなくそれはこのまま記憶の片隅に消えて行ってしまうのだろう、なんて形もあやふやな妄想が呼び起こされる・・・
 ひゃあ、もしかしてのめりこむかもしれないなあ、エレクトロニカ音楽。とにかくこいつは注目だ、I am Robot and Proudは。あっと、この名前、てっきりジェイムス・ブラウンの有名な「俺は黒人だ、それが誇りだ」のパロディかと思ったら、アニメの鉄腕アトムから発想を得たんだそうだ。まあ、そちらの方が納得出来るよね、それは。



秘儀としてのタンゴ

2010-10-22 03:49:37 | 南アメリカ

 ”A Call From Excellence”by Miguel Angel Bertero & Elisa Muñoz

 アルゼンチンの名門タンゴ楽団を渡り歩いてきたバイオリン弾きと、クラシック畑で活躍してきたピアニストのデュオ作品。腕利きの二人が、タンゴ名曲集のかなり自己陶酔的に凝りまくったアレンジの譜面を肴に、丁々発止と火花を散らしあう一枚。
 なんかこの頃、こんな具合に最小編成による演奏がしっくり来るようになって来ている私だ。大編成のオーケストラなんかハナから問題外だが、小人数のバンドも煩わしく感じる時がある。このアルバムのように互いに相手の実力を認め合い、求める音楽の方向性も共通するものがある二人が存分に対決しあう、そんなデュオ作品こそ楽しめるようになってきた。

 ともかく冒頭から、”淡き光に~想いの届く日~エル・チョクロ”と超有名曲をもうほとんどベタという感じで並べてみせ、テクニックとセンスの良さを誇示してみせるえげつなさ。このアルバムの骨子は、実は現実への悪意の表明ではないか、などと思ってみる。
 基本となる美学は過去を向いている。戦前の名曲を臆面もない美文調で賛美してみせるのだから。そして馥郁たる音色と冷徹なる美学に埋め尽くされた音の王国は、現代社会からの雑音を寄せ付けない。時間軸から外れ、理念は現実を拒否し、閉じた美学の世界でタンゴは鳴り続ける。

 そもそもが現実から外れた世界に漂いがちなアルゼンチンの魂である。たとえば、我が国はその身は新大陸に置こうとも心はヨーロッパにある。我が国は実は南欧の一国なのだ、なんて思い入れがある。だから歌謡タンゴの開祖である英雄ガルデルは、その生誕の地はヨーロッパである、なんて伝説を背負わねばならなかった。あるいは開国の頃、バブルといえる景気に湧くブエノスで夜毎繰り返された鹿鳴館もどきの華麗なる夜会の記録。
 それもこれもが、卑しき現実から遊離しようとの飽くなき試み。そんな矛盾を体現する音楽ゆえ、タンゴは儚くも美しい、などと言ってみる夜明け前。
 



ギリシャ歌謡珍種一枚

2010-10-20 00:02:44 | ヨーロッパ

 ”Songs My Country Taught Me”by Agnes Baltsa

 まあ、珍盤といっていいのかも知れない。ギリシャのクラシックの歌手に、故国の伝統的大衆歌を歌わせたアルバムである。どこの国にもこの種のものはあるんだろうなあ。日本で言えば誰になるんだろう、人気クラシック歌手に古賀政男先生とかの懐メロ歌謡を歌わせた、みたいな企画ものです。で、まあ珍盤となるとつい欲しくなってしまうのが物好きな野次馬リスナーの常でありますな。

 とりあえず、冒頭のアップテンポの曲は非常によい感じ。ブズーキが軽快なフレーズを弾き出し、歌手の朗々たる歌唱が、ギリシャの大衆歌を特徴付ける「この間、神様のところに行って一節パクって来たんだ」みたいな、天に向って伸び上がるような神秘的なメロディを歌い上げる。
 これが気持ちよくて、エーゲ海を波頭を割って快走するクルーザーかなんかを見る思いがした。ああ、こんなのが全曲入っていたら素晴らしいんだけどな。まあ、そうは行きませんけど。

 総じて、明るいタッチの曲は気持ちよく聴ける。それがギリシャの大衆歌謡の本質を捉えた歌唱か、という問題はひとまずこっちへおいておくとして。
 オーケストラのど真ん中にギリシャ音楽を代表する楽器であるブズーキがデンと腰を据えて、複弦をビリビリと歌わせる、そんな伴奏に包まれ、空高く声を響かせて歌手は歌う。光り溢れるエーゲ海の空を舞うように。

 ギリシャの大衆歌手はどちらかというと地面にめり込むみたいな、岩石みたいな重苦しさを呑んだ歌い方をするのが常なんで、これは不思議な心地良さ。なんか戦前のヨーロッパ映画のオペラ映画(というのかどうか知らない。まあ何となく感じは分かるでしょ)を深夜のテレビで見ているみたいな浮世はなれた至福感に包まれる感じだ。
 その代り、スローテンポの暗い曲はきつい。陰気なだけになってしまって。やっぱりクラシックの人に演歌は無理ってことでしょうな。

 で。どう総括したらいいんだろう。ギリシャ音楽の別の面を切り取って見せてくれたとでもいいましょうか。考えさせられたことにしましょうか。まあ、気持ちよい曲は気持ちよく、そうでない曲はそうではなかった、と。




たとえばムソルグスキーが

2010-10-19 03:58:32 | エレクトロニカ、テクノなど
 ”RecComposed by Carl Craig & Moritz Von Oswald”

 これはカッコいいね!今、この辺の音には凄く興味があるんだけど、どこから取っ付いていいやら分からない。どんなアーティストがいるのかも知らないし、とりあえずどの辺で情報を集めたらいいのかも分からない。でも、こんな手探りの初心者状態が一番、純粋なファン魂が燃え上がって楽しくもあるのさ。
 で、これがどんな音楽名を説明すれば、かたやデトロイト・テクノの、かたやミニマル・ダブの、と言ってもこの用語がどのあたりをさすのかも知らないんだけど、とにかくそれぞれの道の権威者が共演し、クラシック音楽を切り刻み、貼りなおし、ゴキゲンな(死語だね)サウンドを作り出している、ということで。

 あの、いつも偉そうな顔してた指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤン、彼が指揮したラベルやムソルグスキーの有名曲をスタジオでズタズタに切り刻み再構成して、なにやら妖気漂うテクノ(というか、エレクトリック・ミュージックとか言うらしいぞ、このジャンルを)の大冒険音楽を作り出している。
 オーケストラの中の楽器が奏でた旋律の中のワンフレーズを取り出し、執拗にループする。その果てしない反復の内に、気が付けば異様なビート感の罠に囚われている。その快感。
 途中から被ってくるパーカッションは、これは音を被せたんだろう。いやこれもオーケストラの中の一音なのか?オーケストラ音の、それもパーカッションでもない楽器がワンフレーズを抜き出され反復をさせられ、ひたすらリズムを刻み続ける様は、快い違和感があって、妙に血が騒ぐ。

 ともかくこれは気が遠くなるほどめんどくさい作業なんだろうと思う。でもそれを喜々としてやってしまうのがオタクの魂って奴なんだけどさ。
 それにしてもクラシック関係者、こういうのを聴くとやっぱり怒るんだろうな?カラヤン本人も生きてたら確実に?こちらとしてはクラシックなんてまるで知識がないんで、どこがどう陵辱されたのか、見当が付かない。それが分かればもっと面白いのであろう、それがちょっと残念ではある。
 そしてジャケ。これはクラシックの世界では有名なレーベルなんだろうな、黄色い色が印象的な作りをパロったジャケ構成がもっともらしくて笑わせる。いやそもそも、この音自体が真面目な顔して冗談を言う、そんなタグイのもののように見受けられるんだが。




リッケンパッカーの12弦ギターが欲しかったんだよ

2010-10-18 01:12:37 | 60~70年代音楽
 ☆ビートルズとアメリカ・ロック史(フォーク・ロックの時代)
                    中山康樹・著 河出書房新社

 先日、ジョン・レノン分析本(?)が面白かった中山康樹の著作が、市の図書館に何冊か置いてあったので、借りてみた。その一冊。
 これは、1960年代の半ば、ビートルズをはじめとするイギリス勢にヒットチャートを”乗っ取られた”形勢のアメリカン・ポップス界が、フォークロックなる新しいサウンドをもって反攻に出た、そんな時代を検証した作品である。
 フォークロックの嚆矢となったバーズの”ミスター・タンブリンマン”がどのような成り行きで出来上がったか、ボブ・ディランの”ライク・ア・ローリングストーン”でアル・クーパーはいかにしてオルガン奏者の席にもぐりこんだか、などなどを著者は、きわめて綿密に事実を追い、伝説に分け入り、どのような経緯で”フォークロックの時代”の真相に迫る。

 何しろこちらはそんなシーンの進行を駆け出しの洋楽ファンとして、ラジオのヒットパレード番組を追いかけ、あるいはなけなしの百円玉数枚を握り締めてレコード店に走りなどして、まあこちらの気持ちとしてはきっちり並走しつつ見届けたわけだから、当時のヒット曲一曲一曲の裏側にどのようなドラマが展開されていたかを知るのは、非常にエキサイティングな思いだった。
 著者の、まあ妥協を許さず、実証を求めてしつこく記録を穿り返す姿勢には感嘆するやら辟易するやら(?)そして、こちらがロック雑誌などで見知っていた表の歴史とは若干様相を異にするフォークロックの時代の真の姿が全貌を現す。これが面白い、面白い。

 (輝かしき夏の思い出・・・それにしてもバリー・マクガイアは可哀相な奴だ。ママス&パパスの”カリフォルニア・ドリーミン”のヒットの影で、こんなひどい目にあっていたとはなあ。そういえばママス&パパスのジョン・フィリップスって、すごく鋭い奴なのかと思っていたんだけど、その実態はただの時代遅れのフォーク野郎だったんだ。デビッド・クロスビーはともかく自分勝手な奴で、こんな奴とは一緒にバンドは出来ないなあ。とはいえ、もしかしたら青春時代の自分は、周囲から見たらこんな奴だったかも知れん)

 ・・・などと青春時代の思い出に酔っていたのだが、終盤、”フォークロックの時代”のあっけないエンディングに唖然とする。バーズが”ミスター・タンブリンマン”をレコーディングし、フォークロックの歴史が始まるのが1965年の春、というか初夏の頃であり、そして1967年にはすでにフォークロックそのものに秋風が吹きかけていたのだ。そうか、2年足らずの命だったのか。
 その波に便乗すれば一山当てられた時代はあっという間に過ぎ去り、フォークロックはすでに古臭い音楽と目されるようになっていた。67年にはもう、ヒットチャートからその種の音楽は姿を消している。音楽ファンの関心は、ジェファーソン・エアプレインやドアーズ、ジミ・ヘンドリックスといった、次の時代のヒーローに移っていた。

 ロックの3大フェスティバルにかけて、「モンタレーは結婚、ウッドストックは離婚、オルタモントは葬儀」なんて言葉が引用されている。幸福な時代は、実は本当にあっけなくこの卑しい地上を去って行ったのだ。ウッドストックが”離婚”?あれからすべてが始まった、と信じ込んだ時代もあったのだったが。
 そしてまた思い出されるのが、鈴木いずみのあの言葉。「皆は1969年をすべての始まりの年と思っているが、本当はあの年、すべてが終わったのだ」と。




一番高い塔に向って

2010-10-17 03:26:16 | 時事


 いろいろ経済効果も期待ってことなんだろうけど、マスコミは総がかりで例の、”出来上がったら世界一の高さになるであろう塔”を「東京スカイツリーだ、めでたいな!」ってな無理やりな盛り上げをやっている。
 けれど、なんか知らんが私には、とてもめでたいことと思えない。逆にあの塔が日々、”バベルの塔・2010”って感じに見えて来てしかたがない。
 完成後何日も経たぬうちに何かの事故で崩壊し去るのではないか、多大な人的物的被害をも巻き起こしつつ、なんて不吉な気配しか感じ取れないのだ。

 そんな事を思ってしまうのは、あの天から棒一本地面に向って突き刺した、みたいな塔のフォルムにも問題があるんじゃないか。エッフェル塔や東京タワーみたいに地面に向って広がって行く優雅な姿と違って、あれはあまりにも余裕がない感じだ。建設のための土地買収費用など、いろいろあった結果なんだろうけど。
 いや、形だけの問題じゃないんだけどね、もちろん。


ドナウ河がきらめいていたよ

2010-10-16 00:50:55 | ヨーロッパ

 ”Semmicske énekek”by Bognár Szilvia

 ハンガリーの民俗音楽系のジャズロックバンド、とでも呼んだらいいのだろうか、Makamという名バンドがあるんだけれど、そこでボーカルを担当していたBognár Szilvia女史が独立後、2008年に発表した意欲作、なんて呼びたくはないな、東欧の春の陽だまりをそのまま歌にしたみたいな素敵な歌のアルバムであります。

 この人の絡んだ作品はこの場で以前、取り上げたことがある。リュート一本をバックに、ハンガリーとその周辺に中世から伝わる世俗歌謡を歌ってみせた”Rutafanak sok szep aga”というアルバムでした。そんなもの、辛気臭くてしょうがないじゃないかと思うんだが、彼女の明るく力強い歌声が、その何百年もの時を経た歌たちを生き生きと現代に蘇らせ、遠い時代の人々の息吹を瑞々しく伝えてくれたものです。
 あのアルバムを聴いてから私は彼女がすっかり好きになってしまいまして、他のアルバムもいろいろ探して聴いてみたのですが、こちらのアルバムなどはトラッド歌手としての Bognár Szilvia の魅力を正面から捉えたものとして、相当に好感の持てるものなのであります。

 ここで歌われている歌は、彼女のバックバンドのベース奏者、Zoltan Kovacs がハンガリーはもちろん、ブルガリヤやルーマニア方面までも視野に収めて、各地の民謡を再構成して作り上げた東欧紀行というかバルカン絵巻みたいな広がりのある楽曲群。色とりどりの地方色が描かれていて、のんびり聴いて行くと気ままな旅に出かけた気分にもなろうというもの。
 バックバンドも、ギターやサックスなど近代西欧の楽器に東欧の民族楽器やウードのようなアジアの楽器まで加わった賑やかな編成で、東西の文化の混交するバルカンの雰囲気をよく醸し出しています。

 そしてやっぱり Bognár Szilvia の明るい歌声が良いですね。なんか東欧物というと暗く閉ざされたヨーロッパ深遠部ってイメージが何かと正面に出て来てしまって、重苦しくてやりきれなくなったりしたんですが、このアルバムではドナウ河流れる緑の沃野に春の光が踊っている、なんて絵が浮んでくるのが嬉しいのですな。
 そして絵といえば、やはりハンガリーものにはどこかにヨーロッパのただ中に紛れ込んだアジアの血が匂う瞬間がある。ドナウを渡る風の中にときおり、遠い過去から吹き付けてくる中央アジアの砂嵐の気配が漂う。そのあたりを聴き取るのも一興というものでありましょう。

 いやあ、一度ほんとに旅してみたいものですなあ、ハンガリーの地を。